「タケノコ、忘れたっ」
冷凍食品もあるし、もう帰ろうかという話になった時だった。
不意に和巳が叫んだ。
「ごめん、買ってくる」
慌てて買いに走ろうとしたその腕を止めたのは、裕真だった。
「タケノコなら家にあるよ。採れ立てを送ってもらってすぐに茹でたばっかりだからあげるよ」
その言葉に和巳がごくりと喉を鳴らす。
「採れ立てで、もう下茹でも済んでんの?」
そこが重要とばかりに、上目遣いで窺う。
その意味が、晃一には判らなかったが、裕真にはよく判ったらしい。にこりと微笑み、頷く。
「ん。早く茹でないとえぐみが増すからね。それに、このタケノコは美味しいよ。産地って訳じゃないけど、俺の実家近くでも美味しいって評判の家のタケノコだから、食べてみて?」
「うわぁ?」
和巳の期待に満ちた視線が裕真に、そして窺うように静樹に向けられる。
その瞳だけで、和巳がしたいことが晃一にすら判った。まして静樹が判らないはずもなく、そして、逆らえるはずもなかった。
「じゃあ、帰りに裕真君ちに寄ってみようか? 本当に良いのか?」
苦笑しながらの問いかけの終わりは裕真に向けられていて、裕真ももちろん嬉々として頷いていた。
「はいっ、もちろん。食べてもらえるなら、送ってくれた母も喜びます」
その後、タケノコを貰ったからごちそうしたいと和巳が言い出して、そんな願いをやっぱり静樹は苦笑しながらも受け入れた。
晃一は内心裕真と二人きりの方が良いとは思ったが、面と向かっては断れずにいた。一人遠慮した裕真も、和巳の「タケノコ料理を教えて欲しい」とのお願いには逆らえず、結局みんな揃って静樹の家にやって来たのだった。
そして今、キッチンの方からは賑やかな声が聞こえている。
その隣のリビングで、晃一はコーヒーを口に運びながら、ちらりとそちらを見やった。
モノトーンの落ち着いた部屋の中で、そこだけが場違いなほどに華やかに、そして明るく見える。
「ん、土質によってタケノコのえぐみが違うんだ。うちの近所の人の山って、土がたけのこには良いらしくって、柔らかくて美味しいタケノコが採れるんだ。ほんとは採ってすぐに下茹でする方がいいんだけど、それは無理だったから」
「いや、十分柔らかいって。これだったら、木の芽和えもいいし、天ぷらも美味しそう?」
「そうだね。そういえば、カツオはどうするの?」
「これは、軽く炙ってタタキもどき」
「へえ」
一体どんな料理になるのやら。
料理好きな二人の会話にはついて行けない。
静樹の話によれば、和巳の父親は居酒屋をやっていて、そのメニューなら和巳も一通りはできるらしい。
確かに二人が見せる手際の良さはずいぶんと慣れているもので、晃一も静樹も追い出されたと言った方が正しいだろう。
そんなキッチンから視線を外し、一口コーヒーを飲んだ晃一は、手持ち無沙汰を隠しもせずに部屋を見渡した。
前に来たのはいつだったか。
ずいぶんと足が遠のいていた部屋は、前に来たときと雰囲気が変わっていた。
シックで落ち着いた家具は前と同じ。けれど、それ以外の、人が暮らしている雑然さがここにはあった。
ちらりと前方に座っている静樹を窺えば、彼の視線はずっとキッチンに注がれていた。
きっと彼も手伝いたいのだろうけれど、狭い場所だ。裕真と和巳がいれば、もう一杯になる。それが判っていて、ここでコーヒーを飲んでいるのだが、やはり落ちかないのだろう。
そんな静樹の心情が簡単に想像できて、晃一は一人ほくそ笑んだ。
本当に和巳のこととなると静樹は変わる。
『最近、副社長優しくなりましたよね。とっても良い感じです』
そう言ったのは、会社でアシスタントをしてくれる岬という女性だ。厳しい静樹のお眼鏡にかなう希有なアシスタントだが、それでも静樹の変化を喜んでいた。
晃一にしてみれば、前より厳しくなったと思うのだが、そうでもないのだと今の静樹を見れば理解できた。
本当に、優しい目をしている。
心から大事なだと判る、労りのこもった視線。
そんな静樹と比べて、自分はどうなんだろう?
