雪のバレンタイン

雪のバレンタイン

yukihime2



 過去の陵辱のトラウマを持つ雪村と、彼の精神安定剤となっている裕樹。裕樹の欲望がかなえられる日はあるのだろうか?
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 浪川裕樹の部屋からはずいぶんと離れたバス停でバスを降りて、歩いて10分の道のりを一気に走り抜けるのが日課のようになってしまった。
 今日はさっきから雪が散らついていて、走る裕樹の頬に冷気が棘となって突き刺さるようだった。けれど、そんなことよりも気が急く方が強くて、熱く汗ばむ体をもてあましながら、走り抜ける。おかげですっかり持久力が付いてしまったと、最後の階段を駆け上がりながら思っている。
 特に、今日はいるんだ、と思うから、よけいに体は限界を超えて動いてくれた。
 いくつも並ぶドアの一つ。
 他と何ら代わりのないそれをそっと開ける時、いつも裕樹の心臓はドキドキと高く鳴ってしまう。裕樹は肩で息をする自分を必死で押さえつけ、喉の渇きを癒すようにごくりと唾液を飲み込んだ。
「こんばんは?」
 冷たい鍵は声を出す頃にはすっかり肌に馴染んでいて、落ち着かない自分を表すかのように手の中で転がっている。
 2LDKの部屋の一番奥から零れる灯りに目を細め、いてくれた、とほっと安堵の吐息を零しながら裕樹はゆっくりと玄関から廊下へと足を動かした。
「お帰り」
 奥の部屋から聞こえた澄んだ声音に、さらにほっとする。
 仕事が日勤になってから、毎日のようにこの部屋にやってきたけれど、ここ一週間はずっと待ちぼうけを食らっていたのだ。
「ただいま?、良かったな、今日は帰れたんだ」
 小さな硝子のテーブルに並べられた食事を頬張る雪村直志がその姿勢のままにこくりと頷き、ごくりと飲み込んだ後に、ようやく顔を上げた。
 けれど、その顔色が悪い。
 はっきり言ってそのきれいな肌には色が無いし、その代わりのように目の下にクマがくっきり浮かんでいる。
「……ずっと寝てない?」
「ああ」
 短く簡潔な返事は、それだけ。
 再び黙々と食事を再開した雪村は、とにかく今は食べることだけに専念しているようだ。
 未だに帰ってきたままのスーツ姿で、ひたすら食べている。そうしないといられないような、どこか切羽詰まった感じがあって、裕樹はしばし声がかけられなかった。
 それに、相変わらず裕樹の存在などいてもいなくても気にならないようだ。
 そんな態度はいつものことで、裕樹も半ば諦めてはいるのだけど、久しぶりに会えたんだから……、と思うと、一抹の寂しさは否めない。
 だからと言って嬉々として裕樹を迎える雪村の姿というのも想像できない。
「ずっと泊まり込みだったんだろ? でも、寝る暇が無かった……って訳じゃないよな」
 隣に座り込んで、黙々と食べ続ける雪村の横顔を覗き込む。
「……ああ」
 繰り返される返事が、苦しそうだと思うのは気のせいではないだろう。
 食べているものが美味しそうだという感じが無い。ただ、腹に収めている、というだけのようだった。
「事件、片ついていないんだろ?」
「……詫間に帰れと言われたから……」
 繰り返される悪夢は、まだ雪村を解放していない。
 わずかに寝入っても、すぐにうなされて跳ね起きる雪村を、同僚達ももてあましたに違いない。けれど、心配されるなんて事は雪村の矜恃を傷つけるものでしかないのだ。きっと虚勢を張っていたに違いないけれど。
 そんな雪村が悪夢から解放されるのは、裕樹と一緒にベッドに入っている時だけなのだ。
 雪村にとって裕樹の存在は、どんな睡眠薬よりも良く効く特効薬で、ベッドに入って数分後には寝息を立てて寝てしまうほどだ。
 もっとも、それだけ睡眠不足に苛まれているのも事実ということで。
 さすがに一週間の睡眠不足に、体が音を上げたに違いない。
 唯一裕樹の存在を知っている同僚の詫間から、裕樹の携帯にメールがあったのは今日の昼間のことだった。
『雪を帰らせる』
 短い一文ではあったけれど、詫間がどんな表情でそのメールを打ったのかと思うと、そのときには愉悦すら感じたのだけれど。
 雪村の様子を目の当たりにすれば、裕樹ですら同じ事をするだろう、と思ってしまう。
 食べながらでも、今にもふらりと倒れ込みそうな儚さが、今の雪村にはあった。


