雪姫の願い

雪姫の願い

yukihime3

 身体に力が入らない。椅子に座って机に向かっているのに、雪村の上半身はそのまま前につんのめってしまいそうだった。
 だが、今は仕事中で、溜まりに溜まった事務処理を優先的に片付ける必要があった。
 だから必死になって重いまぶたを開き、手元を見据えていたのだけど。
「雪……眠っていないのか?」
 机に肘を付いて頭を支えていた雪村の顔を覗き込む者がいた。
 邪魔になったそれに、雪村は小さく息を吐いて顔を上げる。見知った顔の眉間に刻まれた深いシワに、どうしようもなく雪村は自嘲した。
 隠すのももう限界だということか。
 身を屈めた同僚の詫間は、ふざけた態度が問題な点を除けば十分に優秀な刑事だ。
 まして、詫間は数年来の友人で、雪村のことは良く知っている。
 窺う視線も声音も、辺りに気を遣うように小さな物だ。
 誰が気付かなくても、詫間の目を誤魔化せるとは最初から思ってはいなかった。否——遅すぎるくらいだ。
 それはきっと、雪村の矜恃を慮ってのことだということも判っていた。
「……少し……眠りが浅くて、すぐ目が覚める」
 さっきから何度も視線が同じ文章を追っている。それが判るのに、先へ進めない。真綿が詰まったようになった脳が、まったく理解しようとしてくれないのだ。
「何日目だ?」
 問われて、視線が宙を泳いだ。
 今日の日付を思い出して、熟睡できた日を思い出すことはできたのだが、簡単な算数がうまくできない。
「……たぶん……6日、かな?」
 ため息と共に呟いた声音が、自分でもらしくないとは判っている。
 体調は自覚した途端に悪くなった。いや、もともと悪くなっていたのだろうが、雪村は自分がとことん自身の体調に無頓着だと知っている。
 そのせいで、気が付いた時にはかなり悪化していることも多い。もっとも、悪くなることも少ないせいで、判っていても気をつけようとも思わない。その辺りは、いつも詫間の方が早く気付いて叱られるほどだ。
「久しぶりだな、そんなに長ぇの」
 さらに低くなった声音とは裏腹に、見つめてくる瞳が心配げに揺らいでいる。
 それに小さく笑い返して、無意識のうちに頭を振った拍子に、ふわりと目眩にも似た視野の狭窄が起きた。
 思わず指の関節で眉間を押さえると、きつく閉じた目蓋の裏で、小さな星が瞬く。
 小さく繰り返す呼吸が落ち着くのを待っていたのか、ようようにして目を開けた雪村に詫間が唸るように問うてきた。
「限界だろう?」
 眉間に深いシワを刻んだ詫間に、返せるのは曖昧な笑みだけだ。それすらも自分らしくないもので、詫間も同じ事を考えているのだろう。零れた嘆息が、床を這うように長く響く。
「——他の連中らもバレているぞ。また再発したんじゃないか……ってよ」
「そうか……」
 雪村が被害者となった事件で睡眠障害を煩ったのは、同僚達も知っていた。
 最近ではその兆候も少なくなり、完治とは言わないまでも軽減されたのだろうと思っているはずだ。
 実際雪村ももう大丈夫だと思っていた。
 なのに、この一週間弱、またうまく眠ることができなくなったのだ。
 症状は前の時と良く似ている。全く眠れないわけではなくて、ただ長く眠れずにしかも浅い。ほんの僅かな物音でも睡魔が逃げるほどの浅さで、熟睡することができないのだ。しかも、そんな夢うつつの世界では、やたらに夢に襲われる。
 それはたいてい酷くリアルなもので、特に発症してから数ヶ月経験したのは悪夢と言って良いほどに酷いものだった。
「あん時と同じか?」
「いや……夢の内容は違うんだ……」
 あの時の夢に比べれば、ずいぶんと内容的にはマシだと思う。
 何しろ、あの時の夢ときたら、誰かに話すことも苦痛であったから。
 始まりと経過は数種類あったが、結末はいつも同じになるのも特徴だった。
 ——何度も何度も犯され陵辱された身体を、射るように見つめるたくさんの瞳。
 数百の腕だけに犯されるよりも、切り裂かれるよりも、蛇が入ってくるよりも何よりも、その瞳が怖かった。
 好奇と侮蔑、汚れた塵芥を見るような瞳が現れた途端、いつも雪村は跳ね起きた。
 半年前の事件の時、傷ついたのは身体だけだと思っていたのに。女ではないのだから、あの程度の事は自分に何も影響することなど無い——と思っていたのに。
 処方された睡眠導入剤も最初は効いたが、すぐに効きが悪くなった。ならば、とより強い効果の睡眠導入剤の服用により、また眠れるようになったのも束の間、今度は悪夢に襲われてもすぐに起きれない。
 深い睡眠の中のほんの僅かに浮上する意識。
 そんな微睡みの中で、悪夢は雪村に襲いかかった。ただ逃れることだけを考えて、助からないことに絶望する。それなのに次の瞬間にはそんな事も忘れて、無垢な子供のように泣き喚き助けてくれと手を伸ばした。
 その手を握ってくれる者は、夢の中にはいなかった。
 薬の効果が切れるまで繰り返される悪夢に雪村は疲弊しきった結果、今度はどんな睡眠導入剤すら身体が拒否するようになっていった。
 飲もうと思っても飲めないのだ。
 これだけは半年経って、悪夢を見なくなった今でも変わらなかった。昨夜も飲んでみようと思ったのだけれど、口に含んだ途端に激しい嘔吐に襲われて、結局は吐き出すしかなかった。


