雪の降る夜、陵辱され全裸で晒しものとなった雪村。
 裕樹はそんな姿の彼を見つけて、けれど、その瞬間、確かに魅了されてしまった。


 雪が舞い降りていた。
 切れかけているのか頭上の蛍光灯が瞬く。闇の中、明るく辺りを照らして、また消える。
 だからこそ、瞳に眩しいほどの白さを感じた。
 雪が全ての音を消してしまったように、浪川裕樹(なみかわ ひろき)がいる空間には音がなかった。裕樹もまた、息をするのも忘れるほどに、その光景に魅入られていた。
 清純無垢な白を纏し雪の化身。
 地に落ち大地の汚れに穢されたそれは、そうであってもあまりにも美しく気高く見えた。

 
 裕樹がそこに辿り着いたのは全くの偶然だった。
 裕樹は警備会社の警備員で、ちょうど夜勤場所である倉庫の事務所に向かうところだったのだ。だが、その途中尿意をもよおして、誰もいなさそうな——もとより夜間には誰もいない倉庫群の一角に入り込んだ。そのとき、バタバタと足音がして、何だろうとそこを覗いただけだった。
 そして、それを見つけてしまったのだ。
 思わず魅入られてしまうほどに、美しいそれを。
 そのまま、いったいどのくらいそこにいたのか、記憶は無い。
 ただ。
 握っていたはずの懐中電灯が地面を転がる音に我に返った。同時に、目の前のそれが動いた。
「お……い?」
 悠長にしている場合では無いと、理性が叱咤激励するのに、それでも裕樹の足はゆっくりとしか動かない。
 おずおずと動いた手が、それに触れる。
 さらりと流れたのは漆黒の髪。
 頭の後ろで戒められた手首から先がぴくりと動いた。
 触れかけた手がぎくりと止まる。
 その手をぎゅっと握りしめ、意を決したようにもう一度伸ばした。
「だ……いじょうぶ……か?」
 触れた肌は、氷のように冷たくて血の気がなかった。透明感のある青白い肌は、けれどよく見ればあちこちに無惨な擦り傷や打撲痕が広がっていた。
 汚れた肌に滲んだ血は、ほとんど乾いていたけれど。一カ所、いまだ鮮明な赤を持つ液体を流す場所があった。ぽたりと流れ落ちるその場所に、突き刺された茶色の瓶がひくひくと動いている。
 その上にある萎えた陰茎を見るまでもなく、それが人間の——男であるとは判っていたけれど。
 触れるのが怖かった。
 触れてしまえば、融けて消えてしまいそうな白さだった。

