綺麗の定義 前編

綺麗の定義 前編

上木の話。 こんなに魅入られて、逃げ切れることができるのだろうか。

1

 一日働けば疲れも溜まる。
 一週間働くだけでも疲れるのに、土曜日まで出勤となれば気力も潰えた。
 だが、上木俊介(うえきしゅんすけ)は一人暮らしだから、帰ってもできあがったご飯が待っているわけではない。けれど作る技量も気力も無くて、手にしているのはコンビニの袋だった。
 おにぎりと惣菜。

 いい加減コンビニ弁当はもう飽きていた。
 食べられれば何でも良いとは思うけれど、それでもできれば食欲をそそられるような美味しい物が食べたい。
 コンビニ弁当も昔に比べれば格段に良くなったとは思うが、それでもしょせん弁当だ。
 それにこの辺りはコンビニの数が少ないから、毎夜の食事は単調になって、よけいにうんざりとした気分にさせられた。
 と。
 向かう先に人の気配があるのに気が付いた。
 二階建てのコーポの二階の角、階段から一番奥まったドアの前に誰かがいる。隣の玄関灯に照らされてかろうじて顔が見えて、息を飲んだ。
 今まで数度会ったことがある。
 確か、井波英典の兄、隆典だ。
 けど、何で?
 未だかつて簡単な挨拶しかしてない相手が、ここにいる理由が判らない。
 しかも、隆典の視線が足下から上へゆっくりと這うような動きをしたことに気づき、眉根がきつく寄った。
 値踏みでもしているかのような視線だった。そういえば、この男の印象は最初の頃から良くない。そんな事をされるいわれなど無く、不愉快さが募る。
 こんな類の奴は無視するに限るが、あろうことか、隆典は俊介の部屋のドアにもたれていた。
 用件があるのは間違いないのだろう。
 ちっと口の中で小さく舌打ちして、手に持っていた鍵を弄びながらドアへと近づいた。
「何かご用ですか?」
 警戒心も露わに、意識して低くした誰何の声。
 だが、帰ってきたのは無音の笑みだった。口の端が上がり、細められた目が俊介を舐めるように窺う。
 刹那、ぞくりと全身が総毛立った。
 セールスとか勧誘とか、強引な相手ともまた違う。そこにはっきりと異質なモノを感じて、ひくっと頬が引きつった。
 視線を外せないままに半歩後ずさる。
 『危険』
 と、脳が繰り返し警告し、全身の筋肉に力が入っていく。
 と言っても腕っ節には自信がない。同等の体格である男相手に、まともに向かって敵うわけがなかった。それでも、何もせずにはいられないと、相手の間合いを計る。
 その中には、「逃げる」という選択肢も当然のように入っていた。しかも、優先順位一位でだ。
 触らぬ神にたたり無し。
 俊介の信条はそれに尽きる。
 身を守ること──すなわち保身が常に一番にあった。
 じりっ。
 靴の底でコンクリが音を立てる。異様に大きく響いたそれに、嫌な汗が背を流れていった。けれど、男は我関せずと言ったふうに、変わらず俊介を見つめていて。
「上木さん、逃げないでください」
 逃げることだけが頭にあった俊介は、突然柔らかな声で話しかけられ、呆然と相手を見つめた。
 相変わらず笑っている。
 けれど、体に力が入っていないことも判る。少なくともいきなり、ということはなさそうだと顎を引いて相手を見据えた。
「何ですか?」
 答えて貰えなかった問いかけを再度すれば、今度は難なく答えが返ってきた。
「お会いしたくて」
「……何で? 井波くんのお兄さんですよね。それで何の用でしょう?」
 唸るような声音に、けれど、隆典は薄く笑う。その笑みに、俊介の眉根はますますきつく寄せられた。
 嫌な笑い方だ。
 人をからかうような、バカにしているような。
 こういう笑い方をする相手と和めるはずもなく俊介は嫌そうに舌打ちをして睨み付けた。が、不意に隆典が動く。
「なっ!」
 気が付いた時には目の前で、逃れる間もなく強い力で腕を掴まれた。
「ちょっと話があるんですが」
 顔は笑っているのに、有無を言わせぬ響きがあった。異様に近い距離で、隆典の唇が動く。
「ですので、一緒に食事でもしませんか?」
「はあっ?」
 思いっきり呆れた口調で返してしまったのは仕方がないだろう。だが反応を無視して隆典は俊介の腕を強く引っ張っていく。
「ちょっ、待てっ!」
「少し時間がかかるので。いつもこんなに遅いんですか?」
「そうだけどっ……って、だから、離してくれっ」
「間に合うかなあ……。遅めに予約は入れたんですけどね。凄く美味しいお店なんですよ」
 聞く耳を持たない男ほど恐ろしいものはない。
 俊介の顔はすでに固く強張って、どことなく嬉しそうな隆典を見つめることしかできない。
「うわっ」
 階段も構わず引っ張られて、足を踏み外しかけた。恐怖に堪らずに近場のものに縋り付く。
「危ないですよ」
 力強く引っ張られてほっとする間もなく、背を覆う温もりに目眩がしそうになった。耳の近くで、声がする。
「怪我したら大変です」
「は、離せ」
 腰を抱かれて、その気色悪さに逃げようとするが、階段を踏み外しそうな恐怖が先に立つ。
「意外に軽いですね」
 何でこの男はこんな近くで囁くのだろうか?
 強く握られた腕の痛みより、男の得体の知れ無さへの恐怖で悲鳴が出そうになっていた。それを必死で我慢したのは、世間体とプライドのせいだ。
「は、離せよ……」
 俊介とて、男だ。
 男だから、こんな震えた声は情けなくてしようがない。
 だが。
「食事に行くだけですよ。話がしたいんです」
「話って、今ここですればっ」
「いいえ、いろいろと込み入った内容ですし……。こんなところでバラされたくないでしょう?」
 くすりと吐息が耳朶を擽る。
 途端に込み上げた震えは、恐怖に対する悪寒でしかない。
「な、何をっ!」
 客用のスペースに停められていた重量感のある4WD。リモコンキーなのか、ロック解除の音が静かな空間に響いた。
「いろいろと……。弟のことも、和宏くんのことも」
「か、ずひろ……?」
 その名に、一瞬抵抗が止んでしまう。
 英典の兄だというこの男は、一体どこまで知っているのか?
「それに、俺のこともね」
 抵抗を無くした体が、助手席に追い上げられ、慌てた。隆典の力はかなり強い。男として遜色ない体つきの俊介を、軽々と振り回す。
「まっ、待てよ。俺はまだ行くなんて……」
「食事だけですよ。何をそんなに怖がっているんですか?」
「こ、怖がってなんか……」
 嘘だ。
 込み上げる恐怖は、確かにある。だが──。
「俺がなんかすると思ってんだ……?」
 丁寧な言葉遣いが一瞬崩れ、その顔が傷ついたように歪む。けれど一拍おいた後には、また元のような笑みに変わっていた。
 大人の狡猾さだけのような男だったのに、その瞬間確かに子供の無邪気さを見せた。
「ほんとにちょっと話がしたいんですよ。ダメ、ですか?」
 狡猾そうな笑みは変わらない。だが、前のような恐怖心は薄らいでいた。
 僅かに見えたあの表情に、ある意味絆されてしまったのだ。
「わ、判った……」
 だから。
「話だけ……なら」
「ええ、お食事をしながら、話をしましょう。本当に美味しいところなんですよ」
 しかも警戒心が薄らいだ途端に、「美味しい」という単語に敏感にお腹が反応して。
「お腹、空いているでしょう?」
 現金な腹には怒りすら覚えたけれど、さすがに笑われも仕方のない状況に俊介は何も言い返せないままに、助手席の住人となった。

 

 それから30分後。
「うそ……」
 舌っ足らずな言葉が口から出たことにも気付かずに、俊介は呆然と目の前の建物を見上げていた。
「いらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました」
 上品な着物姿の女将の丁寧な挨拶。
 隆典に案内されたのは、一目で判るほどに格式の高そうな割烹旅館だった。
 躾の行き届いた従業員に案内され、怖くて触れそうにない美術品が嫌味もなく飾られた廊下を抜ける。
 招き入れられたのは、離れの二間続きの部屋。
 座卓いっぱいに広がっているのはステーキ懐石だと紹介された。
 玄関をくぐった時からすでに引きつった顔を見せていた俊介であったが、すでに用意されていた料理を前にしてその強張り方がさらに酷くなった。
 その俊介の前には、威風堂々とした男──女将も仲居も皆、彼を「先生」と呼ぶ。
「上木さん、遠慮無く食べてよ。好みが判らなくて、こっちで決めたけれど」
 車の中で堅苦しいからと直して貰った言葉遣いがなんだか余計に気になった。
 もしかしなくてもこの隆典という男は別世界の人間なのじゃないか?
 どちらかといえば上に対してはへつらい気味で、保守的な人生を歩んできた。そんな俊介にとって、こんな場は居心地の悪いことこの上ない。
 実際目の前の料理など、テレビの中でしか見たことがないようなものばかり。怖くて聞けない値段を想像して、血の気が失せそうな気がする。こんなものおごりでなければそうそう食べることはないだろう。
「上木さん、アルコールは大丈夫だろう? これはイチゴ酒なんだが、この店自慢の一品だよ」
 にこやかな笑みを女将に見せれば、彼女も満足そうに頷く。
「先生は、これがお好きなんですよね」
「ああ、もうここに来ると欠かせないよ。それにここでしか飲めないしね」
「ふふふ、お客様にはいつも売ってくれないかと言わますが、そう量を作るものではございませんので。それに隆陶先生のお気に入りと言うことで、料理長も一番出来の良い物をお出ししていますの」
 美味しいのは当たり前。
 自信に満ちた女将の様子を目にしながら口を付ければ、甘みがかった味が口内に広がる。確かに自信があるのも道理だろう。そんなに味に詳しくない俊介であったが、素直に美味しいと思えた。それに、イチゴの甘い芳香はくどすぎず、アルコールが食欲を増していく。
「美味しいだろ?」
 問われて、確かに、と頷いた。
「美味しい、ですね……」
 飲み干した空のガラス製の猪口を置いたものの、視線が上げられなくてじっとそれを見つめる。
 それでも否応なく視界に入ってくる料理の数々。
 場違いさを認識して俊介を萎縮させていた。
 井波隆陶(いなみたかとう)。
 俊介ですら知っている著名な備前焼作家。父親である陶苑を越えるであろうとすら言われている。
 ここに来るまで、隆典とその隆陶が同一人物だと気付いてなかった俊介は、深いため息を零すしかなかった。

