【どこまでも広い秋の空】 5  月の復活の章

【どこまでも広い秋の空】 5  月の復活の章


 裕太が出ていった後、しばらく優司はぼおっと湯面を眺めていた。
 ゆらゆらと揺れる先に目を伸ばせば、水滴がついた大きな壁面いっぱいの窓。外に通じるドアがあって、どうやらそこは露天風呂になっているらしい。
 優司は火照った頭を冷やしたくなって、湯船から出ると外へと出てみた。
 ヒンヤリとした秋の空気が心地よい。

 ほおっと大きく息を吐くと、ゆっくりと岩に囲まれた露天風呂に身を沈めた。
 中の温泉より熱めなのだが、外に出ている部分が冷気で冷えているのでひどく心地よく感じた。
 そのお陰でいろいろな思いが詰まって重くなった頭が、すっきりしていくのを優司は感じた。
 天には満点の星。月が出ていないのと周りに余計な光源がないせいか、はっきりと見える。
 秋の星座と冬の星座が入り交じり、いつも見ている夜空とは別物のようだ。
「どーしよっかなあ」
 ぽつりと呟いた。
 何もしゃべろうとしない秀也の姿が目に浮かぶ。
 どういう経緯でキスすることになったのか?
 ただ、その問いに秀也が答えてくれなくて、ここまでこじれてしまった。
 別に、キスしたことに怒ったわけでない。それは気分が良いものではなかったけれど、その話をするときの秀也がとても辛そうだったので、なんとなく別にいいや、と思ってしまった。
 こういう所が単純だとか言われる所以なんだろうなあ。
 秀也が優司を傷つけまいと必死に隠そうとした事だけは、なんだか判ってしまうほど、悲痛な顔。秀也がしたくてしたんじゃないことだけは、さすがに気がついた……だから、それで責めることはしたくなかった。あんな悲痛な顔をすることは今までなかったから。
 だけど、秀也は、どうしてそうなったのか、という、優司にとっては肝心なことを決して話そうとしなかった。
 それが判らない。だからむかついた。隠すことが許せない。
 キスのこともそれはそれで隠されていたけれど……それは話をしてくれたのだから。
 あの時、「話してくれたから、いいよ」って言ったとき、秀也は本当に驚いた顔で、でも呆れたように言った。
「呆れるくらい単純」
 ああ、そうだよ。
 だけどね、俺は、秀也に隠し事されたくないんだ。
 どうしてキスしたことは話をしてくれるのに、その経緯は話してくれないんだ?
 篠山さんに遠慮しているのか?
 どういう経緯でそういうことになったのかだけ、教えて欲しいって言ったのに・・・…悩み事相談の一環のようなことを言われたっけ。だけど詳しいことは教えてくれない。
 肝心のキスにいたった経緯までは……。
「まさか」
 呟きが漏れる。
「秀也からしかけたってこと?」
 一番考えたくなかったこと。
 キスしたのは許せても、キスを仕掛けた事が許せないってのは、理不尽かもしれないけど……。
 キスを仕掛けることって、相談の一環だとは思えないから。
 だけど、怒っている優司に秀也はどんどん態度がおかしくなっていった。
 怒っている内容を勘違いしているのは判ったけれど、なんだかそれを否定するのも嫌になって……それに、キスの経緯を何度も言い募ったけれど、それでも言ってくれなかった。
 極めつけに目前でキス……あれはゲームで口移しでビールを飲まされただけだけど……なんだか秀也はほっんとうに口を利かなくなってしまった。
 あれはゲームだよ。気にするなよ。
 その一言が伝えられないうちに、秀也は落ち込んでいった。何を言っても反応がない。
 うつろな瞳。
 あんな力のない秀也の視線は始めてで。
 なんだか、自分が悪いような気がする。
 ふう。
 優司は大きく息を吐いた。
 と。
『せ、誠二さん!』
 そんな声が聞こえて、慌てて硝子の向こう——屋内を見る……。
「な、何やってんだ……」
 思わず呟く。
 水滴のついた硝子の向こうで、影のように白い肌が浮かんでいる。人が二人いるのは見えて……。
 さっきの声には聞き覚えがあった。
 いや、間違いない。その声が誠二兄さんの名を呼んだのははっきりとわかったから。
「こ、んなとこで……」
 優司の目に、湯船の縁に腰掛けているのは真だと認識できた。叫んだ声はまごう事なき真の声で。
 その股間に頭を埋めているのは……顔は見えないが、彼を相手にしているのなら、誠二に違いなく……。
『くうっ……・やめっ……』
 時々響く声に優司は全身の体温が上昇するのを感じた。聞いていることに恥ずかしさがこみ上げる。
 に、兄さんってば……
 出るに出られなくなった優司は、誠二達の視界から外れるようにそろそろと移動した。露天風呂の周囲に置かれた大きな岩の陰に身を寄せた優司は、決して湯のせいだけではない身体の火照りにため息をついた。
 心臓がどくどくと音を立てて、血流が頭痛にも似た響きを頭の中に与える。目は閉じていても、声だけは聞こえ……。
 あまりにも鮮明に聞こえるその声に、優司はそろそろとそちらを窺う。
 げっ、ドア開いている。
 さっき優司が出てきたときに閉め損ねていたのか、屋内と外を隔てるドアが5cmばかり開いている。その隙間から声は漏れ出ていた。
 どうして、人がいるとは思わないんだ?
