【真実の心】

【真実の心】

 その日、明石雅人は暇をもてあましていた。
 勤務日の変更をいきなり言われ、代わりの休みを先行して貰ったのはいいが、恋人の増山浩二は一向に連絡が取れなかった。
 医者である浩二は、携帯の電源をOFFにすることはない。電波が届かない訳ではなさそうな留守番電話サービスの音声に、雅人はため息をついて電話を切った。
「予定は・・・・・・なかったと思ったんだけど」
 頭の中で浩二のスケジュールを確認してみる。

 マスターがうっかりしていたため、変更を聞かされたのが店じまい間際。家についたらメールでも送ろうと思っている内に疲れからそのまま寝込んでしまっていた。
メール打ってたら今頃は・・・・・・。
ソファに転がったまま、雅人はつながらない携帯を見ていた。
 何か、緊急事態で病院にでも行ったのだろうか?
 浩二は優秀な整形外科医で、若くして整形外科の部長の地位にある。普通は他の整形外科医がトラブルに対応するのだが、まれに浩二でないと駄目なことがある。
 せっかく遊びに行けると思ったのに・・・・・・。
 あーあ。
 最近、休みがあわないことが多い。
 やっぱり夜がメインの仕事と昼間がメインの仕事ってのは、上手く逢えないよなあ・・・・・・。
 雅人が本格的に今のホストとしての職業についてから、めっきり友達と遊ぶ事が減った。
 ホストが嫌だとは思ったことはなかったけれど、親しい友人が離れていくのは結構つらかった。
 浩二も、離れていってしまうのだろうか・・・・・・こんな風に逢えない内に・・・・・・。
 とんでもないことを考えていることに気づき、唇を噛み締める。
「浩二は・・・・・・俺から離れるもんか!」
 自分に言い聞かせるように言葉に出す。
 そうすると一時的にでも塞いだ気分が高揚する。
「浩二は俺のこと、好きなんだから。絶対離れるもんか」
 ぱっと跳ね起きる。
 ソファに座り直し、改めて携帯を見つめた。
 メール、送ろうかな・・・・・・。
 新規作成を選び、キーを打つ。
——今日、休み。逢えるか?雅人
 簡単な文章。それでも思いは込めている。
 雅人は浩二がすぐに見てくれることを祈って、送信を押した。

 返事は5分ほどして来た。
 聞き慣れた浩二専用の着信音に雅人の顔が綻ぶ。
 だが、開いたメッセージは雅人を落胆させた。
『ごめんなさい。先約があります。浩二』
 やっぱり。
 雅人はため息をついた。
 いきなり休み貰ってもそうそう都合は合わないよなあ。しかも、次の休みの前倒しだから、また今度も逢えないだろうに・・・・・・。
 しょうがない。
 一人でどっか本屋でも行って来ようか。
 本当は、浩二と一緒に行きたかった。ただぶらぶらといろんな所を歩くだけで楽しいかった。
 二人でする買い物も、意外な趣味が分かって面白かったり・・・・・・。
 その後どちらかの部屋で過ごす時間もたまらない。
落ち着いている時の浩二の瞳は静かな夜の海のようで・・・・・・・その瞳で見つめられると雅人はそれだけで、浩二に寄りかかってしまう。
 もう、このまま何されたって構わない、とすら思える位・・・・・・・。
 浩二・・・・・・っ!
 ほけっとその時の浩二を思い描いていた雅人は、急に自身が欲情していくのを感じて慌てて意識を現実に戻した。
 まずい。
 苦笑いを浮かべる。
 欲求不満が溜まっているなあ・・・・・・。
 今日は夜だけでも来てくれないかな。用事って一日なのかな。メールでは来れそうな感じではなかったけど。来てくれたら、それだけでもうれしいのに・・・…。
 ぼおっと窓から外を見る。
 浩二とつき合う前って、俺何していたんだろう?
 たかだか3ヶ月ほどしか立っていないのに、浩二がいない生活が考えられなかった。
 仕方がないよな。
 雅人は割り切ることにした。うじうじ悩んでいてもしようがないことだった。
 何か面白そうな本でも買ってこ!


 2駅ほど先にある書店にいくことにして、ぶらぶらと駅の方に歩いていった。
 この辺りは、住宅街でマンションも林立している。その中でもひときわ立派なマンションが見えてきた。
 まぶしげに雅人はマンションを見上げた。
 ここでこうやって今と同じように浩二と見上げたのはいつだったっけ?
 グリーンパレス・千代田。
 5階建ての煉瓦風の壁。採光をふんだんに取り入れるための空間に、豊かな緑が見える。ゆったりとした中庭に、十分な駐車場。
管理人が常時いて、セキュリティ対策も完璧、しかも一部屋毎が広くしっかりとした造りだと聞いたことがあった。
こんなマンションに住んでみたい。
雅人の言葉に、そうですね と浩二は返した。
関心のなさそう声だったけど。
 でもな、広々とした部屋で防音対策もされていたら、今みたいなセミダブルじゃなくて、もっと大きなベッド入れて、近所に気兼ねなく・・・・…。
 あ、れ・・・・…。
 にたにた笑いながら妄想に走ろうとしていた雅人の脳は、視野に入った人影で現実に引き戻された。
 あれ・・・・…浩二?
 見上げた先、4階の角のベランダにいる人が、浩二に似ていると感じた。
 雅人は目を凝らしてよく見てみる。と、明らかに浩二だと判別できた。
 しかも、一人ではなく隣にいる男性に親しげに話をしている。
 雅人はつい死角になりそうな木陰に隠れた。
 やっぱり浩二だよな、あれ・・・…何しているんだろ?
 この前話したときには、ここに知り合いがいるようなこと言っていなかったと思うし・・…。別に関係ないと思って言わなかったのかもしれないけど・・・…。
 そうだ!
 雅人は、携帯を取り出してメモリから浩二の携帯へとメールを入れる。
『何してる?』
 はやる気持ちを抑えて、簡単なメッセージを送った。
 と、聞き慣れた浩二の携帯の着信音が頭上から振ってきた。
 雅人が見上げると、浩二が携帯を操作していた。
 やっぱり浩二だ。
 だが、鳴り続ける着信音が途絶えると、浩二は携帯をしまったようだった。
 幾ら待っていても、メールの返信はなかった。
 何で?
 雅人は再度メッセージを送る。
今度は幾ら待っても、マナーモードにしているのか着信音が鳴らなかった。
雅人は、携帯を握りしめたままじっと様子を伺った。
 メールの返信が出来ないほど、大事な相手?
 よく見ると、目が慣れてきたのか遠目でもはっきりと見える。
相手は暗い色の地味なスーツ姿。二人並んでいると浩二よりやや高いように思えた。
 浩二と年が離れているように思えなかった。
やっぱり友達なのだろうか?
 その内、相手の男の方が浩二の肩に手をかけた。
 顔を寄せて何か話をしているようで、二人とも楽しそうなのが見て取れる。 
 雅人は二人の一挙一動をも見逃さないように、一心に二人を見つめていた。
雅人には、二人がただの友達じゃないと思えだした。
 あの浩二が、あんな風に人と近づくなんて、俺、見たことない。俺とだって、普段はあんなにべたべたしない。
 その分ベッドの中では優しい——時もあるけど・・・・…。
 っくしょう!
 相手の男がよく見えない。それが余計雅人の苛々を募った。
 何やってんだよ!そんなところで、そんなところで楽しそうに。
 おしかけてやろうか!
 本気でそう思った。
 だが、意外に冷静な心の片隅がそれを否定する。
 あ、駄目だ。 
 ここがセキュリティが万全なことを思い出した。
 中の住人が鍵を解除してくれない限り、外から来た客は中に入れないシステムだ。
 うう。
 一人で唸っていると、ふっと男の方と視線が合ったような気がした。
 男の方が何気なく下を向いた感じだったが、雅人は身動きできずにお互い視線を絡ませた。
 見た目には何をしているのか怪しい状態なのだが、二人はただお互いを睨み合った。ただ、浩二だけが一心に反対の方を見ていて、気がつかない。
 こんなに睨まれるってことは、こっちに気がついているんだよなあ・・・・・・。
 まさか俺が誰だか知っているって訳もないだろうに・・・・・・・。
 俺、何やってんだろ・・・・…そう思いはした。
 だけど視線が外せなかった。
 と、視線はそのままでその男が、浩二の体を引き寄せた。
 え?
 呆然としている雅人の視線の先で男は浩二の頬にキスした。
 嘘だろー! 
 男が再びこちらを見た。
 その顔が遠いにも関わらず、楽しそうに見えた。
 嫌だ!
雅人は視線を逸らすと慌てて来た道を走っていった。
 浩二が全くその手を払いのけなかったのだけは判ったから・・・…。
 
