外苑の乙女 前編

外苑の乙女 前編

?ケレイス王国騎士ミシュナ(19)と任務中に出会った男の話。玉の輿物語。


 17の年に騎士団に入隊してようやく2年。
 もうすぐ成人の儀を迎えるミシュナは、見習いの地位から脱却し、剣の腕も上がってきた。
 騎士団に入ってから出会った仲間達とは気が合って、何をしても楽しい。いつも休み前になると集まって飲んだから、すっかり酒にも強くなった。というより、元からあんまり酔わない体質だったらしい。
『女みてえのにな?』
 そんな言葉を笑い飛ばせるくらいの度量もできたと思う。
 その日も、久方ぶりに貰えた一週間の休み、何をしようかと、仲間達と盛り上がっていた。
 なのに。

「たかだか59のクセに」
 あざ笑うその声音に、一気に血が上った。
 普段から荒くれ者が集まりやすい下町の警備を担当しているせいか、血の気は多い方だ。それに加えて、ミシュナは雰囲気に酔う質だった。賑やかな酒場の雰囲気に、気がすっかり大きくなっていたのだ。
 そのせいか、ノードの戯言に先頭を切って突っかかっていった。
「だから、なんだって?」
 気が付いた時には、剣の柄に手が掛かっていた。
 組み合わされた二振りの剣に四対の翼を持つ鷲。
 ミシュナとてその紋章を胸の飾りにする騎士だ。王城警備のノードに格下と思われるのは仕方がないとは言え、だからと言って、面と向かって侮蔑されるいわれはなかった。
 

 ミシュナが騎士として所属するケレイス王国は、大陸の西南にあって広大な土地を保有する国だ。最南端は常夏で、最北端は一年の2/3が冬という両極端な部分もあったが、ほとんどの地域は温暖で気候に恵まれていた。
 そんなケレイス王国を護るのが、1から9までの騎士団だった。
 騎士団はさらに9の中隊に別れ、さらに任務によって個別の班に分かれる。
 通常はその班毎に任務にあたっていた。
 ミシュナは59中隊の所属で、正式名称は第5騎士団第9中隊だ。城下の警備が主たる任務だ。
 反面、ノードが所属するのは、23中隊で、第2騎士団第3中隊を表す。主たる任務は王室警備だ。
 各騎士団の第1中隊は指揮系統だから、これはよほどのことがない限り所属することはできない。だから第2中隊は、騎士ならば誰もが望む最高峰と言われていた。現に、22中隊は王室親衛隊を務めている。それこそ騎士ならば誰もが憧れる中隊だった。
 だが。
 どの中隊に属していようと、それぞれの任務の重要性はどこだろうが違いはない。
 23が、親衛隊候補生達の集まりで、エリート中のエリートだということは、否定はしない。
 ミシュナとて、騎士である以上、王族の近くにと願うこともある。
 だが、ミシュナは今の中隊の仕事に満足していた。
 もとより人と関わることが好きだ。
 何せ育った所が、貧富が入り交じり、法すれすれの稼業が大手を振っているような場所だった。ミシュナとて、このノードが聞けば眉を顰める人達と親しかったりする。
 だからこそ、ノードのように親衛隊以外は屑同然だと侮蔑する輩が大嫌いだった。
 それにノードは、任務のえり好みをすると聞いたことがあった。
 面倒な任務は、目に付いた全く関係ない騎士を捕まえて、無理にやらせるとか。
 その苦労を横取りして、さも自分がしてきたように報告するという。
 騎士の風上にも置けない愚行だ。
 そんな噂を聞く度に、いつも腹立たしく思っていた。
 王城警備も城下町警備も、海を守る第8騎士団も、越境区を守る第9騎士団も、それぞれに意味がある。どの騎士団に所属しようと、任務を全うすることに誇りもある。
 そう思っているミシュナにとって、このノードの思考は相容れない。
 だが、腕に自信を持つノードがそんなミシュナをせせら笑い、誘うように剣を叩いた。
「たかが59程度の腕で俺に勝てると?」
 挑発している。
 そんなことは判っていた。けれど、引けない。
「そんなもん、やって見なきゃ判らないだろうっ!」
 勝敗は、剣技だけで決まるものではない。
 その時の運と、戦略が勝敗を覆す。
 城下町の、特に治安の悪い下町を担当しているから、実戦だけはこなしていた。
 実際、生死の境を彷徨ったことだってある。それでも、生き延びてきたのは、腕の力だけを過信しなかったからだった。
 どんな方法を用いても勝つ。
 振り向いてくれた運を絶対に逃さない。
「ふん」
 鼻で笑うノードを睨み付け、店の外へと促す。
 騎士同士の諍いで、他者へ被害を与えることは御法度だ。
 相手を必要以上に傷つけることもだ。
 無用な戦いで貴重な戦力を失するのは、国への謀反と同じ。
 それでも真剣勝負には何が起こるか判らない。
 賑やかな取り巻きは、ノードを褒め称え、露骨にミシュナを罵倒した。
 仲間のフィブ達が仕方ないと付いてきながら、ノードの取り巻き達に睨みを利かせる。
「うまく負けろよ」
 一番難しい事を要求するフィブに、唇を尖らせた。
 そんな仕草をすると子供のようだと笑われやすいのに、油断するとつい出てしまう。気付いて舌打ちし、手の汗を拭ってから剣の柄を取った。
「負けるつもりはねえよ」
 擦過音と共に、剣を抜く。
 ミシュナの剣は細い。
 薄く軽くすることで、一撃の破壊力は犠牲になったがその分機敏性に優れていた。
 だが、対するノードの剣は大きい。
 身の丈にあったその長さからしても、破壊力はかなりのものと思われた。
 まともに組み合えば、その衝撃はすさまじいだろう。
 うまくその衝撃を逃さなければ、まともに腕に響く。
 敏捷性を取っているのは、打ち込まれると弱いから。痺れた腕では、剣は振るえなくなる。
「……逃げられるかな?」
 口の中で小さく呟いた言葉が、意外なほどに消極的で驚く。その言葉通りに、いざノードと剣先を合わせた時、背筋が震え、恐れが先に立った。
 ノードの気迫が圧迫感となって、押し寄せてくる。
 ヤバイかも。
 自らの言葉が言霊となってしまったような気がした。
 僅かに浮かんだ不安が、強大な圧迫感に煽られて成長していく。
 伊達じゃないんだ……やっぱ。
 それほどまでに、構えに隙がなかった。
 鋭い突きが迫る。
 かろうじて避けても、すぐに次が来る。
 一陣の風は痛みすら共なった。
 目で見ていては間に合わない。音を聞いても間に合わない。
 ミシュナの剣の数倍は重そうな剣を、ノードは軽々と振り回していた。
 身軽さを身上とするミシュナだからこそ、かわすことができている。咄嗟の動きは勘でしかない。
 だが、痛みは確実に数を増やしていた。
 剥き出しだった二の腕や顔に、髪の毛ほどの線が幾つも走っている。白いただの線が、薄く赤い色を付け、流れる滴となるのにそう時間はかからなかった。
「んくっ!」
 一際濃い赤が飛沫となる。
「ひっ」
 観衆が悲鳴を飲んだ。ざわめいていた周囲から一気に音が消えた。
 だが、ノードの攻撃は止まない。いたぶるように剣を振るい、ミシュナの顔が歪むのを楽しんでいるのか、その顔には笑顔すら浮かんでいた。
 ミシュナも幾度も剣を振るった。
 意識しているわけではない。
 そうしないと負けるからだ。少しでもノードの動きを遅らせ、次の一撃を避けようとする。
 だが。
 視界一杯に鈍色の光が過ぎた。
 ふわりと舞ったのは、ミシュナの金の髪。
 剣が腕から弾け飛び、拍子に頬を傷つけた。
 頬を流れる感触に、傷を負ったことは判った。
 鼻腔に近い位置のせいか、生臭い匂いが鼻につく。意外に頬からの痛みは少なかった。
 それよりも、腕が重く怠い。
「ミシュナっ!」
「もう止めろっ!! 離れろっ」
 仲間の声がやけに遠く聞こえる。
 ぜいぜいと喉が鳴り、血流が煩いくらいに耳の奥で鳴っていた。
「口ほどにもねえな」
 ノードの侮蔑が聞こえたが、顔を上げることができない。整わない息が喉を痛め、視界すら狭くする。そんな中、ノードの靴が視界の端に入ってきた。
「自分の力量が判らないんだからな」
 笑われた。
 込み上げる悔しさに唇をきつく噛むが、反論はできない。
 ノードの言葉は剣の指導者にも言われている真実で、明らかにミシュナはノードの敵ではなかった。
 かすり傷とはいえ、血を流したミシュナと違い、ノードは息すら乱していない。
 地面に付いた手に視線を向ければ、柄の形に曲がったままの指が見えた。
 その指を動かそうとして、関節に鈍い痛みが走った。
 重い剣の勢いに、数度受けただけの手がひどく痺れていた。
 それでも──負けたくない相手だった。

「さて、負けた坊やには……罰がいるよな。俺に刃向かったんだからな」
 ノードの常套手段だと、誰かが言っていたか?
 どうやら今度の標的は自分達の誰かだったのかと、今頃になって気が付いた。
 わざと煽って、決闘をしかけ、負けた罰だと仕事を押しつける。
 そんなノードの常套手段に乗ってしまったことが、情けなさに拍車を掛けた。食い縛った唇から血の味が口の中に広がった。
「西のメディシン薬草園で薬師に手紙を渡して、薬を貰ってこい。期限は7日。簡単だろう?」
「メディシン?」
「そうだ。簡単な仕事だ」
 見上げた先で、無造作にノードが革袋と手紙を放り出した。
 メディシンまでは荒れ地は通るが、城下からそれほど離れていない。一日かければ着くことができるだろう。第一、騎士団の警備範囲でもあるが、任務の危険度としては低い。
「なんで自分で行かない?」
「簡単すぎて面倒くせえ」
 任務の意味を考えない返答に、ため息しか漏れなかった。
 こんな決闘をしなくても、ノードの腕が優れていることは知っていた。剣術大会では毎回上位に入っている。だが、それだけだ。
 ミシュナが信じる騎士の姿とはかけ離れた男。
 そんな男を目の当たりにして──そんな男に負けた自分が悔しくて。
 新たな傷ができるほど、ミシュナは唇を噛みしめてしまっていた。

?
2
 薬草園まで、馬を走らせれば1日程だ。
 もっとも薬によっては受注生産のものもあるから、内容によっては7日でもぎりぎりの可能性はあった。
 そのため、決闘の翌日、ミシュナは朝早く宿舎を出た。
 向かうのは城下町を囲う壁の外。
 外敵を防ぐ高い石の壁の門から、ミシュナは愛馬と共に出て行った。
 この壁を出入りするには国民である旨を表す証明書か、他国の正式な身分証明書が必要だった。無ければ何人たりとも立ち入ることは許されない。
 だが、故あって身分証のない者も、旅の途中で盗難・紛失にあった者も実際にはいる。他国からの旅人や流れ歩く交易人達もいる。
 そんな人たちまで閉め出すほど、ケレイス王国は狭量ではなかった。
 身分証を持たない者達は、壁の外にある街『外苑』にまず寄るのだ。
 その『外苑』にある検査所で、入場を許可できるかどうかの審査を受け、合格すれば入場が可能になる。
 ただ、時間はかかる。
 『外苑』はそんな旅人達が時間待ちをしているうちに大きくなった、また別の城下町だった。
 もちろん、壁の中に入ることが叶わない犯罪者も多く居留している。闇市も犯罪者集団の巣窟もあると言われている。
 事が起きれば、その荒々しさは壁の中の比では無い。
 それでも、『外苑』は潰されることなく存在していた。
 なぜなら、『外苑』もまた、壁だからだ。
 雑多な人種が住み、無秩序に広がった街は、外に通じる何本かの大通り以外は複雑に絡み合い、迷路を作り上げている。
 最短距離なら馬で一刻もかからないであろう道のり。が、知らない人間はまっすぐには進めない。
 たとえ正しい道を辿っていたとしても、何気ない酒場が兵士のたまり場であったり、騎士達の休憩所であったり。
 迷った先が娼館で、彼女たちの悲鳴が騎士を呼び寄せる。気が付けば取り囲まれている事も日常茶飯事なのだ。
 一見弱々しく見えた娼婦が実は眼光鋭い密偵であることが、公然の秘密として存在する街。
 情報は犯罪者を泳がせてでも手に入れるべき代物。
 この町を取り仕切る犯罪者組合の元締めは、ケレイス国の王弟であるという噂がまことしやかに囁かれるほどだった。

