再度彼から電話があったのは、金曜日の夕方、出荷のピークの時間だった。
友人から借りれた金と平日であまり金を使用しないからそんなに困っていなかったが、それでも連絡が来たことにほっとする。
「す、すみません。お待たせいたしました!」
乗っていたフォークリフトを同僚に任せて走って事務所に戻る。その僅かな距離で息が上がってしまい、ごくりと唾を飲みこんで無理矢理息を整えた。
『すみません、お忙しい時間に。財布の受け渡しの件で』
声の調子と周りから入る喧噪に、相手もマズイ時間だと認識したのか申し訳なさそうだった。
「えっと、どうしましょうか?」
ちららちと出荷場の様子を窺いながら、答える。
『駅の西口にあるホテルの一階に雅(みやび)っていう店があるんで、そこに8時というのは?』
そのホテルの名前は知っている。
ビジネスホテルで別の工場の人間も出張してくるときにはよく利用している。確か、一階と地階に食事のできる店が合ったはずだ。
それに8時なら、なんとか……。
夕方に出荷が集中するせいで残業になりやすい葉崎の仕事だったが、今日の様子ならそう遅くならない内に帰れるだろう。
「わかりました。伺います」
さらに新しいトラックが入ってきたのを見て取った葉崎は、焦っていた。
あまり深く考えずに返事をする。
『で、お待ちしております』
「はい、失礼いたします」
がちゃんと音を立てて受話器を置いた葉崎は、急いで空いていたフォークリフトに乗って作業を始めた。
雅って……どんな店だっけ?
ふと沸き起こった疑問は、同僚達の呼びかけに立ち消えた。
一旦帰って電車で駅に出た葉崎は、その雅という店の前で茫然と突っ立っていた。
これって……ラウンジじゃねーか。
ホテルの奥まった一角にあったそこは、出入り口は開放されていたが、間接照明だけの暗い雰囲気。しかもまだ早い時間のせいか、他に客がいそうになかった。
まだ、来ていないみたいだよな……。
中の様子を窺うにつれ、入るのに躊躇ってしまう。
葉崎はあまり酒が飲めなかった。
会社の飲み会でビールを少し飲むだけしかできない葉崎にとって、こんな店は来たことがない。
今、入ったら……なんか頼まなきゃいけなくなるよな……。
何を頼めばいいかもわからない人間だから、とてもじゃないが入る気にはなれなかった。
何で、こんな店を選ぶ……。
微かな記憶しかない宮城の姿が脳裏に浮かぶ。
葉崎はため息をついて、その店に背を向けた。
もう少し、外で待ってよ〜。
と、振り向いた目の前に人がいた。
「あ、すみません」
慌てて避けようとした瞬間、その肩を掴まれた。
「え?」
「どうしたんです?」
見上げた顔には覚えがあった。頭一つ分上にあるその顔にサングラス。
「あ、の……宮城さん、ですか?」
「そうです。葉崎さんですよね。どちらにいかれるんです?」
笑いを含んだその物言いに葉崎は羞恥に顔を赤らめた。
どうやら、うろうろしている所まで見られていたらしい。
「あ、の……まだ来られてないって思って、その」
もともと口が回る方ではない葉崎にとって、こういうのは特に苦手だった。
「さあ、行きましょう」
強引と言って良いほど、強くその腕を引っ張られて店の中に入る。
その力強さに、転けた自分を引っ張り上げたくれた時の事を思い出す。
カウンターに行くのかと思ったら、外からは見えなかった所のボックス席へと連れて行かれた。
宮城はこういう店に馴れているのか、気が付いたら彼の指示であっという間にテーブルの上には水割りができあがっている。
すげー、慣れてる……。
葉崎はその様子を茫然と見つめるばかりだった。
「どうぞ」
サングラスを外しながら、宮城が勧める。初めてみた目はやはり鋭い視線を見せてくれるが、面と向かって対峙してみるとそれほどの恐怖は感じなかった。
ごくりと水割りを飲み込むと上目遣いで宮城を窺う。
それほど年がいっているようには見えなかった。
オレより上かなあ……。
こういう場でも堂々としているし、体格がやたらいいからスポーツマンに見える。あまり職場にはいないタイプだと思えた。
コンビニで一目見たとき受けた第一印象は、ヤクザだった。だが、こうしてみるとそうでもなさそうだ。慣れていないのを気遣ってか、さりげなくフォローを入れてくれる。
優しい人なんだろうか?
