緋だすき(3)

緋だすき(3)

21
 店の裏……って?
 和宏は表の駐車場に車を止め、灯りの少ない店の横を探るように通っていった。
 作業場らしき横に人専用らしい細い道があり、その向こうに窓と玄関の灯りが見える。
 店の裏だと電話で言っていたから、あそこが家なのだろうか?
 敷地内だからそうだろうと思うのだが、なんとなく違うような不安が胸の内から消えなくて、和宏は躊躇いがちに足を進めていたが。
「誰です?」
 いきなり背後から声をかけられ、跳び跳ねんばかりに驚いた。本気で心臓が口から出るかと思うほどの驚きに、和宏は振り返っては見たものの声が出ない。
 逆光ではっきりと見えなかったが、それほど背は高くない。少し横幅が広い体格でゆったりとした衣服を身にまとっている。
 それはどうやら作務衣のようだった。
「あ、あの……」
 言いかけて、だが何を言ったらいいのか?
 混乱する頭がぐるぐると回って収拾がつかない。それでも、相手の雰囲気が和宏を責めるような物ではないような様子に、勇気を出す。
「うちに何か用ですか?」
「こんな夜分にすみませんでした……。あの……僕は八木和宏といいまして……」
「八木……和宏君?」
 尻上がりの声は問いかけるようだったが、同時に数歩近づいてきて顔がはっきりと判ったのか、相手は穏やかに微笑んだ。
「英典を訪ねてこられたんですか?」
 その言葉に、和宏はようやく相手が誰か気が付いた。
 英典の父親で、備前焼作家の井波陶苑だ。
「英典なら、家にいますから」
「え?あ、はい……」
 その視線が和宏から奥の灯りの方に移る。
「どうぞ」
 先導するように招く彼に、和宏は黙って付いていくしかできなかった。
 彼は知っているのだ。
 英典の性癖と、その相手が和宏だと言うことを。
 ──否定はされなかった。
 英典はそう言っていたけれど、それでも葛藤はあるのではないだろうか?
 それなのに、こうしてのこのこと目の前に現れた相手に、彼は何とも思わないのだろうか?
 誰もが八木家の両親のように認めてくれるものではない。
 考え出すと、暗い方向に意識が向いてしまってとめどめもなく沈んでいく。
 そんな和宏に気付いているのかいないのか、目の前を行く彼がすうっと和宏を振り返った。
「実は、ずっとあなたに逢いたかったんです」
「え?」
 驚いて顔を上げるとばっちりと目が合った。
 英典と眉の形や口元がどこか似ている彼は、さっき出会ったときのままににこやかな笑みを浮かべている。それは和宏が思い悩んでいたことを否定するような表情だ。
「英典があなたでないと駄目だと言い切る理由を知りたくて」
「え?」
 呆けたように同じ言葉を繰り返していると判ってはいるのだが、それ以外の言葉が続かなかった。
 一体何を言いたいのかが判らない。
 だから、黙って次の台詞を待った。
「英典は、ずっと言っていたんです。自分は女の子は駄目だから……。もうずっと一人の男の子にしか意識が向かないから……。その時はそれが誰かはいくら問いただしても教えてはくれなかった。最初にそれを聞いたのは……高校生の頃だったのかな?その時は、まさか……と思いましたが、結局どんな女性にも何も感じないのだという告白に、私としても認めざるを得なかった」
 その声音にどことなく哀愁を和宏は感じてしまった。
 やはり父親としては複雑な心境なのだろう。声高に反対されないだけでも儲けものなのだ。
 ふと自分の両親の顔が浮かんだが、あの二人はやはり特別なのだと思うことにしておこうという気にもなる。
「和宏君は……英典のどこが気に入ったんです?」
 いらぬ事を考えていたせいで、頭が言葉を理解するのに数秒を要した。
 どこが?
 気に入った?
 脳内で単語が一つずつ疑問符付きでリピートされる。
「あ、あの……それは……」
 笑った顔とか……思ったより優しくて……楽しませようとはしてくれるとことか……。
 仕事に対しては凄く真剣で……怒られると恐いけれど……それでも最近は、褒めてもくれるし……何より彼は、……いつも自分の事を好きだと言ってくれる。
 英典の気に入ったところをつらつらと考えていると、ふわっと体が熱くなったような気がした。
 ふと気付くと、陶苑が真剣な表情で見つめているのだ。そんな彼に、今頭の中に浮かんだことなど言えようはずもなかった。
 どこの誰が、相手の父親に対してそういうことを言えるのだろう?
 少なくとも、和宏にはとてもそれを口に出すことはできなかった。
「和宏君……教えてくれませんか?一つだけでも良いですので……」
 その言い方は決して強制ではないのに、和宏は言わなくては、という気持ちになってしまう。
 どうやら彼は、その物言いから感じる優しさだけの人はないのだろう。
 やはり彼も和宏よりはるかに経験を踏んだ大人であり、そしてあの英典の父親なのだ。
 和宏はぎゅっと拳を作ると、陶苑を見つめた。
 少し低い背のせいでやや下げ気味になる視線の角度は、英典に対するものと同じだった。
「いつも……強い。僕にはない強さです。それに優しい……」
 言い出すと、口が動くことを拒否するように頬の筋肉がひくついてしまう。そのせいで巧く言葉が言い出せなかった。
 それでも、陶苑は和宏の言葉を根気よく聞いている。
「最初は好きだと言われて……戸惑って……。そんなこと受け入れられないって思ってました……。けど、気が付いたら、好きなんだと。彼に嫌われるのが堪らなく嫌で嫌で……。本当に惹かれていました。彼は……強くて、優しくて……仕事ができて……だけど、そんな彼にも挫折があったと……聞いたから……。それでもできることをしている英典が羨ましいって思ったりもしました」
 ああ、……何を言っているんだろう?
 陶苑を見つめていたはずの視線は、いつの間にか足下の地面を彷徨っていた。
 ほんとうに気が付いたら惹かれていた。
 そんな和宏にとって、それを言葉にするということほど難しいことはない。
 だんだんと小さくなった言葉は、最後には掠れるような囁きになっていて吐息とともに吐き出された。
「何もかもを含めて……好き……なんです」
 擦れたような音が和宏の耳に響いた。
 それが衣擦れだと気が付いたときには、和宏の肩に陶苑の手が置かれていた。
 顔を向けた先にあった厚みのある手は英典のものとよく似ている。
 モノを作り出す手だと思う。
「あなたのお母さんも昔同じ事を言いましたよ」
 静かな声が染みるように伝わってきた。だがその声音とは正反対の内容に、和宏はびくりと勢いよく顔を上げる。
「母が?」
「今と同じようなことを……多少細かいところは違いますが。そうですね、大まかなところは似ていると思います。私が和宏君に対して問いかけたのと同じ事の返事です。……ああ、その相手はあなたのお父さんですけれどね」
「父のこと?」
 一体何でそんなことを言い出したのだろう?
 思わず見つめた先で陶苑は微苦笑を浮かべていた。だがそれを見てとった瞬間、和宏の心が締め付けられた。
 ひどく、寂しそうだと思ってしまう。
 それ以上陶苑は何も言わなかった。
 そのまま踵を返し、オレンジの柔らかな灯りに照らされた玄関へと消えていく。
 どうして?
 和宏は陶苑が何故そんなことを言い出したのか、全く判らなかった。
 彼の後を付いていき、玄関内に入っても陶苑は振り返ろうとしない。
 もっと知りたいと思っているのに、彼の背中は和宏にそれ以上の問いかけを拒否しているよう見えた。
「英典っ!お客さんだっ」
 今までの静かな声とは打って変わって、はりのある声が家の中に響く。
 ドドドと響く音を立てて降りてきたのは英典で、何かを言いたげに口を開いているが、父親の前では言えないと判断したのか顔を顰めたまま口を閉じてしまった。
「和宏君、遅くなったら泊まっていけばいいからね。」
 そうは言うけれど。
 さっさと用件を聞いて……早く帰りたい。
 陶苑はそのまま家の奥へと消えていき、残された和宏はふと英典に視線を向けた。
 何かに堪えるような表情が浮かぶ英典に、何を言って良いのか判らない。
 微かに聞こえたため息に訳も判らず嫌な予感がした。
「あがって。俺の部屋、二階だから」
 その声にぞくりと背筋に悪寒が走る。だが、その正体は和宏には判らなかった。
 促されるままに靴を脱いで付いていく。
 恐かった。
 だが、訳も判らず逃げようとは思っていない。
 英典がなぜ呼び出したのか、それだけは聞きたかった。
22
 英典の部屋は、和宏と同程度の広さを持っていた。なのに狭いと思う。
 英典の様子は気になったが、他人の部屋というのも久しぶりで思わず見回してしまう。
 和宏の家も両親のお陰で、備前焼はいろいろなところに使われていたが、英典の部屋にもあちらこちらにそれが置いてあった。
 中には明らかに子供が作ったような指の痕がはっきりしている用途不明な物すらある。
 きっと英典が子供の頃に作ったのだろうと思うと、やんちゃな様子の子供時代の英典がふっと脳裏に浮かんで口元が綻んでしまった。
 穏やかな考えが、同じように穏やかな頃の記憶を呼び覚まさせる。
 庭先に作られた泥の海。
 築き上げられた泥の山に残る指の痕が階段を作っていた。それを築いているのは、どこかで見た面影を持つ子供。
 ああ……そうだ……。
 僕はこの光景をよく知っている……。
 確かに、和宏はその記憶を持っていた。
 思い出したまだ小学生低学年くらいの英典は、大人の今でもそのころの面影が残っている。
 どうして忘れてしまっていたのか?
 あの頃のものなのだろうか?
 伸ばした手がそれに触れる。持ち上げてみたいと思ったが、皿上のそれにはいろいろな小物が溢れんばかりに乗っていて、迂闊に持ち上げると落としそうだった。
 他にも、何かのおまけのような物が奇妙にひしゃげたようなカップ状のものに入っていたりと、この部屋には自然に備前焼が存在していた。
 そういうものに夢中になっていたのは、今英典と顔を合わせたくないと思っていたからなのかも知れない。
 だが。
 肩をぐっと引き寄せられ、油断していた和宏はバランスを崩して英典の方に背から倒れた。
 同時に、どこか鈍い音が部屋の中に響く。
 咄嗟に払おうとした手が、傍らの台の上にあった備前焼の皿に当ったのだ。勢いよく飛んだそれは、壁と床という二重の衝撃に堪えきれずに2つに割れ、中身を散乱させた。
 それが必死で足を踏ん張ろうとした和宏の足下を余計に危うくし、結局傾いだ体はそのままの姿勢で英典にきつく捕らえられる。
 腕ごと背から抱き締められた状態で、後を振り返ろうとしても英典はそれを許してくれなかった。
「離せって!」
 せめて言葉で拒絶しようとした和宏だったが、それは完全に無視された。
 抗うように肘から先の手を動かして、体の前の腕を掴もうとするが、和宏が動けば動くほど英典の腕に力が込められてしまう。
「こうやって……和宏の匂い嗅ぐのっていつ以来だっけ?」
 うなじに唇を当てるようにして囁かれ、ぞくりと背筋に甘い疼きが走った。
 咄嗟にその時の記憶が甦る。
 車の中、やんわりと抱き締められ、口内を貪られた記憶。
 荒い息を吐いて、朦朧とした意識を取り戻そうとしている和宏の首筋にねっとりと舌を這わされた。
 歓喜の声を上げる体が貪欲なまでに快感を欲した瞬間。
 その感触まで思い出してしまった和宏の体が粟立ち、小さく震えた。
 それはしっかりと英典にも伝わったのだろう。
 気が付けば、体を押さえつけていた筈の英典の手のひらが遊ぶように服の上から胸板をまさぐっていた。
 その意図は明確で、余計に和宏を混乱させる。
 止めさせたいのに、そこまで手が届かないのだ。
 しかも首筋にかかる英典の荒い吐息が、余計に和宏を煽った。
「や……止めっ!」
 制止の声すら、疼く体が止めさせる。
「た……のむ……ら……」
 込みあげてくる欲情の火を必死で消そうと努力しながら、和宏は潤んできた瞳に懇願を込めて後へと向けた。
 だが、それに返ってきてのは和宏とは正反対に冷静な声だった。
「ね、聞いているんだよ?いつだっけ?」
 言いながら、ぺろりと舐められる。
「んっ……」
 先程よりきつい刺激が全身を走り、思わず息を飲んだ拍子に声が漏れた。その甘ったるい声に、全身の血液が沸騰するかのような羞恥に襲われた。
 いつだったろう……?
 どう考えても、答えないと英典は許してくれそうになくて、和宏は必死でいつだったかを思い出そうとしていた。だがその合間にも、英典は啄むようにうなじに口づけ、尖らした舌先で和宏を責める。
「ん……うっ……」
 我慢していても思わず漏れる声を抑えたいのに、腕ごと抱き締められているせいで手を上げることはできなかった。
 あれはいつだったか?
 上木と食事に行く少し前だ。
 10日ほど前にようやく時間があって、一緒に食事に行って……。
 その帰りに、車の中で抱き締められて……。
 意識して思い出しなおすと、今度はさらにそれに煽られてしまう。
 あの時はキスだけだった。だが、しばらくまだ逢えないといつまでも名残惜しんで離れようとしなかった英典。
 ひどく官能的なキスに熱く高ぶった体を、家に帰ってから自分で慰めてしまったほど。
 細部に渡って思い出してしまった和宏の膝から力が抜け、がくりと体が沈む。英典に支えられていなかったらその場に崩れ落ちてしまっていただろう。
「思い出した?」
 明らかに変わった和宏の反応に、英典は抱き締めた腕をさらに強くして和宏の逃げ場を奪った。
「と……10日……前……っ!」
 必死で言い募った途端、ぐらりと体が傾いだ。
 驚きに見張った視界がぐるりと回転する。
 体が倒れたと認識した途端、全身を強張らせてその衝撃に堪えた。だが、以外にも柔らかなクッションに慌てて目を見開く。
 茫然と見上げる先には、天井の灯りが眩しく目に入っていたが、英典が覆い被さるようにのしかかってきて、いきなり目の前が暗くなった。
「ひ、英典?」
 一体何がどうしたというのか?
 眩しさに閉じかけていた瞳孔では、逆光になった英典の表情は見て取れない。