 そんな『外苑』の中にある楼閣に辿り着いたミュシナは、そこで改めて旅支度をしていた。
 手伝っているのは豊かな金髪を高く結わえ、煌びやかな布地で豊満な体を覆った若い娘。
 薄い布地が彼女の体の線を誇示している。明るい声音は人を魅了する歌を奏で、朗らかな笑みは人を和ませる。この辺りでは知らない者などいない娘、リシュナだ。
 その横顔は驚くほどにミシュナに似ていた。
 僅かに違うのは、瞳の色だけ。ミシュナの紺碧の瞳に比べ、彼女はもう少し淡い色をしている。
「まったく、慎重なようで短気なんだから、困ったものね」
 肩を強く叩かれ、痛みに顔をしかめた。
「……ついね。飲み過ぎたんだよ」
「うそおっしゃいっ。どうせ雰囲気に飲まれたんでしょうっ」
「さすが姉さん……。よく判ってる……」
「だてに双子じゃないわよ」
「……あはは……」
 『外苑』でも老舗の高級料亭兼娼館を営む『ホァン』の看板娘にかかるとミシュナも形無しだ。
 彼女の前に出ると、血気盛んな騎士ミシュナも、大人しく見えるほど。
 というより、まさしく大人しくなってしまうのだ。
 反論する気などとうていなく、肩を竦めて黙々と馬に荷物を取り付ける。
 普段は城下町の騎士の宿舎に住んでいるのだが、休みを過ごすために帰宅する旨を伝えていた。だが、その休みもノードのせいでパアだ。
 その事をリシュナに伝えるために寄って、ついでに旅支度を手伝って貰っていた。
「ごめんな。姉さんと遊びに行く約束だったのに」
「まあ、それだけは悔しいけどねえ。せっかくシェルレアさんから休みをもらっていたのにさ」
 ミシュナとリシュナは、前の戦争の時の孤児だった。
 だが、幼すぎた故か、ミシュナにはその頃の記憶はあまり無い。気が付いたらこの姉が、ミシュナを引っ張ってこの『ホァン』に連れてきたのだった。それが5歳の時。
 豊かな金の髪はこの地方では珍しいから、たまたまこの地に来ていた商人か何かの子供だろうと言われていた。
 ミシュナも15の年まで、この楼閣の中で育ったのだ。
「せっかく、自慢の『妹』を見せびらかそうと思ったのに」
「止めてくれよ。まだ女装させようって?」
 嫌そうな一蔑は、あっさりと頷かれて玉砕した。
 零れそうになったため息を飲み込んで、まだ任務の方がマシかも、と一人ごちる。
 育ての母の性格そっくりな姉には、いつも負ける。
「だってねえ。あさってにはロッシーニ殿下か来られるっていうからさ、どっちが本物ってやってみたいのよ?」
「殿下? こんな所に? って、何でそんなことしなきゃなんないんだよっ」
 口を衝いて出たいくつもの疑問と共に、顔から音を立てて血の気が引いた。
 騎士とは言え、殿下ってどの人だっけ? という程度でしか会うこともない。謁見式で、遠くに拝顔するくらいだ。
 だからと言って、騎士が娼館の遊び事に出演したなんてバレたらひたすらマズイ。
 なのに、この姉は──そしてシェルレアはやると言ったらやる。
 ミシュナとリシュナは、同じ格好をしていると、片側が男とは思えないほどに似ている。そんな二人を立たせてどちらが本物のリシュナか、賭けるのだ。当てることができたら店からも賞金を出すから、初めて来る客には絶対に受ける。
 15の年まで幾度もやらされた。
 賭が終われば、リシュナは踊りを見せ、肌を露わにできないミシュナは奥に下がる。
 おとなしいとそれはそれで人気だったが、男である以上嬉しいものではなかった。
 それに、目立ちたくもなかった。
 騎士の入隊が決まって、出なくて良くなった時には心底ほっとしたものだったのに。
「だから、任務と聞いてすっごい残念っ」
 俺は、すっごい嬉しいよ。
 イヤだイヤだと思っていた任務が、まるで王勅命のようにすばらしく感じる。
 あんなに嫌っていたノードにすら、手を合わせたい程だった。

 
 名残惜しそうに見送るリシュナから逃れるように出発した。
 奥深くは知らない人間ならまず迷う道のりも、子供の頃からこの街並みで過ごしてきたミシュナにとっては城下町より馴染みが深かった。
 最短距離で大通りまで抜ければ、後はまっすぐ進むだけだ。
 7日あると行っても、休み全てを他人の任務なんかで使うつもりはなかった。
 殿下来訪は寝耳に水だったが、忙しい殿下が一週間まるまる滞在することは無いはずだ。早く行って早く帰って。せめて、残りの休みは有意義に使いたい。
 メディシン薬草園まで早足で馬を駆れば、その日の内に着くことも可能。そう思って、ミシュナは鞭を振るった。
 『外苑』を出て、一刻もすれば木々が極端に少なくなる。
 昔行われた戦火の名残で、ところどころにこんもりと小さな森が有るばかりだった。
 昔は広大な草原だったという。馬や牛を放牧し、毛皮や肉、牛乳を売り買いする市も建っていたという。けれど、戦争が終わった時には、この地には屍しかなかった。
 あれから数十年経っても、草はなかなか育たない。
 地面が吸った多量の血肉が、草の根を枯らしてしまうのだと、学者は言っていた。
 そんな辛気くさい場所を嫌って旅人もここを避けて通る。
 その中をミシュナはひたすら馬を走らせていた。
 死霊など怖くはない。
 記憶にない頃の戦争の悲惨さは、義理の親に恵まれたミシュナにとっては遠い過去のものだった。
 それより今は、いつもより暗い空が気にかかる。
 先より雲が多くなった空を見上げて、眉を顰めた。
 この季節、昼間は暖かな陽気に晒されて、半袖でも可能だ。だが、日が暮れてからは急速に冷える。まして、雨などに降られては、今の着衣では凍えてしまうだろう。
 念のために持ってきた外套を羽織り、さらに馬の足を速めたけれど。
 ぽつぽつと頬を打ち始めた水滴に、顔を顰めた。
 予想以上に冷たい雨は、降り始めの穏やかさを裏切るようにどんどん激しさを増していく。
 外套は雨天兼用で表層に油を染みこませたものではあった。だが雨は、そんな簡易的な装備をあざ笑うかのように激しくなっていく。
 今までは馬の駆ける音だけが響いていたのに、今はもう雨音と風の吹きすさぶ音しか聞こえなかった。
 金の前髪が額に張り付き、顔を流れた水滴が首筋にまで伝い身を震わせた。
「ダメか……」
 願わくば今日中に、と思っていたが、これでは早々に寝る場所を確保した方が良いだろう。
「参ったな……」
 伝う滴を払い避け辺りを見渡す。
 まだ明るいはずの時間なのに、見通しがきかなくなっていた。救いは、走らせている道が迷いようがない一本道だということだろう。
 幾つかの森を巡ってみたが、どれもが小さい。
 馬と人がしのげる場所はなく、ミシュナは雨が当たらない場所を求めた。
 冷たい雨が体温を奪う。
 手綱を握った手がかじかんで、鈍い感触しかない。それに眠くなってきていた。
 昨夜遅くまでやけ酒を飲んでいたのが今頃になって効いてきた。
 激しい睡魔に身を任せれば、凍死するまで寝ることになるだろう。その自覚はあっても、ミシュナの瞼はどんどん重くなっていく。
「ん……っ」
 がくんと頭が落ちる。
 衝撃で一瞬は目が覚めた。だが、すぐにまた瞼が降りてきた。
 やばい……。
 意志の力ではどうしようも無くなってきて、頬にあたる雨すら眠気覚ましにはならなくなった頃。
 ようやくそこそこの大樹を抱えた森に行き着いた。
 昔からあるのだろう、しっかりと根を張った木々の梢は大きい。
 これならば中心部は、乾いているかもしれない。
 そう思って、馬から降りた。
 数えれば50本にも満たない。そんな小さな森だ。
 だが、一本一本が大きい。
 奥まった場所には掘っ建て小屋も見え、雨をしのぐには十分そうだった。
 そのことにほっと安堵して、肩の力を抜こうとした時。
「誰だ?」
 誰何の声の鋭さに、息を飲んだ。