 マンションの自室にたどり着くと、乱暴にドアを閉めそのまま玄関先で座り込んでしまった。
 何で!
 俺とは逢えなくて、携帯に返信出来ないほど大切な奴だって!
で、キスされてもあの浩二が払いのけもしないほど親しい奴!
 しかも、あいつ絶対俺見てわざとやってた。
 みせつけるために、わざと!
 膝の間で頭を抱える。
「どうして・・・…」
 胸が苦しい・・・…。
 俺浩二が他の奴と親しいなんて嫌だ。
 俺だけのものであって欲しい。
 あんな笑顔、俺だって滅多にみれないのに、他人になんか見せて欲しくない。
 どうして・・・・…。
 涙が目からあふれ出す。
 足下にあったスリッパの上にぼたぼたと落ちる涙。
 スリッパの色が変わっていく。
 嫌だ!
 俺が他の奴のものになるなんて嫌だ。
 あんな場面見て、こんなに苦しくなるのに・・・…。
 浩二は、俺なんてどうでもいいんだろうか?
 滅多に逢えない相手より、いつも逢える相手を選んだんだろうか・・・・・・。
 あんなに嫉妬に駆られていっつも俺に怒るのに、だけど、もうどうしようもないって、呆れられていたんだろうか?
 いっつも何も言わないから、いつも甘やかせてくれるから、ついつい羽目を外して結局怒られてしまうんだけど——怒られるととっても怖いけど——だけど、こんなに胸が痛くなるほど大好きなのに・・・…。胸が痛くなるのは大好きな証拠だって教えてくれたのは浩二じゃないか。
 俺、どうしたらいいんだろう。
 ねえ、誰か教えてよ・・・…。
 胸が苦しい。
 雅人は嗚咽を漏らしながら、涙をぼたぼたとこぼし続けた。
 体中の水分がすべて涙で出てしまうかと思える程、泣き続けた。