 たがらこそ英典が何をしたいのか、和宏には全く判らなかった。
 ぶるっと体の芯から怯えにも似た震えが起きる。
「たった10日も我慢できなかった?」
「なっ!ひっ!!」
 明らかに咎めを含む言葉に、何のことだ、と続けようとした途端、股間を膝でぐりっと押された。
 鈍い痛みが全身を硬直させる。
 快感に潤んでいた瞳は、痛みを堪えるように固く瞑ったせいで新たな滴が膨れあがり、滴り落ちた。
「痛かった?」
「やっ……何を……っ」
 膝から来る重みは少し和らいだが、今度は微妙な振動がそこかに与えられる。
 残っている鈍い痛みの中にむずがゆいような快感が湧き起こってきた。
「やめっ!ひ、英典っ!!何でっ!!」
 一体何がしたいのか?
 かなり怒っているとは判るのだが、その原因がわからない。
 英典は巧みに膝を動かし、和宏の股間に刺激を与え続けていた。
 湧き起こる快感は止めようがない。
 だが、それを与えているのが英典が、和宏を喜ばせようとしているのではないことは確かなのだ。
 そのことが和宏を責め苛む。
「ひ、英典っ、止めてくれっ」
 少しずつ形を成すそれが、恥ずかしくて堪らなかった。
 うっすらと瞼を開けた先で英典がじっと和宏を凝視している。
 何か怒らせることをしたというのであれば、謝ることもできる。だが、和宏には全く覚えがないのだ。あるとすれば、上木のことだが和宏は上木のことを何とも思っていないと言うのに。
「和宏さ……我慢できないんだろ?10日離れていただけで、あんな奴に言いようにされるなんて」
「我慢って?……英典、何言って?」
 あんな奴って……?
 英典の言っている事が何もかも意味を成さない。
「英典……あの……僕は何も……」
「あの上木って奴となんかしたんだろ?そう言っていたじゃないかっ!!」
 苦いモノを吐き出すように一気に言った英典の顔は苦悶に歪んでいた。
 だが和宏の方も、英典のあまりの台詞に言葉を失ってしまう。
 僕が……?
 上木さんと何かした?
 で……それを僕が言った?
「???」
 衝撃のあまり空白状態になった頭が、?マークを乱舞させていた。
 お陰で股間の刺激すら気にならない。肩に食い込む英典の指も、腰から太股にかけられた体重も気にならない。
 その一気に力の抜けた体とあまりに呆然とした表情に、英典も何かに気付いたように動かしていた体を停止させた。
 しばらくじっと和宏を見下ろす。
 その間も一生懸命考え込んでいる和宏の様子に、ふと英典は問いかけていた。
「和宏……言ったじゃないか?」
 途端に自信なさげな声になっていた。
 だが、その問いかけの意味も判らない。
「何を?」
 問い返すだけだ。
「だから、上木さんと……したんだろっ?」
 確認のように言われても、和宏の頭の?マークは消えやしない。
「何をするんだ?そりゃ、上木さんにつきまとわれて困ったけれど……それ以上のことはなかったし……」
 やっぱり昼間の上木の行動に怒っているのだろうか?
 ならば謝るしかないだろうし。
「あの……和宏……」
「ごめん」
 二人の声が重なってしまう。
 途端に、英典の形相がきつくなる。
「やっぱりしたんだ?」
「え?」
 何でそうなるんだ?
「電話でも、何かされたのかって聞いたら、ごめんって言うしっ!!一体何されたんだよっ!!」
「え?……ええっ?」
 そんな時にごめんって言ったのだろうか?
 慌てて記憶を引っ張り出すがいろいろ考えていたのは覚えているが、その辺りはいっこうに思い出せない。
「和宏っ!!」
 怒っている英典の手に再び力がこもる。
 しかし。
「あ、あの……その……何もされていない、けど……」
「だったら何で”ごめん”なんて謝るんだよっ!!」
 そう言われても……。
「あ、いや……なんか英典が怒っていたから……謝らなきゃとは思った記憶はあるんだが……」
 しかし英典の怒り方は半端ではない。ようやく彼が何かを邪推しているのだと気がついた。
「そういう勘違いさせるような時に……僕は謝っていたのか?」
 上目遣いで窺えば、英典は茫然自失といった状態で和宏を見下ろしていた。
「さっき、ごめんって言ったのは、その、怒っているから謝らなきゃと思っただけで……別に、何かされたからと言う訳じゃなくて」
 驚きにますます見開かれた目を向けて、英典はようやくぽつりと言葉を零した。
「ほんと?」
「本当」
 まっすぐに目を見て頷く。
「マジ?」
 喘ぐように舌にのせてきたその言葉に、はっきりと頷いた。
 途端に英典の体がゆっくりと背後へ倒れていった。
23
 仰向けに倒れたまま動かない英典が気になって、和宏は後ろ手をついて体を起こして窺う。
 ベッドの端から頭が半ば落ちかけた状態で固く目を瞑っている英典は、だが案に相違してその口元に微かに笑みをたたえていた。
 さっきまであんなに怒っていたのに。
 そう思うと、今の英典が何故笑っているのか、和宏には見当が付かない。
「英典?」
 窺うように問いかければ、その瞼がぴくりと震えた。
「英典……あの……?」
 再度問いかけると今度は瞼が開かれる。その瞳が宙を睨み、そしてゆっくりと和宏へと向けられた。
「情けね……」
「え?」
 ベッドの上にぺたりと座り込んだ和宏の視線の先で、英典がゆっくりと体を起こした。
 あぐらをかいて座り込み、ぽりぽりと頭を掻きむしっている。それはどう見ても照れ隠しで、現にその顔は羞恥のせいかほんのりと赤くなっていた。
「和宏は自分が悪いとすぐ思いこんでしまうタイプだって判っていたつもりだったんだけど……あの『ごめん』の見事なタイミングに我を忘れちまってた……」
 はふっと胸の奥から絞り出すような深いため息を吐く英典に、やはり自分が悪かったのだと和宏は自分を責めた。それが言葉になって出てしまう。
「あ……ごめん……」
「ほらね」
 それが悪いんだと、顔を半ば隠した指の隙間からきつい視線が言っているのに気付いて、口を噤む。
「和宏にとって口癖みたいな感じになっている。ごめんてさ、本当に悪いって思ったときに謝るものだろ?」
「でも……」
 悪いと思ったのだ、本当に。
 だから、謝ったのだけれども。
「ま、別に謝ることが悪いとは言わないけどさ……なんというか……妙な誤解を与えるタイミングなんだよな、和宏のごめんって……。あ、ああそうか……その調子であの上木って奴につけいられたのか……」
「え……そんなことは……」
 上木の事を口にした途端、英典の声音が低くなった。
 怒気を含んだその声音は和宏の苦手なもので、ひくりと肩が震える。
 嫌だ……と、心が逃げようとする。
 無意識のうちに視線が英典から離れ、逃げ場を探るように床を這い、ドアへと向かっていた。
「和宏?」
 そんな和宏に、英典が気が付いた。
「え?」
「どうした?」
 手が伸びて和宏の肩を掴む。
「何でもないよ……」
 そう何でもない。大丈夫。
 気が付いたらそんな事を考えている自分に、和宏は内心愕然としていた。
 どうして?
 問い返す先は自分の心だ。
 何故、英典がこんなに恐いのだろう?
「和宏?」
 英典が近づいてくる。
「あ……」
 込み上げてくる恐怖に、和宏は咄嗟に英典に抱きついていた。目を固く閉じてその胸に頬をすりつける。
 響く鼓動を感じた途端にふわっと心が軽くなった。感じていた恐怖心が、間違いだったのかと思えるほどにすんなりと消えていく。
 英典は恐い。
 和宏にとって、英典は絶対者なのかもしれない。
 ふと、そんな事に思い当たってしまう。
 彼の一言が、和宏を縛る。何かを言われるのが恐い。指摘されるのが恐い。
 それらが積もりつもって、いつか嫌われることになったらどうしよう。
 その瞬間までもを想像してしまって……心が恐いと萎縮する。
 だが……こうして、温もりさえ感じることができれば、そんな考えは払拭されるというのに。
「和宏……」
 訝しげな声ながら、英典の手が背に回されてそっと抱きしめてきた。
 とくとくとくっと、心臓が軽やかなリズムを奏で始める。
 何も言われたくない。
 何も言われないように頑張りたい。
 英典に嫌われないように、そう決意してきたのに、なのに何もできていない自分を、和宏は隠したかった。
 だから、英典が恐いのだと見透かされることも。
 上木のことだって、結局自分ではどうすることもできなかった。
「ごめん……」
 また謝っていた。
 だが、そうしたくて堪らないのだ。
 何もできない自分を言葉にしたくて。それが「ごめん」という言葉なのだとしたら、それを止めることなどできない。
 何も言わない英典の手が泣きたくなるくらいに優しく背を叩く。
 彼を繋ぎ止めたい。
 嫌われたくないから、頑張りたいとは思うけれど……その前に……繋ぎ止めたくて……。
 両手がきつく英典のシャツを握りしめていた。
 離したくないと、心が叫ぶ。
 触れられた部分から伝わる英典の鼓動が早くなっているような気がした。今まで軽くあやすように叩くだけだった手が、シャツ越しの肌の上で微かに蠢く。
 五本の指がバラバラに動き、時折強く弾いていった。その不規則なリズムは体の芯までの響きに、背に触れられた場所からじんわりとした熱が生まれ、そこから背骨を通して先ほどまで激情のままに触れられた箇所に集まっていく。
 自覚した熱は少しずつその威力を増していくような気がした。
「英典……」
 彼の意図するところを感じ取った和宏は、頬を寄せたまま小さく呟いた。
「いいよ……」
 欲しいのだと、訴える指の動きに、そう答えた。
 早くなった鼓動に触れた頬までもが熱くなる。いや、触れられた全てが熱くなって、股間を中心に荒れ狂い始める。
 それが意味するところは、考えなくても判った。
 手が勝手に動き、目の前の英典のシャツのボタンを外していく。
「和宏……」
 上擦った声が頭上から降ってきた。
 あの時……。
 熱に浮かされて欲しがった和宏を慰めてくれた。
 あの時もそんな風に呼びかけて、癒しを欲しがる和宏の心を慰めてくれたのだと思い出す。
 だから。
 シャツの下の肌にそっと唇を押し当てた。
「僕を……英典だけのものにしてくれればいい……」
 和宏の吐息が肌をくすぐったせいか、言葉のせいか、英典の体が小さく震えた。
「上木さんに翻弄されないように自分で頑張ろうと思った。だけど……そんなふうにまだなれない」
 なりたかったんだ。
 そうして、英典に認めて貰いたいって思っていたけど。
「だから……僕は英典の相手なんだって……その印が……欲しい……」
 性に対しては淡白なのだとずっと思っていた。
 だが、こと英典に対してだと芯から疼くのを止められない。
 それを鎮める手段を、英典にとって貰いたいと切に願ってしまう。
「いいのかよ?」
「いいよ」
 何を遠慮するのか?
 英典らしくない動揺をその問いかけに感じて、和宏は肩を揺らした。
 それを見咎めた英典が、「何?」と問いかける。
「最初は強引だったのになって思っただけだ」
 本当に強引にキスしてきたのは誰だったのか?
 それに英典は鼻白んだのか、背に回していた腕を外した。
 あ……怒らせた?
 和宏は不安に顔を曇らせて、そっと英典を見上げる。
「和宏って、意地悪いよな、結構……」
 くすくすと笑いに震える手が和宏の両頬を包み込む。
 細められた目が、和宏をじっと見据えたまま近づいてきた。
 触れる瞬間、それまでかろうじて英典の瞳を見つめ返していた目を閉じる。
 アップになった英典の瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えたからだ。
 ちゅっと吸い付かれ、離される。
 吐息がくすぐる様子で、英典がごく至近距離にいるのが判る和宏はそのまま目を開けることなどできなかった。ただ全身が沸騰しそうに熱い。
「ああもうっ!」
 苛立ちの混じった言葉の後、今度は激しく唇を合わせられた。
 柔らかな唇の肉越しに前歯が当たり、鋭い痛みが走る。だが微かに顔を顰めた和宏は、それでもいいとすら思っていた。
 快活な英典に羞恥も何もかも忘れるように欲して欲しいと思うから。
 痛みが、男を求めるという和宏の羞恥心を隠してくれるなら、それでもいいとさえ思う。
「……欲しい……ほんとに欲しいよ……。もう我慢なんてできない……」
 呪いのように唇の上で何度も呟かれる言葉に、和宏はうまく動かない顔を、何度も頷くように動かしていた。
 それが伝わったのを、掴まれた肩の痛みで感じる。
 貪るように唇を合わしていた英典がすっと離れた。
 濡れた唇に空気が触れ、ひんやりとしてくる。だが、すぐさま今度は唇の端に口づけられる。薄く開いた隙間から尖った舌が出てきて、端からゆっくりと和宏の唇をこじ開ける。
 それに誘われて和宏も唇と前歯を緩めると、すぐさま口内に進入してきた。
 肉厚で柔らかな舌が、力を込めることによって鋭く中をついてくる。
 くすぐったいような疼きが口の中から脳へと伝わり、脳を痺れさせていた。
 背に回された手が背筋のくぼみをなぞり、ズボンの中へと入っていく。だがまだ閉められているベルトに邪魔をされ、指の長さ以上は入っていけない。
 その場で探るように蠢く指に、得も言われぬ快感が背筋を駆け上がっていった。
「んく……」
 食いしばろうとした歯は、英典の舌に遮られてしまう。そのせいで、声を堪えることができないのだ。
 喉の奥から吐息が詰まったような音が漏れ聞こえる。
 それが荒いリズムを奏でた。
「ね……ベルト外して?」
「え?」
 唇が離れるとそんな言葉が聞こえて、和宏はぼんやりとした視線を英典に向けた。
 至近距離で唇くらいしか見えない。それが和宏を茶化すように笑みを形作っていた。
「ベルト……。外してくれないと、手が入らない」
「あ……」
 触れて欲しいなら、自分で緩めろと笑う。
 英典の真意が判って、途端に和宏の全身が火を噴くかと思うほどの熱が湧き起こった。
 日に焼けていない白い肌がうっすらと朱に染まる。
 それを英典が食い入るように見ているとも気付かない和宏は、英典の襟ぐりに手をかけたまま硬直していた。
24