?
3
 誰何の声に身構える間もなく、目に灯りが入る。その向こうに人が影となって映っていた。
 さっき見つけた小屋の陰だ。
 もう何年も風雨にさらされ、崩れかけた壁の向こう。柱と屋根があれば雨宿りには十分だと思った。その人もそう思ったのか、その絶好の雨宿りの場所から現れた。
 ごくりと息を飲む。
 近づくにつれ、すらりとしたバランスの良い体格にまず気が付いた。視界が利く程度の薄闇の中で、それでもしっかりとした形の外套が判った。
 ミシュナのように型くずれなどしていない。
 雨粒を弾いて、滴となって落ちていくほどに撥水性を保っている。
 長年の習慣からつい見て取ってしまったその羨ましいまでの服装に、気を取られたのは一瞬だ。
 灯りは男の持つ灯火から発せられたもので、意外な明るさで男を照らし出した。
 まだ若い。
 それでも大人としての威厳は十分に備わっている。20代か、いって30代。
 まっすぐな銀の髪を肩のあたりで一つに束ね、後に流していた。細面に形良く並ぶ双眸は、深い緑色。その瞳に灯火の色が映り、感情を窺いにくくさせる。
 どこかで?
 ふっと浮かんだ疑問を掻き消すように、馬の鼻息が聞こえた。
 自分のものでないそれに、びくりと肩を震わせて見やる。
 そこにいたのは逞しいまでの体躯を持つ駿馬だった。
 少なくともミシュナが持つ馬よりは、ずっと優れているだろう。栗色の毛並みは、雨などに振られていないかのように艶やかに輝き、ミシュナに向けられた瞳が荒々しく威嚇してくる。
 上位の騎士か貴族か。
 鋭い眼光は安穏とした貴族にはないものだろう。ならば騎士。もしくはその両方が当てはまる人物。
 それもゆったりと立っているようで隙が窺えない。
 たいした腕を持たないミシュナからでも、はっきりと判る力の差に、ぞわぞわと尻の辺りがむず痒くなってきた。いますぐに一礼して下がりたい。
 こんな相手なら、一度見たら忘れないはずだ。
 ずっと昔の記憶の片隅に追いやったあの頃に出会ったのだろうか?
 ならば気にすることはない、とミシュナは、今をどうするかに意識を向けた。
 誰何の後、何も言われていない。
 ミシュナも何も返さない。
 男の訝しげに寄せられた眉根が、さらにきつく寄せられた。けれど、それも一瞬のこと。すぐにシワが薄れ、視線が外された。
「違う…か……騎士……」
 微かに聞き取れた言葉の意味に眉根を寄せて見返す。
 外套を着ているとはいえ、剣と騎士の服装は垣間見えたから、騎士と判ってもしょうがない。
 だが、男の言葉は意味合いが違うような気がした。
 まるでミシュナであったことに安堵しているような、だが、不審気でもあるような。
 しかし、剣を下ろし、地にあった荷物に手を伸ばすその横顔からは何も窺えなかった。
 だが、視線が外れた時、ミシュナは知らず息を吐いていた。その時になって、全身がひどく強張っていたことに気が付いた。
 その緊張感が、『外苑』で培った防御本能だと気付いた時には息を飲んだ。
 意識するより先に、体が警戒を強くする。それ故に、一礼して後ずさっていた。
「すみません……。他の場所を探します」
 踵を返しながら、頭巾で頭部を覆う。
 梢の間から落ちてくる雨は冷たい。だが、ここにいると何かが起きそうで、ミシュナは足早に離れようとした。
 疲れた体が、そんなミシュナを責める。
 怠い手足はそれでも意志の力でねじ伏せた。
 警戒しなければならない相手の傍らで、休めるものではない。
 だが、馬の近くまで来た時、誰何の時と変わらない声が響いた。
「待て」
 あの時にも感じた叱責にも似た声だ。
 命令することに慣れた、従わなければならないと思わせる声音。
 びくりと首だけが動いた。
 肩越しに振り返った先で男が、ミシュナを見据えていた。
 そして。
「名は?」
 応えるいわれなど無い。なのに、口が勝手に動く。
「ミシュナ……」
「所属は?」
「59の6……っ!」
 全てを露わにしろと言われているような力に、ミシュナは班の番号まで言っていた。しかも、言い終えてから気付く始末だ。
 失態に顔を顰めて動揺するミシュナとは逆に、男は冷静だった。銀の髪の煌めきが冷たさを感じさせ、緑の瞳が暖かな中に鋭さを見せている。
 その瞳が細められたのが唯一の変化だ。
 唇が59と呟く。
 数字を気にするということは、騎士の級を知っているということだ。9は第9中隊。騎士団の中でも見習いがまず配属されるところ。
『見習いは卒業だが、もう一つ上に行くにはまだもう少し経験を積む必要がある』
 班長に言われた言葉が脳裏に甦る。
 同じ言葉をノードが呟けば、侮蔑が含まれていた。
 だが男の言葉にはそれは感じられなかった。
 不審そうに言葉を繰り返し、ミシュナを探るように見つめる。
 そして、もう一度。
「そうか、59に、ね」
 それが呆れた口調だと思ったのは気のせいではない。
 さすがにムカついて、奥歯をきつく噛みしめる。だが、怒りの言葉を出すことはなかった。
 それより先に男が、言い放ったからだ。
「ここで休めばよい。詰めればもう一人くらいなんとかなる」
 別のことに気を取られていたからすぐには言葉の意味が判らなかった。
 言われてから考え始め、動きが遅れる。
 途端に、「さっさとしろっ」と怒鳴られた。
 これにはさすがにミシュナもさらに頭に血が上った。
 見ず知らずの人間に怒られる筋合いはない。
 なのに、男はふっと顔を向けると、言った。
「私は、テルゼだ」
「テルゼ?」
 深く考えずに繰り返すと、「そうだ」と返された
 怒りは思考能力を衰えさせる。
 ようやく名を言われたのだと気付いた時には、ミシュナの怒りは矛先を失っていた。
 いい様にされている、と思わずため息を吐く。
 結局は格が違うのだろう。
 確かに怒りは湧くが、それはノードに対するようなものではなかった。だからこそ、一呼吸置けば、何とか我慢できた。
 テルゼの馬から少し離れたところに自分の馬を繋ぎ、荷を下ろす。
 手招きされた場所に腰を下ろせば、そこは雨の中にもかかわらず十分乾いていた。思わず見上げれば、梢が密集し、空すら見通せない。
 ここなら多少の雨でも大丈夫だろう、と、ぼおっと木々を見つめる。
 きっと戦火にすら耐え抜いた森なのだろう。
 火に包まれてなお生き残った緑。
 凄いな、と思う。
 と、ぼんやりしている所に、不意に問いかけられた。
「どこに行く?」
「え? あ?」
 話しかけられたと気が付いて慌ててテルゼに視線を向ければ、相変わらず鋭い視線がミシュナを捉えている。
 言うつもりはなかった。
 だが、視線の強さにヘタな嘘よりはマシと思って素直に答えた。
「薬草園」
「なぜ?」
「……薬をもらいに」
 途端にテルゼが口を噤んだ。
 沈黙してしまった彼を見つめつつ、何かおかしな事を言ったのか? と首を傾げた。
 さっき感じた尻のむず痒さがまた込み上げる。
 この場にいるのが不釣り合いな気がしてきた。そして、その心の奥にある謂われのない恐怖心も少しずつ大きくなってきているような気がした。
 危険なのか? と考えれば、そうとは思えない。
 だが、やはり何らかの危険度は感じた。だが、どこに由来するのかが判らない。
 少なくとも命に関わるものではないだろう。
 しかし、放置するにはあまりに重い感覚。
 沈黙したままテルゼの手が枯れ枝を折る。
 瞬く間に組み上がった小さな焚き火に、灯火の火を移していた。
 その手際の良さに旅慣れている様子を感じた。
 手のひらにははっきりと判る剣ダコがある。
 近くで窺えば、着ているものも、僅かに衣服に付けられた装飾具もたいそう値の張るものだ。
 さっき馬の近くに寄った時も、その装身具は立派だった。
 貴族。
 貴族の息子の中には騎士になる者が多い。
 この男もそうした騎士達と同じ匂いを感じた。
 安穏とした貴族育ちの騎士達の中には力も何もないどうしようもないものもいるが、時に優れた力量の者もいる。そう言った騎士は、貴族であることをひけらかしたりはしないし、一般民出身の騎士達を差別などしない。
 もし差別をするようであれば、幾ら力量が優れていても、上には上がれないからで、そのことを一番よく判っているからだ。
 だから、ノードはあのままではきっと上には上がれないだろう。
 それが、ミシュナ達の仲間内での結論だった。
 あの時も放っておけば良かったのだ。
 思わず零れたため息を隠すことなく、ミシュナの視線はテルゼが点けた焚き火の炎を見つめていた。
 パチッと爆ぜた音に、目を瞬かせる。
 隣でテルゼが再び枯れ木を火の中にくべていた。
 骨太のしっかりとした指が、軽々と枝を折る。
 けれど、指の腹の柔らかな部分は剣ダコ以外に痛んだところはない。
 水や土を扱わない手だ。
 旅慣れているのにそんな手をしていると言うことは、普段は召使いなどが従うのかも知れない。
 肌は日に焼けているようだが、そちらも痛んでいる様子は見えなかった。昔流行った疱瘡の跡もないから、きっと予防ができる場所にいたのだろう。それか、悪化する前に薬を投与されたか。
 きっとミシュナとは違う世界の人間。
 そんな相手を見ることは慣れていたけれど、話をするのは苦手だった。
 だから、テルゼが不意に顔を上げた時、しまった、と思った。
 視線が絡んだ時、咄嗟に外そうとした。が、吸い込まれそうな瞳の色に魅入られたのも同時。
 淡いようで濃い。
 加減によって色味が変わるのだと、初めて気が付いた。
 それこそ不自然なほどずっとだった。枯れ木が爆ぜて、その音に自分が何をしていたのか気付いた。
 同性に魅入っていたことに、かあっと耳の後が熱くなる。
 自分の行動が判らなくて、視線を引き剥がすと目の前の焚き火を凝視した。熱いのは、その炎のせいだ。さっきより強くなったこの焚き火のせい。
 何度も炎が爆ぜた。
 微かに漂った異臭に、記憶を擽られる。
「油?」
 独特の臭気は、動物の脂の匂いだ。肉を焼く時にもこういう匂いがする。
「こういう時には重宝する」
 力強い炎がミシュナの顔を照らす。舞った風が、乾いた前髪をふわりと宙に浮かせた。
「脱げ」
 枯れ木がミシュナの衣服を指す。着たままの外套を見下ろして、合点がいったと頷いた。
「ああ……」
 だが、逐一指摘される様は、あまり心地よいものではない。それでも不快さは確かにあったから、ミシュナは黙々と重くなった外套を脱いだ。
 表面の油など意味を成さないほどに濡れそぼっていて、冷たい水の鎧を着ているような感触すらあった。
 ついで、靴を脱げば、流れるほどの水が出てくる。
 一枚取った方が暖かいほどだった。
 外套を脱げば、騎士の衣服が露わになる。焚き火の炎が、薄い青の服を赤く染めた。

?
4
 露わになった騎士服に、テルゼが反応した。
「ほんとに騎士なんだな」
 どういう意味だと問いかける前に笑われる。
 くつくつと喉の奥で笑う様に、不快さは増した。
「騎士、らしくないと?」
「いや……。ただ、私が知っている騎士とは違うな……と」
「……頼りなさそうか?」
 少なくともこんな姿では確かにそれは否めない。だから自嘲を浮かべたのだが、テルゼは、違う、と首を振った。
「そういう訳じゃない。確かに私の周りではあまり見ないタイプではあるが。ただ、こんな所で他の騎士を見るとは思わなかった。それに、薬草園に行く騎士というのは……そういるものではないと思ったがな?」
「そう、か?」
 騎士でも必要に迫られれば薬草園に行くだろう。
 確かに街の薬屋に行けば、薬草園の薬は売っている。だが、特殊な薬などは薬草園でないと手に入れられないことも多い。
 そう思ったことが顔に出たのか、テルゼが意味ありげに言った。
「確かに、薬草園まで行かないと手に入らない薬はあるが。たとえば……そうだな、媚薬、とか?」
 くすりと笑われた言葉に、また反応が遅れた。
 今度は当てはまる単語が頭の中に湧いてこなかった。
「びやく?」
 抑揚なく呟けば、テルゼの笑みが深くなる。
「そうだ、媚薬──とくに確実に相手を落とすとなると、特別に調合して貰った方が効き目が良い」
 落とす?
 ふっと首を傾げ、その次の瞬間、顔がぼんと火を噴いた。
 全身が一気に熱くなり、そんな言葉を言ったテルゼを呆けた顔で見つめる。
「な……あんた……媚薬なんか、買ってんのかよ……?」
「たとえばだ」
 にやりと口の端を歪ませた男から視線を外す。
 自分の露骨な反応が恥ずかしかった。
 媚薬など、ごく普通の物なら街の薬屋でも売っているから、恋人や夫婦が使うと楽しいとは聞いたことがある。別に一般的には問題がある訳ではない。
 ただ、ミシュナは媚薬は嫌いだった。
 顔を顰めて視線を逸らすミシュナに、テルゼの眉がぴくりと動く。
「おや、媚薬ではないのか?」
「ちょっと用事があって。それだけだよ」
 媚薬にこだわってからかおうとしているのがバレバレで、ミシュナは首を振ってその話題を断ち切った。
 考えたくもない。
 媚薬のことなど。
 あれは、人を狂わせるものだ。
 ずっと前に、いたずらに使われた娼婦を見た。あの惨状は一度見たら忘れない。
 ため息を吐いて口を噤んだミシュナに、テルゼも興が冷めたように口を閉ざした。
 沈黙が漂うと先刻感じた居心地の悪さが再び湧いてきた。
 じっとしてるのも堪えられなくて、ミシュナは荷を手繰り寄せた。
 ちょうど腹も減ってきた。
 焚き火から匂う油が食欲をさらに煽っているようだ。活発に動く腹の音が自分には判る。
 途切れた会話が、きっかけになったのも確かで、ごくりと唾液を飲み込むと、荷を解き、食料を取り出した。
 取り出した食料袋の中身は干し芋だ。
 火を通してから乾燥した芋は、甘くて疲れている時にはちょうど良い。ゆっくりと噛みしめるとさらに甘みが増す。
一口食べればすぐに先を欲して、瞬く間に一枚食べきった。
 袋の中を探り、次を取り出したところで、視線を感じて顔を上げた。
 横を向けば、テルゼがじっと手元を見つめている。
「旨そうだな」
 そう言った時の表情に、戸惑った。さっきまでの冷たさが消えて、素朴な期待感がその顔に窺える。
「……干し芋だよ、ただの」
 旅の時の常備食としては一般的なこれを知らない訳ではないだろう、とは思いつつ、窺う。
 ちらりと上目遣いに見られて、慌てて視線を逸らした。
 なんだって、そんなに期待するのか?
 この男といると居心地が悪くて堪らない。
 手に持った干し芋を口に銜えておいて、新しい物を袋から取り出した。
「ん」
 突き出せば、嬉しそうに受け取って。
「ありがとう」
 と信じられないことに殊勝な態度で礼を言う。
 なんか可愛いとこあるんだ……。
 それに、干し芋をおいしそうに頬張るところが、妙に似合わない。
 くっと、喉の奥で笑って、慌てて飲み込む。
 さっきまでの居心地の悪さが消えたような気がする。ならば、今のままでよい。
 今笑えば、またあの状態に戻るかも知れない。
 もう外は闇に包まれ、今日中に薬草園に行くのは叶わないだろう。
 となるとここで野宿は必死。
 だったら、今のような雰囲気のままでいたかった。
 それに、火を用意したのはテルゼだ。
 そのお礼も兼ねていると思えばいい。
 始まったばかりの旅で、いきなり二人分の消費は心許ないかも知れないとは思ったけれど。
 この男の笑顔が見られるなら、良いか。
 そう思わせるものが、テルゼの笑顔にはあった。
 この笑顔はなんだか懐かしい。
 銀の髪が風に煽られて踊っている。その様子が春の空を渡る蜘蛛の糸のようだ。
 細い銀糸が男を冷たくも見せ、暖かくも見せる。
 懐かしい思い出は、だがどう足掻いても記憶の淵から顔を出さなかった。
 舞う銀の髪、男らしい顔立ちと見栄えのする体格。
 どこかで見たようなのに、思い出せない。もしかすると似た誰かかも知れない。
 騎士になる前は、たくさんの客達と出会っていたから、もしかするとその中の一人なのかも知れない。
 諦めきれない思いで、何か手がかりが無いかとテルゼを見つめる。
 知らず食い入るように見入っていて、すぐに気が付かれた。くすりと口の端が上がり、細めた目がミシュナを見つめる。
「何?」
 と、わざとらしく問いかけ、笑みを深くする。
「え、あ……別に」
 慌てて視線を逸らしたが、湧き上がる羞恥は酷くなる。耳朶まで熱くなり、汗を吹き出すほどに体が熱くなった。
 きっと真っ赤になっている。
 顔の熱さに気が付くと、羞恥が増した。
 いたたまれなさに「笑わないでくれ」と訴えてはみたけれど。
 それはテルゼの笑いをさらに激しくすることにしかならなかった。

