緋だすき(2)

緋だすき(2)

11
 体の上の重みが消え去ったことに、はっと意識を取り戻した。
「ひ……でのり?」
 喉が痛い。
 熱は風邪のせいだったのだろうか?
 唾を飲み込むときに感じる痛みにのど元に手を当てる。
 話しかけたいのに、思うように声が出ない。

 掠れた声しか出ない自分に戸惑って唖然と見上げる先で英典が苦笑を浮かべていた。
「喉にずっと負担かけていたから……ね。ごめん……無茶した……」
 汚れた体をそっとティッシュで拭き取ってくれた英典に、改めて恥ずかしさが込み上げて、和宏は慌ててはね除けていた布団を抱え上げた。
 その様子にくすりと笑みを零す英典の手が和宏の髪に触れる。動かないように固定された頭に英典が近づくのが見えて、和宏は咄嗟に目を瞑った。
 だが、こつんと触れあったのは互いの額だ。
 落胆している自分に期待していたと気付いてしまって、羞恥に顔が熱くなる。
「……まだあるね……」
 微かな呟きが聞こえ、上目遣いに窺い見る。
「何?」
「熱……まだ高いよ……」
 自嘲気味の笑みをその口元に浮かべ、和宏を見下ろしている。
「なんか……さ、我慢できなくて……」
 後悔しているのだと、その顰めた眉が伝えてくる。
 嫌、だったのだろうか?
 和宏が強請った行為に。ただ、感情に流されてしまって強請ってしまって。
 英典のことなど考えなかった。
 後悔……は自分の中にもある。行った行為は後から考えればひどく恥ずかしいことだ。それに人の顔色を窺って失敗したと胸を締め付けられるような想いに捕らわれるのはいつものこと。
 だが。
 和宏の脳裏に英典が言っていた言葉が甦る。
『諦めないで』
 何よりも彼自身がそう言ってくれたから。ここで諦めることなどできないと和宏に勇気を与えてくれる。
 ほんとうになけなしの勇気が湧いてくる。
「英典は……嫌だったのか?僕にしたこと……」
「いいや」
 即答で返ってきた言葉に笑顔を浮かべる。
「ならいいよ。だって……僕が……誘ったから」
 その自覚はある。まだ……と何度も強請って口移しに飲ませてもらって。
 そうして煽ったのだ。
 触れあいたいという欲求を抗えきれなくて。
「僕が……誘ったから……英典は悪くない、よ……」
 ひどく体が怠い。
 ここのところの不調のせいでずっとまともに食事をしていないと、今更ながらに思い当たった。
「でも……」
 何か言いかけた英典の手を掴んで制止する。今だから言える言葉がある。
「英典……こんな僕……変、かな?」
 こんな、男を求めて触れあいたいと願って……。
 僕は、ゲイなんだろうか?
「和宏は変じゃないよ」
 慌てたように英典が言い募る。
「変なのは俺の方だ。気付いてた?俺、男しか駄目なんだよ」
「え?」
 今自分が言おうとしたことを先に言われ、和宏は続ける言葉を失ってしまう。
 男しか駄目?
