啓輔の従兄弟 晃一の話「味噌汁」の裕真サイド
頻繁にやってきていた晃一が、いきなり裕真のところに来なくなった。
最初は、行けないと言う簡単な電話。
元気が無いなとは思ったけれど、その時は裕真も忙しくて、判りましたと返すだけで何も気にはしなかった。
手元にあるのは、聞きたかったレシピの紙。
その時も、すぐ隣で、先日来仲良くなった和巳が熱心に教えてくれていたのだから。
そして、今もだ。
「で、ここのポイントは……」
「ん、ああ、そうだね」
二人とも料理の基礎知識は十分だから、簡単な説明でも十分理解できる。
裕真は晃一のために、和巳は静樹のために。
食べさせたい相手は違っても、美味しいものを食べさせたいという思いは一緒だ。
偶然とは恐ろしいもので、静樹の恋人である和巳は、同じ大学の新入生だった。もっとも、恋人同士だと紹介されたわけではない。ただ、一緒に暮らしているとだけ教えて貰ったが、それと、和巳の態度を見ていれば十分だった。
和巳の静樹を見つめる目は、憧憬と、それ以上に熱い心が見え隠れしているのだから。
そんな和巳だから、裕真の想いもすぐに気付いた。
それは静樹も同様で、気が付かないのは肝心の晃一だけだ。
それでも、親しくできて相談もできる相手が見つかったことは、とても気が楽なものだった。
こうやってレシピを交換するときも、何も聞かれない。
学部は違えど、彼の学部と裕真の経済学部は同じキャンパスだ。連絡を取り合えば、すぐにでも会えた。
その機会を使って、裕真は暇さえあれば和巳を訪れていた。
「昨日聞いたのも早速作ってみたよ。意外に簡単だった」
「だろ? 見た目は手が込んでいるように見えるんだけどね。ただ、煮込みの時間がかかるからなあ。暇な時じゃないとできないけど……。で晃一さんの感想は?」
「あ……昨日は忙しかったみたいで……」
「また? ここんところ忙しいんだね。静樹は、ピークは過ぎたって結構早く帰ってくるんだけど」
「ん、体壊さないと良いんだけど」
何にしてもずぼらな晃一は、一人だと食事もたいして気にかけていないようだった。
再会して、寝入ってしまった彼を抱えたとき、その軽さに驚いたのは未だに内緒だけど。
それでも、ここしばらくの食生活の改善で、ずいぶんと顔色も良くなったように思える。
それがぶり返すのを心配しての裕真の言葉に、和巳が困ったように苦笑を返した。
「何?」
「んっと……静樹に聞いたけど、晃一さん、前と同じ時間に帰っているって……」
「前?」
きょとんと問い返すと、和巳の困惑がますますはっきりと表に現れてきた。
「だから……晃一さんの帰る時間ってそんなに変わっていないって。裕真さんのところに言っていた頃と……」
その言葉の意味を頭の中で反芻して。
ひくりと唇の端が引きつった。
わざと?