 たっぷり3分は笑われたように思う。
 笑うな、と訴える度に声が大きくなる事に気付き、最終的には口を噤むしかなかった。
 一体どんな笑いのツボに入ったのか?
 笑い続けるテルゼにミシュナは眉を顰めるしかなかった。
 ノードの侮蔑には軽く乗ってしまったが、氏素性も判らぬ人間に剣を振りかざすほど愚かでもない。
 それでも、我慢の限界というものはあった。
 ちらりと見つめられ、その瞳に涙まで浮かんでいることに気が付いた時だ。
「別の場所を探す」
 いきなり立ち上がったミシュナを、テルゼが相変わらず笑いながら制してきた。
「もう真っ暗だ」
「次の森はそれほど遠くなかったはずだっ」
 記憶を探り、次の目的地を探す。言ってはみたものの、その言葉に自信はなかった。だが、笑われるのはそれ以上に嫌だった。
 焚き火に背を向ければ、想像以上に周りは暗い。ずっと灯りを見つめていたから、目がなかなか慣れなかった。僅か数歩で闇が深くなる。
 雨はまだ降り続いていて、火照っていた筈の体を急速に冷やした。
 けれど、不快さまでは消さない。
 ミシュナの手が自分の馬の手綱を取り、枝に掛けていた外套を取った。
 水を多量に含んだ外套は冷たく重い。
 しかも押し寄せる闇はもっと重く、気が滅入ってくる。
「自殺行為だぞ」
 テルゼが笑みの消えない声で言う。
 その笑みがさっきは心地よいものだと思ったのは気のせいだったのだ。
 相容れない男に言われても、従う気持ちは湧かない。
「うるせ」
 乱暴に言い返せば、変わらない声音が後に続いた。
「凍死するぜ」
「するかっ」
「迷うだろうし」
「そんな方向音痴じゃないっ」
 制止されるたびに腹が立つ。
 これ以上何を言われても聞くものか。
 湧き上がる怒りのままに言い放って、勢いよく馬に飛び乗った、が。
 つま先が鐙を捉え損ねた。
 濡れた馬の毛並みが体を支えようとしたミシュナの指を滑らせた。
 気が付いた時には体が反転していて。
 その次に気が付いた時には、真っ暗な空から雨が針のように降り注いでいた。
「っ!!」
 衝撃に声のない悲鳴を発し、投げ出された四肢が泥水を跳ねて飛沫を上げた。顔に散った飛沫が目を刺激する。だが、もっと激しい痛みが腰から脳髄まで響いた。
 咄嗟に何かを握ろうとした指先が、その何かを引っかけた。だが、それはイタズラに爪を傷つけただけで、身悶えるミシュナを止めるものではなかった。
「うっ……ぐぁ……」
 喉から零れる呻きが抑えられない。
「おいっ! 大丈夫か?」
 驚愕の声に、否定しようとして、首を振ることすらできない。もとより声も出ない。
 それでも体を起こそうとして、力を入れた途端に腰に激痛が走った。せっかく持ち上げた体がずるずると地を這う。
「っ、あっ……」
 声すら痛みで出せない。
 聞こえた舌打ちを気にする余裕もなかった。うっすらと開いた視界に、眉根がきつく寄せられたテルゼの顔が映った。
「痛むか?」
 なんとか頷いて、ゆっくりと視線を巡らせた。
 泥まみれになった腕。
 すぐ傍らにあった馬の蹄。
 跪いたテルゼの膝と意外に心配そうな顔。
 落馬したんだ……。
 はるかな高みにある愛馬の顔がひどく憎たらしく見えた。
「ここでは濡れるな」
 空を仰いだテルゼが、ため息を吐いてミシュナの体の下に腕を差し入れた。
「うっ、くっ……」
 背を動かせば、痛みが酷くなる。
 けれど、テルゼは容赦なくミシュナを持ち上げた。驚いて起こそうとした体が不安定に揺れ、恐怖心に思わず腕を掴む。
「動くな」
 鋭い声の叱責に、固く目を瞑ったまま首を横に振った。

?
5
 拒絶を無視して、テルゼは軽々とミシュナを運んだ。
 先ほど座っていた位置に、自身の外套を広げてから降ろされる。
 安定したことにほっとする間もなく叱責が飛んできた。
「うつぶせになれ」
 言われるがままに体を捩る。
 その途端痛みが増した体に涙しながら、それでもなんとか俯せた。
 この体勢の方がマシだった。
 痛みの感覚で、腰の辺りに原因が有ることは判った。
 首を巡らすと、背が捩れて痛みが増す。自分では見ることのできない痛みの原因に不安は増した。
 そのミシュナの背後で、テルゼは自分の荷を漁っていた。
「怪我……?」
「ああ、薬を塗った方が良いだろう」
 テルゼの大きな手が、ミシュナの背を押さえる。
 上衣を持ち上げられ、下衣を下げられる。
 遠慮も何もあったものではなかった。気が付いたら、背は丸出し、腰も尻の膨らむ寸前まで外気に晒されていた。
 かあっと羞恥に熱が上がった。
「これは……」
 唸るような声音の後に、触れた手の感覚。その途端、激しい痛みが全身を切り裂き、羞恥は吹っ飛んだ。
「は……ぁっ……!!」
 声にならない悲鳴が長く続く。背後からした独特の芳香に、痛みの原因はすぐに知れた。だが、間断なく襲ってくる痛みに、逆らう術はない。
 ただ、必死で両手を握りしめ、声を押し殺す。
「うっ、くうっ!」
 きつく噛みしめた奥歯が、軋む音を立てる。
 ひんやりとした触感は、間違いようもない。湿布薬独特の清涼感は、傷が有れば、激しい刺激でしかない。
 皮膚を切り裂くような痛みに体が跳ねる。
 涙が勝手に湧いてくる。
 唸っているミシュナの様子など判りきっているだろうに、テルゼの動きはためらいなどなかった。いや、少なくとも声は面白がっている。
「痛いか?」
 思わず逃げを打った体を押さえ込まれたまま、問う。
「ここが一番酷い」
「っあ?っ」
 痛みに髪を振り乱し、涙目でなんとか背後を窺う。
 広い範囲で赤黒く染まっていた。
 その中心近く、腰骨のすぐ上の皮膚がべろんとめくれていた。血が滲んだ組織に乗せられた薬も見える。
 その薬をテルゼの指が躊躇うことなく延ばした。
「うっ、あぁぁっ!」
 繰り返される痛みは和らぐことなく、ミシュナを硬直させた。
 この湿布薬は染みる。
 本来傷のないところに塗るよう指導されるものだ。なのに、テルゼは傷の上にも薬を落としていた。
 薬草を絞って取った心地よい刺激臭のある汁と南の海で取れた岩塩を粉末にしたもの。それを牛の乳から取った油の中に練り込んだものだ。
「ひゅ──っ……ぁっ……ん……」
 肺の中の空気を全て出し切って、ようやく息を飲み込む。
 テルゼの指が離れて、少しだけ痛みが落ち着いた。
「てめっ…っ……塗るなっ!」
 悪態を吐くだけの気力も取り戻した。だが、テルゼは馬耳東風なようで、口の端を上げただけだ。
「傷薬も入れてある。おとなしくしていろ」
「う、嘘──っっ!」
「少しは我慢しろ」
「わっ、もう止めっ──っああっ」
 冷たい手が、薬を追加した。
 息を飲み、必死で堪える。掴む物を探して、土を握っていた。足が闇雲に大地を蹴る。じっとしていられなかった。押さえつけられていなかったら、全身で悶えていただろう。
 堪らずに上半身を起こそうとしたが、容赦なく傷口を叩かれる。
「ひぃ?っ!」
「逃げるなっ」
「いや??っ」
 どんなに抗ってもテルゼの力はひどく強い。悔しいほどに強い。悪魔の手はミシュナをあざ笑うかのように、幾度も傷口をなぞった。
 絶対にわざとだっ! 面白がっているだけだっ!
 刹那湧いた怒りは、すぐに消えた。繰り返される痛みは怒りをも凌駕する。
 与えているテルゼに、もうどうでもしていいから、という気になる。この痛みを止めてくれるなら、何だってするから──。
「もうっ──やあっ!!」
「ダメだ」
 多量の薬が体温で溶け脇腹を辿っていく。
「───ん……」
 テルゼが何気なく垂れた薬を指で拭った時だった。
 奇妙なざわめきが身の内を走った。
 ミシュナの喉から小さな声が漏れ、くうっときつく顔を顰めていた筈の表情に戸惑いが走った。
「ん?」
 気付かなくて良いのに、テルゼが気付く。
 覗き込んでくるテルゼから必死になって顔を逸らし、ごくりと唾液を飲み込んだ。
 唇を噛みしめて、再度固く目を瞑る。
 そこは弱いのに……。
 なのに、テルゼの手は再度そこをまさぐった。肌の表面を掠めるように指を動かす。
 ぞくりと肩が細かく震えた。
 込み上げるむず痒さに、きつく歯を噛みしめる。
 上下に走る指が、薬の滑りを借りて指圧するかのように動いた。
 脇腹を辿り、下腹部の関節へと滑り込む。 
「んっ……くっ」
 堪らずに零れた呻き声に歯だけは無理だと唇を食い縛る。その痛みで、声が出そうになるのを必死で堪えた。
「どうした?」
 問う声音が笑っていた。
 滑る手が、勘づかれた弱い部分を何度も擦る。その度に、くすぐったさが増した。
 ぞくぞくとむず痒い感触が波のように広がる。
 ──くすぐっ……た……い……。
 子供の頃からくすぐられると弱かった。
 指を当てられる度に面白いように反応するから、余計に面白がられた。もはやこれは精神に植え付けられている。
 誰かの手が近づくだけでもうダメなのだ。
「なるほどねえ、ここが弱いわけだな」
 つんと突かれて、それだけでびくんと体が跳ねた。
「も……う……薬、良いです」
 痛いのも嫌だが、くすぐったいのも嫌だ。
 どっちも堪えられない。
 まして、くすぐったい方は醜態を晒してしまう。それをこんな男に見られるのは嫌だった。
「まだ、塗っていない所はたっぷりあるんだけどな」
 瞬間、テルゼが悪魔に見えた。
 その悪魔の声が、耳を犯す。
 もはや言葉だけで想像してしまって、体が震えた。
「や……め……ぇ」
 奥歯を噛みしめ、必死で訴える。
 なのに、テルゼは笑い返してきた。
「……イヤらしい声だな。誘っているのか?」
 わざとらしい淫猥な言葉に、怒りを覚える。
 そんなはずはないだろう、と怒鳴り返したいのに、言葉が思うように出ない。ただ喘いで、短い言葉で制することしかできない。
「ち、ちがっ」
「……これは、また……」
 感嘆の意味など判らない。涙で潤んだ目の縁が赤くなっていることにも気付かなかった。ただ必死で、歪む視界の中の自分を辱めている男を、睨み付ける。
「娼婦に色目を向けられているような……」
「なん……だって?」
「男殺しの目をしている」
「違う──うっ!!」
 とんでもない言葉にさすがに怒りが頭を支配した。
 纏う熱気を振り払うかのように手を払った。握っていた土がテルゼにあたって、ぱらぱらと地に落ちていく。
 なんとか肘を付いて上半身を持ち上げた。
 テルゼは口の端を厭らしく上げて笑っていた。
「脱げてるぞ」
 言われなくてもひんやりとした外気で判っていた。
「誰のせいだっ」
 打ち身と痛みと精神の衝撃に力の萎えた体を、ミシュナは奮い立たせて衣服を整えようとした。
 下衣に手を伸ばす。
 が。
「ひゃあっ、──っ!」
 油断していたところに、手が来た。
 庇う間もなく脇腹を撫で上げられ、悲鳴が長く続く。せっかく踏ん張った肘も崩れ、上半身が地に落ちた。
 ひくつく体を、立て続けにテルゼが構う。
 逃げたいのに、力が入らない。手を払いのけようとしても、弱々しいその動きは簡単に封じられる。すでに、四肢すら思うように動かなくて、無駄に土を削り取るばかりだ。
 じたばたすると余計に服は脱げる。判ってはいるのだが、止まらない。
「あっ……ああっ……やめってぁっ」
「なんて色っぽい声を出すんだ……」
 その背にテルゼがぼそりと呟いた。
「それに、なんてキレイな……」
「な、に?」
 テルゼの動きが不意に止まって、ほっとした時の言葉だった。何を言っているのかと、喘ぎすぎて掠れた声音でぼんやりと返した。
「……肌が白っぽいな。まさしく象牙色って感じだ。それになんて滑らかな……」
「あっ……」
 腰から尻の膨らみへと移動した手が、滑らかに動く。途端に甘い疼きがじんわり湧き上がる。穏やかな波が、徐々に強くなっていくように全身に広がった。
 その感覚に戸惑い、訳も判らぬままにミシュナは怯えた。
 ぞくりと背筋がざわめく。
 反り返った背に、テルゼの笑い声が落ちたのには気が付いた。だが、微かに開いた口は震えていて、言葉にならない。
「触り心地が良い」
「ぁっ……あっ!」
 腰骨から走った電流のような痺れに、足の先が小刻みにひくつく。
 きゅっと曲がった指の関節がつりそうなほどに震えた。
「くすぐったがりは敏感て言うが」
 笑うテルゼの指先が、尻の膨らみを強く揉んでいた。とんでもないことをされている、という実感はある。
 だが、ミシュナにできることは堪えることだけ。
 嫌々と首を振り続け、乱れた髪が汗で肌に張り付いた。
「あっ……」
「性感帯もずいぶんと見つけやすい」
「あ、ああっ!」
 ゆるんだ下衣の隙間から入り込んだ手は、ひどく滑っていた。
「ここは?」
「あ、やあっ!」
 股間に滑りこんだ手が直に陰茎に触れた。
 途端に走った快感に、目を見開く。
「あっ……やっ……」
 ぎゅっと先端を握られ、それだけで全身が強く震えた。
 むず痒いのに、脇腹に触れられた時とは違う。
 口の中に唾液が噴き出し、開いた口の端から溢れ出た。
 体が言うことを聞かない。
「さ、触るな……」
 自分で触れたこともあるのに。
 なのに、その時の感触とは違う。
 テルゼの指が動く度に、甘い疼きは脳髄を痺れさせる。
 閉じられない口から、呻きとも喘ぎともつかない声が漏れ続けた