 英典の要望に動けなくなった和宏の肌を、つかず離れずの距離で英典の残りの手が動く。
 下肢まで降りる寸前にそれは方向を変え、和宏の手首を掴んでいた。
「ほら」
 引っ張られるがままに指が自分のベルトに当たる。爪の先が金属部に当たって微かな音がしたような気がした。
「外して」
 視線の先で英典の手がベルトを掴む。それにつられるように和宏の手も動いて、カチャリと金具を緩めていた。
 喉がからからに渇いているのに、全身から汗が噴き出す。
 自分が何をしようとしているのか?
 判っているのに止められない。
 真っ白になった頭が、考えることを拒否するのだ。
 和宏の手が動いて、英典の助けを借りてベルトを外してしまう。そして、巧みに英典が前を緩めた。
 締め付けられていた腰が、ふわっとした開放感に喜ぶまもなく、英典の手がすかさず入ってくる。
「ひっ」
 微かな悲鳴が喉から漏れた。
 すでに固く猛っているそれが手の中に包み込まれ、引っ張られた布地が先端の敏感なところを擦ったせいだ。
「キスだけでこんなにも感じた?」
 違う、キスだけじゃない。
 和宏が感じたのは、英典にされた全てのことだ。
 抱きしめられて、キスされて、触れられて、言葉を交わして。
 こんなふうにからかわれて。
 その全てが和宏を煽り、そして英典を欲しいと思わせる。
 ふるふると首を振る和宏に、くくっと小さく笑った英典がゆっくりと唇を合わしてきた。
 否定を拒絶され、和宏はただ黙って口づけを受けるしかなかった。
 その間も、揉みしだくように動く手は止まらない。
 肌が粟立つような快感が脳随までいって弾けていく。
「ん……んぐっ……」
 羞恥なのか興奮なのか、判らない和宏の肌の色を、英典が薄く開いた目でじっと見つめていた。
 満足げな笑みすら浮かんでいる英典に、固く目を瞑った和宏は気がつきようもなくて、ただ英典の手の愛撫に身を委ねる。
 唇から離れた英典の唇が、のど元を這い、はだけられた鎖骨へと落ちる。
 柔らかなその傍らに、きつく吸い付かれて息が詰まった。
 離れるとそこには目にも鮮やかな朱色が残る。
 それを何度も何度も英典は繰り返して、朱を散らしていった。
「綺麗だ……」
 腰に力が入らなくなった和宏がベッドに横たえられ、覆い被さった英典がうっとりと呟く。
「好きだ……こんなに綺麗な肌の色……いつまでも見ていたい……」
「んあ……やっ……」
 限界まで高ぶったそれは、下着のゴムからはみ出して、華麗な色を覗かせていた。
 そこに軽く触れるだけのキスをした英典の手が一気に下着をずり下げた。
「くっ!」
 途端に、弾けるようにそれが跳ね上がった。
 引っかかった拍子に宙を揺らいだ後、和宏の下腹を打つ。反動で揺れ続けるそれを、英典は何の躊躇いもなくぱくりと口に含んだ。
「ああっ!」
 散々手で焦らされたそこが快感に打ち震え、脊髄から脳まで一気に電流が駆け上がる。反射的に四肢がぴんと伸びきった。
 だが次の瞬間には、柔らかく蠢く感触にその手がぎゅっとシーツを掴む。
「あっ……あっ……英典……やっ……」
 快感を受けるたびに、ぞくぞくとした疼きが体の中心を走る。
 あまりの快感に怖さすらあるそれは、だがそれを与えてくれているのが英典だというだけで、それ以上の幸福感に変化するのだ。
 どくどくと血が股間に集まる。
 弾けたいという欲求に、全身が硬直し、小刻みに震えていた。
 きゅうっときつく吸い付かれたその瞬間。
「あっ、やああっ!」
 ひときわ高い嬌声とともに和宏の精が英典の口内へと吐き出された。
 快感が大きかっただけ吐精した後の脱力感は酷くなる。
 普段の自慰では決して得られない快感に、和宏はすでに疲労困憊と言った体で、四肢を投げ出していた。
 一気に全力疾走したのと同じように、全身にうっすらと汗を掻き、荒い呼吸で小刻みに震える。その震えが未だ完全には萎えていない股間を揺さぶり、じんわりとした鈍い快感を与えてくる。
 何度も何度も息が詰まるような弱い快感をやり過ごしている最中だった。
「んくっ!」
 どことなく冷たい棒のような物が体の奥に突き刺さる。
 固い異物感に慌てて見開いた先で、片足を抱え上げた英典が股間の向こうで何かをしていた。
「ひ、英典っ?」
「辛い?」
 問いかける和宏に、英典が安心させるように優しく笑う。
 その間も少しずつ奥深く入ってくるその棒のような物は、その場の様子からして英典の指のようだった。入っていない指が周りの肉に食い込むほど、それが奥まで入る。
「つ、辛くはないっけど」
 そうは言ってみるが、中で動かされるたびに息が詰まる。
 初めての感覚は、全身を総毛立たせるほどに不快感を伴っていた。
 ぞくぞくと込み上げてくる寒気で、肌は総毛立っていた。
「んっくっ……」
 知識としてしか知らない行為を体が拒絶しようとする。
 それを、必死で受け入れようと和宏は努力していた。下肢と腰に入る力を緩めるために、意識的に力を抜こうとする。
 何度も大きく息を吸い、極力ゆっくりと吐き出すことに意識を集中した。
 喘ぐような呼吸の狭間に時折漏れ聞こえる湿った音に耳を塞ぎたいのに、両手は気がつけばシーツを握りしめているのだ。
「あっ……ふっ……う……っ!」
 不意に固く瞑った目の前が弾けた。
 先ほどよりの奥に入っていた指が一点を押した途端、妙なる快感が背筋を走ったのだ。
 一気に増した射精感に唖然とする。
「な、な。ひっ!」
 何度も何度も英典の指がそこを突く。
 そのたびに体が跳ねて、和宏は完全に意識をそっちに取られてしまった。
 無理に力を抜くこともできない。ただ、そこだけに意識が集中して、必死で達きたくなるのを堪えるだけだ。
 さらに入り口に引きつれるような痛みが加わる。
 眉根を寄せて切なそうに顔を顰めている和宏を窺う英典は、和宏の太ももに手をかけて持ち上げ、ゆっくりと、だが確実に和宏のそこを解し続けていた。
 英典の表情もひどく辛そうだが、自分の事で精一杯の和宏は気付かない。
「うっ……あ……あっつ……」
「和宏……もう……大丈夫だと……思うから……」
「え……?」
 声が近くに聞こえて和宏は閉じていた瞼をぼんやりと開けた。
 そのすぐ目と鼻の先に英典の顔があった。
 いつのしかかってきたのか気付かなかった和宏の体から、ゆっくりと指が引き抜かれる。
「んっ……」
 いきなり内部から熱を失ったような寒気に襲われて体が震えた。
 無理に拡げられて痺れたようになっている場所に、大きな物が押し当てられる。
「あっ……英典?」
 その問いかけに返事はなかった。
「ひいっ!!」
 咄嗟に手を伸ばして縋った英典の二の腕に和宏の指が食い込んでいた。
 食いしばった奥歯がぎりぎりと音を立て、痛みから逃れようと体がずりずりとずれていく。だが、すぐに英典によって引き戻され、そのせいでさらに深く入ってきた。
 切り裂くような鋭い痛みに、呼吸すらままならない。
 和宏は、ただ必死でその痛みに耐えていた。
 動くことができないから逃げられないのだ。 
「力を抜いて……息を吐いて……」
 遠くで聞こえる英典の言葉に従えと、判ってはいるがそれができない。体が無意識のうちに取る防御反応は、和宏の体を酷く強張らせる。
「や……やめ、て……」
 歯の隙間から引き絞るように漏らした言葉は、制止するものだ。
 あれだけ欲した英典なのに、さすがにそれを凌駕する痛みが英典を拒絶しようとする。
 痛みに溢れだした涙が目尻からこめかみへと流れ落ちていった。
「入りたいんだ……だから……ごめん……」
 それが酷いと思えないのは、その声音に切羽詰まった状態を感じるからだ。
 上擦って途切れ途切れの言葉が和宏を煽る。
 ゆっくりと入ってくるそれは確かな硬度を持っていて、閉ざされた場所を拡げていく。
「うっ!」
 堪らずに呻くハメになったのは、突き上げられている場所から、覚えのある快感が広がったからだ。すっかりと力無く項垂れていた和宏のものが、互いの腹の間でびくりと反応する。
 ぐいっと体が揺れるたびに、直接的な快感が痛みの中に広がる。
「ん、やっ……」
「和宏っ……」
 痛みと快感のない交ぜになった状態はひどく和宏を不安定にさせていた。
 痛いのに、逃げたいのに。
 体の奥は、弾ける快感を全て自分のものにしようと貪欲に欲する。
 逃げようとする体勢が次の瞬間には、さらに奥深くに銜えようとして英典の体に回した下肢に力を込めてしまう。
「いい……、和宏のここ……凄く締め付けてきて……気持ちいいよ」
「んっ……やっだ……動かないっ……ああっ」 
 ぐりっと弧を描かれたと思うと、深く穿たれる。
 気がつけば、二人の下腹に挟まれた和宏のものがしっかりと握られていた。
 ねっとりとした液に包まれたそれが、ばらばらに動く英典の指に柔らかくもみほぐされ、確実に体積を増していく。
「ん、やっ……」
 すでに和宏の喉から漏れるのは嬌声ばかりだ。
 苦しさは、どこかの片隅に追いやられて、それを凌駕する快感が和宏を支配する。
 突き上げられるたびに吐き出される息の音がリズミカルなものになり、無意識のうちに振り回す和宏の頭から汗が周囲に飛び散り、シーツに染みをつくる。
 苦しいのに……気持ちいい。
 嫌なのに……欲しい。
 相反する感情に晒されて、理性も何もあったものではなかった。
 ただ、英典を欲してしがみつく。
「あ、あああっ、英……の…りっ、ひでのり……っ!」
 何度も何度も、好きな相手を呼ぶ。
 訳の判らない嗚咽が混じり、涙に濡れてはっきりと見えない相手の姿を求めて。
「くっ……和宏っ……くくっ」
「うっ、あっ、あっああっ」
 急に英典の動きが激しくなった。
 ぐいぐいと乱暴に突き上げられ、もう喉から漏れる声に意味はない。
 ただ、中と外から襲ってくる快感だけに身を晒されて。
「んくっ!」
 先に、英典が吐き出した。
 先ほどまでの動きが嘘のように硬直した英典が歓喜に満ちた表情で和宏を見下ろす。
 どくどくと震えているのが接合部から伝わってきた。
「…英典?」
 小さな声で問いかけると、英典はにこりと笑った。
 それは、最初に見たときのように、本当に楽しくて嬉しそうな時の笑みだ。
「和宏も……」
 その言葉とともに、英典の手が激しく動き出した。そのせいで、まだ吐精していない和宏のものが一気に膨れあがる。
「あっ、やあっ……も、もたないっ!」
 英典が達ったという油断もあって、弛緩させていた体にはその刺激は強すぎた。
 さっき達ったばかりなのに暴発するのが嫌で、英典の手を制止しようするのを防ごうとするのに、なのに英典が笑って言う。
「達こ」
 途端、全身を大きな快感の波が荒れ狂った。
「ああっ!」
 どくどくと吐き出されたそれが和宏の腹を白く汚して垂れていく。
「ん……く……もっ……」
 達く様をまじまじと見られ、激しい羞恥が和宏を襲う。
「綺麗だ……」
 快感に身を震わせて四肢を投げ出す和宏の体に、英典はゆっくりと手を這わしていた。
 肩から胸、そして脇腹のライン。
 染み一つ無い肌の色がほのかにピンクに染まり、そこに散らばるのは、朱の刻印。
「ほんと……こんな色が出したい……」
 うっとりと呟く声は、和宏の耳に微かに入ってきていた。
25
 狭いベッドで抱き合うように寝ていた二人が目を覚ましたのは、ドアをノックする音のせいだった。
 最初に英典が反応して、飛び起きる。
「やばっ」
 それは小さな声にも関わらず、夢うつつまでには目覚めていた和宏の耳にも入ってきた。
 はっきりとしない意識のまま、そちらに視線を移す。
「何?」
 問い返しながらも、その耳にノックする音が聞こえる。
 どこか遠慮がちに途切れるそれに、やけに英典は慌てていた。
「ごめんっ!今起きたっ!」
 叫びながら、英典の手がベッドから落ちかけていた布団を掴んで和宏に投げつける。空いた手だけで器用にズボンを身につけた英典が、中に入られないような配慮からか擦り抜けるように外へ出た。
「ごめん……おはよ」 
「朝ご飯をどうする?と母さんが言っている。和宏君もいるだろ?いや……それより……」
 後半が小さな声になって和宏には意味までは判らなかったが、それでも苦笑混じりだと判る声がドアの向こうでする。
「あ、ああ……」
 狼狽えた英典の様子も気にはなったが、布団を掛けられた意味に今更ながらに和宏は気付いて、かあっと全身を熱くした。
 晩夏の夜とはいえ、ほとんど裸のままで抱き合って寝ていたのだ。
 もしここでドアを大きく開けられば、その姿は一目瞭然の代物だった。何しろ、その肌にははっきりとその痕が浮かんでいる。
「9時から窯だしの作業だ。良かったら、和宏君も見に来るといい」
「あ、うん……そうするよ」
 ひとしきり交わされた会話の後、人の気配がドアの向こうから消え、英典が慌てたようにドアを閉める。
「ひ、英典?」
 それに気付いて、布団の隙間からひょこりと和宏が顔を出した。
 窺うようにドアを見つめる。
「父さんだよ。そのさ……風呂沸いているって……」
 あははと笑うその様子が、いかにもとってつけたもので、和宏は嫌な予感に捕らわれながら英典を見据える。
「風呂?」
「え?と……綺麗にしてもらえ……とか……。なんかぼそっと言われたよ?。ははは……」
「あっ……」
 血が沸騰するとはこういうことなのか。
 汗がひいて冷たくなっていた体から、汗が噴き出した。
 真っ白になった頭が、今の状況を拒絶しようとする。
「と、とりあえず、浴室案内するから?」
 ぶつぶつ呟くように和宏に貸す衣服の品定めしている英典の姿に、和宏はのろのろと視線を向ける。
「英典?」
「んん?」
「僕、帰るよ……」
 帰りたいと、切に願う。
「え?」
 驚いて振り返った英典の目が驚愕に見開かれている。
 だから、繰り返した。
「帰るから」
 機械仕掛けの人形のように表情のない顔が言葉を繰り返す。
「か、和宏、帰るって……」
「帰る」
 立ち上がった裸の和宏が、それを気にする風でもなく散らばった衣服を拾い上げる。
「待てよ」
 らちが明かないと英典の手が和宏の肩を掴んだ。
 少し強く掴んだその衝撃が和宏の心を刺激して現実へと引き戻す。
「っ!」
 不意に、能面のようだった和宏の顔がきつく顰められた。
 これでもかというほどに、青白い肌が赤くなる。着かけていたシャツからはらりと手が外れた。
「和宏!」
 その急変ぶりに慌てた英典を和宏は恨めしそうに見据えた。
「僕……こんな恥ずかしいの生まれて初めてだ……」
 咎める言葉とともに、ぎゅっと英典のシャツを掴んだ。
 この場にいるのがいたたまれないほどの激しい羞恥が、何もかも振り切って帰りたいと言わせる。
「あ、あの……でも、母さんが朝食用意しているって言うし……」
 平然とそんなことを言う英典に呆れて、ぷつりと頭のどこかで音がした。
「そんなっ、知られているのに、どういう顔してその場にいれば良いんだよっ」
 途端に、英典が言葉を失った。
「そ、それにっ。こんな、こんな……」
 幸せだと思っていた行為は、すっきりとした頭で考えれば、とにかく恥ずかしくて堪らない。熱に浮かされたように関係を持った自分が何をしたのか。
 落ち着くと、その英典の前にいることすら恥ずかしくて堪らない。
「ああ……そうだな……」
 ようやく和宏の興奮している理由が判ったのか、英典がほっと小さく息をついた。
 顔を両手で挟んで、和宏の瞳を覗き込むようにしてくる。
「朝食は俺がこの部屋に持ってくる。その間に風呂使ってくれればいいから。それに、知っているのは父さんだけだ。兄さんは窯の方にいるし、母さん達の部屋は離れだから何も聞こえない。……父さんだって、声を聞いた訳じゃないし」
「そ、そんなのっ、聞こえるなんて思ったらっ……こんなとこでしないっ!」
 俯いて真っ赤になって言葉を吐く和宏に、英典はにやりと嗤う。
「でも昨日は、そんなことどうでも良かったろ?和宏の声はすっごい色っぽかったし、中は気持ちいいし……」
「ひっ!」
 名前を呼んで諫めようとしたのに、まるで悲鳴のようになってそれ以上声が出なかった。
 ひくつく喉が、思うようにならない。
「後悔、してる?」
 和宏の俯いた顔を英典が上げさせる。
 細い顎に絡んだ指がなぞるように唇のラインを辿っていた。
 怯えた子供の目が、英典に向けられる。
 だがそっと触れられただけで湧き起こる官能は、きっと英典には気付かれているだろう。
「帰りたいほど……嫌?」
 だから、英典が嗤う。
「ち、違うっ!」
 帰りたかったのは、恥ずかしいからだ。
 昨日の様を知っている英典の目で見られるのが恥ずかしいから。
 この家の人達の好奇の目にさらされるのも嫌だと思ったから。
 だから……。
「だけどな。俺は今は和宏をどこにもやりたくない。ずっとここにいて欲しい。こんな色っぽくて可愛い和宏を、誰にも見せたくないから……」
 ぎゅうっと背に回した腕に力を込めた。
「愛しているから……帰るなんて言わないでくれ」
「あっ……」
 その言葉に、和宏は英典の不安を感じ取った。
 初めての朝に感じる不安は和宏の方だけではなかったのだ。
 恥ずかしいのも不安も、全て英典にだってある。
 何より、英典は父親に知られたのだ。
 ここで英典を一人にすれば、彼一人で父親と対峙することになるのだろう。
 先ほどの様子では、それほど酷いことにはならないとはいえ。
「判った……帰らない」
 愛しているから。
 この羞恥心も、落ち着いて考えれば幸せの一つだと、考えることもできると思う。
 そう思うことで、ようやく和宏は英典に微笑むことができた。
「窯だし?」
 ご飯にみそ汁、おつけものと言った純和風の朝食を取りながら言った英典の言葉に、和宏は首を傾げた。
 そういえば、そんな言葉があの時聞こえたな、と思い出すのも恥ずかしい朝のワンシーンを思い描く。
 結局あれから風呂に入って予想外にさっぱりした気分と体に、和宏の機嫌も治っていた。
 何より、怒りに食って掛かった自身が恥ずかしいと思う。
 だから、とにかく冷静になろうと意識を無理に落ち着かせていた。
「そ、今日9時から。で、和宏も見に来いって父さんが言うんだよ。さっき、これ取りに行ったときも言われたし」
 困ったように眉を寄せている英典が和宏を窺う。
 正直言って行きたくない。
 備前焼に興味があればそれは願ったりの事柄だろうが、あいにくと和宏はあまり備前焼には興味がなかった。
 何より、情事を知られているあの人と会うのが苦痛だった。
 それを思うと気も沈む。
「俺も……。そのさ、疲れているみたいだし……とか言って断ろうと思ったんだけど……。なんか和宏、父さんに気に入られてて……是非とか言ってんだもんな……」
 一応努力はしたのだと言っているようだが、どうやら、和宏が行くことは決定事項らしかった。もともと英典は、性癖を受け入れてくれたという負い目があるせいか父親には弱いのだ。
 気に入られているという言葉には賛同できなかったけれど。
 そんな英典をこれ以上困らせることもできないと、和宏はこくりと頷いた。
「判った。行くよ」
 しかし、窯だしを見たと両親に言ったら羨ましがられるだろう。
 ああ、そうか。
 それを出掛けた理由付けにすればいい。
 夜中に出て行って帰ってこなかった和宏を一晩くらいでは心配しない両親とはいえ、それでも納得させる理由ぐらいは用意した方がいい。
 まさか、英典といたしていました、などとは口が裂けても言えない事実だった。
「そっか……。あっ……なんか服着替えた方がいいな……。父さんのだったら、何とかなるかな?」
 しばし考えて、う?と唸るところを見ると、それは無理だと気付いたらしい。
 和宏とて昨晩並んだときに、陶苑は和宏より低かったということを覚えている。
「いいよ。汚れても」
 そんなたいした服ではないから、首を横に振ると。
「結構汚れるよ」
 と肩を竦める。
 やらされるわけでもあるまいし。
 そう思ってきょとんとしていると、英典が苦笑いを浮かべて和宏の様子を窺っていた。
26

