部下の宮城の様子が変だと気づいてからもう2週間になる。
加古川は、目前の机に座っている宮城をずっと観察していた。
宮城が加古川の秘書になってから1年が経っていた。前任が急に辞めることになって、急遽若手の中からピックアップしたのだが、こいつは当たりだったと自負している。1年間、万事そつなくこなしてきた宮城。
その宮城の様子が、最近どうもおかしい。
ここは社長室。秘書である宮城がぼーっとしていていい場所ではない。もっとも、加古川自身仕事さえこなしてくれれば、そういうことはあまり気にしない質ではあるが……あまりにもひどくないか……。
忙しいときはいい。
そう言うときはいつものようにそつなく仕事をこなしている宮城だったが、余裕が出来た途端に、その手がふっと止まっている。
何を見るでもなく、その視線はどこか焦点が合っていない。
止まった手は、何かを握りしめるように時折動く。
それは決して掴めない何かを探しているようだった。
たぶん、本人は気づいていないだろうその行為。
何か気になることが有るのだろうとは思った。
真面目で仕事熱心な宮城だから、そのうち自分に整理をつけて元に戻るだろうと思っていたのだが……。
これが一向に戻らない。
いや、前よりその頻度が多くなっているような気がする。
何より、その表情から確実に消えていった笑顔。
常に思い悩んでいるように眉間に皺が寄っているし、ひどく寝不足なのか目の下の隈。
確かにいろいろと神経を使う仕事だろうとは思うが、以前はそんな事は一向になかった。
なのに……。
いい加減そんな宮城の顔を見ているのも嫌気がさしてきた。
だいたい基本的に根が明るい所のある加古川にとって、こういう暗い雰囲気は嫌いだった。切羽詰まっていないときくらい、明るく仕事がしたいタイプだ。
だから、いつものようにふっと漏らした冗談を、真面目に返答されて気まずくなるような今の雰囲気はいい加減にしたい。
そろそろ限界だな。
どうやら自分の力では回復できそうにない宮城は、こちらから背中をけっ飛ばすつもりでいかないといけない。
そう判断した。
「宮城くん!」
少し怒気を含んだ言葉で呼びかける。
と、宮城の躰がびくりと震えた。
明らかに何かに気を取られて、こちらの動向に気づいていなかった証拠だ。
加古川はため息をつくと、宮城を見遣った。
「はい」
しまった、というように押し殺した返事がようやく返ってきた。
「何をぼうっとしている。頼んでいた契約の資料と監査資料はどうしたんだ?」
わざと苛々と言いつけると、宮城がびくりと顔を引きつらせた。
「申し訳ありません」
ばたばたと机上から資料を取り出そうとした途端、無造作に積み上げられていたファイルの山が雪崩を起こした。
「あっ」
小さな悲鳴がその口から漏れる。
ばさばさと音を立てて落ちてしまったいくつかのファイルは、リングが外れて中の資料が散乱していた。
それを愕然と見遣っている宮城。
「君は……」
重傷だな……。
ため息をもらす加古川に宮城が頭を下げる。
「すみません……」
だが、それらの資料を集めていた宮城の手がふっと止まった。
そのファイルの背表紙が目に入る。
その名前が琴線に触れる。
どこかで……。
単に取引先という以外でどこかで見たことのある名前。
そして、宮城の動きが何かを示唆していた。
だがすでに宮城は、集めた資料をばさりと机の上に置き、ばらばらになった資料を必死で分類している。
まあ、急ぐ仕事ではないか……。
幸いにして、今日の加古川のスケジュールは比較的ゆったりとしていた。
そのせいで、この宮城の不審な行動をじっくり観察する時間はたっぷりあった。
このお気に入りの部下の悩みを何とかするのも上司の役目……とばかりほくそ笑む。
とりあえずヒントはさっきの会社名か……。
どこで目にした名前だったか……。
椅子に深く腰掛けて、机上に頬杖をついて考える。
その視線の先の宮城を観察しながら。
しばらく考えていたが、どうしても思い出せない。
私はそんなに記憶力が悪い方だったろうか……。
加古川は自嘲めいた笑みを口元に浮かべると、微かなため息をついた。
ようやく資料を整えた宮城が申し訳なさそうに加古川の元にやってくる。
「お待たせいたしました」
「ん」
受け取った資料は、先程の会社のファイルも含んでいる。
それを最初に引っ張り出すと、ぱらぱらとめくった。
「ああ、ちょっとここにいてくれ」
自席に帰ろうとした宮城を、呼び止める。
「はい」
怪訝そうな顔をした宮城だったが、それでも加古川の隣に立って様子を窺っていた。
その前でわざとそのファイルをじっくりと見る。
だが、今はあの時の動揺は見られなかった。
外れか……。
僅かに落胆の色を見せた加古川だったが、ふとあるページで手が止まった。
そこには、担当者から貰った名刺がコピーして挟まれていた、その名刺が先程と同じ琴線に触れる。
これは、どこかで。
社長である加古川は、この名刺を直接貰った覚えはない。
担当者が貰った物をそこにコピーして資料として挟んでいるものだから。
だが、そのデザインに覚えがあった。
それもちゃんとした名刺として目にした覚えがある。
「宮城くん、この会社を知っているか?」
秘書として知っていて当然であるのに、わざとそう聞く。
「はい」
「君は、ここの会社の人間と会った事があるかね」
返答に一瞬間があった。
上目遣いで窺っていた宮城の表情に戸惑いが浮かんでいるのを加古川は見逃さなかった。
「いいえ、直接お会いしたことはありません」
その声に動揺も何もなかった。
だが、加古川にはそれが嘘だと感じられた。
「そうか」
それ以上追求してもこの幾分頑固な秘書は何も言わないだろう。
加古川は宮城を自席に戻し、その名刺をじっと見つめた。
私は、この名刺を知っている。
手にとって見た記憶がある。
だが、この名前ではない。そこに書かれている担当者名は誰も記憶にはなかった。
では、どこで……。
ちらりと宮城を見ると、残りのファイルを片付けている。
その後、大きめにとった窓の向こうが、灰色に染まっていた。
雨……。
ぽつりぽつりと窓に張り付く水の線。
それが少しずつ増えていく。
「雨……」
思わず口について出た言葉が宮城に届いたらしい。
彼もふっと窓の方を見た。
途端にその表情が微かに歪む。
雨……。
コンビニ……。
財布の名刺……!
