【嶺江の教育 3年目 全ての始まり(1)】

【嶺江の教育 3年目 全ての始まり(1)】

 ラカンにおいて、そして亡国リジンにおいても、16歳という誕生日は特別な物だ。
 その日をもって子は成人したと見なされて、全ての権利が与えられると共に、全ての義務も課せられる。それは、親や国の庇護下を離れ、自らが国のために働く必要があるということだ。
 それは、王族においても同じ事。
 レイエもまた、16歳の誕生日の朝、彼に課せられた義務を教えられた。



 何も知らなかったとは言わない。
 ──レイエが王となり、リジンをまとめ、妃を娶り、純血の子を成す。
 そんな契約が、リジンの元第一王子である海音とラカンの王カルキスとの間で交わされていた事は知っていた。けれど、それ以外何も知らされておらず、ただ、全てが王になるための教育だと教えられながら、それが恥辱の何物ではないと知ってしまった日々を強いられていた。
 何一つ知らされることなく続いた日々。なのに、16歳の誕生日にいつもと同じようにレイエが目覚めると、彼を取り巻く世界は一瞬にして変わっていたのだ。
 いつもなら、ガジェに朝の挨拶に向かうのに、目覚めたレイエの元にガジェが自らやってきたのだ。
「おはようございます」
 それどころか、丁寧な挨拶に腰の低い態度。
 いったい何が起きたのか、と、驚いて硬直しているレイエに構わず、ガジェは背後に控えていた召使い達に指示して、レイエを着替えさせた。
 その服もまた、レイエを驚かせるモノで。
 金糸銀糸で飾られた白無垢の布を、ゆるく体に巻き付けて帯で括る。鏡に映るその衣の材質も形状も、そして帯の文様も。
 レイエはそれらを知っていた。
「これ……」
「レイエ様、じっとしてくださいませ。急いでおります」
 慌てて背後のガジェを問いただそうとするけれど、言葉尻は穏やかでも冷たい視線が問いの言葉を続かせない。
 結局、言われるがままに袖を通したレイエは、これまた有無を言わせぬ圧力に晒されて簡易な朝食を無言のままに食べ終える。
 パン一切れ、ミルク一杯に果物の食事に文句など無い。それよりも問いかけたいことが山ほどあるのに、ガジェは教えてくれそうになかった。
 続いて顔も歯も磨き上げられて、また鏡の前に立たされて。
「……」
 ゆったりとした袖に、流れる下衣。ふわりとした軽い布地で衣服全体をゆったりと覆い、全てを帯で締める。ただ、人を飾るためだけの動きづらい衣服。けれど、その一枚一枚の布地が体に着せかけられる度に、レイエの瞳がゆらりと揺らぐ。
 今にも零れそうな涙は、召使いが差し出した布で溢れる前に拭き取って。
 ぐっと唇を噛み締めて、鏡の中を自分を見つめる。
「……父様、兄様……」
 震える唇で、音もなく呟く言葉は、はるかな過去に、この姿をしていた人たちを思ってのことだ。
 まだ幼かったレイエは着たことがなかったが、この衣服は成人した王家の者が式典の際に着る正装だ。もう見ることなど叶わぬと思ったその懐かしい衣服。
 髪が結い上げられ、長い銀糸が金の髪飾りで結わえられる。その召使いの手が離れた途端、レイエは堪らずにガジェの元に歩み寄った。
 気が付けば、そんな姿のレイエを、ガジェがまっすぐに見つめている。
「ガジェ、様……、これは、いったい?」
 1メートルほど離れた距離。
 いつもなら、その程度の距離ですら恐れ多くて、その顔を見ることも、どんな躾がされるかと、怖くてできなかったはずなのに。
 今日は、知りたいことがたくさんあって、その欲求に、我を忘れていた。
「これは、リジンの正装です。いったい何故っ」
 今日は、この服を着て嬲られるのだろうか?
 王の教育と良いながら、ガジェに命令された様々な事が決して人として受け入れるべきことではないことを、レイエはもう知っている。けれど、それでも逆らうことができないのが、レイエとガジェの関係だった。だが、さすがに、懐かしい幸せだった日々の思い出であるこの服を着て、嬲られるのは我慢できなかった。
 もし、そのためだ──と言われたら、自分はどうするだろう?
 そんな事をちらりと思い、小さく頭を振る。どうするも何も、たとえどんなことがあっても、この服は汚せなかった。
 きっと睨み付けるようにしてまだ少し高いガジェを見つめる。
「ガジェ様、この服は……」
「レイエ様、臣下に対し、様をつける必要はありません」
 なおも問いただそうとしたレイエに、ガジェはいつものようにきつい物言いでレイエを叱った。けれど、その内容に、ポカンと口を開ける。
「レイエ様は王となるお方。私は、レイエ様の臣下となります」
「え……」
 いったい、何がどうなったのか?
 物言いは替わらない。レイエが王になるのだと、そのために凛々しい態度が必要だという意味合いの事は、いつも言われていたけれど、だが、ガジェを呼び捨てなど、一度も許されたことなどなかったというのに。
「ガジェ……?」
 あやうく言いかけた「様」という言葉を飲み込んで、恐る恐る彼の顔を見つめる。
 けれど、そこにいるのはいつもと変わらぬガジェで。
 それだけ見れば、さっきの言葉は夢でしかないと思うのに。
「さあ、お急ぎを。戴冠式の時間が迫っております。手順はご存じですね」
「……戴冠式?」
 さらに夢のような言葉が飛び交って、理解できないままに、手を引っ張られる。
「私について、祭壇の前まで。そこで別れますが、祭司の前で跪き、王冠を受け取ります。言葉は必要有りません」
「は、い……」
 何度も聞いた戴冠式の式次第が頭に浮かぶ。
 けれど、戴冠式とはいったい何だろう?
 理解できないせいで、単語ばかりが頭の中に飛び交って、整理ができないのだ。けれど、ガジェに連れて行かれた先で馬車に乗り、馬車の中で手順を復唱させられて。
 外は、締め切られた窓のせいで見ることはできなかったけれど、やたらに興奮している様子は伝わってきた。
 小さな館からしばらく馬車を走らせたところにある、湖の畔にある更地に建てられたという館に横付けされた馬車から降りたレイエは、それを見上げて再び呆然自失に陥る。
 ほとんど城に近い形状のそれは、どこか懐かしい城に似ていて。
 というより、今目の前にある景色は。
「これは……リジンの城?」
 そんなはずはないと知っている。
 炎を上げて崩れ落ちた城の姿は、今でも夢に見るほど、記憶に焼き付いている。それに、館、と呼ばれたくらいに、あの城よりは一回りも二回りも小さい。
 けれど、見慣れた湖。こちら側の草木は背が低く、大地もやたら黒ずんでいて、どこかまばらな印象がぬぐえないけれど、霞むほどに遠い対岸は緑が濃く茂る草原と山々が見える。それは、すぐ上の兄が大好きだった風景だ。
「リジン……だ……」
 ずっとリジンには住んでいたが、リジンの匂いのするものなど何一つ無く、記憶すらも薄れてきた日々。
 懐かしい記憶が、次々に溢れ出す。
 ひくりと唇が震える。
 瞳に堪った涙が、今にも溢れそうになる。
「レイエ様」
 差し出された布が目元に触れ、その滴を拭い取った。それを持つ手から視線を辿れば、その先にはガジェの姿があって。
「レイエ様、お急ぎください」
 そのまま背に回された手のひらが、レイエを押す。
 いつもと違う優しい態度に、けれど、上げた視線が捕らえたその表情の冷たさに、息を飲む。
 判らない。
 いったいガジェが何を考えているのか。
 今までもよく判らなかったけれど、今日は特に判らない。
 本当に、自分はいったいどうなるのだろう?
 少なくとも今までとは違う何かが訪れようとしているのだと言うことは判るけれど。それが何か判るための材料を、レイエは何も持っていない。
 ただ、導かれるままに、レイエはその式典が開かれるという場所に進むしかなかった。