2

 建物に入ってからずっと無口な俊介に、隆典が小首を傾げた。
「どうした? なんか急に畏まってさ」
 可笑しそうに言われても。
「隆典さんが井波隆陶、先生だなんて思わなかったんです……」
 教えてくれなかった相手につい愚痴る。もっとも、隆典はそんなこと、と言って静かに笑うだけだ。しかも。
「嘘は言っていなかったけど?」
 いけしゃあしゃあと言われてしまった。
 確かに備前焼作家で井波家の人間で……。ついでに俊介の拙い知識でも、井波家が有名な一家だとは知っていたのも事実。彼は本名をちゃんと名乗ったのだ。
「すぐに結びつかなかったんです……」
「気にしなくて良いって。俺は、隆典として上木さんと話がしたいんだからね。ああ、どうぞ」
 一度気後れしてしまうと、なかなか立ち直れない。勧められることに逆らえなかった。言われるがままに注がれたビールを飲む。
「俺は、俺。もっとも、隆陶ってのは隆典の一部分だからなあ。そう変わらないとは思うけれど」
 その言葉と共に見せた苦笑に、心が引きずられた。
 隆陶として、人には見せていない部分があるという事なのだろうか。
 有名になるには必要なことなのだろうが、そんな生活は嫌だなと思う。
 けれど、隆陶にその不自然さはなかった。
 ひとしきり女将と雑談を交わし、料理が揃ったところで、自然に退出を促す。
「女将、後はこっちで勝手にするから下がって良いよ」
「かしこまりました。それではデザートも運んでおくようにしましょうか?」
「ああ、そうだね。何か用があったら、電話かけるから」
「かしこまりました」
 女将が深々とお辞儀をして下がると、俊介は大きく息を吐き出した。
 慣れない場所に慣れない存在。
 その一つでもなくなれば、気はずいぶんと楽になる。
 大問題の相手は消えてくれるものではないが、それでも隆典としての存在なら車の中で幾分馴染んでいた。
「それにしても、びっくりしました。料理って言うから、その辺のレストランか何かかと……」
 それこそ、道沿いに何軒もあったファミレスくらいだろうと思っていたのだ。
「美味しい所に連れて行きたかったからね。それより、その言葉遣い。俺に直させといて、上木さんがそれでは変だろ? 直して欲しいな」
「え、あ……はぁ……」
 そう言われても。
 一度意識してしまうと、そう簡単に変えられるものではない。隆典に強要した時は、そんな偉い人だとは思っても見なかったのだ。
 普段から目下の者には傲慢な態度を取っている自覚はあった。和宏に対しても悔い改めたところはあるが、それでも変わりようのない部分もある。だが、初対面の相手にまでそんな態度を取るほどバカではない。
 それに、この男は不遜な態度を取れる相手ではないような気がした。
 だが隆典はじっと俊介を見つめて返事を待っている。
 今更ながらにタメ口を望んだ己を呪ったが、どうしようもない。
「ほんと、気にしなくて良いよ」
 女将の前ではピンと伸びていた背を曲げた隆典が行儀悪く頬杖を突いて、俊介を上目遣いに見つめる。
「ね、上木さん」
「っ!」
 熱くて痛い。
 隆典の視線を形容するなら、まさしくそうとしか言えない。
 気が付けば、全身が硬直したように動けない。熱の隠った熱い視線から逃れたいと心底恐怖しているのに、呼吸すらままならなくなっているのだ。
 その理由が判らないから余計に怖い。
 荒い息を数度吐いて、ごくりと何度も唾液を飲み込んで、自分を取り戻す。
 最初に会った時の恐怖にも似た感じだ。
 ああ、そうだ。
 この舐めるような視線はあの時と変わらない。
 やはり付いてきたのは失敗だったのかと、ふと後悔に苛まれたが。
「まあ、でも、こんな美味しい食事を知ったのも有名になってからなんで。それで上木さんにご馳走できるんだから、ラッキーって言えばラッキーかも」
 食べて、と促されて、俊介も確かにと頷いた。
 どういうつもりで自分を誘ったのかはまだ判らないが、とりあえずご馳走には罪はない。
 これが女だったら下心を警戒すべき所だろうけれど、自分がその対象になるようなことはないだろう。
 男らしいと言えば、どうかな? とは思うけれど、それでもどこからどう見ても男だ。
 顔の造作も隆典の方が良いし……。
 ふとそう思って、隆典を窺った。
 アイドルというタイプではないが、それでも俳優としては十分やっていけそうだ。陶芸家といえば着物姿の写真が多いが、この上背と体格があれば、着物もよく似合うだろう。
 女達も、たとえ隆典に下心があっても、嬉々として誘いに乗りそうな気がした。
 でも……。
 そこまで考えて、疑問が浮かぶ。
 女に対して奢るのは男としての下心があるから。では、男である俊介に奢るのは何故だろう?
 そう言えば、話があると言っていたけれど。
 一向にその話を始めない隆典の真意は一体なんなのだろうか?
「判った……から」
 頷いて、こっそりため息を吐いていると、隆典も嬉しそうに綻んでいた。
 ようやく外れた視線にもほっとする。
「その方が良いや。畏まった態度ってのは肩ばっかり凝るからなあ。俺も美味しいモノを食べるのは好きなんだが、お偉いさんとかいるとね、美味さも半減するし」
「……お偉いさん?」
「協会の会長とか……まあ、いろいろと。何せ俺なんてまだまだ駆け出しの下っ端だから、媚びへつらってばかりいなきゃなんないわけで。あ、この先付」
 苦笑を浮かべながら愚痴を零していた隆典が、ふっと口元を緩ませた。じっと料理を見つめ、満足そうに何度も頷く。
「綺麗な色合いだね。ゼリーかな? 透き通るような緑だ……。ね?」
 伺いを立てられて、曖昧に頷く。
 綺麗だとは思うけれど、そんなにうっとりと見つめるようなものとは思えない。けれど、隆典の視線はその料理から離れない。器ごと持ち上げて、いろんな角度から眺めている。
 そんな様子を半ば呆気に取られながら見つめた。
 芸術家ってのは、一般人より視点が違うんだろうか?
 そう思うほどに、隆典は料理をじっくりと観察していた。
 そんな俊介の視線に気が付いたのか、隆典が微かに苦笑を浮かべ、俊介の側の先付を指さした。
「ここの料理長の料理は味はもちろん良いけど、見た目も良いんだよ。食べたいって思わせるのが巧いんだよね、ほら、食べてみて」
「あ、ああ……」
 勧められるがまま口にすれば、柔らかな口触りで、とろりと舌の上でとろけていく。
「美味い……」
 思わず呟けば、そうだろう、とばかりに頷かれた。
「他の料理も美味しいよ」
 そういう隆典を、俊介は幾分上目遣いになりながら見つめた。
 よく判らない男だ。
 話があるという割には切り出さず、こんな豪勢な料理をご馳走しようとする。有名人らしい傲慢な態度が崩れると一気に人懐っこくなって気さくな会話を好む。強引で無邪気で──よく判らない男。
 あの井波の兄と言うだけあって、十分くせ者なのか……。
 不意に苦手な男を思い出し、知らず眉根が寄った。
 そう言えば話って何だろう?
 隆典はいろいろと感想を言いながらしきりに食べるよう勧めてくる。その態度から察するに話をするつもりはなさそうだった。
 仕方なく料理へと意識を向ける。
 良い加減に火が通ったステーキ肉から、食欲をそそる匂いがしてきた。
 厚みのある柔らかそうな肉。
 ごく……。
 滅多に食べられない料理を食べないでおけるほど、俊介の自制心は強くはなかった。
 普段食することのできない料理に舌鼓を打ち、俊介の心中は穏やかになっていた。
 確かに隆典はかなり強引で、何を考えているのか判らない所があった。けれど、ふとした拍子に細やかな気配りを感じてしまうのだ。
 苦手なセリを使った料理は、めざとく気が付いて引き取ってくれた。代わりのように、「これ、好きだろ」と、オマールエビのソテーの皿を惜しげもなく渡してくる。
 それは確かに俊介の好みの料理。断りつつも、けれど受け取ってしまった皿を眺めつつ、訝しげに問う。
「何で判ったんだ?」
「ずいぶんと嬉しそうに食べていた」
 笑みを浮かべたその表情に、ぶわっと顔が熱くなった。羞恥したのだと後から気が付いて、さらに慌てる。
「あ、ありがと……」
 そんなに表情を出していたつもりはないけれど、気さくな隆典の様子に、つい緩んでいたのかもしれない。
「ああ、このデザートも見て。オレンジとグリーンの色合いが綺麗だね」
 『美味しい』という言葉よりも『綺麗』という言葉の方を多用して褒め称える隆典は、そういう時はずいぶんと嬉しそうに料理を眺めている。
 それはまるで子供がお気に入りのオモチャを眺めているようで、微笑ましいとすら思えた。
 ──変な奴。
 食事が終わった時点での隆典の印象は、その一言だ。
 よく知らない男相手に豪勢な料理を振る舞い、嬉しそうな男。
 まるでナンパに成功して浮かれてデートでもしているよう……。
 と、バカな事を考えて苦笑が浮かぶ。
 俊介曰く浮かれ男は、今はいそいそと物入れらしき場所をのぞき、何かを探っていた。アルコールと満たされた胃のせいで動く気力も無い俊介は、ぼんやりとその後ろ姿を追っていたけれど。
「じゃ、行こうか」
「へっ?」
 振り返った隆典が手にしている物とその言葉に、唖然と隆典を見やった。
 見間違いでなければ、それはまさしく入浴セット。洒落た巾着に入ったタオルがかいま見える。それと浴衣が二人分。
「ここのは地下から汲み上げた冷泉を湧かした風呂なんだけど、ちゃんと温泉成分も含まれていて。特に美肌効果が高いって、女性達に人気なんだよね」
 嬉々として説明してくれる隆典が、呆然として動けない俊介の腕を引張る。前に体験したとおりの力は健在で、俊介は難なく立ち上がらされた。
「な、何でっ」
 肝心の話もしていないのに。
「あれ、温泉嫌い?」
「い、いや、好きだけど」
「なら問題ないね」
 しまったと悔いた時にはもう遅くて、にっこりと微笑んだ隆典にぐいぐい引張られて、いつの間に廊下に出ていた。
「や、でも温泉なんて」
「せっかくだからさ、ここ、露天風呂って訳じゃないけど、正面ガラス張りで展望は良いんだよ。まあ、見えるのは市街の灯りなんだけどね」
 アザがつくのではないかと思うほどに固く握られた手首は、振り払うことなどできそうにない。
「だいたい話があるって」
 そういう理由で食事に来たはずだったのに。
「話は温泉でもできるし」
「部屋でもできる」
「でもさあ、綺麗になりたいだろ。汗も流してさ」
 そう言いながら、隆典の視線が俊介を舐めるように動いた。
 特に『綺麗』という単語が耳に届いた途端、掴まれた腕に力が入ったのを感じた。それこそ、逃がさない、とでも言うように。
 途端にぞくりと走った悪寒に、頬が引きつる。
 だが隆典は変わらず微笑んでいて、偶然だったとでも言うように、「ごめん」と謝る。けれど。
「ほんと、気持ち良いからさ。嘘は言わないって」
 藍染めののれんをくぐってなお離そうとしない手の力は相変わらずで、俊介は諦めたようにため息を吐いて、頷いた。
「判った、入るよ」
 その言葉に、ようやく手が離れる。
「じゃ、脱ごうか」
 嬉々として棚に向かう隆典を見つめ、俊介はがくりと肩を落とした。
 男同士で温泉に入って何が楽しいというのか……。
 血の流れが滞っていたのか、じんと痺れ始めた手を撫でながら思わず呟く。
「バカ力……」
 小さな小さな呟きは、それでも意外に響いて隆典まで届いてしまう。
「ああ、ごめん。痛かったか?」
 申し訳なさそうな顔に、取り繕うのも今更だと相手を睨め付けた。
「ああ……」
 すでに痛くはない手首を隆典が持ち上げる。したいようにさせて窺っていると、視線が不意に俊介に向けられた。
「たまに、自分が力強いって事忘れるんだよ。危うく綺麗な肌にアザを作るところだったな……」
「……?」
 何か不可解な形容詞が付いていたような気がしたが?
 不審は、けれど不意に変わった表情に立ち消えた。
「大丈夫そうで良かった。じゃ、入ろうか?」
「あ、んた……」
 申し訳なさもポーズだったのかと思うほどの変化だった。楽しそうな隆典にさっきまでの表情はもうどこにもない。
 がくりと肩を落とした俊介を後目に、隆典はさっさと全裸になって先に入っていく。
 大浴場と更衣室を遮るドアを開いた途端に水音が響き、湯気が更衣室を舞った。
 それらが、俊介を誘う。
「まあ……これから帰って風呂にはいるのも面倒だし」
 狭い風呂に入るより、せっかくだからのびのびと入ってみたい。
 いつの間にか大きくなった欲求に、俊介は結局従うことにした。