「雪、仮眠室へ行こう」
 引っ張られる力に逆らえない。
 立って、ごく普通に歩くこともままならなくなってきている。
 もう……大丈夫だと思っていたのに。
 ふらふらと歩く雪村を、周りの視線から庇うように詫間が身体を支えてくれた。力の入らない身体に詫間が顔を顰めるのを感じて申し訳なく思う。
 そう遠くない部屋がひどく遠く感じた。
 古くささを感じるすり切れた畳の部屋にはいると、すぐに布団が敷かれる。促されるままに身体を横たえると、くすんだ天井が見えた。そのまま視線は窓から見える青い空へと向かった。
 彼は今どうしているだろう?
 真っ青な空がいつも明るい浪川裕樹を思い出させた。
 浪川は温かい。体温が——とかではなくて、彼の心が温かいのだと思う。
 彼に触れていると、ひどく安心する。
 助けてくれたあの時のように、雪村のことをいつも心配してくれて、何くれと無く世話をしてくれる。
 だからだろうか。今でも、浪川か彼の匂いのする何かがあると心地よく眠れる。
 彼に触れていると、まるですとんと落ちるように呆気なく眠ることができるのだ。
 それこそ、どんなに些細な悪夢も見ることがないほどに。
 

 あの事件の時、陵辱され雪の中全裸で繋がれた雪村を見つけたのが、警備員を職にしている浪川だった。
 男達の体液と自身の汗にまみれた身体は雪が降る程の冷気に晒されて、浪川に発見された時にはすでに体温は下がり始めていたのだ。
 危なかったのだと病院で目覚めた時に聞かされた。
 握りしめていた浪川が掛けてくれたジャケットと彼の体温に救われたのだと、微かな記憶が教えてくれる。
 優しくて、力強くて、そしてとても暖かかった記憶。
 そのせいだろうか。
 眠れなくなった自分を持て余して藻掻いた拍子に枕元においていた彼のジャケットを握った途端、すうっと穏やかな眠りに入り込み、朝まで休むことができたのだ。
 指先で触れると思い出した。
 彼の優しい言葉と温もりを。
 そんな記憶が己を助けてくれるのだろう、と容易に推測できて、雪村はいつも縋るようにジャケットを手にして眠りについた。、
 だが、時と共に記憶は薄れる。
 気が付けば、ジャケットに触れていても再び悪夢が襲うようになっていた。
 少しずつ短くなる睡眠時間に、さすがに隠しきれないほどの不調を露わにしてしまい、詫間に見咎められて。
 あの日、あの早退した日に、雪村は浪川に再会できたのだ。
 雪の日だった。
 あの時、浪川だと気が付いた途端、不覚にも歩道の真ん中で縋り付きそうになった。
 眠りたくて、安心させて欲しくて。迷子の子供がようやく会えた母親に涙ぐむように零れそうになる涙を、雪村は矜恃でもって必死になって堪えた。そんな自分が恥ずかしくて、必死になって顔の筋肉を戒めた結果、声音が無愛想になったという自覚はある。けれど、油断すると泣きそうになったので、力を抜くことなどできなかった。抑揚の無い声音はもともとだが、あの時は酷かった。
 それにジャケットを返さなくては、とも思ったが、返すと今度は本当に眠れなくなるという葛藤もあったのだ。
 それでも返さなければならないと言い募った言葉に、帰ってきたのはずいぶんと意外な言葉だった。
『その……たとえば俺とか?——試してみないか?』
 雪村にとって、驚愕と——けれど、縋り付きたくなるような言葉で。
 しかも実際に、彼の温もりはジャケットの何十倍も確かな効果があった。


