【どしゃぶり注意報】  6

【どしゃぶり注意報】  6


 あの時、どうやって帰ったのか……なんて記憶はとっくの昔に消えていた。
 忘れようとした事。
 記憶から消し去りたいと願ったこと。
 そのどれもが一つも消せないことに、何度愕然としたことか。
 あれから1ヶ月が経とうとしていた。
 だが葉崎は、あの時の記憶が消せなかった。
 消すどころか、何かの時にふっと思い出してしまう。
 会社で仕事をしていても、面白いテレビを見ていても、何かの拍子に思い出してしまう。そして、あのコンビニの前を通る時には、それを確実に思い出してしまう。
 そして、それは決して嫌悪をもたらさない。
 とうに忘れたのは、あの時に感じた悔しい気持ち。情けない気持ち。
 そして……躰に残っていた痛み……。
 残ってしまった記憶、ただ甘い躰の疼きと宮城の優しい言葉、その表情……。
 逢いたい。
 ふと気が付けばそう願っている自分がいる。
 それが葉崎を苛立たせた。
 思い出してどうなるというのだろう。逢ってどうしようと言うのだ。
 拒絶したのは自分だ。
 だいたい相手は男なのだ。
 自分も男で……可笑しいじゃないか。
 そう思おうとして、失敗する。
 まずいよ、これは……。
 自分の想いが何なのか……葉崎はそれを知っていた……。
 自分が男相手にそんなことになるなんて思いもしなかったから、葉崎自身、どうしていいか判らなかった。
「葉崎ぃ。どうした、またぼーっとしている」
 同僚の木下の呼びかけに、葉崎ははっと我に返った。
「ごめん」
 慌てて、今の状況を再確認する。
「まあ、いいけどさ。それより今日の工場見学、こっちまで来るって?」
「ああ、品質監査って奴?取引先の社長まで来るっていっていたから、綺麗にしておけって言われているよ」
 そうだ。
 フロアを片付けて、要らない物はどっか隅っこに押しのける。
 そこの会社に出荷する製品を詰めたダンボール箱を手前に持ってこないと……。
「ダンボールのA−3とそれに付随するセットを作業台に出しておくように言われていたけど」
「OK。ま、梱包方法はしっかり守っているし、問題ないよな」
「そうだね」
 葉崎が頷くと、木下もほっと息を吐いた。
 ため息もつきたくなる。
 葉崎も苦笑を浮かべて、それに同調した。
 いらない事を考えている暇はなかったのだ。
 仕事に集中しないと、今日は大事な取引先の品質監査がある日だった。
 規定通りの仕事をしていないと、取引が止まってしまう。そんな事になったら、目も当てられないではないか。
「で、いつ頃来るって?」
 木下の問いに葉崎が答える。
「そろそろ、かな」
 時計をちらりと見ると、予定の時刻が迫ってきていた。
「判った、オレ、向こうをもう一回確認してくらあ」
 木下が作業場に向かって走っていく。
 葉崎は、使っていた端末に向かうと、出荷製品リストを呼び出す作業についた。が。
「!」
 頭が空になった途端に、宮城の顔が浮かんだ。
 それを頭を振って追い出す。
 こういう単純な慣れの作業をしていると、どうしても思い浮かんでしまう。それが嫌で、そして堪らなく辛かった。
 息を吐く。
 どうして忘れられないのだろう。
 一番忘れなければならないことだけが、どんなにがんばっても忘れることが出来ない。
 と。
 トントンと窓を叩く音がした。
 作業場側の窓の外に、木下が立っていた。その視線が一カ所を指し示す。
 来たのか?
