契約が終了してしまった。憂えて何も手に付かない浪川の元に……。
250万キリリクのpoepoeさま、リク品です。
大晦日の夜遅く、自宅への帰途であった浪川裕樹はひどく疲れていた。それでなくても年末で慌ただしい上に、担当のビルの近くで盗難事件が有り、警備の強化が求められたのだ。だからと言って人員が増える訳はなく、見回りの回数が増え、緊張感が増し疲労感が増した。
唯一の救いは、今日から正月二日まで連続した休みがもらえたことだけ。
前々から同僚たちに頼み込んでなんとか手にいれたものだったが、今はその休みのことを考えるのが辛い。靴がアパートの駐車場の砂利を食む音にすら憂鬱感が増す。
どうして自分はここにいるのだろう?
見慣れた自分のアパートなのに、見えてもうれしくない。
前だって週に数日は戻っていたはずだったし、この一週間は毎日帰ってくるようになった。だが、違和感はますますひどくなる。
「あれ?」
目の前を横切った軌跡を辿って天を仰いだ裕樹に、はらはらと降り落ちるものがあった。
「……雪?」
くすんだ灰色の空から、舞い落ちる欠片。
錯覚かと思ったほどのわずかな量が、またたく間に増えていく。
寒波がくるとは聞いていたけれど。
除夜の鐘が鳴ろうかという時間になって、ようやく降り始めたようだ。
胸の前に掲げた手のひらにも、幾粒かが舞い降り、消えた。
「……一年、か……」
雪を見るといつも思い出す。
初めて雪村と出会った日のことを。
あの日の雪は降り始めは落ちてはすぐに消える程度だったけれど、夜半近くなってゆっくりと積もり始めた。
そんな中で、雪村は陵辱されて血を流し、寒風吹きすさぶ中で拘束されていたのだ。晒された白い肌は、雪よりも白くなっていた。
今なお覚えているあの時の情景を、雪はいつも鮮やかに甦させる。
美しい──雪の化身が地上人に侵されたような……。
倉庫の狭間という実に現実的な世界の中の非現実な存在に、あの時、裕樹は確かに魅入られた。
だが、彼はこの現実世界の住人で、しかもれっきとした男で、なおかつ裕樹よりはずいぶんと格好よくてエリートで。
ある意味、雪の精の方が、まだなんとかなったかも知れない。
そう思ったのは、先日雪が散らついた日のことだ。
実際、彼は手の届く相手ではなかった。
「さむ……」
全身に走った冷気に、首を縮こませる。
あの日助けたのが裕樹でなければ、会えなかった存在。
裕樹の一生分の幸運を使い果たしたとも言える出来事がなければ、不眠症となった雪村の助けを乞われることもなかったのだから。
それがたとえ契約という名の元であったとしても。
だが。
思わず吐いた深いため息がつま先に落ち、眼下を白く曇らせる。
彼が熟睡できるまでの添い寝する契約で、貰ったお金は、何にも使わずにずっと貯めている。いつか、二人で旅行にでも行けたなら──そんな思いで貯め続けたお金は、贅沢をしなければ近場にいけるくらいにはなっている。
仕事の関係でなかなか時間は合わなかったけれど、そのやり繰りすら楽しい契約だった。
彼が眠い時に見せてくれる可愛い姿も、やっぱりお気に入りで。
今を壊したくなくて、時折込み上げる性衝動もなんとか我慢ができたのだ。
最近ではしがみつくように寝入ってしまって、剥がすのが大変なこともある。そういう日は諦めて、狭いベッドで一緒に眠て過ごした。
時々、雪村にばれないようにキスを奪って、トイレや浴室に駆け込んだことだってあるけれど。
それでも、十分満足だったのだ。
なのに。
そんな些細な幸せが、クリスマスの前日にいきなり終わりを告げたのだ。
仕事帰りの今と同じ時間、雪村の部屋を訪れた裕樹に、雪村は『今までありがとう』と言って、契約の終了を伝えてきた。
前々からその兆候はあった。
『私のことなら良いから、無理しないでほしい』
そんなやんわりとした物言いで、雪村は裕樹の訪問回数を減らしていった。
もともと、時間の不規則な刑事の雪村と夜勤の多い裕樹では会えないことは多かったが、それでも数日おきには一時間程度でも会ってはいたのだ。それが年末に近づくにつれ、数日おきが一週間に一回。ついには二週間に一回。十二月など、始めに一回。そして二週間振りの二回目が、契約の終了宣告だ。
さすがにショックだった。
雪村は大丈夫だというけれど、裕樹からみるとまだ完全で無い。
まだまだ続くと思っていただけに、信じられなかった。
『契約が終了しただけで、友達付き合いは変わらない』
救いとも言える言葉もあったが、契約がないと裕樹と雪村の接点など無いに等しい。
実際この二週間、一度も会ってはいない。
「どうしてっかなあ……」
ずっと一緒に過ごしたい。
そう思って根回ししてまで取得した正月休みは、今となっては空しさを助長する。
「ちゃんと、眠れてんだろうか……」
大丈夫──と言っていたけれど、イブに会った雪村はやはり目の下にはクマを作り、顔色も悪かった。言いたいことだけ言ったと思ったら、一瞬で眠りに落ちていたから、眠れていなかったのだろう。