3

 岩肌を辿って湯が流れ落ちてくる。
 少し熱めの湯に胸まで浸かり、俊介はぼんやりと外の景色を眺めていた。
 隆典とは1メートルほど空けていた。話があると言うわりには、何も言い出さない隆典に居心地の悪さは否めない。少し時間帯が遅いせいか二人だけの湯船というのも妙にいたたまれない。
 こちらから何度問いかけても巧くはぐらかされて、いつしか俊介は聞き出すのを諦めてしまっていた。
 話したくなれば、自分から話すだろう。
 そうなればやることと言ったら、窓の外を見るくらいだ。なのに、外気温が下がってきたせいか窓に触れた湯気が水滴となって景観を邪魔してくれた。
 流れる水滴を敵のように睨み付ける。
 ──と。
 俊介の目が大きく見開かれた。
 何なんだよ、一体……。
 ちらりと横目で隆典を窺えば、危うく視線が合いそうになる。慌てて窓へと視線を移して、影に映る自分達の姿を確認した。
 水滴の合間に映る隆典と俊介。山肌が暗いせいか、特に隆典の姿がはっきりと見える。
 その隆典の視線は、ずっと俊介に向けられていた。
 いつからかは判らない。
 そう言えば、体を洗っている時も何度か視線を感じていた。ふと振り返れば、いつだって隆典はにこやかな笑みを浮かべて俊介を見ていたような気がする。
 試しに少しだけ横に動き、ジャグジーのように勢いよく泡が吹き出す一角へと入り込んでみる。
 ……やっぱり……。
 外れなかった視線。しっかりと向けられた顔。
 確実に隆典は俊介を見ていた。思わず窓を介して睨み付けても、にっこりと微笑み返さる。
 気付かれても構わないという程に不躾に見つめてくるのだ。
 そう言えば、食事の最中もよく見られていたな、と思い出して、なんだか胸の奥がざわざわとざわめいた。
 不審と警戒心と恥ずかしさ。
 幾つもの感情が交じり合って、得体の知れない何かになったそれが、胸の奥で動いている。
 穏やかだった心臓が駆け足になったのは、決してのぼせただけではないだろう。
 飲んだアルコールと温もった体にその鼓動は毒だ。
 吐き出す吐息にも十分な熱が籠もり、疲れたような怠さが断続的に襲ってくる。
 やば……そろそろ限界。
 のぼせの前兆を感じて、俊介は立ち上がろうとした。
「もう出るのか?」
「え?」
 振り返れば、ずいぶんと至近距離に隆典がいた。
 呆然としている間にも、湯面がゆらりと大きく揺れた。同時に距離が数センチは縮まる。大きくなった笑みを浮かべた隆典の顔。
 くすりと笑む時の空気の流れまで感じるような気がする。
 熱い湯の中にいるというのに、背筋にぞわぞわと寒気が走る。堪らずに湯船から出ようとしたが、それを留めるかのように隆典が口を開いた。
「上木さんって肌が綺麗だね」
「え?」
 視線が、熱く俊介を捉えていた。
 食事中にも感じたあの熱い視線だ。
 途端に逃げようとしたが、続けられた言葉に身動きが取れなくなった。
「吸い付くようなって言うか……見ただけで判る。色も白すぎもせず、かといって、変な焼け方もしていないし。シミもないし」
 そんなふうに褒められたのは初めてで、反応が一瞬遅れた。
 その間に、隆典が密着してくる。
「あ、の?」
「ああ、やっぱり」
「え、あっ!」
 何がやっぱりなのかと問うこともできないままに、肩に触れられた手のひらの熱に、全身が総毛立った。
「ああ、ほんとに滑らかな……」
 喉も体も熱い。なのに、温もっていた筈の芯は、堪えきれないほどに寒い。ぞくぞくと震える全身はぶつぶつと鳥肌が立っていて、隆典が触れている肩も相違ないはずなのだ。なのに、隆典は変わらずゆっくりと俊介を見つめている。
 撫でるように動く手が、肩から二の腕をゆっくりと往復していくのだ。
「や、止めろよ」
 後ずさり逃れようとしたが、同じだけ隆典も動いてきた。けれど、滑った手だけは何とか外れた。
 名残惜しそうに手のひらを見つめている隆典が、うっとりとしているのは気のせいではないだろう。
「もっと触りたい」
「嫌だ、触んなっ!」
「ええ、減るもんでもなし」
「減るわっ」
 何が哀しくて男なんぞに触られなくてはならないのか。
 混乱する頭の中に、はっきりと現れた嫌悪感をそのまま隆典にぶつけたが。
「気色悪ぃんだよ!」
 けれど、隆典の表情は変わらなかった。
「ああ、そうかも。でもなあ、綺麗なんだよなあ。もっと見せて」
 改めようとしない行動は今にもエスカレートしそうだ。さらに激しくなった嫌悪感に苛まれながら、這うように逃げる。
「その肌、もち肌だね」
「母親が東北出身なんだよっ──て、それはどうでも良いからっ! ああ、もう来るなっ!」
「そう? でもそれだけって思えないほど綺麗だよな? 前見た女のより綺麗だ」
 その視線は、さっきまで料理に向けていたものと大差ない。うっとりと魅入られたように見つめられて、全身がむず痒くなってきた。
「寄るなっ、変態、このバカっ」
 罵声も、湯をかけても、足を突っ張っても、効果無し。
「ああ、判ったから、見るだけだから。ね?」
 宥めあやすように声をかけられても。
「嫌だっ、見るなっ!!」
 堪えきれなくなって立ち上がった。隆典に背を向け湯船から出ようとして。
「うわっ、その尻の部分がまた綺麗。触りたい……」
「ば、バカやろうっ!!」
 慌ててタオルで隠そうとするが、びっしょりと濡れたタオルは容易には広がらない。それでも、申し訳程度に隠して、俊介は走って更衣室へと逃げ出した。
 もう僅かでも見られるのが嫌だった。
「変態っ!」
 ドアを出しなに、捨て台詞を発する。
「うん、よく言われる」
 けれど返ってきたそんな言葉に、唖然として。
「前から見ても綺麗だね」
 楽しそうな声音に、かあっと全身を紅潮させて逃げ出した。
 けれど。
「う……」
 肌に残る水滴を拭うのもそこそこに下着だけは身に付けたけれど。
 俊介は激しい胸焼けに、床に蹲ってしまった。
「気持ち……わる……」
 込み上げる吐き気は、何度か経験があるもの。ついでにぼうっとしてきた頭には白い霞がかかったような感じで、これまた一度経験があった。
「やべえ……」
 飲んだ直後に熱い温泉。ついでに思いっきり興奮すれば、酔いは一気に回ってくる。しかも、隆典の視線が気になって湯船にじっとしていたせいで、思った以上にのぼせていたようだ。
 いますぐに吐くほどではないが、できればトイレに行きたい。
 朦朧とした頭で、とりあえず着るものをと、手を伸ばした。着てきた服と浴衣がそこにあったが、迷うことなく浴衣へと手を伸ばす。できるだけ動きたくない、という思いに従っただけだ。
 爪の先にひっかかった布を引っ張れば、ずるりと白く長い布が手の中に落ちてきた。それを身に纏い、帯を締めるのもそこそこに、トイレへと向かう。
「あれ、上木さん?」
 隆典の声が聞こえたような気がしたけれど、それどころではなかった。
 

 綺麗に清掃されたトイレの傍らに蹲り、吐き気と戦う。吐けば楽になれるのは判っていたが、どうにも上手く吐き出せなかった。
 もともと嘔吐には慣れていない。
 指を突っ込めば吐けるかもとは思うが、未だかつて自分では上手くいった試しがなかった。
 結局、固く目を瞑って、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
 荒く息を吐いて冷や汗が流れる額を手で覆う。
「ん……くっ……」
 衝動的に込み上げる吐き気を逃していると、寒気すら感じてきた。
「大丈夫か?」
 背後からかけられた声に、ぼんやりと頷く。
「ん……少しは楽になった……」
「のぼせた?」
「ん……」
 頷くとふわりと肩に何かがかけられた。視線を向ければ、自分のシャツだ。
「真っ青だ……。部屋に戻って休んだ方が良い。それに水分を取らないと」
「ん……」
 頭では正しい事を言われていると判ってはいた。だが、それより何より体が動かなくて、ぼんやりと柔らかく暖かい壁にもたれかかる。
「動けない?」
「ん……」
 マズッタなあ……。
 ピークを過ぎた事にはホッとしていたが、増している疲労感に体を動かすことが辛い。
 その顔を覗き込む隆典が心配そうに顔を顰めているのに気が付いて、微かに首を振るけれど、途端に鈍い痛みがこめかみを襲う。
 小さく唸って手を額に押し当てると、頭上からため息が落ちてきた。
 同時に膝裏に差し入れられた腕が硬く張り詰める。
「部屋に戻ろう……っ!」
 息を飲んだような音。
 ふわりと体が浮遊し、体重のかかった膝裏と背に痛みが走った。
 えっ、と思う間もなく、隆典の顔がひどく近い距離にきていた。
「あ、あれ?」
 落ち着かない体勢に、思わず手近なモノに縋り付く。
「動かないで」
 耳のすぐ横で、落ち着いた声が響き、鈍った頭が状況をようやく把握した。
 隆典の逞しい両腕に抱え上げられた姿。
 いわゆる「お姫様抱っこ」で抱えられ、躊躇いもなく廊下へと歩き出す隆典。
「え、でもっ、こんなっ!」
 この抱き方はないだろう、と理性が言うが、すでに歩き出している状態で迂闊に動いたら落ちそうだった。
 込み上げるのは、火を噴きそうな程の恥ずかしさだ。幸いにして廊下には誰もいなくて見られる心配は低かったが、それでもいつ誰が出てくるとも限らない。
 人が来るかもと思うと大声も出せなくて、恥ずかしさと安定しない恐怖感に、隆典に縋り付き顔を埋める。
 情けない姿を晒しているとはいえ、バカみたいに真っ赤になった顔を隆典に見せたくはなかった。
「ああ、その姿勢が良いな。安定する」
 くつくつと笑う程の余裕を見せつけられ、眉根を寄せる。決して軽くは無いはずなのに、この腕っ節は一体どういう事なのか?
 あれだけ近づくことを怖れた相手にしがみついてる自分が信じられない。
 こんなの……。
 絶対に他人に見せられないし、知られたくもない状況に、ぎりっと奥歯が音を立てる。
「降ろせよ」
 大きく唸りながらの懇願は、「もう着いた」という言葉と共に叶えられた。