 頭を抱えながら、ずるずると湯の中に沈む。
『いいなあ、その顔。ね、もっと声、聞かせなって』
『い、意地悪っ!』
 誠二兄さん……って、底意地悪い……。
 泣きたくなるような言葉が次から次へと聞こえてきた。
『いつも苛められてるから、ちょっと位いいだろ。どうせ今日も俺の事苛めるんだから』
『んあっ』
 苛められるって……何を?
 優司はそのシーンを想像してしまい、ぞくりと背筋に痺れが走った。
 まずっ。
 意志に反して起立しようとする自分のモノに優司は狼狽える。
 やばいって、こんなところで……。
 慌てる優司を後目に真の喘ぎ声は、確実に優司の元に届く。我慢していたはずのその声が、だんだん大きくなり、耳を塞いでも入ってきた。
「い、やぁ……くぅ……・うう」
 私も、嫌だ。さっさと止めてくれっ!
「あ、も、もう……・せ、い・・・・・やぁっ!」
 一際高い声。
 最後の瞬間を迎えたのは、優司にも明らかで……。
 優司は岩肌に背を預け、ほおっと大きく息を吐いた。心臓がばくばくと音を立てている。所在なげに中途半端に大きくなっている自分のモノを情けない思いで見つめた。
 なんてことだ……
 まさかこんなところで煽られるとは思わなかった。
 優司は大きく深呼吸して、気持ちを落ち着けた。
 こんなところで処理するわけにはいかない。その思いだけが、今の優司の支えだった。
 それにしても……。
 優司の口からため息が漏れる。
 あそこまで誠二兄さんが大胆だとは思わなかった。そういう関係だとは知っていたけれど、なんだかおとなしそうな矢崎さんと兄さんがしている所って想像がつかなくて……。
 そんな事を考えていると、また欲情しそうになり、優司は慌てて頭からその考えを振り払った。
「もう出たい……」
 火照った体で息まで熱くなっているようで、身体をさますように大きく息を吸う。
 ちらりと中を見ると、脱衣所の方へ二人が出ていくところだった。
 優司がここにいたことを誠二達に知られるわけにはいかなかった。
 知られたら、出刃亀しているのがばれてしまう。その後の誠二兄さんの報復も恐ろしいが、見られた事実を知ってしまう矢崎さんがあまりにもかわいそう。
 二人が脱衣所から出て行くであろう時間を計算して、優司はずっと露天風呂から様子を窺う。上半身を湯から出していたとは言え、全身茹で蛸状態だった。
 冗談ではなく、身体が限界だった。
 頭がくらくらしている。
のぼせたのかも知れない。
「も、限界……」
 這うようにして脱衣所に向かうと、服を身につけた。
 身体がだるく、何も考える気が起きない。
「部屋、戻ってみようかな……」
 いたたまれなくなって出てきた部屋であるが、今はそのベッドに倒れたい。そして……秀也に逢いたい……。
 優司はとぼとぼと部屋へと戻っていった。


秀也と二人で泊まる部屋のドアの前に立ち、チェックインの時に人数分渡されたカードキーを探した。複数枚渡されるお陰で、同室のものが別行動しても、締め出しを食らうことはない。
「えーと、どこだっけ?」
 入れた場所が思い出せなくていろいろと探っていると、ふっと影がさした。
 顔を上げると秀也が割り込むようにカードキーをロックに刺そうとするところだった。
「あれ?秀也、出かけていたのか?」
 温泉でとんでもないシーンを目撃してすっかり頭の中が飛んでしまっていた優司は、何気なく問いかけた。
 その問いに話しかけられると思っていなかったのか、秀也の目が見開かれて優司を見る。しばらく固まってしまった秀也を、優司が何も言わずに窺っていると、秀也が微かに息を吐いた。
 温泉に行く前は悲痛に満ちていたその顔が和やかになっている。
「温泉……良かったか?」
 ドアを開けながら、秀也が優司から視線を話さずに話しかけてきた。
 それが嬉しくて、優司は頷いた。
「ちょっとね。のぼせた……」
 その言葉に秀也がくすりと笑みをこぼす。
 もしかして、立ち直った?
