11
体が酷く怠い。
柔らかな布団の上にいるというのに、触れる何もかもが鬱陶しい。
寝返りをする気にもなれないのに、動きたくて体がうずうずして、落ち着かない。怠いのに、動くしかない状態に、ミシュナは深いため息を吐いた。
途端に喉を熱の塊が通る。
ああ、そうか……。
どこかぼんやりとした頭だったが、置かれている状況がようやく理解できた。
この怠さは、熱のせいだ。
のろのろと動かした手のひらで、額に触れる。
じっとりと湿って不快さだけが伝わってくる。手のひらも額も似たような温度で、ただ疲れただけだった。
そういえば、と、小さな頃のことを思い出す。
子供の頃もしょっちゅう熱を出して、義母を心配させた。姉のリシュナはいつだって丈夫で、風邪すら滅多に引かない。
双子なのにね、と笑われても、こればっかりはどうしようもなかった。
それに男と女の双子は、片方が弱いと医者も言っていたし、この場合はミシュナの方が弱くてもしようがないのだろう。昔から、リシュナはとにかく強かった。
こうやって、布団に寝かされて、額に冷たい布が置かれて。
気持ちよさだけはいつまでも忘れない。
何より、あの頃は誰かが傍らにいてくれた。
義母かリシュナか、それとも店に出ていないお姉さん達。
だから、不安なんてなかった。
けれど、今はたった一人だ。
見慣れぬ天井は煤けていて、気分も暗くさせる。
風よけの布越しに通る光はもう無い。すきま風でたなびいた拍子に見えた外に、もう夜が来ているのが判った。布が揺れるたびに、ロウソクの炎も揺れる。
少し風が強いのか、窓が乾いた音を立てた。
そんな雰囲気がたまらなくミシュナを沈ませる。
ふわりと大きくたなびいた布の蠢めく影が、ミシュナを覆う。
途端に脳裏に甦ったのは、はるかな過去、もしくは夢の一コマだ。
「あっ……」
零れたのは小さな悲鳴だ。
風が収まって静かになった部屋で、それでもミシュナは何かに怯えて震えた。
過去の出来事は何度となく夢になってミシュナを襲う。
その記憶は、大人になった今も消えやしない。薄れたと思った途端に夢を見て、より深くミシュナの心を傷つける。
誰かが目の前にいたことだけははっきりしている。
覆い被さってミシュナの視界を遮った存在。
その背後から迫る炎は伝わる熱で判っていた。
熱くて喘ぐミシュナの頬に、何かが流れ落ちて──。
「ひっ」
記憶はいつもそこで途切れ、けれどいつまでたっても恐怖だけは消えない。
今も、迂闊に思い出した記憶が、恐怖心を煽り、全身を震えさせる。
「う……」
嗚咽が漏れた。
忘れたい、記憶。
熱かった、あの時も。
なのに、今は寒い。
「リシュナ……」
あの時、全てを無くした。何もできなかった。
壊れなかったのは、リシュナが呼んでくれたから。
リシュナがいてくれたから。
女の子なのに、誰よりも先に笑顔を取り戻し、新しい親を見つけてくれたのもリシュナだった。
強かった。
けれど、自分だって強くなりたかった。
だから騎士になりたくて、そして、今度はリシュナ達を護るんだと思ったのに。
押し込めた不安が心の中に充ち満ちて、溢れたそれが嗚咽となって漏れ出す。
知らない部屋が、怖い。
どうしてこうなってしまったのか、全て判っているけれど。
過去と結びついてしまった感情がミシュナを煽る。ひくりと一度震えた体はもう止まらなかった。流れ出した涙が頬を濡らす。
何もできなかったことが悔しくて、哀しい。
「男なのに……」
陵辱された体が鈍く痛んで、忘れたいその事実を知らしめた。
ミシュナは今、薬草園にある来客用の宿の一室に運ばれていた。
昨夜と朝方、二度の行為は、時間を置いただけでは治らないほどの傷だった。
二度目は、ひどく優しかったのは間違いない。
だが、やはり薬を使われたのだ。
そのせいか、記憶は曖昧で、自分が何をしたのかもよくは覚えていない。
なのに、忘れたい事柄をテルゼはずいぶんと楽しそうに教えてくれた。
耳を塞ぎたいほどの痴態。
自ら欲して、求めたと聞いた途端に、全身で聞きたくないと拒絶した。
なのに、結局最後までテルゼは話し続けたのだ。
しかも、起きあがれなくなった体を、テルゼは自ら抱いて馬に乗せ、薬草園まで連れてきた。
その時の羞恥心は、本当に火を噴くのではないかと思ったほどだ。
薬を取りに行く任務など、テルゼがすれば良かったのに。
放っておいてくれれば、
薬なんて聞いてみればただの胃薬。街の薬問屋でも買える代物だった。
まして、バレてしまった以上、ミシュナがするべき任務ではない。
だが、テルゼは嬉々として連れてきて、自分の力で立つこともできないままに、医師や看護師の手当を受けて、寝かされたのだ。
その間、ミシュナが自分のものだという態度を隠しはせずにだ。
傷の原因もいけしゃあしゃあと説明し、ミシュナの拒絶など意に介していない。
結果、人々の好奇の視線が痛く、何を問われても答えることなどできなかった。
それは、体の痛みよりもはるかに痛く、その時の羞恥心は二度と味わいたくない。
できれば、動けるようになったらすぐにでもここを出て行きたい。
だが、体の怠さは時を経るごとに強くなっていく。
熱も上がってきているのだろう。
薬が切れたんだ……。
テルゼの身分が効いたのか、惜しげもなく施された最高級の薬は、確かに効果は高かった。
だが、どんな薬でも時間が経てば効かなくなる。
窓の外の暗さから、すでに半日が過ぎているのは明白だった。
眠っている間に喉も渇いていた。新鮮な水も欲しかった。
部屋を出れば、誰かがいる。声をかければ、水くらい持ってきてくれる。
けれど。
あの視線はもうイヤだ。自尊心はすでにぼろぼろになっていた。
「んあっ!」
零れる涙を拭おうと身動いだ途端に、鈍い痛みに襲われる。途端に零れた悲鳴は今までより強く室内に響いた。
「どうした?」
すぐに扉が開いて、聞き知った声音が響く。
びくりと竦んで、近づく気配が判っても顔が上げられなかった。
「痛むのか?」
髪に指が触れる。
そのままゆっくりと乱れた髪を梳かれた。
触れる優しさが伝わってくる。
そんな事信じたくないのに判ってしまって、体を硬くした。
どんなに優しい時があっても、陵辱者であることは間違いない。
今は労られても身を任せることなどできない。
だけど。
何故か涙が溢れそうになって、ぐっと目を強く瞑った。
反応しないミシュナに、それでもテルゼはしばらく髪を梳き続ける。が、しばらくして背後で衣擦れの音がして、椅子に座った気配がした。
「……そろそろ薬を飲まないとな。だが、その前に何か腹に入れた方が良い。食べたいものがあるか?」
その声があまりにも優しかったから、ミシュナは誘われるように、「ない」とだけ答えた。
言ってから、しまった、と口を噤む。
こんな簡単に口を利くつもりなど無かったのに。
宥める手に、心が揺れている。
離れて欲しい。
ミシュナは、頑なさを取り戻そうとでもするように、ますます全身を小さくして力を込めた。
「そうか……。だが、強い薬なので胃を荒らすと聞いている。下で、何か消化の良い物を貰ってくるから、一口だけでも食べなさい。それと、水……がいるな」
なのに、あの傍若無人ぶりが嘘のように、テルゼはてきぱきと世話を焼く。
閉じていた目を開けて、ちらりと横目で窺えば、テルゼが立ち上がろうとしていた。
いつの間にか、騎士の上衣だけを纏っていて、目を見張る。
「それ……」
思わず口を衝いて出た。
「ん? ああ、服か? ここに預けていたのだ。ノードを見張るには騎士の服では目立ちすぎる。もっとももう隠す必要もない」
立ち上がる動作と共に、服の裾を払う。
第2騎士団の証である黄色の絹布が肩を飾っていた。
似合う。
さっきまで着ていた服より、テルゼを際だたせている。
これほど騎士服が似合う輩もそう多くはない。
ミシュナなどは服に着られているタイプなのだ。だから、ひどく羨ましい。
黙って見つめていると、くすぐったそうに笑う。
そんな姿すらも、見惚れていた。が、続いたテルゼの言葉に息を飲む。
「お前の服も帰ったらすぐに用意しよう。肩章は私の予備があるが……どちらにせよ必要なものだからな」
忘れていた事実。
そういえばそんな事を言われたと、目を見開いてテルゼを見返した。
「……ほんとだったのか?」
「22になることか? それなら本当だ」
「でも、22は親衛隊で……」
王室の側について、時には他国にすら出向く。
貴族階級が多い中で、一般民の、しかも『外苑』出身のミシュナが務まるはずもない。
「まあ、いきなりお側付きになる訳ではない。もっと剣の腕を磨くことも必要だし、知らなければいけないことは、59の比ではない。どうしてもダメなら、落ちることだってある。それがイヤなら、頑張ることだ」
その口元が微笑んでいる。
きっとテルゼはミシュナを落とすことなど考えていない。
何か悪巧みをしてでも、絶対に縛り付けるだろう。
ぞくりと悪寒が走って、顔を顰めた。
それは想像ではあったが、事実であると、勘が教えたのだ。
「今度欠員ができたのは、ロッシーニ殿下のお側付きだ」
「ロッシーニ……殿下?」
そういえば、リシュナとの会話に出てきた名だ。
今度店に来ると言っていた殿下。一番若い直系の王族。
「実力からすればノードが優れているが、あいつは任務に対して不真面目なところがあった。だから、今回簡単な任務でもきちんとこなすか秘密裏に確認しようとしたのだが……。ロッシーニ殿下は気さくで、よく執務をさぼって出かけられるような方だが、部下が不真面目なのは嫌う。その点でノードは失格。まだ、お前の方が良い」
その言葉には小さく首を横に振った。
「無理だ……」
ノードの一戦でも一方的に負けた。
遊ばれて、呆気なく終わりだった。
「無理かどうか、やってみなくては判るまい? それともやってみたくはないのか? 騎士ならばたいていの者が憧れる親衛隊の地位だぞ?」
「……でも、無理だ」
何もかも。
きっと何もかも自分には無理だ。
悦びすら見いだせない今の状態。
だからこそ、テルゼの言葉を受け入れることなどできなかった。
?
12
「無理だ」
繰り返し呟いて、布団に顔を沈める。
普通の時ならどんなに嬉しい申し出か判っている。
あの頃は何も知らなかったから、きっとそんな事を言われた日には仲間内で連日祝いの宴会を開いて騒いでいるだろう。
けれど、今回のはテルゼがミシュナを離さない、ただそれだけ。
騎士として評価されたわけではない。
ノードをダメだと言い切るテルゼなら、ミシュナの技量が遠く及ばないことくらい判るだろう。
まして、あんなにも簡単に組み伏せられて、思うように操られてた自分。
ここにも任務どころか、抱きかかえられ怪我人として運び込まれたのだから。
「まあ、帰ったら判るだろう。私がお前を22に入れるわけが」
判りたくもない。
「イヤだ……」
ノードクラスの人間がぞろぞろいて、テルゼに付きまとわれる生活など、惨めだろうとしか想像できない。
「何故?」
不思議そうに言われて、情けなく顔を顰めた。
罪悪感の欠片すらないこの男に、何を言っても意味がないと判ってしまう。
それでも、なんとか言葉を継いだ。
「もうあんたにされるのも嫌だし……。それにたいした剣技も持ってないし。それに、俺、『外苑』の出身だから……」
「一つめは、仕事中までにはしないが?」
それは、それ以外ではするということじゃないのか?
それが嫌だと言っているのに、テルゼは問題ないと思っているようだ。
何も言えずに口を噤む。
「それに、22とてピンからキリまでいる。一度騎士になれば、出身など問題にはならない。『外苑』とて、壁の外にあるというだけで、城下町の人間には変わりない。そんなに自分を卑下するものではない」
澱みの無い言葉は本気でそう思っているからだろうが、貴族の大半はそうは思っていない。
「確かに教育はかなり必要だが、それより、まずは薬だ。体が癒えなくては、城下にも戻れん。さっき早馬が来て、明日夕刻までには『外苑』に戻らなければならなくなった。だから、治せ」
どう足掻いてもテルゼは考えを改めそうになかった。
そのことにため息をつきかけて、はたと気付く。
「え、今……なんて?」
帰りたいと願ってはいたけれど?
「早馬が来て、明日帰る」
「明日……って、俺も?」
「当たり前だ」
至極当然と言い返されて、血の気が音を立てて引いた。
薬を服用してやっと抑えている痛みと熱。
これが明日までに治るとは思えない。
しかも、『外苑』までは馬なのだ。
上下運動は腰に負担をかけるだろう。
響くであろう傷とそこから生まれる痛みを想像して、ミシュナはひどく顔を顰めた。
「ここの薬はよく効く。一度目はともかく、二度目は新たな傷を作った訳でないし。治る」
帰らない選択肢は無いとばかりに言い切って、テルゼの手がコップを差し出す。
呆然としたままに受け取って、深い緑のどろりとした薬を飲み込んだ。
付けられた甘味では隠しきれない苦みが、口内を刺激して、顔を顰めた。
その刺激が思考停止した頭を再度働かせた。
「ほんとに明日?」
「殿下の命令だ」
「殿下って……ロッシーニ殿下?」
「他に誰がいる?」
逆らえない名に、ミシュナは言葉を失った。
気が遠くなり、体から力が抜ける。そのまま、パタンと力なく布団に倒れ伏して、テルゼを見上げた。
「俺……ほんと、殿下とかそういうの、会いたくない……」
「何故?」
「なんとなく……」
結局は庶民なのだ、と幾ら言っても聞いて貰えそうにないから、黙るしかなかった。
言葉無く首を横に振って、目も瞑る。
たぶんテルゼには何を言っても無駄だ。
「疲れたか……。明日は長くなりそうだ。早く寝ろ」
優しい声音と共に触れた手の感触に、小さく息を吐いた。
嫌なことばかりする相手だというのに、今はその手が心地よい。
「どうして……?」
なんでそんなに優しいのだろう?