4

 目が覚めたら、見知らぬ部屋だった。
 いつか見たメロドラマの陳腐な冒頭シーンがふっと頭に浮かんだほどに、俊介の頭は混乱していた。
 布団の上に座り込み、きょろきょろと辺りを窺う。
 ──ここは、どこだ?
 記憶にはない、と思う。けれど、自信はなかった。
 記憶を掘り下げようとするのだが、鈍い痛みが邪魔をするのだ。
 渇いた喉に掠れた声は、飲んだ後に経験するもの。それに頭痛が加われば、完璧な二日酔いだ。
 だが、と、必死になって考える。
 今まで何があっても自分の部屋か友人の部屋までは帰っていた。
 こんなふうに、見知らぬ部屋で起きたことなどなかったのだ。
 ううっ、と唸りながら、もう一度部屋を見渡して。
「あ……」
 部屋にあったもう一組の布団が、乱れもせずに敷かれているのに気付く。
 辿った視線の先にあった襖の模様も、記憶の片隅にあった。
「……ここ、昨日の?」
 きっかけがあれば、糸の端を引っ張るように、次々と記憶が甦る。
 昨夜は隆典に連れられて食事に来て、温泉に入って。のぼせた上に、酔いが回った俊介は、気持ち悪さに苦しんで。
「……運んでもらったんだっけ?」
 思い出すのも恥ずかしい光景が脳裏に浮かんで、きつく顔を顰める。
 こんな失態は初めてで、激しい後悔が押し寄せてきた。
「くそっ」
 苛立たしく布団に拳を打ち付けて、怒りのはけ口としようとする。だが、途端に走った頭痛にそれすらも叶わなかった。
「上木さん、起きた?」
 布団に倒れ込み痛む頭を抱え込んでいると、襖がすうっと開いた。
 明るい向こうの部屋にぽっかりと影が浮かび上がる。
「……隆典……さ……?」
 彼しかいないはずなのに、掠れた声で問いかける。と、舌打ちのような音が聞こえてきた。
 怒ってる?
 近づいた隆典の顔が顰められているのに気が付いて、何故か戸惑いが生まれた。
「あ……」
「大丈夫か?」
 手が額に触れる。
 途端に、びくりと全身が強張った。
 知らず布団の中で逃げを打とうとする。
「ああ、動くなって、病人相手に何にもしやしないよ」
「え……」
「二日酔いだろ? 昨日勧めすぎたから……。温泉も長湯させたし。すまなかった」
 視線を逸らして謝罪してくる隆典は、本当に自分の行為を悔いているように見えた。よく見れば、その目が充血している。
「寝て、ないのか?」
 無精ひげもさることながら、なんだか昨日よりやつれているような気がした。そういえば、隣の布団は寝た気配がない。
「寝たよ。あっちの部屋で」
 ちらりと向けられた隣の部屋は、昨夜食事をした部屋のようだ。
「何で?」
 つい問いかけると、隆典の口の端がすうっと上がった。
「襲いたくなるから」
「……えっ?」
 にやにやと嫌らしく笑う隆典。
 言葉の内容を理解した途端、何故か全身が火を噴いたが。
「な、何がっ……っうう……」
 頭に血が上ったせいか、頭痛が一気に激しくなった。脳をかき回されるような痛みに、顔を顰めて突っ伏す。
「ああ、すまん。水、飲めるか?」
「の……む」
 冷たいコップが頬に当てられて、その心地よさに酔う間もなく俊介はコップを奪い取っていた。
 ごくごくと呷るように飲む。
 空になったコップには、さらに水が注がれ、餓えた獣のようにそれを呷った。
 それほどまでに体が水分に餓えていたようだった。幾ら飲んでも物足りない。
「ああ、もう空だから」
 最後に、と注がれたコップ半分ほどの水を呷って、ようやく一息つけた。
「500ccが全部空だよ。これならペットボトルごと渡せば良かったかな」
 くすくすと笑う男を睨み付け、はあっと大きなため息を吐く。
「もう大丈夫か?」
「ああ……」
 俊介の頭痛はたいていの場合水分補給をすると治まることが多い。
 経験上、二日酔い時も例外ではなく、たぶん大丈夫だろう、という安心感も手伝って、すでに頭痛は和らいできていた。
 そうなると、さっきの言葉が気になってくる。それに、昨夜の温泉での言動もだ。
「あんた……」
「何?」
「何で俺が綺麗なんだよ。それに、襲いたくなるってのは……」
 額に落ちた前髪を鬱陶しく掻き上げながら見上げると、隆典が微かに呻いた。
 喉の奥で鳴ったその音に小首を傾げるのと、隆典がすっくと立ち上がったのが同時だ。
「おい?」
「襲いたくなるからな」
 意味不明の単語が、再び落ちてきて、隆典が襖の向こうへと消える。
「え、おいっ! だから、何だって?」
「その肌──特に尻に触らせてくれるなら、教えてやるよ」
 どこか息苦しげな声音とその内容。
 幾度か頭の中で反芻し、はっと気付く。
「だ、誰が触らせるかっ! この変態っ!!」
 乱れていた浴衣の襟をぎゅっと引き寄せたのは無意識だった。
 そういう意味なのだ。そういう意味で「襲いたくなる」なのだ、と気付いてしまったからだ。
「そう言われると無性に触りたくなる」
 そう言うからには、寝ている内に触った訳ではなさそうで、それにはほっとするけれど。
 あからさまな言葉に、羞恥と恐怖が交互に押し寄せる。
「てめっ……ホモなのかよっ」
「俺、女の子も普通に好きだよ」
 襖の向こうで一体どんな表情をしているのか。
 押し殺した声音に苦笑が交じっていた。
「まあ、綺麗だったら性別なんて関係ないし」
「だから、何で俺なんだよっ」
「上木さんは綺麗だよ。俺が今まで見た中で一番綺麗だ」
「だぁ、かぁ、らっ!」
「触りたいんだけど」
 揚げ足を取られて、怒りで目の前が真っ赤になる。
 ずきずきと再び酷くなった頭痛もこのときばかりは気にならなかった。
 だが。
「それに、そういう上木さんもホモだろ。お互い様じゃないか」
「それは……」
 ぎくりと強張る俊介に、隆典の言葉が投げつけられる。
「和宏くんは英典にぞっこんだよ。あなたがどんなに頑張っても入り込む余地なんてない」
 突き付けられた現実は、とうの昔に判っていた。
 仕事もできる和宏の自信を喪失させ、暗い日々を送らせた罪悪感はまだ消えていない。しかも結局自分の力では彼を立ち直らせる事はできなかったのだ。それどころか、何の努力もしていない。
 気が付けば、和宏が怯える表情も可愛くて、要領を得ない仕事を必死になっている所も可愛くて。このままでも良いんだ、と倒錯的な思いに捕らわれたこともあった。
 だから、何もしなかった。
 何もしないうちに、和宏がいつの間にか自分の手の中から逃げ出していたことにも気付かずに。
「諦めろよ」
 染みいるような優しさが言葉の中にあった。
「うるせぇ……」
 諦めきれない。
 明るくなった和宏は、前の暗い頃よりもっと魅力的で、俊介の心を捕らえていた。
 けれど、前のように和宏を壊すことなど思いもよらないから、自分では何もできない。
 目の前で幸せそうな和宏を少しは苛める事はできても、それ以上は無理だった。
「なあ、また食事に誘って良いか?」
 影が差して、敷居の所に隆典が立っているのが見えた。
「嫌だ」
 俯いて、速攻で返す。
 この男といると恥ずかしいところばかりをさらけ出してしまう。傍若無人ぶりに自分のペースを乱されてしまうのだ。そんなのは絶対に嫌だった。
「ダメ?」
「ダメだ」
「でも、俺は上木さんとデートしたいな」
「デートなんかしねぇよ」
「でもなあ……」
「でももなんでも、絶対しない」
 繰り返される終わりのない問答。
「昨日は美味しかったよ、けど、もうない」
「うーん……じゃあさ、もう一回だけ」
「だから、一回もダメ」
 隆典が何を欲しているのか、一体何がしたいのかは、まだよく判らない。
 何でこんなに自分に執着しているのかも判らない。
 ただ。
 貞操より何より、これ以上この男の前にいるともっといろんな醜態を晒しそうで──それが一番嫌だった。だから。
「もう二度と会わない」
 きっぱりと言い切った。
 なのに。
 留守電にメール。
 郵便物の中に交じっていた切手の無い封筒。
 窓の外に見かけるのは、しっかりと覚えてしまった隆典の車。
「会わないって言ってんのに……。二度と……」
 確かにあの時、隆典は諦めたふうではなかったけれど。
「ストーカーかよっ、あいつは」
 なんとか言いくるめて朝の内に連れて帰させた部屋。とにかく休もうと昼間っから寝ていたのだけど。
 別れた直後からの熱烈なラブコールは留まることを知らず、そのうち、携帯の電源は切ってしまった。
 本当なら買い物もしなければならなかったが、あの男と顔を合わせたくなどない。強引に詰め寄られれば、またあの車に乗り込んでしまいそうで怖かった。
 男一人軽々しく抱えた隆典に、腕っ節では到底敵わない。
「くそっ」
 あの男は危険だ。
 窓の外、道路の端に停まった4WD。
 運転席にかろうじて見える人の姿に気が付いて、俊介の背にぞくりと悪寒が走った。
『もし今度会えたら、また一緒に行こうね』
 あれだけ嫌だと言っているのに、別れの言葉は性懲りもなくそれだった。。
『会わねえって言っているだろっ!』
『俺は会いたいんだけどなあ』
 罵声に近い言葉を隆典は苦笑で返した。
 なおかつ。
『だって、ほんと綺麗なんだから』
 料理を褒めた時のようにうっとりとした口調を、聞きたくないとばかりに耳を塞ぐ。
 睨み付けても効きやしない隆典を、俊介は正直持てあましていた。
 どうして良いか判らない。
 ただ、諦めてくれるのを待つしかないんだろうか?
 人から「先生」と呼ばれるほどの人間だというのに、こんな何の取り柄もない男に触りたいなどとぬかすバカ。
 天才と何とかは紙一重というけれど、まさしくその対象だと嘲笑う。けれど、その笑みもすぐに消えて、俊介の眉間に深いシワが寄せられた。
 逃げなきゃいけない。
 何としてでも──でも、どうやって?
 考えれば考えるほど疲れが増す。
 今まで周りにいなかったタイプだった。
 どうしたら逃れられるか?
 どうやったら、無視できるか?
 何もできないから、寝っ転がっていると、いつの間にか隆典のことを考えていた。
 何で、俺なんか……。
 考えても判る筈がないと判っているのに、それでも考えてしまう。


 結局、明日は会社だというのにずっと隆典の事を考えていて、そのことに気付いた時には、深夜と呼べる時間になっていた。

5

 眠れなかった朝は辛い。
 寝不足で重い頭を抱えて、気怠げさそのままに事務所にいると、幸せそうな和宏がやってきた。
「ふーん……」
 機嫌の良さそうな──言ってしまえば幸せ気分全開の和宏に、俊介の機嫌はさらに悪くなった。
 こういう時の和宏に昨日何が有ったかなど、容易に想像できたから、そこをからかえば、てきめんに反応する。赤くなってしどろもどろする姿は、初めて会った頃を彷彿とさせて、楽しいことこの上ない。
 相変わらず駆け引きの苦手な和宏だが、それもひっくるめて可愛いと思う。
 だが、しょせん、他人のモノだ。ひとしきりからかって、その可愛い仕草を堪能して。
 不毛だなあ、と気付いた途端に、重い記憶がのしかかってきた。
「……お願いですから、会社では……」
 頭を下げて手を合わせる和宏に、さすがに気の毒になってきた。
 少なくとも、今の不機嫌さに和宏は関係ない。いや、あの男を知っているということだけでも関係あるか。もしかすると何か知っているかも。
 ふとそう思って、俊介は和宏を見つめた。
「判ってるけど……。……だけどな……」
「あの?」
「お前らは幸せかも知れんがなあ……。ついでに何とかならないか、あいつ……」
 口にすると愚痴でしかなかった。
「もしかして、また?」
 それだけで通じてしまうことに苦笑する。
 そう言えば、挨拶された時にどこかしつこさを感じて、和宏に相談したことがあった。
「ああ、家まで押しかけて来て、連れ出された……」
「家?」
「……先週、俺が帰るのをつけたんだと。んで家がバレちまって……」
「つけた……」
 和宏の顔から血の気が失せる。
 その様子を見ていると、こっちまで貧血になりそうだった。しかも、その口から零れた重いため息に、和宏も持てあましているのが判った。
「なんとかしてくれよ、お前の義兄になるんだろ」
 期待せずに言い募っても。
「そんな事言われても……僕も苦手で……」
 確かに、態度だけならまだ俊介の方がはっきりしている。それなのに苦労しているのだ。和宏には、ああいうタイプは絶対に無理だろう。
 だが、そうは言っていられない。
 隆典対策にできるだけ情報を集めたい。
「で、昨日は何かあったんですか?」
 和宏が聞いてきたことを幸いに、俊介はかいつまんで一昨日から昨日の状況を伝えた。
 だが、酔っぱらってのぼせて、お姫様抱っこされたことは黙っていた。
 さすがにあれは今思い出しても恥ずかしさが勝ったのだ。しかし、ストーカーそのものの行為だけははっきりと教えた。



 それにしても。
 月曜少し残業してから帰った途端に、危うく捕まりかけた。
 車を停めた途端に角から曲がってきた忘れようもない4WDの姿に、血の気どころか体温まで下がった。階段を駆け上がって、ドアを閉めたと同時にエンジン音が止んだ。
 ガチャガチャと音を立てて鍵を閉めて、ドアに耳を押しつけて外を窺う。
 車のドアが閉まる音。
 しばらくして階段を上がる足音。
 そして。
 人違いであって欲しいと願う俊介を嘲笑うようにチャイムの音が鳴り響く。
 だが、出るわけにはいかなかった。
 他の誰でもない、隆典なのだ。
 じっと押し黙っていると、今度は耳を押しつけていたドアが叩かれた。震動が耳を直撃して痛みすら伝う。それでも、必死になって息を押し殺し、何があっても動くまいと必死になっていた。
 その時の俊介を支配していたのは恐怖だ。
 今度隆典に連れて行かれたら、何があるか判らない。
 判らない、ということが、十分恐怖になっていた。
「上木さん、いるんでしょう?」
 声だけは穏やかな響きを持って伝わってくる。
「酷いなあ、居留守使うのか?」
 まるで責めるような口調が聞こえた時、思わず「てめえのせいだっ」と叫び返しそうになったけれど、手のひらで口を覆って堪えた。
「携帯も電源切ったままだし。ほんと、嫌われちゃったかな?」
 ああ、もう、大っ嫌いだよっ!
 言いたいことも言えないジレンマが、俊介を身悶えさせる。
 だが、きっとこいつにはそれが通用しない。
 居ることが完全にバレれば、今度は何としてでも開けようとするだろう。
「うーん、いること判っているんだけど」
 いいや、いないんだよっ。あんたが欲しがっている男は、どこにもいないっ。
「合い鍵、どっかないかなあ……」
 恐ろしい言葉に、すぐにでも鍵を付け替えたい欲求に捕らわれた
 もっとも、さすがに合い鍵はないのか、隆典はそれ以上は行動してこなかった。
 ただ。
 向こうから勝手に呼びかけて、いろいろと反応を試そうとしている。
 優しい言葉、威圧的な言葉、脅して宥めて。思わず言い返しそうになった言葉もあったが、それを何とか無言で乗り切った。
 それが延々30分近く続いたが。
「じゃあ、またね。おやすみ」
 何事もなかったように唐突な終わり方だった。
 隆典の車の音がようやく聞こえなくなって、俊介はずるずると玄関口にへたり込んだ。
 心臓がドキドキと高鳴り、全身汗でびっしょりだ。
 持久走でもしたかのような激しい疲労感から、立ち上がることもできない。
「何なんだよ……あいつは……」
 過去、あんな男に会ったことがない。
 今まで多少なりともいろいろあったが、今の状態程に身の危険を感じたことはなかった。
「冗談じゃねえよ……」
 とんでもない男に魅入られたのだと、今更ながらに先日付いていった事を悔いる。もっとも、そんな事をしても何の解決にもならなくて、俊介は深く長いため息を吐くしかなかった。