「うっ……」
 呻き声が先ほどより大きくなっていた。
 自由にならない体の、それでも動く余地のあった頭がゆっくりと起きあがる。
 覗き込んだ裕樹の目の前で、彼のまぶたがぴくぴくと動いた。
 無意識の行動か、わずかに引かれた腕とトイの金具を繋いだ鎖が、金属質の音を響かせる。それが、彼をさらに覚醒させ、まぶたがゆっくりと開かれた。
 薄い茶色の綺麗な瞳がぼんやりと裕樹を映す。
「…んっ……」
「あぶなっ」
 無意識のうちに動こうとして、体がぐらついた。だが、後ろ手に繋がれているせいで、不自然に体がよじれ、新たな苦痛の声を上げた。
 外さなければ、と思ったが、手首の戒めは簡単には外れそうにない。鎖が肌に食い込んで、そこからも血が幾筋も流れていた。
 苦痛に顔を顰める彼の瞳を見つめながら、ゆっくりと喋る。
「いいから、動かないで」
 両の手首は一つに纏められ、鎖で頭上のトイに繋げられていた。それは太い針金と南京錠で封じられていて、その鍵は見渡す限りでは落ちていない。
 足首も同じで、一方は傍らのトイに、もう片方は高い位置にある配管にひっかけられていて、彼の足を限界まで広げていた。ふつうなら人目になど触れるはずもない場所には、見慣れた栄養ドリンクの瓶らしきものが埋没していた。
 さらし者に……。
 こんな人気の無い場所では、発見されるのは早くても明日の朝のはずだったろう。朝になれば、倉庫での作業を行う社員達がやってくる。だが、朝までここに裸で繋がれていると言うことは凍死を意味した。
 この体勢のまま死体となって衆目の目に晒される。
 どう考えても、彼をこんな目に遭わせた奴らの目的はそれしかない。
 意識が戻ったせいか、彼の体が小刻みに震えていた。先より唇の色が青くなっている。慌てて裕樹は着ていたジャケットを彼の体にかけた。
 裕樹の温もりが残ったジャケットに、ふっと彼の頬が緩む。縋るように体を動かそうとして。
「……っ」
 身じろいだのはほんのわずかだったのに、痛みを堪える音がした。
 もっとも楽にさせようにも拘束は外れない。
 どれから外せばよいのか?
 太い針金は複雑に絡み合っていて、しかも南京錠はしっかりと鍵がかかっていた。素手でどうにかなるのではなく、だからと言って見渡しても工具のようなものは無い。
 一人でどうにかできるものではない、と、判断した裕樹は、すぐに警察に、と携帯を取り出した。
 少しずつ生気を取り戻している彼の瞳が、裕樹の動きをじっと見つめている。だが、ジャケットごときでは体温を戻すのは無理なようで、その肌の血の気は戻らない。
「待ってくれ。救急車と警察を呼ぶから」
 安心させるように、携帯を呼び差す。と、無惨に腫れた唇が、白い吐息を零した。
「……番号を……」
「え?」
 携帯に向けていた顔を上げれば、彼の視線と絡む。
「これから、言う、番号に、かけろ。私が……話す」
「え、でも」
「早く」
 辛そうではあるが、その声音は淡々としていた。
 指示されるままにボタンを押し、携帯を彼の耳に当てる。
「雪村、です。中州埠頭の……倉庫。捕まって……」
 途切れ途切れのそれは、彼の今の状況の原因の出来事。
 凄惨なそれを語る本人より、裕樹の方がきつく顔を顰めた。あまりにも痛いその内容。
 男が男に犯される。
 しかも複数人に、縛り上げられて。
 傷害でしかないその行為は、ふつうならば自尊心を粉々に打ち砕く行為だ。
 なのに、目の前の雪村と名乗った彼は、未だ繋がれたままの状態で、淡々と自身の体験を説明しているのだ。まるで、こんなことは何でもないとでも言うように。
「ええ、私が良い証拠です」
 はっきりと言い切って。
 それまで感情の籠もっていなかった声音に、わずかではあるけれど喜色が混じる。だが、それも一瞬。
「ありがとう」
 話が終わったと、礼によって知らされたときには、その声音のどこにも感情は窺えなかった。