シャツが容易に外せない力で掴まれ、どうしたものかと落胆から回復できないままに傍らで同じように寝っ転がっていたら、雪村の寝息と温もりと、蓄積していた疲れにそのまま眠りに落ちてしまった。
翌朝はまだ眠っているうちに雪村が先に出てそれっきりだ。あれ以来、会う機会が無い。
窓の外では、あの日と同じような雪が降り続いていて、ずっと目が離せない。
無意識のうちにつけたテレビの灯りしかない暗い部屋で、寝転がったまま窓の外を見つめる裕樹の耳に、テレビ番組のカウントダウンが聞こえる。
来年には少しこの関係も進展させようかと、あれこれ手段を考えてはいたのだが、それももう無駄なことだ。
せめて──この前の時に告白しておけば良かった。
と、あれから何度も考えて。
「ダメだろうなあ……」
雪村の態度からすると、巧くいくとはあまりにも思えない。
眠くない時はいつも静かで必要最低限の事しか話さないし、バカ話を振っても小さく笑うだけだ。
少しだけ恋愛関係について話をしたことがあるけれど、今まで誰かを特別に思ったことは無い──とはっきりと言われてしまった。
あまりにも期待できない状況で、結局二の足を踏んで今にいたる、だ。
せめて、お友達──という状態だけはどうやっても手放すことはできないと思うのだけど、それも結構辛い。
さっきから続く堂々巡りの思考に裕樹は薄く苦笑を浮かべ、雪から無理に視線を剥がして起きあがった。
「もう寝よう……」
何もかも忘れて──は無理かもしれないけれど、とりあえずは寝てしまおう。
いつまでも囚われている自分を叱責して、カーテンを閉めようとして。
「あれ……」
アパートの駐車場に見たことのない車が入ってきたのに、気が付いた。
薄暗い部屋にいたせいで、そのライトはあまりにも眩しい。
さらに真正面の空きスペースに前から停められたせいで、裕樹は慌てて目を覆ってカーテンを閉めた。
「初詣かな……こんな雪の日に」
ぼんやりとそんな事を考えて、窓に背を向ける。その裕樹の耳に微かに人の話し声が聞こえてきた。
「……か……、待ってろ……」
どこかで聞いた声?
ふっと首を傾げて考えたが、こんな夜中に来る知り合いもいない、と動こうとした時。
ピンポーン──。
鳴ったのは自分の部屋のチャイムだった。
「え……」
続いて数度ノックされて、またチャイムが鳴る。
「……俺ん家?」
呆然とドアを見つめ、心当たりを探すが、こんな時間に約束など無い。
悪友達は、今頃彼女や家族と過ごしているし、それか仕事だ。
君子危うきに近寄らず──というか、心当たりのない場合は出ないに限る──と、無視を決め込めこもうとしたけれど。
「……浪川っ、こら、出てこいっ」
聞き覚えのある声が名前を呼んだ。
「げ、この声……」
とっさに居留守を使いたくなる相手に、けれど、さっき窓越しに思いっきり照らされた事を思い出す。なおかつ、近所迷惑なチャイムとノックの連打と呼び声に、裕樹は仕方なく玄関へと足を向けた。
「あんた……」
開けたドアの向こうで、違う事なき相手が立っていて、思わずため息を零した。寒そうに首を竦めた体格の良い男は見慣れているとは言い難いけれど、それでも知らないと言える相手ではない。
「寒いんだから、さっさと開けねえか」
不遜に言い放つ雪村の同僚である詫間に、一度は瞠った目が細く眇めたものになる。
「何か、用?」
この男とは数度顔を合わせたことがあったが、いつも敵意に満ちた視線を浴びていた。特に機嫌を損ねた覚えは無いのに最初からこうなのだ。しかも、こんな深夜に会いに来られるいわれもない。
「用があるから来たんだよ。で、お前一人か?」
裕樹越しに部屋を窺う詫間の真意は判らない。
が、こんな日に一人だとバカにされているようで腹は立つ。
「俺は仕事が終わったばかりなんだよ。で、2日の夜までは休みだからこれからゆっくり遊ぶとこ」
「てことは……女いねぇのか。……そりゃ、良かった」
だが、次の言葉は、その内容と口調が合っていなかった。
しかも疑惑の視線を向けると、詫間がわざとらしく視線をそらす。そのしぐさが、さらにらしくない印象を与えた。
「何だよ、いったい……。何の用でこんな時間に……?」
「ああ、ちょっと……まあ、お年玉だ」
「はあ?」
もっと、詫間らしくない言葉だった。
思わずまじまじと見つめた先で、詫間はそっぽを向いたままぶつぶつと何かを呟いている。
しょうがねえなあ……とか、くそ……とか……。
かろうじて聞こえた言葉は、まるで諦めようとして、けれど諦めきれない何か。
煮え切れらない態度で、しばしそこで逡巡していているようだったが、裕樹が寒さに我慢できなくなる寸前、不意に詫間が踵を返した。
「待ってろ」
呆然と行き先を追えば、先ほど窓越しに見えた車だ。その助手席を見やって、裕樹の口が無意識のうちに開いた。
影の中白い塊が見えた。その人に詫間が話しかけている。
足が勝手に動いた。
「雪村さんっ」
詫間の腕に支えられるように車から出てきた人を、見間違えるわけがなかった。
数歩の距離にいたというのに、どうして気づかなかったのだろうか?