掠れた言葉にしかならない問いはそれでもテルゼの耳まで届いたようで、「ん?」と返される。
近くなった顔に、掬い取られた髪が寄せられる。
ぼんやりと口付けるその仕草を見つめて、口が勝手に問うていた。
「なんで、俺なんか……」
「そう卑下するものではないと言ったろ」
吐息が頬を擽って、顔を顰める。
近くで見るとテルゼの瞳は思ったより明るい色をしていた。
夏の木陰。空を見上げた時の木漏れ日のような、暗い中にある明るさ。
今はその瞳が労りを浮かべていた。
「けど」
「襲いたくなるほどに惚れてしまったって考えてはくれないのか?」
「信じられない……だって、あんたミリが好きなんだろう?」
「ミリはもう手に入らないからな」
そんなふうに言われて、胸の中の澱みが急速に大きくなった。
その言葉に、瞳に、テルゼのミリへの思いが判る。未だ恋い焦がれているのだと伝わってくる。
そんなふうに思われて、ミリが羨ましい。
テルゼにとって、ミシュナはミシュナでしかない。ミリではないのだ。
テルゼの理想がミリならば、ミシュナが敵うはずはなかった。
喉の奥につかえた言葉は、後一歩で出てこようとしていた。それでも何とか飲み込んだ。
いやいやと首を横に振って、手を振り払う。
「も……寝る」
「ああ、おやすみ」
頬に落とされた口付けに心が躍り、気付かれたくなくてますます強く布団に顔を押しつけた。
テルゼが判らない。
そうされて嬉しくなる自分の心ももっと判らない。
だから今は、考えることを全て放棄して、寝ることしかできなかった。
気が付いたら、眠っていた。
眩しさに目を開ければ、明るい日差しが窓から降り注いでいる。
鳥の鳴き声の明るさに、ミシュナは目を瞬かせながら上体を起こした。
「起きたか?」
ずいぶんと近い声に、びくりと硬直する。
「早くに出ないと間に合わない。調子はどうだ?」
朝日を浴びて、銀の髪が煌めいている。
眩しさに数度瞬きしてそれから問われた意味を考えた。
「……痛みはあまりないような……」
急に動いて走った痛みもそれほど酷くはない。
「でも、急ぐって?」
「殿下のお供につかなきゃならん。朝飯はどうだ?」
差し出されたスープに、ごくりと喉が鳴った。
「大丈夫そうだな」
笑われて、羞恥に顔を赤くする。
薬が効いたのか熱も怠さもなさそうで、昨日の不快さはほとんどない。あるとすれば、強張った筋肉とどうしても消えていない違和感だけ。
食欲も大丈夫そうで、お椀一杯のスープなど瞬く間に食べ尽くした。
「それだけ元気なら大丈夫だな」
「もう大丈夫です」
胃に入った食べ物が体に活力を与える。
明るい朝日も気分を良くするのを手伝った。
「まあ、無理はしないことだな」
「馬で街まで帰ることが一番無理なことだと思うけどな」
テルゼの労りがくすぐったくて、ついそんなふうに返してしまった。
だが、テルゼは怒るでもなく、ミシュナにパンを放ってよこし、笑みを向ける。
「私が抱いて連れて帰ってやろう」
「遠慮します」
それだけは嫌だときっぱりと言えば、また笑われた。
結局、薬草園を出てしばらくはミシュナは自分の馬に乗っていた。
だが。
数刻も経たないうちに、腰が怠く、痛みが酷くなっていく。
薬が切れる時間にはまだ早い。
青ざめた顔で歯を食い縛って堪えているミシュナに、テルゼがため息を吐いた。
「だから私の馬に一緒に乗ろうと言ったろう」
「遠慮しますっ」
「だが、痛いんだろう?」
言われると余計に痛みが増す。
聞こえないふりをして馬を進めようとしたけれど。
「ったく」
ため息とともに、手綱を掴まれたのが同時だった。
素早い所作に驚く間もなく、腕を引っ張られる。
「うわっ」
「移れ」
「ちょ、ちょっと待ってっ!!」
不安定な馬上で引っ張られ、必死になって鞍にしがみついた。
「お、落ちるっ!」
「なら、さっさと降りろ」
引っ張ったのはテルゼの方だというのに、言い切る姿に反省の色は窺えない。
「判ったから……」
他に何を言えばいいのだろう?
ミシュナは諦めて、自ら馬を降り立った。
引っ張り上げられ、テルゼの前に座らされる。
そこにひかれたのはテルゼの外套。
柔らかな生地のそれが巧みにミシュナを震動から庇ってくれるのを、すでに経験していた。
「凭れていろ」
「いいよ」
「いいから」
押し問答をしているうちにも、馬は街を目指す。
外苑まで辿り着いた時には、絶対に自分の馬に乗ろう。
背から伝わるテルゼの温もりに、何故か顔が熱くなりそうなのを必死で堪えながら、ミシュナは固く誓っていた。
土埃に顔を払えば、肌がひどくざらついていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですっ」
「私の馬に乗っていれば良いのに」
「……結構です」
知り合いもいる『外苑』で人の馬に乗せて貰っているなど、そんな恥ずかしい姿は晒したくない。
そう思って、一刻ほど前に自分の馬に乗り直した。
だが、痛みはすぐに酷くなった。
そのうちに冷や汗が吹き出してくる。
「もう少しだ」
言われるがままに頷いて、ただはぐれないようにと馬を歩かせた。
外苑の路地を巧みに抜け、先を進むテルゼの手綱さばきには迷いがない。
こんな外苑の道を良く知っていることに、ずいぶんと意外に思った。
もっともミリに惚れたという位だから、もしかすると外苑の娼館の常連だったのかも知れない。
ちらりとテルゼを見やれば、彼の姿がここでは特に浮いていることに気がついた。
騎士服はもちろんのこと、凛とした姿も銀糸のような髪も、そして馬の装具も、どこかが違う。値が張っているのだと思わせるのに十分だった。
街の性格上、商売人が多いからそういうところは皆目が利く。店前を通るたびに、テルゼは声を掛けられていた。
その声を時に無視し、時に笑顔で返すテルゼは、ずいぶんと慣れている。
そのうちに、ミシュナもよく知っている通りに出てきた。
「……まさか?」
目を瞑っていても判る地区に思わず呟く。
大通りから一区画中に入った、この辺りでは一番大きな歓楽街だ。
その中で、高さも豪華さも一番なのが、『ホァン』の楼閣。
「どこに……行く?」
目の前に現れた楼閣の最上階を見つめながら問う。
「ああ、言っていなかったか? 『ホァン』という娼館だが?」
……嘘だろ?
「……聞いていない……」
「ロッシーニ殿下が、今日行かれているはずなのだ。娼館と言っても今夜は、宴と舞などの趣向を凝らしてもらうだけだ。それに合流してくれと言われてな。何せ、今いろいろと忙しくて警護の人間が足りないし、こういう遊びに迂闊な者は連れて来られぬしな」
ひくりと口の端が引きつった。
殿下のお相手……。そんな事をリシュナが言っていた事を改めて思い出す。
そして。
「……俺も?」
「お前の顔合わせもしよう。こういうところなら、殿下のお人柄もよく判るだろうし。お前だって何事も経験だろう? どうせ、行ったこと無いだろうし」
「……」
行ったこと無いどころか……。
その中で育ち、時には客が食べる高級料理の味見をして、お姉さん達の喘ぎ声が子守歌でした──。
なんて言う前に、嫌な予感がして背筋に悪寒が走った。
もし、今ここで『ホァン』に顔出ししたら、義母とリシュナは何をする?
ずっと一緒に育ってきたから、二人の性格はとってもよく知っている。
いつだってミシュナのことを大事にはしてくれるが、同時に商売の事も大事にしていることを。
彼女たちの判断には間違いはない。
『外苑』の中ならミシュナの方が素早く動ける。
逃げるなら今だと思った。
「ミシュナ?」
「帰ります。お先にっ」
手綱を引き、方向転換する。
頭の中には大通りまでの最短距離。
そして、テルゼを撒くための幾つかの路地。
その気になれば逃げることなど容易かった。
?
13
予定では、テルゼを撒いて一人きりで宿舎に帰る。
はずだった。
だが、踵を返した馬をそれ以上動かすことができなかった。
「間に合ったようだな」
驚くほど近い位置にいた立派な騎馬三騎。
ミシュナを通り過ぎ、はるか後方に向かっているその先が容易に想像できて、唇を強く噛みしめる。
彼らの所属騎士団を表す肩章が、黄色の絹布だと最初の段階で見て取っていた。
このまま素知らぬ顔で通りすぎるには、相手が悪すぎる。
知らないならともかく、知っているのだ。
三人の内、誰かがロッシーニ殿下であることを。
「殿下」
背後からテルゼの馬が近づく音がした。
逃げることもできないままに、傍らに並ぶ。
「ご一緒できて光栄です」
ちらりと横目で窺って、テルゼの視線の先を探る。
もっともそんな事をしなくても殿下が誰かはすぐに判った。
ただ一人肩章を付けていない小柄な黒髪の騎士。
小柄で線も細く、女性のような優しい雰囲気があったが、何気なく向けられたであろう視線は意外なほどに鋭かった。
しかも、一度は通り過ぎたその視線が、戻ってきてミシュナの上でぴたりと止まる。
ごくりと息を飲んで、慌てて俯いた。
格の違いが怖れを呼び覚ます。
「テルゼが良く聞かせてくれていたからな。どうしても一緒に行きたくて無理を言った。任務の方は良かったのか?」
「はい」
その三騎と並んでもテルゼは遜色がなかった。
『外苑』には馴染まない四人に、ミシュナは逃げることも忘れた。もっとも、逃げるべき道は、今や三騎によって塞がれている。
上流階級の物腰の柔らかさはあるのに、誰かが必ず鋭い視線で辺りを窺っている。
後ろめたい輩は、敏感に近づきたくない相手だと気付くだろう。
ミシュナも、今すぐにでも逃げたかった。
だが、すでに視線に捕らえられている。
「ああ、殿下。返した早馬の手紙は、読んで頂けましたでしょうか?」
「ふむ、あれな。もちろん読んだが」
「本気か? テルゼ?」
思案気なロッシーニ殿下の傍らにいた壮年の男が、テルゼに近づいた。視線はすでにミシュナに向けられている。
その視線は鋭く射抜かれているれような恐怖があった。
「もちろん。──彼です」
視線が鋭い。
しかも多分に好奇の色も含んでいる。
その鋭さ、そしていたたまれなさに、体が逃げを打とうとしていた。なのに、視線で縛られて、人馬ともに動くことができなかった。
たとえロッシーニ殿下の口元が綻んでいたとしてもだ。
「そなた、名は?」
「……ミシュナ……」
「年は?」
「じ……19……で」
カラカラに乾いた喉がひりついて、言葉がうまく出ない。
くすりと笑われて、頭に血が上った。耳まで熱い。
その様子に、殿下の笑みが深くなる。
「可愛いでしょう?」
テルゼのそれはどう解釈しても、惚気にしか聞こえない。
激しい羞恥が体の熱を上げ、ミシュナは卒倒しそうになっていた。
その様子に気付いてロッシーニ殿下がくすりと笑んだ。
「本音をあけすけと晒すのも大概にしないと、可哀想だぞ。それにここではまともに話ができん。さっさと店に行こう」
本音?
沸騰した頭では理解しがたい言葉を反芻する。
だが、テルゼが指し示す方向につられるように視線を向けて、そんな思考はすぐに吹っ飛んだ。
「はい、もうすぐです」
そうだったっ!