 雪村は刑事で、事件が起こると警察に泊まり込むことだったよくあることだ。
 今回も一週間近く、この部屋に帰ってこなかった。
 ちょうど裕樹が日勤になってからのことだ。
 警備員である裕樹は夜勤もしょっちゅうあって、なかなか雪村とは時間が合わない。
「もう、寝たい……」
 食べ終えて、ペットボトルの茶をごくごくと飲み終えた雪村が俯いたまま呟く。
 面と向かっている時には絶対に言わない甘えた声音を漏らすのも、それだけ雪村が限界なのだという証拠。
 裕樹は無意識に吐きかけたため息を飲み込んで、わざと明るく彼を誘った。
「じゃ、寝よっ。俺、帰りのバスん中で食べたからOKだよ」
「……ん……」
 座り込んだまま、そのまま眠ってしまうのではないか、と思うほど、雪村はぼんやりとしている。
 零れた子供のような返事も、こんな時限定だ。
 それはそれで愛おしく思いつつ、今は先に寝かせる方が先だと、裕樹は雪村の手を取って立たせた。
「冷たい……」
 ふっと正気に戻ったような眼差しが、裕樹の手に落ちる。
「あ、ごめん。外、雪降ってたからな」
「そう、でも……気持ちいい」
 ほおっと零された吐息に、ぞくっと全身の肌が粟立った。
 がくりと崩れそうになった膝に慌てて力を入れて、その分強くなった指の力を弱めることなく引っ張った。
「?」
 不審そうに見上げる半ば閉じられた瞳に、苦笑を返して、勝手知ったる寝室へと連れ込む。
 心臓に悪い……。
 正気の時には絶対に見せない姿は、裕樹の性欲を思いっきり刺激してくれる。
 普段の必要最低のことしか態度に出さない男が、こんな時だけ甘えてくれるのだ。
「ほら、横になって——と……あ、先に着替えないと」
 そのままふわりと倒れそうになった雪村が、まだスーツ姿なのだと思い立って、慌ててその体を支えた。
「でも……もう……」
「だめ。ちゃんと着替えないと。ほら」
 幼子に言い聞かせるようにぽんぽんと頭を軽く叩いて、ふらつかないのを見て取ってから、手を離す。
「ほら、これだけでも着替えな。下着はどうする?」
「昼……シャワーを浴びた時に……着替えたから……」
「ま、しょうがねえか。明日ん朝着替えるって事で……って、こら、寝るな」
「ん……」
 シャツのボタンを外す指がおぼつかないままに、ふわりと倒れそうになる雪村を支え直した。
「重いんだから……ちゃんとして」
 もたれかかる男の体は、いくら鍛えて力だけはあると言っても重い。
 早く寝かしてやりたい気はあるのだが、結局手間取って、パジャマの上を着せただけで雪村はベッドに倒れ込んでしまった。
 下半身は下着だけだ。
 日に晒されない足は、雪のように白い。男にしては少ない毛は、もともとの色も薄いのかあまり目立たない。
「はあ……」
 息苦しそうに零された吐息に、裕樹は熱くたぎってくる体を宥めるようにため息を零した。
 目の毒……。
 雪村が欲しい。
 それは初めて見た時から、ずっと裕樹の中にある感情だ。
 けれど、こうやって再会してから一ヶ月以上経ったというのに、その思いは叶えられていない。
 このまま眠ってくれれば良いのにと雪村を見下ろすと、そんなにも眠そうにしているのに、そのまぶたはまだうっすらと開いていて、瞳が乞うように裕樹を見つめている。
 眠れないのだ。
 雪村の睡魔はそこまで来ているのに、最後の一押しをしてくれない。
 その一押しを与えることができるのは、裕樹だけなのだ。
「はいはい。ちょっと待ってな」
 艶めかしい足を布団の中に入れてやってから、するりと雪村の横に滑り込んだ。
「あわっ」
 まるで待っていたかのように、雪村の手足が裕樹の全身にからみつく。
 首筋に零された甘い吐息に、ぞくりと全身が粟立って、一気に股間に熱が集まる。
 いつもより激しいスキンシップに、あやうく裕樹の理性が飛びかけた。
 けれど。