「すぐに警察が来る。……済まないが…君には発見者として……証人になっ……てもらいたい」
 時折苦しそうに喘いでいると言うのに。
「これ、外した方が」
「工具が無いと外せない」
 真実のみを言う。
 確かに外す術など無いけれど。
 せめて、もっと暖めてあげたかった。
「寒いだろ」
 かけてあげていたのは大きめのジャケットを掛け直した。上半身を優先したせいで、下肢の付け根までもが露わになる。
 流れる血。
 押し広げられた傷口がぱっくりと開いていた。動くたびに血が落ちて、降り積もり始めた雪を染め上げている。
 白と赤のコントラストに、めまいすら感じた。
 自分の血の気が引く気配に、慌てて首を振って。
「抜くよっ、これ」
 自分が我慢できなくて、裕樹はそこへと手を伸ばした。
「待てっ!」
 けれど、制止したのは彼だ。
「証拠写真を撮る。このままで良い」
 きっぱりと言い切る彼をまじまじと見つめる。
「写真って」
「今…連絡したから……すぐに来る。そのときに…撮って貰う」
 荒い息の合間に喋っている状態だというのに。
 わずかな動きで、傷口が開いてしまっているというのに。
「だって、こんな……」
 冷静な態度。けれど、それでもひくりと顔が強ばることがある。喉の奥で唸ってるのが聞こえる。
 それが雪村の味わっている痛みを裕樹に教えた。
 顔を顰めて、そこを見やる。
 茶色の瓶。
 痛い、痛い、痛い。
「抜かないと」
「駄目だっ」
 だって、痛いのに。見たくない。こんなものどっかにやってしまいたい。
「奴らを捕まえる、そのためだ。証拠になるものは何一つ失いたくない」
「何一つって……」
「私の体内には、奴らの精液がある。どんなにしらばっくれても、この証拠があれば、奴らを裁くことができる」
 その言葉に、ごくりと息を飲んだ。
 何で——?
 どうしてそこまで?
「だから、このままで良い」
 ふっと力が抜けたように雪村の頭が落ちた。
 姿勢が苦しいのかわずかに身動いで、唸る。
 辛いのだろう。
 深々と刺さったそれが、どんな苦痛を与えているのか、裕樹には判らない。
 けれど、流れ出す血が、その痛みを明確に伝えてきた。
「駄目だ……よ。やっぱり、このままでは駄目だ。せめて、これだけは抜こうよ。流れ出したら、これで受け止めるから。洗ったばっかだから、綺麗だから」
 ポケットからハンカチを取り出し、彼の足の間に跪く。
「傷口が開いている。この瓶のせいだよ。この瓶が……」
 瓶に手をかける。
「駄目だ……、駄目……」
「俺が証人になる。どんなふうに刺さっていたか、全部俺が報告する。だから……我慢して」
 この人の思いは叶えてあげたい。けれど、裕樹自身が堪えられないのだ。
 ごくりと息を飲み、瓶に手をかけた。
 びくんと震える様子が、瓶を通して伝わる。
 近い距離で、彼が息を詰める音がした。
「ほら、俺にもたれろ。一気に抜く」
 頭を肩に押し当てて、宥めるように囁く。
「服でも噛んでいてくれ」
「ん」
 苦痛の滲む声音が、籠もる。
「やっ、あぁぁ」
 堪え切れなかったのだろう。押し殺した悲鳴が耳に痛い。
 血以外滑るものがないのだ。その血も、いくらか乾いている。それがぽろぽろと剥がれ落ちた。
「うっ、くぅ」
 乾いた傷口がぶちっと開く感触がした。

 最後に音を立てて引き抜かれた瓶が、ころころと転がった。
 さすがに、証拠品を、とは言われなかった。雪村は声を押し殺すように、裕樹の肩に顔を埋めていたから。
 ひくひくと震えるたびに、彼の体内から、彼曰く証拠品が流れ出していく。驚くほどたくさんの量に、裕樹の心に沸々と怒りが沸き上がってきた。
 冷たい体を自らにもたれさせ、ジャケットで彼の裸体を覆った。そのまま抱き込むように体を胸に押し当てる。
 早く楽にさせて上げたい。
 傷だらけの体を綺麗にしてあげたい。
 そうだよ、こんな綺麗な人なのに。
 なのに、こんな綺麗な人を。
 雪のように綺麗なこの人を。
 地に落ちた雪片のように汚した奴らがいるのだ。
 憎い。
 悔しい。
 ぎりっと奥歯を噛みしめた裕樹の脳裏に吹き上げる感情の嵐。
 憎い、悔しい。
 許せない。
 ……この人を犯した奴らが——