言葉にできない単語を、考えないようにしても無理だった。
そういえば、もう一週間姿を見ていない。
今日は来るだろう、明日こそは必ず。
だから——と作り続けた料理は、もう冷蔵庫一杯だ。
さっき食べていた弁当はそんな料理の数々がぎっしりと詰まっていた。
でも、忙しいのなら仕方がないと思っていた。
「晃一さん……忙しいから……」
考えないようにしていた。
けれど、和巳の言葉に頭が活動を始める。
いつもなら、休みの前日から居座る晃一が来ない。
家事全般が苦手な晃一は、一週間分の洗濯物を溜めまくる。
そうやって、まとめて持ってきた先週分は、未だ裕真の部屋の片隅にあった。
それに、前はどんなに忙しくても、必ず来た。それこそ、食べるだけのために。
「忙しいんだよな……」
誰に聞かせる出もなく呟いた言葉は、和巳には届いていたようで、その眉間のシワが深くなる。
どっと湧いて出た疲れに、自分の顔の表情筋が強ばっていくのが判る。
ああ、ダメだ——と思うけれど。
晃一の前なら幾らでも取り繕える表情が、動かない。
疲れて、眠くて、怠くて。
そんな時、裕真は無表情になってしまう。
はっきりと顔に出るそれで、友達づきあいに失敗することも多い。
けれど和巳はそんな裕真を厭わなかった。
可愛いと思った第一印象とは別に、和巳はとにかく優しい子だった。
だからこそ、あの静樹が見初めたのだ。
「ごめん——ちょっと気が抜けて」
なんとか笑みを浮かべたが、それは、楽しい笑みとはほど遠い自覚があった。
そんな裕真に、和巳は小さく頭を振る。
「……そうだよね。忙しいんだよね、きっと」
きっと——。
和巳が、思わずといったように続けた”きっと”に縋るように、裕真は無意識のうちに頷いた。
言葉は消える。
けれど、狭い和室の片隅で、折りたたまれた洗濯物の山はいつまで経っても消えるものではなかった。
晃一が取りに来ない。
それに加えて、最近では連絡も取りにくくなってきていた。
かろうじてメールは入るが、それも素っ気ない。
ガスコンロの上では、晃一が大好きなみそ汁が湯気を立てている。美味しくできたと思ったそれが、晃一が来ないのだと思うと、美味しく感じられなくて、ほとんど残ってしまっていた。
もともと二人分作っているのだ。
余る量も半端ではない。
「晃一さん……」
呟いて、その声音の暗さに自分が深く落ち込んでいるのに気付く。
はあ?と長いため息が再び零れる。
いきなり来なくなった人の大切さを、今更ながらに思った。
あんな形で再会できて、嬉しくて堪らなかった。その上、何が気に入ってくれたのか判らないが、晃一がずっと入り浸るようになってくれて。
嬉しくて嬉しくて。
ほとんど忘れていた子供の頃の思慕が、裕真を支配するのに時間はかからなかった。
ごろんとだらしなく四肢を伸ばしている晃一。
美味しいと、笑顔で食べ物を頬張る晃一。
一緒にテレビを見ようと、甘えてくる晃一。
彼の素の表情から目が離せない。
疲れている晃一を癒すためなら、彼の世話をするのは苦にはならなかった。
どんなに疲れて、完全に無表情になった自分が、晃一を見た途端に笑顔に変わる。それは、決して無理なことではなくて、裕真にとってひどく自然なことだった。
だから、時折そんな表情が浮かんでいることを晃一が気付くと、自分でも首を振るしかなかったのだ。
——何でもないです。
本当に、裕真にとって、何でもないことなのだから。
それに、晃一を見れば、勝手に口元が綻んだ。
いつの間にか、自分の中にしつかりと居座っている晃一。彼のためだと思うと、どんな疲れも吹っ飛んでしまう。
けれど。
視線が泳ぐ。
ここには晃一がいない。
今週は面接も無くて、疲れてる要因などほとんど無かったはずなのに、ひどく疲れていた。
ぼおっとした表情で、他に誰もいない室内を見つめる。
狭い室内は、見渡さなくても、全てが見える。
そこに、いつもいた晃一がいない。
それだけで無性に寂しくて、悲しかった。
寂しさに堪えきれなくなったのは、それからさらに一週間が経とうとしていた時だった。