 気がついたら、ベッドで寝っ転がっていた。
 いつベッドに入ったか記憶がない。
 目が腫れぼったくて、雅人は洗面所で顔を洗った。長くなった髪がまとわりついて洗いにくい。それを掻き上げながら、タオルで顔を拭いてやっと辺りが暗いのに気がついた。
 時計が6時を指している。
 ・・・・・・俺、いつの間に寝たんだ?
 ソファに崩れ込み、体を投げ出す。
 泣いて、泣いて・・・・・・とてつもなく苦しくて、起きているのがつらくて・・・・・・ああ、そうだ・・・・・・・それでベッドに入ったんだ。
 胸が苦しい・・・・・・。
 日が完全に落ち、部屋が闇に包まれた。しかし、雅人は電気をつけるのも億劫だった。
 そういえば、昼から何も食べてなかった・・・・・。
 夕飯食べないと・・・・・・何か材料あったっけ・・・・・。
 うつろな視線をキッチンに向ける。
 体は空腹を訴えていた。しかし、気力がついていかない。
 どうしよう、このまま寝てしまおうか。
 でもまあ、何か食べないとなあ。
 仕方なく、だるそうに立ち上がったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい・・・・・・」
 落ちてきた髪を手櫛で掻き上げながら、玄関に向かう。
 インターホンのボタンを押した。
「どなたですかあ?」
 この時雅人は何も考えていなかった。
 だからこそ聞こえてきた声に、びびって思わずスイッチを切ってしまった。
 こ、浩二?
 インターホンが切れてしまったので、再度チャイムが鳴り響く。
 雅人はドアとインターホンに交互に視線を移す。
 下唇を噛み締め・・・・・・そして息を吐いた。
 玄関の鍵を外し、ドアを開ける。
「・・・・・・雅人さん」
 声をかけられ、俯いていた顔を上げる。
 心配そうな表情の浩二がいた。
「浩二・・・・・・」
「どうかしたのですか?インターホンもいきなり切れるし」
 いつもと変わらない浩二の姿に、雅人は胸に小さな痛みが走った。
「別に。浩二こそどうしたんだ、こんな時間に」
 視線を逸らし、不機嫌そうに言う雅人に浩二は首を傾げた。
「こんな時間って・・・・・・いつもこんな時間、ですよね」
「あ、ああ、そうか」
 雅人は何を言っていいのか分からなくて、唇を噛み締める。
「雅人さん、どうしたんですか?」
 浩二は心配そうに玄関からあがってきた。一歩下がった雅人の肩に手をかける。
 何も言わない雅人の顔を覗き込む。
「ま、さと、さん・・・・・・泣いていたんですか?」
 びくっ
 雅人の体が震えた。
「どうしたんです!」
 何も言わない雅人に苛立ったように浩二が声を荒げた。
 その途端、雅人の頭の中で何かが切れた。
「こ、浩二のせいだ!」
 叫んでいた。
 その剣幕に肩を掴んでいた浩二の手が離れる。
「雅人さん?」
 訳が分からないと、浩二が目を見開いている。
「浩二、何で来たんだ?」
「えっ?」
「どうして来たんだよ!」
 その強い口調に浩二が眉間にしわを寄せる。
「どうした・・・・・・っていうんですか?」
「浩二は俺のことなんかどうでもいいだろって言ってるんだよ!」
 両手を握りしめ、その拳はぶるぶると震えている。
「雅人さん・・・・・・私には何のことか・・・・・・」
「しらばっくれるな。昼間、何で俺の所にこなかったんだ!」
「昼間?」
「俺、休みだってメール送った!」
「それは、先約があったって返信しましたが」
 あくまで冷静な浩二に雅人はかっとなる。
「何だよ!俺のせっかくの休みだったのに、そんなに大事な先約だったのかよ、浩二はそいつに逢う方が俺より良かったんだろうが!」
 その言葉にさすがに浩二が不機嫌さを露わにする。
「どうしても外せない約束だったのです。終わったらすぐ来るつもりだったんですが、長引いたんです・・・・・・」
「約束って何!?」
 きっと雅人は浩二を睨む。
「・・・・・・」
 黙ってしまった浩二に雅人は完全に切れた。
「マンションの一室で男と逢っていたんだろ!楽しそうでさ、キスされて!」
 浩二は一瞬遅れて大きく目を見開いた。
「俺が送ったメール見たはずだよな。二回も目の前で送ってやったのに、気がつかなかったろ!俺が見ていたなんて。あんなマンションのベランダなんかでいちゃいちゃして!」
 明らかに動揺している浩二に雅人がさらに畳みかける。
「あんな楽しそうな浩二なんて俺見たことない!あんな風に仲良さそうなとこ見て、俺が平静でいられるはずないじゃないか!」
 睨み付ける雅人の目から涙が流れ落ちる。
「しかもあいつ、俺に気づいて見せつけた。お前にキスして、笑いやがった!その時の俺の気持ち、お前に分かるか!」
 吐き出した言葉に嗚咽が混じる。
浩二の眉間のしわが深くなる。
「俺・・・・・・嫌だ!もう、嫌だ!」
 このまま浩二の前に居たくなかった。
 雅人は傍らの部屋に入ろうとした。が、一瞬早く浩二の手が伸びて雅人を捕まえた。
「離せよ!」
「離しません!」
 きっぱりと言い切る浩二の手に力が入る。力一杯に握られて雅人の腕に痛みが走った。
そのまま壁に押しつけられる。
「俺、もう嫌なんだ、頭の中ぐちゃぐちゃだ。何でこんなにならなきゃいけないんだ!全部浩二のせいだからな!浩二が悪いっ!」
 無茶苦茶な台詞に浩二が顔をしかめた。
「雅人さん、落ち着いてください!」
「何だよ!浩二が悪いんだろ!俺以外の奴と合っていた浩二の方が!」
 叫ぶ雅人を浩二は抱きしめた。雅人の方が背が高いので、浩二の顔が雅人の肩に埋められる。
「離せよ!」
「離しません」
 そう言って浩二は雅人を見上げた。にっこりと微笑む。
「何で笑うんだよ。浩二が悪いのに!俺は怒っているのにっ!」
 抗う雅人に浩二は腕に力を込める。
「言ったでしょう。離しませんって」
「な、んで・・・・・・」
 雅人の頬に涙が伝った。
「だって、こんなにも可愛いあなたをどうして離せますか?」
「え?」
「だって、私のことでこんなに嫉妬している雅人さんなんて、可愛くてしようがないじゃないですか」
 こ、こいつ何言っているんだ!
 俺がどれほど苦しかったのか分かっているのか!
「そんなこと!俺が何で怒っていると思ってるんだ!」
「私が他の人と会っているのを見て嫉妬しているんでしょう」
 笑顔で言われて雅人は張りつめていたものが一気に飛散した。
 激しい勢いで涙が溢れる。
 嗚咽を漏らしながら、雅人は訴えた。
「浩二が悪いのに・・・・ひくっ・・・・・浩二が・・・・・・何で・・・・・・」
「ええ、私が悪いです」
 肯定され、雅人は濡れた瞳で浩二を見つめる。
「浩二・・・・・ひく・・・・・・」
「はっきり言わなかった私が悪いのです。雅人さんは誤解するのも無理はありません」
 静かに微笑まれて、雅人は体から力が抜けた。
「じゃあ、あいつは誰なんだよ・・・・・・」
 涙で歪んだ先に浩二がいる。
「彼は、兄です」
 やや眉をしかめて浩二が言った。「私はあそこで兄と逢っていたのです」
「あ、兄って・・・・・・お兄さん?」
 呆然と浩二を見つめる雅人。
「あ、でもキスしてたのは?」
 見、間違いだったのか・・・・・・そんな筈ない・・・・・と思うけど。
「彼は、困った性癖でして・・・・・・抱き付き魔でキス魔なんです」
「は?」
 キス魔?
「気に入った相手には抱き付いてキスするんです。ずっと子供の頃から。まあ大きくなってからはおおっぴらにはしないですが。兄弟で逢っている時はしょっちゅうです」
 口の端を上げて嗤う。
「じゃあ、あの時は?」
 あのマンションの時は?
「あの時、いきなりしてきたのでびっくりしましたが、もしかすると雅人さんが見ていることに気がついたんでしょうね。私は、逆らうと余計迫られるのでなすがままにしていたのですが・・・・・・・もしかすると兄は雅人さんが私の相手だと気がついたのでしょうか?」
 眉を寄せる浩二。
「どうして?浩二が何か言ったのか?」
「少し前に、つき合っている人がいることは・・・・・・」
「でも、俺男だぞ。じっと見ていたからって恋人だって気づくか?」
 雅人の言葉に浩二は視線を外した。
珍しく言い澱む。
「浩二?」
「兄はバイセクシャルです」
「え?」
「兄は男でも女でもつき合う人です。経験も豊富なようです。ですから、もしかしたら気づいたのかも知れません・・・・・・」
「・・・・・・」
 あまりのことに涙が止まった。
「雅人さん・・・・・・もう大丈夫ですか」
 微笑みかけられて、雅人は上を向いた。
視線を合わすのが恥ずかしくて・・・・・・包まれた腕の部分から熱が伝わってくる。
 じわっと全身が熱くなってきた。
「雅人さん?」
 呼びかけられて、仕方なく顔を下に向けた。
 見上げられた浩二の顔が間近にあった。
 見つめられ、一気に顔が紅潮した。
 恥ずかしくて俯くが、俯くとさらに浩二の顔が近くなる。
 慌てて、顔を離そうとするところを背中から回された手で頭を押さえられて動かない。そのまま、浩二がそっと雅人の唇に口づける。
 浩二の手に力が込められた。
 強く押しつけられた唇。
「あっ・・・・・・」
 雅人の口から喘ぎとともに吐息が吐き出される。その僅かな隙間を狙って、浩二が舌を侵入させた。
 雅人もさらに口を開き、浩二のものを受け入れる。
 深くて熱いキス。
 あんなに苦しかった思いが、もう跡形もなかった。
 浩二は雅人の口腔を貪る。
 二人の唾液が混じり合い、口の端から喉に流れていった。
「・・・・・・んんっ・・・・・・」
 雅人が喘ぎ声が止められなくなった頃、ようやく浩二が手を緩めた。
「雅人さん」
 熱い吐息が雅人の頬をくすぐる。
「私はあなたがそんなにも嫉妬してくれるのがうれしい」
 雅人の高ぶっていた神経が落ち着いてくる。
 落ち着いてしまうと、確かめもせずつっ走った自分に非があるような気がした。
「ごめん。疑った・・・・・・・俺、浩二のこと疑った・・・・・・」
 唇を噛み締める。
「くす」
 浩二がおかしそうに笑う。
「どうして?雅人が謝らなければならないことはありませんよ」
「だって・・・・・・・」
勝手に怒鳴られて、決めつけられて・・・・・・。
 いつもなら怒っているような状態じゃないのか?
 雅人は身震いをした。
 普通、疑われたら怒らないか?
 なのに、浩二はどうして笑っているのだろう。
 不安げに見つめているのが分かったのか、浩二は優しく囁いた。
「言ったでしょう?嫉妬されて私は喜んでいるのですよ」
「喜ぶ?」
「だってそうじゃないですか。怒って、泣いて、私を責めるあなたがどんな表情をしていたか分かりますか?」
 表情?
「俺の?」
「そうですよ。私が誰かとつき合っている事がつらくて、切なくて、耐えられないといった表情をされて責められては、私は怒ることなど出来ません。何より、そんな表情をさせてしまった私の方が悪いのだと思えるのは仕方がないでしょう?」
 ああ、そうだ・・・・・・。
 俺はつらかった。
 苦しかった。
 浩二が俺から離れていってしまいそうで。
「浩二はここにいるよね。俺の所に・・・・・・・」
「離しませんよ。絶対に!」
 雅人は膝を曲げ、浩二の顔が正面になるようにした。それに気づいた浩二が微笑み、その頬をそっと両手で包み込む。
 雅人は頬から伝わる体温に身を震わせた。
 それは甘い痺れをもたらした。
 うっとりとその快感に身をゆだねようとした時・・・・・・浩二がふっと思いついたように言った。
「それでも・・・・・・・やっぱりお仕置きは必要ですか?」
 ぎっくーん!!
 雅人の表情が一瞬にして強ばった。
「やっ」
 無意識のうちに体が浩二から逃れようと抗う。
 そんな雅人を浩二が離すわけがなかった。
「冗談ですよ」
 面白そうに嗤う浩二に、雅人の体から力が抜けた。
 し、心臓に悪い・・・・・・・。
 笑いながら浩二は雅人に軽く口づけると、耳元で囁いた。
「大丈夫。今日は優しくしますからね」
 その言葉に雅人は真っ赤になって俯いた。 
 だけど・・・・・・。
「浩二・・・・・」
 小さな声に浩二が何?というように首を傾げる。
「その、俺、その前に、何か食べたい・・・・・・腹減った・・・・・・」
 その言葉に浩二は深いため息をついた。