 ——うらやましい……。

 
 遠くにサイレンが聞こえた。
 それがあっという間に大きくなって、ふつっと消える。
「雪っ」
 焦りの入り交じった声が届いた途端、雪村がびくっと体を震わせた。
 頭を持ち上げ、裕樹の肩越しに路地の向こうを見つめる。
 傷ついた様子などみじんも窺えないほど強い視線で、来訪者を捜している。
「雪っ」
 また聞こえた。それに呼応するかのように、雪村が紫色の唇を震わせた。
「詫間……」
 明らかに安堵の混じった声音に、裕樹の手に知らず力が籠もった。
「誰?」
 低く響いたのが自分の声だと気づくのに、数秒遅れた。
「同僚だ」
「えっ?」
「雪っ!」
 最初に飛び込んできた私服の男が、裕樹達の数歩手前で愕然と立ちすくむ。
「お前……こんな……」
 そこまで言って言葉が途切れる。
 ぎりっと歯噛みする音が裕樹にまで響きそうだった。
 彼が「詫間」なのだろう。
 腕の中の雪村が縋るような視線を向けているのは気のせいではない。視線に応えて、詫間が動いた。背後から駆け寄る警察官に「工具を」と叫ぶ。
「ばか……先に写真撮れよ」
 そんな男を叱責する声。
「判ってる」
 作業服姿の別部隊に顎をしゃくり、同時に裕樹を引き寄せる。
「こっちに来てくれ。話が聞きたい」
「……話ったって」
 引っ張られて引きずられるように離れたとき、ガチャンと大きな音がした。
 振り返ると、両腕と両足の鎖が巨大な工具で切断されていた。ぐらつく体が毛布に覆われ、そっと横たえられる。
「雪は大丈夫だ」
「雪……」
「ああ、あいつの名前をもじってな。そう呼んでいる。で、君の名は? 警備員か?」
「俺は、浪川裕樹。なあ、あの人って……何者?」
「何者って?」
「証拠だって、だから、外すの嫌がって」
「ああ、あいつは俺たちの仲間だ。なんつうか、ああいうところを見ると職業意識の塊みたいに見えるが、一応人間だからな」
 くすりと笑って、慌てて顔を引き締めていた。
 だが確かに、一応、と言う形容が雪村には妙に似合っていた。
「ま、一回署まで来て貰わなきゃならんけど」
「ああ……良いけど」
 話しながら、ずっと運び出される雪村を見つめていた。
 あの白い肌が、くすんだ色合いの毛布に包まれている。
 もったいないなあ、と裕樹はいつまでも運び出される彼を見送っていた。


 
 中州署。
 そこの刑事。
 名前は雪村直志。
 雪の化身のように白い肌の男。
 知っているのはそれだけ。
 
 第一発見者だと言っても、最初の聴取とそれから数度話を聞かれただけで、裕樹はあっという間にお役ごめんになった。
 何しろ、証拠品はたくさん。
 現職の刑事が被害者だということもあって、仲間達の働きもいつも以上だったらしい。
 あっという間に犯人は捕まって、とんとん拍子に片づいていった。
 あれから詫間という男には何度かあったが、雪村には一度も会えていない。見舞いに行きたい、と伝えてみたが、それは体よく断られた。
 曰く、まだ回復していないから。
 本人が見舞いを断っているから。
 ならば、病院名だけでも聞きたがったが、それも教えてくれなかった。
「何で、そんなに知りてえんだよ?」
 挙げ句の果てに凄まれる始末。
 その時に、けんか腰で「もう良いっ」と背を向けた事を、後悔している。
 いつか、元気になったら会えるかも。
 そう思ってはいたのだけれど。

「雪……」
 白い雪片がひらひらと舞い降りる。
 いつもより今年は雪が多い。
「寒っ……」
 結局帰ってこなかったジャケット。代わりの薄手のコートの襟を引き寄せて、白い息を吐く。
 あれから雪が降るたびに、寒さに白い息を吐くたびに、思い出す。
 雪の日に、地に落ちた雪の化身。
 記憶の中の彼は、染み一つ無い白い肌を晒し、黒いさらさらの髪が舞っている。そこだけは赤く艶やかな唇が言葉を紡ぐことはない。
 どこか無表情な顔は、ずっと裕樹に向けられていた。
 その彼に、裕樹は万感の思いを込めていつも呼んでいた。
「雪——姫……、俺の姫」
 決して届かない高貴な存在。
 王というよりは姫。
 会いたいのに会えない辛さが、記憶を美化しているという自覚はある。
 だが、一度そう思ってしまったら、意識は変えようがなかった。
 自分が雪姫こと雪村に恋していると気づいたのは、それからすぐのことだ。
 その日から、寝ても覚めても雪村のことばかりを考えていた。
 合コンに出れば、誰か一人はお持ち帰りできる容姿を持つ裕樹ではあったが、今は出かけることすらおっくうになっていた。
 その様子に、天変地異だと同僚も友人達も騒いでいたけれど。
 そんな声も無視して、裕樹はいつも仕事が終わるとまっすぐに自宅へ帰っていた。
 せめて夢の中だけでも会いたかったから。
 自宅でゆっくりと過ごしたかったのだ。