「雪村さん……?」
返事が無い様子に、慌てて顔を覗き込めば、視線がふらふらと落ち着かない。いや、ほとんどまぶたが落ちていて、見えていないようだ。まるで意識がないような──けれど、きちんと自分の足で歩いている。
「顔色が悪い……どうしたんだ?」
思わず詫間を見上げると、中へ、と顎をしゃくられて、急いで雪村の腕を取った。車の中にいたのに冷えている身体を、二人がかりで部屋に運び込む。
「眠れてねぇようなんだ……ここんとこ、ずっと」
運びながら教えてくれた事実に、「嘘」と小さく呟いたが、それしか原因が思い当たらなかったのも事実だ。
「雪村さん……大丈夫だって……」
信用していた訳ではなかった言葉を、それでも甘く見ていたところがあったのだろうか?
こんなに酷くなるなんて、最初の頃のようだ。
「大丈夫じゃねえ……。ったく……このバカっ」
「……だ、いじょうぶ……と思った……んだが……」
今にも閉じられそうなまぶたが少し開いて、濁った瞳が詫間を見つめ、そして裕樹へと向けられた。
「ごめん……も……ダメ……」
縋り付くように腕を伸ばされ、思わずその身体をかき抱いた。
だが全体重をかけられて、そのまま押し倒されそうになる。
「あわっ、あ──布団っ、布団敷くから」
「ああ……浪川くんだ……」
「ゆ、雪村さんっ、ちょっと──っ」
悲鳴でしかない声が、喉をつく。
うっとりと酔ったような声音に、身体が反応しそうになる。だが、見上げた視線の先には詫間の呆れた表情があった。慌てて剥がそうとするが、雪村の掴む力が増して食い込んだ部分が痛くなる。
こうなるとどうしようもないのは、前に何度か経験していた。
「……ああもう……」
結局このまま寝てしまうのだが、雪村の部屋はベッドだから良かったが、裕樹の部屋は布団を敷かないと風邪を引いてしまう。
縋るように呆然と突っ立っている詫間に視線を送ると、呆れたようなため息を落とされた。
「……初めてみるぞ、こいつのこんな甘えた様子……」
押し入れから布団が引きずり出され、手際よく広げられる。
敷き布団についで掛け布団、枕が一つ。
「枕は……ねぇか……。くそっ、俺はもう帰る」
布団と、そして抱きつかれたままの裕樹を一瞥した詫間が、不愉快そうに口元を歪めて言い放った。
「え? あっ、ちょっと移動手伝ってくれねぇの?」
ごそごそと雪村の決して軽くはない体重にもがき、不本意ながら助けを請う視線を送る。
けれど、詫間は肩越しに一度だけ振り返って。
「知るか」
一言言い捨てて、さっさと部屋から出て行ってしまった。
なんとかじりじりと移動して雪村を布団の上に動かした。
それでも完全に寝入っている雪村は、起きることなくくうくうと規則正しい寝息を立てていた。
この爆睡と言って良いほどの寝方は、ほんとうに最初の頃を思わせる。
この熟睡が数時間でも取れれば、雪村はずいぶんと回復するのだ。
だがこの顔色の悪さは、その数時間がもう長い間取れていないことを知らせてくれた。
「だいぶ……寝てないよな、これ」
クリスマスに会ってからだと、一週間。この程度だと最近は十分大丈夫だったはずなのに。
額にかかる髪の毛を一房つまみ上げ、まじまじと顔色を窺う。
くっきりと浮かぶ濃い色のクマに、荒れた肌。落ち込んだ頬は、食事も満足にできていなかったのではないだろうか?