「だから……和宏に近づいたんだよ。好みだって……思ったから。な、俺の方が変だろ?」
 口の端が上がって嗤う。
 それがひどく苦しそうで、和宏は必死で体を起こして英典の腕を掴んだ。
「変じゃ、ないっ!」
 叫んでいた。
「僕も、英典が好きだから……だから……っ!」
 ぐいっと掴んでいた腕を引っ張る。
 力が抜けたように倒れてきた体に抱きついてその肩口に顔を埋める。
「好きだ……だから……嬉しいんだ……」
 英典が男しか駄目だということが……ひどく嬉しい……。
「かずひろ……」
「熱のせいじゃない。朝だってそんな自分を知られたくなくて……こんなことで体調崩している自分を知られたくなくて……だけど……英典を見たら……もう駄目だったから……」
 言葉を、何かを言わないと。
 その想いが和宏の喉から言葉を吐き出される。
 掠れた声しかでない自分がもどかしい。
「だけど目が覚めたら英典がいてくれて……だから嬉しくて……」
「もういいよ、もういいから……」
 ぎゅうっと英典の腕に抱きしめられた。
 早い鼓動が胸を伝ってくる。
「ありがと……嬉しい……嬉しいよ……」
 顎を捕まれ上向かされて。
 柔らかく塞がれて。
「好きだ」
 声にならない言葉を紡ぐために、互いの唇が蠢いた。

 

「もう、ずっと……女の子に興味がなかった。こんな俺を親父も知っている。知られるな、とは言われたけれど……だからと言って邪険にはされなかったのが救いかな?でも……やっぱり自分が他人とは違うってことには負い目があった。下手に親父が優しかったから……だから余計に、それ以外のことでは頑張らないとって思って……」
 その口元には笑みが浮かんではいたけれど、ひどく寂しそうだと感じる。
「せめて親父の助けになれるかと思って頑張ったけれど……だけど駄目で……」
 そう言いながら僅かに逸らされた視線が、再び和宏に向けられて、笑う。
「どうも俺……イレギュラーなことには弱いんだよ……」
 その笑いが寂しそうで、和宏の胸を締め付ける。
「……イレギュラー?」
「そう」
 頷いて、少し首を傾げて、英典は言葉を選ぶように心の内を語り続ける。
「備前焼って、土と火の芸術って言われるだろ。どんなに人が手を尽くしても、どうしても自然の力が人の力を凌駕する時があるんだよ。こうしたいって、いくら頑張って管理しても、その時の温度、湿度そして……ちょっした時間の違い。それで、変わってしまうんだ」
 少し遠い目をして英典は言葉を紡いでいた。その視線の先にあるのは何だろう?
 和宏はその視線の先を追って、そして見つけてしまう。
 備前焼好きの両親が飾った花瓶はやはり備前焼だ。英典はじっと見つめていた。
「英典?」
 和宏の問いかけに、くくっと喉を鳴らして視線を戻す。
「あれ……兄さんの作だよ。キレイだろ。兄さんはイレギュラーなことに強いんだよ。窯の火も気温も何もかも兄さんの味方をするように。兄さんは意図もたやすく自然を味方にする。俺は……敵わない。俺には……できない……」
 英典の瞳が灯りに照らされ揺らいで見える。堪えきれない感情が、その瞳から溢れるように、涙が一筋頬を流れていた。
 それに和宏はそっと手を伸ばした。
 指先に触れる濡れた感触が冷たい。
「だから……辞めたのか?」
「ああ」
 触れた指を動かして、英典の頬を辿る。
 そんな和宏の指の動きを英典は止めようとしなかった。ただ、くすぐったそうに小さく笑う。
「もう会社しかないから、って思ってさ。それで一生懸命やっていたら、何でか向いていたんだろうな。評価が良くってさ。いつの間にか班長って立場になってて、珍しいって持て囃されて。俺、もうそれでもいいかって思ってた。やっぱりさ自分を欲してくれるところで働くって気分いいじゃんか?」
 その言葉に和宏は答えることができなかった。
 和宏は欲して貰えることすら今までなかったから。別にそういう事が欲しいなどと思わなかったから。
 だが英典は違うのだろう。人に褒められて今以上の力を出すタイプなのだ。
 それが英典の強さなのだ。
「英典は凄いよ」
 和宏の目から見れば、英典の仕事ぶりは羨ましい限りだ。今聞いた限りでは英典だって挫折はあるのだろうけれど、彼はそれを乗り越えられるだけの力をも持っている。今の道を諦めても違う道を進む気概を持つことができる。
 流されて、一つの道しか進むことができない和宏とは違うのだ。
 ふと、和宏の脳裏に赤穂浪士の人形の前での会話が浮かんできた。
 さっき英典は、諦めるなと言っていたのに、あの時は、すぐ諦めてしまう、と言っていた。
 もしかすると、あの『諦めるな』は、英典自身に向かって言っていたのかもしれない。
 考え込む和宏に英典は苦笑を浮かべて見つめていた。
 口元は笑っているのに真剣な瞳が和宏を縛るように捉えて放さない。
「今までは諦めていたよ。ほんとに自分が欲しいモノはいつも手に入らないんだって」
 和宏の心を読んだかのように、そんなことを言う。
「欲しいもの?」
 触れていた腕を手首のところで掴まれ、和宏の体がびくりと震えた。
 その手の熱さと見つめてくる視線に体の芯が疼いてくる。
 僅かに眉根を寄せて疼く体をもて余してながら英典を見つめていた和宏は、次の瞬間、どきりと鼓動を激しくした。
 英典がうっすらと微笑んだのだ。だが、どこか寂しげに。
「備前焼も諦めて。それに初恋の人と再会したのに、相手の人は気付かなかったから、それすらも諦めて……」
「!」
 初恋の人?