 もっとも、夢で我慢できたのは最初の一ヶ月までだった。
 本当は会って話がしたいのだ。
 いくら何でも一ヶ月も経てば、けがもある程度良くなっているだろう、と思ったら、今度はいてもたってもいられなくなった。
 夜勤明けの後、その足で、中州署に向かった。
 けれど。
 門の近くまで来たとき、その足は唐突に止まってしまった。
 どんな顔をして会えばよいのだろう?
 昂揚した気分を吹っ飛ばすほどの不安が込み上げてきたのだ。
 あんな姿を見せた相手には、会いたくないんじゃないだろうか?
 少なくとも自分は会いたくない。
 まして、裕樹もどんな顔をすれば良いというのか。
 考え出すと何もかもが心配で収拾がつかなくなってきた。
 あと一歩で警察署の門の中。
 だがその前で裕樹は躊躇った。躊躇って、うろうろして。
 玄関近くにいた署員に不審そうな視線を送られたことに気づいて、慌てて後ずさった。

 裕樹の落ちた肩にはらはらと雪が降ってくる。
 またか……。
 雪はいつもあの出会いを思い出させる。
 最初はわずかだった雪が、どんどん勢いを増してきた。黒っぽいコートを雪が彩り、落ちた雪が路面を舞う。
 やっぱり無理かも。
 ため息を吐いて足を進めようとするのだが、それでも未練がましく何度も背後の建物を見上げる。
 あの中にいるかもしれないのに。
 この雪のように清廉な姫。
 手を伸ばして、手のひらに雪片を受ける。
 すぐに融けてしまう雪を追うように次の雪が落ちて、消えていった。
 こんなふうに、あの人がいつか心から消えてくれるだろうか?
 情けなさと悔しさと悲しさがない交ぜになって、胸の内から込み上げてきた。熱い塊はまぶたの内側に溜まり、今にも溢れそうになる。
 慌ててハンカチを取り出して鼻を噛んだ裕樹が次に顔を上げた途端、その目が大きく見開かれた。

「雪姫……」
 呆然と呟いた言葉は小さなものだった。
 だが、前を見て歩いていた相手が、ふっと足を止め、ゆっくりと顔を動かす。
 その視線が裕樹の顔で止まった。
「何か?」
 白いコートが風に翻る。
 あの時はかけていなかった眼鏡が、その冷たい容貌を邪魔することなくよく似合っていた。
 間違いない、雪姫だ。
 途端に、激しく心臓が鳴り響き、息がどんどん荒くなる。
 自分がこんなところで欲情していると、情けなく思うのだが、体の方は止まらない。
「あ、あの……」
 だが、雪村は裕樹が思い出せないようだった。わずかに眉根を寄せて、じっと裕樹を窺っている。そんな雪村の様子に、裕樹の勢いも急速に衰えた。
「お、れは……その……」 
 裕樹にとってはひどく印象深い出会いでも、この人にとっては最悪の出会い。
 きっと忘れることにしたのだろう、と最悪の結論に至るのは早かった。
 けれど、諦めきれなくて。
 どうしようかと俯いた——その瞬間。
「あっ」
 小さな、悲鳴のような叫びだった。