 窯は、店から車で10分ばかり離れたところにあった。
 そこが本来の作業場であり窯のある場所だという。
『店の裏のは?』
 車の中で問うた言葉に英典が何気なく言い返す。
『あれは、土ひねり体験用』
 そういえば、そうか……。
 確かに創作活動をするにはあの場所は賑やかで向いていないような気がした。
 そんなことにも気付かなかったと、和宏は赤面したものだった。
「……汚れるんだけどな……綺麗なのに……」
 そんな和宏を横目で見ながら、何故か溜息混じりに英典がぼやく。
 一体何をそんなに気にしているのか?
 だいたい英典が綺麗だという単語を口にするたびに、恥ずかしい。
 和宏は少しばかり咎めるように英典を見つめていた。

 
 汚れる。
 その意味が今更ながらに判って、和宏は後悔のため息を漏らす。
 その様子に、陣頭指揮を取っていた英典の兄、隆典が笑う。
「どうしてもね、細かい灰が舞うからね」
 窯から出された作品が所狭しと並ぶ傍らで、和宏は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
 確かに灰もあるし、人が動き回るから地面からの砂塵も舞う。しかも窯と中に全ての物が熱くて、その熱気が空気を介して伝わり、ちょっと動くだけで汗が滴り落ちるのだ。
 流れる気配に慌ててタオルで受け止めるのだが、そのタオルはもう汗と灰にまみれて元の色を保っていない。それだけ肌が汚れていると言うことだろう。
 英典があんなに気にしていた理由はこれだったのかと、その意味するところを意識的に考えないようにする。
 これ以上、熱くはなりたくなかった。
 ふと視線を逸らすと、少し離れた場所は緑豊かな山間で涼しげに枝を揺らしている。
 そんな静かな山に隣接する窯の入り口付近は何故かそよりとも風が入ってこない。そのせいで、余計に辺りが熱気を孕む。
 和宏は、窯の中から出された焼き上がったものを丁寧に置き場に運んでいった。まだ熱を持った焦げ茶色のそれを、落とさないように軍手をはめた手で抱える。
 暑いだけではない汗が、幾重にも額から肌に流れた。
 蒸した窯から外に出ても、強い日差しに照らされて地面も何もかもが熱を持っているように感じてしまう。流れる汗を避けるためにタオルが巻かれた下から、それでも流れ落ちる汗が見えていた。
 灰と汗と熱と、そして低い窯の中での中腰の作業。
 どう考えて見ても重労働のそれは確かに肉体労働で、陶苑を含めて職人皆その腕に筋肉が浮かんでいる。それは長い間に身に付いた物なのだろう。
 その中ですでに息が上がっている和宏は、異色の存在だった。
 職人の中には、何故素人の和宏がこんなところにいるのかと胡散臭げに見るものもいた。
 帰りたい。
 一時間も経たないうちにそんなことを思ってしまう。
 体力のない和宏にはひどく辛い作業だった。
 それが判っているにもかかわらず、和宏に作業を指示するのが陶苑だ。
 後ろめたさを感じざるを得ない彼に、和宏は逆らうことなどできなかった。
 その緊張のせいで2割り増しは疲労するのが早い。
 しかも、どことなく腰の辺りが怠い。それが、昨夜の行為のせいだとはさすがに気付いていた和宏は、それを言い出すことはできなかった。
 結局無理に体を動かして、さらに痛めることになる。
 それでも、2時間ほど経った時だろうか。
「和宏君、休んで良いよ?」
 さすがに青ざめた顔色に、何くれと気遣ってくれる隆典が気付いたらしい。
 隆典は体格も表情も、陶苑や英典とよく似ている。だがその性格は穏和で気配りも巧い。
 動きの鈍い和宏を労ってかけられた言葉に、和宏はちらりと陶苑を窺った。彼は今窯の奥で英典と共に作業をしていた。
「普通でも、疲れる作業だから」
 その言葉に他意はないだろうとは思う。
 しかし、後ろめたさのある和宏は勘ぐられたのかと疑って羞恥心が大きくなった。そのせいで、さあっと頬が染める。
 その途端、隆典が微かに息を飲んだ。
 それに和宏は気付かず、
「それじゃ……少しだけ休ませて貰います」
と伝える。
「あ、ああ……。父さん達には伝えておくから」
「ありがとうございます」
 遠慮する余裕もなくて、和宏はそっとその場を離れた。

 少し離れると窯の熱気が消えたせいか、ほっと一息つくことができた。
 あの場所は職人達の場所なのだと、窯の方に視線を向ける。
 後、どのくらいかかるのだろう?
 何もかも初めてのことで、そういうことも判らないというのが不安だった。
 違和感のある腰は痛みを常に訴えるほどではなかったが、やはりずっと立っているには堪える。
 手近にあった岩に腰をかけ、和宏は深く息を吐いた。
 疲れた体が何もかも無気力にさせるようで、山間に聞こえる小鳥の声に癒しを求めて縋るように目を閉じていた。