カーテンからこぼれ落ちる日の光がちらちらと雅人の顔を照らし、雅人は逃れるように体を動かした。その手が温かい体に触れる。
雅人はふっと目を開けた。
隣に寝ている浩二を起こさないようにそっと体を起こした。
体中に残る倦怠感に雅人は苦笑した。
やってくれるよ。
確かに言葉の通り優しかった。だが、何回いかされたか分からないくらい犯られたら、優しいというより苛めに近いと思う。
ふうと息を吐き出すと、だるい体にむち打って起きあがった。
時計を見ると昼が近い。
シャワーでも浴びて・・・・・・・昼の用意でもしようか。
雅人は着替えを取り出すと、バスルームに向かった。
服を脱いで、ふと鏡を見た。
な、に、これ?
思わず自分で見て呆れる程、あちこちにキスマーク。
「やってくれる・・・・・・・」
「何がですか?」
 いきなりドアが開いた。
 鏡にバスローブ姿の浩二が写る。
「こ、浩二、寝てたんじゃないのか?」
 振り返った雅人に浩二は笑いかけた。
「雅人さんが出ていくのが見えたから・・・・・・それより大丈夫ですか?」
「え?」
「体。大丈夫ですか?」
「あ、ああ、うん大丈夫だよ。・・・・・・おかげさまで」
 回数は別として。
「でもだるいでしょう。手伝いますよ」
「え?いや、いいって」
 雅人が慌てて首を振るが、浩二はさっさとバスローブを脱ぎ去った。下には何も身につけていない。
「さ、行きましょう」
 浩二に引っ張られるように雅人は浴室へと入った。
「浩二。俺、一人でできるからさあ」
「私がやりますから」
 にっこりと笑みを浮かべて言われると、雅人も断れなくなってしまう。
 浩二は雅人をバスタブの縁に腰掛けさせる。
シャワーの温度をあわせてから雅人の体全体にシャワーをかけた。勢いよく出る湯に肌の上で跳ね返る。マッサージされているようで気持ちいい。
気持ちよさそうに目を閉じている雅人に、浩二は手のひらで石鹸を泡立てて、その手で雅人の体をなでるように洗い始めた。
「ちょ、ちょっと、浩二!」
 自分に触れるなめらかな動きに、雅人は慌ててその手首を掴む。
「何です?洗っているだけですが」
 そう言いながらも、浩二の手は雅人の感じる部分をなでていく。その度に鈍い痺れが伝わり、雅人は眉をしかめた。
「だっ、くっ・・・・・・・・やめ、て・・・・・・」
 喘ぎながらも制止しようとするが石鹸の泡で滑って、浩二の手を止めることが出来ない。すると浩二は床に座り込み、雅人の体を引っ張った。拍子に、雅人は四つん這いのような格好になる。
「ひっ!」
 雅人は後部に異物感を感じ、仰け反った。
「や、あぁ・・・・・・」
 石鹸の力で難なく侵入した浩二の指が、雅人の体の中をまさぐっている。
 さっきまでの行為で敏感になっている場所を嬲られ、雅人は漏れる声を止めることが出来なかった。
「んああ・・・・・・・やめ、てよ・・・・・浩二・・・・」
「きれいにしているだけですよ」
 しれっと言う浩二を雅人は上目遣いに睨む。
「それ、んん・・・・・だけか?」
「だってきれいにしないと後で困るのは雅人さんでしょう」
 それはそうだけど。
 んっ・・・・・でも、何か違う目的のような気がする。
「それより、そんな艶っぽい表情をされたら、私の方でも堪らないんですが」
 言われて雅人は気づいた。
 張りつめた浩二自身に・・・・・・。
「何おったててんだよ!」
 雅人はわざと不機嫌そうに言う。
 だけど目が反らせない自分に気づいていた。
「言ったでしょう。雅人さんがあまりに切ない表情で私を見るからですよ」
 体の中の指が中をまさぐり、僅かに残っているものを掻き出そうとする。その指の動きに雅人は全身を震わせる。
「いやあ・・・・・・」
 口から漏れる喘ぎ声。狭い浴室に反響し、幾重にも重なって雅人の耳に入る。
「も・・・・・・やっ・・・・・・ああああ・・・・・・」
 いきり立った先から白濁したモノを吐き出した。床に白い液溜まりが転々と散らばる。
 その上に荒い息を吐きながら雅人の脱力した体が崩れた。
 白い液が雅人の体で伸ばされる。ぬるりとした感触を掌に感じ、雅人はうつろな瞳でそれを見つめた。
 心ここにあらず、と言った雅人に浩二が呼びかけた。
「雅人さん・・・・・・お願いできますか・・・・・・」
 切ない声が雅人の耳を打つ。
 雅人は、気怠げに顔を上げた。濡れた髪が頬に張り付いている。
「雅人さん・・・・・・」
 見つめる先で浩二が再度呼びかけた。その苦しそうな表情に煽られるように雅人は浩二のモノを口に含んだ。
「んっ・・・・・・」
 その瞬間、浩二の口から漏れた声。
それに促されるように、雅人は舌で浩二のモノをつつく。
雅人は、無心にそれを貪っていた。
その時折動く体の動きは緩慢だが、舌だけが激しく浩二のモノを責め立てた。
「・・・・・・くっ・・・・・・・ん・・・・・・いい、です・・・・・・雅人・・・さん」
 浩二の喘ぎ声に雅人は視線だけを浩二に向けた。
 情欲に満たされやや赤い潤んだ瞳に見つめられ、浩二は一気に上り詰めた。