ふと気になって、裕真を見つめる。
大切だと思っている。
優しくしたいと思っている。
けれど、静樹のように振る舞えない。
甘えて、負担をかけて。
さっきも、静樹は自然に和巳の荷物に手を伸ばして、運んでいた。
けれど、晃一は車に乗せるときに裕真が重そうに顔を顰めて初めて気が付いたのだ。ずっと自分は軽い荷物しか持っていなかった。
そんなことにも気付かない鈍感な自分では、裕真の負担を軽くしようなど無理な気がした。
テーブルに並べられるいろいろな料理。
「春の物をメインにしたよ。どう?」
和巳のお伺いに、静樹の顔が綻ぶ。
「美味しそうだ」
自然な笑みに、和巳も裕真もずいぶんと嬉しそうに顔を見合わせた。
「じゃ、食べて。晃一さんもどうぞ」
「ああ、ありがと」
和巳の言葉には頷いて返した。けれど、なぜか静樹のように料理を見ても素直に感想を言えなかった。
裕真……。
裕真の視線が晃一に向いていないのだ。
「美味しい。このタケノコ料理は裕真君が?」
「はい。でも和巳君にもずいぶんと手伝って貰いました」
「裕真さん、教えるの上手なんだよ。レシピも書いて貰ったから、また作れるよ」
ニコニコと笑顔の和巳と静樹。こうしてみるとよく判る。
互いに相手が喜ぶことが嬉しくて仕方がないという表情をしている。
そして、裕真は……。
そんな静樹を見つめて、嬉しそうに微笑んでいる。それがどんな感情なのか、晃一には判らなかった。
ただ、今裕真が晃一を見ていないことだけは判った。
「裕真……」
知らず口を衝いて出ていた。
「はい?」
振り返られて、呼んだことに気付く。焦って、目に付いた皿からおかずを口に運んだ。
「……これ、旨いな」
鶏肉の唐揚げだが、ショウガが良く利き箸が進む味だった。しかも、晃一の好みにあっているからこその返答だったが、実のところ晃一を窺う裕真の視線に、つい口を衝いて出ただけの言葉だった。
「それ、和巳君が作ったんですよ。味の付け方教えて貰いました。今度作りますね」
「え、あ」
他人の料理を褒めたのだと気が付いて、口籠もる。けれど、裕真は特に気にした風もなく、微笑んでいた。
そんな裕真に、よけいにいたたまれない。
言葉少ない晃一を静樹がじっと見ていることにも気づき、よけいに頭の中が空転する。
何か言わなければ、と必死になって考えて、無難な言葉を選んで。
「……タケノコ料理は裕真が作ったんだろ?」
「はい。でも、この魚のあらと煮たものは、和巳君のですよ。こちらも美味しいですからどうぞ」
「ん」
なぜか和巳の料理を勧められて、断る理由も思いつかずにそれを口にした。
「美味しいね、これも」
「やったっ。もっと食べてくださいっ」
「そうでしょ。味見したときは、ちょっと濃い感じだったけど、こうして食べるとご飯に合いますよね。やっぱり和巳君の味付けは上手です」
「んなこと無いですって。裕真さんの味も自然の味を生かしてて……、俺のは居酒屋メニューだから、ちょっと濃いんですよ。裕真さんの方がちょうど良いのもあるし」
「両方とも美味しいよ。な、静樹」
「ああ、そうだね。裕真君も和巳も、どちらの料理も美味しい。いくらでも食べられそうだ」
「ありがとっ」
「ありがとうございます」
裕真の視線が再び静樹の方へと向いていた。
それに、晃一の言葉より静樹の言葉の方に喜んでいるような気がした。
穿った考えかもしれないとは思うけれど、それでも裕真の静樹を見る視線が気になった。
どうして、あんなふうに見るのだろう。
嬉しそうに、楽しそうに。
ここにいる間、裕真は笑っている。
買い物をして、こんな手のかかる料理を作った後なのに、ずっと笑顔で。
昨夜見かけたあんな無表情な裕真はどこにもいない。
相手が静樹だから?
裕真はずっと静樹に憧れていたから?