今日こそは、と思って作り続けた料理は、もう裕真一人で消費するのは限界だった。弁当にしたりタッパに詰めて和巳に持って行っても、もう無理だ。
もったいないけれど、捨てないとダメかも……と思った矢先の、静樹との再会だった。
和巳が心配して、静樹に相談したのだ。
「うちの会社を受けるつもりはないのか?」
開口一番に問うてきた静樹に、最初は首を横に振ったけれど。
「うちの会社に必要というのであれば、たとえ縁故だろうが堂々と入るが良い。だが、不必要だ、相応しくないと判断すれば容赦なく落とす。だが、受けないのであれば、何も始まらない」
静樹の言葉は、昔からいつもはっきりとしていた。
彼の言葉は正当すぎて、強かった。
だからこそ、子供の自分たちは彼には逆らえなかった。
そんな彼が、一番優しい笑顔を見せるのが、晃一だったのだ。
その晃一のためだから、ここに来たのだと静樹が言った。昔から、彼の一番は晃一だった。そして晃一も。
彼らの関係がひどく羨ましくて、子供心にも妬ましかった。
その静樹は、もう晃一から離れている。
昔からしたら信じられないことだが、裕真は離れてくれたことに感謝すらしていた。
けれど、その晃一が、今度は裕真から離れようとしている。
「晃一はどうやら故意に君と離れようとしているみたいだな」
考えないようにし続けてきた事だが、静樹に言われると認めざるを得ない。
こくりと頷いて、重いため息を吐く。
「晃一さんが厭うことなどしたつもりは無かったんですけど……。何かが気に障ったんでしょうね……」
「別に裕真君は悪くない。勝手に思い違いをして、落ち込んでいるのはあいつだ」
「思い違い?」
「振られ続けた弊害だろう……。自覚したときには俺にも振られていたからな。だから、与えられている愛が信じられない」
淡々と事務手続きのように放たれた言葉が裕真の耳を素通りしかける。だが、出て行く寸前に裕真はそれを捕らえた。
「え……」
呆然と静樹を見つめる。
「晃一は、今までずっと振られてきた。だから、最悪のパターンを想像したとしたらどうする? そう……あの日俺の家に来た日のことを覚えているか?」
「え……、あの、和巳君と料理して……楽しくて……」
「あの時、晃一がどんな目をして裕真君を見ていたか……気付いているか?」
問われて、思い出そうとしたけれど。
なんだか気分が高揚していたせいか、細かい事は覚えていなかった。
ようやく会えた静樹にいろんな事が聞きたかった。
それに、どう見ても、彼の恋人として同棲までしている和巳が羨ましくて、どんなふうに仲良くなっていったのか聞きたいと思っていた。
だから、仲良くなりたいといろいろと画策していたから、晃一のことまで気が回っていなかったような気がする。
「いえ……」
「……だろうな。あの日、晃一はずっと裕真君を見ていたよ。切なそうに辛そうに。君は、俺や和巳とばかり話をしていて、気付いていなかったのだろうが……」
「そんな……こと……」
あの晃一が?
自分を見ていた?
「晃一は——今まで何度も振られて、そのたびに泣いて。そして新しい相手を見つけて立ち直って……」
その言葉に、脳裏にふわりと浮かんだ泣いている姿。
昔、裕真がまだ子供の頃から、晃一は泣き虫だった。
大声を出して泣きわめくわけではないけれど、はらはらと涙だけが頬を伝い、落ちていく。
大粒の滴が服を、そして靴を濡らすほどに。
途端に、裕真の顔が切なく歪む。
そんな晃一がかわいそうで、そして、泣かせたという晃一の相手に怒り、同時に振ってくれたことを感謝したい気分が湧き起こって。
複雑な感情の絡まりに、顔が笑おうとして、失敗する。
「……晃一さん……立ち直りも早かったですよね」
そんな言葉に、心を誤魔化す。
「目が真っ赤になるほど泣くくせに、あっという間に立ち直る。そんなことばかり続けば、また断られると思っても仕方がないのだろう。だがな、断りを言われる前に自分から離れようとしたのは、君が初めてだな」
「え? 初めて?」