思い出した。
あの時の名刺だ。
加古川は慌てて自分の財布をとりだした。
あの時の名刺。
そうだ、この会社だ。
机の上に出された名刺にはっきりと書かれた会社名は確かにそのファイルと同じ会社だった。
そう言えば、あの時。
確か、宮城の行動に不審を抱いた。
あのコンビニで宮城が拾った財布に入っていた名刺。
空港で宮城が電話で話していた内容を聞いた時、不審に思ったのだ。出張は木曜日の早くに帰れるはずだった。なのに、金曜の夜に帰ると嘘を付いている。
それが気になってこっそりと抜き取ったのだ。
宮城の様子がおかしくなったのはそのころからだ。
どう見ても、この名刺の相手が原因としか思えないではないか。
葉崎勇一……。
紛れもなく男の名。
単純な恋の悩みかなと最初は思っていた。
だが、これは……どう見ても男じゃないか。
ちらりと宮城を窺う。
一心に資料を片付けている宮城がそういう趣味であるとはついぞ思ったことはない。
友人で……喧嘩したのか?
それで仲直りできないとか……。
だが、そういう簡単なものではなさそうだ。
それにあの時の様子だとあれが初対面だ。それは判る。
友人というレベルではないはずだ。
では、一体何があったというのか?
ふと気がつくと、どこかうきうきと考え込んでいる自分がいた。
そんな自分に苦笑を浮かべる。
私は何をやっているんだか。
だが、それで考えるのをやめるつもりはなかった。
幸いにして現在の業績は順調だ。
仕事も落ち着いている。
だとしたら、こういう楽しみもあってはいいのではないか。
割り切ってしまうと、考えるのがひどく楽しくなった。
葉崎勇一、か。
びしょ濡れで走っている姿しか目にしていない。
まだ若そうだったな。
轢きそうになったと、宮城がひきつった顔で振り向き、急いで出ていった後の事はあまり良く知らない。帰ってきたときには、見慣れぬ財布を拾ってきた。
コンビニでも預けておけと言ったのに、後で連絡しますから、とそのまま持っていったその行動からして不審ではなかったか。
一体どういう心境になったのかは判らない。
だが、あれがもし女性であったなら、一目惚れという状況と似通っていないか?
男が男に一目惚れ……というのは有りなのか?
全くないとは言えないとは思うが……。
憧れとか、そういう類なら判らないでもないのだが、そういう相手のようには見えなかったが……。
男と男……。
本気で想ってしまったのだろうか、宮城は。
だが、そう思わないと今の宮城の様子は判断がつかない。
これが恋煩いだと思えば、ぴたりと当てはまる。
なんてこった。
そんなもん、相手がそうでない限り絶対に結ばれる物では無いではないか。
加古川は眉間に皺を寄せると、微かに唸った。
男と男ぉ……。
何が面白くて、そんな相手に惚れたというのだ?
い、いかん……煮詰まってきた。
加古川は眉間の皺を指で押さえた。
ああ、もう。
「宮城くん」
「はい」
頭を上げ、こちらに視線を向ける宮城に、にっこりと微笑むと口を開いた。
「君は葉崎勇一を知っているかね」
「え!」
がたっと椅子が転がった。
机に手をついて立ち上がった勢いで、端に置いてあったファイルが再び床に落ちる。
「あ、あの……」
その音に、自分の狼狽ぶりに気づいて、慌ててそのファイルを拾い上げる宮城。
だが、その様子から加古川は自分の想像があながち外れていないのに気がついた。
「知っているようだな」
「……はい」
誤魔化せないと判断したのか、宮城が頷く。
「で、喧嘩でもしたのか?」
途端に宮城がその口元を歪めた。
泣き笑いのようなその表情を見つめる。
「宮城くん、君が誰を想おうが私は別に構わない。だが、それで仕事に支障をきたすようでは困る。その原因である彼について、一体どういう関係なのか私は是非とも聞いてみたいね」
その言葉に宮城の顔からすうっと血の気が失せる。
いつもはっきりと相手を見つめているその視線が、所在なげに宙を舞う。
くっと引き締められたその口元は、今のままでは何も発しそうになかった。
「宮城くん、言いたまえ」
再度強く言う。
「……申し訳ありません」
言ったきり、再び固く閉じてしまった口。
それにため息で答えると、宮城が深々とお辞儀をした。
「仕事に集中していなかったのは否定できません。今後気をつけます」
それを見つめ、逡巡する。
どうしたものかな?
放って置いて何とかなるくらいなら、こいつのことだ。もうとっくの昔に何とかしているはずなのだから。
だが……。
無理強いをしても言いそうにないその態度。
直接攻撃ではいかんともしがたいその鎧を被った姿に、加古川は宮城を攻めることを諦めた。
「わかった。がんばってくれたまえ」
そういうしかなかった。
だが、まだ手段はある。
ちらりと向けた視線の先の名刺。
さて、どうしよう。