そういえば、と過去の裕真との会話の中に、静樹への憧憬を窺わせる言葉があったことを思い出す。
格好良かった、と言っていた。
話が出るたびに会いたそうにしていた。
昔裕真と遊んだ頃の晃一と静樹なら、断然静樹の方が格好良かったのは晃一にだって判っている。子供と同じレベルで転げ回っていた晃一と違って、静樹はいつも静かにみんなを見守っていた。かといって遊ばない訳ではない。ある意味、リーダー的存在で、遊びをしきっていたところがあったのだ。
静樹に従うと楽だ。
いつしかそんなふうに子供達が思うようになったのは、覚えていた。
裕真だってそれを覚えているのだろう。
そうなれば、裕真の言う格好良さも大人の態度も全部それは静樹に冠せられる言葉だ。
あの静樹と比べてしまうと、晃一など友達と同じレベルでしかなかったのだから。
「本当に裕真君も料理が旨いな。晃一が入り浸るのも良く判る」
「ありがとうございます。静樹さんに食べてもらえて、俺も嬉しいです。俺、ずっと静樹さんに憧れていたんですよ。静樹さんみたいになりたいって。あのとき、晃一さんに出会えて良かったなあ。こうやって、静樹さんにも出会えて」
にっこりと屈託無く笑ったその顔に、鼻の奥がきな臭くなった。
そうだったんだ……。
裕真が晃一の世話をしてくれていたのは、静樹に会うため。
静樹に会いたいから、晃一と一緒にいてくれたんだ……。
「そんな格好良かったってこと? 昔の静樹って」
少し強ばった声音の和巳に、裕真が頷く。
「和巳君も昔の静樹さん見たら、そう思うよ。静樹さんは、あのころの俺たちのリーダーだったから」
「裕真君……」
静樹の戸惑いの混じった声音に、裕真が微笑む。
「だから、和巳君が羨ましいです……」
その笑みが何を示すのか、判らない。
和巳がうっすらと頬を染め、静樹が照れたように視線を泳がせる。
それを見て、裕真の笑みが深くなる。
その意味が判らない。
それから、三人が何を喋ったのか頭が理解していない。
ただ、嫌だった。
裕真が他人に向かって微笑むのが。
嫌だ。
三人を見ていられなくて、晃一は目の前の料理をひたすら口に運んだ。
和洋折衷の料理は、そのどれもが美味しい。
裕真の味付けもあれば、いつもと違う味付けもあった。それが和巳の物なのだろう。
そのどちらも美味しかったが、晃一には裕真の物の方が美味しく感じた。
裕真が良い。
自分だけを見ていて欲しい。
けれど、裕真は静樹達と意気投合していて、晃一を見てくれなかった。
それを自覚するのが辛くてひたすら料理を食べ続ける。
そんな晃一を静樹がじっと見つめていたことに、晃一は気付く余裕もなかった。
裕真の作ったご飯を食べて、話をして、一緒に寝て。
ほんわかとした気分になったら、疲れも何もかも吹っ飛んでしまう。
けれど、静樹達と一緒にご飯を食べたときは、どれもが美味しい料理だったのに、どんな味だったか覚えていない。
覚えているのは、静樹と和巳と裕真の楽しそうな会話。
裕真の静樹を見つめる瞳。
それがどんな意味を持つのか……。
裕真にとって気になる相手が静樹だとしたら、晃一には勝ち目が無い
直接言葉で聞いたわけではないけれど。
そんな答えを聞いてしまったら、自分の想いを告げる前に失恋確定だ。それが嫌で。
かと言って、裕真を目の前にしたら聞きたくてどうしようもなくて。
あれから二週間、晃一は裕真の家に行っていなかった。
何度か電話が入ってきたときも、適当な理由をつけて断っていた。
それほどまでに怖いのだ。
今まで何度もあった振られる瞬間。ずっと、しょうがないか、と割り切って過ぎ去っていた時が、またやってきそうだった。それが怖い。
今までそんなことを考えたこともなったのに。
「聞きたくない……」
裕真から、あの言葉を聞きたくない。
いや、裕真だったら遠回しな言い方をするだろう。それも嫌だ。
重いため息を落として、肘をついた両手で顔を覆う。
一度は始まってしまったマイナス思考が止められない。
泣きたいくらいに、心が辛い。油断すれば、目尻から溢れそうなそれを必死で堪える。そのせいか、頭が重くて何をする気力もない。できれば、家でずっと寝ていたいのだが、仕事は待ってくれなかった。