心配だが、至近距離の雪村の顔は今の裕樹にとって目の毒だ。
腹の底から込み上げる熱い塊を自覚して、裕樹は堪らずに顔を歪めた。
だが離れようとしても、指が裕樹のシャツをしっかりと掴んでいる。指をこじ開けようとしても、食い込んでいるそれは容易な事では取れそうになかった。
「……離れたくない?」
声に出した言葉は、裕樹の願望でもあった。
クリスマスの日、家主のいなくなった部屋で、もうダメなんだと諦めた。その温もりが、今この手の中に戻ってきたのだ。
「俺は……離れたくないんだよ……もう……」
くん──と鼻を鳴らして、嗅ぎ慣れた匂いを味わう。
腕が、彼の身体を抱きしめる。
──雪村さんだ。
喘ぐように吐息が零れた。
身体の奥底から熱が溢れてくる。
どんなに拒絶されても──いや、この状態につけこんででも、腕の中にある温もりを二度と離したいけれど……。
微かな吐息が唇に触れる。
ついで触れた柔らかな膨らみ──そして。
「ごめん……」
呟いた言葉は、微かに開いていた雪村の口の中に消えていった。
服の内側にある透き通るような肌。
温もったせいか仄かな朱色を差す肌は、しっとりと裕樹の手のひらに馴染んだ。
子供のように無邪気に眠る頬に、何度もキスを落とす。それだけで、下腹の奥深くに巣くう欲望という塊が、どんどん大きくなる。
夢の中でなら抱いた事がある身体。
その願望が大きくなったのはいつからだったろうか?
そっとシャツをはだけ、露わになった胸元に口づける。彼の年にしてはきめ細かな肌が、誤魔化しきれないだろう朱印を幾つも残す。
それを目にして、裕樹はため息とともに苦笑を浮かべた。
やってしまった……。
こんな状態まで疲労した雪村の記憶はいつも曖昧だが、身体に残る痕はその記憶甦らせてしまう。
それでも、残したかった。
言葉にできなかった想いを表したかった。
今はただ──触れたかった。
「雪村さん……」
胸元から顔へ、そして耳元に顔を埋めて小さく囁く。
規則正しい寝息が狂わないのを確認して、もう一度今度は大きく呟く。
「雪村さん、起きなくても……抱きます」
薄く開いた唇の間に舌を入れて、深く犯していく。
「……ん……」
息がしづらいのだろう、小さな呻き声が上がり、手がシャツから離れて顔にまで上がってきた。それでも、抱きしめて貪るように呼気を奪う。
眠ったままの行為への罪悪感のせいか、いっそ起こしたいと願って、裕樹の動きを荒くさせるのだ。
「んぅ……あ……」
まぶたが震え、呼気を奪う裕樹から逃れるように、顔が動く。けれど追いかけて、裕樹はまた深いキスを施した。
「ん、くっ──ん、……っあ」
息苦しさに、雪村のまぶたが開き、ぼんやりとした瞳が裕樹に向けられる。
「……んわ、わ……ん?」
緩慢な動きの指が、裕樹の顔を辿る。
「雪村さん」
身体を離して呼びかけると、ほっとしたように微笑まれた。
「浪川くん……だ」
嬉しい──と、夜中に目覚めた時に裕樹を見つけて見せる表情。今日の表情はそれに加えてずいぶんと幸せそうにすら見える。
その本心からの安堵感を見せつけられて、裕樹は苦笑を浮かべた。
「雪村さん……やっぱり我慢してたんでしょう?」
変わらない雪村の態度がひどく愛おしくて、彼の頭を柔らかく抱き、頬を擦り寄せる。
「まだ無理だったんだ」
治ることを望まない訳ではない。だが、自分から離れられない理由があることがひどく嬉しい。
そんな裕樹の言葉に反応した雪村が数度瞬き、眉根を寄せて記憶を辿るような仕草を見せた。
惑うように視線が動き、時々まじまじと裕樹を見つめる。
数秒間は続いたその直視が、だが突然に反らされた。
腕が、ふらりと動き、彼の目を覆う。
「……治ったよ……」
零された静かな声は、裕樹の言葉をきっぱりと否定した。
「あの夢は……見なくなったから」
期待を裏切る言葉なのに、ショックはない。むしろ覇気のない声音で、とうてい信じられる物ではなかった。
「でも、寝れてないよね」
「……あの夢は……見ない。──見ないけど……別の夢を見るようになって……」
「別の夢?」
「だから、寝られなくなった……」
深いため息を零して、雪村はもう片方の手の平で顔を覆った。その唇が戦慄きながら言葉を紡ぎ出す。
「……信じられない……」
「え?」
「こんなの……信じられない……」
朧気な声音が、言葉が増えるとともに力を増していた。駄々っ子のように首を振り、腕と手のひらが頭を覆ってしまう。
「雪村さん、何? 何言ってる?」
慌ててその腕を掴む。
前には夢にうなされ飛び起きた後もしばらく混乱したこともあるのだ。
またそれか──とも考えたのだけど。
覆われていた顔が目の前にさらけ出された拍子に、裕樹はごくりと息を飲んだ。
「……ゆき……むら……さん?」
必死になって顔を背けようとしたが、今度は髪に隠れていた首筋が目の前に露わになった。その首が、見えるところが全てきれいな朱に染まっていたのだ。
「あ、あの……」
ひどく扇情的な媚態に、喉がごくりと鳴った。
何なんだ、この態度は?