「またかよ……」
 日が替わる頃に帰ってくれば、ドアに白い紙が貼ってあった。
「いつも遅いね。会えなくて残念だよ……じゃ、ねーっ!!!」
 誰のせいだと思ってやがるっ!
 丸めた紙を勢いよく壁に叩き付けるが、怒りはそんなものでは治まらない。
 ここ数日午前様を繰り返しているせいで、疲れによる苛つきは最高潮だ。それもこれも、隆典に会いたくないがため、会社に居残っているため。することもないのに居残る訳にも行かず、後回しにしてきた仕事を一気にやっつけている。その結果、部長から褒められるという珍しい経験までしてしまったが、それこそ非常に不本意な出来事だった。
「ちっくしょうっ!」
 転がった紙を拾い上げ、今度はびりびりに破く。
 細かく別れた紙切れがひらひらとゴミ箱に落ちていくが、怒りは治まらない、それどころか怒りがさらなる疲労を呼び起こした。
「ああ、もう……」
 一度自覚すると、気力が一気に萎えて膝からがくりと崩れ落ちた。
「どうしたいんだよ……あいつは……」
 会わないように遅く帰っても、たまに捕まりかけることがある。決してドアは開けないが、外と内とで何度か応酬したことはあった。最初の内はびくびくと怯えて警戒していたが、ある程度会話をすると隆典はすうっと帰って行った。
 しつこいようであっさりしていて、その呆気なさに拍子抜けしたほどだ。
 だが、それはそれで、どういうつもりか判らなくて、悩みが増える。
 貴重な睡眠時間に夢にまで出てきて、俊介を脅かす男。会社にいても、背後から誰かが近づけば、隆典かと全身が硬直する。そんなはずはないと判っているのに、それでも警戒心を消すことはできなかった。ずっと電源を切ったままの携帯は、親しい友人からも文句を言われている。だが一時でも電源を入れれば恐ろしいメールや留守電が入っていそうで、どうしても入れることはできなかった。
 気が付けば、何でもない時にまで隆典のことを考えていることに気付き、それがまた俊介を憤慨させ、疲れさせた。
「明日は金曜日か……」
 正確にはすでに今日だったが、俊介にはその区別はついていない。
 ふっと視線の先に床に転がった白い袋を見つけた。昨夜、隆典が帰る時にドアノブに引っかけていった袋だ。
 恐る恐る開けてみれば、中身はサプリメントの山だった。
 一袋で一食分のカロリーが取れるというスティック状のクッキー。鉄やミネラルの補助食品。それにビタミンCがたっぷり入ったタブレット。
「こんなもんくれるより、来るなよな」
 疲れていると気遣ってくれていたのは知っていた。だが、その原因である隆典に言われても、余計に腹が立つだけだというのに。
 転がったそれらはどれも封は開けてない。
「う……ん」
 眠い。睡眠不足も限界だ。
 明日は少し早めに帰って、寝た方がよいかも知れない。
 しっかりと鍵を掛けて、カーテンも締め切って、車は近くの同僚宅にでも預けようか。
 いい加減逃げるのも疲れてきた。部屋にさえ入れなければ、隆典も無体なことはしない。ここ数日で知ったその事に、甘えてしまおうかと思う。
 一度へたり込むと、立つのも嫌だった。ずるずると這うように引きっぱなしの布団に近づき、服のまま倒れ込む。
「……一度、ちゃんと話をつけないとダメなのかも知れないなあ」
 綺麗なものが何よりも好きだという隆典。
 和宏が言うには、その執着心はものすごいらしい。ただ、飽きてしまえば、二度と見向きはしない。
 だったら、もっと綺麗なものを見せてやればよいのだろうけど。
「よく、わかんねえ」
 隆典の審美眼の基準が一体なんなのか?
 自分が綺麗だと言われる根拠すら判らないのだ。
 肌がどうのこうのと言っていたけれど、食事時に綺麗だと言っていたのはゼリー寄せだったと思う。
 そこに共通点は無い。
「ああ……わかんねえ……」
 呟きは掠れていて、あっという間に消えていった。
 続いたのは、規則正しいけれど浅く速い呼吸だ。
 せっかく眠りについたのに、その表情は苦しそうで、時折呻くような音が零れていた。

6

 こういう時に限ってトラブるのが世の常だ。
 定時即行で帰るつもりだったが、間際の客からの連絡で余計な時間がかかってしまった。
 時計を見れば、月曜と同じくらいの時間。これでは、隆典の来訪とかち合うかも知れない。
 それを怖れて、今日も残業をするつもりだったが。
「帰れ」
 近藤主任が無情にも命令した。
「しかし……」
「朝から何度船を漕いでいる? 今日はさっさと帰って寝なさい」
 追い出すように事務所から閉め出されてしまた。確かに、朝からろくな仕事をしていない。一週間残業で頑張った結果、急いでやらなければならない仕事はもうなかった。
「も……いいか……」
 何が良いのか判らないままに呟いて、駐車場へと向かう。
「上木さん」
「ああ、八木ももう帰るのか」
「はい」
 普段から言葉が少ない和宏だったが、ここのところその傾向が強まっていた。何か心配事でもあるのか、ため息を吐いてぼおっとしていることもある。
 いつもなら揶揄するか、叱咤しているところなのだが、俊介もそれどころではなかった。
 無言のまま、ぺたぺたと歩く。
 車までのたかだか50メートルが辛い。それでもいつもの道を何も考えずに通っていった。
 あと少しで車だというところで、ついため息が零れた。俯いて、重い頭を軽く振り、気を取り直して鍵を持ち上げて。
 びくっと全身が激しく震えた。
 車の陰になった所に、隠しきれない大きさの車。
 朝来た時にはこんな車は隣になかった。
 あの時以来、この手の4WD車を見ると疑ってしまうから、できるだけその傍らには停めないようにしていたのだ。
 なのに。
 モスグリーンの車体が、デジャブとなって俊介を襲う。
 いや、デジャブどころか……。
「やっと会えた」
 腕を掴まれても動けない。
 とっくの昔に視野に入っていたのに、頭が認めようとしていなかった。
「な、何で……あんたが……」
 はっと我に返って慌てて振り解こうとしたが、隆典の力の強さは前に経験していた。
 どう足掻いても振り切れないと気付いて、近くにいた和宏を振り向く。
「八木、八木っ!」
 何とかしてくれと、助けを求めるが、和宏は真っ青な顔で首を横に振って拒絶した。なおかつ後ずさる様子に、絶望的な思いが募ってくる。
「だ、駄目なんで……。僕も」
「和宏くんでも良いんだけどね、俺としては」
 途端に怯えた和宏に、彼の助けはもう無理だと悟った。後は自分しか自分を助けられない。必死になって隆典の腕へと掴みかかる。
「は、離せっ!」
「別に、無理強いをしたくはない。けど、こうでもしないと来てくれないだろう?」
「だから、何で俺なんかっ!」
 判らない。
 判らない。
 俺なんてどこにでもいる男だ。隆典のお眼鏡に適うような男じゃない。
「気に入ったから。だから、一緒に食事でもって思っただけなんだよ。ダメなのか?」
「食事って……この前もしたじゃないかっ! それに、それだけで済まないだろっ」
 温泉で触れられた記憶。ざわざわと全身が総毛立って、激しい悪寒に晒されたあの時。
 襲いたい、と言ったあの言葉も、決して冗談ではなかった。
 だからこそ、深夜に訪れた隆典を決して部屋には入れなかったというのに。
「ああ、あれ? あのこと、和宏くんに言って良い?」
 隆典の言葉に、俊介は蒼白な面持ちで首を振っていた。
 どのことか、なんて判らない。
 ただ、嫌だった。
 あの時の俊介は何を取っても良いところなどなかった。
 それを和宏には知られたくないと、なけなしの矜持が俊介を縛る。それが、どんなに墓穴を掘ったものであろうと、今の俊介には撤回できることなどできなかった。
「ということで、一緒に行こうね」
「だから、何で……。ちょっと押すなっ!!」
 強引に、隆典の車に押し込まれそうになって、必死になってドアに縋っている。
「畜生っ!!」
 それでもまだ間に合うと、必死になって身を乗り出す俊介を、隆典が「危ないなあ」と助手席に押しつける。
「離せっ!」
「嫌だよ。一緒に食事に行こう。その後、また一緒に温泉入ろうね」
 甘ったるい声。
 全身が総毛立つ。
「もう一回見せて。見たいんだ、あなたの綺麗な肌」
 耳元で囁かれて、一瞬耳朶に生ぬるい何かが触れた。
 びくりと硬直した俊介を、次に激しい衝動が襲う。
 な、何で……。
 がくりと膝から力が抜けたのだ。
 それは一瞬で、次の瞬間には力は戻ったが、全身を襲った熱はすぐには消えない。
「ん、感じた?」
 くすくすと耳朶を擽る吐息に、ざわざわと悪寒とは違う別のざわめきが背筋を伝った。
 それが信じられなくて、俊介は呆然と隆典を見つめて、震える唇を必死になって動かす。
「お、降りる……」
 怖い。
 このままここにいると、自分が何か別のモノになってしまいそうな、そんな恐怖があった。
「言ったろ。せっかくの機会なんだ。逃したくないよ」
 再び耳朶に触れた唇。
 今度ははっきりと悪寒でない痺れを感じた。
「おとなしくしていないと、縛ってでも連れて行くよ。和宏くんにもお願いしようかな、あのこととか伝えて……」
「それはっ」
 あのこと、が何のことかは判らないけれど。
 何も知られたくない。
「俺は……」
「危ないから、逃げようなんて思わないで欲しいな」
 シートベルトが掛けられた体をとんとんと宥めるように叩かれて、隆典が助手席のドアを閉める。
 別に鍵がかかっている訳ではない。運転席へと移動する隆典の目を盗んで逃げ出すことはできるはず。
 だが、俊介の足は、竦んだように動かなかった。
「た、隆典さんっ!」
 今更のように和宏が制止するような声を出す。
「食事するよな、上木さん?」
 もし今ここに和宏がいなかったら、逃げ出すこともしていたかも知れない。情けなくはいつくばってでも、隆典から逃れようとしただろう。
 けれど。
 好きな相手に軽蔑されるような事はもうしたくない。
 隆典の言葉に、ああ、と口の中で呟いて頷いた。
「でも……」
「じゃあね、和宏くん」
 なおも言い募る和宏を残して、車は動き出した。
 もう無理。
 いや、それ以前にこの男から逃れようと考えたのが無理だったのかも知れない。
 変態にははっきりと言ってやらなければならないのだ。
「どこへ行く?」
「そうだね、前回が和食だったから今度はフランス料理なんてどうかなって思って」
「……食欲なんかねえよ」
 まともな食事をしていない胃は、フランス料理なんてものを想像しただけで、痙攣しそうだった。
 思い出したくもない二日酔いの吐き気すら甦って、露骨に顔を顰めれば、隆典が心配そうな声を出した。
「そう? じゃあ……もっと軽いものなら大丈夫かな?」
「どうとでも」
 諦め気分の今は隆典が何を言おうが、もうどうでも良かった。
 裸が見たいって言うんなら、見れば良い。そんな気にすらなっているのだ。
 だが、貞操だけは何とかして守りたいな。
 ぼんやりとした頭で、それだけを考えていた。

 

「眠いんなら寝たらいいよ」
 囁くような声が不思議と心地よかった。
 さっきまでの強引さは消え、穏やかな優しい声音に別人かと思ってしまう。
 ほんとによく判らない奴。
 このまま寝たら何かされるんじゃないかとはふと思ったが、ちらりと見やった隆典は真剣な表情で運転に専念していた。
「どこへ行くんだ?」
 諦めるようにため息を吐いて、問いかける。
 この前みたいな目にだけは遭いたくないのだから、と警戒しながら待っていれば、隆典は困ったように俊介をちらりと見やった。
「そうだねえ……15分ほどの場所でうどんでも食べる? その位だったら入るんじゃないか?」
「うどん……。そうかな? ああ、そのくらいなら。それよりあんま高級なとこ連れてくなよ」
「大丈夫、ごく庶民的な所だ」
「ふぅん」
 答えながら運転席の隆典を見やった。対向車の灯りが照らすとその顔の陰影がはっきりとして、まるで別人のようだ。少し細い道なのに対向車が多いせいか、前方を凝視している。
 柔らかく受け答えをしているから余裕があるのかと思ったけれど。
「んっ」
 小さな唸り声と共に、運転席が明るく照らされた。
 軽い衝撃と共に、肩にシートベルトが食い込む。
「何?」
「あ、ごめん、驚いた?」
 強張っていたと思った顔が、俊介に向けられた途端に柔らかな笑みに変わった。
「いや」
「乱暴な車がいてね。ちょっと危なかったから」
「そう」
「大丈夫か?」
 ひどく心配そうな隆典の様子が可笑しい。
 毎日のストーカー行為と妙な執着。それさえ無ければ、良い男の類に入るだろう。
「大丈夫だよ。だから前見てろ」
 つっけんどんに指させば、苦笑を浮かべた隆典はすぐに前方へと向き直った。
 気が付けば、道はかなり狭い。乱暴だという車は、もうすでにはるか後方へと去っていた。
「あのさ」
「ん?」
「あんた毎日いつからいたんだよ?」
 月曜の時でも8時近かった帰宅時間。それよりもずっと遅かった日々でも、隆典はやってきた。
「内緒」
 くすりと笑った顔が、なんたが少し痩せていると思った。
 陰影のせいだろうか?
 まじまじと見つめていると、隆典が困ったように視線を向けてきた。
「そんなに見つめられると、擽ったいな。見惚れてた?」
 くつくつと笑われて、顔が熱くなる。
「違うっ」
 慌てて俯いて、そんなつもりでなかったと歯ぎしりした。
 なのに、隆典はずいぶんと楽しそうに言い放つ。
「でも、ちょっと恥ずかしいね。そんなふうに見つめられると」
「それはこっちのセリフだっ!」
 さんざん見つめてくれたクセに、よく言う。
 じろっと睨んだが、隆典は意に介していないようだ。変わらない表情で、柔らかく笑う。
「上木さんは綺麗だから、見たいんだよ」
 視線が一瞬動いて、俊介と絡む。
 途端に、心臓が大きく高鳴った。今度は全身が熱を持って、息苦しくすらなる。
 何だ、これ?
 手すら震えていて、ぎゅっと握りしめた。
「俺は、綺麗なんかじゃねえ」
 なんか頭が変になってくる。
 なんでこんな変態に綺麗だって言われて、こんなふうになんなきゃいけないのか?
 動揺している自分が、俊介は信じられなかった。
「綺麗だよ、ほんとにね」
 言われるたびに、鼓動は速くなる。
 ち、違う、違う、違うっ!
 変態が何言ったって、信じられるもんじゃないのに。
 なのに、はっきりと動揺している理由を必死になって探した。
 心臓を落ち着かせ、熱くなった体に夜気を当てて冷やそうとする。
「は、恥ずかしいから、んな事言うな」
「何で? 本当の事なのに」
「ああ、もうっ」
 無理矢理言葉を断ち切って、その話題を止めさせた。
 たらりと流れる汗は、次から次へと湧いてくる。
 涼しいはずの夜気が何の役にも立たないほど、俊介の全身は熱くなっていた。