「ほら、ぼおっとすんな。急げ」
ぽんと書類の束で頭をこづかれて、顔を上げると静樹の端正な顔が目に入ってきた。
眼鏡が似合う男。
「何だ?」
眉根を寄せるそんな姿も男らしくて、羨ましくて。はあっ、と重いため息を吐いて机に突っ伏す。
敵わない。
男としても、仕事に関しても。
「こら、晃一」
「ん?」
「いい加減に浮上しろ。いきなり落ち込みだしたと思ったら、もう二週間もこの状態ではないか。これでは仕事に差し障りがありすぎる」
「二週間か……ってことは、月曜日……だよな」
なんだか裕真のところに行かない日は時間が経つのが遅い。
いっそのこと一ヶ月ほど一気に進んでくれたら、この胸のもやもやもあっという間に消えてしまうだろうに。
重いため息を再び落として、晃一はゆっくりと顔を起こした。
「晃一?」
「判ってるよ。フェザント・FPとの提携の話だろ」
仕事をしていれば、いつかはこの想いは消えていく。
今までと同じく、笑って過ごせるようになる。
自分では、裕真を繋ぎ止められないのだから、諦めるしかないのだろう。
そうやってケリをつけたら、また何でもない顔をして会いに行こう。
いつもと同じく、割り切ることには慣れている。
それに、本当に仕事は待ってくれないのだ。
意識しないため息を吐きながら、晃一は机の上にまとめてあった書類を取り上げた。
これからフェザントの開発する化粧品を作る装置についての契約の話があるのだ。
萩原産業にとっても大きな商売で、おろそかにするわけにはいかない。晃一自らが乗り出さなければならないほどに重要な会議だ。
「設計図と仕様書……契約書の内容は?」
「問題ないことは確認できている」
「見積もりは?」
「粘られたが、こちらが合意できる金額にまでは持って行った」
「OK」
「仕様は技術部長が太鼓判を押している」
「OK」
晃一には理解しきれない仕様にある数値。
だが、今の技術部長の技能は静樹が認めている。その彼が太鼓判を押したのなら大丈夫だろう。
晃一は頷くと、書類をひとまとめにしてクリアケースに入れ、机の上に置いた。
相手方との約束は、15時。
まだ時間には余裕があった。だから他の仕事でもしようと机の上に視線を向ける。と——。
見慣れないクリアファイルがあった。
いや、知っている。
ただ、ここしばらく目にしていなかった。
NO.50。
きりの良いナンバーのそれを手にとって、静樹を窺う。
「聞いていないが?」
面接の予定が入っているなどとは。
「急遽入った。13時から行う」
「……13時? 後5分も無い」
時間が無いのはいつものことだった。
だが、予定が入っていないうえに、静樹が何も言わなかった面接は初めてだった。
「だから、急げと言った」
静樹の手が脱いでいたスーツの上着を取る。
「何て顔だ……」
晃一の額に静樹が手をかけ、軽く力を込めて仰向かせる。その手にあるのは、愛用していた目薬だ。
冷たい滴が、目の奥まで広がった。
数度瞬き、気持ちの良さに浸る。
「先日、裕真君と話をしたよ」
けれど、耳に響いた静かな言葉に、その瞳が大きく見開かれた。
「なんで……静樹と?」
やっぱり静樹が好きだから?
静樹が気になるから?
続けようとした言葉は、口元が強ばって出て行かない。
見下ろす静樹から、思わず視線を逸らしそうになったとき。
「和巳と裕真君が仲良くなってしまってね。偶然とは面白いもので、大学も一緒だったようだ。そのお陰でさらに親しくなって、しょっちゅう会っている。その時に、困っているようだからと、和巳が連れてきた」
二人の大学が一緒?
っていうか。
「困っている?」
裕真に何かあったのだろうか?
と、慌てて見上げ直すと、額をパコンと小突かれた。
「なっ」
痛みに顔を顰めて睨むと、それより強い鋭い視線が返される。
思わず、仰け反る晃一に静樹が覆い被さるように詰め寄った。
「せっかく俺から聞き出した上に、和巳に習った晃一好みの料理が、毎日無駄になっているそうだ。何でそんなもったいないことをする?」
「無駄ってっ——。……なんだよ」
俺好みの料理?
毎日?