 和宏の胸がひときわ激しく音を立てる。
 そんな人がいたんだ……。
 いてもおかしくないと思うのに、英典の口からそんな言葉を聞きたくはなかった。
 好きだと言ってくれたのだから、それを信じればいい、とは思う。だが、心の奥底からわき上がるのは焦り。
 何よりも彼が見せた表情が、その人を本当に好きだったのだと言っていたから。
「何もかも諦めて……。唯一手に入れていた仕事に逃げていた」
 遠い目をして、呟く英典は和宏の動揺など気付いていないのか、淡々と言葉を紡ぐ。
「だから、和宏と店の横で会ったとき、もう後悔はしたくないから、諦めないと……誓った」
 握りしめられた手首に力が加わる。
 離さないとでも言うように。
 なのに、和宏の心はどこか冷めていて、先ほど英典の言葉を幾度も反芻していた。
 彼だって立派な大人なのだから、そんな人がいても仕方がないと思うのに、その時の彼の表情が気になっていた。 
 ひどく懐かしく愛おしそうに微笑んだその表情。
 そんな表情をさせた相手が気になって仕方がなかった。
「ああ、ごめん。顔色が悪いや。寝た方が良いって」
「あ……大丈夫……」
 熱のせいではないと判っているから、首を横に振った和宏の肩を英典はそっと押してきた。それに抗うまもなく、ベッドに体を押しつけられる。
 至近距離にある英典が微かに笑っていた。
 口の端を上げて悪戯っぽく笑うその顔を、和宏は何事かと不安げに見上げた。
「早く治してくれないと、研修の講師がいなくなるもんな」
「あ……」
 途端に、ずきりと比喩ではなく胃が痛む。
 昨日自分が放った言葉と、そしてその時に感じた心の痛みをも思い出したからだ。
「俺、和宏なら研修を受けるって言ったんだよ。和宏と仲良くなりたかったから。和宏と話がしたかったから。その願いは、その前の日に叶っちゃったけどさ」
 それだったら、別に担当を降りたっていいじゃないか?