と、宮城が顔を上げた。
ふっと視線が絡み、葉崎は慌てて俯いた。
ばっか、オレって……何やってんだ。
何故か心臓がどきどきと早くなる。羞恥に赤くなる自分が信じられない。
「あの……」
「はい?」
放っておくとひたすら飲む羽目になりそうだと、意を決して宮城に視線を向けると、宮城と目が合う。その目が葉崎を見て笑っている。
ああ、もう……笑われてる……。
一度そう思ってしまうと、どうしても恥ずかしくて、視線を合わせられない。
「……財布……」
「ああ、そうでしたね」
宮城が傍らに置いていたバックから、葉崎の財布をとりだした。
「どうぞ。確認してください」
言われて受け取ってみた財布は確かに葉崎の物で、中身もそのままだった。
「ありがとうございます」
ちらりと宮城を窺うと、宮城の表情がふっと崩れた。
「大丈夫でしょう?」
くすりと笑うとほんとうに目元が優しくなる。
それにほっとした。
「はい。ほんとにありがとうございます。私、電話頂くまで気付いていなくて……だから、びっくりしました。拾ってくださってありがとうございます」
「いえ、気が付いたときにはあなたの車は道に出ておられて……私も自分が出かけるのだということを忘れていましてね。コンビニに預けるのも不安でしたし……そう言えば」
宮城がいきなりくすくすと笑いだした。
「あの?」
何なんだ?
オレ、何か笑われるような態度取ってる?
狼狽える葉崎に、宮城は申し訳なさそうに首を振った。だが、それでもその口元から笑みが消えていない。
「すみません……その、コンビニであなたが転んだシーンを思い出してしまって……大丈夫でしたか?随分と濡れていましたし」
うっわーーー。
思い出すなよ、そんなこと!
その言葉にかあっと全身が熱くなる。
「大丈夫でした!」
恥ずかしくて、手にあったグラスの中身をごくごくと飲み干してしまう。
それでも赤くなってしまったのを誤魔化しようがなく、宮城がたまらないと言った感じで俯いたまま肩を震わせている。
この人……もしかしなくても笑い上戸?
声を殺して必死で堪えようとしているのは判る。だが、ここまで笑われると何だかムッとしてくる。
「宮城さん、そんなに笑わないでください……」
「す、すみませんっ!なんか……止まらなくてっ!」
「まあ……オレがドジったんだけど……」
ぶつぶつと呟くと、ようやく宮城が落ち着いてきたのか顔を上げた。その目尻に涙が浮かんでいる。
そこまで笑うことか……。
「すみません、ほんとに。笑うつもり無かったんですけど……あの時のあなたの慌てぶり思い出しちゃって……」
申し訳なさそうに謝る宮城は、とてもヤクザなんかには見えない。
ほんと、あの時、なんであんなに慌てちゃったんだろう。今みたいな表情だったら、あんなに慌てることは無かっただろうなって思う。
それほど、笑い転げる今の宮城は人懐っこそうな印象を与えた。
「それと、敬語、使わなくていいですよ。さっきオレって言っていたでしょう。普段はそれなんでしょ?」
「え、えっと、まあ」
よく気が付くんだ。
「オレも……そうするから、ね」
悪戯っぽくその表情を崩す。
「でさ、オレって怖い?」
いきなり来たその台詞に、葉崎は息を飲んだ。
気付かれてた?
何も言えない葉崎の前に新しく作った水割りを差し出しながら、宮城がくすりと笑う。
「いつもそうなんだよね。オレの顔と体格のせいで第一印象が悪くってさ。だから、葉崎さんみたいな態度取られるんだ」
げげっ!
「しかも、あの時、会社の車でさ、もうヤクザそのまんまだった?」
ば、ばれてる……。
葉崎の引きつった顔がまさに肯定している。判っているのだが、こういうときに仮面を被れるほど葉崎は人付き合いに馴れていなかった。
「ご、ごめんなさい」
だからそういうしかなかった。
「あ、ああ、いいんだって。馴れているし。ほんと、葉崎さんだけじゃなくってさ、いっつもそう。まして、オレの目つき悪いしね。んでサングラスかけるんだけど、それはそれで人相悪くなるらしいし……もう、駄目」
さらりと言っているが結構気にしているのだと判る。
「あ、あの、でも、さっき笑ったとき怖くなかった……。すごく優しそうに見えたから……」
って、これってフォローになってねー!