7

「ここ?」
「美味しいよ」
 隆典が連れてきた店は、今度は本当に庶民的なところで、それはそれで唖然としてしまった。
「あ……気に入らないか?」
「ち、違うけど……。そのあんたに、似合わないような……」
「そうかなあ、俺、うどんも好きだけど?」
 にこやかに促されて、俊介は店に入った。
 チェーン展開している店は、前に利用したことがある店と内装も大差ない。
 確かに美味しいうどんではあったけど。
「早いから、すぐ来るよ」
「ああ、知ってる」
 あっさりとしたものが欲しくてわかめうどんを頼んで、5分後。
 目の前で熱々のうどんが湯気を立てていた。
「軽く食べて、足りないようならまた追加すれば良いし。どう?」
「食べられる」
 そういえば、最近給食弁当か残業弁当かで、温かな食事を取っていなかった。たかだか一週間で栄養失調になるとは思えないが、それでも体調が良くないのはそのせいかも知れない。
 それを思えば、熱々のうどんがご馳走に思えてきた。
 それに……。
 ふっと床に転がったままのサプリグッズを思い出した。
 少しでも飲んでいれば、もうちょっと元気が出ていたかも知れないな。
 万全の心身で臨まないと駄目な相手なのだ、この隆典という男は。
「上木さん、美味しいもの好きだろ?」
 天ぷらうどんを食べている隆典が、目線をうどんに向けたまま問う。
「美味しいものは誰だって好きだろ?」
「そうだけどね、上木さんの場合、この前もずいぶんと楽しそうに食べていたし」
「そりゃ、あんな料理普段は食べられるはずもないし。まあ、あれだけは役得ってことで」
 確かにあの時までは、まだ楽しかったのだ。
 温泉で、あんなふうに言われなければ、この隆典という男もそんなに気にすることない相手じゃないかと思ったのだ。
 だが。
「あんたさ、俺なんかにつきまとうの止めろよ」
「何故?」
 思い切って言い放った言葉は軽く返された。
「何故って……。不毛だよ。何が綺麗なんか、基準がよく判んねえけど、俺なんかより綺麗な奴って幾らでもいるだろう? ……俺なんか……」
 何でだろう。
 当然のことを言っているのに、何故か胸の奥がきりきりと痛んでくる。
「上木さんは綺麗だよ。基準なんて関係ない。俺が綺麗だって思ったら、綺麗なんだから」
「よく判んねえなあ。そんなの……」
 つまり隆典が綺麗だって思わなくなったら、綺麗じゃないって言うのか? 
 それって……つまり、ものすごく自分勝手な基準だってことだ。
 女の人が綺麗になろうと化粧しても、隆典の自分勝手な基準に合致しなかったら、もうどうしようもない。しかもその基準は隆典にしか判らない。つまり、どう綺麗になって良いのか判らないって事だ。
 そして、それは隆典の考え方でもころりと変わるものじゃないだろうか?
 つまり、俊介の事もいつしか飽きる。
 他の綺麗なものを見つけてしまうまでの我慢だと、和宏も確かそんな事を言っていた。
「上木さんの肌の綺麗さはね、他に類を見ないほど俺の好みにぴったりなんだよ。それだけは信じて欲しいな」
 くすぐったい。
 男に褒められて悦ぶような事ではない。
 なのに、綺麗だ綺麗だと繰り返されるとまんざらでもなかった。
 頭が考えることを放棄しているのか、それとも割り切ってしまったのか、ここまできてしまえばどちらでも一緒だ。
 もう流されるしかないのかも知れないな。
 けど……。
 一抹の不安が心の中に澱みを作ってることにも気が付いた。
 その理由を探ろうとしても、するりと囲いを逃れて隠れてしまう。
「ほんとはねえ、この後行きたいところがあったんだけど、上木さん疲れているから無理かな?」
「どこへ?」
 にこやかに笑っている隆典。
 終始しかめっ面の俊介。
 端から見たら、変な取り合わせの二人だろう。一週間必死に逃げていたなんて、誰も思わないほどに和やかな今。
 だけど、これも今だけだ。
 浮かんだ不安も、まだくすぶっている怖れも何もかも封じ込めて、外面を取り繕う。
 隆典が飽きるまでの──今だけ、なんだから。
「プール」
「プール?」
 何となく隆典の意図が読めた。だが、俊介は気付かないふりをして、問い返す。
「プールなんか行ってどうすんだよ?」
「スパリゾートって奴だけどね。温泉もあるし、疲れも取れると思うんだけど」
 疲れ、か……。
 その元凶である隆典の言葉に、俊介は知らず笑っていた。
 何を俊介が嫌がっているのか判っているだろう隆典は、結局相変わらずで、しかも、性懲りもなく同じ事をしようとする。
 こんな男から逃げ続けようなんて思うことが間違いじゃないだろうか?
 いっそのこと、見たいだけ見せてやる方が良いかも知れない。そうしていれば、いつかは気付く。
 他にももっと綺麗な奴がいるって事。
「いいよ、そうだな、久しぶりに泳いでみようか。でも水着なんてないぜ?」
 明るく返せば、隆典が驚いたように目を見開いていた。
「良いのか?」
「良いって。奢りなら」
「それは、もちろん。でもさ、どういう心境の変化? 絶対に断られると思っていたよ」
 幾分呆れた口調の隆典は、それでもどこか嬉しそうだ。
「別に。相変わらずの変態ぶりに、呆れ果てたのは事実だけどな。ただ……」
「ただ?」
「奢ってくれたお返しで今回だけは特別。けどな、手は出すなよな。俺が嫌がったら、絶対に触れるな。もし触れたら、二度目は無い」
 それだけは、とはっきりと言い切った。
「ふぅん、ま、良いけど」
 意味深な笑みを口元に作った隆典に気付かないふりをして、真っ暗な窓の方を見据える。
 一度だけ。それで飽きてくれたら御の字だけど。
 零れそうになるため息を押し殺すように、俊介は残っていたうどんを掻き込んだ。

 

 プールがどことは聞かぬままに、助手席で揺られるうちに睡魔が襲ってきた。
 このまま眠ってしまえば危ないんだ、と必死で堪えていたけれど、ここ数日の睡眠不足の方が危機感より勝っていて、何度も舟を漕ぐ。
「寝て良いよ」
 笑いを含んだ声音に、はっと我に返るけれど、すぐに頭ががくっと落ちる。そんな事が何度か繰り返されて、隆典が呆れたように苦笑していた。
「そんなに信用ない?」
「あると思うか?」
 流されてプールに行くことは了承したが、そこまでだ。
 襲いたい──などとほざく奴に、無防備な姿を晒す訳にはいかない。
 落ちかけた顔を上げて睨みつければ、不意に車が停止した。期せずして視線が絡み、なぜか焦って目を逸らす。
 どうして……。
 暗い車内で、外からの淡い明りに照らされた隆典は、明るい場所とは違った印象があった。
 真剣な瞳が、絶対に違うと知っているのに、ストイックな雰囲気を醸し出す。
「何だよ」
 道路脇の空き地に車を停めた隆典は、じっと俊介を見つめていて、一言も口を利かない。
 俊介の方が焦れてしまって、戸惑いながら問うていた。
「……襲わないよ」
 静かな声だった。
「え……」
「襲わない。そんなつもりは無いからね。あれは言葉のあやって奴。さっき約束したろう? 触れたら二度は無いんだろ? その方が嫌だからね」
 じっと見据えられた上にひどく真剣な口調で言われた。
 信じられるものか、と疑う気持ちはあったが、脳の大半が隆典の言葉を信用していて、俊介は思わず頷いてしまう。
「じゃ、おやすみ」
 優しくかけられた言葉が、妙に心地よく響く。
 それでも、脳の僅かな部分が逆らおうとしたけれど。
「けど……」
「大丈夫だって。絶対に手は出さない、約束だからね」
 変わらない真剣な瞳で念押しされて、俊介は思わず視線を逸らした。
「判ったよ」
 なんでこの男にはいつも流されてしまうのだろう?
 先週も今週も、そして今も。



 出発の加速度に体が傾ぐ。
 だがそれも一瞬だった。後に続く丁寧な運転は不快な揺れをほとんど起こさない。静かなエンジン音と、僅かな震動。あまりに静かすぎて、つい隆典の様子を窺う。
 何も喋らない隆典を幾度か見つめ、そんな自身に気が付いてはっと前を見据える。けれど気が付けばまた隆典の様子を窺っていて。
 そんな自分に呆れたが、きっと警戒しているからだろう、と、俊介は自分の行動を分析した。
 山間の道に入ったのかあまり変化のない風景に来ない対向車。
 まるで自分達だけの世界にいるようで、なぜだかそれが心地よかった。
 眠気に誘われるがままに目を閉じれば、なおいっそう心地よさが増していく。ようやく素直になった主に睡魔は呆気なくとりついて、深い眠りへと誘った。
 隆典の言葉を信用しきった訳ではないけれど。
 でも、眠ってもいいや、という気になっていた。

