【地獄への穴 (1)】

【地獄への穴 (1)】

 白いタキシードを着込んだ純一に、純白のウエディングドレスに身を包んだ新婦 優花が寄り添っている。
 美しい妻はそれでいて清楚で、新しい伴侶を得た純一をとても幸せにしてくれる人だ。
 家族だけの結婚式を教会で上げ、その足で役所に婚姻届を出して。
 日本有数の財閥の娘にしては質素なそれは、優花の仕事の忙しさと派手なことを好まない性格が故で、純一も了承したことだった。
 純一にしてみても、棚からぼた餅のような、自分でも思っても見なかった幸運に恵まれて手に入れた花嫁ではあるけれど、自身はいたって庶民なのだと自覚している。本来なら行われていたはずの政財界上げての披露宴など、ぜひとも遠慮したいところなので、優花の懇願に頷かない訳がなかった。
『いずれ、ね』
 くすりと微笑んだ優花に、肩を竦めて返す。
 そう、いずれはしなければならないお披露目。
 高藤家の長女 優花の婿という立場からすれば、逃れ得ぬことだったけれど。
 そのうちに、自分にも自覚が出てくるだろう。義兄となった社長でもある高藤啓治の秘書としての勉強の日々が始まれば。
 自分を婿として認めてくれた舅、義兄達のためにも少しでも早く高藤家の役に立てるよう頑張ろう。
 高藤家の屋敷の広間で家族だけの祝いの席に着いた純一は、固い決意の元に乾杯のグラスに口を付けた。
 

 内輪の宴といえど、高藤家の結婚の宴だ。
 出てくる料理もお抱えのシェフが作り上げた最高級の料理ばかりで、メインディッシュの舌がとろけるような食感の肉に目を瞠る。
 それでも見栄を張って感動を胸の内に秘めていると、実父である真木孝典(まき たかのり)がワインの瓶を抱えて近づいてきた。
 父は、高藤財閥会長の高藤啓一郎の秘書をしている。
 リストラの後に、ようやく入れた会社が高藤家の企業で、視察に来た啓一郎に声をかけられて引き抜かれたのだと聞いていた。その縁で、純一も高藤の会社に入ることができたのだ。
 唯一の働き手であった父親がリストラに遭った時にはどうなることかと思ったけれど、自分たちは本当に幸運なのだと思う。
「……おめでとう……純一」
 普段から物静かな父親は、今日はさらに寡黙だ。
 揺らぐ視線が手元の瓶に落ちて、それを捧げ持つ。
「か、いちょ……が……」
 聞き取れないほどに小さな声で、差し出してくる。
 僅かに震える指先に、慌てて差し出したグラスと瓶が小さく音をたてた。
 泣いているのだろうか?
 顔を伏せ気味にしている父の表情は判らない。
 今回の結婚も半分は父親の紹介でもあったけれど、なぜか乗り気では無かったようだ。
 身分の差──とか何とか。はっきりと言わなかったけれど、きっとそんな事だろう。
 純一自身、心配の種はある。けれど、優花が、ぜひ純一と言ってくれたのだから。
 優しくて気だての良い優花を、純一も気に入ったのだから。
 それに自分が高藤家に入れば、ここのところ働きづめの父親も少しは楽にすることができるかも知れない。
「父さん、ありがとう」
 グラスに注がれたワインを口に含む。
 ふくよかな、喉の奥まで満つる香りにうっとりと酔いしれる。
 優花とつきあうようになってから、いろいろな味を知った。高級品と呼ばれるだけの味があるのを知った。
 空になったグラスを通して、弟の亮太の姿が見えた。
 隣には、高藤の三男の春樹も見える。
 何かを言われて、真っ赤になっている亮太も、これからここに一緒に暮らすことになっていた。
 初めて顔を合わせた時から亮太をたいそう気に入った春樹がそう進言してくれて、認められたのだ。
「純一さん、これから大変だろうけれど、頑張ってね」
 隣の優花の言葉に、にこりと微笑み、頷く。
 その拍子に、少し酔いが回ってきたのか、ふわりと身体が軽くなったように感じた。
 はああ、と吐き出す息が熱い。
「疲れたみたいね。今日はいろいろあったものね」
「あ……」
 労るように手の甲に触れてきた指に、ぞくりと肌が粟立った。
 何で……。
 確かに、結婚が決まってからもほとんど触れることの無かった相手だ。
 優花自身が貞淑を重んじるところがあって、純一もそれを良しとする考えだった。そのせいで、せいぜい触れるだけのキスを数回しただけなのだ。
 それなのに、まるで今宵の楽しみを期待しているかのように、身体が反応している。
「どうかしたの?」
「あ、いや……何でも。うん……ちょっと酔ったのかも」
 口当たりが良いせいで、少し飲み過ぎたのかも知れない。
 慌てて、傍らにあった水を口に含むと、氷に冷やされたグラスが、ひどく心地よい。
「そうみたいね」
 優花の手が離れていく。
 ちょうど高藤家の長兄である隆正の妻と子供達が、先に退出する挨拶にきたのだ。
 彼女もあまり社交的でなく、ほとんど家に閉じこもっていると聞いたことがある。
 疲れたのか、伏せた瞳の焦点が合っていないようで、高校生だという息子達に手を引かれて下がっていった。
「義姉さま、少し心が疲れていらして。でもとても良い方なのよ」
「うん、優しそうな人だね」
 子供達も、ふらつく母親を心配そうに助けていた。
 きっと母親想いの子供達なのだろう。
 ほんわかとした気分になって、思わず笑みがこぼれる。
 もし子供が生まれたなら、あんな優しい子に育って欲しい。
 まだ遠い未来だというのに、まるですぐそこまで来ているような錯覚を覚える。
「あら……ほんとうに酔ってしまったみたいね」
 優花の声が、少し離れていったようだ。
 ふわふわとした雲の中にいるようで、どこか心許ない。
「ゆ……うか?」
 どこかに捕まりたくて、手を伸ばす。
 ガシャンと何かが倒れる音がして、僅かに理性が戻ってきたけれど。倒れた何かに延ばした手は、暖かい大きな物に包まれた。
「さあ、これからが本番だよ」
 それが、聞き慣れた啓治の声音だと気づいた時には、また視界が狭くなる。
 意識が吸い込まれるように奈落に落ちていく。
「それじゃあ、私は先に寝るわね。明日早いのよ」
 かろうじて聞こえた優花の言葉。
 ああ、僕も……早い……。
 明日から高藤家について学ぶのだと聞かされていた。
「孝典、支度をなさい」
 威厳のある声音が、父の名を呼ぶ。
「か……しこまり……した……ご主人様」
 衣擦れの音が微かに聞こえる。
 ああ、起きなければ。
 何かが始まろうとしている。
 手伝わないと……。
「亮太、おいで」
「はい」
 弟の声が聞こえて、なんとか重い瞼をあけると亮太と目が合った。
 春樹の膝の上に寝かされた亮太が、純一を見ている。
「……な、に?」
 縋り付くような、けれど、次の瞬間視線を外されて、それ以上の意味を読み取ることはできなかった。

NEXT