 純白の礼服に華美な装飾は無いが、流れるようなシルエットのそれが良く映え、レイエを美しく飾っていた。
 緊張のあまりに紅潮した白い肌と、明るい陽の光の下で煌めく空色の輝き。流れる銀の髪は数多の色を映し、虹よりも美しくその輪郭を彩っているのを、ガジェは誇らしげに見つめる。その視線がレイエの傍らに佇む女性にも向けられた。
 楚々とした純白のドレスに身を包んだレイエと同じ16歳のリジンの娘。レイエも知っていた顔なのだろう。初めて顔を合わせた時に、互いに驚いたように顔を見あわせていた。
 彼女は、旧リジンでも高貴な家柄の娘で、純血であることが証明されている。
 この二人は、戴冠式に続いて結婚式まで行ったが、まだほとんど会話らしい会話をしていなかった。
 それは、ガジェと、彼女の後見人である男の目論見通りであったけれど、実際、悠長に話をさせるほど暇ではなかったという方が正しい。
 結婚式を終えた二人が、謁見のために新王宮の露台に姿を現した時、外周で賑やかにさざめいていた群衆が、一斉に息を飲んだ。
 煌めく輝きを纏う神の子。
 誰もが、それを否定できないほどに美しい二人。
 驚愕のあまり静まりかえった後に、一気に湧き起こった歓声に圧倒されたかのように、レイエがかろうじて応える。
 その姿に、ガジェの頬に自己満足の笑みが押さえきれずに浮かんだ。
 あれをあそこまで育てたという自負があった。そしてカルキス王と望む通りに躾けられたことも。
 面倒な子供の相手など、本来ガジェが請け負うことではなかったけれど。それでも、カルキスの強い要望でそれは否応なくガジェの仕事になってしまった。
 あの時は、面倒なことを──と思ったけれど、今にして思えば、自分はずいぶんと愉しんだと思っている。
 誕生日が数日遅ければ他の子供達と同じく孤児院に入れられて、ラカンの教育を受けて健全な成長を遂げていただろう子供。
 けれど、王族は全て性奴隷にするつもりのカルキスは、その日程すら考慮に入れて侵略を決行した。
 王子達、誰一人も逃がすことなく、殺すことなく。一番年の若い王子でも許されることなく。
 そのために、レイエはいくつかの条件付きでガジェに渡された。
  一つ、16歳の誕生日に戴冠式と結婚式をさせること。
  一つ、その相手は、リジンの貴族の娘であること。
  一つ、絶対的な支配下において全てを監視し、支配しておくこと。
  一つ、ラカンに逆らう恐ろしさを植え付けること。
  一つ、性欲に溺れさせ、けれど高貴さを失わせないこと。
 少なくとも16歳までにこなさなければならない条件は全てクリアできている。
 露台で控えめに手を振る二人の背後に立ち、慣れぬ様子の姿にガジェは口角を上げた。
 条件は、まだいくつかあるけれど。
 それは、これから先のことだ。だが、先の五つを無事果たしたことで、ガジェは自分を戒めていた枷を外すことにした。それは、カルキスに許された、レイエの飼い主としての当然の褒美だ。
「ガジェ殿」
 傍らの王妃の後見人の大臣が、堪えきれない笑みを浮かべながら、囁いてきた。
「お披露目まで二時間あります。その間に、我らの式典を行いますので、ご用意を」
 たくさんの来賓を相手に新たな王と王妃を紹介する宴会は、夜通し行われる。彼らが戴冠式、結婚式のための礼装を着替え、改めて夜会服を着て集まるための準備を見越した時間の間に、レイエ達にはすべきことがあった。
「今日はたいそう忙しい日ですが、大事な式典と思えば、それも苦になりませんね」
「ははっ、まったく」
 二人して、顔をあわせて笑い合う。
 明るいひざしは、神の祝福がある印。
 吉兆溢れる日に結ばれた二人は、いつまでも幸せであるという。
 それを祝う民衆の言葉を聞きながら、レイエと王妃は、ゆっくりと館の中に消えていく。
 残された民衆は、振る舞われた料理や酒に、館の外で一晩中騒ぎまくるだろう。館の中の大広間では、今は宴会の準備の真っ最中だ。その準備ができるあがるまで二時間。
 もう一つの式典の準備が、館の奥深くで行われていた。