 葉崎が立ち上がって、作業場の方に移動した。
 今日の監査に立ち会うように言われていたのだ。基本的に、品質の人間が説明するのだが、何か質問があったときの対処のために必要だと言われていた。
「どこ?」
 小声で問うと、木下が顎をしゃくってそれに答えた。
 そちらに視線を移すと、確かに白衣を着た一個団体が棚の向こうに見え隠れする。
「じゃあ、行って来る」
 事務所の守りを、木下に頼むと葉崎はそちらへと歩み寄った。
 頭の中で製品名とそれに関わる資材の管理方法手順類をシュミレートする。
 だが。
「え?」
 思わず漏れた声は、幸いにして誰にも聞かれなかった。
 何で……。
 葉崎はその場に立ち竦み、その一個団体の中にいる一人を見つめていた。
 宮城……さん……。
 それは見間違いようもない。
 どうして……。
 呆然としている葉崎に気づいた品質の人間が葉崎を呼んだ。
 それに答え、慌てて近寄る。
「彼がこのフロアで御社の製品の出荷を管理している、葉崎です」
 紹介され、頭を下げる。
「君が葉崎さんですか」
 その含んだような言葉に顔を上げると、初老の男性と視線があった。彼が社長なのだろう。
 そしてその後にいる宮城がじっとこちらを見ている。
 途端に胸が熱くなった。
 慌てて、視線を外す。
「葉崎くん、この梱包について説明を」
 意識を切り換え、言われるがままに説明する。
 宮城の視線が自分を見ているのが判るが、意識的にそれを自分の中から排除した。
 そうしないと、今自分が何を説明しているのかすら記憶から飛んでいきそうだった。
「ふむ」
 相手の社長が満足げに頷くのを確認した葉崎はほっと顔を綻ばせた。
 社内側のメンバーも、すっと緊張が和らぐのを感じる。
 どうやら無事済みそうだ。
 皆、そう思える手応えがあった。
「それでは、応接室に」
 品質の人が先導して、彼らを導く。
 ちらりと宮城がこちらに視線を向けるのを葉崎は意識的に無視した。
 逢わないはずだったのに……。
 宮城が取引先の会社の人間だとは知らなかった。
 だが、監査なんてそうある物ではない。だいたい社長自ら来るということはもうないだろう。
 だったら、もう逢うことも無いはずだ。
 見送る葉崎に、ふっとその社長が近寄った。
「落としましたよ、君のでしょう?」
 一枚の紙を渡される。
「え?」
 言われるがままに受け取る。
「あ、ありがとうございます」
 礼を言うと、社長は満足げに頷いて去っていった。
 何だろう?
 こんなもの落とした覚えはなかった。
 渡された紙は、8つ折りくらいに細かく折り畳まれていた。それを広げる。
「え?」
 それは葉崎の物ではなかった。
 いや、渡された時点でやっと葉崎のものになったのだ。
 それには彼から葉崎へのメッセージが書かれていた。
『葉崎勇一様 お話があります。 今夜8時以降、こちらに電話をしてください。 加古川』
 書かれている番号は携帯の番号だった。
 加古川……それがあの社長の名前だと言うことくらいは知っていた。
 だが、なぜこんな物を寄越すのか?
 それが判らない。
「どうした?」
 木下の声にはっとその紙を握りつぶす。
「いや、ちょっと気が抜けちゃって」
 その言葉に木下も笑い返してきた。
「ま、ようやく本来の仕事に戻れるって訳だ。残り、がんばーろーぜ」
「ああ」
 木下に笑い返しながら、手の中の紙をきつく握りしめる。
 何の用事か……。
 だが、思い当たる節は一点しかなかった。
 彼の背後に付き添うように立っていた宮城の存在。
 きっと彼のことなのだろう。
 一体この加古川という人間がどこまで知っているのか。
 忘れようと宮城も言ってくれたのに、一体何がどうなってこんなことになったのか。
 混乱しそうになる頭を無理矢理静め、葉崎は意識を仕事へと集中させた。


 何度も途中まで押して、切のボタンを押してしまう。
 約束の時間は過ぎていた。
 かけなくてもいいのではないかと、何度も思った。
 だが、相手は取引先の社長だ。
 こんな所で不興を買って、取引が中止になったなんて目も当てられない。だいたい理由が説明出来ないではないか。
 そんな強硬手段をとりそうにはなかったけれど……。
 それでも。
 葉崎はふうっと息を吐くと、意を決して番号を押していった。
 数度の呼び出し音。
 繋がる音。
『加古川です』
 聞いたことのある声が携帯から漏れる。
「葉崎ですけど」
『ああ、待っていたよ』
 声の感じでは気さくな感じがした。
 重要な話ではないと思わせる。が。
『実は宮城のことで、聞きたいことがあってね』
 その言葉に、やはり、という思いと、何で?という思いが心の中で浮かび上がる。
「……何でしょうか?」
 自然に口調が固い物になった。
『宮城が、ここのところずっとおかしいんだよ。今日逢ったから判っていると思うが、宮城は私の秘書なんだが、どうもここの所心ここにあらずという感じで困っているんだ。で、葉崎さんなら何かご存じではないかと」
 おかしい?