起きている時の雪村からは想像できない。まるで、彼の中にもう一人娼婦が隠れていて、それが今現れてきたようだ。
こんな姿……堪らない……。
どくどくと激しく鳴る心臓を持てあましながら、空転しっ放しの頭を働かせる。
だが、何を考えつく間もなく、雪村がぽつりと言葉を落とした。
「こんなの……信じられない……」
「え、あ?」
「……浪川くんが……」
「え?」
「浪川くんが……キスして……」
「うわっ」
気がついたら抱き込まれていた。
だがそれよりも、しっかりと合わさった身体の間に激しく主張している塊に、さすがに気がついてしまった。
「……雪村さん……もしかして……」
胸板を通して伝わる激しい鼓動も、そして──太ももに感じる固い棒のような感触に。
「あ、あの……」
まさか──とは思う。
けれど、知らず下肢が動いて、自らの高まりを雪村の足に擦りつけていた。痛いほどに張り詰めているそれの正体を雪村が気づかない訳がないのに。
雪村は逃げるどころか、腕の力をますます強くしていく。
喉が大きく上下に動いた音は、きっと雪村にだって聞こえている。
「……離してくれないと……やっちゃうよ? 俺、今ものすごく雪村さんが欲しいから……」
かと言って、今ここで止められても、自分の力では止められない。
「止めて欲しいなら、殴ってでも止めてよ」
しかも本気で拒絶してくれないと、きっと、止められない。
ふわりと揺れた頭。
視界がぶれるほどに近づいた表情がどんなものだったか、判らない。
ただ、唇に柔らかな何かが触れた瞬間、激しい快感が駆け巡った。
どちらからともなく零れた熱い吐息が混じり合い、きつくなった腕の力が肌を密着させる。
「あ……んふっ……」
ずっと我慢してきたのだと、互いが知るほどに、激しく貪った。
舌がしびれ感じなくなるまで吸い上げ、絡め、溢れた唾液でシーツが濡れるのにも気づかなかった。
絡みあう下肢の間で、同じ器官が擦り合い、快感を高める。他人のモノなど触れようとも思わなかったけれど、雪村のモノならば触りたくてしようがなかった。
二本をまとめてわし掴みにし、自分の快感を追うために擦り上げる。
「あ、っ、んくっ、あぁ」
艶めかしい悲鳴がひっきりなしに耳に入ってきて、それだけで神経が過敏に反応した。
「くそ、マジやばいっ」
そういえば、最近やる気が起きなくて、ずっと出していなかった。
我慢の限界を訴える身体に、もう少し我慢しろ、と心の中で言い放つ。
──もったいない。
もっともっとこの快感を味わいたい。
手は止まらないまでも必死になって我慢していた裕樹に、熱に浮かされたような雪村の声音が届いた。
「いい……達け……、私も……がまんできない……」
脳髄を痺れさせる声音は、快感以外の全ての神経と理性を麻痺された。
ひくりと陰茎が震える。
次の瞬間、迸る衝撃にまぶたの裏が白く弾けた。
衝撃の余韻が長く続き、ぷくり、ぷくりと残滓をいつまでも吐き出す。
「すげ、こんなの、初めて……」
女との経験が無い訳ではない。
まして、挿入している訳ではないのに。
何もかも白く弾け飛ぶような快感など、今まで経験したことがなかった。
二本の陰茎を掴んだままくだりと崩れ落ち、陶然と余韻に浸る。
はあはあと荒い息を吐いていると、手の上にしっとりと湿った手が被さってきた。
「……わ、たしも……」
甘い声が動きを誘う。
一度出しても固さを失っていない裕樹の横で、雪村の陰茎もまだ元気なのに気がついた。
じわりと悦びが増してくる。
「雪村さん……俺」
甘い吐息を零す唇を探してキスを落とし、彼の瞳を見つめながら囁く。
「……もうずっと……こうしたかった……。あなたが欲しかった……」
ずっと言えなかった言葉を記憶に刻むように何度も繰り返す。
「ずっと、ずっと好きで……。あなたを……俺で染めてしまいたかったんだ……」
「あ……ほんと、に? ──あ、はぁっ」
喉を晒して喘ぐ身体に痕を残す。
白い雪原に散らばる赤い花びらのように散らばるそれが愛おしく、何度も何度もキスを落とした。
「んっ、ひぁ……ぁ……う」
先よりさらに深い快感を求めて身体が勝手に動く。
まとわりつく熱は、手など比べものにならない。
辛そうに歪む顔に申し訳なさもあるけれど、微かな悲鳴に心はひどく歓喜する。
「ずっと、ずっと……こうした……かった……」
「あっ、あっ──。な、なん、だかぁ……う、疼いて──ダメだっ、そこはっ」
青ざめていた頬に朱がさし、瞳が熱く潤んだ雪村の声は、極上の色気を纏っていた。
正気の時の静かな声音とも、眠い時の甘えた声音とも違う。
裕樹を狂わせる声音だ。
「くっ……うぅ、なみか、わ、くんっ、待って……ぇ」
声だけで、何回でも達けるだろう。