一際高い楼閣の見慣れた景色。こんなところでのほほんとしている訳には行かない。
しかし、逃げようと馬の手綱を握ろうとして、はたと気付く。
いつの間にか、たるんでいた手綱をしっかりとテルゼに握られていたのだ。
さっきまでは、手元にあったはずのそれ。
ニヤリと笑う様子から見て、隙を見て奪い取ったのだろう。
テルゼの視線が、逃げられないぞ、と笑っている。
困惑にただ馬に揺られるしかないミシュナの周りを、新たに加わった三騎が囲った。
左について、楽しそうに話しかけてくるロッシーニ殿下を無視するわけにもいかない。ミシュナは曖昧に頷くだけだ。頭の中は、近づく楼閣での対応をどうするかで、一杯だった。
殿下相手となると出迎えは主人直々。
そんなことは判っていた。
まさか客として、義母であるシェルレアに出迎えられることになるとは夢にも思っていなかった。
目を見張るシェルレアと召使い達の前でミシュナは小さくなって立ちつくす。
視線で必死になって無視してくれと願うことしかできない。
「すまないな、一人増えたが」
「え……いえ、そんなことは構いません。料理の追加は可能でございますから」
シェルレアがこんなところで口籠もるのは珍しい。
だが、殿下は初めてなのか物珍しげに、きょろきょろしているだけだった。
そんな中、テルゼはシェルレアと親しく挨拶をし、そして。
「今宵は、ミリとリミの二人に会わせたいのだが、可能か?」
諦めたと言いながら、それでも諦めていないのだとその言葉が教える。
そんなテルゼの前で、シェルレアは小首を傾げた。
「……リミとミリでございますか?」
視線が一瞬、ミシュナと絡み、必死になって首を横に振った。
今はきっとシェルレアの頭の中で金勘定が働いている。
それでも、今は出るわけにはいなかった。
必死の訴えは、何とか伝わったのか、シェルレアが諦めたように小さく息を吐き出した。
「……リミはともかく、ミリの方はもう店には出ないことにしておりますので」
「実は、このテルゼにとても素敵な姉妹だと聞いていて、是非見たいと思ったのだ。ダメなのか?」
殿下の言葉にテルゼへの恨みが深くなる。
シェルレアとしては、大切な上客。希望にはできるだけ添いたいだろう。
何度もミシュナに視線を向けるシェルレアに、ミシュナは首を振ることしかできなかった。
「ミリが表に出られないのは病気がちだからでございます。もし、何か粗相がありましたら大変ですから……」
結局、いつもの言い訳をシェルレアがして、殿下も、そうか、と諦めた様子だった。
案内された部屋は、『ホァン』の中でももっとも格式がある高級さ漂わせる場所だ。ここは客を迎えることすら稀で、ミシュナも数えるほどしか足を運んだことはなかった。
ここを訪れることのできる客は、王族や貴族、金のある商人。
しかもシェルレアが気に入った客だけ。
滅多な輩には入って貰いたくないというこの部屋は、シェルレアにとっても大事な物であった。
その部屋に案内されたテルゼは、戸惑うことなく先に進み、ロッシーニ殿下を案内している。
それはつまり、何度も来て慣れているということなのだろう。
その姿は凛として、ミシュナに無体を繰り返した姿は窺えない。
男としても、騎士としても、羨ましいほどの男。
だが、ミシュナは堪らずに視線を伏せた。
ここにいると、ミリが出てきそうで。
自分はここにいるのに、実はミリは別人であって、テルゼを迎えるためにその扉から現れてきそうで。
そんな筈は無いのに、と苦笑して一人突っ込んでも、その笑みはすぐに消えた。
込み上げる不安が、ミシュナを縛り付ける。
結局扉を視界に入れることができなくなって、窓の外を眺めているロッシーニ殿下の方へと視線を向けた。傍らにはシェルレアがいて、辺りの景色を説明しているようだった。
この楼閣は『外苑』でも高く、部屋も高い位置にある。
『外苑』全てを眺望できるから、初めて来た客はたいてい感嘆の声を上げる。
殿下も違わず、その見晴らしをひとしきり褒めていた。
だが、その会話の流れが、昔の戦争の話になったと気付いた途端、ミシュナの体が強張った。
「こう見晴らしがよいと、戦場になった時は一番の標的になるのではないか?」
その強張りは僅かなものだったが、曇った表情はすぐにシェルレアにはバレた。
気遣わしげな視線に気付いて、必死になって笑顔を作る。それでも口の端が震えたから、強がりなのはバレただろう。
シェルレアは強くて、優しくて。
そんなシェルレアが大好きで、リシュナと共に今度は護りたいと思っていた。
騎士になったのもその思いがあったからだ。
だからこそ、彼女に心配などさせる訳にはいかなかったが、ほんの少しの笑みが、シェルレアの口元に浮かぶ。
その視線の優しさに気付けば、強張りは消えた。
シェルレアは凄い。いつだって欲しいものを的確に与えてくれる。
「よく保ったな」
「はい。先の戦争では何とか保ちこたえました。まるで守護するものでもいるように、大砲の弾が当たらなかったんですよ。そのためここには神がいるのではないかと言われまして、今では毎朝のお参りはかかせないんです」
「守護する神か。そうなのかも知れないな、これだけ目立つ建物が無事だったとは……」
殿下が頷いている。
「さあ、どうぞ。酒もすぐご用意できますので」
「ああ、皆座れ」
人数がいきなり増えたにもかかわらず、席はすでにしつらえられていた。
テルゼに促され、末席に座る。と、ミシュナの耳元にテルゼの口が寄せられた。
「大丈夫か?」
「え?」
何を心配されたのか一瞬判らなかった。素っ頓狂な声がつい出て、皆の注目を浴びてしまう。
「どうした?」
「あ……いえ……」
慌てて誤魔化そうとしたけれど。
「ちょっとやりすぎて、体調が悪いところを連れ帰ったものですから」
「は……」
最初、何を言われたのか判らなかった。
体調が悪いと言われたことは判った。だが、その後に、最初に言われた言葉がようやく理解できて。
「あっ、ちがっ──それはっ!」
反応した時には遅かった。
「……相変わらず、だな」
と、気の毒そうな視線を向けたのは殿下だった。
「気に入ったとはそういうことだったのか」
と、呆れたふうに言ったのは、壮年の騎士。
「……気の毒にね」
と、殿下と同じく、いやそれ以上に気の毒そうに言ったのは、壮年の、金髪の騎士だった。
「どういう意味か?」
テルゼの言葉に、「言葉通り」と三人の言葉が同調する。
ますます仏頂面をして見せたテルゼだったが。
「そういうことで、ちょっと別室を用意して休ませてやりたい。少し休めば大丈夫だろう」
その言葉の先にいたシェルレアは、半ば硬直していた。
けれど、言葉をかけられて、すぐに反応する。
「はい、かしこまりました。すぐ近くに控え室があります。そこでしたら、ごゆっくりできますよ」
手招きするシェルレアの口元は笑っていたけれど、目が笑っていない。
「あ、あの……」
「ほら、歩けないなら抱いていってやるが?」
「あ、歩けますっ」
言葉通りの事をされそうで、慌てて立ち上がった。
だけど。
「では、少しだけお待ちくださいませ」
にこやかなシェルレアが怖かった。
?
14
連れて行かれた先は、客が連れてくるお付きの者用の控え室だ。
もっとも今日は全員宴に出ているので、使用する者はいない。
だからこそ、シェルレアはここを選んだのだろうけど。
客の身分もそこそこなら、その使用人とて疎かにはできないから、控えの間といっても普通の客室よりは豪勢だ。
二部屋続きの奥の間には、泊まれるように寝具すら揃えてある。
先に入らされたミシュナは、とりあえずそこに行こうと思ったけれど。
それより早く、背後でドアが閉まると同時に険のある声音が聞こえてきた。
「ミシュナ、さっきのことほんと?」
それが何を言っているのか。
ごくりと息を飲んで、それから諦めるためにため息を吐いて、踵を返した。
この義母に、一体何を隠し事ができようか。
まして、あんなふうに話されて。
けれど何から話して良いものか、躊躇う内にシェルリアが口を開いた。
「テルゼ様は、レンドリア伯爵家の次男ですよ」
「え?」
ここに来たことがあると言っていたから、相応の身分だろうとは思っていたミシュナであったが、伯爵家という言葉に驚いた。
複数ある伯爵家はだいたいにおいて、王族の傍系を先祖に持つ。
その中でもレンドリア家は、かなり最近の傍系だ。それだけ、血も濃く、王室内の発言力もある。
確か、現当主は軍務執政の要にいるはずだ。
呆然としているミシュナに、シェルリアがため息を吐いていた。
「今は、第2騎士団副団長。それも親の七光りなどではなく、剣技・人望の上に選抜されているの。面倒見も良く、部下にも慕われているけれど、裏切り者は容赦しないという冷酷な一面も持っているらしいわ」
朗々と語られたシェルレアの知識は、ミシュナですら知らなかった部分だ。
知っているのは優しい一面がほんの少し。傍若無人なたくさんの面。
そして、乱暴で、容赦のなくて──逆らえなくなってしまう相手、だということ。
「テルゼ様の言葉に嘘が有るとは思えません。あの方は普段は本音で話さるので。楽しければ楽しい。良ければ良い。嫌いなら嫌い。それが策略に関する事でなければ、とても判りやすい方なの。それに──実際、あなたも調子が悪いのでしょう? 顔色も悪いし」
「……はい……」
たぶん、自分よりはるかにシェルレアはテルゼを良く知っている。
こういう仕事柄のせいか、『外苑』でも実力者に名を連ねている彼女の人を見る目は確かで、それはミシュナも否定はしない。そんな彼女に嘘を言ってもすぐに見破られるのがオチだ。
普段は優しいが、嘘を付いて怒る時には鬼と化す。
その記憶があるから、素直に頷く。
だいたい、薬草園でもあけすけにミシュナとの関係をバラしたテルゼのことだ。
何故、ここでも同じ事が起きると、気付かなかったのだろう?
奥歯が軋む音と、シェルレアのため息とが重なった。
「あなたが自分から男相手に体を拓くなんてことは考えられないわね」
その言葉には、青ざめた顔色が、一気に赤くなる。
「ですから、無理矢理なのね」
断定されて、思わず頷いた。
途端に漂った沈黙に、今更返す言葉もない。
俯いて、シェルレアの言葉を待っていると、さっきより幾分優しくなった言葉が響いた。
「でも、ここなら安全だからね」
そこにある労りに、張り詰めていた緊張が少しだけ解れる。
俯いていた視線を少しだけ上げ、微かに笑った。
相手が伯爵家なら、シェルレアもミシュナも分が悪い。
ただ、シェルレアの言葉がミシュナを安堵させたのだ。
いつだって優しい義母。
たとえこの先何があっても、彼女はミシュナの味方でいてくれるだろう。そう思うから、笑うことができる。
「それで、この後、どうするの? テルゼ様に付いていくの?」
現実を認識しようとするシェルレア。
そんな彼女に、一番の懸念事項を伝える。
「……テルゼ……様は……俺を22中隊に入れるって……。親衛隊に入れるって……」
「まあ……」
さすがにシェルレアにとっても驚くに値する事だった。
数度口を開閉し、それでも言葉が出ないようだ。
「……無理だって言ったけど、離したくないからって……」
「……そこまでご執心ってこと?」
ご執心。
テルゼを見ていると確かにそんな感じがあった。
気に入ったから離したくない。まるで子供のような独占欲。だが、地位がそれを可能にさせる。
実力を伴わないミシュナをそんな所にいて、この先どうなるかなんて考えているように思えない。
それもこれも、昔の思い人に執心しているせいだ。
嬉しいと思う反面、どうしても不快な念が心の中に澱み続けている。
自分はミリじゃない。
ミリはどこにもいないのに……。
「ミリを見て好きになって、その娘に俺が似ているからって……だから」
「あらまあ……」
たったそれだけで、シェルレアは理解したようで、再び絶句した。
長年一緒に暮らしてきて、こんなシェルレアを見るのも珍しい。
だから、思わず微笑んで、軽く言葉を継いだ。
「22中隊なんて俺が務められる筈、ないよな。そんなこと、すぐにバレるだろうし、そうしたら放り出されるよ。実力がなければ、さすがに22なんて無理だろ?」
放り出されれば、また元に戻れるだろう。
そう思って口にしたのだけど。
「ダメよっ!!」
案に違えて、シェルレアの言葉は激しい拒絶だった。
しかもその顔に浮かんでいるのは、鬼の形相──皆が怒らせまいと思うほどの怒りだ。
「義母さん?」
「私の大事な息子をそんなバカな理由で遊ばれて堪るもんですかっ! しかも、できなかったら捨てるですってっ!! 一生大事にしてくれない相手に渡せるものですかっ!」
「いや、捨てられるとかそうじゃなくて……」
「この『ホァン』の大事な看板娘を傷物にされて、この私が黙っていられると思ってっ!!」
我慢していた怒りが吹き出したかのように、次から次へと怒りの言葉が吹き出してくる。面と向かっているミシュナにとっては堪ったものではない。
「……だから、看板娘なんてさせるから……」
「だまらっしゃいっ!!」
つい、文句を言ってしまって、一喝される。
「いいこと、ミリっ。これから一世一代の賭をテルゼ様にして貰います。そしてテルゼ様が負けたら──いえ、絶対に負けて貰います。そうしたら、あなたにはもう二度と指一本触れさせないから」
怒髪天という言葉がそのまま当て嵌まるほど、今のシェルレアは爆発させている。こんな時の彼女に反論などしない方が良いということは、『ホァン』の誰もが知っていることだ。
無言のままコクコクと頷いて、上目遣いに呼び鈴に手を伸ばすシェルレアを窺う。
「リミを呼んでちょうだいっ。リミとミリを出させるから。『ホァン』の手の空いている化粧師達を呼んできて。ミリとリミが寸分の違いもないように仕上げるよう命令させなさいっ」
「……あの?」
「ああ、それとランダっ、ランダを呼んでちょうだいっ!」
その勢いに召使いの若い娘が怯えたように、走り去った。
リミは判る。だが、化粧師とは何をするつもりなのか、まして、ランダとは番頭頭のことだ。
『ホァン』の実務の大半を任せられているランダまで呼び寄せて何をするつもりというのか。
呆然としているミシュナは放置され、数分も経たないうちにやってきたランダに、シェルレアが指示を出す。
「娼館側から何人──そうね、最低10人。ミリと似通った娘を呼んできて。ミリとリミの遊戯をするわ」
「ミリとリミの?」
さすがに訝しげな視線がミシュナに向けられる。
彼はもうミシュナが表に出ないと宣言していることを知っているのだ。
「ええ、費用に糸目はつけないわ。今度の賭は負けられない。今のミリ達と寸分違わないように、どんな相手だろとだませる相手を作り出しなさい」
「……かしこまりました」
もとよりシェルレアの腹心の部下。
それだけの指示で了承の意を表す。
彼が了承すれば、シェルレアの思い通りに事が進むだろう。
「義母さん……まさか?」
恐る恐る尋ねてみれば、シェルレアはさっきまでの怒りなどどこ吹く風とばかりに、にっこりと微笑んでいた。
「ええ、楽しい賭にしましょうね」
だが、ミシュナの背筋に激しい悪寒が走っていた。
酒宴は、滞りなく進められていた。
主人の采配で、召使い達はその瞬間まで賭の事はバレないように言われているのだ。
戻ってこないミシュナの様子を窺う殿下達に、召使いは「眠っておられます」と言葉少なに伝えた。その態度に疑われる素振りは無い。
もっとも内心を迂闊に露わにするようでは、『ホァン』の召使いは務まらない。
その言葉をまともに受け取って、ロッシーニ殿下達は、テルゼを非難がましく見つめた。
「あんな子まで苛めて……テルゼも少しは自重しろ」
「ですが、可愛いんですよ。我慢なんかききません」
もっともテルゼの方も馬耳東風。平然と受け答えしていた。
「だが、何故男だ? 天下の伯爵家の次男坊。女性だって引く手あまただろうに」
「しかも……騎士を……」
「一目見て気に入りましたよ。ノードがあの子に指令書を押しつけてくれて、感謝している位です」
ついでにあの時雨が降ったことも。
あの夜の出来事を思い出すたびに、テルゼの顔のしまりが緩くなった。
その様子に、皆が呆れたようにため息を吐く。
「……真面目だということは判るが、元は59だろう。しかも出身は平民。いろいろと面倒だぞ。親衛隊は必然的に貴族の出が多くなっている。苛められるのは彼の方だ」
ロッシーニ殿下の言葉にさすがに顔を顰めたテルゼだったが、結局は首を横に振った。
「そんなことがあったら、私が苛めた奴を放り出します」
そう言い切ったテルゼの口元に冷たい笑みが一瞬浮かぶ。
「やれやれ、怖いことだ」
肩を竦めるのはテルゼ以外の全員。皆がテルゼの厳しさを知っている。
ちなみにノードはすでに第2騎士団から放逐することが決定していた。
テルゼも、そしてロッシーニ殿下も、任務を放り出す輩を部下に持ちたいとは思わないからだ。
「まあ、それはともかく。もう一つ問題がある。私は良いが、大臣達の間にはしきたりやら身分やら煩く言う者が多い、それに知識も足りないだろう?」
「しばらくはつきっきりで教育しますが……」
その点はさすがに不安そうに、テルゼが首を傾げた。が、すぐに別の援護が入った。
「知識の方は、私がやりましょう」
「ラーゼがしてくれるのか? それは助かる」
金髪の騎士 ラーゼは、第2騎士団の参謀長だ。
知識の点からすれば、傍らにいる団長シュートリアンより優れている。性格も穏やかで、人への教育も長けているから、問題なかった。
ただ、彼も気に入らない輩には冷淡この上無い。ただ、許容範囲がテルゼよりは広いというだけだ。
「私もあの子がどこまでできるか興味がありますし。もともと賢いし、機敏な所もありますしね」
「ほお、判るか?」
「私はあの子を小さい頃から知っているんですよ」
クスリと笑いながらの言葉に座の一同が息を飲んだ。
その場にいた召使いに至っては、蒼白ものだったろう。
ぎくりと硬直した彼女を見やりながら、ラーゼは穏やかな笑みをテルゼに浮かべた。
「詳しいことはここから帰った後に。もっとも、一緒に帰れたら、ですけどね」
「……どういうことだ?」
訝しげなテルゼにラーゼはただ微笑む。
その様子にシュートリアンとテルゼは顔を見合わせて肩を竦めた。こうなるとラーゼは自分の心中を決して漏らさない事をよく知っているからだ。
「なるほど。どうやら何かがあると見ているんだな、ラーゼは」
ロッシーニ殿下がしたり顔で頷き、控えていたはずの『ホァン』の召使いが出て行く様を笑って見送る。
「テルゼ、もしかするとたいした相手を手に入れようとしているのかも知れんな」
「殿下……」
それまで意気揚々としていたテルゼの顔に、困惑が色濃く浮かび上がった。
?
