【してあげたい】  プロローグ

【してあげたい】  プロローグ

 きっかけはたったひと言。
 無邪気なまでのひと言が告げられたのは、残業中に取った休憩での出来事だった。
 ジャパングローバル社の定時は5時。食堂の時計はすでに8時を回っており、2交代勤務者の夕食が終わった後と言うこともあって、幾つかのテーブルに社員が数人いるだけだった。
 そんな中、他のテーブルから少し離れた場所に陣取ったのは、偶然だった。
 示し合わせたのではなく、たまたま来てみたら知り合いがいたので、そこへ、という具合に揃ったのが、竹井拓也と隅埜啓輔、そして緑山敬吾だ。

 そこへ、少し遅れて帰り支度をした里山櫂がやってきて、コーヒーを飲みながら小首を傾げた。
「相手の人に、何をすれば一番悦ぶって思う?」
 途端に、その場にいた三人が三人共にびくりと硬直し、あるいは頬を引きつらせた。
 悦ぶことと言えば……と、ピンクに染まった妄想が、頭の中を駆けめぐる。
 想像だけで疼きそうになった啓輔がごくりと息を飲み、とんでもない事を言い出した友人を見やった。
 櫂が高山とつきあい始めた時に、あまりに悩んでいるから、相談相手と言うことで紹介した仲間達。そんなメンバーだからこそ、そんなセリフを吐いたのだろうか?
 啓輔と同い年なのに、もっと若く見える櫂はきょとんとした顔で小首を傾げていた。
「櫂……それって……?」
 恐る恐る問えば、櫂が不思議そうに問い返す。
「へ、何? ほら、疲れている時って何をしてあげれば良いかなって思って」
 一瞬にして走った妙な緊張感には気付いているけれど、その原因は思い当っていない。櫂にしてみれば、いつも疲れた風情の恋人を悦ばせたいと思って、何気なく言っただけのことだった。
 櫂の返答に、それぞれが誤解に気付き、ほっと息を吐いたが、頭の中に浮かんだ妄想に羞恥して、引きつった笑みを浮かべる。
「そ、そうだなあ……純哉はさ、何もしない方がいいみたいなんだよな。疲れている時は、ぼおっとしている方がいいみたいで。だから、さっさと風呂入って、寝てしまうってのも手かも」
 空笑いをしながら啓輔が言えば、敬吾もこくりと頷く。
「まあ、あの人もいい加減若作りも限界だと思うし、さっさと休ませてあげるのが良いんですよね」
 どことなく毒の入った言葉に、その場にいた全員が押し黙った。
 敬吾が先日から相手と喧嘩状態だと言うことを皆知っていた。
 最近の敬吾は喧嘩するとみんなに聞いて貰うようになっていた。慣れが入ってきたのか、それとも誰かに聞いて欲しいのか──その両方だろうと思われる。言ってしまえば、張り詰めていた気分が少しだけ和らぐ。言葉にすることで現状をゆっくり把握し直すこともできて、何をすればよいのか判るのだ。
 その敬吾の影響を受けて、他のみんなもどうしようもなくなった時にこうやって愚痴を零すようになってきた。
 だからか、つい一緒に休憩を取ってしまうのだ。
 離れ小島のようにぽつんとそこだけ人口密度が高いテーブルで、押し殺した会話が続けられる。
「もっとも……疲れていてもそういう元気は有り余っているようで……」
 けれど、言い終えると同時に零れた敬吾のため息が、そろそろその状態も限界なのだろうと知らしめる。
「穂波さん……その連絡してこないんですか?」
 啓輔が恐る恐る問えば、敬吾がふっと口の端を上げて笑って、ポケットから携帯を取り出した。
「……何と答えたら良いものか……、あの性欲魔神……」
 躊躇いもなく提示された携帯のメール画面。
 並ぶ文字列に、皆絶句する。
『その可愛いお口で慰めてくたれら許してあげる』
 そんな文章をメールで送る穂波も穂波なら、それを皆に見せてくれる敬吾も敬吾だと、啓輔は恐ろしいものでも見るように敬吾を見つめた。