 そう言いかけた言葉は、喉から出る寸前に堰き止められた。
 しっとりとした唇が和宏のそれを柔らかく塞いで、言葉を紡がせない。
 幾分下がった熱が急に上がったような気がする。襲われた目眩にも似た浮遊感に和宏は力無くシーツを握りしめた。
「……和宏はさ、できるよ。役に立たなくなんかない。俺にとっては大事な講師なんだから」
 僅かな合間に一気にそれだけ言い切って、英典が再び熱く、深く唇を合わせてくる。
 役に立つのか、僕でも……。
 与えられた熱のせいなのか、朦朧とした意識の中で英典の言葉を聞いていた。
 口内に潜り込んだ舌先が、上顎を擦り、歯列を辿る。引っ込んでいた舌はなんなく引きずり出され、熱く互いに絡み合う。
「うっ……んっ……」
 微弱な電流が体のあちらこちらで流れ、その刺激に息を飲んで。
 和宏はただ、与えられる快感に流されていた。
 欲しい、と。
 心が何度も願う。
 だから。
「帰ってきたみたいだよ」
 英典の声に反応することができなかった。
 体を起こして離れた英典との唇の間にできた細い糸が切れた瞬間、ようやく意識が現実へと戻ってきたくらいだ。
 だが、それもあやふやな現実。
「……ご両親がね。だから……帰るよ。明日一日ゆっくり寝て、また月曜に会社で逢おう」
 立ち上がり、離れていく朧気なシルエットに手を伸ばす。
 さっき言いそびれた問いをするために。
「英典……僕は……役に立てる?」
 英典のために。
「和宏は自分を知らないだけだよ。自分が何ができるのか。俺はそんな和宏をよく知っているから……だから、大丈夫だよ」
 その言葉が不思議と心に染み込んでくる。
「そう、かな?」
「そうだよ」
 再度唇に触れた熱が、それを信じさせるように蠢いて離れる。
「だから……ちゃんと治して月曜にきてよ。証明してあげるからさ」
 それを信じたい。
 和宏はただこくりと頷くだけだった。
12
「驚いたわよ。井波先生とこの英君に看病して貰ったなんて」
 次に目を覚ました和宏の前には、母親が困惑の表情を浮かべて立っていた。
「……約束していたから、来たんだよ。でも……僕が調子悪かったからさ」
 嘘ではないから、言い訳がすらすらと口から出ていく。
 内弁慶。
 両親が和宏を評して言う単語だ。
 さすがに生まれてから26年間、ともにいた両親の前では、平気で会話ができる。
 要は慣れなのだ、とは思ってはいたのだが。
「布団まで出して頂いて、飲み物まで。玄関先で帰られる英君を引き留めたんだけど、どうしても帰るからって言って。今度逢ったらよっくお礼言うのよ。ほんと、英君、立派になっちゃって」
 その物言いに違和感を感じて和宏は母親を見つめた。
「母さんは……英典……君を知っているんだ?」
 この前初めて逢ったにしては、馴れ馴れしく英君と呼ぶ。それに、『立派になった』という台詞。
「知っているも何も、井波先生宅は昔からおつきあいがあったから。和宏だって小さい頃は何度も英君と遊んでいたじゃない」
「え?」
「そうねえ、和宏が中学の頃までだったかしら。その後、一時期お父さんの転勤でバタバタして行かなくなって。それから和宏は行っていなかったわね。あの時は英君はまだ小学生で……昔から可愛かったけれど、今もどことなく面影が残っているわね」
 懐かしそうに思い出話に華を咲かせる母親の言葉に、和宏もそう言えばと思い出す。
 店の奥のあの緑の中。
 藤棚と丸太の椅子。
 どことなく懐かしいと感じた場所が記憶の中から甦る。
 自分はあの場所を知っていたのだ。
「そうそう、和宏が最後に行った日ね、たまたま先生がお暇で和宏にも土ひねりを体験させてもらったのよ。そういえば、あの時作った器を、先生に『形がいい』って大変褒めて頂いて」
「え?」
「英君も一緒に作ってたんだけど……そういえば、あれ、どうしたのかしら?あれがあれば忘れっぽい和宏ももっと思い出すと思うんだけど?」
 くすりと意地悪っぽく笑う母親に、和宏は返す言葉はない。いや、それ以上にそんな記憶すらない自分に呆れ果てていて。
 だがそれ以上に、思い出したいと切に願う。
 過去に逢っていたというのなら、思い出したい。
 何もかも忘れたままというのは、失礼なことだとは思うから。
 だが英典はそれを覚えているのだろうか?
