【どしゃぶり注意報】  1

【どしゃぶり注意報】  1

 ひどく雨が降っていて、視界が悪い朝だった。
「何でこんな日に寝坊するんだ、オレは」
 葉崎勇一は、ワイパーを使っても見づらい視界にぶつぶつと文句を言いながら車を運転していた。山間の道を通り抜ければすぐに会社なのだが、その手前のコンビニに車を入れる。
 タイヤが水を弾く音が無くなり、エンジン音すら止まると、車の屋根に当たる雨音が、激しさを持って車内に響いてきた。
 遅刻寸前で時間はあまりなかったのだが、慌てて家を飛び出したせいで朝食用のパンを持ってくるのを忘れたのだ。
 葉崎の会社は、クリーン度を要求される会社であるが故に専用の作業服に着替える。そうなると、よっぽどの事でもない限り工場外に出ることはない。かといって、中に売店がある訳でも無い。
 つまり朝食を忘れると、その日昼まで自販機の飲み物以外胃に入れることが出来なくなるのだ。
 遅刻ぎりぎりの時間とは言え昼まで食事抜きというのは、28歳とはいえ食欲だけは旺盛な葉崎にとっては耐えられなかった。
 車から出てコンビニに入るまでの僅かな距離の間に大粒の雨のせいで生地の薄いシャツがしっとりと濡れ、躰の線を浮かせていた。仕事が力仕事だから、適度に筋肉はついているが、元々が華奢なせいで、躰の線が露わになるのを葉崎は嫌う。
 ちっと舌打ちすると、貼りつきかけたシャツをぱたぱたとはたいた。少し茶がかったさらりとした髪が、今はしっとり濡れて額や頬に貼り付いていた。それを手で拭うとコンビニの中に入る。
 うわっ、多い!
 コンビニの中は、葉崎と同じく朝食を手に入れようとする人達のせいで、ごった返していた。一瞬怯んだが、それでもどんなときでも元気な胃が食物を求めているのには逆らえなくて、ため息を付きながら並んだ。苛々しながらレジを終わらせ、コンビニを出る頃には、僅かにあった余裕の時間すら無くなっている。
 しかも、外ではさらに激しさを増した雨が、叩きつけるように降り注いでいた。
「ああ、もう!」
 一声愚痴ると、ぎりぎりまで軒下を行き一気に駆けだした。車まで10歩も走れば着くはずだった。
 と、視界に黒い影が入った。
「あっ!」
 それが車だと頭が理解する前より早く、躰が反応する。たたらを踏んで方向転換しようとした瞬間、濡れた路面で足が滑った。
 マズっ!
 思うより早く激しい尻もちをつく。脳天まで痺れるような痛みに頭が一瞬雨を忘れた。
 だが、冷たい感触が急速に意識を呼び戻す。
 同時に明確な痛みが全身を襲った。
「ったぁっ〜」
 それほどスピードの出ていなかった車は、葉崎の寸前で止まっていた。
 ばたばたと落ちてくる雨と、路面を覆う水たまりのせいで、シャツからスラックスから全身びしょ濡れの状態で、しかも痛みのせいで動けない。
 ……オレって……ドジ。
 何とも言えない恥ずかしさが込み上げ、痛みに顔をしかめたまま思わず周りを見渡してしまう。
「大丈夫か!」
 車から運転手が飛び出してきた。
 彫りの深い顔立ちに濃い色のサングラス。がっしりとした体格。車が黒のセダン。
 うわっ!なんかやばそ!
 動けない葉崎の腕をその男が掴んで引っ張り上げる。葉崎とて仕事柄力の強さではそう引けを取る物ではなかったが、それ以上の力強さを感じる。それに呆気に取られながらも、相手の姿を再認識した途端、はっと我に返った。
「す、すみませんでした!」
 ぺこんと大きくお辞儀をすると掴まれていた腕を振り解き、脱兎の如く自分の車へと駆け寄った。
 リモコンキーで鍵を開けると、シートが濡れるのも気にせずに飛び込む。
 エンジンをかけながらふと外を見ると、先程の男が軒下に入ってこちらを窺っているように見えた。サングラスに隠れたその視線がきついような気がして、肩を竦める。
「やっべー」
 別に何か悪いことをした訳ではないのだが、ああいうタイプはどうも苦手だ。
 というか、ああいうタイプが得意な人がいるのかという方が疑問だった。
 葉崎は、完全に濡れてしまった前髪を掻き上げると、さっさと車を出した。