 試してみないかと言われた時、身体と心双方が歓喜したのを今でも覚えている。 
 一回一緒にいただけで、あれだけ渇望していた睡眠が問題なく取れた時には、本当に嬉しかったのだ。
 そんな彼を気に入りの玩具を見つけた子供のように手放したくないと思って、契約を持ち出した時には、自分はどうかしていたのだと思う。
 浪川がサインしてくれた時、狂喜したことはは、きっと彼は気付いていない。
 元々が感情を表に出さないタイプだし、あの時は自分が自分でないような自覚があって、その恥ずかしさから必死で感情の発露を堪えていたのだから。
 浪川には口では言い表せないくらい感謝している。もとより、そんな事をどういうふうに表現して良いのか、よく判っていない。ありがとう——という一言では現しきれないと思っているからだ。
 そのせいで、未だに感謝の言葉は、淡々と何かに紛れるようにしか言えていない。
 浪川が来てくれると嬉しくて、そう眠くない時でも、早く一緒に眠りたいと思う。
 そのうちに、だんだんと悪夢は見なくなって、今ではたぶんもう大丈夫な筈だ。
 だから、もう大丈夫——だと思っていたのに。
 だが浪川が訪れなかった6日間、前とは違う類の悪夢に襲われるようになっていた。
 こうやって横になると身体はホッとする。けれど、目を瞑ってもまた悪夢に襲われると判っているせいか、頭が怯えて冴えていく。
 雪村は所在なげに視線が彷徨わせ、明るい空へとそれを向けた。
 そんな雪村を見つめていた詫間の視線がしばし逡巡するように動き、また雪村を見据える。口が、言い辛そうに動いた。
「なあ……」
 どこか歯切れの悪い口調で、詫間が問いかける。
「あいつは……。くそっ、あれはどうしたんだ?」
 同僚達の中でただ一人、詫間は知っている。
 雪村にとって寝るために必要な存在があることを。それが浪川であることを。
 詫間だけは知っているのだが、けれど、詫間は浪川の存在を快く思っていない。最初から、彼の話をする時はいつも不愉快そうにしていた。
 それが何故か判らないが、問うと「あいつとは馬が合わない」と言うだけなのだ。
 だからだろう。
 最近も詫間が浪川の事を口にする時は、いつも苦虫を噛みつぶしたような表情になる。
「浪川くんは……会社の研修で……」
 新しい資格を得るために、合宿して研修する必要がある——と、申し訳なさそうに言われた時、構わないときっぱり言い切ったのは雪村の方だ。
 たとえ7日間だと言われても、それでも、彼の成長の糧となる合宿に行かせない訳にはいかなかった。
 もう大丈夫なんだ、契約は終わりだ——と、言ってしまえば後顧の憂いも無かったかも知れないが、何故かそれは口にすることはできなくて、ちょうど忙しい時期だし、眠れる時も増えてきたから7日くらい大丈夫だと言い切った。
 浪川も最近は雪村が落ち着いてきているのは判っているようだったから、それほど拘ることなく出かけてくれたのだけど。
 ほんとうに、浪川にはもっと自分の生活を大事にして欲しい、と思う。
 警備員という夜勤も普通の仕事柄、夕方から夜にかけての時間は貴重なはずだ。友人達や同僚との付き合いも、彼女をつくる時間もたいていはアフターファイブと呼ばれる時間や休みの日に行われることが多い。
 だが、浪川はそういう付き合いが有っても、いつ雪村を優先してくれた。
 実はもう大丈夫なのに、日勤の時は必ず様子を見に来てくれるし、夜勤の時でも帰る前に必ず寄ってくれる。最近では、家に帰るより雪村の家に泊まることの方も多い。
 この前などは、「近くに空いている部屋ないかな」と呟く声も聞こえていた。何故そんなことを言い出したのか、推測するのは容易い。
 何もかも雪村との契約のためだ。
 もう……。
 はふと息を吐き出せば、まるでため息のようになってしまった。
 ——もう、大丈夫なのに。
 そのまま胸の奥にしまわれた言葉は、もう何度もそうやって奥へとしまい込まれている。