こんな雪村をずっと欲しかった。ずっとずっと、こうしたいと願っていた。
「んくぅ──んあ……なみ……わく……ああっ」
背にちりりと鋭い痛みが走ったが、気にする余裕などなかった。
それどころか、痛みにすら身体が過敏に反応する。もっと欲しいと、飢餓感がひどくなる。
その飢えを満たすには、食らうしかないのだ。
この身体を。
ぐいっと腰を押し付た拍子に反らされた喉の白さに、心臓が激しく鳴り響く。
堪らずにむしゃぶりつけば、耳に心地よい嬌声。
だが、それがさらに飢えを助長して。
「ん、ああ──っ、もう、もう、達くぅ──」
感極まって流した涙の一滴も零さなかった。
──俺の……雪姫。
だれにも渡したくない。
ずっとそればかりが、頭の中にあった。
俺だけの……。
本当に欲しかった人なのだから。
もう日は高い。
冬とはいえ、昼ともなれば明るい日差しは眠りを妨げるには十分に強い。
その日差しに照らされている雪村を、裕樹はじっと見つめていた。
事が終わって、片づけて。
引きずり込まれるような眠りについたのは良いけれど、目が覚めてみれば、じわじわと後悔が込み上げてきた。
雪村のまぶたがぴくりと動く。
同時に、裕樹もごくりと息を飲み、雪村が徐々に目覚めていく様をじっと窺った。
ぼんやりとした瞳がきょろきょろと動き、そして。
「……」
傍らで寝そべっている裕樹に視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。
「何で……?」
掠れた声音で小さく咳をして、それもまた不思議だと喉をさする。
その喉に、布団がはだけた肩に、散らばるのは朱色の痕だ。
朝から目の毒な光景だが、今の裕樹にはそれどころでなかった。
「私は……いつ?」
今までも、激しい睡眠不足になると、雪村の記憶はいつも曖昧だった。だが痕跡から、朧気な記憶を思い出すのだ。
いつも、いつも……。
だから、手が出せなかった。
いっそのことすべて残っていなければ良いのに。それともきちんと全てを覚えていてくれれば良いのに。
曖昧な記憶は、肝心な部分が欠落していればお終いだ。それでも、甘い期待を胸に抱く。
せめて、雪村自身が良いと言ってくれたところと、裕樹の告白の部分は覚えていて欲しい。後の部分は、もっと良い関係になってから思い出してくれたら……。
そう都合良く行かないとは判っていても、してしまうのが甘い期待なのだ。
「詫間さんが雪村さんを連れてきた」
「……ここは──浪川くんの家?」
「そう」
あどけない子供のような態度は、眠い時と寝起きだけだ。
時間が経てば理性が戻ってきて、いつもの雪村に戻ってしまう。凛とした、何人もつけいる隙の無いような寡黙な男に。
「……昨日……待機していたはずなのに……」
ゆっくりと記憶を辿るしぐさ。
思い出して欲しくない──だが、あの甘い言葉は思い出して欲しい。
相反する心境を持て余しながら、それでも静かに審判の時を待った。
変化はいきなりだった。
考え込んでいた雪村が、わずかに身じろいだ拍子に、急に息をこらえて顔をしかめたのだ。
なぜ? という表情をしたのも束の間、かあっと勢いよく朱に染まり、数多の表情がそこに浮かんだ。──驚愕、怯え、動揺、羞恥。
裕樹でも理解できたほどの激しい感情の発露は、だが一瞬にして消えて、ただ疑惑のような色だけがその瞳に残る。
その視線が痛い。
そんな目で見ないで欲しいと願う間もなく、今度は目を逸らされる。それが雪村の裕樹に対する拒絶に見えて、胸の痛みはさらに増した。
「あ、あのさ……」
思わず言葉をかけようとするが、いったい何を言おうとしているのか自分でも判らなくて、結局情けなく口をつぐんだ。
雪村が好きだ。
あの日からずっと心も体も全て手に入れたかった。
雪の中、非日常的な風景の中で、雪村に魅入られたあの日からずっと。
そう言いたかったけれど黙る事しかできなかったのは、あの日の光景がこの強靱な心を持つ雪村ですらずっと苦しめてきたのを知っているからだ。
強姦されて傷を負ったのは身体以上に心だった。
それに、雪村が男相手に恋愛感情を持たないのも、知っている。
だてにこの一年ことあるごとに一緒にいた訳ではないのだ。
雪村の嗜好は、いつの間にか全てと言って良いほど把握していたから。
だから。
「君は……欲求不満だったのか?」
放たれた言葉はひどく淡々としていて、一瞬何を言われたのか理解できなかった。それでも頭の中で数度繰り返し、その意味を理解する。
「え……?」
それでも呆然と呟いた言葉に構わず、雪村が言葉を継いだ。
「だから私とセックスしたのだろう?」
「は……、あ、いえ……そりゃ、欲求不満といゃあそうだけど──って?」
なんか違う?