 見開かれた瞳がゆっくりと伏せられる。
 叫び声を上げてから、ゆっくりと五つ数える間に雪村の表情が戻っていった。
 そして、裕樹をまっすぐ見つめ、惑うことなく名を告げた。
「浪川さん、ですね」
「あ、はい」
「あのときは助かりました。一度お礼を言いたいとは思っていたのですか……」
「いえ、当然のことをしたまでですから」
「もし見つけていただかなかったら、私は凍死していました。あなたに見つけていただいて幸運でした」
 嬉しさとか感謝とか、その言葉の意味は違いないのだろうけど。
 あのときと同じ、過ぎ去った出来事はもう関係ないというような態度に、切り捨てられているような気分になる。
 結局は他人なのだと拒絶されているようで。
「あの……けがの方は?」
「もう完治しています」
 あのときの状況を匂わす言葉にも、何の感慨も感じられなかった。
 やはり、駄目なのだろうか?
 あのときからずっとこの人に会いたいと思っていたのに。
 裕樹の想いが通じるような相手ではないのだ。まして、相手は男に陵辱された身。裕樹の想いなど嫌悪して然るべきもの。
 だが。
「そういえば……」
 ふっと思いついたように口にした言葉を、雪村が言いよどんだ。
 視線が惑い、伏せられる。
「雪村さん?」
「ああ、すみません。実はジャケットをお借りしたままです。お返ししなくては、とは思っていたのですが」
「あ……」
 あのとき、彼の体にかけたままにしていたジャケット。
 もう帰ってこないだろうと諦めたそれを、では、雪村が持っているというのか?
「それ、雪村さんが?」
「はい、すみません、早くお返ししなくては、と思ったのですが」
「いえ、そんなこと、良いんですっ」
 嬉しかった。
 自分の持ち物が彼の手の中にあることが。
「あんなの、捨ててくれても良かったんですよ」
 嬉しくて、心にもないことを口走り、慌てて口を塞ぐ。
 雪村の肌に直接触れた服。できれば、そのまま返して貰いたかった。
 その言葉に、雪村が反応する。首を横に振って裕樹の言葉を完全に否定し、しっかりと裕樹を見つめて、乞うてきたのだ。
「いいえ、とんでもありません。あのジャケットには大変助かっているのですから。それでぜひとも、私にしばらく貸して頂けたら、と」
「え、あれを?」
「はい、駄目ですか?」
 その声音に含まれているのは、明らかに不安。
 ちらりと見つめてきた視線が、弱く揺らいでいた。
「いえ、そんなことは。でも、理由、聞いて……良いですか?」
 あんなものに、こんなに動揺されている理由が判らない。
「それが……」
 途端に、黙りこくる。
 俯いて、視線を合わせようとしない彼は、理由をよっぽど言いたくなさそうだった。
 けれど、それを見逃して上げるほど、裕樹はできていない。
 いや、彼に関わることだから、何も見逃すことなどできなかったのだ。
「貸しても良いですけど。理由が聞きたいです。教えてください」
 強気半分、弱気半分。
 問いかけて、様子を窺って。
 雪村が小さく息を吐きだして、口を開くまでの間、心臓は何かを期待してどくどくと高鳴っていた。
「不思議なことに、あのジャケットはどんな睡眠導入剤より効くんです」
「え……」
 意味が判らなかった。
 一声上げたきり動かなくなった裕樹の前で、雪村は一つ吐息を落とすと、同じ言葉を繰り返した。
「どういう訳か、あの日以来多少不眠症になってしまいまして。……いろいろな薬を試したんですが、あのジャケットを枕元に置いて寝たときが一番眠りやすかったんです」
 一気に喋って、ふうっと息を吐き出して。引き結ばれた唇は、もう二度と開かないとばかりに固く閉じられていたけれど。
 裕樹は、呆けた頭で一生懸命にその理由を考えた。
 どんな薬よりも効くのだというジャケットは、お気に入りではあるけれど、ごくごくふつうの衣服でしかない。
 なのに、彼は手放したくないとばかりに、裕樹に頼んでいて。
 でも、何で?
「えっと……その聞いて良いですか?」
「……はい」
「どうして、俺のジャケットなら眠れるんですか?」
「判りません。けれど、眠れない夜にあのジャケットに触れると、ほっとするんです。そうしたら、眠れるんです」
「それって……」
 まさか、と思うけれど。
「助けたときに、俺が着ていたから……。あなたにかけてあげたジャケットだから……?」
「そうかもしれません。医者が言うには運ばれてきたとき、私は意識が無かったのですが、そのジャケットをしっかりと握っていたのだそうです。それこそ、指を外すのにたいそう大変だったと聞きました」
 途端に、ひときわ高く心臓が鳴った。
「そんなにしっかり?」
「はい」
「……俺のジャケットで、眠れるんですか?」
「はい」
 こくりと頷く雪村は、相変わらず感情の窺えない顔で視線を投げかけていたけれど。
 眼鏡の奥の瞳が、まるで縋っていると思うのは気のせいだろうか?
「でも、あれ、お気に入りで」
 そう言ったとき、瞳は明らかに戸惑うていたのに。
「そう、ですよね」
 少しだけ小さくなった声音は、冷静さすら感じるもの。
 だから。
「だから、違うもので試してみませんか? そのジャケット以外のもの」
 もしかして、という期待が、裕樹を暴走させた。
「え?」
「その、たとえば……俺、とか?」
 言ってしまってから、かあっと全身が熱くなった。鼓動が駆け足のごとく早くなる。
 ほんの少し見開かれた瞳に、苦笑交じりに返した。
「それは……どういう意味でしょうか?」
 低く押し殺した声音に、ひくりと頬が引きつる。
 やべ、怒らしたかも。
「あ、いや、その……深い意味じゃなくて、——って、でもその……」
 よくよく考えてみれば、この人の不眠の原因は絶対陵辱にあるのであって。
 それを思い起こさせるような態度は、きっと駄目なはずで。
 おろおろと言葉を探している裕樹の様子を窺っていた雪村だったが、しばらくすると、ふっと息を衝いた。
 その口が想像しがたい言葉を言う。
「そう、ですね。試して見る価値はありますね」
「え、あの?」
「実は、そのジャケットも少しずつ効果が無くなってきていました。ですから別のものが試せるなら、それも良いかもしれません」
 つまり?
「あの?」
「近くのアパートを借りているんです。来てもらえますか?」
 そんなお願いをどうして拒絶できるだろう。
「え、あ——はいっ」
 音がするほど勢いよく頷いていた。