「素晴らしい挨拶でした、レイエ様」
 控えの間に戻ってきたリオージュが、珍しく誉め言葉でレイエをねぎらってきた。礼服に身を包んだリオージュは、その華やかな容姿と相まってレイエとは違う美がある。
「間際まで特訓した甲斐がありました」
 滅多に誉めないリオージュなのだが、今日はひどく機嫌がよい。王位に就いたことより、彼に褒められたことがたいそう嬉しくて、レイエは小さく笑みを浮かべた。
 リオージュはレイエを憎んでいる。そう思わせるほどに、彼の教育は苛烈で体罰も多かったのだ。繰り返し教えられた儀式や礼儀の作法は、失敗すれば必ず叩かれた。尻たぶを剥き出しにされて赤く腫れ上がるほど何度も何度も叩かれて、そのお尻を晒しながら作法の勉強を続けたこともある。
 左右の手順を間違えたときには、乳首を糸で括られた。
 右の時には右を引っ張られ、左の時は左を引っ張られた乳首は、終わった時には真っ赤に充血して腫れ上がり、その夜は、腫れた乳首が一晩中布で刺激されて、ゆっくりと眠れないほどに疼いたのだ。
 それこそ、本番で間違えでもしたら、いったい何をされたか想像もできない。
「ところで、ガジェ様がお呼びです。そろそろ向かわれた方が良いかと」
「え……」
 しばらくは休憩だと聞いていたと思っていたレイエは、その言葉に瞬いた。
「まだ、何かあるのです……あるのか?」
 王位に就いたら敬語は不要──と言われても急には変わらないけれど、ミスをすればまた体罰か、と、慌てて言い直してリオージュを窺ったが、今回は不問にしてくれるのか何も言わない。ただ。
「お部屋にご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
 有無を言わせぬ様子で導かれて従うしか無い。
「わ、かった」
 今朝までここ一ヶ月ほど会うことの無かったガジェは、今日の戴冠式を持って左大臣の地位に就き、政務を担当することになる。だが、左大臣と言えば、王に次ぐ地位とは言え家来ではあった。
 だが、ガジェはラカンの王家の人間だ。属国であるリジンが逆らえる相手ではなく、そのガジェが呼んでいると言えばレイエは向かうしかなかった。

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