15
控えの間は誰も入れないようにしっかりと鍵をして、シェルレアはミシュナを別の部屋へと連れていった。
そこは馴染みのある場所で、すでに控えていたリシュナが気遣わしげにミシュナを見やる。それに笑いかけると同時に、賑やかな一個団体が入ってきた。
たくさんの娘達。そして化粧師。
他にも衣装と数々の小道具が召使いの手によって運ばれてきた。
ランダの指揮で運び込まれるそれらで、部屋は一杯になる。
しかも皆明らかに興奮していた。その熱気が部屋中に充ち満ちている。
皆、シェルレアの意図を説明されているからだ。
シェルレアの養子であるミシュナとリシュナはいつだって皆の人気者だった。
中には子供と離れて暮らしている者もいて、自らの子の代わりのように、可愛がってくれた人もいる。
だから、ミシュナのためとなると皆一致団結してしまうのだ。
すぐ着ていた騎士服を脱がされ、衣装を羽織らされる。
施される化粧は、いつもよりかなり濃い。
鏡の中にいる自分がたちまち別人になってしまうのを、ミシュナは為す術もなく呆然と見つめていた。
女性達をより美しく、客好みに仕上げるのが、『ホァン』の化粧師達の仕事だ。化粧師達の手にかかれば、醜女でも美女に変身する程。
しかも『ホァン』の化粧師は、貴族の娘がその技を伝授して貰いたいと言うほどの腕前だった。
その手が、ミシュナとは見た目が全く違う娘達を、変身させていく。
少しでも似ていた者も、似ていない者も、巧みな化粧が施され似せられていった。
ミリとリミ、どちらに似ていても、テルゼには判断が付かないだろう。
化粧の済んだ娘達に衣装を着せようとしたランダが幾度か名を呼び間違えたほどだ。
しかも身を纏うのは、ケレイス王国の古い民族衣装。薄い長衣を何枚も重ねてしまうと、顔以外は表に出ない。
薄い紗の布を頭から被せれば、髪型さえはっきりと判らなくなる。
そうして大人しく座ってしまえば、誰もが変わらなくなるだろう。
前はたった二人で行っていた遊戯。
それでも間違える客が後を絶たなかった。
それなのに、今回は結局18人もの娘達が揃えられた。
ミリとリミを合わせて20人だ。
この賭はテルゼには酷く分が悪い。
皆が衣装を着付けられる段になって、最初の内に準備ができていたミシュナは、あまりすることが無くなっていた。
ただ、騒々しく皆が用意する中で、片隅に座り込んでぼんやりとするしかない。
そうなると考えるのはテルゼのことだった。
シェルレアが行おうとする賭は、テルゼにはひどく不利だ。
過去テルゼが経験した賭は、踊りもあったし、会話もした。
元気に踊るリミと決して肌を晒さないミリとでは、どうしても動きが違う。
それでも正解は半々。結構間違えられた。
だが、今度は違う。
動きもしない。喋りもしない。
そんな中で、テルゼはミリとリミを当てなければならない。20人もいる娘の中からだ。
大丈夫なのだろうか?
胸の中で不安が大きくなっていく。
もしテルゼがミリを当てられなければ、お別れだ。
相手が伯爵家であっても、今のシェルレアなら押し通しそうだった。
そこまで義母に愛されているという事実は堪らなく嬉しい。だが同時に、迷惑をかけるのではないかという不安もある。
何しろ伯爵家は上得意の筈だ。
高い地位にある貴族は、金にケチケチしないからだ。
なのに、テルゼが賭に負けたとしたら……。
会えなくなって……。
もう来なくなるだろうか?
第2騎士団と第5騎士団の接点は少ないから、別れてしまえば会うことは少ないだろう。現に、先日会うまで、テルゼが第2騎士団の副団長などとは知らなかったくらいだ。
そうなると、どうなるんだろう? もう会えないのだろうか?
そう思った途端に、知らず唇が震えた。
けれど、僅かに体を捩った瞬間、体の芯に響いた痛みにテルゼにされたことを思い出す。
薬を使って無理矢理犯られたことは今でも思い出したくはない。このまま一緒にいれば、また同じ事が起きる。
抱かれて、我を失って。
痛みと怠さと……忘れたいほどの痴態。
あんなこと、二度と経験したくない筈で──。
けれど。
「ミシュナ……浮かない顔をしているわね」
ふわりと香の匂いがして、柔らかな言葉が降ってきた。
見上げれば、ミシュナとそっくり同じ格好と化粧を施したリシュナだ。
「そう?」
「テルゼ様から離れたくないって顔、ね」
「え? そんなことはない……」
リシュナの言葉には、即座に笑えた。そんなはずはない。
なのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
「でも、寂しそうよ。私としては、ミシュナが帰ってきてくれるのは嬉しいけれど」
「……騎士を辞める気まではないけどね」
「そうだったわね」
だけど。
『離さないよ』
テルゼの熱の隠った言葉が不意に浮かんだ。
内側から込み上げる熱がどうしようもなくて、我知らず縋った時。
覗き込んだテルゼの思いもかけず優しい顔が思い浮かぶ。
意地悪な笑みも、冷酷なところも、さんざん味わったはずなのに、そんなところは思い出さなくて、優しさだけがテルゼの全てのように思い出す。
信じられない、と思い出すたびに何度否定しようとしたことか。
なのに、いつだって、あの優しさしか残っていない。
「ミシュナ?」
黙りこくって俯いたミシュナに何か感じたのか、リシュナの声音が固くなる。
それに薄く笑い返して。
「あの人さ、ミリが好きだったんだって」
「ええ、あの方は昔何度も来られていたわ。ミリが出られなくなってからも、何度も何度も」
「へえ、俺は覚えていないんだけど」
「私ははっきりと覚えているわ。だって、あの人はいつだって正確にミリを見分けていたから。私たちが一人だけでいるとなかなかみんな区別できないのに、あの人は通りがかりに会っても間違いのない名を呼んでいたの。そして言うの。ミリはどこ? って」
「そう、なんだ……」
一体どんな顔をして、そう尋ねたのだろう?
自分にその記憶が無いことが何故か悔しかった。
男だったから、店での出来事は故意に忘れるようにしていた。まして騎士になることが決まってからは、記憶の片隅に押しやっていた。
「ねえ、テルゼ……様は、どうしてミリが好きだったのかな? ミリは作られた娘だったのにね」
ミリとミシュナは同一人物だったけれど、性格は違っていた。
ミリは淑やかな娘だ。
控えめで、いつも一歩下がっていた。
そうするしかできなかっただけの架空の娘。
「テルゼ様がミリみたいなタイプが好きなのなら、俺なんて顔だけしか似ていないから、すぐに飽きられるだろうなあ。そんなんだったら、今から離れてしまった方がいいかも……」
別れがいつか訪れるのなら、嫌いだと思っている今の方が良いような気がした。
そうは思うのに。
「ミシュナ、もしかしてあなたテルゼ様のこと?」
「……嫌いだよ。ほんとにね」
あんな行為許せるものではない、けど……。
「けど、離れたくない?」
幼い頃からこの姉には敵わない。
端的に自分の気持ちを言い表されて、小さく笑った、つもりだったけど。
「あ、あれ?」
頬を流れる涙に、驚いた。
「泣いたら化粧が剥がれるわ」
頬に触れた柔らかな布に、顔を埋めることしかできない。
「だって……」
「まったく、テルゼ様にも困ったものね」
喧噪に掻き消された嗚咽を、リシュナだけが聞いていた。
「ロッシーニ殿下のご希望、お叶えすることが可能になりました」
ミシュナを連れて行ってからしばらく帰ってこなかった『ホァン』の女主人シェルレアが、三つ指を突いて挨拶をしてきた。
「希望……というと、ミリとリミの件か?」
「はい、左様でございます」
顔を上げたシェルレアの顔がにこりと笑む。だがすぐにその視線が、ロッシーニ殿下からテルゼへと向けられた。
「テルゼ様、一つ賭をされませんか?」
「賭?」
ミリに会えると聞いて素直に喜んだが、シェルレアの言葉に眉間に深くシワを寄せた。矛先がいきなり向いたことへの戸惑いもあった。
「はい、『ホァン』名物、ミリとリミの遊戯でございます。ご説明致しますと、決まり事は簡単。見ただけでミリを当てること。幾つかの質問は可能ですが、首を縦に振るか横に振るかだけでお答えするようになります」
「……前にしたことはあるが。その時は、確か踊っていたり、質問も答えてくれたが……」
記憶にあるよりきつい条件に、テルゼの顔が歪む。
「もちろん、踊りも不可でございます。ミリはここ数年踊っておりませんので、それでバレてしまいますし」
「……賭に勝てれば、何か私に特典でもあるか? ミリと付き合っても良い、とか?」
それならば、と期待に目を輝かせた。
が、意味ありげに微笑んだシェルレアの言葉はもっと衝撃的なものだった。
「ミシュナの身柄」
「……な、に?」
「別室で休んでおりますミシュナ、もしテルゼ様が正解を当てましたなら、お返し致しましょう」
「なんだとっ!」
座を立ち上がった拍子に皿が音を立てて転がった。
座敷の空気が音を立てるほどに張り詰める。
射殺さんばかりの視線が、シェルレアに向けられていた。だが、彼女の笑みは変わらない。
「何故、そんなことを──。何故ミシュナが景品になるっ?」
激しい苛立ちが、テルゼの声音に含まれていた。
せっかく手に入れた好みの子。また奪おうというのか、この女はっ!
怒りに握りしめた拳がふるふると震える。
「理由はございます。ラーゼ様はご存じでしょう?」
だがシェルレアは平然と答え、意味ありげな笑みのままに、ラーゼに視線を向けた。
「ほんとに……大きく立派になりましたね、あの子」
返すラーゼも笑んでいる。
シェルレアの意図などお見通しだとばかりに動揺する素振りすらない。
「ええ、ラーゼ様が連れてこられた時にはまだ幼くて。あのころの記憶はとても曖昧なようです」
「そうですか……」
「主人?」
好奇心は人一倍のロッシーニ殿下の問いかけに、シェルレアが申し訳なさそうに頭を下げた。
「失礼致しました。つい懐かしい話をしてしまいました。お話を戻しますと、ミシュナは当娼館の縁者でございます」
その言葉にラーゼは頷き、シュートリアンは「まさか」と呟き、テルゼはポカンと口を開けた。
「縁者とな?」
唯一ロッシーニ殿下が問い返す。
「はい。ですので、可愛いあの子を簡単にテルゼ様に差し上げるわけにはいきません。もっとも、テルゼ様がどうしても欲しいと言うのであれば、この賭を行って頂いて手に入れて頂きたいと思うわけです」
「縁者……だから似ていたのか?」
呆然と呟いて、シェルレアを見据えた。
ミシュナが奪われる。
そう思うと激しい焦燥感が増した。
自分でも不思議なことだが、ミシュナに関わるたびに離れがたくなる。
実のところ、今寝ているあの子が気になってしようがなかったのも事実だ。
そして、今、返さないと言われて、頭が真っ白になりかけた。
そのことをラーゼが知っていたことにもだ。
「さっさと教えろ」
睨めば、笑顔で返された。
「教えたら面白くありませんから」
「ちっ」
厄介な相手からこれ以上教えを乞う気にもなれず、シェルレアへと視線を戻す。
「ようは、ミリとリミを見分ければ良いんだろう?」
「はい……。ですが、今回は少しだけ趣向を変えましたの」
リン、と鐘が鳴った。
澄んだ音色と共に、奥の壁が消えていく。
その奥は、舞台になっていてそこに娘達が三つ指を突いた姿勢で座っていた。
「どうぞ、この中からお探しくださいませ、ミリを」
「……この中、から?」
「はい」
思わず舞台とシェルレアを交互に見やる。
どんなに呆けた顔をしていたのか、くつくつと笑い始めたロッシーニ殿下達の様子に気付く。けれど、表情は戻せない。
ミリとリミ、二人だけなら見分ける自信があった。
いや、どんな時でもリミとミリの違いは判っていた、が。
あったはずの自信は、ひどく頼りないものになっていく。
彼女たちが晒しているのは、本当に顔だけなのだ。しかも伏せ気味になっていてそれすらも判りにくい。
しかも。
「何でこんなに……」
「ちょっと趣向を変えさせて頂きましたの」
軽やかなシェルレアの言葉に、頭を振る。
なんとなれば、舞台には総勢20人もの娘達が、肌を全て隠す長衣を何重にも纏って座っていたのだ。
?