 その優司の頬に秀也はそっと手を伸ばした。
「暖かいな。すごく暖まっている」
 触られた手が冷たくて気持ちよい。
「暖めてあげようか?」
 思わず出てしまった言葉に、言った本人が赤くなった。
 私、もしかしてさっきのに煽られたまま!
 と、秀也が口に手を当てて狼狽えている。しかも見る間にその顔がピンクに染まった。
 あ、可愛い。
 滅多に見られない秀也に優司の顔が緩む。ふと、温泉のシーンが脳裏に浮かんだ。その顔が自分と秀也に変わっている。
 まずっ!
 血が沸騰するかのような熱い感覚に襲われ、優司は立っているのが苦痛な程息が苦しくなった。大きく喘ぐような息が漏れる。
 どうしよっ!
 し、秀也ってば、何かフォローしてくれって!
 どうしようもなく優司が俯いて突っ立っていると、ふっと秀也が口の端を上げた。それに優司は気づかなかったが、その後に続いた揶揄するような言葉が耳に入った。
「何か、温泉であったのかい?」
 それはいつもの秀也で、途端、張りつめていた緊張が崩れて優司はずるずると床に崩れ落ちた。
「お、おいっ!」
 慌てた秀也が優司の傍らに屈み込む。
「どうしたんだ、一体?」
 どうしたって言われても……。
 優司は力無く笑う。
 とんでもないモノ見たんだって……こんなもの、どうやって説明すればいい?
 すでに、秀也が落ち込んでいたことなど記憶からぶっ飛んでいる優司だった。
「本当に温泉で何かあったのか?」
 心配そうな秀也に優司は曖昧な笑みを返した。
 あったっ!
 あったけど……。
「優司?」
 へらへらと笑う優司の額に秀也が掌を当てた。
「冷たくて気持ちいい……」
「のぼせたのか?ちょっと熱いみたいだし、ベッドで横になっていろよ」
「ああ……」
 優司が立ち上がるのに貸してくれた秀也の手が気持ちよくて、優司はぎゅっと握り締めた。
 秀也は一瞬驚いたような表情を見せたが、一転して柔らかく微笑むと優司をベッドへと導いた。
 ベッドの上にあぐらをかいて座り込む優司に秀也が話しかける。
 握った手を離したくなくて、そのままにしていたが秀也はそれを離そうとせず、ベッドの横に立ったまま優司に話しかける。
「いまは良いけど、落ち着いたら何があったか聞かせてくれよ」
「ああ、そうだな……」
 何気ない会話が嬉しい。
 だが優司は、ふと秀也の目が赤いことに気が付いた。
「秀也、泣いたんだ?」
「……」
 つながっている手から秀也の衝動が伝わる。黙る秀也に優司は言葉を継いだ。
「どうして、泣いたんだ?」
 未だ名残の残る潤んだ瞳が優司を見つめる。しばらく無言だった秀也がふっと息を吐くと、口を開いた。
「優司に嫌われるかも知れないって思ったから、かな」
 小さな声で告げられたその言葉に優司は大きく頭を横に振る。
「ばっかじゃないっ!そんなことある訳ない。そりゃ、質問に答えてくれないから怒っていたけど、だからといって、私は秀也を嫌ったりしない」
 きっぱりと言う。
「どうして?」
 言った途端泣きそうなのを堪えるかのように、秀也が唇を噛み締めた。
「どうして、って、私は秀也が好きだよ。そんなのどうしてって聞かれても判らない。私が秀也を好きなのは、理由なんかつけられない。秀也じゃなきゃ駄目なんだ」
 言いながら、握っていた手を口元に持っていく。
「お願いだから……。私が嫌うなんて思わないでくれよ。それに秀也は、私の本心なんてお見通しの筈だろう……」
「使っていない……」
 ぽつりと呟く秀也に、えっと優司が問い返す。
「俺、今回は力使っていない」
「どうしてっ!」
 秀也に詰め寄る。握ったままの手を引き寄せる。
 だからか。だから、あんなに秀也が弱っていったのか!