雅人は入る前より脱力している体をなんとか動かし、キッチンテーブルに座る。
と、携帯の着信音が鳴った。
動けない雅人の代わりに浩二が携帯を取ってきて雅人に渡した。
「誰です?」
不審そうに言われてディスプレイを見る。
 明石悠人。(あかしゆうと)
 表示されていた名前に、雅人は唸った。
 ・・・・・・嫌な予感がする・・・・・。
「俺の二番目の兄貴だよ」
 浩二に教えると、しぶしぶ通話ボタンを押した。
「もしもーし」
 投げ遣な口調で電話に出ると、怒鳴り声が飛び出してきた。
『何、さぼってんだ!雅人!』
 思わず耳から離す。
 まじまじと携帯を見つめ、少しだけ携帯を近づけ直した。
「何のことだ」
『せっかく俺が昨日お前の店行ったというのに、いなかったじゃねぇーか。何やってんだ?』
 トーンは落ちたが、その不機嫌な声がありありと分かる。
 やれやれ。
 相変わらず理不尽な奴。
 雅人は内心ため息をつくと、仕方なく携帯を耳にあてた。
「昨日は勤務の都合で急に休みが貰えたんだ。その代わり、今度の月曜は出勤だけどね」
『ちっ。俺が行くんだから店に来てろっ』
・・・・・・・・。
 相変わらず・・・・・・・。
 そう思いはしたが、とりあえず気を取り直す。
「それで、何か用だったのか?」
『用なんかあるか!』
 は、あぁぁ・・・・・・。
「じゃあ、何なんだよ?」
『お前相手なら鬱憤晴らしもできるだろうが』
「・・・・・・」
 雅人ははっきりと嫌悪の表情を浮かべた。
 次兄である悠人は、雅人より優しい顔立ちで普段は笑顔を絶やさない、とにかく女性に人気のある男だった。
しかし、その性格は最悪。気に入らないことがあると周りを巻き込んで騒ぐ。長兄の彰人(あきと)と雅人はいつもその一番の被害者だった。
 何か気に入らないことでもあったのか・・・・・・。
 内心大きくため息をつく。
「最近多いね」
 呟くように言う。
 今年に入ってから2週間に一回は店に来る。
 来ては騒ぐ。酔っぱらって騒ぐのではなく、ひたすら絡む。
 理路整然とたたき込めるように相手を屈服させる。
 それでなくても激しい攻撃が、最近輪にかけてひどい。
 はっきりいってそれに対抗できるのは生まれたときから相手をしている雅人だけだった。結局他のホストには任せておけないので、ひたすら雅人が相手をするはめになった。
 それは傍目から見る分にはたいそう面白いらしく、もはや店の名物となっていた。
しかも、女性ばかりに優しく男には厳しい。その雅人以上の甘いマスクとその優しい対応に、ホストでもないのに人気者であった。
「何かあったの?」
『・・・・・・別に』
 悠人が言い澱んだ。
 ?
 雅人が首を傾げた。
単純に機嫌が悪いだけではないのだろうか?今日はやけにおとなしい。
「兄貴さあ、ここんとこやっぱおかしいよ」
 雅人はずっと言いたかったことを言って見た。
 電話だから言える。面と向かって言う勇気はない。
『おかしくなんかない・・・・・・』
 暗く響いた声に雅人の背筋に寒気が走った。
 信じられないような思いにさらされ、雅人は唇を噛み締めた。
 いつもの悠人ならこんな時でも相手をけなすように、口が止まることはない。
 やっぱり変だ。
「兄貴・・・・・・」
『・・・・・・これからお前んち行く』
 何を言われたか理解できなくて・・・・・・・一瞬後その言葉がどんなに雅人にとって危険なことかに気がついた。
気がついたから、叫ぶ。
「嫌だ!」
『行くって俺が言ってるんだぞ』
「俺、夜から仕事!それに兄貴仕事中じゃないのか?」
『俺は休みだ。それにもう起きているじゃないかお前は・・・・・・じゃあな』
 ぷっと切れた。
 じ、冗談じゃない!
「どうしたんです?」
 動揺している雅人に浩二が不審そうに問いかける。
電話の間昼食の用意をしていた筈の浩二が傍らに立っていた。体を屈め、雅人の顔を覗き込む。至近距離の浩二に雅人は口の端を上げてから呟いた。
「悠人兄貴が来るって。断る間もなかった」
 浩二の顔が離れた。雅人がその様子を目で追いかける。キッチンテーブルに片手を付き、浩二は雅人を見下ろした。
 雅人には、悠人を直接相手にする体力・気力ともに残っていなかった。
「・・・・・・悠人兄貴って——、顔はさあ優しげで人付き合いが良さそうなんだけど、もんの凄い口が悪いときがある。毒舌っていうのかな、そういうのって。機嫌が悪い悠人にちょっかい出して、反対にこてんぱんに痛めつれられるのが落ち、って位・・・・・・凄かった」
 学生時代を思い出して浩二に伝えた。
と、チャイムが鳴った。
「えー、まさかもう来たのか?」
 けたたましく鳴り続けるチャイム。
「駐車場からでもかけたんでしょうか?」
 浩二が言うと、雅人も頷いてため息をついた。
仕方なくドアを開けた。
「おせーぞ、さっさと開けないか!」
 悠人がいきなり雅人の頭をはたくとむっとした口調で言い放った。
「いったー。いい加減にしてくれ。どうして休みの日まで兄貴の相手しなきゃならないんだ」
 雅人は恨めしげに悠人を睨む。
「何言っている。休みだからこそ可哀想な兄貴を慰めるのがかわいー弟の仕事だろうが」
「そっちこそ何言ってるって言いたいね。店でさんざん相手をさせるくせに、せっかくの休みにまで兄貴の相手なんかしたくない!」
「俺は客として行っているんだ。相手をするのは当然だろう。ちゃんと金を払っているじゃないか」
 確かにそうだが・・・・・・。
 黙ってしまった雅人を一瞥すると、悠人は靴を脱いで上がり込む。
 スリッパを履こうとして、動きが止まった。
「これ濡れてるぞ」
 言われて思い出した。
 しまった!
「ご、ごめん。そう言えば昨日そこに水こぼしちゃって・・・・・・片づけるの忘れてたよ」
 慌てて、そのスリッパを取ろうとした。と、その手を掴まれる。
「お前?泣いていたのか?」
 悠人が間近で雅人を見ていた。
「な、泣いてなんかいないよ。何でそんなこと聞くんだよ」
「目が赤い」
 ぐ!
 そういえば、一晩中泣かされ続けたようなもんだからなあ。
 慌てて雅人は悠人の手を振り払った。
「寝不足だよ。友人が来ててさ、話し込んじゃって」
「ふーん」
 何か言いたげな悠人を遮るように、雅人は、新しいスリッパを渡した。
「リビングに行ってよ。友人もいるし。それに何か飲み物だすから」
 悠人はしばらく雅人を見つめていたが、ふっと奥へと歩き出した。
 リビングのソファに座らすと雅人は浩二を呼びに行った。
「ごめん、やっぱ兄貴だった。紹介するよ」
 浩二は黙って頷いた。
「でさ、その兄貴ってさっきも言ったとおりすっごく口が悪いんだ。それは、あんまり気にしないでくれよ。それとむやみに手が早いから・・・・・・まあ、浩二は大丈夫だと思うけど」
「わかりました」
 雅人を安心させるように微笑む。
 リビングに戻った雅人は、お互いを紹介した。
「えっとこっちが俺の兄で明石悠人。んで、こっちが俺の友人で増山浩二っての。整形外科のお医者さん」
「はじめまして」
 浩二が言うと、悠人も立ち上がって握手してきた。
「ああ、はじめまして。よろしくな。なんか弟が世話になっているようだね」
 そう言って、じっと浩二の顔を見つめた。考え込むように眉間にしわを寄せる。
 浩二ももともと人前ではほとんどしゃべらないので無言のまま。
 やや長い沈黙の後、悠人は手を離してソファに座り込んだ。
 浩二もソファに座る。
 悠人は浩二と同じくらいの身長で、やや長めの柔らかそうな髪が後ろに流れている。雅人より優しげに笑う悠人だったが、さっきから聞いている限り口調は少し乱暴だった。
「兄貴は女性相手はすっごく優しいんだけど、男に対しては容赦しないんだ。学生の頃はしょっちょう喧嘩してきてたよ」
 雅人がそう言った途端、悠人のげんこつが雅人の頭に飛んできた。
「いらんこと言うな!」
「ってえなあ。兄貴の人物紹介ってのしてるんじゃないか。当たってるだろ」
「ふん」
 浩二は、すでにポーカーフェイスで二人の様子を伺っていた。
 と、気がつくと悠人がじっと浩二の顔を見つめる。
「あの、何か?」
「いえ、何でも」
 悠人が首を振った。
 まさかな。
 微かに呟いた言葉。それは残りの二人には聞こえなかった。
「えっと・・・・・・その・・・・・・」
 雅人は何とか場を盛り上げようとするが、言葉が出ない。
 仕事の時はぽんぽんと言葉が出るのにいざ当事者になると俺って何て口べたなんだ・・・・・・・。
「雅人さん」
「は、はい!」
 浩二に突然呼びかけられ、雅人はソファからずり落ちるくらい驚いた。
「何やってんだ、お前は?」
 悠人が呆れたように言った。
 雅人はそれを無視する。
「何、浩二?」
「あのお昼もう少しでできますから、お兄さんも一緒に食べませんか?」
「あ、そっかー。兄貴が来たんでばたばたしてた。俺、手伝うよ」
「いいですよ。お兄さんの相手をしてあげてください」
「あ、ああ」
 浩二はそそくさとキッチンへと行った。
 しまった。逃げられた・・・・・・・。

 浩二がキッチンのドアから見えなくなると、悠人がぼそっと呟いた。
「あれがお前の恋人か・・・・・・」
 え——っ!!
 雅人が思わず仰け反った。
「くくくく」
 それを見た悠人が笑い出した。
「何だよ」
「お前さあ、店の仲間にばれてるんだろ。自分の相手が男だって。昨日行ったとき聞き出した」
「げっ」
 雅人は、ついこの前の出来事を思い出した。
 店貸し切りでお相手した厄介な会長婦人との相手。
仲間の秀也のせいで相手につきあっている人のことを話す羽目になった。
畜生、箝口令ひいといたのに・・・…。
「しっかりと聞き出したからな。ちょろいもんよ」
 しまった・・・…こいつ、男相手は容赦がないから・・・…。
 誰をいじめたんだろう・・…俺の立場も考えて・・・…くれないだろうなあ。
 雅人は今日店に行くのが嫌になってきた。
「背は低いが、力が強くて無愛想な『男』なんだってな」
 誰だ、そこまでばらしたのは。
 雅人の脳裏に数人の顔が浮かぶ。
 覚えろ。
「確かにそのまんまだな」
「浩二は友人だよ」
 苦し紛れに逆らってみる。
 すると、悠人は苦笑を浮かべた。
「ばーか。二人とも風呂上がりですって顔で、同じ匂いさせて、しかも随分とだるそうなお前をかばって食事の用意しているだろう、あいつ」
 何もかも分かっています。
 というような表情で言われて雅人は言葉も出なかった。
「しかも・・・・・・お前が女役、か?」
「なっ!」
 あまりのことに声が出ず、ただ口をぱくぱくさせている雅人を、悠人は笑い飛ばす。
「まさに図星って奴か。自信はなかったけど、どんぴしゃりって訳か」
 あ・・・・・・・。はめられた。
 しかし、兄貴、あなたこそ何か詳しくないですか・・・・・・。
 確か、兄貴は完全にノーマルだったのに。
「くくく。我が弟ながら情けないとは思うが・・・・・・だけど、どう見てもあっちが女役には見えないよな」
 呆けている雅人に悠人は笑いを納め、真剣な表情で言った。
「いいじゃないかよ。誰が恋人でも」
「あ、にき・・・・・・」
「お前がもともとそういう傾向なのは、大学の頃に気づいていた。あの時一緒に住んでた奴もそうだっただろう?」
 秀也のことか。
「あの時は、まあびっくりした。それでまあ、その手のもの読んだりして、一応学習してみた」
 そ、それは初耳・・・・・・。
 雅人は呆然と目の前の悠人を見つめる。
 悠人はソファに体を投げ足すように座り込んでいた。しかし、その目はまっすぐに雅人を見ている。
「最初はあの時、お前を連れて帰ろうかと思った。だけど、気を取り直してしばらく様子を伺っていたら、何故か荒れてたお前が随分と和やかな性格に変わっていた・・・・・だから、もうお前の事で口出しするのは止めたんだ。お前がどう進もうか、それはお前の人生だ。あの時、そういう結論に達したんだ」
「兄貴」
 雅人は俯いた。
 そして言った。
「ありがとう」
 本心からだった。