?
6
 下衣の奥深く侵入したテルゼの手は、ミシュナの股間を思う様に嬲っていた。
 揉みしだかれ、的確に与えられる愛撫に、陰茎はすぐに熱を持つ。集まった血がたぎり、さらに敏感にしていくのだ。
 気が付けば、腰が勝手に揺れ、テルゼの指の動きを追っていた。
 そんな自分が信じられない。
 奥歯を噛みしめ堪えようとするのに、快感に気を抜けば、あっという間に捕らわれる。
「やっあぁぁ……」
 嫌だ、嫌だ……。
 心は叫んでいるのに、体が言うことを聞かない。
 腰から拡散する熱と羞恥に対する熱と──沸騰しそうなほどの熱が、ミシュナを狂わせる。
「……やめっ……てっ……もっ……やめ……」
 止めてくれないとどうにかなってしまいそうで。
 荒い呼吸の合間に懇願する。
 けれど。
「そうか、嫌か」
 耳朶に直接注ぎ込まれた言葉に身を震わせようとした刹那、訪れた喪失感に激しく動揺する。
「な……に?」
 熱が、無くなっていく。
 細やかな愛撫を施していた指先が離れ、放置された陰茎が震えた。
「あ……やっ……」
「なんだ、欲しいのか?」
 笑われて、自分が何を口走ったのか気が付いた。そして、腰も求めるように動いていたことも。
 愕然とするミシュナの耳に、テルゼが甘く囁き耳朶を噛む。
「もっと、良い思いをさせてあげよう」
 途端に走る疼きに固く目を瞑る。
 暗くなった視界の中、気配が動いたのが判った。
 滑りを帯びた指が今度は尻の膨らみに触れる。
「な……に?」
 ひんやりとした触感にびくりと震えて、目蓋を開いた。固く瞑っていたせいか、はっきりとしない視界の中で、テルゼの顔が真横で笑っていた。
「良いものだよ」
 薬、だと思った。
 さっき腰に塗られた、あの激しい痛みをもたらした湿布薬。
 火照った体に心地よい冷たさに、ミシュナはほっと息を吐いた。そんなミシュナにテルゼの笑みが深くなる。その間も指は止まることなく、尻の膨らみを辿り、そして──。
「あっ、ひぃっ!」
 滑りが指を滑らせた。
 そう思うほどに、いきなり奥深くに侵入した指。
 痛みと異物感。
 だが、それよりももっと──。
「あぁぁっ……やっ……かゆっ──っ」
 痒みに尻に力を入れ身悶えれば、より深く指を銜え、さらに薬が塗り込められる。
「やぁっ!ダメえっ……取ってよぉ……」
 敏感な粘膜が、薬の成分を拒絶する。
 激しい掻痒感と熱が体を支配していた。
 だが、懇願にテルゼは薄く笑うだけだ。それどころか、小瓶の中から流れた薬が剥き出しの肌に落とされる。
「効くだろう? そのうちにもっと気持ちよくなる」
「そ、そんなの、いらなっ……あっ、ああっ!」
 拒絶の言葉は、増えた違和感に途絶えた。
 熱い塊が粘膜を擦り上げ、溢れていた薬を奥深くに送り込む。
 いっそう強くなった掻痒感と熱に、ミシュナの頭の中は何度も赤く爆ぜた。
 いっそ、腰から下を切り落としたいほどの痒み。
「あっ……やあっ……かゆっ……いっ──やだ──っ」
 半ば無意識のうちに繰り返し、痒みの元を取り除こうと手を伸ばす。
 けれど、捕まえた腕は太く力があって、ミシュナの力ではどうにもならない。
「かゆっ……痒いっ」
 痒くて、熱くて──。
「落ち着きのない。あと少しで、とても気持ちよくなるのに」
「やっ! やだっ!」
「邪魔な手だな」
 蔑む言葉の意味は、いきなり消えた異物感に気を取られて考えられなかった。
 けれどすぐに、手首を紐で結わえられて、その意味に気付く。
 慌てて引っ張れば、細い紐が手首に食い込んだ。その先は、すぐ横の木の枝。張った紐が枝をしならせて、はらはらと枯れかけた葉が降り注ぐ。
 束の間、痒みを忘れた。
「な……んだって……」
「この際、手は邪魔なだけだ」
「だ、だって」
 のしかかってくるテルゼを見上げる視界が揺らぐ。がちがちと歯が小刻みに鳴り響いた。
「足も邪魔だが……まあ、いいか」
 言われる頃にはしっかりとのしかかられて、身動き一つままならない。
 最奥の痒みも消えたわけではなく、現実を認識してしまうと、またミシュナを苛んでくる。
「うっ……あっ……」
 痒みを癒す手はなくなった。
 知らず腰が揺れ、空気の僅かな流れすら誘う。
 両足に力を込め、粘膜の痒みを押さえ込もうとする。だが、その結果は余計に薬を塗り込んだだけだった。
 体温によって解けた薬が、谷となった場所を探す。
 流れる液体を留める手段はなく、薬は難なく入り口に達する。
 ひくりと震えた体がさらに硬くなる。強張った筋肉にさらに力が入り、ミシュナは必死になってそれ以上の侵入を拒んでいた。
 けれど、中の薬の効果は消えてはいない。
「あっ……はあっ……」
 卑猥な踊りをし続ける肌が白く闇に浮き上がり、テルゼの劣情をさらに煽るというのに。
 見る者の嗜虐心を煽るなどと、当の本人は気付きようもない。
 テルゼの喉が鳴る。息が荒くなり、穏やかだった緑の瞳が、情欲に仄暗い光を映していた。
「なんとまあ……」
 いつまでも暴れる尻。
 抑えつけたら、どんな声で鳴くだろう。
 固く閉めたその谷間を割り開けば、流れた薬が体内にまで達するだろう。
 そうなれば?
「ふふっ」
 愉快な想像に、抗うことなど考えなかった。
 ミシュナが気が付いたのは、テルゼの手のひらが双丘に触れた瞬間だ。
「や、やめっ!」
 制止の声より早く、外に向かって強く押される。
 最後の砦が風に触れる。
「やめろっ」
 手の力に負けないように必死で力を込めたけれど。
「ひっ!!」
 声にならない悲鳴に、テルゼが満足そうに頷いた。
 目の前でひくついて、真っ赤になってしまった後孔に、薬液が流れ込む。
 これでもかというほどに仰け反ったミシュナの上半身が、テルゼの口付けを望むかのように近づいていた。
 だが、テルゼの口付けは、激しく震える後孔近くへと施された。
「可愛い」
 目の前で誘っている場所を、もっと広げたい。
 さっき指を入れた時、堪らなく熱かった。
 唇を尖らせて、息を吹き付ければ、小さな悲鳴と共にさらに強く仰け反る。
 薬で滑った指が後孔深くに侵入すれば、今度はがくがくと震えだした。
 音を立てて倒れた上半身が、無駄な足掻きを繰り返す。
 全身を痙攣させ、テルゼの手の中で踊るミシュナ。か細い声で鳴き、誘うように腰を振り回す。その様にテルゼの心にある嗜虐心がはっきりと目覚めた。
 犯したい欲求は、最高の興奮をも与える。
 それは堪える方が難しい程だ。
 ごくりと息を飲み、指先を双丘に食い込ませる。白い肌は今や赤味が差し、強く押した場所だけが白く見えた。爪痕を刻みつけると、今度はゆっくりと肌の上を滑らせ、ひくつく後孔に触れる。
「あっ……はあっ……」
 誘ってくる粘膜に、知らず口の端が上がった。
 楽しかった。だから。
「掻いてやる。たっぷりと」
 躊躇うことなく指で粘膜を貫いた。
 闇に淫猥な水音が不規則に鳴り響く。
 雨音はもう二人の耳には届いていない。
 代わりに奏でられる水音に、ミシュナの掠れた嬌声が色を添えた。
 ミシュナ自身、体内を男の指で犯されているという感覚はない。
 薬の滑りは、三本もの指を容易に銜え込ませ、自由に動くのを助けていた。
 僅かな痛みはもうなく、痒みが癒される陶酔感にミシュナは酔っていた。
「んあっ……もっと……そこ……」
 掻けば掻くほどに痒みが別の場所で激しくなる。
 時折背に与えられる小さな痛みなど、気にもならないほどの陶酔感に、ミシュナは自ら足を広げて、腰を高くしていた。
 それでも、ふっと意識が浮上する。
 自ら取っている体勢に、激しい羞恥心が増して、慌てて体を沈めようとするけれど。
 加わった締め付けに気が付いたテルゼの指先が、からかうように奥深くを抉る。
「ひぃっ!」
 どくん──と全身が震える。
 頭の中が真っ白に弾けるほどの快感に、理性は呆気なく崩壊する。
 い、達きたい……。
 もっと擦り上げて、思う存分放出したい。
 込み上げる欲求に、瞳が涙を溢れさせながら、唯一の解放者を求める。
 もっと突いて……。
 もっと動かして……。
 後孔を緩めて、奥深くへと誘う。
「あっ……ねっ……もっと……ぉ……」
 子供が甘えて欲するように、ミシュナは知らず甘えた声を出していた。
 腰を高く掲げ、泣き濡れた瞳で視線を送る。
 ただ、欲しいと、それだけしか考えられなくて、赤く色づいた唇を震わせて、乞う。
「もっと……」
 掻いて欲しくて。
「どこを?」
「もっと、深く……そこ……」
「ここか?」
「あっ……もっと……んっ……痒いっ……」
「もう届かない。けど欲しいんだな?」
「ん……ほし…ぃ…」
「そうか」
 頷いてくれた。
 嬉しくて、思わず笑う。
 なのに、いきなり後孔から指が引き抜かれた。