 いつも感じてくれていた私の心を遮断したから。私の心が伝わらないから……伝わっていると信じていた。だから、話してくれない秀也に責めるだけ責めて……肝心なときに、何も言わなくても分かるって信じていた。
「どうしてだっ?」
 優司の叫びに秀也は、ぽつりと呟いた。
「怖かった……」
「怖い?」
「怒っている優司の心を知ることが怖かった……」
 伏せられた目が、優司を見る。
「だってさ、こっちが悪いことしただろ。だから、責められて、そしたら何だか視るのが怖かった」
 怖い……。
 私に嫌われたかも知れないと思い、視なかった。
「ばーか!」
 優司が吐息ともに言葉を吐き出す。
「いっつも自然にしていることをそうやって止めるから厄介なことになるんじゃないか」
 呆れたように言う優司の言葉に、秀也は苦笑いを浮かべた。
「そうだな。俺達って、足りない言葉を力で補っていたみたいだな」
「だろっ。だったら遠慮することなく、どうぞ」
 にこにこして促す優司に、秀也は吹き出した。そのまま声を上げて笑う。
「お、お前っ。普通、心なんか読まれるのっ、どうぞ、なんていう奴、いないって!」
笑いのつぼにはまってしまったのか、ひたすら大笑いする秀也に優司はむっとした。
「いいじゃん」
「まっ、それが優司なんだよな」
 ひいひい言いながら何とか笑いを納めようとする秀也が、目尻の涙を指でふき取った。
「そんな泣くほど笑わなくたって……」
 ふてくされる優司が面白かったのか、収まりかけていた笑いが再燃する秀也。
「だって……」
「も、いいっ!」
 笑い続ける秀也に、優司は怒りをぶつけた。
「あっ、ごめんって……」
 慌てて機嫌を取る秀也が今度は優司の方が面白くなって吹き出しそうになるのを堪える。
 しかし、喉元から漏れる音に秀也が気づく。
「あ、お前!」
「なんだよー。笑われて怒ってるのは確かなんだからな」
「だから、ごめん」
「本気で謝ってる?」
「本気」
 まじめな顔にようやく戻った秀也がはっきりと頷く。
「ほんとに?」
「くどいな、お前は」
 呆れたように言う秀也に、優司はにっこりと笑いかけた。
「わかったって」
「でも、思いっきり笑ったら気分がすっきりした。俺って何悩んでいたんだろって思うよ」
 しみじみと秀也が言うのを聞いて、ふと優司は首を傾げた。
 何がきっかけで笑われたんだっけ?
 思い出そうとして思い出せないジレンマに襲われる。
 あれ?どして?