「和宏君っ」
 微かな鳥の声に集中してた和宏の耳に、一際大きく誰かが呼ぶ声が入ってき、慌てて目を開けた。
 ふっと顔を向けると、陶苑が頭に巻いたタオルを取りながらこちらに近づいてきていた。
 少し顰められた顔に慌てて立ち上がる。
「あ、すみません……」
「いや……。疲れたんだろ?」
 何でもないと首を振り、立ち上がった和宏に腰を下ろすよう伝えながら、自らもそこに座り込んだ。
 彼は何もかも知っているのだと思うと恥ずかしさが込み上げるのだが、いつまでも立ったままでいるにもいかず、結局和宏は腰を落とした。
 平静でいようとするが、どうしても緊張で心臓の鼓動は早くなってしまう。
 しかも少し高い位置から見下ろした和宏には、陶苑の首から肩のラインが英典の物と被さって見えた。
 鼓動がさらに早くなる。
「英典が窯出しまでずっと手伝うのは、7年ぶりぐらいなんだよ」
「え?」
 不意に聞こえたその懐かしさを含んだ声音に、和宏は訝しげに眉根を寄せて陶苑を見た。
 だが、彼の視線ははるか彼方を見ているようで、和宏の問いかけにも気付いていないとすら思える。
「君と再会してしばらく立った日だったね。ご機嫌な様子で帰ってきてね。そしてもう一度だけ作りたいと言った……」
 何を?と問い返すことなく、和宏はただ視線を窯の方へと向けた。
 英典は本当はずっと作り続けたかったはずだから。
 諦めたと言ってはみたものの、それでも未練が残っていたのだろう。
 だからそんなことを言い出した事を、和宏はすんなりと受け入れることができた。
「あの子が幾つか作り上げたものが今日窯出しされるから……是非とも見て欲しかったよ、君に」
「え?」
 窯に向けていた視線が、陶苑へと向いてしまう。
 何を見せたいというのか?
 問うような眼差しに、陶苑は和宏を見つめながら小さく笑っていた。
「……どうやら、私と英典は好みが本当に似ているらしい」
 その意味が判らないはずの言葉に、何故か和宏の心臓はひときわ高く鳴ってしまった。
 何も言えなくて、茫然と見つめた先で陶苑はただ笑みをたたえている。
 問いかけたら答えてくれるのだろうか? 
 それとも無視されるのだろうか?
 僅かな勇気を探し求めて、心がきっかけを探そうとする。
「……君は……お母さんがお父さんとつきあうきっかけを知っているかい?」
 だが、和宏がきっかけを探し出す前に、陶苑が別の疑問を投げかける。
「えっ?」
 どうしてこの人は訳の判らないことばかり言うのだろう?
 そう思う心が否定の言葉を口にしかけた途端、先日聞いた母からの告白を思い出してしまった。
 確か……男と取り合ったのだと……。
 息を飲んだ和宏の様子に、陶苑がくすっと小さく笑い声を漏らした。
「知っているみたいだね」
 気付かれているというのに誤魔化す器用さは和宏にはない。
 仕方なく、こくりと頷いた。
「でも、ほんのさわりだけなんです。ただ、その……取り合ったって位で」
 彼が母の友人か何かは判らないが、昨夜あんな質問を母に投げかけたというだけで、両親の全てを知っているような気がした。
 それでも言葉を選んでしまう。
「そうだね。確かに彼女は取り合ったんだよ。君のお父さんを……」
 言葉を切った陶苑がふっと手元に視線を落とした。
 その手の平が、何かをのせているかのように拡げられる。
「私とね」
 言葉とともにぎゅっとその手が握られるのを和宏はじっと見つめていた。
 不思議なことに驚きはなかった。
 いや、あまりのことに頭が理解の範疇を越えているのかもしれないのかとも思う。
 ただ、言われてみればそうだったのか、どこが納得しているところがあった。
 ……因果は巡る……母親がそう言っていた事を思い出す。あれはこのことだったのかと思う。
 それに、陶苑は、英典と好みが似ていると言った。
 陶苑の和宏に向ける視線は、いつも優しかった。
 英典の相手だからではなく……。
 そう、昔の思い人の子供だから。何より、和宏は顔だけは父親に似ている。
「取り合ったと言っても……最初から負けていたのも事実だった。私は告白することすらできなかったのだから。彼女の彼を思う心は強かったし、そんな彼女に彼が惹かれているのも知っていた。だから、私にはできなかった……彼を束縛することは」
 束縛?
 その言葉に反応する。
 人を好きになるということ束縛してしまう事なのだろうか?
 和宏が英典を好きになるということは、英典を束縛してしまうということなのだろうか?
 そんなことはない。
 そんなことがないようにしたいと思っている。
 だけど……それが自分にできるのか?と、問われれば、無理かもしれないと弱気になってしまう。
 何も言わない和宏に、陶苑は驚いたのだろうと思ったらしく、口を噤んでしまった。
 ここで何かを言わないと、彼はこのまま何も言わなくなるのだろうか?
 だんだんと言葉の重みが和宏に伝わってくる。
 彼がどんな思いでそんな事を伝えたのか?
 彼は……恋する相手を失って……。
 家族として訪れてくる二人をどんな思いで見つめてきたのだろう?
 浮かんだ問いを、和宏はただそのまま口にした。
「仲……いいですよね、両親と……」
「ああ。彼が幸せな姿を見たいと思ったからね。だから、恋人は無理でも友人としてなら、側にいられるのではないかと……そう思ったんだ。卑怯かな?」
 咄嗟に首を振っていた。
 卑怯どころが、それは一番苦しい選択なのではないだろうか?
 負けた相手と幸せに暮らしている姿を見るために、友人で有り続けるのは。
 とても自分にはできない。
 そんな潔さは和宏にはなかった。
「僕にはそんなことはできません」
 英典が他の人間を選んだら、自分は一体どうするだろう?
 そんな事を考えた途端、ぶるりと悪寒に襲われる。
 思わず抱いた自分の体は、いつまでも震えていた。
 そんな和宏に気がついた陶苑が、そっとその肩に手を回した。
「それが普通だと思うよ。私とて最初はいつまでも未練を引きずって、自暴自棄になっていた。そんな私に、彼女は最初の頃笑って言ったよ。その想いを備前焼にぶつけてみろってね」
「え?」
 肩の温もりに身を委ねながら、その言葉に愕然とする。
「私は大学の頃から備前焼の修行を始めていてね。親戚にその窯元が合ったからなんだが。だが、それまではどこか手慰みみたいなものだった。でも彼女に言われて。確かにその時は自分の思いをぶつけられるものは備前焼にしかなくて」
 くつくつと笑っているのが震える肩から伝わった。
「気がついたら、先生と呼ばれるようなところに来ていた」
 笑いが止まる。
 小さく吐いた息が、やけに大きく響いてきた。
「悔しいことに彼女の言うとおりになって。私は何もかも彼女には勝てなかった。だからこそそれでやっと諦めがついたんだよ。彼女ならきっと彼を幸せにできる。そして私も別の道を歩むことができるから、今の妻と結婚して、子供が生まれて……。陶芸家としても一人の男としても今の私は十分幸せだと、今なら胸を張って言えるし、笑って話をすることができる」
 膝に残っていた握りしめられていた手が再度開かれる。
 英典に似た、物を作る手だ。
「英典は君がいいと言う。君は英典が良いと言う。その想いは茨の道だよ。それは判っているね」
 茨の道。
 その言葉に先ほどの束縛という言葉が重なる。
 ああ、そうか……。
 普通に男女が結婚するのと違う男同士というのは、茨の道を歩むことになるだろう。
 世間の目は冷たく、隠すことになる恋。
 そして、それは自然に互いを束縛することになるのだ。
 普通に結婚していてこそ、一人前と見なされる風潮はまだ濃く残っている。
 それができない。
 どこか不自然な関係は、どうしても互いの行動を束縛する。
 それでもいいのか?
 と、陶苑が問う。
「僕は……英典といたい……」
 まだ何もかも判っているわけではない。
 自分の存在が、英典に何を与えるか?
 何を規制してしまうのか?
 だが、今の正直な気持ちは、英典と別れたくない、だ。
「そうか……」
 ぽつりと陶苑は言い、そしてゆっくりと腰を上げた。
 それを目で追う。
「もうしばらくそこで休んでいなさい。英典ももう手が空くからね」
 視線の先で英典が何かを抱えて作業場の方へと消えていった。
 こちらに気付かない様子に、少しだけ落胆する。
「この後、宴会もあるし。その時には君に見せたかったものも準備ができていると思うし」
 和宏に笑顔とそんな言葉を残して、陶苑は窯の方へと去っていった。
27
 酒が主体の宴会というものは、和宏の苦手な物の一つだ。
 何しろ飲めない。
 騒げない。
 まして、仲の良い友達同士ならいざ知らず、英典以外は初めて逢う人ばかりなのだ。
 その場に居づらい和宏は、最初に接がれたビールを時折口に付けているだけで、その中身は一向に減っていない。
 それに気付いたのか、英典が早々に和宏をその場から連れだした。
「いいのか?」
 和宏だけならともかく、英典まで出てくる必要はなかったのに。
 ふすまを閉めても聞こえる賑やかな声に、和宏は振り返った。
「いいよ。俺だってたまにしか逢わない人ばっかだし。話が合わないもん。それにああいうのは兄さんの方が得意だから、俺はいっつも逃げ出していた。おじさんの相手したって面白くねーだろ?」?
 腰のところで後手に組み頭だけ振り返って悪戯っぽく嗤う。
「そうなんだ?」
 それでも背後を気にする和宏を英典は手を伸ばして腕を掴んだ。
「気にすんなって。それより先に部屋行っててよ。俺、なんか食べ物少し貰ってくっから」
 階段の方へと引っ張られ、その背をぐいっと押される。
「ああ」
 返した言葉が耳に入ったのか、英典は軽く手を挙げて応え、もときた通路を戻っていく。
 だが、和宏はその場に立ち止まって英典の様子を窺っていた。
 食べ物を持ってくると言うので有れば、手伝わないとマズイだろうと思ったからだ。
 だが、英典はなかかな戻ってこない。
 もしかすると捕まったのかも知れないと、思わせるほどの時間が経ってしまう。
 待つ時間があまりに長いと、手持ちぶさたもあって和宏はいたたまれなくなってきた。
 戻っておこうか……。
 こんなところでぼおっとしていると誰かに見咎められるかも知れないし。
 仕方なく階段を上がり始めた背後で、誰かの足跡が聞こえた。
 英典かも……。
 そう思ったからこそ振り返る。
 が。
 数段昇ったせいで見下ろす形になる先にいたのは、隆典だった。
「あれ?英典を待ってた?」
「え、ええまあ」
 他にこんなところにいる理由も思いつかず、曖昧な笑みを浮かべて和宏は頷いた。
「あいつ、田倉さんに捕まってたからなあ」
 やっぱり。
 作業中もよく話し掛けられていたから。
 面白くないと言っていた割には、如才なく会話をしていたことを思い出す。
「あ……そうだ」
 何かの用事があったのか、そのまま足を進めようとしてた隆典の足がぴたりと止まった。
 何事かと見つめている和宏に向けて笑いかける。
 その表情は、英典とよく似ていた。どことなく悪戯を思いついたような、楽しそうな笑みだ。
「ちょっと来て、見せたい物がある」
「え?」
 軽快に階段を上がり始めた隆典に和宏は言葉とともに腕を引っ張られた。
 そのまま二階へと導かれる。
「あの、見せたい物って?」
「懐かしい物」
 その笑みが揶揄しているように感じるのは勘ぐりすぎなのだろうか?
 躊躇い気味になるその足は有無を言わせぬ引っ張る力に負けて、和宏は隆典の隣の部屋へと引っ張り込まれた。
 ちょうど英典とは壁を挟んだだけの隣だ。
 となれば、昨夜もし彼がここにいたら筒抜けだったのだと、後悔にも似た思いが湧き起こった。
「あ、あったあった」
 本棚に向いていた彼が取り出したのは古そうなアルバムで、それをぱらぱらとめくっていく。
 一体、何があるのか?
 和宏も知らず知らずのうちにそこにあるいろいろな写真に目をやった。
 それはきっと隆典のアルバムだろう。
 中学生くらいの隆典にまとわりつく少年に和宏は自然に目がいってしまった。
 仲の良い兄弟だと互いのにこやかな表情が窺わせてくれる。
「あ、あった」
 その声に隆典が指さす場所に視線を移した。
「あ……」
 それが視野に入った途端、思わず声が漏れた。
「覚えてるかい?」
 驚きに目を見開く和宏を見てとって、隆典が満足そうに口元を綻ばせる。
 そこには、和宏が写っていた。
 その両隣には、今まで見ていた隆典と英典の兄弟もいる。
 みな、それぞれに板の上に作り上げたばかりの粘土のカップのようなものを手に持っていて、隆典と和宏は楽しそうに笑っているというのに、何故か一際小柄な英典だけがふてくされたようにそっぽを向いていた。
 バックにあの藤棚が入っているから、店の裏の部分だろう。
「君が引っ越してしまうと聞いて、記念に、ってみんなで自分用のカップを作ったんだよ。それがこれ」
 隆典の指が、子供の和宏の手にもたれたカップを指さす。
「君のが一番形が良くて、父さんがあんまり褒めたもんだから、英典が拗ねちゃって。これはその時の写真だよ」
 懐かしいと声に混じる響きに和宏もその写真に見入る。視覚からの刺激で、眠っていた脳細胞が目覚めたように、頭の中をいろいろな記憶が甦る。
「これ……」
 手が伸びて、指が写真に触れる。
 途端にはっきりと思い出す。
「僕が作ったのを見て……拗ねて、泣いて、怒っていたっけ……。この子が……英典だったんだ……」
 ばたばたとした日常に紛れて、記憶の片隅に忘れていたシーンを思い出す。
 楽しかった思い出は、悲しい出来事に覆い尽くされいたのだろう。
 この頃の記憶と言えば、仲の良かった友人達との別れのことばかりだったから、和宏も思い出さないようにしていた。
 それから数年経ってまた戻ってきたときには、まず再会できた友人達と喜んで、ずっと行き来のなかった英典達の事は思い出せなかった。両親と店に行ったときも、英典達に逢うことなどないうちに年を経てしまったのだから。
「そう。なんでか英典は和宏君のこと気にいっていて、仲良くしていたのに、このときばかりは怒ってて。あの後、英典は喧嘩別れしたみたいになったこと悔いて随分と落ち込んでいたよ」
 そうだった。
 英典は和宏に懐いていて、ずっとお兄ちゃんと呼んでくれて。
 弟がいなかったから、そう呼ばれることが嬉しくて、楽しくて。
 最後の楽しい時を壊したくなくて。
 なのに……英典は怒ってしまって。
 別れの言葉さえ言うことができかなった。
 最後まで、英典は和宏を見てくれなかった。
 ……。
 思い出せば思い出すほど、和宏の目の奥が熱くなる。
 込みあげてくる感情は、制御できないほどに熱く和宏を振り回す。
「……もう……駄目なんだって……。もうここには来られないんだって……」
 帰りの車の中で涙が止まらなかったことまで思い出す。
 お兄ちゃんと読んでくれた英典が大好きで、もう逢えないんだと思うことが、胸を締め付ける。
 一度堰を切ってしまうと、もう溢れる感情は止まりようがなくて、和宏は手のひらで顔を覆った。
「和宏君っ?」
 驚く隆典に首を振る。
 恥ずかしいとは思うのだが、ただ、過去の出来事に感情が引きずられて、制御しようがないのだ。
 それでも理性が必死に感情を制御しようとする。
「すみませんっ……っ」
 涙が止まらない。
「そっか……。和宏君もそんなに悲しかったのか……」
 隆典の手があやすように背を叩く。
「英典も泣いていた。もう逢えないって聞いてさ……。それでも休みの度に、君が親に連れられて来るんじゃないかって、ずっと店にいっていたよ」
「……英典が?」
「父さんも呆れてね。2?3ヶ月はそうしていたからね。そうしたらある時から、こんなカップばかり作るようになった。何度も何度も……。その内、綺麗に形が作れるようになったら、焼くことに一生懸命になった。それも緋だすきばかり。高二になって諦めるときまで」
「緋だすき……」
 その言葉を和宏は何度英典の口から聞いただろう。
 抱くたびに言われた言葉は、それをすぐに連想させ、知らず内に和宏の頬が羞恥に染まった。
「どうしてだろうって思っていたけどさ。今日君を見たら判ったよ。君の肌の色は、見方によったら緋だすきの色なんだね。特に今みたいに少し朱がかった時は」
「えっ?」
 驚いて跳ねるように顔を上げた和宏の顔を隆典が覗き込んでいた。
 至近距離に慌てて後退ろうとした和宏の腕を隆典が掴む。
「一応名のある備前焼作家を目指す俺としては、英典でなくても、その色合いを確かに出してみたいと思うね。どうしても粘土質のくすみが出る色を、君の肌のようにもう少し明るい色にして。花びらのように緋を散らして」
 隆典の視線が和宏の首筋に吸い付いて離れない。
「その朱のように」
 歌うように呟いた言葉に、和宏はひくりと頬をひきつらせた。