16
「さあ、お答えください」
シェルレアの挑発するような声音に、テルゼは戸惑いを振り払う。
この中にはミリがいる。
あの、ミリなのだ。
しかも、ミリを当てることができたなら、ミシュナを手に入れることができる。つまり、ミリを当てれば、ミリにも会えてミシュナを連れ帰ることもできる。
一石二鳥ではないか。
得することだけを考えれば、こんな旨い話はない。
そう思うと俄然やる気が出てきた。
もとより、ミシュナをそう簡単に手放す気など無い。
しばらく会ってはいなかったが、ミリを当てる自信はいつだってあった。
すうっと深く息を吸い、吐き出す頃には自信が甦ってくる。
負けられない賭に、気分は激しく昂揚してくる。
「質問はいいんだな? それから、こっちが違うと思う娘は下げさせたい」
「構いません。それにしてもずいぶんと自信がおありのようで?」
「ずっと会いたかった娘だからな。あの面影は忘れてはおらん」
「ずっと、ですか?」
「何だ?」
小首を傾げるシェルレアの物言いが引っかかって視線を向ければ、彼女はもうテルゼから視線を背けていた。
その先は、居並ぶ娘達。
シェルレアの横顔から何か判らないかと窺ったが、そこからは何も見いだせなかった。
ただ。
「テルゼ」
意識を集中させようとした瞬間、ラーゼに声をかけられる。
「何?」
出鼻をくじかれて、ムッとして振り返れば、ラーゼもどこか責めるような目でテルゼを見つめていた。
「あなたは、ミリと会いたいのか、それともミシュナを連れて帰りたいのか?」
「え?」
問われた意味が理解できなくて、一瞬呆ける。
まじまじとラーゼを見つめながら、頭の中で単語を繰り返した。
ミリに会いたいのは当たり前。
ミシュナを連れ帰りたいのも当たり前。
ミリを見つければ、ミシュナは連れ帰れる。
なのに、何故ラーゼはそんな事を言うのか?
「どういう意味だ?」
問いかけても、曖昧な笑みを浮かべて、ラーゼは首を横に振った。
言うつもりが無いなら言わなければよいのに。
少しばかり混乱した思考を落ち着かせ、再度舞台を見つめた。
居並ぶ20人の娘達は、確かに皆よく似ていた。
だが、しょせんは他人だ。よく見れば、どこか違うという者が何人かいた。
どこが、と問われても答えられない。
だが、一度違うと思った娘は、何度見直しても違うとしか思えない。
そして、テルゼは自分のその考えに従った。
だからこそ、躊躇うことなく指さす。
「では、そこと、後左から2番目、4番目、前のその二人は下がらせろ」
まなじりや口の形は化粧でどうにでもなる。頬の膨らみも色合いで誤魔化せると聞いたことがある。
だが、どうしても骨の形までは変えることはできない。
ほお骨が目立つもの。顎の形が違うもの。
ほんの僅かな差ではあったけれど、明らかに記憶にあるミリとは違った。
たとえば、下がらせた娘達がミリだとしたら、ミシュナと会った時に似ているなどとは思わなかったろう。
そんなことを思って、テルゼは思わず苦笑した。
ミシュナは賭の対象であって、見つけるのはミリだ。
なのに、ようやく会えるはずのミリよりも、探す手だてにしているのはいつだってミシュナの顔だった。
化粧っ気の欠片もない、若い男にしては可愛い顔立ちではあったが、それでも男だ。
それでも、つい娘達とミシュナの顔を比較する。
しかも、テルゼの下で快感に身を震わせて、艶やかに喘いでいた時の表情だ。
身も心もとろけそうな快感に意識を奪われ、込み上げる欲望を素直に表情に出していた。焦れて、切なく眉根を寄せていたあの表情。
容赦なく外していく娘達からは、あの表情は想像できない。
訝しげな視線が周囲から来ているのは知っている。躊躇いのない動きがそうさせていることも判っている。
なのに……、違うと思うとその決定を覆す気にはなれなかった。
「その子もだ。それから……端の二人もだな」
必ずミシュナを取り返す。
その思いが視線を鋭くする。
細められた瞳が、娘達を探った。
その力は幼い娘を怯えさせ、化粧でも隠せないほどに青ざめさせた。
そういう娘も違う。
昔のミリもリミも、怯えは一度として見せなかった。小さく笑んで、品定めするかのような視線を平然と受けていた。
「君、ちょっと顔を上げてみて?」
娘がシェルレアを見、シェルレアが頷いてから顔を上げた。
「違うな」
あの子達なら、自分で動く。
シェルレアの言葉を待つことなどしなかった。
「それと……少しだけ動くのは構わないか?」
「それは……立ち上がらなくて良いのであれば」
躊躇いつつ、それでも頷いてくれたことにホッとする。
「右の子から、左に移ってくれ。それに、もっと中央へ」
端の子がふらついた。
低い動きに慣れていないせいだ。
そう言えばミリ達は立ち居振る舞いがひどく綺麗だった。立ち上がる所作の中にすら、自分を美しく見せることを良く知っているように見えた。
それに……。
「その子とその子も違う」
媚びを売るようなことはしない娘達だった。
テルゼのことが気に入ったのか、時折向ける視線が不快で、そんな娘も下げさせた。
そして。
気が付いたら、中央で顔を伏せている娘は二人だけになっていた。
室内の誰もが口を利かなかった。
最初の内はからかうようにさざめき笑っていたロッシーニ殿下もシュートリアンも、今は真剣な表情でテルゼの行為を見つめている。
音がしそうな程に張り詰めた雰囲気の中で、ただ、娘二人だけが微かに微笑んでいるように見えた。
柔らかな春の色合いの衣は、一人が桜色、一人が萌葱色。
対の色合いが、そこだけ柔らかく和ませる。
だが、テルゼの瞳には衣の色合いなど入っていなかった。
食い入るように二人の顔を見て、探り続ける。
二人は背格好もよく似ていて顔つきもそっくりのように見えた。
一人は鏡の中の住人だと言われれば、そのまま納得してしまうだろう。そこまで完全に似せたのは化粧のせいだろうとは判っている。だが、基本的な造りが違っていれば、どこかでボロがでる筈だった。なのに、この二人には、違和感などどこにも感じられなかった。
年の頃。
顔立ち。
数年前の記憶とは言え、それでも目の前の二人はミリ達に似ている。
いや、間違いなくこの二人のどちらかがミリで、もう一人がリミだ。
途中間違えていたら、もう終わりだろう。
だが、間違いない。
根拠の無い勘を、テルゼは信じた。
立ち上がり、二人にゆっくりと近寄る。もはや、シェルレアも止めようとはしなかった。
「大丈夫なのか?」
ロッシーニ殿下が不安げに問う。
あまりにテキパキとテルゼが決めたせいだろう。
「大丈夫です。二人のどちらがミリとリミ。そうでしょう、シェルレア?」
「さあ、どうでしょうか?」
ここまで来ても、シェルレアは余裕の笑みを浮かべていた。その表情からは、正解は窺えない。
それでも、テルゼは確信していた。
そっくりな娘達。
その動きすら、相似形だった。
顔がゆっくりと上がり、テルゼを見つめる。その口元が微かに上がり、同じ笑みを見せる。
僅かに震えたまつげの下で、同じように瞳にテルゼを映していた。
その表情には物怖じしている様子はない。
そういえば、と最後に会った時のことを思い出す。
あの時もこんなふうにテルゼを見つめていた。
もう最後になるとは思わなかった、遊戯の終わり。
挑発する視線に笑いかけながら、間違いなく当てることのできたあの時。
『私はミリの踊りが見たい」
間違いない確信の元に、ミリを指さす。同時に、リミの踊りだった褒美の代わりに、ミリの踊りを要求した。
その言葉に、淡い水の色を身に纏ったミリは、少し戸惑い気味に表情を歪ませた。
そんな時、そっくりだと言われているこの二人は、はっきりと区別がつく。
勝ち気なリミは、踊れと言われたら嬉々として踊って、客を喜ばせる。
だが、それまで平然と微笑んでいた筈のミリは、必ず躊躇うのだ。
ほんの少し視線を泳がせて、縋るように隣にいるリミを見つめる。
それから、諦めたように小さくため息を吐いて。
一瞬だけ伏せた顔を上げた時には、また微笑んでいて。
そして、ゆっくりとした笛の音に合わせて踊り出す。
リミが明るい踊りを好むのに比べて、ミリは静かな舞踊と呼ばれる踊りをよく踊った。
座っていた姿勢からゆっくりと立ち上がり、滑るように踊り出す。
手に何も持っていないのに、彼女が腕を振れば、春の風が花びらを散らしているかのように見えた。
それはとても可憐で可愛くて──そんな姿を見るたびに、前よりもミリを欲する思いが強くなっていく。
そういえば、ミリがリミよりは少し大きいと知ったのもあの時だったような気がする。
それなのに、小さく見えていたのだ。体を覆い隠す長衣のせいだけではないだろう。それが、ミリの持つ雰囲気なのだ。
凛とした強さが垣間見えるのに、どこか脆さも感じられる。
そんな彼女への思いが、胸の中に膨らんできて、もうずっと手の中に置いておきたいと、願うようになった時。
次に訪れた『ホァン』の店頭。
ミリを要求したテルゼに、シェルレアははっきりと言い切った。
『ミリはもう店には出ない』
『何故っ!』
『ミリが望んだことです。可愛いあの子の言い分、聞く約束をしていたのです。もともと体力も精神力も、店に出るには不向きな子でしたから、これ以上無理をさせる訳にはいきません。そういう訳ですので、どうかご容赦くださいませ』
申し訳なさそうな言葉の中に、はっきりと拒絶の意志を感じ取った。
『ならば、普段に会うことは構わないだろう? 客としてではなく』
もとより望むのは、客ではなく──できれば恋人。
だが、シェルレアは深々と頭を下げ、それでもはっきりと言った。
『それならば、よけいにミリを外に出すわけにはいきません。あの子は私のかわいい子供なのですから』
そう聞かされた時、テルゼは怒りのあまりシェルレアに切りかかりそうになった。
それを止めたのは、ちょうどその時表に出てきたリミだった。
『そんな事をしたら、ミリは絶対にあなたを許さないから』
その言葉があったから、テルゼは思いとどまったのだった。
?
17
「あの時、また会おうと言ったのにな」
二人の視線が過去の記憶を呼び覚ます。
それっきりになるとは思わなかったあの時。
再度訪れた今この機会を逃せば、もう会うことはできないかもしれない。 すうっと息を吸う。
視線が右側の娘へと向かう。
この娘がミリだ──と思う。
双子とはいえ、この二人は瞳の色が僅かに違う。
今の化粧術では瞳の色を変えるのは困難だ。だからこれだけは誤魔化しがきかない。
それでも、もう一度確認するために、テルゼは二人を見つめ直した。
長い金の髪に縁取られた顔にある一対の瞳。
瞳の色はミリの方が僅かばかり淡かった。
それは比べて判る程度だったが、テルゼは比べなくても判断が付いた。だから、一人でいる時でも間違えることなど無かったのだ。
その瞳の色の違いが、今もはっきりと判る。
だから、藍色の瞳を持つ右の娘の方がミリ。紺碧の瞳を持つのがリミ。
それで間違いないはず。
だから、そう言おうとした。
なのに、声が出なかった。
僅かに開いた口が、その形で強張った。そんなテルゼに、皆の視線が集まる。
「テルゼ?」
訝しげな問いかけに、答えられない。自身ですら判らないことを、説明などできない。
だが、今何か言えば、取り返しのつかない事になりそうな気がした。
──違う……。
見下ろせば強い瞳と視線が絡んだ。
紺碧の双眸に映るのはテルゼ。
黒に近い濃い色。
間違いないはずなのに。
瞳に宿る意志の力が強すぎた。
ミリも強さはあったが、その根底には弱さに近い優しさがあった。
──そう、そうだ……ミリはもっと優しい雰囲気だった、筈。
思わず左の娘を見やった。
紺碧に近いが、少しだけ淡い。
藍色に近いその瞳は少し潤んでいた。
さっきとは打って変わった穏やかな、けれど切なそうな視線と絡んで、知らず息を飲んだ。
似ているのだ。
ミシュナの表情と。しかも、切なそうにテルゼを求めて縋り付いて、溢れんばかりの涙を浮かべていた時のものと。
あの瞳と、目の前の彼女の瞳がぴったりと合わさる。
──求められている。
口元の勝ち気な笑みは、けれど良く見れば強張っていた。微かに震えるまつげの下で、瞳が惑うように揺れる。
けれど外れない。
「君は……」
ずっと出なかった声が、ようやく出てきた。
小さな呼びかけに、娘の口元の笑みが消えた。縋るような視線だけが表情の全てになる。
その顔に魅入られる。
じっと見つめていると、瞳の揺らめきが激しくなった。
何かに縋りたいと、その瞳が訴えてる。
途端に、熱い塊が胸の奥から迫り上がってきた。
手に入れたい。
熱く身を焦がすような焦燥感が全てになる。
欲しい。
覚えある感情が体を支配する。
何故──と思う間もなく、不意にその原因に思い当たった。
そうか……。
思い当たれば簡単なことだ。
シェルレアが『ホァン』の縁者だと言っていたではないか。
似ているのも道理だ。
名前も……。
だとしたら、ここにいるのは、求めて止まない相手。
だからこそ、こんなに欲しいと願う。
テルゼは、不安げな瞳を向けている左の娘に、笑いかけた。
そのせいか、娘の瞳が僅かに見開かれる。
そんな仕草も、記憶にあるのと同じ。
誰よりも、この手の中に取り込みたくて、封じ込めたい相手と同じ。
そう考えれば、瞳の色もこれで正しいと気付く。
だから。
「ミシュナ……」
テルゼは躊躇うことなく手を差し伸べた。
びくりと彼女の──いや、彼の顔が跳ね上がる。
伸びてきた手を見つめて、何かを堪えるように下唇に白い歯が食い込んでいた。
瞳から溢れる滴が、頬を流れていった。なのに、差しのばされた手を取ろうとはしない。握りしめられた拳は、白く色を失っているのに。
それでも動かないから、テルゼは再度呼びかけた。
「ミシュナ」
何故気付かなかったのか?