言葉の意味を理解するにつれて理不尽な攻撃への怒りが霧散する。
最後には呆然と見つめ返せば、ふっと静樹が肩の力を抜いた。
「お前が、先日和巳の唐揚げが美味しいと言っていたからだ。だから、食べさせたいのだと早速作ってみたらしい。大好きな料理をもっと食べさせたいと言って、俺に聞いてきた。晃一が時食べていた料理も全部聞いて。作り方の講習会まで開いていたぞ。あの時は、人数分以上の料理を俺まで食べさせられて参ったのだが……。その成果をお前に食べさせたかったんだろうが、肝心のお前が来ないものだから、余ってしようがない。結局、弁当にして大学で和巳と食べているらしいぞ」
「俺のために……」
裕真が、俺のために。
和食が中心の裕真の料理が気に入っていないわけではない。
和巳の料理は、どちらかというと味の濃い、酒の肴になりそうなものが多かった。
それはそれで美味しかったが、あのときは和巳の料理だから食べていたわけではなかった。目の前にあったから、食べていたのだ。
それを、裕真は晃一が好きな料理だと勘違いして。
毎日作って……余った分は弁当にして食べて。
基本的に、もったいないことが嫌いな裕真だから、捨てるなんてことはしない。
「毎日?」
「毎日」
軽く頷き返されて。しかも容易にそんな姿が想像できるのが裕真だ。
「だって、俺は行けないって……電話があったら、ちゃんと断っている」
先週はずっとあった電話……けれど、ここ数日その電話も無くなっていた。
だから……もう見捨てられたと思っていた。
「それでも、お前がいつ来ても良いように作っているのだそうだ」
「あ……だって……」
「健気だよ、裕真君は。しかもそれが苦にならない……」
「何でだよ。俺が行かないのに。行かないって判っているんだから、作らなきゃ良いのに」
裕真が悪いわけではない。けれど、口から出る責める言葉に、言った晃一自身が傷つく。
悪くないのに、裕真をけなす自分が許せない。
ぎりっと音がするほどに奥歯を噛みしめる。
「判らないか?」
「判らないよ……そんなの、判らない」
そう言いながらも、心の中ではその理由が判っていた。
晃一を見つめる静樹。その瞳に浮かぶ感情が、晃一に気付かせるのだ。
昔、同じ色が静樹の目にはあった。
それに気付かなくて、晃一は大事なそれを失った。
「だって……」
けれど、子供のように繰り返す。
「だって、判らない……」
静樹の手が頬に触れる。
赤くなった目を癒すためにぽたりと落とされる滴を、いつも晃一は当然のように受けていた。
でも、今は。
その手は、離れていく。
「晃一……もう気付いているんだろう? 無償の行為に隠された裕真君の想いを」
「けど、俺は……こんなんで……。静樹のように頼れる存在じゃない。年上なのに、まだ大学生で就職活動が大変な裕真に甘えて」
あまつさえ、落ちてしまえと考えた。
他の会社なんて、落ちてしまえ——と、がんばっている裕真を目にしてなお、考えたのだ。
俯き、小さく首を振る晃一だったが、その肩を静樹が掴まえ、イスの背に押しつける。
「……お前は……、そうして、また失うのか?」
眉間のシワを深くして、静樹が睨みながら言う。
「今までのように向こうから逃げ出したのならともかく、なぜお前から逃げる?」
「に、逃げるって?」
「今まで、お前は振られたことはあっても、自分から振ったことはないだろう? なのに、なぜ今回だけは、自分から振ろうとする?」
「振るって、それじゃまるで裕真が……」
晃一の事を好き、だと。
それが仮定にあって成り立つ言葉に、晃一は呆然と静樹を見上げる。
その視線の先にあるひどく真剣な瞳。
知らずごくりと息を飲み、そして言葉すら飲み込む。
「男は、たまにならともかく長い時間ひたすら尽くすって時には、何らかの見返りを考えているものだ。それは裕真君だって例外ではない」
「でも、裕真は」
ああいう性格だから。