 
28
 掴まれていない方の手が鈍く動き、覆うように首筋を隠す。シャツの衿に見え隠れするそこに、英典が口づけを落としたことは覚えていた。
「あいつの好きは、そういう意味の好きだったんだね」
 その声は咎めているものではなかった。だが明らかに含まれる揶揄に和宏の頬が凍り付く。
 珍しく馴染みやすい人だと思っていたのに、今目の前にいる隆典はとてもではないが親しくできそうにない雰囲気があった。
 和宏の感情が彼を拒絶しようとし、背筋に冷たい汗が流れていく。
「ずっと執着していた相手は、君のことだったんだ」
 覆い隠された首筋から離れない隆典の目が恐い。
 後退り、背が壁に突き当たる。ただその視線から逃れたいと心底願うのに、掴まれた腕は逃さないという意思表示なのかさらに力が込めらた。その痛みすらも怖いと震える。
「父さんははっきりとは言わなかったけれど、認めているんだね。だから、君に窯出しまで手伝わせて。ああ、そうだ。八木のおじさんは知っているのかい?」
 目を合わすことなどできない和宏だったが、その動揺ぶりは明らかに隆典に伝わっていた。
 微かに震える体が、その言葉を肯定する。
 どうしてこんなことになったのか?ただ、昔のアルバムを見ていただけだというのに。
「そう……か。父さんは八木のおじさんをとても大事にしているから、もしおじさんが嫌だと言えば父さんも認めなかっただろうけど」
 でも父さんは認めてくれた。
 脳裏に浮かぶのは、母親の姿だ。
 父親が認めるから認めるのだと、笑って言った母の言葉が今の和宏にとって拠り所であった。だからこそ陶苑も認めてくれたのだ。
 彼ならば八木の家が壊れるようなことを嫌うだろう。昔の思い出を大切にしている彼だから、きっとなんとしても英典を止めようとしただろう。
 だが、と思う。
 実際には認めてくれているのだ、父親も陶苑も。
 それを今更蒸し返されてもしようがないことなのだ。
 それに今更駄目だと言われても、和宏は英典から離れることなどできないと思う。
「離してください。僕は……英典のところに行きます」
 ここから逃れないと駄目だと、必死の思いで願いを言葉にする
「離さない」
 だが間髪入れずに返ってきた言葉に、和宏は唖然と隆典を見つめた。その先で、隆典が愉快そうに嗤う。
 ぞくりと背筋に怯えが走った。
「は、なして……」
 強気に出ようとしていた和宏なのに、震える唇が紡いだのは懇願の言葉だ。
「離さないよ、気に入ったから、ね」
「え?」
 今、何と言われた?
 驚きに見開いた視界が、隆典で一杯になる。
 それから逃れるために和宏は背を壁に押し付けたまま体をずり下げた。それでも追ってくるせいで、結局ぺたりと床に座り込み、上から覆い被されるように視界を遮られる。
「もし父さんが反対しても、八木のおじさんが反対しても、俺は欲しいものは手に入れる。こうやって、欲しいと思ったものは……ね」
 掴まれてた腕が、悲鳴を上げそうなほどに痛む。
「やっ」
 止めろ、と訴えようとした口は呆気なく塞がれた。
 髪を鷲づかみにされて無理矢理仰向けさせられ、きつく貪るように吸い付かれる。痛みと嫌悪に和宏の体が震えた。
 嫌だと、顔を背けようとするのに掴まれた髪が離れなくて、その痛みに逃れることも叶わない。
 一方的な行為は息をする合間すらなかった。掴まれた痛みと息が継げない息苦しさで眦から涙がこぼれ落ちて頬を伝う。
 気持ち悪い、としか思えない。
 英典とのキスはいつだって和宏の心を柔らかく揺さぶり官能を与えてくれるというのに、隆典のこれは、単なる行為でしかなかった。いや、蠢く舌も流れる唾液も何もかもが気持ち悪い。
 何度も押しのけようとした手は結局、隆典のシャツをきつく掴むしかなかった。
 息苦しさから徐々にその力も抜けていく。
 窯出しの作業中もずっと親切に気遣ってくれていた隆典の豹変に、心がついていかない。
 それとも、今の隆典が本当の隆典なのだろうか?
 こんな事を無理矢理するような、横暴な人間なのだろうか?
 それとも……。
 僕がそういう人間なのだろうか?
 僕が相手をそんな木にさせるというのだろうか?
 だから彼もも上木さんも、僕に迫って……だから、英典も?
 ……っ!
 そんな筈はない、と理性の一部が訴えるのに、大勢を占める感情が否定できないと嘆く。
 信じたくないと思うのにそれを完全に否定するほどの理由付けはできなくて、結局そうなのだと結論付けてしまった和宏の目から幾重にも涙が溢れだした。
 その拍子に和宏の手がぱたりと床に落ちた。
 突然力が抜けてしまった和宏に、ようやく髪から離れた指が、ぽろぽろと溢れて流れる和宏の涙をすくい上げる。
「そんなに辛いか?」
 息苦しさに息の荒い和宏の顔を指が味わうようにゆっくりと辿る。
「い……嫌だ……、こんなの……」
 自分で誘ってしまうような態度を取っているのだとしたら……。
「そんなに英典がいいのか?」
 激しい自己嫌悪に陥っている和宏の様子を、隆典は勘違いしていた。
 それすらも嫌だと思うけれど、だがその言葉は間違いないので和宏はこくりと頷いた。
「僕の好きなのは……英典だけだから……」
 英典以外とキスしようなどと思わないし、ましてあんな事をしようとも思わない。
 現に隆典に触れられても、覚えるのは嫌悪だけだ。
 きつく唇を引き締めて俯く和宏を隆典は見下ろして、そして何でもないように言葉にして伝えた。
「俺もつきあっている彼女はいるよ」
「え?」
「だけど、君は欲しいよ。俺はさ、綺麗なものが好きだ。綺麗なものを見ると新しい作品を創りたくなる。君は綺麗だよな。その朱に染まった肌の色がほんとに緋だすきに近い色になる。だから綺麗だ。きっとずっと見ていたら、俺の作陶意欲がすごく増すと思うんだ。だから、欲しい。いつも見ていたい」
 そこに和宏の意志は関係ないと、隆典は言う。
 何よりも大切なのは備前焼を創ることだから、その意欲が増すであろう和宏を手に入れたいと請う。
 その言葉を聞いた途端、脳裏に浮かんだのは狭い部屋に監禁され嬲られる自分の姿だった。
 不意に激しい恐怖に襲われて、全身がおこりのように震える。
 震える体に歯の根も合わないほどだ。
 怖い、と心が引き裂かれんばかりの恐怖を訴える。
 その震えを楽しむかのように、和宏の首筋に隆典の手が伸びて触れた。
 途端に真っ青になって首を竦める和宏に、隆典は口元を歪め、嗤う。
「青みかがった肌色はとてもじゃないが出せないから、いらない。欲しいのは、羞恥に染まった肌の色だ」
 その言葉の意味するところは、さすがに和宏も理解できて激しく首を振って拒絶した。
「い、嫌だっ」
 何度も何度も首を振る。
 逃げようと藻掻く和宏の体を、隆典の腕が予想以上の力をもってして押さえ込んだ。その力で、ずるりと壁から床に倒れ込んだ和宏に隆典の体重がのしかかり、それでなくても力の抜けているせいで押しのけることは叶わなかった。
 それでも、シャツ越しに肌に触れようとするその手の動きの意図は明確で、逃げようと藻掻いているというのに。
「無茶はしないよ。気持ちよくさせてあげるから」
 結局逃れることも叶わなくて、近づいてきた唇が無理に首筋に入り込もうとする。
「嫌だっ!」
 ぎゅっと肩と首に力を込めると、そのせいで隆典の目の前にさらけ出された耳朶がねっとりとなめ回された。ぬめる舌が気持ち悪いと全身が震えて、拒絶する。
 このまま逆らうことを許されなさそうな気配に、和宏はただ体に力を込め続けるしかできなかった。が。
「ちっ」
 舌打ちと共に、固く目を瞑ってその嫌悪感に身を震わせている和宏の体の上の重みが消えた。その耳に声が届く。
「……和宏?」
 隣の部屋らしきドアの音とともに聞き慣れた声が聞こえる。
「あ……」
 視線が見えない英典を追う。
 転がされた床から、和宏はのろのと体を起こした。
 彼の元に逃げなければ、と思うのに、起きあがるまでは動いた体がもう動かない。小刻みに震え怯えた目を見せる和宏を隆典は、苦笑を浮かべて見下ろしていた。
「英典はあれで怒ると恐いからね。今日のところは退散するよ」
 恐いと言う言葉が信じられないほどに、隆典は飄々とした面持ちでドアを開けていた。
「英典、和宏君はここだよ」
 そして何喰わぬ顔で英典を呼ぶのだ。その一連の動作を和宏は茫然と見つめていた。
「なんで、兄さんの部屋に?」
 訝しげに英典が入ってき、和宏が泣いているのに気付いて目を見開いた。
「一体、どうしたんだよ?」
「昔の写真を見ていたら、突然泣き出したんだ。あの時のことを思い出して、それで感情的になってしまったらしい」
「昔の?」
「ああ、あの最後の写真だよ」
 隆典の視線の動きに誘われるように英典がそれを見つけた。
「あ、これか?でも何で和宏が泣くんだ?」
 泣いている理由が判らないと見つめてくる英典に、和宏は力無く首を左右に振った。
 今の涙の原因は別にある。なのに、それを言おうとすると言葉が出ない。
 和宏を覗き込む英典の背後から、じっと見据えてくる隆典が恐い。
 先ほどまでの無体な行動に隆典はどうやら何の疑問も抱いていないようで、しかもそれを英典に知られるかもしれないこの瞬間に、平気にそこにいる。
 和宏が一言、英典に言えばいい。
「和宏?」
 問いかけられ開きかけた口は、結局閉ざされてしまう。
 それでも和宏のあからさまな動揺に、英典も違和感を感じたのか、ちらりと背後の隆典を見やった。
「兄さん……和宏、俺の部屋に連れて行くから」
「ああ、手伝おうか?」
 その手が伸びる。
 途端に、湧き起こった恐怖で和宏がびくりと全身を硬直させた。
 知られたくないと思って我慢しようとしているのにそれを本能が拒絶する。触れられたくないと、心が悲鳴を上げてそれが表に出てしまう。
 それを目にした途端、英典が息を飲んだ。信じられないと、その目が見開かれる。そっと触れてきた手が和宏を上向かせ、その瞳に浮かぶ怯えを見て取った。
 途端に、英典の顔が歪んだ。
「兄さん……。和宏は……綺麗だろ?」
 低く堪えるような声音が室内に響く。
「ああ、綺麗だね」
 それに答える声は、明るくはなやかなものだ。そこに彼の行為を微塵も窺わせるものはかったのだが、英典はその声を微かに震えさせてさらに問うた。
「兄さんは……綺麗なものが好きだったよね。特に綺麗な色合いと形を見ると作陶意欲が増すからと」
「ああ、そうだが?」
 簡潔な答えに、英典の眉間に深いシワが入っていくのを、和宏はただ呆然と見つめていくだけだった。
 英典が気付いたのだと判るのだが、だからといってどうしようもない。
 ただ、この場にいたくないと願う。それなのに、体が動かないのだ。
 剣呑な表情のままに、英典が隆典を振り返った。
「兄さんは早く戻った方がいい。みんなが待っている」
 怒りに震える声に、隆典が苦笑を浮かべていた。だが、その視線が向かっている先は己だと、それに気付いた途端和宏の身が竦んでしまう。
 同じく気付いたであろう英典の手が庇うように和宏の肩に回される。
「和宏は俺のものだ。兄さんは二度と和宏には近づくな」
 それは静かではあったけれど、多分に怒りを内包していた。
 手を出すなら、なにものをも辞さない、と。
 鼻先をすりつけるようにして抱き込まれていた和宏には、その言葉が胸の震えともに伝わった。
 同時に伝わる温もりが何よりも和宏をほっと安堵させる。
 誰よりも。
 何よりも。
 英典が好きだと、心の底そこから思う。
 今の和宏を癒すことができるのは、英典の温もりなのだ。
「判った、じゃ。和宏君、またゆっくり話をしような」
 英典の言葉を無視するかのような言葉に、びくりと和宏が体を震わせた。
 それを押さえるように英典がぎゅっと和宏を包み込む。
 押さえつけられ、何も見えなくなった和宏の耳に、ドアが開いて閉まる音が届いた。
29
「ごめん」
 英典の部屋に戻った途端、背から抱き締められた。
 肩口に触れる温もりからぞわりと疼きが走り、甘い息が漏れる。
 思わず胸に回された腕を掴み、和宏は軽く彼に体重を預けた。
「英典が謝る事じゃないよ」
 英典は来てくれたから。
 気付いて、助けてくれたから。
 この部屋に戻った途端に感じる柔らかな雰囲気は、きっと持ち主の英典のものだろう。
「それに……嬉しかった……」
 この手が包んでくれたとき、本当にもう大丈夫と思ったのだと、その想いを込めて和宏は肩越しに語る。
 その言葉と共に意図を察した英典の手が離された。
「……和宏」
 呼びかけられるがままに振り返り、誘われるがままに手を伸ばす。
 誰よりも、彼が良いと思う。
「ありがとう……」
 和宏にとって英典だけが特別だと、そのすべての思い込めて、唇を落とす。
 初めての自分からキスは、恥ずかしいものもあったけれどその何百倍も嬉しいものだった。
 深いキスは、どこまでも体を高めていく。
 いつしか隙間のないくらいに抱き締めあっていた二人だが、ふっと英典が身を引いた。
 何で?
 もっと温もりを感じたかった和宏にしてみれば、あまりに意外な英典の行動に驚いて目を見開く。
 それから、自分がひどく欲しているのだと気がついて、思わず俯いてしまった。
 その様子に英典が嗤う。
 苦笑を形作る口元が、和宏の頬にそっと触れて離れた。
「このままだと、またやりたくなるから……」
 言われた言葉は即座に和宏に伝わって、その瞳が誘うように揺れる。
 それでもいい、と思っているのに、それを恥じる心もあって、和宏は落ち着かなく身を震わせた。
「だけど、そんなに何回もして、和宏が倒れても困るだろ?」
 答えようのない質問をされて、和宏はただ英典の視線から顔を背けるしかない。
 確かに未だ違和感のある腰と場所は、再度の行為にも堪えられるかどうか判らない。
 英典にならそれもいいかと思うけれど、午後になった今、さすがに今日は帰られなければならないだろう。
「だから、また今度。兄さんのいないところで」
「あ」
 幸せに浸っていた心が、そのたった一言に嵐となる。
 味わった恐怖が再び込み上げて、和宏は不安そうに隣の部屋を隔てる壁を見た。
「隆典さんは……どうして?」
 恋人がいると言っていたのに、何故和宏に執着するのか?実の弟の恋人を何故取ろうとするのか?
 まるでそうなることを知っていたかのような二人の会話の意味は?
「英典?」
 窺うように話し掛ける。
「兄さんは、綺麗なものが好きなんだ」
 先程も聞いた言葉を、英典が繰り返す。
「綺麗なもの?」
 頷いて、言葉を返す。
「昔からそうだった。ガラスでも陶器でも絵画でも、とにかく綺麗だと気に入ったら、ずっとそこでそれを見ているんだ。それこそ1時間でもずつと立ちつくして。買える物なら買ってしまう」
「どうして、そんなに?」
「そういう気に入ったものを見つけたとき、兄さんがつくる物はとても良いものなんだ」
 そういえば……作陶意識がどうのこうのと言っていたと思い出す。
「和宏は綺麗だから……。兄さんも気に入るだろうなあって思ったけどさ、まさか手を出すとは思わなかった」
 口惜しそうに歪められた視線が、探るように和宏の体を舐めた。
「何もされていないよな?」
 それだけが心配だと、和宏を見遣っている。
「……別に」
 口について出た否定の言葉は、和宏は無意識下のものだった。
 言えるわけがない。
 そう思った心が言わしめた言葉は、だが、英典には通用しなかった。
「嘘」
 端的な言葉とともに、英典の手が和宏の両頬を捕まえる。
「迫られただけでそんなに泣いたのか?」
 柔らかな唇が和宏の瞼に触れる。
 そして、涙の痕をゆっくりと舌でなぞっていった。
「んっ……」
 くすぐったい動きに手が伸びて、英典の手を掴む。
 だが、英典の動きは止まらない。
 頬を辿り、鼻の脇を通る。
「ひ、英典っ!」
 喚く和宏の唇の端に軽く口づけた英典が、鼻先が触れあうほどの距離で、和宏の瞳を覗き込んだ。
「教えろ」
 低い声音に、びくりと和宏の体が震える。
 恐いと、隆典の時とは違う恐怖が和宏の心を襲う。
 誤魔化すことを許さないと言う英典が恐い。
 和宏は、しばらく英典の目を見返していたが、結局自ら視線を逸らしてしまった。
 英典の強い視線には、逆らえない。
「キス……された……だけ」
 消え入りそうな声で、告白する。
「ちくしょう……」
 苦々しげな小さな声が耳に届いた。
「あ、でも……それだけだから」
 触れたところから小刻みに震える肌を感じて、和宏はそれだけだと強調した。
 その肌もちらりとかいま見えた表情も、英典が怒っていることを伝えてきたからだ。
 英典を怒らせたくないのに。
 何度も思っていたのに、どうしてそれが実践できないのだろう?
 和宏は笑っている英典が一番好きなのに、怒っている英典を見る方が多いような気がする。
 なんだが情けなくなって、和宏は俯いてきつく下唇を噛んだ。
 ぎりっと食い込む柔らかな場所から、きつい痛みが走る。
「和宏?」
 俯いてしまった和宏にようやく気がついたかのように英典が和宏の顎に触れる。
「泣いている?」
「え?」
 妙な事を問いかけられたと、その反動で外れた唇は、歯の形とがくっきりとついていて、消えない痛みの場所に英典の指が触れた。
「和宏も悔しい?」
 何?
 問いかけられた内容が判らなくて、英典を窺う。
「こんなに痕がついている。駄目だよ、傷になってしまう」
 その声はさっきより優しげで、穏やかなものだった。
 途端に、熱い滴が溢れる。ひどく優しげな口調が、緩みっぱなしの和宏の涙腺を刺激するのだ。
「もう二度と兄さんには和宏に触らせない。だから、安心していいよ」
「英典……」 
 目前の英典が、何?と首を傾げる。
 少しはにかんだように笑う表情が、訳も判らず和宏を駆り立てた。
「英典っ」
 伸ばした手で背を抱く。
「和宏?」
 やっぱりもっと触れたい。
 胸に頬に両腕に、英典の温もりを感じた途端、離れたくないと心が叫んでいた。
 だから。
「しよう」
 請うていた。
「え?」
 驚く英典に口づける。
 帰れなくなってもいい。
 動けなくなったっていい。
 隣に、彼がいても……いい。
 自分のせいで英典に我慢なんかさせたくないから。
 そう思っていることを言い訳にして、和宏は欲しい心を露わにした。

 英典の手が要望に応えるように動く。
 借りていた少しサイズの小さいシャツが、簡単に脱がされて、肌着を着けていなかった胸が露わになる。
 そこに、英典が軽く吸い付いた。
「ん」
 痺れるような疼きが全身を走る。
 昨夜の記憶を忘れるには、まだまだ時間が足りない。
 何をされたか、何をしたか。
 流されるようにした行為はそれでも記憶に残っていて、軽いキスでもその先を体に教える。
 隆典に触れられた時には恐怖だけだった。
 それが英典になると和宏の体はただ、快楽の渦に飲み込まれる。
 もっと触れて欲しくて、そこを目の前にさらけ出すように動いてしまう。
「和宏……いいのか?」
 躊躇いがちに問いかけられ、震える体を英典に押しつけた。
「もう……我慢できないんだ」
 触れる肌も吐息も、そして欲望に打ち震える証も、何もかもが英典を欲している。
 劣情に突き動かされ、与えられた快感に涙する和宏を目の当たりにした英典も苦しげに呻く。堪えきれないと足を大きく掲げて曲げられた。
 まだ慣れずに腫れているそこから鈍い痛みが広がり、和宏は喉を鳴らした。
 深く穿たれるごとに、切り裂くような鋭い痛みすら襲ってくる。
 それでもきつく奥歯を噛み締めて、回した腕を離さなかった。
「ひっで…ひ…っ!」
 愛おしい名前を呼ぼうとして、だがそれは歓喜の悲鳴にしかならない。
 奥深く抉られるとこから沸き立つ快感が和宏の理性を飛ばして、無意識のうちに英典の背に爪を立てる。肩胛骨から湧きに向かって走る痛みに顔を顰める英典に気付く余裕すらなかった。
 ただ、愛されて愛したいと願う。
「和宏、ちょっとだけ手を離して」
 耳元で息を吹き込みながらに請われたことに逆らえなくて、ぱたりと腕を落とした。それを逃さず、英典が和宏の腰を大きく動かした。
「んっああっ!」
 繋がったまま不意に体を回され、今までとは違うところを英典の先端が刺激する。その瞬間、弾けそうになったのは和宏のもので、弾けなかったかわりに粘着質な液がたらりと溢れ、零れた。
「あっ……ああぁぁぁ……」
 達けなかったけれど、その刺激は全身が脱力するほどに体を痺れさせた。
 俯せにされたことによって、和宏のものが体とベッドに挟まれて、それが新たな快感を呼び起こした。
 悪寒のような震えが止まらない和宏の腰を、英典の手が支えて高く掲げさせる。
 下肢を晒したその姿勢は常ならばひどく恥ずかしいはずなのに、和宏はもう逆らうことなどできない。
 ぼんやりとした焦点の定まらない目が視界から消えた英典の姿を追う。
「素敵だよ、こんなにも綺麗だなんて思わなかった……」
 英典の声が遠くに聞こえ、その掠れた声音が和宏の体の奥をくすぶらせた。それが堪らない。
 薄く開いた唇から、熱い吐息が零れた。
 それが合図だったように、英典が動く。
 肌が打ち付けられる音が、狭い部屋に響いてこだましてているようで、その振動が耳を犯す。
「んあっ……あっ……くっ……う!」
 何物も邪魔にされない二人だけの空間にいるように、和宏はただ与えられる快感に狂うしかない。
 痛み麻痺したように感じないというのに、電流のように走る快感だけは脳髄に伝わる。
 もうそれしかなくなって堪えられなくなりそうだと、背後の英典に目線で訴えた。
 それに気付いた英典が、腰を掴んでいた手を前に回した。
 はち切れんばかりに膨張したそれにその手が触れた時。
「んくっぅぅ!」
 びくりと全身が大きく震えた。
「ん、んんっ……」
 背を逸らしてその快感を享受した和宏は、その反動のように襲ってきた解放感に、がくりと身を崩す。そのせいで、英典の物か締め付けられたのか、切羽詰まった声が聞こえた。
「和宏……俺も……」
 喘ぐ声を虚ろに聞いて、無意識の内に体が緊張する。
 限界を超えたそれが弾ける様をきつく銜え込んだ場所で感じながら、和宏は何度も体を震わせていた。
 