「晃一は今まで、言われるまではきちんと付き合っていた。だが、裕真くんの場合は、君に言われて訳ではないのに、——君に振られるかもと思った途端に離れたくなったんだろう、と推測しているのだが」
「はあ……? それって?」
「君の目が俺に向いていると勘違いして、振られる言葉を聞きたくないと思ったんだろう、あのバカは」
優しい罵りが静樹の口から零れる。
「早とちりも良いところだ。好きでもなければ、誰があんな甘えん坊で家事能力皆無の男の世話を焼きまくるものか」
「それはまあ」
「けど、そんなバカなあいつが可愛くて仕方がないんだよな」
罵りは、けれど限りなく優しく響く。そこに含まれる想いに同調して裕真も微笑みながら頷いた。
誰よりも静樹は晃一のことを良く知っていて。そして、それを裕真は知っていて。
「だが、甘やかしすぎは、あいつのためにならないってのは、俺はつくづく思っている。だから、裕真君も時々突き放してやる方が良いよ。今回のように、たまには悩ませるのも手かもしれないな」
「……でもきっと、俺は手を出してしまうでしょうね。だって、放っとくとさらに酷いことになりかねますし」
くすくすと笑ってしまったのは、そんな晃一が可愛くて仕方がないのだと、自覚してしまったから。
「だな……」
むうっと眉間に深いシワを刻んで静樹が唸る。
たぶん、静樹も言うほどには晃一の手を煩わせる効果を期待していない。
そういえば、と、以前困惑の表情を浮かべた晃一と一緒に、裕真も低く唸ってしまったことを思い出す。
あれは、山のような洗濯物を抱えていた日。
あの山は、ほんとうに大変だったのだ。
それを考えると、先にしてしまう方が楽で、そして楽しい。
「晃一さんが許してくれるなら……。晃一さんに料理を作って上げたい。あれこれ世話を焼きたい。なんだって……してあげたい」
会いたい。
あの不器用な人に。
「めろめろに甘やかすのは、晃一を掴まえる最高の手段だからな」
昔の静樹のように。そして今の裕真のように。
彼に想いを寄せる人間ならば、その手段は容易に考えつくことだ。
「……本当にしょうがない奴だからな……」
しばらく静樹の視線が宙を彷徨い、それからふっと手元に視線を落とした。
ため息を隠しもせずに落として、諦めたように前髪を掻き上げた顔には、苦笑が浮かんでいた。
「実は、公私ともに晃一の世話をしてくれるものを探している。もっとも、会社での仕事は社員でないとどうしようもない部分があってね。だから、最初の話に戻るんだが……。どうかな? うちの会社を受けるつもりはないかな?」
「え……入社したら、晃一さんの世話なんですか?」
「そうだよ。秘書——と言っても、ふつうの秘書とは違う。公私に渡って、家事に至るまでの世話係だ。しかも会社ではふつうの秘書並みの仕事もあるし。かなり大変だとは思うが……」
「それは……他には候補が?」
「探してはいた」
途端に、胸にちくりと痛みが走った。
あの晃一の隣に誰か別の人——嫌だ、と思った。
「まだ——決まっていないんですよね」
「ああ、なかなか適任がいなくてね。何しろ、あの晃一の世話係だ。生半可なものでは無理だ。その点、裕真くんならすでにあの晃一の事もよく知っているし、晃一も懐いているしな」
「あの、でも」
プライベートなことなら、自信がある。けれど、会社でのこととなると、自分にできるとは思えなかった。
けれど。
「君が受けないのなら、誰か他を当たらなくてはな。それこそ、家政婦で優秀そうなのをつけるのが一番なんとかなるかもしれないし」
綺麗な若い娘を……。
ぼそりと静樹が呟いた言葉に、裕真の視界がさあっと赤くなって。
気が付いたら、はっきりと宣言していた。
「受けます、入社試験っ」
躊躇いなど、みじんもなかった。
静まりかえった応接室で、ひどく緊張して待っていた。
そのドアがカチャリと小さな音を立てて開く。
顔を上げた途端に見えたのは、静樹と、そしてもう一人。俯いた顔はその輪郭すら窺えなかったが、晃一だとすぐに判った。
途端に、胸の奥が引き絞られるような痛みが走った。泣かしてしまったという後悔と愛おしさのせいだ。