 相変わらず人を引きつける魅力は衰えることを知らず、未だに見つめられると心臓が高鳴る啓輔ではあったが、最近手を出すことは絶対にできないと思っている。
 それほどまでに強い人なのだ。
「へえ?」
 何に感嘆しているのか、櫂が声を上げた。さすがに声を抑えた様子ではあったけれど。
「でも、お口で慰めてって、穂波さんって甘えん坊なんですね??」
「……」
 途端に別の意味で黙りこくった三人を、櫂は不思議そうに見比べた。
 堪らずにテーブルに突っ伏した啓輔が、気を取り直して櫂に向かう。
「櫂、何で甘えん坊なんだ?」
「えっ? だって、慰めて欲しいんでしょ? 穂波さん。緑山さんに甘えたいって事じゃないの?」
「……慰める意味が違う……」
「はあ?」
 不得要領気な櫂に、啓輔はどう教えて良いものか判らなくて口籠もった。
「何、啓輔? 俺、なんか違うこと言っている?」
 言ってるっ!
 きっぱりと言い切りたいが、それを口に出すのは躊躇われた。
 と、微かな笑みを浮かべた敬吾が、食堂の入り口を指さしながら言う。
「……里山くん、それね、高山さんに聞くと良いよ」
「え、あっ」
 入り口のドアの向こうエレベーターの前で、高山が中の様子を窺っているのが、櫂の目にも入ってきて。
「そうですね、高山さんに聞きます。それじゃあ、お先にっ!」
 折しも、金曜日。
 泊まり込むんだろうなと皆の視線が彼らの動きを追う。
「……それにしても、高山さんに聞けって……。緑山くんも言うね」
 それまで押し黙っていた竹井が、くすりと笑みを浮かべた。
「高山さんがどう取るか、見物ですけどね」
 ぱちんと携帯を閉じた敬吾も笑みを返した。その目が悪戯っぽく二人の姿が消えた場所に向けられる。
「……高山さんって……判るのかな? なんか大変そうみたいなんだよね、あの二人」
「……純情って里山くんは言うけど、本当なのかな?」
「……ああいうのに限って知識ばっかりは豊富だったりするから、判るんじゃないの?」
 三者三様の意見は、けれど、ため息と共に締めくくられた。
「いいなあ」
「仲良くて」
「ほんと」
 奇しくも意図せずに文章になった事に気付いて、互いに顔を見合わせて苦笑いを交わす。
「なんだ、隅埜君とこもなんか有ったの?」
「そういう竹井さんも、また喧嘩ですか?」
「うちはそろそろ限界かもなあ。こんなメール寄越してくるんだから」
 パタパタと携帯を開け閉めして、敬吾が先より深いため息を零す。
「これ以上放っとくと、もっと過激なメール寄越してきそうだし……。何より、滝本くんにとばっちりが行って、それが篠山さんに行って……。不機嫌な篠山さんは願い下げだからね」
 何度かそういう目を見ているのか、敬吾が遠い目をしてぼやく。
「大変ですよね、そういう繋がりがあると」
「篠山チームがトラブルと、今度はこっちにもとばっちりが来るしな。緑山くん、そろそろ仲直りしてよ」
 竹井の切実な願いに、敬吾は「そうですね」と頷いた。
「金曜日だしな。機嫌取りでも行ってこようかな」
 諦めた口調の敬吾に、喧嘩当初の勢いはもう無い。
「喧嘩はもう良いんですか?」
 啓輔が問えば、もう何度目か判らない程の深いため息が零されて。
「しばらく会えなかったことで、邪推されてさあ……まあ、いろいろとあって、それで喧嘩になったんだよね。あの人って、もう行動がエロいから……」
 言っててその時の事を思い出したのか、敬吾の頬がほおっと赤くなった。
 細められた目元まで赤くなって、少し寂しそうな笑みが、見る者を虜にする。
 啓輔どころか竹井も思わず視線を外したのは致し方ないことだった。
「そういうことで、お先に」
「ご苦労さん」
「お疲れ様」
「ん、がんばる」
 普段通りの挨拶に込められた別の意味。
 共感し合えるメンバーに通じる挨拶へ、敬吾は笑い返して去っていった。
 