?
7
 指を抜いた途端に後孔が寂しげに震えた。
 同時にミシュナの顔が落胆に歪む。
 その姿は、憐憫より強く情欲を煽った。
 見つめるテルゼの瞳が情欲に染まり、口元に酷薄な笑みを浮かべていた。
 寂しい、とわななく尻を両手で開き、誘う粘膜を目で堪能する。
 その動きがどんなにテルゼの嗜虐心を煽っていることか。
 可愛いからこそ苛めたい。
 もっともっと苛みたい。
 そんな自分が判らないと、制止を諦めた理性が傍観している。そんな事も判っているのに、止められない。
 荷から別の薬を取り出し、手の上にたっぷりと垂らす。
 それは、朝方薬師から受け取ったばかりの強力な媚薬だった。
 さっき使った薬はあくまで湿布薬だ。だが、今度は媚薬そのもの。
 粘膜から吸収され、相手の理性をとろとろに溶かして、情欲の虜にする。
『女を淫猥なメスに変えるための薬だ』
 馴染みの薬師が厭らしい笑みを浮かべながら渡した薬を、その時は、そうか、とただ受け取っただけだ。
 使う予定などなかった。
 薬師も遊びで作っただけだと言っていた。
 だが。
 使ってみたい。
 手の下で淫猥に身悶える男を、もっと狂わせたい。
 行きずりの初めてあった男だ。しかも騎士だ。
 だが、この男は、昔恋した女を思い起こさせた。切ない痛みが、目の前のミシュナを見ていると甦ってくる。
 このまま虜にしてしまいたいと思うほどに。
 彼女は馴染みの娼館で双子の姉とともにいた。
 もっとも、女主人の娘であって娼婦ではない。だが、時に客達の目を楽しませる遊戯の対象として姿を現した。
 そのよく似た容姿を使った遊戯だ。
 どちらが跡継ぎのリミか。
 当たれば賞金と、リミお得意の踊りを披露してくれた。
 肌も露わな、なのに淫猥さよりもため息を吐きたくなるような美を感じさせる踊りだ。
 滅多に見られない踊りに、みな必死になって当てようとしたけれど。
 テルゼの目はいつももう一人に向けられていた。
 おとなしく、口数の少ない少女。
 個人的に会いたいと思っていた。
 けれど、どんなに乞うても女主人は彼女と個人的に会わせてはくれなかった。それどころか遊戯が済めば、すぐに奥へと下がらせてしまう。
 リミの肌は踊りの最中に見たことがある。けれどもう一人の子は、一度も踊ることはなかったし、遊戯の最中も全身を長い衣で纏い、素肌を晒すことはなかった。
 手に入らなかったからこそ欲しい。
 だが『外苑』の権力者の一人に逆らうほど、テルゼも分別がない訳ではなかった。
 結局、いつの間にか、遊戯自体が無くなっていて。
 それから二度と会うことは叶わなかった。
 もう二度と手に入らない相手。そんな彼女に、ミシュナは良く似ていた。
 彼女ではないことは判っている。
 だが、苦い思い出が、テルゼの歯止めを外す。
 今を逃したら、もう二度と手に入らない。そんな思いがテルゼを突き動かした。
「や、あぁっ!」
 指がミシュナの奥深くを抉る。
 新たな刺激に艶やかな嬌声が零れ、双眸から透明な滴が流れ落ちた。ミシュナの目の縁が赤く染まり、乱れた金の髪が額に張り付いている。
 息苦しく喘ぎ、快感を逃そうとでもしているのか、時折激しく頭を振る。
 眉間に深く刻まれたシワが、細かく震える。
 僅かに開いた唇からは、幾度も熱い吐息が零れていた。
「こんなにも簡単に入るとは……客は取らないと言っていたが、あれは嘘だったか?」
 彼女ではない、と判っているのに、ミシュナと彼女が重なる。
 高嶺の花が他人のものであったかも、と思うと、テルゼの胸中に何とも言えない澱んだ塊が膨れあがった。
 とっくの昔に崩壊した理性。
 澱んだ塊は枷もなくあっという間に大きくなる。
 苛立ちがテルゼの行動を荒くさせた。苛みたい欲求に従い、突き入れた複数の指で中を掻き混ぜる。
「ひっ、あっ!──んあぁぁ」
 体内のある箇所を重点的に責め上げると、ミシュナは全身で身悶えた。
 もはや嬌声でしかない声が、木霊する。
 象牙の肌をますます朱に染め、吹き出した汗のみを身に纏ったミシュナの肌に、薪の炎が映る。
 体内の奥深くまで塗り込めた媚薬の効果は絶大で、今やミシュナは快感だけを追っていた。
「あっはぁ……いい……すごっ……」
 甘く媚びた声音と視線が、テルゼに向けられる。
 欲しい、と暗に訴える潤んだ瞳は、娼婦のそれと大差ない。
 そのことが、テルゼをさらに不快にさせた。
「淫乱な子だな……」
 自分でも理不尽な怒りだと気が付いている。
 だが、止められない。
 快感を求めるだけの相手など気に入らないのに、ミシュナの痴態はもっと見たいと思ってしまう。
「あぁっ!」
 一点を強く押し上げられた途端に、ミシュナの体が網にかかった魚のように跳ね回る。その拍子に指が抜けそうになって、空いた手で強く体を押さえた。足を開かせ、打ち付けるように後孔を苛む。
「ひっ──いっ……あっ──ぁっ──やめっ、イタぁぁっ!」
 さすがに零れた悲鳴に、テルゼも苦笑を浮かべて動きを緩めた。
「痛いか? ならばやはり処女か?」
「いた、い……もう止め……」
「だが、欲しいのだろう? こんなにひくついて誘っている」
「あっ……ほし……」
 言われた言葉を繰り返し、虚ろな視線がテルゼに向けられる。
 意識は薬に冒されて、体は快感だけを求めている。
 ゆったりとした指の動きに、ミシュナの腰が焦れたように動いていた。
「薬は、もう体の奥深くまで入り込んでいるが、放っておいても良いか?」
「え……?」
「放って良いのなら、止めてやっても良いが?」
「あっ……」
 不意に、ミシュナの顔が強く歪んだ。潤んだ瞳が、助けを乞うようにテルゼを見つめる。
「このまま……この格好のまま……な」
 わざと冷たく言い放つと、瞳に怯えが走る。
 ぞくぞくする。
 気の強い獣を屈服させたような充実感が生まれていた。
 だが、まだ足りない。
 泣き濡れた頬に指先を這わせる。
 触れるだけの口付けを施せば、ミシュナの唇から甘い吐息が零れた。それを吸い込み、ついで言葉と共に吹きかける。
「もう欲しくないか?」
「え、あ?」
 指を一本ずつ抜いていくと、捕らえようと後孔が収縮した。強くなる力は、痛みすら与える。
 仕方ないと一本だけ残して、苦笑と共に問いかけた。
「だったら、どうして欲しい?」
「んっ……」
 引き抜きかけた指を再度差し込めば、ミシュナの喉が小さく震えた。仰け反って、白い肌を惜しげもなく晒す。
「言わないなら、終わりかな?」
「あっ……」
 指を増やして、掻き混ぜて。
「あん……もっと……」
 乞われるままにもう一本を増やした。
 増えた動きに、白い体が踊る。赤味の強い唇から、何度も熱い息を吐き出していた。
「欲しいなら、言え」
 奥深く差し込み、内壁を撫で上げるテルゼの吐息も熱かった。
 顔を寄せ、軽いキスと共に、互いの吐息が交じり合う。
 わななく唇が、幾度も開き、閉じられて。
 白い喉が上下に一度動いて。
「あっ……ほし……」
 淫猥に揺れる瞳が、深い情欲をぶつけてきた。
 欲しい……。
 物足りない……。
 言葉よりはるかに雄弁な瞳に、テルゼは満足げに頷く。
「ほら、言ってごらん」
 答えはもう判っていた。
 瞳が一度閉じられ、すぐに開く。
 まっすぐにテルゼを見つめ、その口元は先の期待をしているのか、微かな笑みを浮かべていた。
「ほ……しい……。欲しいから……」
 ずっとずっと奥深く。
「欲しい……から……」
 どんな娼婦よりも顔負けの誘い方だ。
 鼓動が一際強く鳴り響く。
 期待しているのは、テルゼの方だ。
 ──手に入れた。
 その瞬間、確かにそう思った。
「ならば、腰をあげろ。自ら、私を受け入れろ」
 ──自分でこの手の中に来い。
 期待は最高潮だった。
 びくりと動いた体が、言われるがままに移動する。
「……ここ?」
「そうだ、早くしろ」
 薬のせいか、ミシュナの動きは緩慢だ。
 その気怠げな動きにテルゼは焦れて、ミシュナの体を強く抱き寄せた。

?
8
 来いと言われて、従った。
 テルゼの手に支えられミシュナが腰を上げれば、四つんばいになった体の下に、テルゼの下肢が入り込む。片手で手際よく緩められた下衣の中から、ミシュナの物よりは一回りは大きな陰茎が飛び出した。
 それを目にした途端、ごくりと喉が鳴る。
 欲しい。
 欲求が体を支配する。
「よし、下ろせ」
 だが、ミシュナはその先に何があるのか判っていなかった。
 テルゼが挿れた指の動きに従っているだけだった。
 だから。
「挿れろ」
 いきなり指を抜かれて、思わず追った。腰にかけられた手に力が込められ、引き下ろされる。
「あっあぁぁぁぁっっっ!!」
 指より遙かに巨大で熱い塊。
 骨が軋み、際限まで開かれた喉から迸ったのは、断末魔の悲鳴にも近い。
 体の芯を串刺しにされて、ミシュナの体は膝立ちのままに硬直した。あまりの衝撃に倒れることもできない。
 意識がすうっと遠くなって、ようやくふわりと体が揺らいだ。
 倒れそうになったミシュナの体を支えて、締め付けられる感触を堪能する。
「確かに熱いな」
 薬だけでない滑りが下肢を伝う。過去数度浴びたことのある血の滑りが、敵を屠った時のような気分の昂揚をもたらしてテルゼは知らずほくそ笑んでいた。
「それに思った以上に心地良い」
「あっ、はぁっ」
 僅かに浮いていた腰を引っ張り降ろすと、肺に残っていた空気が押し出されたような悲鳴が迸った。
 軽く突き上げれば、腕の中の体はびくびくと痙攣する。
 意識はあるようだ。
 だが、その瞳は何も映していない。
 なのに体だけはきちんと反応していて、一度力を失った陰茎がまた天を仰ぎ始めている。
 ぷくりと浮かんだ滴が、そそり立った壁を流れ落ちる。指先で掬い取れば、糸を引いて繋がっていた。
 明らかに感じている証に、もっともっと苛みたくなって、掴んだ腰を揺らしてみた。
「あっ……」
 微かな声は、悲鳴には聞こえない。悦びの交じった声音に、興奮の度合いがさらに高まった。
「ふふっ……お前のこれも悦んでいるようだ」
 指先で弾けば、びくびくと震え、固さを増していく。
「これは楽しみだな」
 その言葉に、ミシュナの視線がゆらゆらと彷徨っていた。
 感嘆の声は何を意味しているのか、と窺っている。
 その視線に笑いかけて、軽く突き上げた。
「あっ、ああっ」
 動き出したテルゼの腰の動きに翻弄されて、それも叶わない。
 揺すられるたびに痛みと快感が交互に押し寄せた。
 きついはずなのに、たっぷりと塗られた薬と流れた血が潤滑剤となって動きを滑らかにする。まして薬で敏感になった内壁は、すぐに必要以上にテルゼの動きを感じていた。
「あっんんっ……んくうっ……あっ……はあっ」
「イヤらしい体だ。もう馴染んで。しかも絡みついて私から精を吸い上げようとしているぞ」
「あっ……ちが……んあっ……熱いだけっ……」
「何が違う。お前の可愛いこれもこんなにも泣いているぞ。ほらっ、もっと鳴け」
「ちがっ……ダメッ」
 ミシュナの甦った理性が現実を否定しようとする。
 だが、テルゼはその抵抗すら許さなかった。
「っああぁぁっ!!」
 激しくなった腰の動きに加え、前も激しく嬲られ、頭の中が真っ白に弾ける。
 全身が小刻みに痙攣し、天を向いていた逸物から激しく精を吹き出した。
 白濁がミシュナの騎士の服を汚し、滴り落ちる。そのままぐたりと体から力が抜けた。
 テルゼに抱きかかえられたまま、放心し、吐息を漏らす。
「あぁ……」
「ふっ、ずいぶんとたっぷり出たな。だが、休むにはまだ早い」
 なのに、テルゼの非情な言葉がミシュナを苛んで。
「あふうっ……まって……無理……」
「何が無理なものか、まだ私が達っていない」
「ああっ!」
 達ったばかりの敏感な体に加えられた刺激。
 ミシュナには逆らう術などなかった。
 明るいさえずりが耳の奥に響く。
 闇夜では鳴かない鳥の声に、夢うつつに朝が来たのだと知った。
 起きなければ。
 使命感にも似た思いで体を動かそうとして、全身がびくりと強張る。
 全身が痛い。
 爽快とは言えない目覚めに、ぼんやりとした視線を周囲に投げかけた。そんな僅かな動きすら、腰に重い負担をかけた。
 鈍痛は、皮膚の表層と筋肉を蝕み、鋭利な痛みが尻の奥を苛む。
 投げ出した手足はひどく強張り、喉が風邪を引いたように痛んだ。
 そういえば、と繋がれていた筈の腕は、今は解放されていたけれど、手首には赤いスジが残っていた。
 全てが昨夜の記憶を鮮明に甦らせる。
 薬に冒されていたとはいえ、自ら強請ったこともはっきりと記憶している。
「な……んで……」
 至近距離に見えるテルゼの整った顔立ちは、深い眠りについているのか、つぶやきに反応しない。
 自分を苛んだ男の傍にいるのが堪えられなくて、逃れようとしたが、腰を抱いた腕に反射的に強く引き寄せられた。
 数度抗って、けれど抜け出せなくて、ため息を吐いて体の力を無理に抜いた。
 この男の力には敵わないことは、昨夜のことでよく判っていた。
 ならば起き抜けの気が緩んだ瞬間を狙うしかない。
 湧き起こる激しい憤りをなんとか堪え、放置された剣までの位置を目測で確かめる。
 少し遠いが、動くことができればなんとかなるだろう。
 記憶に残ったあまりにも屈辱的な行為。
 無かったことにできないほどに、体が軋みを訴える。
 しかも。
 ため息を吐きたくなるほどに体の芯が熱い。
 重く痛む頭を微かに振って、まだ火照る体の熱を吐き出す。
 一度目の薬は確かに湿布薬だった。だが、二度目の薬は違う。
 娼館に育ったが故に、その手の薬も知識としては知っていた。
 蘭の花の甘い香りが、今でも匂う。
 人の性感を狂わせ、理性を奪う。そんな甘い毒薬を、テルゼはミシュナに使った。
 それは許せるものではなかった。
 娼婦の中には、仕方なく春売るものが多い。来たばかりの頃は泣き暮らす者だっている。
 だからと言って、情にほだされてばかりでは商売はできない。
 けれど、『ホァン』では、売れる子も売れない子も、自分の責務を自ら果たそうとする娘を、義母もリシュナも大事にしていた。
 時には叱咤し、罰をも与える。だが、優しさは忘れない。
 だからこそ、『ホァン』は栄えてきたのだ。
 だがもっと劣悪な娼館では、薬を、しかも粗悪品まで使って嫌がる娼婦達を狂わせた。そんな薬は確実に心を蝕むのに。
 物心ついた時から娼婦達を知ってたから、そんな娼婦を蝕む薬が嫌いだった。
 許せなかった。
 そんな物を持っているこの男が、許せなかった。
 思い出せば思い出すほどに、怒りが募る。その怒りが、疲労の濃い体を突き動かす。
 目覚める瞬間を待とうしたけれど、もう我慢できなくなっていた。
「起きろっ!」
 思いっきり、足を蹴り上げると、確かな感触があった。同時に悲鳴が上がる。
「ってえ……」
「離れろっ!」
 思うように足が動かなかったのが口惜しい。
 それでも膝下に当たった爪先は結構な衝撃を与えたようで、テルゼが蹲って唸っている。離れた腕に、これ幸いと逃れて、ふらつく足で立ち上がった。
 僅か数メートルの距離が遠い。
 それでも必死になって伸ばした指先に、柄が触れた。
 一瞬、心が躍る。が。
「そこまで」
 金属の擦過音。
 頬に感じた冷たさ。
 テルゼの声が届くより先に、ミシュナはもう動けなかった。
 背後から向けられた殺気は、本気だからこその強さ。それから逃れる術を、ミシュナは持っていなかった。
「よく動けるなと感心はしてはやるが、その剣をこちらに向けられるのであれば、私もおとなしくは待ってはいられない」
 すっと微かに刃がひかれ、頬にかかっていた髪が宙を舞った。
 ふわりと風に煽られ、数度弧を描いて地に落ちる。
 切れ味は、ミシュナのそれの比ではない。もっと力を込めれば、きっと頬から鮮血が吹き出していただろう。
 なんとか動いた瞳に、鍛え上げられた白銀の刃が映った。
 途端にぞくりと肌が粟立った。
 歯の根が合わないほどの恐怖に、ミシュナは動けなかった。
 くつくつと背後から喉が鳴る音がする。
 笑われていると判っていても、本能から込み上げる恐怖は容易なことでは消えない。
 だから。
「さあ、おいで」
 予想だにしなかった甘い声音に、思わず縋りたくなった。
「言うことを聞くなら、殺しやしない」
 剣を突き付けられたままで信じられる物ではない。だが、ミシュナは、おずおずと視線を彷徨わせて、背後のテルゼを見上げた。
 そこに昨夜の狂気は感じられなかった。
 殺気ももう消えている。
 従った方が良い、と本能が訴える。だが、気力が萎えた体はもう動かない。
 がくりと腰から力が抜けて、膝を突いて。ぺたりと座り込んだまま、テルゼを見上げる。
「なんだ、やはり動けないのか」
 笑みが深くなり、声音に揶揄が交じった。
 暗に昨夜の行為を指摘されて、記憶が甦った。込み上げる羞恥は今までにない激しさで、熱気を吹き出しているのではないかと思うほどに体が熱くなる。
 さすがに動けないと思われるのが情けなくて、ミシュナは俯くと、両手を地面に着いた。足よりは力が残っていた腕に支えられて、かろうじて立ち上がる。
 だが、そこまでだった。
 腰から拡散する鋭い痛みは歯を食い縛って堪えた。
 だが、同時に筋肉を麻痺させる鈍い痛みが動きをもたつかせる。
 思った以上に疲労が激しい。二本足では支えられないほどに体がふらついた。
 咄嗟に伸ばした手は空を切り、大地に着く直前で止まった。
「くっ……」
「無理するな」
 せせら笑われて、顔が歪んだ。
「来いと言ったクセに」
「無理して怪我したら、また薬を塗るハメになるが?」
 『薬』と言われて体が過敏に反応した。
 体内奥深くの痒みが再び襲ってくる恐怖。
 全身が総毛立ち、力の入らない手で抗う。
 だが、テルゼの力は相変わらずで、ミシュナは、それならば、と思いっきり仰け反った。
「あっ……」
 もとより立つこともままならない足では、その動きを支えられない。
 テルゼの腕からは逃れたが、かろうじて縋り付いた大木から動くことはできなかった。そのまま崩れ落ち、幹を背にしてへたり込む。
 途端に走った激痛に、荒い呼吸が繰り返される。
「だから、無理するな、と言ったが?」
「けど……」
 情けなかった。
 騎士として過ごして、同年代の若者よりは高みにいると思っていた。
 女みたいな容姿でも、剣の腕はちゃんと持っている。
 騎士として任務もこなし、危険なこともそれが任務なら平気だった。
 なのに。
 あろうことか女のように抱かれた。薬を使われたとは言え、自ら欲して受け入れてしまった。
 今だって、動くこともままならない。
 なにをしても敵わない相手。
 歴然とした力の差が、あまりにも悔しい。
「泣くな」
 ぼろぼろと流れる涙は、言われるまでもなく止めたかった。
 隠すように顔を覆い、深く俯く。
「どっか行ってくれ、もう放っといてくれ」
 こんな姿はあまりにみっともなくて、見られたくなかった。
 闇雲に大地を探り、触れた小石を掴んで投げつける。
 一つ、二つ、俯いたまま、拾って、適当な所に投げつけた。
 そのうち、大きな石はなくなって、指の先ほどの石しか見つけられなくなっても、ミシュナはまだ投げ続けた。
「もう……行ってくれ……」
 最後には、懇願でしかない口調になっていた。
 ひくりと何度も体が震える。
 なのにテルゼの気配は動かない。
 ずっと視線を感じていて、ミシュナはますます体を小さくした。
「土は止めろ」
 もう投げるものも無くなって、それでも指先で地面を掘り返してばらばらと土を投げつけていた。その手が強い力で掴まれる。
「傷ができている」
 指摘されてのろのろと頭を少しだけ上げた。ちらりと見やった視線の先に、赤黒く染まった指先が見えた。
「ったく、少しは落ち着け」
 剣ダコの見える指が、ミシュナの指先からこびりついた土を払っていた。
「放っといてくれ……」
 走る痛みに顔を顰め、嫌々と首を振る。
 だが、土を落として水筒の水で血を落とすまで、テルゼの動きは止まらなかった。
 その間、ずっと黙っていたが、綺麗になった手を離して、ようやく口を開いた。
「私には、お前を放って出て行けない理由がある」
「な、に?」
 びくりと顔を上げた。
 至近距離にある顔に、びくりと仰け反ったが、意外にもテルゼの表情には真剣なものが浮かんでいた。
 知らず喉が鳴る。
 そのテルゼが、一瞬だけミシュナの荷の方に視線を向けた。
「お前が持つ指令書を見た。薬草園に行くと言ったのはその指令のせいだな」
「なっ! 人の持ち物をっ!」
 荷の奥深くに入れておいたはずだった。転がり出たということは絶対にない。
 血相を変えて睨み付けたが、返ってきたのはため息だった。
「薬草園に行く騎士はお前でなかった。私は、その騎士が任務をこなすのを確認するはずだった。だが、その騎士はお前ではない。その意味が判るか?」
「……っ!」
 判らないはずがない。
 薬草園に行く本当の騎士も、どうして自分が行くハメになっているかも、何もかも知っている。
 だが、なぜそれをこの男が知っている?
 あの時、あの酒場に、こんな男はいなかった……。
 いや、それより?
 この男は?
「それは……」
「ノードはどうした?」
「ノードは……街に」
 指令書と金を押しつけたノードは、さっさと目の前から消えた。
 きっと急にできた休暇を満喫していることだろう。
「だから確認した。お前の指令書は正式なものだ。放っておく訳にはいかなかった」
「……何故?」
 繰り返される問答。
 ミシュナの背に冷や汗が流れる。
 テルゼは、騎士の証明になるようなものを何も身につけていなかった。
 紋章も服も何も。
 ただ剣は持っている。
 その剣技も僅かではあったが目にした。優れていると思う。だが、まさか?
 ──ノードが任務をこなすのを確認する。
 そう言っていた。
「まさか……」
 その言葉は、この男も騎士だと言うことを表していた。
 そして、『確認する』などと言うのは……。
「私か? 私は第2騎士団の副団長だ」
 告げられた言葉が、頭の中でしばらく木霊していた。