思わず反応してから、慌てて雪村の言葉を反芻した。
この人はいったい何を言っている? 少なくともしたことは覚えているようだけれど。
「そうだよな。でなければ、男など相手にしないよな」
「あ、いや、そうじゃなくてっ」
欲求不満だったから雪村を相手にした。
そんなとらえ方をされていることに気づいて、大きく首を横に振った。
「別に欲求不満解消に雪村さんを使ったんじゃあ──」
「クリスマスまで私に付き合ってくれて……。今日なんて正月じゃないか。君は休みになると友達付き合いもせずに私に付き合ってくれていたから……良い女性を探す間もなかったろう?」
「俺としては、ずっと雪村さんといたいから別に構わなかったし」
「私が……もっとはやく踏ん切りをつけるべきだったんだが……」
後悔の滲む言葉だからだろうか?
口調は変わらないのに、声音が弱い。
考え込むように途切がちなのにも気がついた。
「浪川くんに親切にしてもらって、甘え癖がついたみたいだな、私は……。また浪川くんに迷惑をかけてしまって……」
「ち、違う……」
なんか変だ。
会話の内容も、雪村の態度も。
さっきから俯いていて、顔が見えない。声音も弱い。
いつもの雪村なら、人と話す時に顔を隠したりしない。
いや、クリスマスの時も。
契約の解除を言われたあの日の雪村も、俯き加減で覇気が無かった。
あれは、睡眠不足のせいだろうと思っていたけれど。
「雪村さん、ちょっと待って」
肘をついて上体を起こし、雪村を上から覗き込む。
「ね、少し落ち着いてさ、ひとつ思い出して欲しいんだ」
「……思い出す?」
「そう」
きっと、思い出せていない大事なこと。
「昨日一度眠った後、雪村さんって俺に起こされたんだ」
起きて裕樹を見つけた時の、あの幸せそうな表情。
あれは、きっと雪村の本心だと今なら判る。
「あの時、なんであんなに幸せそうだったのかな?」
「幸せそう?」
「そう、嬉しそうにしてくれた」
「起きた時?」
思い出そうとしているのか、わずかに見える横顔がしかめられているのが見えた。
今の雪村の記憶は、きっと裕樹とセックスしたということだけ。
その前後──特に最初の記憶がないから、欲求不満解消なんて話が出てきている?
だから……。
「雪村さん、俺はずっと雪村さんが欲しかったです」
拒絶が怖くて言い出せなかった言葉。
あの甘い記憶と雪村の本心を呼び起こすために、きっちりと言葉に出す。
もともとが寡黙な雪村につられたせいか、裕樹もまた大事なことを伝えていなかったのだ。言えばよかったのだ。
「ずっと好きでした。クリスマスに契約破棄になった後、何もする気が起きなくなるほど落ち込んだくらいに」
その言葉にびくりと布団の塊が震えた。
ちらりと見えた瞳が、さっきより濡れているように見える。
「俺が昨日雪村さんを起こしたんだよ……」
我慢できなくて。
その言葉は飲み込んで、小刻みに震える身体を布団の上から抱き締める。
「雪村さん、顔出して? 俺の話、聞いて?」
「……いやだ……」
子供のように拒絶されて、思わず口元に笑みが浮かんだ。
寝不足の時なら判るが、今は睡眠は十分ではっきりと目覚めているはずだ。少なくともさっきまでは雪村らしい態度だったというのに。
「雪村さん?」
「やだ……」
理性よりも感情が勝っている。
眠いという欲求が理性を陵駕していた時のように。
これは雪村が混乱している証だ。
「雪村さん、顔見せてよ」
嫌がるように逃れる身体を布団の上から押さえて、端をめくり上げた。
「……泣かないでよ」
頬が日差しに照らされて、きらきらと輝いていた。
全身を朱に染めた雪村が困惑の表情で泣いている姿など、この世界で他の誰が見たことがあるだろうか?