 規則正しい寝息を立てる雪村に、肩肘を付いて体を起こした裕樹は苦笑を落とした。
 正気の時のクールな大人の男っぷりとも、眠くてたまらない時の甘えた様子ともまた違う、幼子のように無垢の表情を晒した雪村には、性欲も湧きようがなかった。
「ほんとにこの人は……」
 力が抜けた手足から、彼を起こさないようにゆっくりと自分の体を引き出す。
 いつまでも一緒にいたのは山々だが、雪村のベッドはシングルで、二人並んで寝るには狭苦しいことこの上ない。
 それに、寝ぼけて雪村にすり寄られた状態で、おとなしく眠られるものではなかった。
「あ?、腹減った……」
 実のところ、もう食べた、というのも嘘だ。
 はあっとため息を吐いて、ほんとうに尽くしているよなあ、俺って偉い、と自画自賛して。
 転がった雪村の上着とスラックスを持ち上げた途端、何かがぽとりと床に落ちた。
 軽くバウンドしたそれは、妙にきらびやかで。
「何?」
 どこかのポケットから落ちたそれは、きれいにラッピングされてリボンがかかっている。
「ああ、バレンタインデー……貰ったんだ——って当然か……」
 これだけきれいな容姿を持っているのだ。しかも仕事もできるんだから、女が放っておかないだろう。
 こんな習慣化したイベントでの贈り物くらいで、どうこう思うことなんてしたくはなかったけれど。それを見ているとなんだか胸の奥がムカムカしてきた。
 ちっと舌打ちして、放り投げようとして。
 けれど、それより先に、ラッピングの隙間に入っていたものがひらひらと舞い落ちた。
 捨てようとしたことも失念して、それを拾い上げて元に戻そうとして。
「え……」
 カードかと思ったそれは、何の変哲もない白いメモ用紙だった。
 二つ折りされたそれが落ちた拍子に開いて、その中に書かれた几帳面な字が裕樹の視界に入って。
「……えっとぉ……」
 途端に頬が緩み、顔が熱くなっていく。
『浪川君へ  いつもありがとう  雪村』
「なんか……雪村さんらしいなあ……」
 簡単で素っ気なくて。
 けれど、何よりも雪村からのメッセージなのだとはっきりと伝えてきてくれて。
 その贈り物が、雪村から裕樹に当てたモノだとはっきりと教えてくれた。
「だってさあ、それが契約でさあ。俺、雪村さんがちゃんと寝られるようになったら嬉しいんだよ」
 もう聞こえないだろけれど、ついつい照れ隠しに呟く。
 ぐっすりと寝入った雪村は、びくりともしなかったけれど。
「これって、パレンタインデーの贈り物なんだよなあ」
 きっと正気の状態で裕樹と話ができないと踏んだ雪村が残したメッセージ。
「えへへ」
 笑いが収まらない。
 何より、雪村は裕樹に取って、姫様なのだ。たとえ見返りなどなくても、大切にしたい相手なのだ。
 と言っても……。
「やべ……勃っちまった……」
 若い男の性欲は、そんな忠誠心とは別物なのも事実。
 綺麗なものを征服したい。従属させたい本能は、やっぱり裕樹にも有る。
「やりてぇ相手にこんなもの貰ったら、誤解しちまうよ?」
 雪村を覗き込んで、その頬に唇を落とす。
 それだけで、陰茎はさらに張りつめて、裕樹は苦笑いを浮かべながら、そんな己の体を引き離した。
 食べるより先に浴室にでも行って自己放電しないと……。
 それでもその場を去りがたく、裕樹はもう一度だけ、と雪村に近づいた。

「なあ、今度は正気の時にプレゼントしてくれよ……できればあんたを」
 それは裕樹自身も雪村の前では決して言えない願望だった。

【了】