スーツ姿の大の男が泣きじゃくる姿など、ふつうに考えたらおかしくて引いてしまうようなことの筈なのに。
その姿が可愛いのだ。
ああ、自分はこの人に完全に参っている。
はっきりと自覚する。
実際、面接の間何を喋ったのかは正直いって覚えていない。
ただ、晃一を慰めたくて、そしてもう二度と離れていって欲しくなくて。
あんなふうに焦がれたように泣かれたら、どうしてあの晃一を拒絶できるだろう。自分のできること全てを出して、晃一の傍にいたいと、ただそれだけを思った。
それは、会えなかった間に凝縮され、成長した裕真の感情だ。
気が付いたら、晃一の涙に濡れた塩辛い唇をいつまでも吸っていた。
時間だからと静樹が呼びに来なければ、そのまま押し倒していたかもしれない。
それほどまでに、愛おしくて、欲しくて堪らなかった。
本当に泣き虫で——、大人なのに子供のような人。
その日の夜からさっそく裕真の部屋にやってきた晃一の前に、溜まりに溜まっていた料理を狭いちゃぶ台いっぱいに広げた。
「今度は、作りたてごちそうしますね」
申し訳なさそうに謝れば、晃一がほんのりと赤い顔をしたまま首を横に振る。
「これでも十分美味しい。幾らでも食べられる。また腕を上げたんだな」
恥ずかしそうにして、視線が合わない。それでも嬉しそうにぱくぱくと食べ続けて。
ずっとろくな食生活でなかったことも容易に想像できた。たった二週間で、どこかやつれた感じがしていたのだ。
だが、前とは違うのは、晃一から伝わる緊張感だ。
ずっと来なかった気恥ずかしさもあるのだろうけれど、何より、昼間のキスが効いていることは容易に想像できた。
それでも、緊張感は次第にほぐれてきたのか、ぽつぽつと会話をするようになって、食べ終わった頃には前のように満足そうに大の字になってくれた。
「晃一さん、布団敷きますから、ちょっと退けてくださいね」
眠そうだから、と声をかけた途端、がばっと跳ね起きられた。
「あ、いや……ごめん……」
狼狽えられて、真っ赤になって。
明らかに意識されていると判って、そんなつもりではなかったのに、裕真まで赤くなる。
「えっと……疲れているみたいだから、布団の方が楽でしょう?」
意識しないように、淡々と作業をするけれど、視線が合わせられない。
どうしよう……。
可愛くて、抱き締めたい。
ぞくりと湧き起こる腰からの疼きに、裕真は苦笑した。
自分は淡泊なのだと思っていた。
年頃になっても、猥談にはあまり興味が無く、夢精も自慰もあまりしたことがなかった。特に女性を見ても、欲しいと思うことは無かったのだ。
それなのに、晃一を見たら、特に今は欲しくて体が疼く。
「晃一さん、敷きましたよ」
「ん、ああ、ありがとう」
いつものように二枚敷かれた布団にホッとしている晃一を、そのまま押し倒したい。
強引なことをすれば、また、泣くのだろうか?
年上の晃一が、年下の裕真に泣かされる。
ガタイも決してヤワではなく、裕真の方が細いくらいだ。ただ、骨は太くても晃一の体には筋肉が少ない。筋肉で覆われた裕真との力の違いは歴然で、裕真の方が強い。
「晃一さん……」
「ん??」
ぼおっとした返事にちらりと見やると、晃一は目を瞑っていた。
だらりと伸ばした四肢。
Tシャツから覗いた腕が、怠そうに動く。
その手首を、押しつけたい。
少しだけ開いた唇から赤い舌が覗く。
乾いた唇をぺろりと舐める。
蛍光灯に濡れた唇が光る。
昼間、あれに触れた。
柔らかくて、塩辛くて。
けれど、その何度も口付けているうちに、だんだんと甘くなっていった。
くちゅりとなまめかしく響いた音はまだ耳の奥に残っている。
「晃一さん……」
ごくりと、喉の奥が鳴った。
「何?」
名を呼ばれるだけに不信感を抱いたのか、晃一がうっすらと目を開いた。
眩しげに数度瞬いた目が、不意に見開かれる。
「ゆ、裕真っ」
ずいぶんと至近距離で言われている、と思って、ああ、自分が近づいたのだと気付く。
「裕真っ」
両肘をついて上半身を起こした晃一が、裕真から仰け反るように顔を背ける。