そう言おうとした途端、静樹がからかうように呟いた。
「泣き虫で甘えん坊な晃一兄ちゃん」
「は、ぁ……」
静樹の口からは聞き慣れない言葉。
けれど、昔誰かから聞いていたような気がする。
一緒に遊んだ子供達。まだ中学になったばかりだったろうか。啓輔のところで一緒に遊んだ子供達は小学生かそれ以下か。年齢的に、裕真も小学生以下——そんな幼い子供達は時に情け容赦が無いことがある。けれど、そんな彼らの言動に晃一がまともに傷ついてしまうと、今度は彼らはとてつもなく優しくなるのだ。
——ごめんね。ごめんね。晃一兄ちゃん。泣き虫なお兄ちゃん。
それを静樹が口にする。
「静樹?」
「晃一兄ちゃんが変わっていなかったのが嬉しい。裕真君がそう言っていた。びっくりして……けれど、とても嬉しかったとね」
一気に全身の肌が上気した。
かっか、かっかと湯気が出ているのではないかと思うほどに熱い。
情けない思い出は、はっきりいって封印したいほどに恥ずかしい。
けれど。
「晃一が来てくれて嬉しい。仕事で疲れているのだから、ゆったりとさせてあげたい。そのためには、何だって苦にならない——ときっぱりと言い切る裕真君は、本当にお前のことを心配していた」
嬉しい。
言葉にできない程に嬉しい。
それが本当に裕真の言葉だというのなら、自分の情けなさすら嬉しくなる。そのせいで、裕真の心に深く自分が残っているのだとしたら。
震える唇を数度噛みしめ、ようようにして言葉を紡ぐ。
「俺は……裕真のところに行って良いのかな……?」
窺うように静樹を見つめたら、肩を竦めて返された。
「知るか。自分で確かめろ。そこまで俺は面倒見切れない」
その言葉と共に内線電話が鳴る。
「来たようだな」
「え?」
「面接だ」
言われて、慌てて目元をこすった。
けれど、自分でも腫れているのが判る。
「む、りだ……こんな……」
今日の面接は、静樹だけでやってもらおう。
その思った晃一の目の前に、No.50のクリアファイルが渡される。
すっと引き抜かれたのは履歴書だ。
その小さな写真が目に入った途端、晃一の心臓が音を立てて跳ねた。
「静樹……俺」
晃一の顎に手をかけて、静樹がくすりと笑う。
「面接担当官はお前だけだ」
「え?」
「社長の判断に任せます」
すうっと消えた笑みとともに、言葉遣いが変わった。
「静樹?」
「欲しい人材は、なんとしてでも取る。うちのような中小企業は、無駄な人材を採る余裕はありません。この方の場合、筆記試験は合格。性格診断の結果は……積極性が無く、行動力が足りないようですね。この辺り、問題が無いわけではありませんが……仕事内容によってはこの方が良いでしょう。後は、面接の結果次第です」
小さな写真がぼやけて良く見えない。
「大学教授からの推薦文もついています」
「……ん……」
知っている。
良い大学で良い教授の元にいる。
院を勧められていたのに、金銭的な理由と親を安心させたいと就職を選んだと言っていた。
その就職が決まらなくて、ひどく疲れていた。
油断したかのように笑みが消えて、無表情になって。
『何でもないんです』
と笑って、誤魔化して。
そんな顔をさせるのが辛かった。けれど、彼の就職が決まらないことに喜ぶ自分もいて……。
彼にはもっと頼れる、安心させるような人の方が良いのだ。
自分のように情けない男なんかじゃなくて……。
溢れそうになる涙を堪えて、手を握りしめれば、くしゃりと紙がシワになった。
そんな晃一を見下ろし、静樹が続ける。
「仕事量が増えて、私もかなり苦しくなっています。岬さんにも私のアシスタントに専任して貰いたい。そう思って、社長に仕事を教えてきましたが、それだけでは追いつかなくなってきています」
履歴書を凝視する晃一の耳に、静樹の言葉が優しく響く。
「うちの社長専属の秘書は、ふつうの秘書業務ができるだけではすみませんからね」
秘書?