 でもだからと言って何でオレの所に回ってくるんだ?
「そんなこと……私には判りません……」
 だからそういうしかなかった。
 これ以上、彼の事で煩わされたくなかった。
『そうですか』
「ご用件がそれだけでしたら、もう失礼いたします」
『ああ、待って。せっかくだから、もう少し話をしましょう』
 切ろうと思った手が止まる。
「あの……」
『宮城が何をしたのかは知らない。だがひどく辛そうに日々を過ごしているということだけは伝えておきたいんだ。ああ、本人は私が君と連絡を取ったことは知らないし、私が気づいていることも感づいてはいる、程度くらいにしか知らないだろう。しかし、彼は私にとっても可愛い部下でね、こんな事で失いたくないんだよ。だから、さっさとけりをつけさせたいんだ』
「けりって……」
『きっぱりと諦めて貰う』
 その言葉を聞いた途端に葉崎の胸に棘が突き刺さったようにぴりぴりと痛んだ。
 諦める……。
 そうだ、諦めて貰わなければならないんだ。
 なのに、何で……。
 何も言わない葉崎の様子に気づかないのか、加古川が言葉を継ぐ。
『もう一度逢って、宮城に冷たい言葉でもかけてやってくれないかな。そうしたら、彼もきっぱりと諦めがつくんじゃないかな。どうかな?』
「……どうして逢わなければならないんです?」
 しかも、オレの方から冷たい言葉って……。
『それが宮城のためになると思ってね、お願いしたいんだ。君だって、男につきまとわれるのは嫌だろう?まあ、ストーカー行為をするような奴ではないと思うが……こればっかりは、本人次第だし。結局双方のためになると思うよ。君だってけりがついてしまえば、もうこれ以上その事に煩わされなくて済むんじゃないか?』
 言っていることは判る。
 だが、その言葉を何でオレの方から言わなければならないのか。
 悪いのは……勝手に思い悩んでいるそっちじゃないか……。
 ふっと浮かんだ宮城の顔は、あの別れの時。
 辛そうに歪めた顔が、ふっと一瞬だけ笑顔になった。それは、たぶん葉崎のために作ったもの。
 それを思い出した。
 宮城さん……。
 忘れる事なんて出来ない。
 いつだってこんな風に思い出してしまう。
 ぎりっと奥歯が音を立てる。
 もしかするとオレはまだあの快楽を期待しているのかも知れない。躰が覚えているあの行為を。
 だから、忘れられないんだ。
 もうあれは二度と手にいれることが出来ないんだと、そうしてしまえば本当に忘れられるかも知れない。
『葉崎くん?』
 携帯の向こうで加古川が呼びかけるのに、葉崎は返事をした。
「判りました……」
 一度だけ逢って、何でも言ってやる。
 それで、こんな胸の痛みから別れることが出来るのなら。
 苦しくなる想いから離れられるのなら……何だって。
『では土曜日にでも。場所や時間ののリクエストはあるかね?』
「時間は夜の8時……場所は……ホテルの雅……」