?
9
 騎士団の各第1中隊は、騎士団の団長と副団長、そして参謀長の三人で構成されている。
 どんなに望んでも第1中隊には、一般隊員は入れない。
 騎士団内の人事権は基本的に団長が持っているが、第1中隊だけは王が持っているからだ。
 正確には王とその側近である軍務執政長官と文務執政長官が決める。
 だから、ミシュナのような騎士が望むべく最高峰は、第2中隊までなのだ。なのに、今目の前にいるのはその望めない先にいると言う。
「う、そ……」
「嘘ではない。まあ、第5騎士団なら、第2騎士団の上層など顔を合わせる機会など無いだろうが」
 それはそうだろうけど。
 いつだってそういう人達は遠目でしか見ていなかった。
 そう言えばいつだったか、剣技大会の時に銀の髪をなびかせた騎士を見たことがあった。
 上位に入った彼を見て、いつかあんなふうになりたいものだと思った。
 けど。
「嘘だろ……」
 理想だった騎士の姿が、音を立てて崩れていく。
 呆然と見やる先で、テルゼが憮然とした面持ちで睨み返してきた。
「嘘じゃない」
 それでも信じられないものは信じられない。
 団長、副団長、参謀長というものは、その才能も人格もみな人並み以上である必要がある。
 なのに、このテルゼは、ミシュナに薬を使ってまで犯した男。
 卑劣で、乱暴で──なのに、こんな鬼畜な男が、副団長?
 それも、第2騎士団の?
 王族の警護──親衛隊すら努める騎士団の長が?
 疲れた体から、力が抜けていく。
 くらりと目眩までしてきて、ミシュナは力なく大木に体を預けた。
 理想の存在のあまりの相違に、気力すら萎えた。
 がくりと肩を落としてため息まで吐いた。
 その落ち込みように、それまで威風堂々としていたテルゼの口元が不意に歪む。
 視線が彷徨い、しばしの逡巡の後、再度ミシュナに向けられた。
「お前も……悪いんだぞ」
 ぽつりと呟く。
 そんな理不尽な物言いにミシュナはむっとして顔を上げた。
 途端に視線が絡む。絡め取られたまま呆然と見つめると、外したのはテルゼの方だった。
 忌々しげに舌打ちして、顔を背けて言い放った。
「お前の顔があまりも似ているから、昨日はつい感情的になってしまった」
 伸びてきた手が、顎を捕らえる。
「やっぱり似ているな。明るいところで見たらもっとはっきりと判る。そのせいだ」
「似てるって……何が?」
 一体何を言いたいのか。
 掴まれた顎が痛くて顔を背けようとするが、テルゼの手は離れてくれない。
「バカ力……」
「悪かったな、これが私の取り柄だ。だが、見た目に騙される方もバカだ」
「開き直るなっ!」
 やっぱり副団長だと言われても信じられない。
 自分の団長はもっと近寄りがたい。堅物だと評判な老齢の男だ。
 年を食えば良いと言うものではないが、こんな奴が率いる第2騎士団がどれほどのものだというのか?
 不信感も露わに睨み返しても、鼻で笑われた。さっきまでの殊勝な態度が消え去って、厭味な笑みすら浮かべている。
「それにしてもずいぶん可愛い声で鳴いてくれた。お陰で我慢できなくなったんだが」
 なく?
 何を言われたのか判らなかった。
 頭の中で言われた音を反芻し、思いついた単語にかっと赤面する。
「なっ、鳴いてなんかっ!──っ!!」
 可愛い声など出した覚えなど無くて、くってかかろうと腰を上げた途端、息を飲んで蹲った。
 関節と、筋肉と。そして、未だ消えない違和感がある場所。
 のろのろと地面にへたり込むミシュナの額に冷や汗が浮かんだ。蹲って唸るミシュナに、テルゼが肩を竦めて窺う。
「ああ、傷になっているからな。切れているんだよ。手当はしたが、無理をしたらまた出血するだろう」
「う──っ」
 どこが、などと言われなくても判った。
 あの時の痛みと衝撃を思い出し、顔から音を立てて血の気が退いていく。
 二度と味わいたくない痛みだった。
「こ、こんな……」
「ああ、だが傷はたいしたことなかったけどな」
 下ろされた手が、逃れる間もなく腰に触れた。
「やっ……めっ」
 ぎくりと強張った体を包み込むようにテルゼが腕を回す。包み込まれる温もりに、知らず鼓動が速くなった。
 思い返せば、屈辱でしかなかった行為だというのに。
 なのに、なんでこんなにも体が震える?
 僅かに触れられるだけで、肌がざわめいて、力が抜けそうになった。
 きっと薬が残っているせいだ、と、意識をしっかりとさせようと頭を強く振る。
 噛み合わせた奥歯が不快な音を立てた。
 嫌な予感がして、逃れようと腕を伸ばしたが、相変わらずテルゼの力は強く、ますます強く抱きしめられる。
「やめっ……」
 歯の隙間から唸るように制止しようとしたが、それすらも背を撫で上げられて止まってしまった。
 喘いで息を整えようと躍起になっていると、しみじみとした声音が降ってきた。
 それにふっと気を取られる。
「大事に思っていた娘がいたんだ」
「え……?」
「こうしてみると、確かに似ているな」
 また顎を掴まれて上向かされて、触れあわんばかりの至近距離を自覚させられる。
 必死になって顔を背けようとしたが、それも叶わない。
「そんな顔をすると違うかな、とは思うが……」
「違うに決まっているだろうっ」
 冷血漢のクセに、やけに切なげに囁かれて、戸惑いが大きくなる。
 ちりっと何故か胸の奥が痛くなって、ミシュナはきつく眉根を寄せた。
 そんな時にもテルゼの僅かに細められた瞳が、探るようにミシュナを見ている。
 きっと面影を探そうとしているのだろう。
 こんな赤の他人の男の顔に。
 そう思うと、堪らなく嫌だった。
「は、なせ……っ」
 ミシュナにしてみれば、いい迷惑だ。ただ似ていると言うだけで、犯された。
 そんな事、許せるはずもなかった。
 なのに。
 ──抱かれたのは俺なのに……。
 ふっと浮かんだ暗い感情に気が付いて、抗っていた手が止まってしまった。
 酷く不快で、そんな事を考えた自身が信じられない。
 けれど、どろどろと澱んで渦を巻くそれは、確かにミシュナの心の奥底にあった。
「もう会えないとは判っている。だが、どうしても手に入れたいと思っていた。だから、手に入れられないと知って、悔しくて。何もできない自分が情けなくてしようがなかった」
 会わなくて良い……。
 それは、こんな男に会ってしまえば不幸になるからだ。
 会わなくて正解。
 会ってしまえば、きっとたまに見せたあの優しさを存分に貰えるのだろう。
 俺のように蹂躙されることなく。
「お前はその娘に似ている」
 思わず頭を横に振っていた。
 違う。
 テルゼの言う娘とは自分は似ても似つかぬ存在なのに。
「似ているのに、あんな清楚な娘なのに。指が吸い込まれた。使い込まれた名器のように柔らかくとろけてしまっていた。もう誰かの者になってしまったのかと思うと、すごく悔しくて。ついな」
 くすりと笑われて慌てて顔を上げれば、頬に口付けられた。
「や、めろっ!」
「壊したい」
「なっ?」
「壊したくなった」
「──っ!」
 笑われているのに、全身が総毛立った。
 逃れようと全身で抗ったが、腕一本抜け出すことはできなかった。
 だから、せめて、と言い放つ。
「そんなんであんなことされるんだったら、もし会ったら逃げろって言ってやるよ、その娘にっ」
「それは困る。ならば口止めしないとな」
 怒りにまかせて言った言葉を、薄い笑みで返されて、ミシュナは墓穴を掘ったことに気が付いた。
 闇雲に動かしていた手は、すぐに捕らえられ、動くこともままならなくなる。
「あ、わっ」
「まあ、お前程度の給金では行くことも叶わないだろうな。私でも親父に連れられていないと金が足りぬ」
「ちょっ、ちょっと、止めっ」
 押しつけられた股間にある男の証。それはどう考えても通常時よりはるかに大きく固い。
 すでに臨戦態勢になっている男に、ミシュナは為す術もない。
 そんなミシュナの耳元に触れんばかりに、テルゼの唇が寄せられて囁かれた。
「もう4年ほど前だ、最後に会ったのは。『外苑」にある『ホァン』のミリって娘だ。知っているか?」
「え?」
 反射的に体が強張った。
 今、ものすごく懐かしい名前を聞いたような気がした。
 恐る恐る見上げた先で、テルゼの視線が懐かしげに彷徨っていた。
「双子で、リミとミリ。そのミリの方だ。ほんの少し目の色が違うだけなんだが、よく似ていて。ミリの方が大人しくて、慎ましやかだったな。今では滅多に店にも出なくて、裏方に徹していると聞いた」
「そ、そう……」
 知らないどころか、すごくよく知っていた。
 何故店に出なくなったのか、何故滅多に見られなくなったのか、とってもよく知っている。
 しかも、今裏方すらしていないのも知っている。
「何度も店の主人に付き合わせてくれと頼んだ。だが、色よい返事は貰えないままに、もう店には出ないので、来ても無駄だと言われた」
 知っている。
 15までという約束だったのだ。
 それでも時折出さされてしまうが、昔のような遊戯はもう無理になった。じっとしていれば誤魔化せるが、高くなった背も低くなった声も、もう男そのもの。踊ればバレる。
 だから、よっぽどの事がない限り、店には出られない。
 ミリとミシュナ。
 似ているのも道理。
 青ざめて震えるミシュナの唇を、テルゼが小さく笑んで塞いだ。
 途端に香った甘い匂いに、意識が霞んでいく。
 逃れる間もなく絡め取られた舌が、吸い上げられ、途端に重い鈍痛が下腹部を襲った。
 知らず息が荒くなって、きつく顔を顰めた。
 変だ、とは思った。
 だが、それすらも遠くなっていく。
「やっぱり似ているな」
 それでも、その言葉だけには頑なに首を振った。
 気付かれる訳にはいかない。
 もしバレたらどうなるんだろう?
 ミリに似ているから押さえ込まれて犯された自分。
 同じ人間ではあるけれど、テルゼが望んでいるのはミリの方。
 『ホァン』という店が作り出した娘でしかない。
 霞む視界の中に、銀の髪が煌めく。
 繰り返された口付けに酔って、触れられる快感に酔って。
 甘い香りに包まれて、ミシュナはただ甘く喘ぐことしかできなかった。