「何の話から笑うことになったんだっけ?」
「!」
 思わず口に付いて出てしまった言葉に秀也は一瞬息を飲み、そして再び大爆笑の渦に巻き込まれた。

 笑われた理由を一瞬の後に思い出していた優司は笑いすぎてお腹が痛いと唸っている秀也を軽く蹴飛ばすと、ベッドから降りて冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出した。
 こういう所のは高いと判っているが、とにかく喉が乾いていた。
 温泉にのぼせて倒れる寸前まで入っていたせいだろう。
 そのまま口をつけてごくりと数回飲んだ。冷たさが身体に染みる。
「落ち着いた?」
 ベッドサイドに近寄り、ベッドに凭れるように蹲っている秀也を覗き込む。その声に秀也はひきつった顔を上げた。
「なんとか……」
「笑いすぎだ、ばか」
 持っていた半分ほど残っているミネラルウォーターの容器を差し出すと、秀也はそれを受け取って、ごくごくと一気に飲み干した。
「あー、生き返るっ!」
 のろのろと立ち上がると、ベッドの上にごろんと横になった。
「だいたいそんなに笑うこと、ないじゃないか」
「だ、だって……」
 いいかけて、また笑いがこみ上げてきたのか、顔をベッドに埋める秀也。肩が揺れている。
「笑うなっ!」
「だって、さ、一応まじめな話していたんだよ。喧嘩してたから……なのに何の話していたっけ……はないだろ……くくっ」
 止まない肩の震えに、優司はむっとしながら秀也の頭をはたく。
「いいじゃないか。便利でいいだろ、簡単に忘れてしまう相手は……」
 言っていてちょっと情けなくは思ったが、自分がこうであるから秀也とつきあえるんだという自覚はあった。
「もー、いい加減笑うの止めなって」
「ごめん」
 それでもかろうじて秀也は笑いを飲みこむ。
「なんか、これだけ笑うとすっきりするな。頭の中にあったもやもやとしたものとか、悩みとかって全部吹っ飛んだよ」
「そりゃ、良かった」
 笑われた内容が内容だけに今ひとつ賛同できないが、秀也がとりあえず元気になったので良しとすることにしよう。
 優司は一息つくと、秀也の横に腰掛けた。
 ほんの一時間前までの深刻な状態が嘘みたいだった。
「そういえば、温泉から帰ってきた優司、様子が変だったろ。後で話すっていう約束だよ」
「ん、ああ……」
 あれ、ねえ……。
 思い出して、途端に赤面する。
「何?そんな赤くなるようなことでもあった?」
 揶揄する秀也に優司はためらいがちに温泉での出来事を教えた。
「……」
 しばらく秀也は絶句していたが、ほおっと一息つく。
「お前んとこの兄さん達って、すっごいな……」
 凄いと言われて、優司も苦笑するしかない。
 智史兄さんはともかく……何がともかくだって本人が聞いたら苛められそうだが……誠二兄さんは意地が悪いだけかと思ったら、意外に大胆。しかも……。
「はあ」
 ため息しか漏れない。
「でも、それでかあ。さっきから優司から伝わる悶々とした雰囲気は……煽られて帰ってきたからか」
 ぎくり
 ひきつった顔で秀也を横目で見る。
「判った?」
「だって、優司が心おきなく視ていいって言ったから……」
 にっこりと微笑まれて、羞恥で耳まで真っ赤になる。
「で、優司としてはどうして欲しい?」
 んなもん……。
 上目遣いに秀也を睨み、ぶつぶつと呟く。
「意地悪……」
「えー。俺聞いているだけなんだけど?」
 あのまま落ち込ませとけば良かった。
「秀也って外面はいいけど、私相手だと言いたい放題だよな。外で良い子ぶっている分、私で発散しているんじゃないか?」
「お互い様だろ。優司だって外面は素直でさ、どっちかというと一歩下がってるって感じなのに、俺には言いたい放題、我が儘いっぱいじゃないか。しかも、ちゃんとそれに相手してやっているだろ」
 言えば言い返され、しかもそれに反論できない。
 優司は、むすっと秀也を見返した。
「じゃあさ」
「何?」
「どうして篠山さんとキスするはめになったか教えてくれたら、しよう」
 ぴくりと秀也の頬が引きつった。
 もともとの発端は、それを秀也が言わなかったから。
 どうしてかは判らない。
 だけど、教えて欲しいと言って教えて貰えなかったことはなかったから、余計に腹がたったのも事実で。
「また、教えてくれないのか?」
「どうしても聞きたい?」
 今度は秀也も逃げるだけではなさそうだ。
 優司はほっとした。
「ああ、聞きたい」
 秀也はふうっとため息をつくと、ぽつぽつと話し始めた。
「相談内容ってできれば人には話したくないんだ。だから、優司も他の人には絶対話さないでくれよ」
「それが話さなかった原因?」
「それもあるけど……」
 歯切れの悪い秀也だったが、優司は先を促した。
「葬式の時の帰りの車の中で、相談を受けたって話はしただろう?そこでキスしたことも」
「ああ、それは聞いた」
「その相談内容ってのが、結局、恵君が篠山さんとキスしたがらないっていうことだったんだ」
 恵が?