 遅刻寸前で葉崎はロッカールームに飛び込んだ。
 間に合ったこと自体は奇跡に近い。
 だが。
「葉崎ぃ!お前、どうしたんだ、それ?」
 すれ違う同僚達が唖然と葉崎の姿を見つめる。
 それもその筈、葉崎は上から下まで見事なまでに濡れていた。薄地のシャツが張り付いて下のTシャツが透けて見える。もともと柔らかな髪はべっとりと張り付いていて、水滴が落ちてこないのが不思議なほどだった。
「コンビニで滑ったんだよ」
「ドジ」
「ひでぇなー、それ。ドライヤーで乾かせよ」
「ああ」
 言われなくても濡れた部分が冷たさを伝えてくる。いい加減気持ち悪かった。
 なおも言い募ろうとした同僚達だったが、始業を知らせるチャイムの音に慌ててロッカールームを飛び出していった。葉崎も慌てて服を脱ぎ始める。
 貼り付いた服は、脱ぐのにも一苦労だった。
 じっとりと濡れた服は、ハンガーに掛けてロッカーの中にぶら下げる。
 臭いが籠もりそうで嫌だったが、外に干していたら目立ってしようがない。それでなくても噂はあっという間に広がるだろうが、だからといってその証拠をわざわざ晒すのも嫌だった。
 念のためにとロッカーに常備してあったTシャツとソックスに着替えるとその上に作業着を着込む。
 どことなくしっとりとしたトランクスが気持ち悪かったが、さすがにそれの替えまでは置いていなかった。
「あ〜あ」
 朝から力を使い果たしたような脱力感に襲われながら、葉崎は深いため息をついた。
 結局、葉崎の仕事場である出荷場事務所に辿り着いたときには、始業から5分ほどが経っていた。
 とりあえず始業前に工場にさえ入っていれば遅刻にはならない会社なので、女性アシスタントの佐野に軽く挨拶をするだけで仕事に入れる。
 葉崎の仕事は、出荷業務に伴う様々な作業であったが、出荷自体が午後に集中するため、午前中は手が比較的空いている。
 午後に向けての下準備をしながら、端末で出荷データの確認をしていた。
 午前中だけは静かな事務所に、かちかちとキーボードの音とプリンタの音だけが響く。そこに電話の呼び出し音が鳴った。それを佐野が取って一言二言言葉を交わす。
「葉崎くん、電話」
「誰?」
 転送された電話を取りながら、彼女に声をかけると「ミヤギさんって」。
 知らない名前に首を傾げる。
「お電話代わりました、葉崎です」
『あ、ああ、もしもし、宮城健也と申します』
「宮城さんですか?」
 聞き覚えのない低い声に名前。
 もしかして、セールスか何かかな?
 そんな疑問がぶっ飛んだのは、相手の次の台詞だった。
『今朝、コンビニであなたを轢きそうになった車の運転手ですが』
「げっ」
 思わず出した変な叫び声に、佐野が驚いて振り向く。
 電話の向こうもそのリアクションに沈黙していた。
「え、あの、すみません。ちょっとぴっくりしたもので……」
 脳裏にあの顔が浮かんで、葉崎は冷や汗を流しつつ、電話を持ったまま頭をぺこぺこと下げていた。
『……まあ、そうでしょうね』
 返ってきた抑揚のない声に、怒らしたかとひびってしまう。
「あの、よく私が……」
『財布を拾ったら、あなたの名刺が入っていたので。複数枚入っていたから、たぶん持ち主の人だろうと』
「ええっ!」
 今度驚いたのは、財布を落としたという事実。
『紺色の革の財布で、テレホンカードとレンタル店のカードが入っていましたけれど』
 あまりの葉崎の狼狽えぶりにどこか笑いを含んだ声が電話から聞こえる。
 その並べられた特徴は、否がおうもなく葉崎の財布だと言っていた。
「そ、んな……いつ落としたんだろう……」
『こけたときですよ。あの後、見つけたんです』
 言われて思い出す。
 コンビニから出たとき、手に持っていた筈の財布。車に乗るときは、買った物が入った袋しか持っていなかったようだ……と。
「す、すみません……」
『それでそのまま預かっているのですが……』
 言い淀む電話の向こうでアナウンスの声が聞こえてきた。
「あ、あの……」
 聞いたことのあるそのアナウンスに、葉崎はぴんときた。
「もしかして、空港ですか、そこは?」
『ええ。これから出る所なんです。私はこれから関東方面に出かけるんで』
「え、ええっ!」
 本日何度目かの叫び。
『それで時間がなくて、どうしようかとお電話したんです。その、金曜の夜に帰ってくるんですが、そのまま預かっていても良いモノかどうか』
 金曜……今日が水曜だから、3日間。財布無し……。
『もちろん預かるだけですので、犯罪行為はいたしません。これはもう信じて貰うしかないんですけど……』
 それだけは、とばかりにきっぱりと言われる。
 いたしません……て言われても……。
 信用していいかどうか……。
『そのもう搭乗時間なのでどうしようもないって言うのもあるんですけどね』
 ため息混じりのその言葉に、葉崎も仕方なく返事をした。
「わかりました。金曜日にお返し下さい」
 信じて良いのか、とまだ頭の中で警戒を発する声がする。だからと言って、彼も飛行機の搭乗を遅らせる意志などなさそうだ。
『そうですか』
 幾分ほっとしたような台詞に、焦ってたんだろうなという気はした。
『私の電話番号と住所、お知らせしますので、よろしいですか?』
 その言葉に慌てて言われるがままにメモを取った。
 先に聞かなければいけなかったことに、葉崎は苦笑いを浮かべる。
『それでは失礼します』
 切れた電話をしばし呆然と見つめ、そしてゆっくりと受話器を置いた。
「どうしたんですか?」
 佐野が興味津々と言った感じで葉崎を覗き込む。
「いや、大したことじゃない」
 あははと笑い返す。
 それで納得していない佐野だったが、ちょうど入ってきたトラックの対応が入ったので、その場はうやむやになった。