名を呼んだ途端に浮かんだ怯えたような体の震えも、色を失ったその顔色も、ミシュナであると確信させるものだった。
ミシュナとミリ──この二人が同じ出自だと知った時点で、気付いて然るべきことだったのに。
ミリを当てた景品がミシュナなのも当たり前。
「化けたな」
こうして女の衣を纏い、化粧をして紅をさせば、確かにミリだ。
こうやって、ずっと店に来る客達を騙してきたというのか。
女の姿で店に出て。その立ち居振る舞いは、他の娘達よりもずっとお淑やかだと思っていた。
テルゼはずっと誤魔化されてきたということだ。
だが、そのことに対する怒りは不思議なことに湧かなかった。
ただ、嬉しい。
ミリとミシュナが同一人物であったことが堪らなく嬉しい。
「その瞳は隠しようもないな」
気付いたきっかけを指さし、笑う。
リミの悔しそうな瞳が向けられていたけれど、だからこそ気付くのだと笑い返してやった。
「何故、色が変わった?」
「……自然に……。数年でミシュナの方が濃くなりました。そういう性質の部族出身ではないかと医者に言われましたけれど、昔のことは判らないので……」
だから、誤魔化せると思ったのに。
背後の微かな呟きに、あやうく騙されそうになったことを思い出す。
だが、瞳は心の鏡だ。
「ミシュナの瞳の色を知っていたからな。それにこの瞳が映す内面は、どう見てもミシュナのものだ」
「……心?」
テルゼの言葉に驚いたように、ミシュナの口元が僅かに開く。中から覗く赤い舌が、テルゼを誘っている。
「ったく……面白い、お前は」
ぞくぞくと肌が粟立ち、愉悦に口元が勝手に綻ぶ。
今ここで押し倒したい衝動をさすがに堪えて、代わりに手を伸ばした。
「あっ……」
「少しは手がかりを出してやろうかって気はなかったのか?」
ふわりと抱き寄せた拍子に、頭を覆っていた薄布が剥がれた。
腕の中に封じ込め、揶揄を込めて耳元で囁けば、怯えたのか体が震えている。
そんな姿にすら欲情してしまって、苦笑した。
偶然にも手に入れた騎士は、こんなにも自分を楽しませてくれる。
忘れようもない抱き心地を味わえば、香水の匂いに気が付いた。
人の性欲を高める効果があると言われる蘭香草──娼婦達に人気がある香水だ。
「蘭香草か? あの薬の匂いの元もこれだったな?」
蘭の匂いが立ち上るのを指摘してやれば、俯き気味のミシュナが真っ赤に染まった。
衣服を通して伝わる吐息の熱さにほくそ笑み、ますます強く抱きしめる。
「……止めろよ」
女にしては低い声音が、震えていた。
「私が止められると思うか? 長年の夢だったんだぞ、ミリを手に入れるのは」
欲しいと願ったミシュナが、ずっと思っていたミリと同一人物だったのだから、暴走しないだけマシだと思って貰いたい物だ。
その言葉に腕の中の体がびくっと硬直した。けれどすぐにため息と共に弛緩する。
「でも、ミリはもういない」
「え……?」
「ミリは……いないんだ……」
ミシュナの手がテルゼの肩を強く押し、体が離れる。
ミシュナの言葉の真意が判らなかった。
開かれた空間が寒く感じる。見下ろせばミシュナは俯いていて、今どんな顔をしているのか判らなかった。
なのに……。
泣いてる?
もう震えてはいない。
けれど判った。
何か哀しいことがあった時、打ちのめされている時、こんなふうに堪える奴らを知っている。
騎士としての誇りからか、人前ではあまり声を上げて泣くことはしない。自分の心の中だけで、泣いている。
今のミシュナもそうだ。
だが、何故泣くのだろう?
抱きしめた時、拒絶は無かった。
今だって、離れたと言っても手が届く距離だ。それ以上離れることを、当のミシュナが望んでいないようにすら見える。
それなのに、ミシュナの表情はひどく哀しそうだった。
これは……ゆっくとり聞く必要があるな。
ミリのこと、『ホァン』のこと、ラーゼとのこと。
聞きたいことは山のようにある。
だがその前に、とテルゼはシェルレアを振り返った。
「シェルレア、約束だったな。ミシュナは貰う」
「……かしこまりました」
幾分口惜しげな物言いだったが、それは無視した。
今も過去も、大事な子と言っていたのだ。親としては当然の反応だろう。「ただお願いでございます。どうか辛い目にだけは遭わされることのないように」
「判っている」
ミシュナを辛い目に遭わせることは、テルゼとて不本意きわまりないことだ。だから、それだけは、と固く約束した。
だが、ため息を零すシェルレアは、まだ信じていないのだろう。
客であるテルゼには見せる筈の無い態度を露わにしていることが何よりの証拠だ。
もっとも同意を取り付けてしまえばこっちのもの。
テルゼはさっさとミシュナへと視線を戻していた。
「いいか? お前は俺のものだ。もうこの『ホァン』には帰さない」
何故泣いているのか、今は問わない。
「……でも、あんたのところなんて……俺は22なんて……」
「ああ、そのことなら何を言おうともう決定事項だ」
「でも」
「私もラーゼもいる。誰だって最初があった。鍛え方ではどんなふうにもなる。私に任せろ」
言い切って、まだ何か言いたそうな唇を無理に塞いだ。
嫌なら逃げるだろう。
僅かな抗いしか感じない体をますます強く抱きしめて、感じやすい口腔を貪る。
周りの揶揄や文句など気にするものではなかった。
ずっと欲しかったこの子をようやく完全に手に入れたのだ。何を遠慮なんかすることがあるだろう。
腕の中で震えるこの子を、この先誰が反対しようとも手放すつもりは無かった。
?
18
終わりの挨拶などテルゼにとっては鬱陶しいものでしかないのだろう。
別れの言葉もそこそこに、馬を準備させ、ミシュナを乗せる。
ロッシーニ殿下の警護を、行きの時と同じく残り二人に任せてしまうと、テルゼはすぐに馬を走らせた。
騎士団の副隊長の権限を持って最短時間で検査所を抜けたテルゼは、さらに先を急いだ。
「どこへ?」
速く走らせれば、それだけ馬の震動も激しく、体調の良くないミシュナには堪える。
だからこそ問うた言葉に、テルゼはちらりと一瞥して、同じくひと言答えた。
「私の家だ」
その言葉に目を剥く。
レンドリア伯爵家の屋敷であれば、城の近くのあの豪邸だろう。
そんなところにいきなり連れて行かれるとは思っても見なかったミシュナは慌てた。
「ちょっ──そんなっ!」
「ああ、お前は私の家は知らないか。今は城の近くの一軒家を借りて住んでいる」
「……そう……」
その言葉にほっと安堵した。
が。
はたと気付く。
「ちょっと待てって! 俺は宿舎に……」
「付いてくればいいんだ」
駆ける音に紛れないようだろうが、思った以にに強く返ってきた言葉に、二の句が継げなくなった。
もう、どうしようもないのかも知れない。
諦め気分もそれに拍車をかける。
そんなミシュナが、テルゼの言う家に着いたのは、それからさらに数十分が経った頃だった。
「……家?」
促されるがままに馬から下りたって、呆然と目の前の家を見つめる。
「そうだが?」
その手から見知らぬ男の手によって手綱が取られる。
テルゼの慣れた指示で動く男は、どうみたって召使いだ。
玄関前で頭を下げているのは、執事か?
明るい玄関は、4人くらいは軽く横に並んで通れそうだし、窓の数からして部屋の数は10を下らないだろう。しかも、三階建て。
「こんなん家じゃねえよ」
強いて言うなら館。
招き入れられた無駄としか思えない広い空間。
明るい灯りは、一体幾らの燃料を消費しているのか。
商売人が育て親のせいか、つい金勘定で物事を計ってしまった。
しかも……。
「お帰りなさいませ」
5人の召使いが揃って頭を下げて待っている。
いや、召使いの多さでは『ホァン』の方が勝つ。だが、あそこは店だ。やってくる客全てを相手にしようとすれば、それでも足りないくらいだ。
だが、ここの主人はテルゼ一人の筈。
どうして、たった一人にこんな人数がいるんだ……?
呆然と考えて、すぐに気が付く。
そういえば……貴族だった……。
しかも王族に近い伯爵家。
その息子であれば、これで質素なのかも知れない。
「何をぼんやりしている、来い」
頭の中で自己完結はさせたけれど、それでも、テルゼが訝しくするほどにぎこちなさは消えない。
「……なんか落ち着かない……」
「何が?」
のほほんと答えられて、無言で頭を左右に振る。
貴族との感覚の違い。
テルゼがひどく遠く感じる。
「なあ、……俺、やっぱ無理だよ……こんな」
「こんな?」
「22……なんて……」
22中隊はその職務柄大半が貴族だと知っていた。きっと、こんな館に住むような輩ばかりだろう。
そんな中、ミシュナがやっていける訳がない。
無理だと判断されて、放り出されればいいや、と考えていたが、それより前に、そんな中に入りたくもない。
図太さはそこそこにあると思っているが、貴族階級には厭味な奴らが多い。「別に気にすることではないだろう? 何とかなるものだ」
判らない男だと、笑われても、首を横に振って否定するだけだ。
下唇を噛み、俯き加減のミシュナの歩みは遅い。
先を行くテルゼが小さく舌打ちしたことも気付かずに、先のことを思っていた。だから、強く腕を掴まれるまでテルゼが不機嫌なことにも気付かなかった。
「えっ」
腕を掴まれ、放り込まれた部屋の様子を眺める暇もない。気が付いた時にはベッドで、その豪勢な天蓋が視界を占めていた。
「ミシュナ……お前はこれからここで暮らす」
すぐにのしかかってきたテルゼの圧迫感に息を飲む。
だが、すぐに耳に入ってきていた言葉の意味にも気が付いた。
「え、何で……あっ」
反射的に飛び起きようとしたが、強くのしかかられてはどうしようもなかった。
首筋を噛まれ、抗おうとした手が止まる。
芯から込み上げる恐怖心が、ミシュナから力を奪う。
そんなミシュナを見下ろしながら、テルゼは薄く笑いかけた。
途端に、ぞくりと背筋に走ったのは悪寒だと思いたかったけれど。
「硬くなっているぞ」
足の間に割り込んだ膝が、ぐぃっと突き上げる。
「ひっ」
テルゼの揶揄にも煽られる。
意識したくないのに、下腹部に集まってくる熱は確実にミシュナを支配していく。
ただ、テルゼに迫られているだけで。
「やっめ……」
喘ぎの中で発した制止の言葉は、最後まで続かない。吐息はさっきより熱を孕んでいて、喉を焼く。
「ダメだ」
テルゼの手が衣服の中に滑り込み、敏感な肌を探る。
言葉にならないなら、と首を振って拒絶しようとしたが、すぐに痛みが顎に走った、指先が顎に食い込み、苦しげに息をする唇が塞がれる。
慌てて逃れようとしても、強く押しつけられて、歯が唇を傷つけた。
血の味に、ぞくりと芯が疼く。
「んっ……くっ……」
両腕をまとめて掴まれ、頭の上で封じ込められた。
テルゼの力は強い。
相変わらずの乱暴な行為に、やはり一時の優しさは幻だったのかと臍を噛む。
「俺……は……」
痛みだけでない涙が、悔しさに歪めた顔から流れ落ちる。
「こんなの……ヤダ……」
「ならば、少しはおとなしくしろ」
言われても。
身を捩るのは、込み上げる恐怖のせいだ。
また犯されるかも……。
幾らテルゼのことが好きであっても、それだけは受け入れられるものではなかった。
「こ、こんなの……ヤダ……」
繰り返される言葉に、流れ落ちる涙。
震える声音で懇願する。
なのに、力は緩まない。
また犯されるのか、と絶望的な思いに捕らわれながら、それでも、意を決して口を開いた。が、それより先にテルゼの眉間のシワに気付く。
「……怒って……?」
「……そうだな。腹が立つ事があったからな」
「何?」
口惜しそうな言葉に、つい聞き返した。
「お前は私のものなのに、あんな賭をしなければならなくなったこと。私は、あの女が嫌いだ」
「女って……あっん……」
言葉の意味を探って力を抜いた途端に、開けられた上衣の隙間から、テルゼの手が入り込んでいた。指先が滑らかな肌の上を辿り、キスだけで膨らみを増した胸の突起を弾く。
途端に走った甘い疼きが、思考を邪魔した。
顔を顰めて悶えるミシュナに、テルゼが薄く笑う。
「私からミリを奪い、今度はミシュナまで奪おうとした輩だ」
シェルレアのことを言っているのだとすぐに判った。
「……でも」
決して間違えはしなかった。
呼びかけられた時、どんなに心が躍っただろう。テルゼの手が伸びてきた時、胸が酷く高鳴った。
ずっとずっと不安で、作った笑顔を維持するのが大変だった。名を呼ばれた時、自分からも手を伸ばしたくて堪らなくて。だけどそんな事をしたら、この賭が終ってしまう。
必死の我慢から救ってくれたのは、テルゼだった。
「……俺を見つけてくれた」
自分ではどうしようもない思いを見つけてくれた。
「当たり前だ」
誇らしげな声音。
聞こえた途端に目の奥が熱くなる。
「……俺……嬉しかったよ……」
「ならば何故、私に逆らおうとする?」
「それは……だ──あっく」
不意に落とされた胸への口付けに、反射的に背を逸らした。押しつける格好になって、より執拗に胸を弄くられる。
三度目の今は、薬など一滴も使っていないというのに、より敏感に感じていた。
「ん……あっ……」
舌先で辿られ、鎖骨を甘噛みされて。堪らずに仰け反った喉に吸い付かれる。
「私の言うことを聞かぬ……」
肌の上で囁かれて、微弱な震動が快感を生む。
荒い息を繰り返しながら、視線でテルゼを追うと、彼の瞳もミシュナを見つめていた。
刹那、全身がぞくぞくと粟立ち、下腹部に向かって一気に熱が集まった。
何もかも飲み込みそうな程な熱が、全身を縛る。
「これ以上、私の言葉に逆らおうとするなら」
「え……、テ……ルゼ……?」
「私から離れようとすならば、二度と私から離れたいと思わないように、その体に刻み込んでやろう」
いきなり強くなった口調と、その口元に浮かぶ笑み。
ぞくり、と背筋に悪寒が走り、恐怖に縛られたミシュナの歯がガチガチと鳴った。
恐怖が、痛みを思い出させる。
逆らえば、また無理に貫かれるかも知れない。切り裂かれる恐怖を思い出して、ミシュナは激しく顔を顰めた。
「……止め……頼む……から」
「私の言うことを聞くな?」
言うことを聞けば、乱暴にはされないのだろうか?