 
30
 結局、和宏は英典の家にもう一泊してしまうはめになった。
 その旨家に電話した途端、思わず携帯を離したくなるほどの声が鼓膜を貫いた。
 甲高い声がひとしきり吠えて、それが止むのを待ってから携帯を耳に当てる。
「母さんって……」
 溜息混じりに諦めの言葉を吐きたくなったのは、先程の文句の内容のせいだ。
 窯出しという一大イベントに母を呼ばなかったことに対する恨み辛みの文句の山。そこに和宏の無断外泊及び2日にわたる外泊への小言など欠片も無い。
「何?」
 まだ険のある声音に、和宏は慌てて口を噤んだ。
 この母には何があっても勝てないから諦めが良くなったのだろうなと、今考えても詮無いことを思ってしまい、小さく息を吐いた。
 それでも、一矢は報いたい。
「母さん、昔父さんを取り合った相手って人と今でも仲がいいんだね」
 暗に相手を知ったのだと伝えてみる。
 どんな反応が帰ってくるのかと思えば。
「だって、優しいのよ、彼は」
 さらりと返されては、絶句するしかない。
「まあ、優しすぎて、好きなのに告白もしないでぐちぐちして、私が先に告白したらさっさと諦めた癖にまた海より深く落ち込むんだから。だけど、それでも彼ったら、きついことは言わないのよね。父さんが私が良いって言ったから、私にまで優しいのよ。しょうがないので事情を知っている私が何度も励まして。情けないはよねえ、恋敵に励まされてんだから。そのうち、もう他のことを考えるようにしなきゃ駄目だって思ったから、本格的に備前焼への道やったらって言ったら、これまた素直に従ってくれて。そんなところを見ていたら、何て言うか可愛くて構ってやりたくなるじゃない」
 確かにこの母に勝てる訳がないとは思うけれど。
 陶苑にしてみれば相手が悪かったとしかいいようがない。
 とうとうと昔の陶苑像を語って聞かせる母親の若かりし頃を思って、和宏は気付かれないように溜息を吐いた。
「ま、見目は可愛いくて誰彼構わずに優しかったけど、性格が暗かったから、こう女の子が寄りつかないって言うか。それにとにかく自信のないところがあって……出不精で……人見知りで。そんなんだから、快活で男気のある父さんに惹かれたんだろうけど……」
「……今はそんなことないようだけど」
 少なくとも自信はありそうだと思う。
 客あしらいの良さを見ていると、人見知りがあるとはとても思えない。
 ただ、優しいところは変わっていないのだろう。
「それも私のお陰なのよ。備前焼始めたらすっかり引きこもりの状態になっちゃって、そんなんじゃ駄目だって、父さんと引っ張り回したの。物作りっていろんな経験が大事じゃない?そうする内に、少しずつ性格も変わっていったのよ。もともとが素直なのよね……」
 聞いてて可哀想だと思えてきたのは、気のせいだろうか?
 それに……。
 母の言葉が妙にひっかかる。
 ふと気付くと、あれだけまくし立てていた母もなぜか急に押し黙ってしまった。
「母さん?」
 問いかける先で、母の大仰な溜息が聞こえてきた。
「あの……」
「なんてことかしら……」
 声だけで母が脱力しているのが判る。
「母さん?」
 再度問いかけ黙って待っていると、ようように母が答えた。
「昔の陶苑君ってば……今の和宏そっくりだったのね……気付かなかったわ……」
 名もある備前焼作家を君呼ばわりにした母の言葉のその中身に、和宏は思わず息を飲んでしまうほどに驚いた
「だからね、今思い起こすと似ているのよね、和宏ってあの頃のうじうじしていた陶苑君と同じ。となれば、まだまだ和宏も捨てたもんじゃないってことよね。英君にしっかりと鍛えて貰えば、いずれ名のある人間にでもなれるって事だから……。幸いなことに会社は一緒なんだし……」
 どう聞いても一人納得している風の母の言葉は、和宏に口を挟む隙すらない。
「どうせ、もう英君に喰われちゃったんだから、後の責任は全部英君に取って貰うことにして……となるとやっぱり嫁入りなんだから、結納は貰う立場よね」
「か、母さんっ!」
 思わず叫んだ言葉は、きっばりと無視される。
「やっぱり、結納の品としては、先日の展示会で出ていたあの大皿なんかがいいかしら……」
 すでに一人妄想モードに突入した母に、口を挟めるわけもなく、さりとてこのまま聞いていたら何を言われるか判からない。
 結局和宏は、「も、もう切るからっ」と叫びながら携帯を切るしかなかった。
 持ち主のいない部屋で、ぱたりとベッドに倒れ込む。
 あまりのことに汗ばんだ手の中から、携帯が床へと落ちていった。
 それにしても……と考える。
 母の言っていた陶苑像が間違いないのだとしたら、彼はすっかり変わってしまったのだということだ。
 それが備前焼作家としての自信のせいだとしたら、和宏も仕事で自信がつけば変わることできると言うことだろうか?
「そんな単純じゃないよな」
 今まで、露とも持つことができなかった自信を、今更持ち得ることは難しいと思う。
 そうやって今までは、可能性を考えることもしなかった。
 できないと思いこんでいた。
 だが、脳裏に浮かぶのは英典の言葉だ。
『和宏ならできるよ』
 それを信じて英典が言ったままにしてみれば、上木の告白付きというハプニングはあったものの、明らかに仕事の内容が変わってきた。
 もしかすると変われるかも知れない。
 英典のように自分に自信を持って。
「和宏っ、ご飯だよ?」
 召使いよろしく夕食を盆に載せた英典が楽しそうに帰ってきた。和食なのに、なぜだかコーヒーの香りがするのを不思議に思いながら受け取ると、小ぶりのカップが盆に載せられていた。
「ごめん、運ばせちゃって」
「いいって。ひどい筋肉痛に軽いぎっくり腰なんだから、大人しくしてないと駄目だろ?」
「英典っ!」
 泊まる理由にしたその病名をつけたのは英典で、それこそ笑いながら言う彼を、和宏は恨みを込めて睨み付けた。
 自業自得とはいえ、陶苑や隆典相手には何が理由かすっかりばれているだろう。
 そんな和宏にくすりと笑いかけ、英典が頬に口付ける。
 そのまま耳元で囁きながら、手に何かを渡された。
「それ、持ってて」
 ずしりと重いそれに目を遣ると、ずんぐりした印象を受けるとっくりのような備前焼だった。
 小さいながらも勇壮なフォルムで、しっかりとした焼きの入った焦げ茶地に金茶の飛沫が飛んでいる。
「それ、兄さんの最高傑作の一つ」
 何事かと目を見張る和宏に、英典は笑って囁く。
「人質だよ。和宏の家に持って帰ってて」
「人質?」
 その言葉の意味がわからないと窺えば、悪戯を思いついた子供のように笑って返された。
「兄さんが和宏に手を出さないための」
 隆典のお気に入りのそれが和宏の手にあるならば、隆典は和宏の嫌がることはしないから、と力説される。
「そうなのか?」
 和宏にとってはたんなる備前焼で、そんな誓約がきくとはとても思えない。
 なのに、英典は自信たっぷり頷く。
「だってそれ、この前の品評会で競合を軒並み押さえて優秀賞に選ばれた秀逸の一品なんだ。兄さんにとっては宝物だからね。だから、和宏はそれ、くれぐれも落としたりしないでよ」
 と言われても。
 宝物と聞くだけで手が震える。
 それを見て取った英典の唇がくすりと笑みを形作り、どこからか取り出した桐の箱を和宏の横に置いた。
「これに入れていれば、そう簡単には壊れないないよ」
「で、も……そんな大事な物、僕持っていられないよ。それに気付いてとりに来るんじゃないか?」
 情けなくも和宏が緊張のあまり上擦った声を上げれば、低い静かな声で返された。
「普段は、棚の奥深くにしまい込まれているからすぐには気付かないよ。それに持っていないと、和宏の貞操は守れないからね」
 それにはひくりと喉が引きつって、結局和宏はそれを抱え込むことになる。
「まあ、いつまでもっていう訳じゃないよ。兄さんだって、他に綺麗な物を見つけたらそっちに意識がいくし、そしたら和宏も気にしなくて良くなるし。そしたら返すから」
「判った」
 諦め混じりで返事をしながらそれを目の高さまで持ち上げた。
 小さいのに存在感のあるそれは、やはり大事な預かり物と言うことで母に預けてしまおうと考える。部屋に置いて置くよりは、取扱いに長けている母の元の方がよっぽど安全だ。
「それと、本題はこっちなんだけど」
 そう言いながら英典の手が盆の上からコーヒーの入ったカップを取り上げた。
 地の淡い色合いに濃い朱の線が絡むように入った緋だすきの作品だ。
「本題って?」
 しっとりと手に馴染む大きさのそれを受け取りながらを英典を窺うと、にこりと笑みを浮かべて返された。
「今回、俺が作った作品。結構出来がよかったから和宏にあげる」
「え?」
 そう言えばと、陶苑が英典が作った物を見て欲しいと言っていたことを思い出す。
 あれからバタバタして、まだ目にしていなかったのだ。
「これ……今回作ったのって」
「結構綺麗な色が出たから、まあ満足かな」
 和宏の肩に手を置いて、背後から覗き込むようにその手の中の作品を覗き込む英典は、酷く嬉しそうだった。
 緋だすきの色。
 それが和宏の肌の色と英典がつける刻印の色だと公言してはばからない英典だから、何を想像して作ったのかを考えてしまうと、和宏の全身が火を噴きそうに熱くなる。
 触れられた肩から、とろけていきそうな程だ。
「もう少し、明るい色が出せると、もっと近づくんだけど」
 そっと首筋がはだけられ、羞恥に染まった肌の上に浮かぶ朱色の刻印に、英典の唇が触れる。
「……っ」
 不意に走る甘く切ない疼きに、声にならない吐息を零した。
 手の中のカップが揺れて、褐色の液面が幾重にも輪を作る。
 一度だけの接触で離れていく英典に縋るように目線を送って、和宏は掠れた声で訴えた。
「英典……」
 応えるように唇が降りてくる。
 触れるだけで離れた英典に、和宏は問いかけた。
「いいのか、貰っても?」
 英典が和宏を思って作ったのだと判るカップ。
 それが手の中にある幸せを、このまま享受して良いのか?
「もちろんだよ。そのためにもう一度備前焼を作ったんだ。あんなに間近で見ることのできた和宏のあの肌の色を忘れないために」
 英典の手が和宏の手に被せられ、和宏の頬に頬がすり寄せられる。
「和宏が好きだと言ってくれたあの時は、俺にとっても忘れたくないほどに素敵な日だったから。その思いを込めたんだ。まあ、その……指輪の代わりだと思って欲しいんだけど」
 照れたように頬を赤らめる英典が可愛いと感じてしまう。何よりも英典がくれる想いが嬉しくて、だから和宏は頷いていた。
「ありがとう……大事にするよ」
 カップがいつも持っていた物のように手に馴染んでいて、和宏は両手でそっと慈しむように包み込んだ。
続く
4

 

31
「あっ……でも……」
 こんなふうに思いの詰まった素敵な物を貰ったとしても。
「……でも、それだと僕は何もあげられる物がない」
 英典のように、何かが作れる訳でもない自分の手。
 だが、英典は笑って左右に首を振っていた。
「あるよ、ほら」
 その手が取り上げたのは、英典の盆に載っていたコーヒーカップだ。
 どう見ても奇妙に歪んだそれは、ごく普通の焼き色をした備前焼で、英典の物に比べれば拙さは否めない。
 それが何故この英典のカップと同列なのだろう?
 訝しげに首を傾げた和宏に、英典はほらっと、高く掲げて底を見せた。
 そこに掘られた拙い文字が、KAZUHIROと読めた途端、記憶が甦る。
「これっ」
 驚きに目を見張ってそれを凝視すると、そうだよ、と笑顔で返された。
「あの最後の日、和宏が作ったコーヒーカップ。あれから釜に入れて……送る筈だったんだけど、俺が直接手渡したくてずっと持っていたんだ。あの時、ほんとにまた逢えるって思っていたから……。喧嘩したことも謝りたかったのに……」
 英典が懐かしく見つめるそれに和宏はおずおずと手を伸ばした。
 子供の手が成したそれは、英典が作ったものよりさらに小ぶりで、すっぽりと掌に治まってしまう。
「ずっと……持っていたら逢えるような気がして。これを見ていると、和宏にまた逢うんだって、いつも思ってて。そのうち、このカップを和宏から貰った物のように思えて、ずっと大事に使っていた。だからもう、俺はこれを貰っていたから、良いんだよ。なっ」
 良いだろう?
 と窺うようにその目が言っていて、和宏は即座に頷いた。
 自らの手が作った物としてはたぶん唯一無二の物だから、英典に渡すものとしてはそれ以上の物はないと思う。それにこれが英典の手にあったから、英典は和宏の事を忘れなかったんだと思って、だからこそその証であるそれをずっと英典に持っていて欲しかった。
「和宏が作った物が初めてにしてはとても形が良かったから、父さんが褒めて……それが息子としては悔しくて、備前焼に手を染めて……。それが今ひとつだったから、今度は仕事の方を頑張って……。そしたら認められたから……考えてみれば、今の俺があるのって、和宏のお陰なんだよな」
 にこりと笑いながら見つめられて、昔の自分はそんな大層なものではなかったと恥ずかしくて俯いててしまう。
「そんなの……」
「器用なんだよ、この手は。こつを掴むのが早いんだと、父さんは言っていた。だから、俺は和宏はできるんだって思っていたから、負けたくなかったっていうもあってさ」
「僕が器用?」
 言われたこともない事柄を言われても、信じようがない。
「そうだよ。あの研修の間に得たことを、どうやって生かせばいいか、和宏は無意識のうちに習得しているから、だから仕事がうまく回り出した。和宏はもともとできるんだよ。それを自覚してごらん。そうすれば誰にも負けないから」
 信じようもないことではあったが、だが英典に言われるとそうなのだと信じたくなってくる。
「そうかな?」
「そうだよ」
 不安を一掃してくれる英典の力の入った言葉に縋りたくて、和宏はその胸に頭を押しつけた。
 聞こえる心臓の音が早い。
「和宏……」
「英典……」
 欲情に上擦った声に素直に身を任せてしまうのは、相手が英典だからだ。
 英典が和宏に負けたくないと言うのであれば、自分だって負けたくないと思う。昔のように英典に愛想を尽かされるような態度を取られたくないから。だから、もっともっと頑張ろうと和宏は思って。
 熱い思いもそのままに、和宏は英典の口づけをどこまでも深く受け入れていた。
 