「ところで」
 悠人が何かを思いだしたかのように、少し固い口調で話し出す。
「相変わらずちゃちな所に住んでるな。お前の稼ぎならもっと大きい所に住めるだろうが」
 さっさまでの雅人をからかうような態度がうそのように膝の上に肘をついて顎を乗せている。視線がテーブルの上を這っていた。
「俺、一人暮らしだから、この位で十分なんだ」
 おかしい。
 俺の相手を気にしていたわけじゃないのか?
 雅人は訝しげに悠人を観察する。
 何か問題を抱えているように見える。
「兄貴さあ、人のこと心配してくれてると思ったんだけど・・・・・・それって実はカモフラージュ?ついでってわけじゃないの?」
 悠人はちらりと雅人を見ると、不機嫌そうに天井に視線を這わした。
 図星、なんだ・・・・・・。
 雅人は視線を外して、ため息をついた。
 ずっと思っていたもんな。
 絶対兄貴は何かに腹を立てていて、そのストレス解消に店に来るんだって事は。
ふー。
 ため息が聞こえて、慌てて視線を向けると、悠人がだるそうにソファにもたれ込んでいた。
「兄貴、どうしたんだ?疲れてるのか?」
「いや、何でもない」
 力無く呟く悠人に雅人は心底驚いた。
 いったいどうしたんだ?あの口から生まれたパワフル機関銃攻撃の兄さんが俺の前でここまで脱力するなんて・・・・・・。
 そんな雅人に気がついて悠人は苦笑した。
「そんな顔するなよ。そうだよ、ちょっと疲れてるんだ。いろいろあって。ま、俺だって人の子だからな」
「・・・・・・」
 何かいま、信じられない言葉を聞いたぞ・・・・・・。
 そこへ浩二ができあがった昼食を運んできた。
 チャーハンとわかめのスープのセットを3人分並べる。
 それが終わると浩二も雅人の横に座った。
「食べてください」
 浩二が言うと、悠人は「ありがとう」と言うと、食べ始めた。
 雅人も食べながら、時折浩二にさっきまでのいきさつを伝える。
 さすがに恋人の件では浩二も目を見張ったが、ちらりと悠人を見ただけで何も言わなかった。
顔色すら変わらないってのも、あいかわらず・・・・・・。
 そんな二人を悠人は見ていたが、ふっと思いついたように呟いた。
「雅人、お前さあ、男に追っかけられた事ってあるか?」
「は、あああ」
 雅人は思いっきり呆けた顔をした。
 その顔にクッションが飛んできた。
「ごめん」
 理不尽だと思ったが雅人はとりあえず謝った。
 その方がこの悠人の怒りを静めるのが早い。
「で、その、男に追いかけられるって聞こえたんだけど・・・・・・」
「ああ、俺と同じ会社の営業の奴なんだけど、ここ数ヶ月ずっとつきまとうんだ。食事や飲みの誘いだけならともかく、会社の中でも平気で俺に抱きついてくるんだ。油断するとキスしようとしてくるし・・・・・・」
「・・・・・・」
 思わず漏れそうになった声を押し込み、今度は黙っていることに成功した。
「いい加減、苛々が募って雅人相手に鬱憤晴らしをしてたんだ。すまんな」
 悠人兄貴が、謝るなんて・・・・・。
「お前、少しは何か言ったらどうだ。人にばっかしゃべらせて」
「い、いや、その何で俺なんかにそんな事言ったんだろうって、考えちゃって。悠人兄貴は困ったことがあってもいっつも一人で解決してたから、そんな兄貴の姿初めてみた」
「そうか?」
 本当に心底困っているんだろう。
 弟の俺に言ってしまうほど、本当にこまっているんだ。
 まあ、兄貴は俺よりか男にもてそうな顔はしているけど、性格は最悪なんだけど・・・・・。
 それなのにつきまとうなんてえらく根性の座った奴がいるもんだ。
「兄貴にしては珍しいな。そんな相手、兄貴の言葉にかかったらあっという間に撃沈して近寄らないと思うけど・・・・・」
 その言葉に悠人は再び苦笑した。
「確かに、だいぶ口汚くののしったこともある。だけど、利かないんだ。それに会社じゃあ、あんまりひどい言葉使えないだろ」
 それを聞いて雅人は安心した。
 良かった。
 一応会社では自制しているんだ。
 黙りこくっている雅人達を見つめていた悠人はすくっと立ち上がった。
 そのままうろうろといろんな部屋を見て回る。
「なあ、お前、もっと広いところには住まないのか?」
 突然言われて雅人は面食らった。
「もうさっきから何だよ?」
「俺の会社で扱っている物件にいいマンションがあるんだ。紹介してやれば特別価格で購入できるぞ。ものはいいぞ。俺の会社が勢力をつぎ込んで作っているからな。手抜きはいっさいないからな」
「兄貴の会社?」
「そ、俺、千代田不動産に努めているだろう。営業の人間に頼まれて、そういうところに住みそうな奴探しているんだ。お前くらいなら購入できるんじゃないか?」
 その言葉に浩二がぴくりと反応した。
 雅人はそれに気が付かない。
「幾ら?」
「6000万円のところ5000万円」
たっかーーー!
「冗談。そんな高いところ住めるか!」
「高いだけものはいいよ。お前どうせ他の事で使わないし結構貯めているのは知ってるし」
「それでも高い!」
「うーん。お前一人じゃなくてもだれかと同居するとか。部屋数はあるし」
 なんか、変だ?
「どうしてそんなに進めるんだよ。そんな話、いつもは持って来ないじゃないか?だいたい兄貴は営業じゃないだろ」
 悠人の視線が中空を泳ぎ、再び視線が雅人に戻る。
 微かに口の端を歪めてから言った。
「頼まれてさ」
「頼まれた?誰に」
「そのおっかけ野郎に」
「はあ?」
「そいつがそのマンション一室でも売ったら、つきまとうのを止めるとかいうからさ」
 ・・・・…。
 そいつ、止める気ない!
 雅人は確信を持ってそう思った。
 兄貴が営業できないのを知ってて、そんな難問ふっかけたんだ。
「絶対売れる分けないじゃないか?男に対する兄貴の口の悪さは天下一品だぞ。営業に向かないから、総務のOLの監視役なんだろ!」
 ぼかっ
 拳が飛んできた。
 雅人は頭を抱えてうずくまる。
「ってー」
「判ってはいるが他人に言われると腹が立つ!」
「うう。それで、とりあえず俺しか買ってくれそうな奴がいないから、俺の所に来たわけだな」
「別にお前でなくてもいいが、買ってくれそうな奴はいないのか?」
「俺、そんなに高給取りの知り合いはいない」
「やっぱお前買え」
「嫌だ、借金地獄に陥ったらどうしてくれる」
「お前ならすぐ払えるさ。ホストNO.1だろ」
 簡単に言ってくれる・・・…。
「とにかく駄目なものは駄目」
「まあ、考えといてくれ。俺はこれ以上そいつにつきまとわれたくない。弟なら兄を助けると思って買え」
 それは理不尽というものだ。
 がっくりと肩を落とす雅人に悠人はにやっと笑いかけた。
「いいじゃないか?少なくともここより豪華なマンションなんだからな」
「とにかく無理!」
 言い切る。悠人は顔をしかめた。
 それに気がついた雅人も眉をしかめる。
 いつも我が道をいく悠人がそんな風にするときは、たいてい女性がいるときで、男相手にそんな顔をすることがないということを知っている雅人にとって、悠人の表情が意外だった。
 何か、心底困っているみたいだけど・・・・・・。
「なあ、もしかしてその約束って期限があったりして・・・・・・しかももうすぐ、なんて・・・・・ことない?」
 すると悠人がやっと視線を向けた。と思うとすぐに下を向く。
「今日なんだ。今日の3時がタイムリミット」
 悠人の口からため息が漏れた。
 雅人ふっと時計を見た。
 3時まで、後10分。
「で、もし兄貴が一件も売ることが出来なかったら、何か問題があるのか?」
 取引は当然双方に材料がないと成立しない。
 悠人が言い澱む。
「教えてくれないの?」
「・・・・・・キス」
 ぽつりと悠人が言った。
「は、あ?」
 上手く聞き取れなかった雅人が、訝しげに問う。
 そんな雅人を恨めしそうに見上げながら、悠人はもう一度はっきりと言った。
「俺があいつにキスすることになる」
 げっ。
 雅人は仰け反った。あまりのことに声も出ない。
 悠人は頬を赤く染め、そっぽをむいた。
「も、もしかして、それで今日会社休んだりした?」
 3時になってもそいつに合わないように。
「ほんと言うとお前にたのんでも駄目だろうなとは思った。だけど、まあ最後のあがきかな。このまますんなりあいつの思い通りになるのが癪だから」
 こちらに視線を戻さない悠人に、雅人は苦笑いを浮かべる。
 これって・・・・・・。
「なあ、兄貴ってほんとにその人のこと嫌いなのか?」
 雅人はおそるおそる聞いてみた。
「何で?」
 何を言われたのか判らないと言った風な悠人に、雅人は再度問う。
「兄貴さあ、口で言っている程その人のこと嫌いじゃないんじゃない?」
「どうして!」
 きっと睨み付けられ、雅人は思わず視線を外した。
「だって、本当に嫌いならさ、兄貴って容赦しないじゃないか。そんな条件なんか飲みやしないし、絶対ぼろぼろにしていると思う・・・・…」
「あいつは、俺より強いから・・・…」
 トーンの落ちた悠人の口調に、雅人は息を吐く。