?
10

 熱く火照った体を拓かされる。
 一度受け入れた体は、難なくテルゼを迎え入れてしまった。
 揺すられる律動は、痛みよりも快感をミシュナに与える。突かれるたびに声を上げ、その頬に涙を流した。
「気に入ったよ……」
「な……に?」
 耳元に囁かれた言葉に緩慢に返す。
「ここが」
「あっ」
 しっかりと銜え込んだ後孔を指先で突かれて、小さく悲鳴を上げた。
 全身が震え、堪えようもない快感に、テルゼの体をきつく抱きしめる。
「お前のここが私の物をこんなにもしっかりと銜えてくれる。こんな快感は初めてだ、それに、お前の快感に歪む顔は何とも言えないほどに色っぽい。ミリに似ているだけのことはある……。一夜限りでというのは惜しい」
「どう……いう?」
 一体何が言いたいのか?
 揺すられ、翻弄されながらも必死で考える。
 何か大変なことを言っているような気がした。なのに、快感が邪魔をして、考えがまとまらない。
「んっ……もう……っ」
「どうだ、私と付き合わないか?」
「……んんっ」
 音が耳に入っても言葉にはならなかった。しばらくは突き上げられる度に喘いでいたが、それでも消えずに残っていた音が、不意に、意味のある単語になった。
「──えっ……」
 大きく見開かれた瞳が、テルゼを捉えた。
「どうした?」
 からかうように笑っている男が、覗き込んでくる。
「お、れ、男なのに……」
 確かにミリと名乗って女装もしたことはあるけれど、今は騎士をも務める立派な男なのに。
「男同士でも気持ち良いんだろ? お前のこれはこんなにも悦んでいる」
「んっ、やっ!」
 先端を指先で嬲られ、滲み出た滴をくびれまで塗り広げられた。
 敏感になった体には堪えられない刺激で、翻弄されるしかない。
 喘いで、それでもかろうじて言葉を絞り出した。
「だっ……あんた……好きなの……は……」
「手に入らないんだ。いい加減諦めてる」
「そんな……」
 それはそれで悔しい。もっとも何でそんな事を思ったのかもよく判らなかった。
「だから、お前は今度から22中隊所属だ」
 事も無げに言われたその内容に、今度こそ全ての思考が吹っ飛んだ。
 快感すら、途絶えた。
「にじゅ……に?」
「親衛隊に空きができたんで、次の候補を選んでいたところだ。なのに、ノードはその試験とも言える任務を他人に渡した。つまり親衛隊の地位を放棄したのと同じ事だ。で、その任務をこなすのがお前だから、お前は22中隊に入れる」
 理に適っているのか、むちゃくちゃな理論と言うべきか。
 口が何度も開いては閉じた。
 けど言葉は出てこない。
「まあ、薬を貰ってこなくてはならないが、私も同行するのだ。間違いはまず起こらないし」
「で、でも……」
「問題はない」
「で──んっ」
 合わせられた唇の隙間から、テルゼの舌が深く侵入してくる。
 ゆっくりと探るように動く舌先が粘膜を優しく擽って、快感を呼び覚ました。じわじわと高みを目指す快感に流されそうで、眉を顰めて必死で堪える。
 侵入してくる舌を追い出そうとしたけれど、反対に絡め取られ、吸い付かれる。
 柔らかく噛みつかれ、敏感な舌先に甘い痺れが走った。
「はっ……」
 堪らず吐いた息が甘く自分の耳に響く。
 背を辿りきつく抱きしめられて、テルゼの高ぶりと熱を感じた。
 たったそれだけのことに、全身がさらに熱を吹き出す。
 テルゼの動き全てが、昨夜の行為を思い浮かばせ、ミシュナの快感を呼び覚ます。
 そんな自分が変だ、とは思うけれど。
 神経がひどく過敏になって、冷静であろうとする理性をあざ笑う。
 深く長いキス。
 テルゼの舌技に翻弄され、それだけでミシュナの膝は力が入らなくなっていた。
「っあ、はあっ……」
 思うようにならない息苦しさもあって、思うように動けない。
 口付けが離れても、どこかもうろうと意識で、ミシュナはぼんやりとテルゼを見上げた。
 艶のある瞳が、淫猥に誘っているのも気付かない。
 ただ、銀の煌めきを目で追う。
「どうした?」
 笑みが深くなったテルゼに微かに首を横に振った。
 けれどすぐに動けなくなる。
 両手で頬を包まれて、高い位置からテルゼがこめかみにも軽く口付けた。そのまま舌先を這わせるように耳朶へと移動して、音を立てて愛撫した。
 間近でする水音が、快感を助長する。
 小刻みに震え、今にも崩れ落ちそうな体を抱きしめて、テルゼの口元はさらに弧を描いた。
「逃がさないよ」
 耳元で囁けば、小さく開いた口から熱い息が零れる。
 全身が自分のものではないようで、力が入らない。。
 先刻までは薄く青ざめた体が、今はほんのりと朱に染まっていた。
「でも……」
 それでも逃れようとしたのか、虚ろな声音を出したミシュナをテルゼは嘲笑った。
「無理だ」
 支配する側の男の言葉は、ミシュナの足掻きを封じ込めることなど容易い。
 もとより四肢に力が入らないミシュナに逃れる術など無かった。
 この先に何が起きるのか、想像はできているのに。
 まるで夢の中のように思うように動けない。──動きたくなかった。
 熱くて、怠くて、体内で澱んだ熱を解放したくて。
「ん……く……」
 知らず甘えるように鼻を鳴らしていた。
「欲しいのか?」
 指先が布地の上から股間を撫で上げる。
「あっ!」
 濁流が体内で暴れ回っている。
 解放したくて、堪らずに腰を擦り寄せていた。
 感じる剛直が快感をさらに高める。 
 ミシュナの体から立ち上る香りがさらに強くなった。
 甘い蘭の花の香りが、情欲を誘う。
 呼気によって体内に入り込み、完全に抜けていなかった前の薬と相まって、ミシュナの体を淫猥なメスに変えていく。
 もう理性など完全に融け去って、追うのは快感だけ。
 吐き出したい欲望に、自ら手を伸ばそうとする。
 その手を捕まえられて、ミシュナは泣きそうな視線をテルゼに向けた。
「俺がしてやる」
 かけられた言葉が嬉しくて堪らなくて、とろりと顔を綻ばせた。
「ほし……」
 掠れた声で誘い、解放したいと全身で訴える。
 だから。
「……同じ轍は繰り返すつもりはない……もう二度と……な」
 冷たく笑うその言葉の意味を、考えることはできない。
 昨夜とはうって変わって丁寧に施された愛撫。
 全身の肌をくまなく探られ、見つけられた性感帯を丹念に愛撫される。
 口付けは貪るように深く、息すら吐かせない。
 時折覚醒しようとした意識が、再び麻痺してしまうのもすぐだった。
 雨が去って、明るい朝日が緑の葉を煌めかせる。
 その陽光ですら、肌を愛撫するかのようで、ミシュナは甘い息を吐いた。
「ん……あっ……」
 心許なさが目の前の体に縋り付かせる。
 力の入らない腕を相手の首に回し、もっと、と引き寄せた。
 触れる肌の温もりだけがこの不安定な自分を救ってくれる。
「あっ……ふぁ……」
「ずいぶんと薬が効きやすい質だな」
 嬉しそうな声音に、何? と首を傾げ、淫蕩な視線を送る。
 途端に深く抉れられて、掠れた嬌声を上げた。
 抜かれる時には、切なく身悶え、誘うように腰を動かす。
 何度も打ち付けてくるテルゼが全てで、今はもう何も考えていられなかった。
 甘い蘭の香り。
 肌を嬲る銀の糸。
 自分を見つめているのは、空を覆う若葉よりもっと深い緑。
 ああ、見たことがある……。
 こんなふうに熱く、縛りつけようとする瞳。
 逃さないと──いつも言われていたような気がして、出番が終わるとすぐに逃げていた。
「あっ……テ……ゼ……ま」
「いい声だ、お前にそんなふうに呼ばれるとぞくぞくする。それに……絡みつくような……。こんな気持ちよいのは初めてだ」
「んあっ……あ…んっくっ……」
 律動が際限のない快感を与える。
「んんっ……テルゼ……さま……テ……ま…ぁっ」
 支配された体。
 狂わされた心。
 熟れた声を出し、熱い塊を貪る。
 堪えきれないほど熱くなった体を、ただ、どうにかしたかった。

続く