 敬吾が去ってから、竹井と啓輔はぼんやりとコーヒーをすすっていた。
 そろそろ仕事に戻って、仕上げて帰りたいところだ。だが、さっきの会話が頭の中で渦を作っていて、席を立ちにくい。
 竹井にしてみても、昨夜自分の我が儘が原因の喧嘩が重くのしかかっている。自分が原因だと判っているから、余計に質が悪い。まして、敬吾のメールの内容が頭の中をぐるぐると回っていた。
 それは……。
「そのさ」
「はい」
「君んところは、どんな喧嘩な訳?」
 頭の中の妄想を振り切って、目の前の啓輔に話しかける。彼の相手は、あの家城純哉。喧嘩になったら、冷たく無視されてとりつく島もないのではないだろうか?
 そんな二人の喧嘩でどうやって仲直りするのか、と、有る意味縋るような気分だったが、啓輔は首を横に振った。
「喧嘩って言うか。その、最近、純哉が忙しくってご無沙汰で。んで、櫂じゃないけど、疲れている時に強請っちゃって……怒られちゃって……売り言葉に買い言葉っていうか……」
「あ……」
 啓輔の苦笑に竹井が意味を悟って視線を泳がせた。
 それは竹井も似たような状況だった。
 別に喧嘩までには至っていない。
 竹井が一方的に怒っても、安佐は必死になって謝っているから。
 安佐は悪くなくてもだ。だが、今回のように自分が悪いと判っていると、罪悪感がより増してしまう。
 謝らなくて良いのに。
 そんなふうに気にしなくてはならなくて、また腹が立ってきて。
「でもさあ、……したいし」
「……」
 啓輔の言葉に、ふっと違和感を感じた。
「したい?」
 思わず口の中で反芻して、首を傾げる。
 したいと言う意味は判るのだけど、その違和感の理由が判らない。
「ん……。疲れた純哉って言うのは……もう堪らなく色っぽくて、さ。その……むらむらって……」
 えへへっと軽く笑ってはいるが啓輔の瞳に浮かぶ情欲の色に気付いてしまい、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
 獲物を狩る獣のそれ。
「……負けるつもりはないし」
「そう……」
 啓輔の瞳の色を竹井は知っていた。
 安佐が自分を見る時の瞳の色と同じだ。竹井を立てて、決して無理強いはしないけれど、時にあんな目をして竹井を見つめている。
 欲しがられていることは判っているけれど。
「……でも、そんなふうに言われると余計に警戒するんじゃ無いか?」
 迫られて嬉しい。だけど、嬉しいと認めることはできない。
 なけなしのプライドが認めることを邪魔をする。
「そのさ……」
 躊躇いがちに尋ねたのは、それでも今の状況を何とかしたかったからだ。
「何?」
「隅埜君は……その……してる?」
「へ、何を?」
 悦ぶこと。
 相手が悦んでくれること。
 敬吾の穂波からのメールが気が付けば頭の中一杯に占められていた。
「その……口で……」
 掠れた声音でかろうじて問えば、逡巡した啓輔の顔が一気に赤くなった。
「そ、それは……その……」
 いつも10代の若者特有の開放的な言動を見せる啓輔も、竹井のいきなりの質問を理解した途端羞恥を見せる。その新鮮さに目を見開き、思わずくすりと笑みが浮かんだ。
「……ごめん、変な質問だったね」
 思わず謝罪の言葉が漏れる程、可愛さがあって竹井は自分でも驚いた程だ。
「あ、いや……驚いただけ。そういう竹井さんは?」
「あっ……その……」
 まさかそのまま返されるとは思っていなくて、言えるはずもない事柄に口籠もった。返されて初めて、とんでもない質問だったと、聞いた自分に呆れてしまう。
 それでも不思議と口は止まらなかった。
「そのさ、やっぱり悦ぶことって……そういうのが一番なのか?」
「……まあ、嬉しいもんだよね、あれは」
 恥ずかしそうではあったけれど、啓輔が顔を緩ませる。それに、曖昧に頷き返した。
 そう言う位だから、経験しているのだろう。
 竹井だって、その気持ちよさは知っているし、堪らなく恥ずかしいけれど、嬉しいと思うことだってある。
 ただ。
「隅埜君は抵抗ないのか?」
「え?」
「そのさ……することに」
 自分と同じ形のそれを口に銜えることに。
 絞り出した問いかけに、啓輔がごくりと息を飲んだ音すら聞こえた。俯いていたから、その表情は判らない。けれど、とんでもない質問をしてしまったと恥ずかしさが堰を切ったように溢れてきて、もう顔は上げられなかった。
「……抵抗……ないよ」
 ため息のような掠れた吐息の音に、啓輔の声が載る。
「だって、そんな時の純哉、すっげえ色っぽいもん。だからもっともっと見たいから……だから……抵抗なんか、一個もない」
 色っぽい……。
 聞かされた単語が頭の中で浮かんでは消えて、また浮かぶ。
 安佐も色っぽくなるのだろうか?
 どこかおっちょこちょいで、優柔不断で、頼りがいが無くて。
 けれど。
 そんな安佐でも、離れるのは嫌だと思うから。
「……俺、今日はもう帰ろうかな」
 特に用事がないからと先に帰って行った安佐の姿を思い出す。
「うん……俺も、なんだか帰りたくなったから……帰ろうかな……」
 互いに自分達で管理できる仕事だから、と、時計を見ながら立ち上がる。
「じゃあ、また」
「はい、お疲れ様」
 三度目の別れの言葉と共に、竹井と啓輔は、食堂を出て行った。

つづく