ならば、と、頷いた。
「22に入るな」
「わ、判った、から」
言葉だけでは足りないかも、と思って、何度も頷いた。
しばらくそうしている内に、満足したのか、まず腕の重みが消えた。
「あっ……うっ……」
執拗に弄くられる胸の突起は、鮮やかな朱色に染まり、最初の頃より一回りは大きくなっていた。
空気の流れすら敏感に感じるようになっているのに、テルゼは何度も音を立てて吸い付いた。その度に、ミシュナの体が痙攣する。
「ここしか弄くっていないのに、ずいぶんと気持ちよさそうだな」
からかわれて、自分の痴態を想像してしまう。
互いの腹に挟まれた屹立がまだ服の中だというのにびくびくと震えた。
「服の上まで染み出ているぞ。薬を使っていないのにな」
「だ、だって……」
体がどうにかなってしまったのか、テルゼの行為全てに感じてしまう。
薬を使われた時のような凶暴なまでの快感は無い。穏やかで、じわじわと込み上げてくるような快感。なのに、堪えることができない。
しかもされている事自体は前の時と変わらない。
時折衝動的に噛み付くような口付けが施される。
肌に点々と散らばる朱色は、時に痛みすら覚えるほどに吸い付かれた痕だ。
なのに、その度に快感が体内で暴れ回り、どんどん強くなる。
「ああ、そうだ、あの薬はまだあるが……欲しいか?」
冷たい空気が肌を伝う。密着していた体が離れて、膝立ちになったテルゼがにやりと笑っていた。
「く、薬?」
「そうだ、媚薬だ。お前がたいそう気に入っていた奴だから、余分に薬師に作らせておいたのだが」
「っ!」
驚愕に見開いた目でまじまじとテルゼを見つめる。
ミシュナを狂わせるあの薬。目の前の陵辱者を欲しがらせる薬。
テルゼが欲しくて、あられもない姿を晒したことははっきりと覚えていた。
「い、いいっ!」
理性が即行で否定させた。
なのに。
「それは欲しいと言うことか?」
首を横に振ったのに、言葉尻を捉えてそんな事を言う。
「ち、ちが……」
「なら、どうしたい?」
肌に走る唾液の後を指先で辿り、胸の突起を爪で弾いて問うてくる。
「あっ……そん……っ」
「薬が有れば、楽だろう? だが、薬を使わないのであれば、どうやって解そうか? それとも、最初の時のようにいきなり挿れられたいか?」
「……ヤダ……」
残っていた衣服を剥がしていく手つきの優しさとは裏腹に、肌を爪弾く動きは激しい。
痛いのに、同時に湧き上がる快感に、ミシュナは息も絶え絶えになっていた。
体内奥深くに生まれた熱が、肌をさらに敏感にしているから何をされても快感にしかならない。
「なら、どうする?」
「んっ」
下衣を剥がされ、弾けだした陰茎がテルゼの手に当たる。
幾度も震える先端から、たらりと滴が流れ落ちた。
「あっ……ん、テル……ゼ……」
「これだけでは足りぬ」
滴を掬い上げ、後孔に触れる。
「あっ、いた……」
まだ傷を持つそこが、小さく痛む。
「痛いか? なら止めるか?」
それは労り故の言葉なのだろうか?
だが霞む視界にあるテルゼは楽しそうに笑っていた。
?
19
意地悪な男だ。
辛辣な揶揄。暴力的な行為。
全てが、ミシュナを辱め、陥れる。
なのに、触れる手は優しい。もどかしいほどに優しい。
込み上げる快感に翻弄され、歓喜の声が喉から迸る。
テルゼの舌がミシュナの肌を舐め上げると、その度に甘い疼きが全身に広がった。
「あっ……あっ……」
手が触れるか触れないかの距離で蠢く。もどかしい愛撫がミシュナを焦らせ、堪らない気持ちにさせるのだ。繰り返される口付けと肌への愛撫。胸を啄まれ、ミシュナの陰茎は今まで以上にいきり立っていた。
だが、テルゼは一向に先に進まない。
戯れに、後孔へは触れてくるが、決して欲しい場所には進んでくれなかった。
それがもどかしくて、堪らなくて。
もっともっと狂わせて欲しい。
目の前が何度も白く弾ける。
痛みなど無いのに、目尻から涙が溢れ、口の端からは飲み込めない唾液が流れた。
喘ぎ声は、もう掠れ始めている。
触れて貰えない陰茎に、ミシュナは堪えきれなくて自分の手を伸ばした。なのに、意地悪な手が遮る。
「ダメだ。お前が欲しいものは私が与える」
そんな事を言われてもさっきからずっと放置されている。
問われて、応えられないままに、ずっと。
「だっ……て……」
「言ってごらん? どうして欲しい?」
「あ、……もう……」
ひくんと全身が震える。仰け反って、腰を突き出して、その腰がずっと揺れていることにミシュナ自身は気付いてなかった。
ただ、欲しい、と願う。
触れて欲しい。
達きたい。
「おね……がい……、達かせて……」
だから願う。
言わないと達かせて貰えないだろう。自分を支配する男は、情け容赦ない。
だが、テルゼは動かない。薄ら笑いそのままに、ミシュナを見下ろし、残酷にも言い放った。
「お前だけいい気持ちになるのは不公平だとは思わないか?」
「そん、な……っあぁ」
戯れのように触れられて、腰が泳いだ。離れる手を追う仕草に、テルゼが笑う。
「さあ、どうする? 言えば叶えてやろう」
「あ……」
涙が頬を流れた。
霞む視界の中にいるのは憎らしいほどに意地悪な男だ。
欲しいと、離さないと熱く訴えるクセに、時にこうして突き放す。自分の思うように相手が動くことを強要して、支配下に置こうとする。
けれど、その中に限りない優しさを感じる。
それは甘い餌だと判っているのに、ミシュナの心はいつしか捕らわれてしまっていた。
「俺の中」
「ん?」
「中……で、気持ちよく……なって……」
膝を曲げ、足を広げる。
自分では見えない場所を、陵辱者だった男に晒す。
「テル……ゼ……、さま……」
欲しくて、叶えて欲しくて、敬称すら付けて呼べば、ふわりと抱きしめられた。
「似合わないな……。テルゼで良い、私はお前の主人になりたいわけではない……」
「え……?」
「離したくない。ずっと共にいたい。だが、それは主従関係としてではない。判るか?」
「……な、に……?」
朦朧とする意識下では、テルゼが何を言いたいのか理解できない。
不審げに見つめれば、くすりと吐息で笑われて、唇が塞がれた。
互いの吐息が混ざり合い、口の中に消えていく。濡れた音が言葉の代わりに零れた。
絡み合う肉厚の舌が、ミシュナに新たな快感を呼び起こす。
「っ……あっ……ふぁ……」
ぞくぞくと肌がざわめいて、じっとしていられない。腕の中で、逃げ場を探してうごめけば、ますますきつく抱きしめられた。頬を伝った唇が、耳朶の近くで、言葉を紡ぐ。
「ミシュナ……離さない……お前は私のものだ」
途端に、下腹から脳髄へ。脳髄から全身へ。
「ひあっ!」
体が爆発するかと思った。
びくびくといつまでも痙攣し、きつくテルゼの体に縋り付く。
達ったかと思ったが、解放感はない。激しい焦燥感に身を切られるような辛さを感じた。
「まだ達っていないな?」
ミシュナの焦燥など判りきっているだろうが、テルゼの声音は落ち着いたものだ。
恨めしげに見つめ、粟立つ肌を自らの手で抱きしめる。
その腕ごと抱きしめたテルゼの手が、ミシュナの双丘を撫で下ろした。
「んっ……」
その先にあるのは激しい痛みを与えられた場所。
思い出した痛みの記憶が、ミシュナの体を萎縮させる。だが、テルゼの手が後孔に触れた途端、痛みの記憶が消えた。
薬を使われていないのに、肌はあの時より敏感に感じていた。
「どう……して……」
「いいんだろう?」
「あっ……」
指がつぷりと奥に入ってくる。足りない滑りに皮膚が引きつれた。
痛みに顔を顰め、思わず縋り付いたテルゼの腕に額を擦りつける。
「や……あ、イタ……」
止めて欲しい──けど。
「やっぱり痛いか……」
抜かれそうになって、腕を掴む力が強くなった。
「やっ……」
「ちょっと待ってろ。このままでは入らないから」
優しい物言いに、こくりと頷いた。
時にこんなふうに優しくする。その優しさが先を期待させる。
上半身を起こしたテルゼが、寝具下の荷から薬の容器を取り出した。
陶器の蓋の封を取り外せば、中から乳白色のとろりとした液体が流れ出してきた。
「これは媚薬は入っていない」
「ほ、んとに?
「媚薬ではないが……」
テルゼの笑みが、低く響いた。
「それ相応の薬ではあるがな」
ひやりとした感触に身震いして、押し入る圧迫感に息を飲む。
「そのうちに、こんな痛み止めなど必要なくなる。いや……もっと、と、欲しがるようなってくれると面白いな」
塗り込められ、広げられているのに、痛みが消えていく。
「んっふぅっ……くっ」
「ひくついて、締め付ける。本当に、客など取っていなかったんだろうな?」
「とって……なんか……ないっ」
「そうか? こんな淫猥な体なら、売れば幾らでも値が付いただろうに」
「ちが……んあっ」
指先が奥深くを突く。
そのたびにあえかな声を上げ、身悶える様子が影となって壁に映っていた。
跳ねる体は若鮎のようで、今が断末魔であるかのように喘ぎ身を捩る。
迸る汗がランプの灯りに照らされて輝き、唇の端から流れ落ちた唾液が、喉を伝い、胸まで滴った。
「やっあ……もう……もう達かせてぇ」
執拗な愛撫に、触れられてもいないミシュナの屹立が限界を訴えて震えていた。
なのに、どんなに訴えても、テルゼは触れてくれない。
堪らずに自ら腰をシーツに擦りつけようとして、それすらも遮られる。
「私が良いと言うまで達くことは許さない」
「そ、んな……ひど……」
「酷いか? だが、それが私だが、嫌いか?」
問われて、咄嗟に首を横に振っていた。
何度も何度も、テルゼが口付けるまで振っていた。
「可愛い奴。判ったから、もう少し我慢しろ」
平然と言い放つ男の指にいい様にされて、額を擦りつけて悶える。
「でも……もう……達き……」
「だから、私が先だ」
「だったら……」
冷酷な言葉に、ミシュナは堪らずに懇願していた。
「だったら、もう、挿れ……てよ……っ! 好きなように……!!」
喉が裂けんばかりの悲鳴に、テルゼが嬉しそうに笑う。
「ようやく本音を言ったか。お前の瞳はずっと欲情に彩られていたというのにな。口はなかなか本性に従わぬようだ……」
「お、願い……早く……」
蔑まれているのに、今はただ欲しい。
腰を擦り寄せ、涙で潤んだ瞳を向けて必死になって乞う。その姿にテルゼが満足げに頷いた。
「仰せのままに」
嬉々とした声をミシュナが耳にすることはなかった。
「っ──!」
貫かれた衝撃に、目も口も大きく開かれた。
目の前が白く弾け、がくがくと大きく痙攣する。
「達くな、と言ったろう?」
下腹部から下肢を白く濡らしたミシュナを、テルゼが呆れたように揶揄した。
「だが、汚れた姿も堪らないな。ほんとにお前は何をしても私を煽る」
「あっ、ああっ!」
始まった律動は容赦ないもので、達ったばかりの体にはひどくきつかった。
だが、それもまた快感であって、迸るのはどう聞いても嬌声だ。
「んあっ……あっ……イイっ……! やあっ……」
「イイか? ならばもっとだ」
「ふぁっ……あっ……ダメ……ダメえっ……」
「また、達ったか……、我慢が足りない……、もっと我慢しろ」
「やっ……、だって……やあ……」
静まりかえった室内にいつまでもミシュナの嬌声が続く。
同時に響く濡れた音。
規則正しい弾ける音。
そこに荒い息が交じり、丈夫なはずの寝具が軋んだ。
不規則で、異質で、だからこそ淫猥な音楽。
ミシュナが放つ嬌声を主旋律にして、その音楽はいつまでも続いた。
?
20
何かの拍子に意識が覚醒した。
と言っても、まだ眠い。だが、怠さを自覚してしまうと、寝ていることが辛い。節々が痛んで、ミシュナは楽な姿勢を探して体を動かした。
柔らかな寝具が体に合わないのだ。
肌に触れる馴染みのない感触に、ふとそんなことを思って、ぎくりと体を強張らせた。
思わず見開いた視界に入っているのは豪華な天蓋。柔らかな紗が陽光を穏やかなものにしている。
ふわりと掛けられた軽い寝具のそのさらりとした感触は絹。軽いのは中身が羽毛なのだろう。しかもかなり値の張るものだ。
そういう知識は育ちのせいか豊富だったが、未だかつて自分のために使ったことなど無い。
慣れない触感は居心地が悪く、ミシュナは、どうしたのものかと、体を丸めて途方に暮れていた。
関節が軋み、筋肉が鈍く痛むから、動くこともままならない。
豪勢な部屋の造りは、昨夜連れ込まれた部屋と少し違うのに気付いたから、一体どこなのか調べたい気はあるのだ。だが、軽く動くのは視線だけ。
壁の色、天井の色、造りつけられた家具。
朧気ではあるけれど、それでも残っていた記憶と比較して違うと断定できる。
それに、身を纏うのは体に合わない夜着で、これまた見覚えはない。
きっとこの館の主の物。
大きさからしてそうは思うのだが、そうなると必然的に昨夜の記憶までもが甦る。
途端に体内の血が沸騰したような感覚に捕らわれ、目の前がくらりと歪んで慌てて目を閉じた。明るい灯りだけが目蓋を通して目に入る。途端に、もっと鮮明にされたことを思い出した。
いや、それだけでなく──何をされたか、何を言われたか。そして、何を言ったか、何をしたか。
忘れたいと思えば思うほど、鮮明に思い出してしまう。
嬉しいけれど、恥ずかしい。幸せだけど、戸惑いもある。
できれば自分が求めて狂ったところの部分は夢であって欲しいけれど、人間の記憶はそう都合良くはいかない。
ならば、『媚薬は使っていない』という言葉が嘘であって欲しい。
そうすれば、言い訳が立つのに。
狂ったようにテルゼを求めた己を恥じて、身を焦がす熱に苦しく喘いだ。
体内にわだかまる熱に、深く長いため息を吐いた時、扉が開く音がした。
「……テルゼ……?」
手を付いて上半身を起こし、さっきから姿の見えなかった男の名を呼んだ。
だが。
「おはようございます、お加減はいかがでしょうか?」
返ってきたのはテルゼよりさらに低く落ち着いた声音。見開く視界に入ったのは、きっちりとした格好をした30歳前後の男だった。
「あ……」
他人にこんな状態を見られた羞恥に耳朶まで染めていると、彼は深々と頭を下げた。
「私は、テルゼ様に使えておりますヴァスと申します」
「あ、あの……俺は……」
丁寧な物言いに敵意は感じられなかった。
だが、他の感情も窺えない。
能面を貼り付けたように無表情で、まるで人形を相手にしているようだった。だが、その口は動いて言葉を紡ぐ。
「ミシュナ様ですね。テルゼ様より窺っております。今日はごゆっくりお休みください」
何もかも知っているのだろうか?