その耳朶までが、真っ赤に染まっているのを見た途端、裕真の頭の中で一つめの枷が切れた。
「んんっ」
昼間よりさらに甘い口付けは、さっき食べた大学芋のせいだ。だが、それ以上に甘いと感じるのは、恥ずかしそうにしながらも舌を絡めてくれる晃一の態度のせいだろう。
反則だ……。
上気して、ぼんやりとした表情で裕真を見つめている晃一。
キス一つで陥落できる人とは思ってもいなかった。
場数は数えるしかない自分が、そんなに巧いとは思っていない。なのに……。今の晃一は困ったことに意識を飛ばしてしまっている。
今までいろんな晃一を見てきた。
仕事中の凛とした晃一。
今日見た泣いている晃一。
美味しいと嬉しそうな晃一。
寝っ転がって裕真に甘える晃一。
そのどの時よりも今の晃一は、裕真を煽る。
けれど、どんなに理性が外れても、目の下にクマを浮かべている晃一を目にしたら、萎えないまでも意気込みは薄れる。何より、まず癒したいと願う晃一なのだ。これ以上疲れさせるのはマズイ。
「晃一さん……」
どうしようと、呼びかければ、瞳がゆっくりと動く。
うっすらと開いた唇が、かすかに震えて、さらに開いた。
「晃一さん……俺」
戸惑いが浮かぶ声音に気付いたのか、くすりと晃一が笑った。
そして。
「いいよ……。裕真に……俺を、——やる……」
背に回した腕に力が込められ、ぎゅうっと抱き締められる。耳元で囁かれ、吐息がくすぐる。
「俺を、抱きたいなら……そうすれば良い」
「——あっ」
止めようと全てを伝える前に、晃一が紡いだ信じられない言葉を聞いて、頭が真っ白になった。
「裕真……。俺も欲しいと思った。けれど、今はお前に包まれたい。だから、お前にやる、俺を……。だから……」
白い世界に声だけが響く。
「だ…から?」
「いつまでも……一緒に……」
切なくて、か細くて。
どんな言葉よりも胸に響いた。
見張った目を細めて、こくこくと頷く。それでだけでは足りないと、喉に引っかかった言葉を、必死になって引っ張り出す。
「ええ、もちろん。もちろん、いつまでも一緒です」
こんなにも愛おしい人を、どうして離せるだろう。晃一に言われるまでもなく、裕真から手放すつもりはない。だからこそ、面接を受けに行った。たとえ、ダメでも努力したいと思ったのだ。
それもこれも晃一のためだからだ。
「いつまでも一緒にいますっ。晃一さんがいつだって帰りたいと願う場所になります。がんばりますっ」
終いには自分が何を言っているのか、判っていなかった。
ただ、晃一が良いと言ってくれた。
嬉しい——と、小さな声が届く。
それが全てで、裕真の残っていた我慢という言葉で表される二つめの枷を吹き飛ばす。
「晃一さん、愛して……ますっ、絶対に離しませんっ」
何か返そうとした晃一の唇を、裕真は深く激しく塞いだ。
何もかも、晃一の全てを取り込むように、ただがむしゃらに深く彼を貪っていた。
性行為自体、慣れるほどしたこともないのに。
相手は裕真と同じ男で、どんなに快感を与えても受け入れる場所は濡れてはくれない。引きつる痛みを訴える晃一に、裕真は傷口用のクリームを指に絡めた。
「っくっ……」
時折息を止めて痛みを堪える様子に、裕真の拙い動きが止まる。
けれど。
「い、いいからっ」
必死な声音と涙の浮かぶ瞳が、裕真を誘う。
止まっていた指に絡みつく肉壁の熱と誘い込む動きにも誘われる。
「んっ……くっ」
「……もう、ちょっと」
油の混じったクリームが熱で溶けて流れていった。
とろりとしたそれを掬い上げ、指に絡めて、奥へと入れていく。
ゆっくりと、けれど確実に増えた指を受け入れていく晃一に、裕真は何度も口づけた。
泣かせたくないと思うのに、今の涙は何度でも見たいと思う。
塩味のある口付けが、晃一には似合っていた。
ぺろりと頬を舐め、晃一の体液一滴も逃さないとばかりに、舌を這わせる。
全てが晃一の味だ。
それは今まで食べたどんな料理よりも美味で、しかも、何度でも味わいたくてしょうがない代物なのだ。
全身くまなく、それこそ味わい残す事などないように、とばかりに口づける。