8

「…えきさん……うえきさん」
「…なん…だよ……」
 深く心地よい眠りをいきなり遮られて、俊介は不承不承目を開けた。
 目の前には至近距離過ぎてぼけた輪郭の男の顔。その見知った顔を不愉快げに睨み付けて、眠りを遮った訳を聞く。
「着いたんだけど?」
 端的に事実を告げながら笑っている顔が、隆典だと思い出した。ついで、視線を窓の外に向ける。
 そういえばプールに行くって……。
 ようやく働き始めた頭が現状を理解し始め、俊介はようやく「ああ」と小さく呟いた。
 視線を戻して、意外に近い距離にその体を反射的に押し退ける。
「どけよ……」
「何もしていないって」
 途端にそんな事を言って返した隆典に、俊介は思わず瞠目した。
 そういえば、そんな約束をしたっけ。
 寝起きのせいか、そんな事はすっかり忘れていた。
 別にそういう訳じゃなかったんだけど……な。
 この様子では、かなり気にしていてくれたらしい。
 強引な割には律儀だと、降りる準備をしている隆典を見やった。
 俊介の頭の中の隆典像に、もう一つの姿が加わる。
 ほんと、よく判んねえ奴。
 内心、呆れながら、俊介は車から降りた。
 広い駐車場は数台の車があるだけで、閑散としている。
 まだ春の早い時期だから、プールは流行らないのかも知れない。だが、視線を巡らせばもう少し奥にある建物の際の駐車場はそこそこに埋まっているのが見えた。
「あっちは?」
「ああ、あそこはホテル。その中のフレンチのレストランが人気があってね」
「フレンチ?」
 そういえば、最初に誘われた場所がフレンチだったような?
 物問いだけな視線に、隆典はこくりと頷き返した。
「ほんとは、最初からここに招待するつもりだったんだけど。けど、しょうがないよな。疲れてんだから」
「まさか、予約してたんじゃ」
 前回のように、と窺えば、違うと首を振られた。
 そのことにホッと安堵する。
「今日誘えるかどうか判らなかったしね。行くことが決まったら、席だけでも確保してもらうよう電話しようかとは思っていたけど。まあ、今の時期は閑散期でもあって、余裕があるらしいから予約無しでもどうとでもなるとは聞いていたけど」
 何でもないことのように言われたが、俊介は思わず隆典の横顔を見つめていた。
 自分勝手で強引で、何もかも自分の思い通りに事を進めようとしているのに、なのに、時にこんなふうに俊介の言葉を優先させる。
 さっきの触れないというのもそうだ。
 一体こいつは何をしたいんだろう?
 さらに訳判らなくなった隆典の行動は、俊介の理解を越えていた。
 プールの部分は透明なドームになっていて、煌々とした灯りが骨組みを照らして幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「グラスパレス……」
「何だ、来たことあるんだ?」
「……一度だけ……できたばっかりの頃に。でも、こんなところまで来るとは思わなかったな」
 眠っていたからよく判らないが、優に1時間30分はかかっただろう。
 最短距離の道は途中複数の峠を越えるせいで狭い山道が多い。
 急カーブも多々あるはずなのに、俊介の記憶には体が揺さぶられた記憶は一つもなかった。
 強引で律儀でその割には人の言葉を優先して、運転させれば丁寧で。
 また一つ加わった印象に、俊介は眉根を寄せて考える。
 つまり──。
「変な奴」
 ぽつり出た結論に、隆典が訝しげな視線を向けてきた。
「何でもない」
「そう……ま、行こうか、大丈夫?」
「ああ」
 一時間近く狭い座席で眠っていたせいか、手足が硬直していたようだ。ぎこちない動きに、隆典が手を出してきた。
「この位は良いだろう?」
 腕を掴んで支えられながら、何のことだと首を傾げたら、可笑しそうに笑われた。
「もうちょっと早く来られれば良かったかなあ」
「1時間もあれば十分だろう?」
 時計を見れば8時前だった。わざわざこんな所まで来て1時間だけというのももったいないような気もするが、男二人だったら十分だ。
 残念そうな隆典を余所にため息を零す。
 やっぱこの男の行動なんて理解できない。
 サーフパンツタイプの水着を借りたのは俊介だけだった。隆典はちゃっかりと自分の物を持参していたのだ。
 着替える場所だけ個室だったのは幸いだったと、かちゃりとドアの鍵を開けて外に出れば、隆典が手持ち無沙汰に待っていた。だぶだぶの俊介の水着に比べて、体の線にフィットした物だ。
「似合うね」
「……どこが?」
「全部」
 そんなに嬉しそうに言われても。
 ひ弱な体に水着は似合うはずもない。
 似合うと言えばそっちの方だと、先を歩く隆典の背を見つめた。
 浮き上がった肩胛骨の動きに合わせて筋肉がしなやかに動く。二の腕にたるみなど無く、少しでも力を入れれば筋肉が盛り上がっていた。
 シャワーを浴びて、まずは遊泳用のプールに入る。岩場を模したプールは緑もふんだんに飾られていて、夜ともなればライトアップされてなおいっそうの幻想的な雰囲気を作り出していた。実際、前に来た時とあまりにも雰囲気が違っていて、しばし呆然と見渡したくらいだ。
 時期的なものか、時間によるのか、広いプールにはずいぶんと人が疎らだ。
 泳いでいても、他人とぶつかることもない。コースなどは、貸し切り状態だった。
 そのコースで隆典が勢いよく泳いでいく。
 ここまでの運転の疲れなど微塵も感じさせない。
 俊介はそんな隆典をぼんやりと眺めながら、ビート板に掴まってゆらゆらと水面を漂っていた。泳ぐのは嫌いではないが、あんなふうにコースで泳ぐ事は到底できない。平泳ぎでなんとか。それすらも、途中で足がつってしまいそうだった。
 だから、プールに来てもふわふわと浮いていることが多かった。
 もっとも、友人達も似たようなもので、皆、遊んでいるフリをしながら女体鑑賞に励んでいたのだけど。
 一人となるとすることもなくて、ましてこの時間はそんな女性もいない。
 隆典を見つめるしか他にすることもない。
「気持ち良い?」
 突き当たって帰ってきた隆典がロープをくぐって、いきなり俊介の近くに顔を出した。ずいぶん長い距離を潜水した割には、そんなに息も切らせていない。
 顔を流れる水滴を拭う姿も様になっていて、俊介はその様子を見つめながら口を開いた。
「よく泳ぐのか?」
 たまに──ということはないだろう。
 綺麗な泳ぎはしっかりと経験を積んだものだ。
「あ、俺? まあ……体力作りも兼ねてね。一時期スクールにも通ったし」
 濡れた髪が額に張り付いて、普段見る姿とはまた違う。髪から滴る水が逞しい肩に落ち、腕へと流れた。
 見れば見るほど隆典の体は逞しい。特に腕や肩には綺麗な形の筋肉が見て取れた。それだけの筋肉があるから、俊介を持ち上げることが可能なのだろう。
 うごめく筋肉の様子をぼんやりと眺めていると、不意に隆典が困ったように口元を歪めた。
 意味深な視線が俊介に向けられて、その意味を考える間もなくはたっと気付く。
 慌てて視線を逸らしてみたが、羞恥に熱くなった体はプールの中だというのに簡単には治まりそうになかった。
 ザバンと水に顔をつけ、バタバタと泳ぎ始める。
 少しだけ離れて顔を上げたけれど、顔が熱いのは消えていない。
 横目で隆典を窺えば、じっとこちらを見つめているのが判った。
 途端にざわりと腰の近くに奇妙な疼きが走った。
 よく判らない感触が、じわじわと内部へと浸食していく。
「鍛えたのは、力がいるから、か?」
 思わず口走ったのは、熱くて息が詰まるような空気を変えたかったからだ。
「ん、まあ……そうだね。それに、昔から体を動かすのは好きだったし。備前焼はねえ、動く時は幾らでも動くけど、どんな作品をするかって考える時は、ほんと動かないんだよ。そのうちに煮詰まってきた時に、体を動かすと頭まですっきりするし。ストレス解消ってのもあるかな」
「ストレス? あんたでもストレスなんかあるのか?」
 唯我独尊の権化みたいな男だと思ったけれど。
 そういえば、前にあった時そんな風な事を言っていたような気がする。
 はるか年配の会長達の相手。
 先生と呼ばれる時のための建前。
 それはサラリーマンとしての俊介達とはまた異質なストレスだ。
 ただ、作品ができなかった時のストレスは、なんとなく判る。客先の依頼によって金型を起こす時、どうやっても要望通りに行かない時のストレスは、蓄積すればするほど酷いプレッシャーになって、体も心も蝕んでいく。
 確かにそんなストレスを解消するには、水泳は向いているだろう。
 泳がなくても、なんとなく穏やかな気分にはなれた。
 だが。
 知らず再び泳ぎ始めた隆典へと視線が移る。
 隆典の体は綺麗だ。くどすぎない適度な筋肉。手足の長さはバランス良く、体毛も男としては平均的な量だろう。肌の色も健康的で、備前焼作家というよりスポーツ選手を思わせた。
 そんな隆典の前に出れば、俊介など貧弱そのものの体でしかない。
 運動も最近した記憶が全くなく、当然肌を陽光に晒すこともない。日焼けの心配などしなくて良い環境下での生活は、あまり健康的だとは思えない。
 負担を感じない軽やかなクロールで一往復した隆典が、足をついて俊介を見やる。
 その口元がくすりと笑った途端に、また見つめていたのに気がついた。
 俺ってば……。
 隆典のことを言っていられない。
 綺麗なモノを見つめたいという思いが判ってしまった。
 綺麗だから、つい隆典を見つめてしまう。
 隆典は俊介のことが綺麗だと言うけれど、俊介に言わせれば隆典の方がよっぽど綺麗だった。
「上木さんは泳がないのか?」
 故意に逸らしていた視界の中に隆典がすうっと泳ぎ寄る。
 近寄られて、ドキッと心臓が跳ねた。だが、隆典はそれ以上は寄ってこなかった。
 胸の奥が小さく軋む。
 それが何か判らないままに、苦笑を浮かべて返した。
「俺は……いっつもこんな感じ。適当に泳いで、遊んで。後はプールサイドで休んでる」
「じゃあ、あっちのリラクゼーションプールの方に行かないか。上木さんにはそっちの方が向いているかも」
 隆典が指さしたのは、遊泳プールに併設されている水温が32度と高いプールだった。その名の通り、泳ぐよりはリラックスして体を休ませるためのプールだ。
 同意して隣のプールまで僅かな距離を歩く。背後に付き従うように隆典がついてくるのが気配で判った。
 ちらりと窺えば、隆典はライトアップされた風景を眺めていた。
 途端に胸にもやもやとしたものが込み上げて、下唇を強く噛む。
 前回に比べて隆典はあまり俊介を見ない。
 こんな綺麗なプールでまじまじと俊介の姿を見つめて、その体が思ったより綺麗でないことが判ったのかも知れない。
 ここに来るまでは、いつか綺麗でないと呆れてくれると思っていた。呆れたらつきまとわれることもないだろうと、思っていたのだ。
 だが、見てくれないことが悔しい。
 なんて事だ……。
 隆典は芸術家だ。その隆典に「綺麗だ」と言われる事は、気付かないうちに優越感をくすぐっていた。そう言われるたびに、気付いていない内に嬉しく思っていたのだということを。
 そのことに気付いてしまって俊介はぎゅっと唇を引き結んだ。

9

 気付かなければ良かった事実が、俊介を苛む。
 寝湯にジャグジー、サウナと移動する間、隆典は俊介をからかい、時にじっと見つめてきた。
 あんなにも嫌だと思って、拒絶した行為。なのに、今はそれが物足りないのだ。
 もっと見つめて欲しいと、とんでもない欲求が胸の内に込み上げて、俊介は自分のそんな思いを打ち消すように固くした拳を唇に押しつけた。
 前歯に食い込む痛みが、その意識を逸らしてくれそうで。
 けれど、そんな思いを隆典に気付かれるわけにもいかず、外面は必死で平常心を取り繕った。
 シャワーを浴びて服に着替える。
 更衣室の中で全裸になった途端、思わず周りを見渡した。けれど、狭い部屋にいるのは俊介一人だ。壁越しに隆典が着替えている音はしているが、覗きに来る気配はなかった。
 どうかしてる……。
 ストーカーどころか覗きを隆典に期待してしまっていた。
 自分がこんな変態だったなんて。
 違う、と何度も思ったけれど、見られたいという欲求は消えるものではなかった。その欲望は、他人に覗かれれば十中八九「変態」と罵られるものだ。
 だからこそ、たとえ隆典に対しても気付かれるわけにはいかなくて、俊介は必死になって生まれてしまった欲望を押さえ込んだ。
 更衣室を出る前に大きく深呼吸して、平常心を取り戻す。
 相手は隆典。
 放っといても見つめてくれる。だったら、今まで通りに振る舞えば良い。
 今までと変わらず、困惑と謙遜と嫌悪を込めて。
「触れるな」と言い続ければ良い。
 そうすればいつか隆典は飽きるだろうし、俊介自身のこの不可解な感情も消えていくだろう。
 保身という壁を作るのはいつものことだった。
 だが俊介は気付いていなかったが、今回に限ってその壁は未だかつてないほどに厚くなっていた。
 しかも硬すぎて──脆い。
「お待たせ」
 先に出ていた隆典に声をかけて、車へと向かう。
 これで今日は帰るだけだ。
 いつかまた隆典にこんなふうに連れ出されることがあっても、その時までにはこの欲望を何とかしよう。
 自分は綺麗じゃない。
 隆典に比べれば、ちっとも。
 自己暗示にも似た思いを繰り返して口の中で唱え続けて。
 俊介は、今日という日が早く終わることを望んでいた。