この数日のテルゼの言動を思い描き、否定する要素が何も浮かばないことにがっくりと肩を落とした。
耳の後まで熱くなった体を縮こませて、寝具に半ば顔を埋めながら、原因の所在を尋ねる。
「あ、……その……テルゼは?」
「先ほど騎士団本部にお出かけになりました」
「えっ……もうそんな時間なのですか?」
慌てて窓の外を見やれば、布越しであっても太陽が高いことに気が付いた。
「10時を回ったところです。けれど、ミシュナ様は体調がお悪いのですから、ごゆっくりなさってください。テルゼ様からもそう言いつかっております」
「でも……」
ヴァスの口調にミシュナを拒絶するようなものは感じられない。
その非の打ち所のない対応、何もかも最高級の家具と寝具。そのうちに出てくるであろう最高級の食事を想像してしまって、ぶるぶると拒絶する。
食事は美味しいのに越したことはないが、分相応のものが一番美味しいと思う。ここで取る食事は、不相応過ぎると思った。だから。
「帰ります……」
「どちらへ?」
「どこって……俺の部屋……」
「ですから、ここがミシュナ様のお部屋でございます」
「……」
きっぱりと言われ、呆然と見つめる。
「ここ?」
「はい、左様でございます。ただ客室を急遽直しましたので、まだ足りぬ物が多くございますが。ああ、こちらに、宿舎にありました荷を運んでおります。着替えの衣服は最低限の物のみご用意しております」
──なにぶん、一日しか余裕がありませんでしたので、全てではありませんが──
僅かに含まれた戸惑いには気付いたけれど、それよりもっと気にかかる事があった。
「それは……つまり……」
けれど、最後まで言い切ることはできなかった。
──薬草園にいる時にはもう決めてたって事かよ……。
用意周到と言うべきか、唯我独尊と言うべきか。
はたまた、さすがに貴族の息子と言うべきか。
どの言葉もテルゼに相応しいと、ミシュナはがくりと肩を落とした。
判ってはいたけれど。
それでも想像を越えたことをしてくれる。
「なんか……疲れた……」
力の抜けた体を横たえれば、ヴァスが体に布団をかけてくれた。
「どうか、本日はごゆっくりお休みください。後でお食事をお持ちします」
「……どうも……」
何もかもして貰うのは気が引けた。
けれど、遠慮する隙などなくて、黙ったまま扉の向こうに消えていくヴァスの細身の背中を見送った。
上げ膳据え膳が普通の世界なんだな?と、いい加減麻痺し始めた頭が考えたのはそんな事だった。
第2騎士団の執務室。
王城の東の外れにある騎士団の執務室は、全てが中庭に面して並んでいた。その一角に第2の部屋もあって、そこに団長、副団長、参謀長の三人がいつものように顔を揃えていた。
だが、苦笑を浮かべる団長シュートリアンと違って、テルゼの機嫌は最悪だった。それこそ、朝までの皆が呆れるほどの上機嫌さは、今はどこにもない。
原因は、参謀長ラーゼの執拗なまでの追求による。
昨夜ロッシーニ殿下のお墨付きは貰えたとしても、隊員の異動にはそれ相応の手続きがいる。
その仕事はたいていラーゼが行うのだが、いつもは何も言わないラーゼが、書類一つとっても文句を言うのだ。
まして、ミシュナが寝ていると聞いた途端に、その追求はさらに激しくなった。
「異動するにしても、今回は急ですし、向こうの団長さん達にご挨拶もできてないんですよ。確かに、ミシュナは本来休みなのですが、それでもこの異動は、本人も連れて話をつけなければなりません。こちらの都合だけで話が済む問題ではないんです」
決して声を荒立てることはしないが、言葉の中に嫌みが見え隠れしていた。それに気付く度に、テルゼの顔が顰められていく。
「第5の団長には私が話をしよう」
「欠員ができる59の補充についても、何らかの対応をしなければなりませんしね。何せ、こちらの副団長の我が儘のせいですし」
普段からいろいろと面倒を押しつけているという自覚はある。
それをまたラーゼは、難なくこなしていってくれるから、つい頼る。
だから、ラーゼには弱い。
まして、頭の良いラーゼに口で敵うはずもない。そのラーゼにこんなふうに責め立てられては、テルゼは黙って聞いていることしかできなかった。
「それに、ミシュナにしてもいきなりこんな状態では、この後体が保ちませんよ」
「むう……」
確かに言われれば、悪かったという自覚はある。
普段から、自分に絶対の自信を持つテルゼは、後悔などはあまりしない。たとえ失敗しても、その時々の判断は間違っていなかったといつも思っている。
だが、気心の知れた執事には頼んだと言え、起こそうとしても起きなかったミシュナの様子を思い出すと、やはり後悔は湧いてきた。
やりすぎたな、とは思う。
その前の行為で傷つき、熱まで出したのだ。
無理すれば、さらに悪化させる事は判りきっていた。けれど、いざ事を始めてしまうと、ミシュナの痴態に加減ができなくなる。
大人との境にいる少年の瑞々しさと、少女の儚さ。そして、娼婦のような淫猥さと騎士としての誇り。
その全てが、ミシュナにはある。
無理をすればするほどそれらの要素が交じり合い、露わになって、テルゼを興奮させるのだ。
それは、敵を前にした時の高揚感に近い。
力を封じ込め、屠りたい。自信と誇りを打ち砕き、その顔を恐怖に彩りたい。
ミシュナと相対する時、そんな危険な高揚感に自分が支配されるのだ。血がたぎって、どうしようもなくなる。
「どういう感情なんだ、それは」
シュートリアンが呆れたように言うのに。
「それが私の愛で方なんだよ」
笑って返せば、さらに呆れられた。
ため息を付いたラーゼの追求がさらに厳しくなったのは、閉口ものだったが、今更自分の性癖を変えることなどできない。
「確か、先だってまで付き合っておられたベルトージェ嬢もその前の花屋の娘も、さらにその前は執務官の娘。確かみな向こうから断られましたよね。強引すぎて、自分勝手でついて行けない、と」
「う……」
突きつけられた事柄は全て事実。
狼狽えるテルゼに、ラーゼはさらに言葉を続けた。
「精力が強すぎて割が合わない、と、娼婦には言われるとか」
そんなことまで……。
一体どの女がそんな事をこの男に伝えたのか?
脳裏に浮かぶ複数の女は、顔立ち位しかよく判らない。
「まあ、今度の相手は体力だけはあるようだが……」
シュートリアンが肩を竦めて助け船を出すが、ラーゼはそれをも笑顔で切り捨てた。
「テルゼ相手では、どんな男でも敵わないのではないですか? それに彼はこれからが大変なんですよ。まだまだ身分不相応な上に技量も足りないわけですからねえ、副団長の勝手で。潰れなければよいですが」
「おい……」
参謀長の指摘はテルゼとて危惧しないわけではない。
だが、確か昨夜その参謀長自らが教育を手伝うと言っていたはずだ。
「ラーゼ、ミシュナは無理だと言いたいのか?」
「いいえ、彼はがんばれると思いますよ。ただし、こんなふうにあなたが邪魔をしなければ、ですが」
責める視線に思わずたじろぐ。
「まずは22の雰囲気にも慣れなければなりませんし、基礎だけでも教えなくてはなりません。そのためにも、今回のように不意に休む事は避けなけれなりません。あの子の面倒を見るつもりなら、そのことは重々承知して頂きたいものです」
正論には頷くことしかできない。
「判っている……」
不承不承という言葉に相応しく苦虫を噛み潰した表情で頷いたが、ラーゼは表情を変えることなく言い放った。
「ですので、今夜からは私の宿舎で預かります」
瞬間、書類に視線を下ろしサインを続けるラーゼをまじまじと見つめた。
「これが、彼の居住届けです」
「了解」
団長に向かって差し出された書類を奪いとる間はなかった。指先を掠めていった書類に、すでにペンを持っていた団長のサインがすかさず入る。
「一ヶ月位ですかね」
「そんなものだろう。それで物にならなければ、59に帰って貰うということだ」
「ちょっと待て?っ!! あいつは、私の家に住むんだぞっ! もう手配はしているっ」
「一ヶ月、研修期間だけですよ」
「そうそ、それくらい我慢しろ、それにロッシーニ殿下も同意されているし」
「え?」
何故にその名が出てくるのか?
呆然と聞き返せば、返事は簡潔だった。
「壊されないよう見張って欲しいと、女性から懇願されれば叶えるしかないでしょう」
簡潔すぎて訳判らない。
「女性?」
「昨夜、あなた達が先に帰った後にね」
口の端が上がったその笑みに、背筋に寒気が這い上がった。
「ロッシーニ殿下も、彼女のたっての願いを受け入れられたし」
シュートリアンのその笑いを含んだ口調は、明らかに楽しんでいた。
「……『ホァン』の主人か?」
「いえ、リシュナからです。ミシュナの姉君ですよ」
「ついでに言えば、ラーゼの許嫁なんだが」
「え……」
初耳だった。
女性との浮いた噂一つ聞いたことのないラーゼに許嫁がいたことも驚きなら、その相手がリシュナであることもだ。
「いつの間に……」
「言いふらすことではありませんので」
「もう1年になるぞ。ほんとに知らなかったのか?」
「知るか……」
そういえば、ミシュナ達をシェルレアの元に連れて行ったのもラーゼだった。幼い頃から今まで、ずっと様子を見ていたと言うことか。許嫁で1年なら、一体いつからこの二人は付き合っているのだろう?
素朴な疑問が湧いて出たが、それよりも、と自分達の問題を先にする。
「……で、リシュナが壊すなと?」
「ええ、それまでは私がミシュナの後見人ということで彼を守る約束をしましたので。まあ、それもテルゼが本当にミシュナのことが判るまで、という条件付きですが」
「……?」
「判らないでしょう?」
「ああ、全く判らんな」
何が言いたいのか、と視線で問うが、ラーゼは口元に笑みを浮かべただけで何も言ってはくれない。
「そういうことで、まず第一弾としては、いろいろと忙しいこの時期にミシュナの心労を少しでも軽くするために、私の所に泊めます。そうすれば、夜間も教育は可能ですしね。まずは一ヶ月。その間に22中隊にも慣れて貰います。ですから、今日はともかく明日にはよこしてくださいね」
ロッシーニ殿下も承諾した事柄は、テルゼの文句程度では変えようがない。
つくづく昨夜先に帰ったことを悔いるが、今更どうしようもなかった。
「……ミシュナに手を出すなよ」
「私にはリシュナがいますから、ね」
にこやかな笑みのラーゼの背後にあの勝ち気な娘の幻影が見える。
そういえば、前から睨まれることが多かったとは思っていたけれど。誰よりも弟思いのリシュナが、まさかラーゼを取り込んでいたとは。
しばし呆然と幻影を見つめていたが、それでもいつまでもそんな物に圧倒されるテルゼではなかった。
細めた目で睨み返し、知らず低くなった声音で唸る。
せっかく取り戻したというのに。
重いため息を零して、それでもテルゼは薄く笑んだ。
障害があるのは鬱陶しいが、それでも切り開けないわけではない。
「あいつの何が判らないのかは知らないが、それでもあいつの心は私にある。お前らなんかに負けやしない」
リシュナにもラーゼにも。
他の邪魔者達全て。
「確かにあなたが勝つのは簡単なことなんですけどね」
テルゼの意気込みを、ラーゼが意味ありげに微笑みながら返してきた。
「本当に……簡単なんですよ」
「当たり前だ」
一体何が言いたいのか判らない。だが、ラーゼが教えてくれるはずはない。判りきっているから、テルゼは言い切った。
それにしても、明日にはもう……。
一ヶ月の間、あの体に触れることができなくなる。そう思うと、今すぐにでもミシュナの元に帰りたくなって。
「どこへ行く?」
シュートリアンの訝しげな問いかけを肩越しに返した。
「ラーゼ参謀長殿の言葉をミシュナに伝えに行きます」
「ちょっ、待てっ!!」
「それだけじゃないだろうっ!」
喚く二人の言葉などもう耳に入っていない。
嬉々として帰宅の途についたテルゼの頭の中は、体の下で身悶え快感にとろけたミシュナの表情で一杯だった。
次の日。
約束通りミシュナはラーゼの元にやってきたけれど、とても皆に紹介できるような状態ではなかった。
青白い顔に浮かぶ濃い疲労の色。挨拶する声は掠れ、歩くのも辛そうだ。首筋に色っぽい朱印を浮かばせ、零すため息の艶っぽいこと。
その原因が何であるかは明らかだ。
そんなミシュナをもしリシュナが知ったら。
「マズイかも……」
脳裏に浮かぶのは、怒りまくる最愛の娘の顔。
今日から引き取った事を知っているはずの彼女が来るのは時間の問題だ。守り切れていないラーゼに怒りの矛先が向くのは必至で、それに何と言い訳しようかと、珍しく頭を抱えて嘆息を零すラーゼだった。
【了】