自分の口べたには呆れてしまう。
「そう?そう言われてると嬉しいなあ」
だが、宮城は本当に嬉しそうににこにことしている。
あ、よかった。
「あの、宮城さんって仕事何を?」
「あ、ああ、言っていなかったけ。オレ、これでも普通のサラリーマン」
「えっ!」
思わずまじまじと宮城を見つめる。
「あ、信じてない?でも本当ですよ。ちゃんと勤めているんだけどね。ただ、営業とかそういうんじゃなくて、お偉いさんのお付きって感じかな。秘書見習い……が合っているかなあ……この前もうちの重役のお付きで出張に出るところだったんだ。あの車の後ろに座っていた人がオレの担当の人……って、スモークガラスだから見えないか」
「そ、そうなんだ……」
この人が秘書……どっちかっていうとボディーガードっぽい……。
「あの日は仕事で出かける時で、それなのに出かけようとしているの忘れて、帰って届ければいいやっと思ってさ。ドジだろ。人のもの3日も預かるなんてマズイって思ったんだけど、あの雨でなかなか空港に着けなくて、届け出する暇もなくてさ。ごめんね」
「いえ、宮城さんでよかったです。拾ってくれたの」
ほんとうに……普通だったら戻ってこなかった。
「どうしてかな?」
ふと、宮城がそう呟いた。
「え?」
「いや、何でもないんだ」
言葉を濁す宮城に葉崎は首を傾げる。
「オレね、もう一回葉崎さんに逢いたいなって思ったんだ」
いきなり、切り出されて思わず吹き出しそうになった。
「な、何で?」
「何でかなあ……もしかして、これって一目惚れ?」
にやりと嗤いながら、葉崎を見やる。
「な、何だよそれ、オレ男だよ」
慌てふためく葉崎に宮城は可笑しそうに笑う。
「男でもさ、気になる人っているじゃない。葉崎さんてそんな人だよね」
それは何か?
オレが女みたいなのか?
じろっと睨むと宮城が肩を竦めた。
「あ、怒った?」
その様子が妙に子供っぽくて、ふと顔が綻んだ。
「ああ、やっぱり笑っている方がいいや。葉崎さんさ、転んだとき照れ笑いしたろ。それ、もう一回見たいと思った」
……それって、オレは見られたくない……。
「あはは、気にしないでって。ところで葉崎さんって何歳なんですか?オレ、25だけど」
「へっ」
25〜?
思わずまじまじと葉崎のその顔を見てしまった。
「あ……見えないんだ、やっぱ……いいんだ、オレって、30代?なんて言われたことあるから」
あ……気にしてたんだ。
苦笑いを浮かべる様子から、容姿を言われるより結構堪えるんだと判って申し訳なく思う。
「あのさ、オレは28なんだけど……オレも年相応には見られなくて……」
「え?28歳、なんだ……」
あっ、やっぱり若く見られてた。
この年になって高校生に見られることは少なくなったが、それでも5〜6歳はいつも若く見られる。どうやら大きな目がそう思わせるらしいが、こればっかりはどうしようもない。
「だからさ、お互い様ということで……」
「あ、ごめん、オレ、年下かと思って……それで」
だから、気にするなって……余計に気にするじゃないか。
「ね、オレ達ってもしかしなくてもオレの方が年上で、葉崎さんが後輩か何かって思われるのかな、こうしていると」
「……そうかも」
葉崎自身実はそう思っていた。
年下には見えない、はきはきとしてしっかりとした態度。
羨ましいと思う。
「葉崎さん、あのさ、これからもこうやって逢わない?オレ、何か葉崎さんのこと気に入っちゃって……図々しいやつだと思うかも知れないけど……どうかなあ?」
オレと?
思わずきょとんと宮城を見つめる。
「何で?」
「何でって言われても……そう思ったんだけど……駄目かな」
困ったように首を傾げて笑いかけるその姿にふと見惚れてしまう。
「別にいいよ」
ほとんど無意識の内にそう答えていた。
「ほんと?よかったあ。断られたらどうしようかと思った」
なんだか、告白されたみたいに感じるのはなんでだろう。そんな事が脳裏を過ぎり、ふあっと顔が熱くなった。
やばっ。
これ、何だ?
内心の動揺を悟られたくなくて葉崎は慌ててグラスに口をつけた。
躰の中からかっかっと熱が上がってくる。
気が付くとまた水割りを飲み干していた。