「今まで兄貴が弱音言ったこと無かった。学生時代、ぼろぼろになって帰ってきたことだってあるじゃないか。そんな兄貴が、そんな条件飲んで、しかもぎりぎりまで俺にすら言ってこなかったんだろう。兄貴の知り合いで、最も高給取りであるこの俺にすら」
 一気に言った雅人を悠人は見ようとしなかった。
 どうみったって兄貴が相手のこと完全に嫌っているわけじゃないのが分かる。
 ほんとに嫌っていたらそんな取引をすることすらしないだろう。
 高校までは一緒に過ごしてきたから分かる。
 そんな取引を申し出た相手に、例え会社では無理だとしてもどこかで罵詈雑言を浴びかせ、どんなに相手の力が強くてこっちがぼろぼろになろうと、一発くらいは食らわせようとするだろう。
 それが悠人兄貴だ。
悠人兄貴は自分に正直だ。
 ため息が出る。
 きっと兄貴は逃げてきたんだ。自分ではどうしようもない感情から。
 嫌いだと思っている相手を嫌いきれない自分の感情から。
「俺は、あいつのこと・・・…一体、どうしたいのか判っていないのかもしれないな」
 ぽつりと悠人が言うのを、どこか遠くで雅人は聞いていた。
 再度時計を見る。
 後5分もない。
「あの」
 今まで黙っていた浩二が遠慮がちで口を挟んできた。
「どした?」
「あの、私が昨日マンションで兄に会ったと言いましたよね」
「ああ、そう言えば」
 確かそんな事を言ったような・・・・・でも何で今更急に。
「それはですね、あのマンションの部屋を買おうと思ったからなんです」
 言われて雅人は別の意味でパニクっていた。
「マンションを買う?」
「ええ、私もそろそろ引っ越そうかと思っていましたし、先だって雅人さんがあのマンションに住んでみたいと言われていましたので、それで下見に言ってみたのです」
「あんな高そうな所・・・・・・・って何でそれでお兄さんが出てくるわけ?」
「ああ、兄は不動産会社に勤務しているんです」
 かちゃん!
 カップがたたきつけられるように置かれた。
 雅人と浩二がそちらを見ると悠人が青い顔をして浩二の方を見ていた。
「どうしたんだ?」
 激しく動揺している悠人を、雅人は珍しいものでも見るかのように見つめた。
「えっと・・・・・・浩二くん。君のお兄さんはどこに勤めているって?」
 震える唇から紡ぎ出された言葉。
 浩二が答える。
「その、たぶん先ほどから悠人さんに出てくる人が私の兄ではないかと・・・・・・・」
小さな声で申し訳なさそうに言う浩二に悠人の顔は完全に引きつっていた。
「兄は千代田不動産に勤めています。増山健一郎といいます」
「増山・・・・・・健一郎!じゃあ、もしかして君が見に行ったマンションて駅前のグリーンパレス・千代田じゃないのか!」
「そうです・・・・・・」
 本当に申し訳なさそうな浩二。
「まさか、取引した相手って、浩二のお兄さんなのか。買わせようとしてたマンションも・・・・・・」
「そうだよ」
 きっぱりと言い切られ、雅人は呆然とする。
「こうしていると浩二君は礼儀正しいし、物静かなのに、どうしてその兄はあんなに強引でとんでもない奴なんだ・・・・・・」
「申し訳ありません。兄は昔からああなんです」
「あんたに謝って貰っても・・・・・・・」
 浩二に対して、いつもと勝手が違うのと自分の問題のせいか、悠人の口調はおとなしい。
「それとですね、実は兄がここにくるんです」
 な!
「何—!!」
 雅人が叫ぶ前に悠人が叫んだ。
 座っていたソファから跳ね起きる。
「どうして?」
 恐る恐る雅人が浩二に尋ねる。
「そのマンションの資料、持ってきて貰う約束で、でも時間がないですし、雅人にも説明聞いて欲しいと思って、それでここの住所教えたんですけど・・・・・・そのまずかったでしょうか?」
「まずいっ!俺帰るからな」
 脱兎の如く悠人が玄関先に走った。
 声をかけるまもなく、玄関が音を立てて閉められた。
「・・・・・・まずかったみたいですね、やっぱり」
「まあ、ね」
「それにしても・・・・・兄は悠人さんのことを随分気に入っているとしか思えません。兄はあれでも気に入らない人間には見向きもしませんから。それに見ていて悠人さんは兄が気に入りそうな顔ですし・・・・・・」
「兄貴・・・・・・ノーマルの筈なんだけど・・・・・・たぶんあれ、本心から嫌ってはいないと思う」
「そうなんですか?」
「うん。兄貴って顔はいいんだけど男に対してはその言葉とか態度が辛辣でさ、あの罵詈雑言に耐えられるのは良く知っている俺達兄弟だけじゃないかなあ。女の人には優しいんだけど・・・・・・だから浩二のお兄さんが嫌いだったら、今頃相手ぶん殴ったり、かなわないまでもなんかしていると思う。そんな不利な取引を甘んじて受け入れるタイプじゃないからね」
 その時、チャイムが鳴った。
 雅人は嫌な予感がした。
 悠人が出てからさほど時間が経っていない。
 雅人は浩二に視線を向けてから、立ち上がり玄関に向かった。その後ろに浩二がついてくる。
「どなたですか?」
『増山健一郎ともうします。浩二の兄です』
 雅人は後ろの浩二をちらりと見ると玄関を開けた。
 入ってきたのは二人だった。
「はじめまして。増山健一郎です。弟がおせわになっております」
 浩二よりは少し背の高い地味なスーツを着た男には見覚えがあった。あのマンションで見せつけた男——浩二の兄 健一郎。しかし、あの時のことは微塵も匂わせない。
 そして、その健一郎にしっかりと腕を掴まれているのは悠人だった。
 嫌そうに顔を歪めている。
「兄貴・・・・・・・」
 逃げられなかったのか・・・・・・。
「兄貴って・・・・・・同じ名字だとは思ったけど、明石君の弟さんですか?」
 笑顔を向けられて、雅人は条件反射的に頷いた。
「そうですか。先ほどそこですれ違いまして、私も彼に用事があったので一緒に連れてきました。今日会社を休まれましたので、後で彼のお宅に伺おうとしていたんですよ」
 そう言いながら後ろ手に玄関の鍵を閉めている。
「はあ」
 雅人はため息とともに二人をリビングの方を指さした。
「どうぞ」
 全員がソファに座ると、やっと健一郎は悠人の腕を放した。
 悠人は痛そうに腕をさすっている。
「今日伺ったのはマンションについてですが、弟の方から話がありましたか?」
 今ひとつ状況が分からない雅人はとりあえず頷いた。
「今日は時間がないとお聞きしましたので、ざっと説明だけさせて頂きます」
 健一郎はいくつもの資料を広げなから、なめらかな口調で説明をする。
 いつも顔に柔和な笑みを浮かべ、時折ジョークも交える。
 顔は言われて見れば似ているのだが、その表情の豊かさが二人の印象を完全に隔てていた。
 一通り説明し終わり、出された珈琲を飲みながら、健一郎は雅人の方を向いた。
「それにしても、弟の相手の方が明石君の弟さんだとは奇遇ですね」
 雅人は曖昧な笑みを返した。
 まったくだ・・・・・・ほんとうに。
「ところで、雅人くんは私とお兄さんの関係を知っているのですか?」
 いきなり振られて雅人は視線を健一郎と悠人に交互に振った。
 堂々としている健一郎に比べて、悠人は機嫌悪そうにあさっての方を向いている。
「関係って・・・・・・そのつきまとわれて・・・・・・取引しているってとこは」
「そうですか」
 にっこりと健一郎が笑う。
「でしたら、申し訳ありませんが、二人だけにして貰えると助かるのですが」
 げ!
 雅人の顔から血の気が失せる。
 悠人など完全に固まっていた。
 一人浩二が、ため息とともに言った。
「お兄さん。ここは雅人さんの家なのですから無茶は言わないでください」
 こくこくと悠人が頷く。
「何言っているんだ。ここを逃したら、こいつのことだから逃げ回るぞ。さっきだって逃げるのを捕まえてきたんだから」
 普段の言葉遣いになった健一郎が不服そうに浩二に言う。
「しかし」
「契約は実行され、明石はそれに負けたんだ。その負債は払わなければならない。ならば、一刻も早く俺としても頂きたいし。まあ、俺は弟達の前で頂いても別に問題はないんだが」
 言われて悠人が真っ赤になる。
 どうした、兄貴。
 いつもの毒舌は!
 雅人は悠人を睨み付けるが、悠人は唇を噛み締めて黙りこくっている。
「雅人君、君はどう思う?」
「あ、俺は・・・・・・」
 雅人は、いきなり振られて言いよどんだ。
「兄さん。私は雅人さんが大切です。よって当然そのお兄さんである悠人さんが困っているならば助けたいと思いますが・・・・・・」
 言った浩二のきつい視線を健一郎はまともに受けた。
 だが、健一郎は平然としている。
「それでも俺が勝つ。分かっているだろうが、お前の腕では俺には勝てない」
 その声を聞いた途端、雅人は震え上がった。
 静かだが、有無を言わせぬ口調。
 二人がにらみ合うと、本当に空中に火花が散っているように見えた。
 と、それを悠人が制止した。
「もういい。取引したのは俺だから、俺がその代償を払う。雅人、向こうの部屋借りるぞ」
 指さされた部屋は寝室。
 いや、深い意味はないんだろうけど・・・・・。
「わかった。でも俺達今日は二人とも夕方から仕事だから・・・・・」
「ええ、分かっています」
 健一郎は極上の笑みを浮かべると、悠人の腕を掴んで連れて行った。