胸の赤く熟した実は、特に丹念に吸い付いた。
「ひっ、あっ——」
最初はくすぐったそうにしていただけだった晃一の声音が、変わってくる。
堪えられないとばかりに身を捩り、裕真から離れようとするのを、全身を使って押さえつけた。
「逃げないで」
「ひっ」
濡れた肌に吐息がかかり、それすらも晃一には快感を与える。
ひどく敏感なのだと気付いた裕真が、くすりと笑うと、晃一が胡乱な瞳を向けてきた。
身を乗り出して、そのまぶたに口づけて。
「ゆ……ま……」
「はい、晃一さん」
「なんかっ……俺…んっ…変で……」
掠れた声で訴えられ、合わない視線を追いかけた。けれど、その瞳が不意にぎゅっと閉じられる。
途端に、きゅっと指が締め付けられる。
肌が震えていた。
全身が強ばって、荒くなった息が時折詰まる。
「晃一さん?」
「やっ、だ……そこっ」
指先が他と違う場所を見つけていた。
そこに触れるたびに、晃一の体がびくりと跳ねる。
「そこって……ここ?」
「あっ、ひぃ」
少しだけ強く触れただけで、晃一の体が跳ねた。
だらりと手を伝うものに気付いて視線をやれば、晃一の陰茎から垂れた液が裕真の腕を濡らしていた。
それは……。
白い。
「え……達った……?」
びくびくと震える肌を両腕で抱き締める晃一が、ふるふると首を横に振る。
けれど、流れるそれは量は少なくても確かに精液で、晃一が達ったことを示していた。
呆然とそれを見つめる裕真から、晃一が逃れるように体を丸める。
その拍子にぬぷりっと体内から指が抜けた。
クリームがかすかに粟立っている。
今まで、晃一の体内にあった指。
それは三本合わせてもまだ裕真の陰茎よりは細い。
けれど。
想像した途端、視線がぶれた。油分が滴るそれが、陰茎と重なる。
指ですらあれだけ気持ちよかった。
熱いくらいの熱。
絡まる肉壁。
それが、裕真の陰茎へと与えられたら。
「あ……」
どくんと心臓が跳ねた。
腰ががくりと砕ける。想像だけで達ってしまいそうになったのだ。
そんな己に愕然とし、裕真はぎゅうっと奥歯を噛みしめた。
晃一が指だけで達ったことを否定する気持ちが裕真には判る。だからこそ、裕真も想像だけで暴発するようなことは避けたかった。
だから。
「晃一さん……まだ早いかもしれないけど……」
たぶん、もう待っている余裕はない。
「いれさせてください」
そう言いながらも、裕真は自分の陰茎に手を添えて、晃一の股間に近づけた。
先が受け入れる場所に触れる。
「あっ」
びくりと晃一が震えた。
怯えたような瞳が、裕真に向けられる。けれど、そっとその瞳が閉じられて、こくりと晃一の頭が動いた。
浅い呼吸音と共に、敏感な先が触れた場所が、明らかに緩む。
「晃一さん……」
辛いかもしれない。
まだ解したりないのも判っている。
もう泣かしたくないと思う相手なのに。
けれど。
無言で裕真は腰を進めた。
震える体と、堪えるように息を詰める晃一を抱き締めながら、可能な限りゆっくりと腰を進めていく。
「あっ……くうっ……」
「ううっ」
やはり狭い。
締め付けられる痛みに、裕真は奥歯を噛みしめて唸った。
それでも止めたいと思わない。
晃一が受け入れてくれているのだ。
裕真より、もっときつい行為。
けれど、止めろとは言わない。
「晃一さん」
「ん?」
荒い息の中で反応してくれる晃一に、裕真は口付けで返した。
全てが入ってしまったところで息を衝く。
「晃一さん、愛しています」
うっとり囁くと、晃一の少し血の気が退いていた顔に、赤みが戻る。
「ほんとうに、たくさん、愛しています」
「裕真……」
「だから、心配しなくて良いんです。たとえ、セックス、できなくても、俺は晃一さんを離しません。俺は、晃一さんを愛しているから、なんでもして上げたいんです。だから、俺に甘えてください。ずっとずっと甘えてください」
裕真の息も上がっていた。
動いてもいないのに、達きそうになる。
「裕真……」
くしゃりと歪む晃一が、それだけの動きなのに、締め付けてくる。
「裕真、裕真……」