「何で?」
 優司は、思わず聞いてしまう。
「確か前日、智史さんの前でキスさせられた時に、篠山さんのキスは感じるんだって恵君が言っていただろう?たぶん恵君も敏感なんだけど、篠山さんも確かに巧みなんじゃないかって結論を出した。だから、もっと軽いキスをしたらいいんじゃないかって……」
「軽いキス?」
「そう、そしたらさ、篠山さんが自分のキスがほんとにそうなのか、確かめてくれって……」
「何でそこまで判っているのに拒絶しないのさ?」
「できなかった」
 きっぱりと言われ、優司の方がとまどう。
「優司に理由を言わなかった原因のもう一つがそれに由来しているんだ」
「へ?」
「優司にははっきりと言っていなかったんだけど……俺、たまに他人の感情に引きずられることがあるんだ」
「は、あ?」
 何だそれは?
 聞いたことない……いや、何かそんなこと言っていたような記憶が……
「えーと、映画館なんかで周りが泣いちゃうと、引きずられて感動していなくても泣いてしまうって言っていた、あれ?」
 って、そういうのって普通の人でもあるんじゃないのか?
「そ。車のような密室空間で二人っきりで、しかも近い場所にいて、相談を受けているから力が開放されている状態だとてきめんなんだ。篠山さんのキスしようって感情に引きずられた。しなきゃいけないって思ってしまった。しかもつられたついでに俺も、キスしてって言ってしまった」
 その時のことを思い出したのかうっすらと頬を染める秀也。
「えーと……それって不可抗力っていうことで……いいんじゃない」
 優司には理解できないところがあった。
 自分にない力。秀也の力を理解することは難しいとは思っている。だから、普段は考えない。だけど、こういう事実を目の当たりにすると、きちんと理解していなきゃ秀也をまた落ち込ませることになるんじゃないか。
 優司は眉をしかめた。
 それは、難しい。とてつもなく難しい。
 だけど、理解する必要はあるけれど、理解しなくても受け入れることは出来ると思う。
 そうしなければいけないのだから、できることからすればいい。
 しっぽのない人間にしっぽが動かせないのと同じで、だったら違うことを考えればいい。犬のしっぽがもたらす感情表現は、人間は言葉でできるように。
「秀也がしたくてしたんじゃないなら、いいじゃない。まあ、今度からは気をつけてよって言いたいけどね」
 優司の言葉に秀也の顔が綻んだ。
「気をつけるよ。複数の相手だと、こう簡単には引きずられないから、ね」
 秀也が言うのだから、そうなのだろう。
 だからもういい。
 篠山さんには会社でたっぷりとお礼をしよう。まだ、片づいていない案件があったはずだ。
 優司はくすりと思いだし笑いをすると、話題を転換するよう秀也にし向けた。
「それで、篠山さんのキスって、恵がいうように巧いのか?」
 これは純粋な好奇心。
「ん、まあ……。たぶん俺が経験した中では一番巧いっていうか、自然に巧い」
「何、それ?」
「本人はあんまり経験がないんだけど、唇とか舌とか、そういうもって生まれたモノがキスに合っているっていうか……」
「そんなものなの?」
「たぶん、そう思ったんだけど」
 にしても、秀也の経験ってそんなに多いのかな?
 そっちの方が気になる。
 じっと秀也を窺っていたら、秀也が苦笑した。
「また、なんか気になることができた?」
 隠しようもないので、優司は素直に頷く。
「秀也ってキスの経験どのくらいあるんだ?」
「ばっ!何聞くんだ!」
 てきめんに狼狽える秀也が面白くて、答えをせっつく。
「ねえって、何人くらい?それって女の人、男の人?」
 聞いてどうってことはないのだが、ついつい苛めるようにせっつく。
「何だよ、気になるのか?」
「単純に好奇心。どうせ秀也はホストやっていたから、女の人が多いんだろ。男の人は?雅人さんがいるよね」
「男は、雅人と篠山さんとお前だけだよ。確かに女性は多いけど……」
「へー」
「でもな、本気でキスしたのは、優司と雅人だけだから!それに今は雅人とするつもりないし!」
 焦って言葉足す秀也が面白くて、優司はとうとう笑い出した。
「焦ってるぅ……こんな姿、みんなに見せてあげたいな」
「お、まえ、からかったな」
「からかったわけじゃないけど、なんだか照れている秀也って可愛いって思った」
「ばか、何が可愛いだ」
「ほら、秀也だって可愛いって言われたら怒るだろ。秀也はすぐ私に可愛いっていうのに」