 二人が部屋に消えると、雅人と浩二は揃ってため息をついた。
 しばらく寝室のドアを見つめるが、喧嘩はしていないようだ。
「すみません。強引な兄で・・・・・」
 本当にすまなそうなので、雅人は苦笑いを浮かべる。
「いいんだ。それにうちの兄貴、今日はおとなしかったけど、普段もっと激しいから。きっとお互いさまになると思う」
「しかし、私が兄をここに呼ばなければ悠人さんも捕まったりしなかったでしょうに」
「どうかなあ。同じ会社だし、遅くても月曜には捕まっていたんじゃない。そこでキスを強制されるより、ここでの方がまだましなんじゃないかなあ」
「そうですね。兄は待たされるとその分激しいですから・・・・・・」
「ところで、マンションの説明、何で俺まで受けたんだ?浩二が買うんだろう」
「・・・・・・」
 いきなり浩二が俯いた。
「どうしたんだ?」
「雅人さん」
 いきなり視線を向けた。
 雅人は思わず仰け反った。
「一緒に住みませんか?」
「は、あ?」
「私たちは時間がすれ違いでなかなか逢えないでしょう。だから、いっそのこと二人で住めばいいかな、って思って」
「え?」
 雅人は目を見開いた。
 俺と浩二が・・・・・・一緒に住む?
「あの、駄目でしょうか?」
 浩二の瞳が雅人を捕らえる。
 静かな夜の海の色。
 その瞳で見つめられると、雅人は断り切れなかった。
 それに何となくそうしたいという思いもあったのは事実だった。
「そうだな・・・・・・。そうしたいな・・・・・・」
 それを聞いた浩二は立ち上がり、座ったままの雅人をその胸に抱きしめた。
「良かった!」
 浩二の本当に嬉しそうな声に、雅人は微笑みを浮かべ、浩二の肩に頭を預ける。
「私、雅人さんに嫌だと言われたらどうしようと思って・・・・・・それで言い出せなかったんです。でも兄があのマンションの話を持ってきて——前に雅人さんが住んでみたいと言っていたのを思い出して、一緒に住めなくてもあそこに住みたいって、思ったんです」
「浩二がそんなに喜ぶのに、俺が嫌だなんて言えないよ」
 雅人が顔を上げると、浩二と視線が絡んだ。
 浩二の指が雅人の顎を上に向かせる。
「浩二・・・・・・」
 雅人がその瞼を閉じると、浩二の唇が降りてきた。
 落ち着いた優しいキスに雅人は酔いしれる。
 あんなにもう浩二とのことは駄目だと思った。でも今は浩二がいてくれて良かったと思う。
 どうしてあんなこと思ったんだろう。浩二が他の人を思ってるなんて・・・・・・。
 いつだって、こんなに俺の事を思っていてくれるのに。
 まあ・・・・・・・たまには・・・・・・怒られるけど・・・・・・。
 浩二の巧みなキスに翻弄される。力が抜けそうで、浩二の背中に回った手で服を掴む。
「・・・・・・んっ」
 声が漏れる。自分の声で、さらに自身が高まった。
 耐えられなくて、瞼を開けると浩二と視線が絡まった。
 その目が優しく細められ、それだけで甘い痺れが背筋を走る。
 もうこのまま最後まで・・・・・・。
 ガシャッ!!
 夢心地だった二人が一気に現実に引き戻された。
 ドン!!
 今度は何かを叩きつける音。
 雅人は抱きつかれたまま、立ち上がった。すると、雅人の視線の下に浩二の頭がくる。
 しばらく寝室のドアを見つめていた浩二が雅人を見上げた。その顔に苦笑が浮かぶ。
「ただでは済まないと思いましたが・・・・・・何か壊れていましたら後で弁償させますね」
「いいんだ。どうせ物を投げているのは兄貴の方だから・・・・・・」
 中の様子が想像できる。
 ふうとため息をつくと、浩二に向けて意地悪く笑みを浮かべた。
「あの二人ひっつくと思う?兄貴はあれでもノーマルだよ」
「私の兄は、こうと思ったら引きませんから、どこまで雅人さんのお兄さんが耐えられるかですね」
 それにキスは上手ですよ・・・・・・。
 呟かれた言葉に雅人は苦笑した。
ドンッ!!
 ドアが大きく開け放たれた。
 二人は慌ててお互いから手を離した。
 どことなく乱れた感じの悠人が出てきた。顔が真っ赤だ。
 しかもその瞳は潤んで、ひどく扇情的だった。
 その後ろから、頬をさすりながら健一郎が出ている。多少顔はしかめているものの、満足げな様子に、契約が履行されたのが分かった。
 ついでに何かしようとして、ぶったたかれたな・・・・・。
 雅人にはその様子がありありと目に浮かんだ。
 兄弟そろって絶対増山兄弟には逆らえないような気がしてきた。なんか情けない・・・…。
「雅人、帰るからな」
 ぶっきらぼうに言い放つ悠人。
「あ、ああ」
「あ、壊れた物はこいつに弁償させるからな。請求書寄こせよ!」
「何言ってるんだ、壊した物は全部明石のせいじゃないか」
「お前があんなことするからだろ」
「あんなことって?」
「とぼけるな!ああ、もうひっつくな」
「いいだろうが」
「また殴られたいのか!」
 二人は言い合いをしながら、玄関から消えた。と思った途端、健一郎が顔を覗かせた。
「雅人君。浩二を頼むな!」
 一声叫んで消えていった。


 嵐が去って静かになった部屋で雅人と浩二はソファに座り直した。
「雅人さん。もしあの二人がつき合いだしたとして・・・・・・・そうではなかったとしても、何かあると私たちの所に邪魔をしに来そうな気がしませんか?」
「そうかも知れない」
 あの二人、もし結託でもされたらその被害を受けるのは一番に俺達の様な気がした。
「やっぱりあのマンション買います。あそこなら中の人間が開けないと、入れませんし。少なくとも、いきなり入ってこられることはないですから」
「・・・・・・・」
 雅人は、浩二を見つめ、そしてため息をついた。
「俺も・・・・・・賛成・・・・・・」


【了】

3000HIT キリリクはrabiさまでした。
 ご要望は、
「家族」(ほんとは実家に行くといったようなものでしたが、それはちょっとできませんでした)
「雅人が浩二に怒る」それプラス「幸せ」「ラブラブ」&「嫉妬」
 でした。
 みなさま、いかがなものでしょうか?
 でも、やっぱりこの二人は喧嘩になりませんねえ。
 というか、うちのキャラ達で喧嘩が出来るのは誰だろ?