しかも、社長秘書ときたら……。
「俺の……?」
見上げると、静樹の瞳が優しく見下ろしていた。
それは、昔の静樹。仲の良かった何でもしてくれた頃の静樹の瞳。
「うちの社長秘書なのだから、社長が判断して頂かないとね。少なくともここまでの試験結果は、私は合格としますよ」
「合格……後は、俺だけ?」
それは……それだったら……。
そして、裕真がここに受けに来てくれているというのなら。
「私は、会社にとって必要でないと判断したら、たとえ誰であっても落としますけどね。どうやら彼は……晃一にとって必要な人材らしい。そして、晃一がいてこそ、私にとってここは、働きがいのある会社となるのです」
必要な——晃一にとって必要な相手。
静樹の言葉が晃一の頭の中をぐるぐると駆けめぐる。
「し、ずき……」
「早く行ってください」
顔に当てられたハンカチ。
背を押されて、引っ張られて。
ぐずぐずと鼻を鳴らす晃一を静樹はそのまま近くの部屋に押し込んだ。
「君の写真を見たら泣き出してしまったんだ。後は、頼むよ」
そんな言葉を残して静樹だけ出て行った。
顔からハンカチが外せない。
いつまでも止まらない涙に、晃一は顔を上げることすらできなくてその場に立ち尽くした。
その部屋に、もう一人人の気配がするのは判っている。そして、それが誰かも。
「……晃一さん……」
心配げな声。
途端に、止まりかけていた涙が溢れ出した。
もう誤魔化せない。
自分の心がこんなにも裕真を欲している。
このまま駆け寄って抱きつきたいと願うのに、体が動かない。
その場に立ち尽くす晃一に、足音が近づいてきた。
「晃一さん、大丈夫ですか? ほら、座ってください」
視界にスーツの袖が入る。
背を押されて、引かれたイスに導かれて。
力強いその手の力に逆らえなかった。逆らいたくもなかった。
「晃一さん、俺、静樹さんに試験を受けろ、って言われて。縁故だろうが何だろうが、必要だったら取るし必要でなかったら落とす。だが、まずは受けてみないと何も始まらない。それに……」
何も言えない晃一の顔に、別のハンカチが触れる。
「晃一さんに会いたいなら、自分から会いに行けって。そう言われて……」
その言葉に、慌てて顔を上げると至近距離に、裕真の優しい微笑みがあった。
途端に、心臓が激しく高鳴って、息まで苦しくなる。
「裕真?」
「俺、そんな動機でここに来ました。志望理由としては失格ですよね」
苦笑して、頭を掻いて。
ぺこりとお辞儀をして、離れていく。
面接官の晃一の机を挟んで真向かいの席。
そこに座る。
「晃一さんにあんなに面接のノウハウ来ていたのに、役に立てていなくてすみません」
「い、や……」
「けれど、ここに来た以上、この会社に入りたいという意思は持っています」
優しい笑み。
言葉尻の強さとは裏腹に少しひ弱に感じるのは、その笑みと声音の優しさのせいなのだろう。
なんとしてでも、という意識が感じられない。
けれど——晃一は知っている。
これが裕真なのだ。
「裕真……、俺の社長秘書が仕事になる……。きついよ。俺何もできないから」
「晃一さん、ちゃんとできますよ。俺の方こそ、何もできないかもしれない」
「何で? 裕真は何だってできるじゃないかっ」
「けど、俺ができるのは家事一般。会社の仕事は何もしりません」
「そんなの、入ったらいくらでも教えることができる。静樹に頼んで、マンツーマンで教えてもらえるようにする。そうしたら、すぐに覚える」
「それは……」
大丈夫だと言い切ろうとした途端、裕真が口籠もって苦笑した。
「静樹さんとマンツーマンって……怖いですよね」
あの人、きついところありますよね。
眉尻が下がって、ため息が零れていた。
「昔、遊んでいたとき、ルール破った子を叱っていたでしょう? 無表情のままコンコンと説教されるから、俺たちみんな怖かったんですよ、静樹さん。だから、静樹さんの言葉には従うしかなかった」
「へ……」
なんだかこの前聞いたときとは違うような……。
「あ、この前はね、和巳君がいたから……。それに、リーダーだったのは間違いないし」
「あぁ……」
「それなのに、晃一さんにだけは優しくて。晃一さんも、静樹さんには思いっきり甘えてて……。だから静樹さんみたいになれば、きっと晃一さん、俺にも甘えてくれるかなって……思ったんです」
その言葉に、晃一は呆然と裕真を見つめた。
静樹みたいに……なりたかった?
「俺、家事全般、それから親に習いました。やってみたら自分の性にあっていたのか、結構楽しくて」
「静樹みたいになりたかったから?」
「あの時から静樹さん、一通りはできていたでしょう? 啓輔君ちの手伝いとか、一番上手だったし」
「あ、ああ」
「だから」
「家事を習った?」
「はい」
きっぱりと頷かれて。
「それって……誰のため?」
おずおずと問うてしまった晃一に。
「それはもちろん晃一さんのためです」
にっこりと、笑顔と共に裕真の言葉が返された。
嬉しさと気恥ずかしさと。
じわじわと込み上げる収拾のつかない感情のせいで、涙が溢れそうなのに口元が笑いたいと、ひくひく震える。
それ堪えようとじっと俯いていた晃一に、裕真がそっと囁いた。
静かな会議室に、裕真の声がゆったりと響く。
およそ面接とは思えないその場で、面接とは不釣り合いな言葉だけが流れる。
「ずっと来てくれていた晃一さんが急に来なくなって。連絡もまともに取れなくなって。そうしたら、ものすごく会いたくて会いたくて堪らなくなったんです。俺、毎日晃一さんの分もおかず作っています。晃一さんに美味しいって言って貰わないと、全然美味しくないんです。晃一さん、おれの作ったみそ汁を食べると食欲が増すって言っていたでしょう? だから、毎日作ってます」
期待して良いのだろうか?