 なのに。

 隣接するホテルのリゾート仕様の一室で、俊介は呆然とベッドに座り込んでいた。
 南欧でもイメージしているのか、外の季節とはそぐわない雰囲気。けれど、この中にいればそこそこの味は出している。だが。
「あんなに泳ぐからだ……」
 隣のベッドではぐったりと四肢を投げ出した隆典がいた。
「ん……ごめんな。俺もまさかこんなに疲れるとは」
 前回とは逆に、車に乗り込む寸前に倒れたのは隆典の方だった。
 眠い、と呟き、何度も目を擦り始め──。少し休ませてくれという訴えは、すぐに泊まりたいという要望へと変わった。
「どうせ、予約入れてたんじゃないのか?」
 突っ込んだ言葉に返答はない。
 ただ、「うう……寝かせて」と唸るように返された。
 返答が無くても、想像はつく。
 もっとも隆典の疲労はとても演技には見えないもので、その目蓋はほとんど閉じていた。
「俺は……寝てたもんな」
 考えてみれば、俊介へのストーカー行為のために隆典だって睡眠時間は似たようなものだ。時々、俊介よりは早く帰っていたようだが、近い時間までは居残っていたに違いない。それから帰宅して。ヘタすれば、俊介より睡眠時間は少なかったはずだ。
「ばかだねえ……あんたって」
 呆れはしたが、それだけ疲れても俊介を見ようとする行為に気付くと妙にくすぐったく感じる。
 少なくともまだ飽きてはいない。
 まだ見続けてくれる。
 つい数時間前とは全く逆の感情が、今は俊介の全てだ。
 いつしかすうすうと寝息を立てている隆典をじっと見つめる。
 着替える間もなく突っ伏したせいで、隆典はカジュアルなチェックのシャツにアイボリーの綿パンと言った出で立ちのままだ。
 このままだと明日着られないほどにシワだらけになる。
 ふと思い立って、俊介はベッドから立ち上がった。
 ホテルに備え付けの浴衣を引っ張り出し、隆典の横に揃える。
「隆典さん?」
 数度呼びかけても返事はなく、諦めてため息を吐いた。
 弛緩して重い体をひっくり返し、襟元に手をかける。
 着替えさせようと思ったのだ。
「隆典さん、起きないのか? 着替えようよ?」
 声をかけても熟睡した隆典は全く反応がない。
 俊介の手がゆっくりとボタンを外してもだ。
 シャツの下には下着など着けていなくて、外れるたびに立派な胸板が露わになっていく。みぞおちから下は、僅かにくぼんでいて、脂肪の存在を感じさせなかった。
 目立たないまでも筋肉の存在を感じる。
 腹筋に力を込めれば、きっと割れた筋肉が存在を露わにするだろう。
 立派で──綺麗で……。
 男としては羨ましい程の体格に、俊介は見惚れた。
 重い体に苦労して腕から袖を抜く。触れた肌は、自分の物とは違う。この逞しい腕が、俊介を持ち上げたのだ。自分では決して真似ができないような抱き方でだ。
「ん……んん……」
 微かなうめき声に、はっと我に返る。
 自分がどんな目で隆典を見つめていたのか気がついて、顔が一気に紅潮した。呆然と口元を手のひらで覆って、身動ぐ隆典を窺う。
 だが、隆典はそんな俊介に気付くことなく、また深い眠りに入っていった。
「お、俺……着替えさせてるだけなんだから……」
 行為の理由を言い聞かせるように呟いて、こくこくと頷く。
 見ているから、おかしくなるんだ。
 そう思って、後はただ脱がせて着せることだけに専念した。
 だが、そうは思っても見ないわけにはいかない。
 トランクスだけにした途端にはっきりと目に入る足。日に焼けていない肌は白く、その部分の肌は滑らかで、触れた途端に心臓が跳ねる。
「違……違うんだ……。俺は、変態じゃねえ……」
 ドキドキと高鳴る心臓は、全く別物だとばかりに唇を噛みしめて、そこから意識を逸らす。
 見ているからだ、とばかりに慌ただしく、最後には乱暴な所作で浴衣を着せ掛けた。
 すぐにばさっと布団を上からかけて、体を隠す。
「は……あぁぁ……」
 終わった途端に、その場にへなへなと座り込んだ。
 全身を襲う疲労感は、今までの比ではない。なのに、その股間ははっきりと昂ぶっていた。
「違う……俺は変態じゃない」
 男の体に欲情した訳じゃない。
 だったら、何に?
 すぐに理性が鋭いつっこみをして、矛盾を指摘した。
 だからと言ってそれを肯定することもできない。
 体はひどく疲労しているのに、目はすっかり冴えてしまって、眠ってしまうこともできない。
『襲いたくなるから』
 隆典が言っていた事を思い出して、その意味が同じだったら良いのに、とさえ思う。
 だが、隆典は言葉のあやだと言っていた。
 もう二度と触れないと。
 そんな我慢ができるくらいなら、隆典にとって俊介はその程度でしかないのだ。我慢することは堪らなく辛いというのに、あんな我慢なんかしそうにない男が手を出さなかったのだから。
 だから、きっと本当に冗談だったのだろう。
 あの筋肉に触れたいと、今にも動いてしまいそうな手を必死で抑える俊介とは思いの程度が違うに違いない。
 きっと──その差は大きい。
 それに、隆典は綺麗な物に対する執着心は強いが、飽きてしまえば見向きもしなくなる、と和宏が言っていた。
 飽きて……欲しくない。
「どうして……どうして、こんな思いになるんだ? 俺は男で……。男でも好きなのは八木だけだったのに」
 可愛くもない、強引で乱暴で訳の判らない奴なのに。
 けど……。
「妙なところが優しいんだよな。触らないと言ったら、徹底して触ろうとはしないし、俺のためにサプリまで持ってきてくれて」
 意識が180度転換してしまうと、隆典の行為全てを好意的に解釈してしまう。
 そんな自分に呆れて、けれど、この思いもしょうがないかと思ってしまった。
 それだけ隆典は今まで俊介が出会っていた誰よりも異質な存在だった。興味を引かれるのは当然で、あまりにも強引だから反発していただけ。
 眠れない時間を費やして、俊介は自分の思いを分析した。
 隣にいる隆典は、一向に目覚める気配がない。
 もし、今目覚めてじっと自分を見つめる俊介に気がついたら、何と言うだろうか?
 起きて欲しいという願いと、起きられると恥ずかしいという思いが、交錯して、俊介を苛む。
 そんなことすらも信じられなくて、あまりにも乙女心満載な自分に呆れ果てて。
 繰り返される自問自答に、いつしか俊介も疲れ果ててしまって、気付かないうちに寝入っていた。

10

 何かが俊介の肌の上を辿っていく。
 額から始まって頬、顎、そして喉へ。くすぐったさに身悶えるとすぐに離れていったけれど、今度は鎖骨の辺りを触られた。
 ゆっくりと骨格を辿るように、優しく。
「ん……」
 くすぐったくて、その手を掴もうとする。
 けれど、指先からするりと逃れていき、代わりのように熱い感触が頬に触れて、すぐに離れていって。
「な……に?」
 一体何の感触だろうと、呆けた頭で考える。
 うまく動かない目蓋をこじ開け、手の甲で目を擦った。その手を掴まれて。
「目に悪いよ」
 優しく響く声音に、まだ焦点の合わない瞳を動かす。
「あ……?」
「おはよう」
 至近距離にあるのは端正な顔。
 微笑みを浮かべてじっと覗き込んでいる。
「え……あっ」
 相手が誰かを認識してがばっと跳ね起きた。
 けれどあまりに近い距離にあった隆典の胸に、顔がぶち当たる。勢いよすぎて跳ね返って、また倒れそうになったところを力強い腕で背を支えられた。
 まるで胸に縋り付いているような体勢だと、気付いた途端に、全身の血が沸騰する。
「大丈夫?」
 耳をくすぐる甘い声。
 あれだけずっと聞いていたのに、今になってこんなにも官能をくすぐる心地よいバリトンだったなんて気がついていなかった。
「だ、いじょうぶだから、離せ」
 わたわたとその体を押し退ければ、含み笑いと共に手が緩められる。
「そんなに照れなくても」
「誰がっ!」
「真っ赤」
 端的な指摘に、さらに顔が熱くなる。
 声と体温、そして心音に反応した体は、容易な事では冷めやしない。俯いて、ぎゅっと唇を引き結んで込み上げる衝動を堪える。だが、よりによって朝の生理現象もあって、俊介の股間は痛いくらいに張り詰めていた。
 簡単に暴発するほど若くはない。
 だが、至近距離にその性的対象となった相手がいるのだ。
 これは辛い。
 しかし、隆典は驚かせたせいだと思ったのか、ごめんごめんと謝っている。
「今の触れたのは不可抗力だからね。つい手が出ただけだから」
「……判ってる」
 そんなこと、判っている。
 一人こんな反応を起こしている自分がバカみたいだ。
「ほんとに?」
「本当にっ! それより、もう疲れは取れたのかよ?」
 平気な顔をしている隆典に、他に何が言えよう。
 もう疲労の色などどこにも窺えない男を、内心の動揺を押し隠して睨んだ。
「ああ、もう平気。そういえば着替えさせてくれたんだよな。でも、自分は着替えなかったんだ」
「は……あっ」
 指さされて、自分の体に目をやって、俊介はげっと喉を鳴らした。
 シワが目立たない生地ではあったが、それでも一晩パジャマ代わりになってしまえばよれよれになっている。
 隆典を着替えさせるだけで頭がいっぱいで、自分のことなど忘れていたのだ。
「しまった……」
 ぱしぱしと手で伸ばしてみるが、くっきりとついたシワは消えやしない。
「そろそろホテル内のショップが開くと思うよ。Tシャツは売っていたはずだから、買ってくる」
「あ、いや、俺が買ってくるから」
 そういえば、今までの飲み食いに遊びの金は全て隆典から出ている、と思い出して、首を振る。
 その動作に隆典はあっさりと拒絶した。
「いいよ、俺が買うから」
 にっこりと微笑む顔を上目遣いに見つめて、それでも、と俯いた。
「いや……」
「良いから良いから。俺が買いたいんだよ。上木さんは明るい色が似合いそうだ。サイズはLでOKだよね」
「あ……」
「じゃあ、待っててな」
 口を挟む暇もない。
 嬉々とし部屋から出て行く隆典は本当に楽しそうで、俊介はそれ以上何も言えなかった。
 それに、パタンと扉が閉じた途端に、押さえ込んでいた欲求を解放したくて堪らなくなったのだ。
 さすがにベッドでするのは躊躇われた。
 浴室に飛び込み、シワだらけのシャツを脱ぎ捨て、下着ごとズボンを下ろした。
 臨戦態勢のそれが、勢いよく跳ねる。
 会話の最中に少しだけ萎えたようだが、それでも触れれば一気に元気になった。
「ん……く」
 声が漏れるのが嫌で、シャワーを勢いよく流す。
 冷たかった水が肌を刺激したが、体内にこもった熱を冷やすまでには至らなかった。
 少しずつ温かくなる水が湯気を立て始め、肌に滲んでいた汗を洗い流す。だが、熱の篭もった体は、後から後から汗を噴きだした。
 呆気なく滑り始めた逸物を両手で包み、感じる場所を指先で刺激する。
 昨夜我慢した筈の行為だ。だが、今はもう我慢などできなかった。
 自覚したばかりの思いは、一晩経って治まるどころかよりいっそうはっきりとした欲求を伴って俊介を翻弄した。
 隆典が見せる優しさも、それを助長する。
「なんで……」
 頭から被ったシャワーの湯が、顔を滴る。
 額から頬へと流れる途中で、別の滴が加わっていた。
「ちくしょ……なんで、俺が好きになるのは男ばっかり……」
 決して容易ではない相手。
 しかも今度は性格的にどうかと思うような相手。
「あっ……くっ……」
 けれど、どんなに悔いても一度自覚してしまった思いは消せない。
 ふっと脳裏に昨夜の隆典の半裸の姿が浮かんだ。
 途端に、どくんっと全身が震えた。
 吐き出す精が、湯に紛れて流れ落ちていく。
「あっ……はあっ……」
 今まで感じたことのない程の快感が全身を痺れさせる。
 一度吐き出しただけでは満足せず、ぐいぐいと扱いて残りの精を絞り出した。
 たらりと垂れるその刺激も俊介の体を震わせ、もっとと続きを欲する。
「……隆典……さっ」
 気がつけば、もう後戻りできないところまで心は囚われていた。

 

「あれ、シャワー浴びた?」
 ホテルの名が入った大きめの紙袋を抱えて戻ってきた隆典が、ベッドに座っていた俊介を見た途端に、驚いたように声を上げた。
「ああ……」
 俯いたまま答える。
「服……、せめて浴衣でも羽織れば良いのに」
 くすりと笑われて、堪らず視線を逸らした。
 顔が熱い。
 隆典の視線が俊介をじっと見つめているのが判った。
「なんか……汗の臭いがしてて。せっかくシャワー浴びたのにっと思ったから……」
 それは真実。
 だが、浴衣を着なかった理由にはならない。そんな矛盾に自分でも気付いていたけれど、言い訳が頭に浮かんでこなかった。
 俊介は、腰に巻いたバスタオル一枚の姿だった。
 髪もおざなりに拭いただけで、落ちた滴が幾つか顔を伝っている。
「ああ、風邪ひくよ」
 隆典が別のタオルを持ってきて頭に被せる。
「じゃあ、ちょうど良かったな。ほら、着てみて」
 ガサガサと包装紙が破られ、赤色のTシャツに、ダークグレーのバミューダーパンツ、それにトランクスが目の前に差し出された。
 受け取る時にふと隆典に視線を合わせた。
 見られている。
 気付いた途端にざわざわと腰が落ち着かなくなってきた。
 前と同じ熱く突き刺さるように肌の上を辿っている。
「ほら、早く」
 動かない俊介に、隆典が焦れたように促していた。
「肌を見せてくれるのは嬉しいけどさ、風邪ひくよ」
「肌……?」
「言ったろ、上木さんの肌は綺麗だから、いつでも拝みたいけどね。病気なんてなったら、その綺麗なのも荒れちゃうだろ?」
「綺麗じゃなかったら、あんたは、俺を追いかけなかったよな」
 自分では綺麗だと思わない肌。
 だが、今は隆典と自分を繋ぐ唯一の物。
「あんた、綺麗な物が好きだもんな」
 Tシャツを掴んで、乱暴に頭に被せる。まだ濡れていた髪の水滴をTシャツの布地が吸い取った。
 しっとりと湿ったシャツに構わず、腕を通す。
「好きだよ。ほんというと、服なんか着ないで、ずっと裸で居てくれると嬉しいな。ほら、特にお尻の皮膚なんてものすごく滑らかで、綺麗な色で。成人であれだけ綺麗だなんて、そうそう居ないと思うよ。なあ、も一回見せてくれないかなあ」
「尻っ……」
 乞われた場所に絶句する。
 確かに、乞われでもしなければ見せない場所だ。けれど、上半身は見せても、さすがに「尻」を、さあどうぞ、と見せられるものではない。
 けど。
 頭の中はもう真っ白で、考えることなどできない。
「見たい……のか?」
 おずおずと問いかければ、くすくすと笑っていた隆典の笑顔がそのまま硬直した。
「……見せて、くれるのか?」
 半信半疑の声音に、自分が言った言葉を自覚してかあっと頬が紅潮する。
「見たいと言ったら、見せてくれるのか?」
 低い声音に、隆典の真剣さが伝わる。
 瞳がぎらぎらと欲望に溢れているようで、その瞳から目が離せない。
 もはや冗談では済まされないような、そんな状況に、俊介はきつく下唇を噛みしめた。
 手が、腰に巻かれたバスタオルに触れる。同時に体を捻って、ベッドへと突っ伏した。
「上木さん……」
 上擦って掠れた声が、背に降りかかる。
 はらりとはだけたバスタオルは体の横だ。貰った服で着ていたのは真っ赤なTシャツだけ。そこから伸びた下半身は下着一枚身につけていない。
 空気に晒された肌が、気化熱で冷やされて、思わず身震いした。

続く