 今回はうまく眠ることができなかったけれど。
 根本的な原因であった最初の悪夢はもう治っているのだと——浪川に伝えなければならないのに。雪村との契約に自分の時間を費やしている浪川を解放しなければならないのに。
 このままでは、まだ若い浪川からいろんなモノを奪うことになってしまう。
 だから研修は良い機会だった。この時期のスキルアップは、浪川にとって特に大切なモノになるし、付き合いという物も大切だ。
 それを理由に浪川から離れる第一歩とするために
「いつ帰ってくるんだ?」
 苛立たしげに問う詫間に、雪村は遠い目をした。
 回らない頭の中で数を数えて、曜日を考えて。
「明日……。そう、明日帰ってくる……。後一日だ」
「後一日じゃねえ……お前、保たないぞ」
「保つ、後一日だ。もう大丈夫だった筈なんだ」
 雪村はため息を吐いて目蓋を閉じた。
 訪れる睡魔に僅かでも身を預ける。そうすれば、浅い眠りが短い時間だけ訪れた。それをずっと繰り返して、なんとか睡眠を蓄積していたのだ。
 だが、悪夢が睡眠を邪魔しに来る間隔がどんどん短くなっていた。
 しかも悪夢の内容は前とは違うもので、何でそれが怖いのか覚醒した後は判らない類なのだ。だが、確かに眠っている時はそれは悪夢で、雪村がそれに必死で抗っている内に目が覚めて、今度は眠れなくなる。
「今度はどんな夢なんだ? さっき違うって言ってな」
 全てを知っている詫間が訝しげに問う。
「ああ、違う……」
 ぽつりぽつりと言葉を選んで、雪村は夢の内容を詫間に話した。
 疲れ切った身体と心は普段なら雪村を縛る矜恃やら何やらは吹き飛んでいた。それよりも、誰かに聞いて貰いたいくてしようがなくなっいてた。そうすれば、それでなくても痛んだ心が軽くなるのだと本能が訴えていた。
「……」
 だが、あらかた聞き終えた詫間が眉間のしわを深くして、何とも言いようのない嘆息を長く零す。
「つまり……あいつが誰かの手に引っ張られて愉しそうにいなくなるって夢……とか。ついでに女の子に囲まれて、お前に手を振って離れていく夢とか……。んで、挙げ句の果てにどっかの可愛い女の子と結婚式まで挙げるところとか——。つまりそういう夢を見て、眠れないと?」
 とつとつと話した事柄は、ごくごく簡単に言われてしまうとそれだけのことだった。
 だが、それを毎夜のように夢に見た雪村にとってはとても深刻なのだ。
「このまま帰ってこない——と夢の中では思うようで……。目覚めて、夢だと判るとすごく安心できる。少なくとも、起きた場所は夢とは違うからだろう」
 目覚めてしまえば、なんでそんなに怖かったのか判らない。
 ただ単に浪川が友人や恋人達と一緒に行ってしまう夢。
「——たとえば、夢の中ではもっと怖い目に遭っているのかも知れない。覚えていないだけで……」
 その呟きにも似た言葉に、詫間は何とも言えない表情で、雪村を見つめた。
「どうしてそう思う?」
「いや、浪川くんが誰かと親しくするのも、可愛い娘と結婚するのも、当然だろう? いつまでも引き留めておくわけにはいかないし。……実際、いなくても眠れる日は増えていたんだ。前みたいな悪夢は無くなっていると言っても過言ではないくらいだからな。だから、浪川くんが去る夢が悪夢としか感じられないのは、覚えていない部分があるのか……と? 詫間、どうした?」
 いきなり頭を抱えて布団に突っ伏した詫間に、雪村は慌てて身体を起こそうとした。
 だが、胸の上に頭をのせられては、起きようが無い。
「……お前って奴は……しっかりしているのに……どうしてそんな……」
 布団の中にくぐもった振動が伝わってくる。
「詫間?」
 まじまじと見つめる先で、詫間が盛大なため息を吐いていた。
「なんか……あいつに同情したくなってきた……」 
 不明瞭な言葉はかろうじて耳に入ってきたけれど、頭はその考えを理解しきれなくて、雪村は首を傾げることしかできなかった。

【了】