裕真の言葉を、言葉通りに受け取って良いのだろうか?
なんとか顔を上げて裕真の顔を見ようとしたのに、その輪郭がぼやけていく。
「ああ、涙拭いてください。ほんとうに晃一さんは昔から変わりませんね。甘えん坊で泣き虫で」
くすくすと笑われて、かあっと顔から首筋まで熱くなる。
「うるさっ…い……」
「俺、昔の晃一さんの事思い出すとき、いつだって泣きそうな顔なんです」
「……」
「あの桜の下で再会したときも、泣きそうだった。だから、放っておくことなんかできなかった」
かたんとイスの音がして。
衣擦れの音が近づいて、ふわりと裕真の匂いに包まれた。
温もりと、背に回された強い力。
「ゆ、裕真っ」
全身が熱で包まれる。
「泣かないでください。泣いている姿が似合うけど、でも、泣かせたくはないんです」
とんとんと優しく背を叩かれる。
心臓のリズムに合わせるように優しく、一定のリズムで繰り替えされていく。
目を瞑ってその振動のみを感じていると、落ち着かない感情がゆっくりと凪いでいった。
「俺、うぬぼれて良いですよね?」
耳元で囁かれる言葉と共に、指先で目尻に溜まった涙を掬われた。
裕真が何を言いたいのかなんとなく想像できて、晃一は赤くなった顔を裕真の肩口にさらに強く押しつける。
なのに、裕真がそんな晃一の体を引き覇がして、目を覗き込んできた。
すでに涙で濡れて赤くなった瞳。情けなく歪んだ口元の間近で微笑んでくる。
「俺は……」
両肩の手が熱く、そして強い。
「晃一さんに部屋に来て欲しいです。俺が作った料理一杯食べて欲しいです。晃一さんがして欲しいこと、俺がしてあげたいです。洗濯だって掃除だってなんだって。会社でもがんばります。静樹さんにいっぱい怒られても、晃一さんのためにがんばります」
本気だと判る。
静樹が決して口にしなかった言葉。
晃一が誰にも与えなかった言葉。
こんなところも晃一は裕真に負けていると自覚する。
けれど、言われる言葉に心が躍るのだ。
視線を逸らすことも考えられないで、裕真の言葉に聞き入る。
「だから、俺から離れないでください。晃一さんがしたいようにしてくれれば良いけれど、俺から離れることだけはしないでください」
「俺……我が儘で甘えん坊で、泣き虫で。仕事だって、助けてもらえないとなかなか要領よくできなくて……」
今なら考え直すことだってできるだろう。今までの見合い相手達と同じように、情けない男と切ってくれても良いのだ。
けれど、裕真ははっきりと首を横に振った。
「そんな晃一さんが好きなんです。助けたいって思ってます」
初めてだった。
そんな風に面と向かって言われたのは。
嬉しくて、止まっていたはずの涙が溢れ出す。
幾筋も頬を流れ、ぽたぽたとスーツに染みを作っていく。
「晃一さん……俺、採ってくれますか?」
言葉が終わりきる前に、晃一は頷いていた。
何度も何度も。
そのたびに、滴があちこちに散らばる。
「合格だ、合格っ。誰がなんと言おうとも合格だよっ」
裕真の仕事はもう決まっている。
晃一専属の秘書。
公私全てにわたっての晃一の秘書は、ものすごく大変だろうな、と晃一自身でも思う。
けれど、裕真ならやってくれそうな気がした。
この裕真なら。
「裕真……」
泣き濡れた目をぐいっとスーツの袖で拭い、赤くなったそれを裕真に向ける。
優しい裕真。
その頬に両の手を添える。
近づいたのはどちらが先立ったかは記憶にはない。
ただ。
触れる寸前目を閉じたのは、晃一の方が早かったような気がする。
しっかりと晃一を見つめる裕真の瞳に堪えられなくて、目を閉じたのだから。
ただ。
——もう、俺から離れないでください……。
触れ合う唇が紡いだ言葉に、止まったはずの涙がまた溢れ出してしまった。
【了】