「和宏っ!」
 出勤した駐車場で背後から呼びかけられた和宏は、その口元を綻ばせながら振り向いた。
「おはよう」
「おはよっ」
 朝だというのに、すでにうんざりするほどの暑さを持っている陽の下を英典が走り寄ってくる。
「あれ?今日はスーツなんだ?」
 白いシャツにネクタイをきっちりと締め、腕に上着を抱えた和宏を、珍しい物でもみるように英典が上から下まで視線を走らせた。
「うん、10時頃から出張。夕方には終わるから、直帰するけどね」
「へえ?。和宏は上背があるからスーツ姿も似合うよな。格好良い」
 随分と羨ましそうなその台詞に、照れくささを感じて頬を染めてしまう。それでなくても暑い日差しのせいではない暑さが込みあげて、熱を逃すように息を吐く。
「でもさあ、10時からなら何でそんなに朝からきっちりしているわけ?この暑いのに。どうせ作業着に一回着替えるんだったら、みんなはネクタイは締めずに来るだろ?」
「そうでもないよ」
 言っては見たもの、つい緩めそうになる手の動きを寸前で和宏は止めた。その首筋に汗が流れる。
 本音を言えば、もう少し緩めたいのだ。だが……。
「あ、もしかして?」
 聡い英典の目が和宏の衿と肌の境を探る。
 それに苦笑を返して、和宏は頷いた。
 英典がつけた痕は、微妙な位置で隠れている。ほんの少しでも襟元を緩めれば、覗いてしまう位置に。
 朝慌てて引っ張り出した一番衿の高そうなシャツですらその状態で、もう他には隠す手段がない。
「ごめん、考えてなかった」
「大丈夫だって。僕のところは作業着の下にネクタイ締めて、っていうのも普通だし。そんな濃い痕じゃないからしっかり見ないと判らないと思うんだけどね」
 最初は気付かなかったくらいで。
 それを見つけたのが母だと知ったら、そしてその後の騒動を知ったら、英典が気にするかも知れないから、和宏は何でもないように笑って返した。
 もっとも、英典なら笑って納めてくれそうな気もしないでもないんだけど……。
 内心つきたくなる溜息の元は、父と母の質問ぜめのせい。
 どう足掻いたって、優しかったか?とか、英君は上手なの?とか……そんな質問に答えられるわけがない。
 なのに、家を出るまでそれは続いたという。
「そうだとしたら、今日が出張で良かったのかなあ……。きっちりと着込んでいても変じゃないし……。でも今日は暑そうだし、新幹線で行くとしても駅まで暑そ」
 しみじみとどこまでも高い青空を眩しそうに見つめる。
「いや、車で行くんだ。だから、暑いとしたら乗るまでと降りてから玄関までだから」
「へえ、車って珍しいね。一人で?」
「いや、上木さんと」
 何気なく問われて、何気なく答えた。途端に、英典がその場に硬直する。
「英典?」
 気がつくと、数メートル後にいた英典に、和宏は慌てて駆け戻った。
「上木さんと?」
 上目遣いに睨んでくる英典に頷きながらも、何か怒られるようなことを言っただろうかと一歩後退りなが考えた。
 そんな和宏の様子に、英典が大仰なまでの溜息をつく。
「も、和宏って……」
 その場に崩れそうなくらいの脱力を味わっているであろう態度の英典に、和宏はますます訳が判らなくて戸惑いの色を隠せない。
 ただ上木と出張に行くだけだというのに、何故こんなにも英典がショックを受けているのか判らない。
「和宏はさ、判ってんの?」
 どう見ても判っていないふうに、それでもっと英典が詰め寄る。
「何が?」
 きょとんとして首を傾げた途端に、英典が数回首を左右に振って溜息をついた。
「もういいよ……」
 ますます訳が判らない和宏の背を英典が歩くようにと押して促す。
「英典?」
「ま、それが和宏なんだって俺も思える訳だから、もうしょうがないんだろうなあ。警戒したからって和宏にどうこうできる問題じゃないような気もするし。何せ、あの人ってば、そういうことは結構策略してくれそうだし。……で、そういうことに気が回らないというその警戒心の無さって言うか……」
 愚痴っているのか、諦めているのか、それでも落ち込む英典の様子を見て、和宏はようやく彼が何を言いたいのか気付いた。
 気付いた途端に、思わずくすりと笑ってしまう。だが、俯いてぶつぶつと言っている英典はそれに気付かない。
 嬉しい。
 浮ついた気分になるその感情が、心を幸いに満たす。
 いつだって気にかけてくれる英典がいることが、どんなに和宏にとって幸せなことか。それこそ、もっと心配させて困らせてみたいと思うほどにだ。
 そうすれば英典はいつも和宏のことを思ってくれるだろう。
 英典にかまって貰いたいから、困らせたい。
 他人に対してこんな欲求を持つことなど今までなかったことだと思う。
 いつだって他人を困らせることに罪悪感があったから。
 だが今は、少なくとも英典に対してはそれがない。
 あの日、英典にすべてをさらけ出して甘えた日から、何かが和宏の心の中で変わっていた。
 惨めで情けない自分を知られたくないという、なけなしのプライドはまだあるから、蔑まれるのだけは嫌だけれど。
 だが、それ以外の英典から向けられる想いはすべて欲しい。
 愛されることも心配されることも怒られることも嫉妬されることも……何もかも。
 なぜならそれは、英典が和宏のために向けるものだから。
 貪欲なまでにそれが欲しいと思うから、だからこんな些細なことであれば困らせて見たいと思う自分に、和宏は戸惑い、だが嬉しかった。
「英典……ありがと」
 照れながら呟いた言葉に、英典が訝しげに和宏を見上げる。
 何かを言い足そうに緩められた唇に吸い寄せられそうになって、和宏は慌てて気を確かに持った。
 会社の敷地内で自らそんなことをしたくなるとは思っても見なかった和宏は、ただ戸惑って誤魔化すように苦笑するしかない。
「和宏?」
 訝しげな問いかけに、なんでもないと首を振り、決して言えるわけがないから、胸の内に留めてしまう。
「ん?、ま、いいか」
 今ひとつ納得はしていないように見えるのだが、だからと言って言い訳があるものではない。
 和宏はそれから数歩歩いてから、ふと英典を見遣った。
「あのさ」
 言いかけて口ごもる。
 言いたいことが酷く大胆不敵に思えて、躊躇ってしまいそうになった。しかも知らずに顔が熱くなって、それでなくても熱い体がさらに熱を籠もらせる。
 それでも、噴き出す汗を拭いながら、和宏はようやく英典に言葉を伝えた。
「僕は英典には負けないから」
 何が、とは言わない。
 驚きに目を見張った英典は、だがすぐにその目を細めてにやりと嗤う。その手のひらが熱く和宏の背を押した。
「俺だって、負けないよ」
 仕事も恋も対等であってこそ、楽しいと思うから。
 幾ばくかの緊張で英典に触れられた背に、汗が噴き出す。
 言っては見たものの、やはりその大胆さに悔いてしまうせいで噴き出した冷や汗だ。
 だが、英典は随分と楽しそうで、その顔には和宏が大好きな笑顔を浮かべていた。
「おはようございますっ」
「おはよう」
「おはよ」 
 様々な朝の挨拶が、辺りに響く。
 そこは今までと何ら代わりのないいつもの職場だというのに、どこか違うようなそんな思いを胸に抱きながら、和宏は事務所へと足を踏み入れた。
32

 なぜだか様子が変だと、和宏は訝しげに隣にいる上木を窺った。
 眉間のシワも深く、その額には汗が浮かんでいる。なのに、きっちりと着込んだ夏物のスーツの上着。
 会社を出発してからずっとその格好で、最初は運転しているから脱ぐことができないのかと思っていたが、サービスエリアで休憩している間も着込んだままだった。
 あまりの暑さに車に再度乗り込むときに和宏は上着をさっさと脱いでしまったのだが、上木は暑そうにしかめっ面をしただけだった。
「上木さん……、上着脱がないんですか?」
 ここまで汗をかくと上着にも染みができそうだと心配してみれば、「脱がない」と一刀のもとに切り捨てられる。
 それは、脱がないことに意固地になっているように見えたのだが、その原因まではわからない。
 仕方がないので上木のために冷房を強めにしたが、今度は薄着になっている和宏の方が冷えてきて、結局高めに戻すハメになった。
 今回の出張先は公共交通機関では不便であったから、社有車を使い1時間ほど高速をひた走る。
 その間、二人っきりだというのに会話が全くないほどに不機嫌な上木の様子に、和宏はひどくいたたまれない気分になってきた。
 少なくとも事務所を出るまでは上機嫌だった上木だというのに、車のキーを取りに行って帰ってきてからずっとこの調子だ。
 一体、何がどうなっているのか?
 最初は、何か自分に落ち度があったのかと思ったがそれも心当たりがなく、和宏はただ助手席で小さくなっているしかない。
 英典には負けないと豪語してしまった手前、こんなところて音を上げたいとは思わないが、それでも……と堪えきれずに溜息を漏らしてしまった。
 と。
「あいつせいだからな……」
 いきなり響いた声音にびくりと顔を上げる。
 前方を見据えたまま、しかめっ面を崩さない上木がそこにいた。
「あいつって?」
 誰のことだろうと思った途端、何故だが英典の笑い顔が浮かび、ひくりと口の端が引きつる。
 だが、まさかと思ったその瞬間に。
「井波英典」
 と憎々しげに突きつけられて、なぜだか弁護することもできなかった。
 言葉もなく上木を凝視していると、その視線が一瞬だけ和宏を捕らえる。
「何も言わないところを見ると、心当たりはあるようだな?」
 険のある声音に、慌てて首を左右に振る。
「知らないです。何も」
 それでも僅かに声が震えたのは、朝の英典の随分と楽しそうな様子が脳裏に浮かんだからだ。
「そうか?」
 信じていないと判る声に、和宏はもう返答のしようもない。
 一体英典が何をやったというのか?
 キーを取りに行って帰ってくる僅かな間にこれだけ上木の機嫌を損ねるようなことを?
 英典でない和宏には、そんなことはついぞ考えつかなくて。
「何をしたんです?」
 恐る恐るに窺ってしまう。
 きつい視線が一睨みして、上木はちらりと標識を見遣った。
 次のパーキングが近づいている。
 数分後、上木はウインカーを出していた。
 駐車場の端に止めた上木がなぜだかにやりと嗤いかけてくる。
 和宏はその異様な雰囲気に、身を強張らせて助手席のドアに背を押し付けていた。それなのに、上木との距離は広がらないどころか反対に狭まっていく。上木が身を乗り出しているせいだ。
「う、上木さ?んっ」
 零れる悲鳴が情けなく車内に響く。
 迫られてるんだよな……。
 そう思わせる体勢に、和宏はもう逃げ場など無かった。
 一体英典は上木に何をやらかしてこんなに怒らせてしまったというのか?
 あんなにも警戒しろと言っていたのは英典だというのに……。
 この場にいない英典を責めてもしょうがないとは思っても、それでも一体何をしたんだぁっと、叫びたくなる。
「見せてやるよ、あいつが俺にしたことを」
 その目がひどく真剣で、和宏は何事かとごくりと息を飲み込んだ。

 最初に飛び込んだのは赤色だった。
 白いシャツの上だからこそ鮮やかに浮かぶ赤。
「そ、それ……」
 赤の飛沫を辿り、恐る恐るその上にある顔へと視線を移す。
 苦渋に満ちた顔がこくりと頷いて、和宏の言葉を肯定した。
「あの野郎、キーを取ってきた俺を通路で待ちかまえていてな。んで、いきなりこれだ」
 この色は、評価装置のプロッターで使う赤色だな……と和宏はそれを聞きながらふと気付いた。補充用の小さなインクタンクは、軽く押すだけで中のインクが吹きだす。
 確かに、これでは上着を脱ぐことはできないだろう。
 遠目に見ても目立つのだ。
「俺がお前に手を出すからだと、言いやがった……」
 では、これは英典の報復なのだろうか?
 思わず零れた深いため息は、その行為の随分と子供じみている所を感じてしまったからだ。
「てぇことで、あいつの責任はその恋人だというお前に取って貰おうっ」
「え?」
 その言葉に跳ね上げた顔をきつく掴み上げられ、もう片方の手でぐいっと襟首を引っ張られた。
「ちょっ、ちょっとっ!!」
 きつく見据えている上木の口の端がなぜだか上向きに弧を描いているのを見た途端、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
「ここにはインクはないけどな……。でも赤い色を残すことはできるんだよ。ここにある奴みたいに」
 襟首を掴んだ指先が、そろりと首筋に触れる。
 隠そうと努力していたそこをやわりと指先で嬲られて、和宏はその頬を凍らせた。
 上木の意図があからさまに伝わる。
「や、やめてくださいっ」
「別に取って喰やしねーよ」
 熱い息が肌をくすぐり柔らかな粘膜がそこに触れる感触に、ぎゅっと固く目を瞑った。
「んくっ!!!」
 思わず全身で突っ張っていた。
「ぐえっ!!」
 何かの音のような呻き声と叩きつけられる鈍い音が車内に響いた時には、のしかかられる重みは消えていて。
 そっと目を開けた和宏の前で、上木は腹を抱えて蹲っていた。
「うぅぅ……くっ……」
 息をするのも辛そうに喘いでいる上木の額は、暑さだけではない汗がじっとり浮かび、
その体は小刻みに震えていた。
「あ……すみません……」
 間の抜けた詫びが口から零れる。それでも近づいて介抱する気にはなれない。
 舐められた首筋の冷たさが、それを和宏にさせない。
「おま……げほっ……思いっきり腹を蹴るか……くっ……」
 腕で支えるように上体を起こす上木の赤い染みつきシャツに、今度は泥色の靴底の型がしっかりと加わっている。
「でも……上木さんが……」
 咄嗟のことで、己が何をしたのかもよく判っていない。
 ただ、その靴底が自分が履いている靴の物だと言うことは判っていた。
「くそっ、これもあいつに教えて貰ったのかよっ」
「あ……いえ、そんなことは……」
 なんと言っていいのやら。
 実は英典の兄にまで襲われかけたから、少しはと、二人でいろいろと対処法を考えたのだと、上木に言うわけにもいかない。
 ただ、曖昧な笑みを浮かべるだけになってしまう和宏に、上木は腹を抱えたまま大仰なほどのため息をついて、しみじみと呟いた。
「お前……井波に似てきたな……」
 嫌みのように言っている筈のそれが、実は和宏にはなんだかひどく嬉しくて、その顔が綻んでしまっていた。
 英典を追いたいと、追い越したいと、少なからず思っている和宏にとって、それは褒め言葉でしかあり得ない。
 その隠しきれない悦びに上木はふと察してしまって、再度ついたため息とともにがっくりとハンドルに突っ伏したのだった。

【了】