 すうすうと規則正しく聞こえる寝息を聞くまでもなく、雪村がぐっすりと寝入っているのが判る。
 何のことはない。
 雪村はベッドに入って、すぐに寝入ってしまったのだ。
 幼子のように裕樹の胸に縋り付いて。
 時折頬をすり寄せるのは無意識のうちなんだろうけど。
 毎夜毎夜夢見て欲情していた相手が、こんな近くにいるのに手が出せない現状は、あまりにも辛いものがあった。
 だが、安心したかのように寝入っている雪村を襲うまねはとても考えられない。
「これって、合格ってことなんだよな」
 自分のジャケットが大切そうに置かれている様子を見ながら、期待を込めて彼の寝顔を見つめるのだけど、雪村相当深い眠りについているようだった。
 その横で、わだかまる熱を持てあます裕樹。
 結局、悶々とした気分は、雪村が起きるまで続いていた。


「では、これが契約書。一回睡眠に入るのを手伝って貰う代わりに、一回500円。——とこんなもので良いかな?」
「……はい」
 目覚めた雪村は、あいかわらず淡々と処理をしてくれた。
 本当は寝起きの甘い情景を想像していたのだ。
 だが、今二人の間にあるのは、「抱き枕」契約。
 雪村が一人で眠れるようになるまで、一緒に寝るというものだ。
 それは、十分甘い期待を抱かせるのに、あくまで一緒に寝るのは眠ってしまう時まで、という注釈までついていて。
「やっぱり、500円だと安いかな?」
 真剣な表情で報酬の話をし始めた雪村に、裕樹はがくりと肩を落としたのだった。


【了】