「優司はほんと可愛いって思っているからいいの」
「ひどっ!」
 優司はむっとした。
 どうして、私は良くて、秀也に言ったら怒るんだ。
 それって理不尽じゃないか。
「怒るなって」
 だが、本気でない怒りはすぐに秀也に見破られる。笑いを堪えた口調でたしなめられると、反論する気もなくなる。
「わかったよ」
 自嘲気味の笑みを浮かべた優司は、ふっと思いついたことを秀也に伝える。
「なあ、篠山さんとのキスのいきさつ、もう聞いちゃったよなあ」
「ああ……あっ、そうか」
 秀也も思い出す。
 口の端を上げて、優司の首筋に手を這わしてきた。ぞくりとする感触に優司は肩を竦める。
「いきさつを話したらしようっていう約束だったな」
 顔を近づけ、耳元で囁くように言うその言葉が、下半身にダイレクトに伝わる。
「んんっ」
 思わず漏れ出る言葉を合図に秀也はそっと優司をベッドの上に押し倒した。
「優司……心配かけてごめんな」
 秀也の言葉に優司は目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「怒っていなかったって分かった?」
「そうみたいだな」
 愛おしげな視線が優司の視線に絡む。
 怒ったときもあった。だけど、あんな秀也はもう、見たくない。この思いが伝えられるなら、秀也に力を使われることなんか怖くない。言葉の足りない私が、やっとこれで言葉を伝えることができるのだから。
「秀也、もう遠慮なんかしないでよ」
「ああ、分かってる」
 秀也の指が優司の喉のラインをなぞり、顎へと移動する。
「あ、でも、今日はあんまりやりすぎないでくれると助かる」
 いざ、という段になって言われた優司の言葉に、秀也は顔をしかめた。
「何で?」
 思わずきつい口調になる秀也に、優司は苦笑いしながら言った。
「秀也は聞いていなかったみたいだけど、明日の朝食って、さっきの宴会場の場所でみんなで食べるんだ。時間も決まっているし、疲れて動けなくてそこまでいけないっての、結構恥ずかしくないか?私は嫌だからな」
 優司の言葉に秀也は納得したかのように頷いた。
「分かった、手加減するよ。しょうがないよな、せっかくのホテルだけど、みんなで来ているんだし……」
 自嘲気味の秀也に優司は笑いかける。
「また旅行しよ。今度は二人だけで……。もっと近いところでもいいし。駅前のホテルに秀也が泊まったときに私が行ってもいいし……て、それはまずいか。会社の人にみられそうだし……。じゃ、こんど出張先がおんなじような所だったら、一緒に泊まろうよ」
 優司の珍しい提案に秀也はその頭を優司の首筋に埋めながら呟いた。
「お前と一緒なら、どんなところだって楽しいよ」
 その囁きは、甘い痺れとなって優司の全身を駆けめぐった。
 優司はゆったりとその中に身を置く。
 自分がどれだけゆったりとしているか判る。
 私には秀也が必要なのだから。人とつき合うのが苦手な自分にとって、秀也だけは心からゆっくりと付き合うことができる相手。だけど、一人で過ごすにはあまりにも寂しがりで……だから、側にいてくれて、構ってくれればそれでいい。今日みたいに何も言ってくれなくなるのは2度と嫌だから。
 秀也が顔を上げて、優司を覗き込む。お互いの視線が絡み合った。
「ありがとう……」
 秀也が呟く。抱きしめられていた腕に力がこもった。
「ずっと側にいたい。俺も優司がいないと駄目なんだ。優司の側だけ、リラックスできる。他の誰でも駄目なんだ。自分の力があることで、誰にもなじめなかった。それを気にしないで入れるのは優司だけだ」
 切なげに囁く秀也の声が優司の胸を締め付ける。
「いつだって、来ていい。私は秀也のものだから。これから先、いろんな事があるかも知れないけど……私は結構短気だから、怒ることもしょっちゅうだけど。だからといって今回みたいに怖がらないで。でないとまたおかしくなるのは嫌だから」
 優司の思いがダイレクトに秀也に伝わる。
 もう……決して隠し事なんてしないでね。
 秀也は優司をきつくきつく抱きしめた。
 手の中の優司が離れていってしまうのが怖くて怖くて堪らなかった。そんな思い二度としたくない。ずうっと生きてきて、初めて自分をさらけ出すことができる優司に出会えたのに、自らのミスで手放すことはしたくなかった。
 秀也は優司の目をじっと見つめたまま、深く口付けた。
 熱い思いが伝わるように……と。
 
続く