「晃一さん、いっぱい、甘えて」
「裕真っ」
首に回された腕に力が込められる。
息すら苦しくなるほどにきつい抱擁を、裕真は甘んじて受けた。
無意識のうちに浮かぶ微笑みは、泣きじゃくる晃一には見えないだろう。
ようやく、手に入れた。
初めてであったときから、もうずっと大人と同じくらいに大きく見えた人。
「晃一さん……」
「裕真……ゆうまぁ……」
泣かせたくないのに。
なんて泣くことが似合うのだろう、この人は。
だから、もっと泣かせたくなる。
そんな欲求を持っている裕真が、裕真の中にはいた。
けれど、普段は奥深く隠れているそれ。けれど、それを押さえつけている全ての枷を、裕真はこのときばかりは外した。
欲しかった。
堪らなく欲しかった。
裕真の全てが晃一を欲していた。
ぐいぐいと突き上げる。
——セックスできなくても……。
けれど裕真はきっといつも欲するだろう。
こんな甘くて美味しい晃一を知ってしまったのだから。
「ひっく、あっ……やぁっ」
衝撃を堪えようと食い込む晃一の爪の痛みも気にならない。
ただ、快感を貪る獣と化した裕真に、晃一はただ喘いでしがみついてくる。
そんなことすら愛おしいと思ってしまう。
白く弾ける意識。
「あっ——」
「ううっ」
張りつめるだけ張りつめた世界が、いきなり弾けた。
腕の中にある温もりだけが、確かな存在のようで、ただそれをきつくきつく抱き締める。
「晃一さん……」
呼びかける声音に返事は無い。
荒い吐息がかすかに響き、汗に濡れた体が力なく横たわっていた。
その額にそっと触れ、汗で貼り付いた前髪を掻き上げる。
露わになった目元がかすかに震え、僅かにまぶたが開いた。
深い闇がかすかに覗く。
そのどこかぼんやりとした瞳が、じっと裕真を見つめていた。
「晃一さん?」
不審に思い、声をかけて覗き込む。
と。
ふわりと花のつぼみが綻ぶように、晃一が微笑んだ。
「良かった……裕真がいる」
囁いて、裕真の首に縋り付いて。
「こ、晃一さんっ」
しっとりと湿った肌が吸い付くように肌に馴染む。
上気している肌から立ちのぼる匂いに、くらりと目眩がした。
達ったばかりだというのに、裕真の陰茎は再び雄々しく立ち上がろうとしていた。
けれど、今はマズイ。
その手の知識の乏しい裕真ではあったけれど、常ならば受け入れる場所でないところに受け入れる晃一の体の負担が大きいのは判っていた。それにずいぶん疲れていたはずなのだ。
「ちょっ、ちょっとダメ……」
慌てて押し退けようと、絡む腕を外そうとした時。
「水」
耳元で囁かれた言葉は聞き間違いようもない。
「喉渇いた……、水、ほし……」
両腕を絡めるようにして首にぶら下がる晃一の期待に満ちた瞳と微笑みが、裕真を操る。
「水、ですか?」
「ん、ほし……」
「すぐ取ってきますね」
「ん」
頷く割には外れない腕を、裕真は苦笑を浮かべながら外した。
こてんと横になる晃一は、視線だけが裕真を追いかけている。
動くのも怠そうな晃一を見ていたら、自然に笑みが込み上げた。
それに、晃一も笑い返してくれる。
その笑顔が本当に嬉しそうなものだから、裕真もとても嬉しいのだ。その顔を見るためなら、どんな苦労も厭わない。
「氷、入れますか?」
「ん……いる……」
もうかなり眠そうな気配。疲労もピークだろう。
それでも、晃一は裕真を待っていてくれて、いつでも視線で追いかけていて。
嬉しそうにコップを受け取って礼を言う。
そのなんでも無いことが、今まで以上に嬉しい。
「裕真も一緒に、寝よう……」
誘う言葉を呟く唇に、戯れのように触れたらそれが冷たくて。
気持ちよいと、ついつい貪りかけた。
離れる駄賃のように、そっと喉元に唇を押しつけると、くくっとその喉が震える。
「くすぐったい……」
楽しそうな笑みに裕真も笑みを返す。
それを見て取って、また笑って。
晃一のかすかに開いた唇が、規則正しい寝息が零れ始めたのはすぐだった。そして裕真も、穏やかな雰囲気と心地よい疲労感の相乗効果は絶大で、そのまま眠りへと落ちていった。
【了】