「見るな」
腕で隠そうとするのを寸前で捕らえて、耳の横で押さえつける。
「雪村さん……思い出したんだろ?」
でなければこんなふうにはならないだろう。
「ね、どこまで思い出した?」
「……言わない……」
頑是ない子供のような態度と言葉。
この状態の時が、この人の本心。
どうして気づかなかったのだろう。一年もこの人のこんな姿を見続けてきたのに。
普段の姿が格好良すぎて。
壁として作り上げられた外見ばかりに見惚れてしまって、しっかりと誤魔化されてしまっていた。
睡眠不足の時に擦りついてきたのは、あれは眠いからだけじゃなかったのだ。
「俺はすごく嬉しかった。雪村さんが受け入れてくれて。俺に感じてくれて……すごく嬉しかった」
ゆっくりと上体を下ろし、その涙を舐め取る。
びくっと震えた身体は、けれど逃げはしなかった。
「……んっ」
あまつさえ、零した声音の甘さに股間がどくりと震える。
「好きだよ。大好きで、欲しくて堪らなくて。だから……昨日は雪村さんを抱いた」
耳元で囁いた告白に、雪村は体を固くして身じろぎひとつしない。
だが。
「……思い出した」
しばらくしてぽつりと呟いた雪村が、ゆっくりと視線を向けてきた。
「思い出したよ──全部」
掠れた声が、小さく告白する。
「全部?」
「そう。目が覚めたら浪川くんに包まれていた。キスされていた。それだけでも嬉しかったのに、欲しいって言われて、感じてくれて、好きだとも言われた。とても幸せで──夢の中にいると思った。ずいぶんと幸せな夢だ──と」
「嫌じゃなかった?」
「……ああ、嫌じゃなかった」
その夢を──否、現実を思い出したのか、雪村がふわりと微笑んだ。
その淡い笑みに心臓が鷲掴みにされる。
「うわ……」
「何?」
「いや、なんでも」
節操のない下半身がまた元気になりそうだ。
笑ってごまかす裕樹に、雪村は首をかしげた。その仕草はいつもの正気の雪村で、少し残念に思う。
「雪村さん、それでさ……」
「本当に……私で良いのか?」
「え?」
視線が絡む。
無表情の中に見えたのは不安。
ああ、この人は。
「大丈夫、俺は雪村さんが良いんだ」
安心させるように、耳元で囁く。
「ずっと一緒にいたい。雪村さんが一番大事だから。だから、一緒にいさせて」
「だが……」
感情を押し殺している言葉なんて聞きたくない。
指で唇を押さえて、言葉を封じる。
聞きたいのはただ一つ。
「雪村さんはどうしたい?」
それだけ。
惑う瞳に安心させるように微笑んで、触れるだけのキスを何度も何度も繰り返した。
見張られた瞳が潤み、甘い吐息を零して身じろぐまで。
「は、あぁ」
切なげな吐息から離れるのを惜しみながら、身体を起こし、再度問う。
「どうしたい、雪村さんは」
眇めた瞳が、意地悪だと責める。
それでもじっと待っていると、諦めたように唇が戦慄いた。
「……浪川くんと……一緒に」
掠れた小さな声だった。
「……いたい。離れたく……ない。誰にも」
かろうじて聞こえる程度の声音。それでも、裕樹の耳にはっきりと届いた。
「浪川くんを、誰にも渡したくない」
腕が伸びて、上半身が布団から浮き上がって。
触れるだけのキスは一度きり。
それでも雪村の思いの丈が詰まったキスに、脳天まで貫くような快感が走る。
すぐに離れて行く身体を、とっさに抱きとめて。
「俺も、俺もだ……。俺も、雪村さんを誰にも離したくない」
胸に感じる濡れた感触。
震える身体がいとおしくて堪らない。
髪に何度もキスを落とし、慰めるように背をさすっていると、雪村がぽつりと呟いた。
「……ねむ……」
「えっ?」
「ね、むい……」
慌てて肩を掴んで顔を覗き込むと、すでに焦点が合っていない。
「え、え? 寝足りなかった?」
「ん、浪川くんって、気持ち良いから……」
そういえば、いつもこうやって添い寝していると、あっと言う間に寝てしまうけれど。
「ごめ、なんか……もう……」
ごしごしと目を擦るのを止めさせ、出かけたため息を飲み込んで。
「寝て良いよ、ゆっくり休んでくれれば」
健全な言葉は、雪村の耳にかろうじて届いたようだ、が。
「今度起きたら……またして良いかな?」
すっかり臨戦態勢になった自身を持て余した言葉は、幸せそうな表情の雪村には、やっぱり聞こえていないようだった。
【了】