 同じ会社なのに覚えていなかった、ということは責められはしたけれど。
「英典君は……僕のことなんか忘れてるよ、きっと。今は同じ会社だから、改めて知り合いになったというだけで」
「えっ、あら、でも」
 驚きの声を発した母親が不意にくすりと笑みを零した。
 続いて可笑しそうに喉の奥で幾度も笑う。
「何?」
 どう見ても思い出し笑いのようで、しかも話の流れから当時のことだと思うから、和宏は聞きたくて、笑う母親を小突いて強請った。
「昔の事なんだけど、英君がね、和宏と結婚するって言い出したのよ。確か……六年生くらいだったかしら、和宏が」
「は……?」
 今とんでもない言葉を聞いたと、和宏は母親を見つめた。
「そんな事忘れていたんだけど……ただ、この前、英君って私たちに『約束通り和宏を貰いますから』ってにっこりと笑って言ったのよ」
「はっ、ああああっ?」
 この前とは、この前のことだよな?
 あまりの驚きに、頭が麻痺してきちんと動かない。
「で、こちらもつい、『不肖の息子ですがよろしく』……なんて言っちゃったのよっ」
 言って自分で受けてしまったのか、けらけらと声を立てて笑う母親を、和宏はもう呆然と見つめるしかできない。
 それって……。
 たぶん英典は本気で言ったのだと、今なら判る。
 父親からバレないように言われたって言っていたけれど、あの場にはその父親だっていたはずだ。
 いったいどういうつもりだったんだ?
 その後の井波家の修羅場を想像して、全身から冷や汗が吹き出す。
「で、後から、井波先生に謝られて。英君、本気なんですって?返事はどうするつもり?」
 さらりと言われた言葉に和宏の反応は遅れた。
 困ったな、と額を押さえていた手がぴたりと止まったのはその数秒後だ。
「え……?」
 ようやく出てきた言葉は、どこか情けなさを持っていたらしく、母親が失笑を浮かべる。
「……プロポーズされたんでしょ?だからどうするの、って聞いているのよ」
「え……?」
 なぜそんなことを笑いながら問うのだろう?
 それが判らなくて、なんと答えて良いのか判らない。
「ああ、もう、我が息子ながら焦れったいわね。はっきりしたらどう?」
 そう言われても答えられない質問だと、理性が頭を支配する。
 だが、母親はそれを許してはくれなかった。
 軽い音を立てて、和宏のベッドに腰を下ろす。
 改めて和宏を見つめた表情からは笑みが消えていた。
「英君ってゲイなんですってね。先生もとっても困っておられたわ。ただ、それを否定したくはないとも、言っておられたの。それが英君の個性なんだからって」
 静かな抑えた声音。だが、だからこそ、和宏の混乱した頭に染み込んでくる。
「英君がわざわざ宣告したということは、どうしても和宏を手に入れたいと思ったのだろうって。それが嫌なら、和宏を英君に近づけさせないでくれ、とまで言われたわ」
 近づけさせないでくれ……って……。
 それは無理だ。
 だいたい、会社が一緒なのだから。近づかないようにしようと思ったら、会社を辞めるしかない。
 それに金曜までならともかく、今は彼に逢えなくなるなんて事は考えたくなかった。
 それが表情に出たのか、母親はくすりと笑った。
「和宏がしたいようにさせる、って、父さんは言ったわ。私は父さんに従うわよ。父さんがいいって言うのであれば、私は何も口に挟まない。その辺のだらしない、どうでもいいような男だったら絶対に嫌だけど……相手はあの英君なのよね」
「で、でも……何で父さんがそんなこと?」
 普通反対すると思うであろう父親が、なぜそんなことを?
「ふふ、父さん……理解あるのよね。大学時代に経験あるから」
「え?」
「父さんね、あの当時には珍しいバイってのだったのよお。私、男相手に張り合って、父さんを手に入れたんだから」
「は?」
 情けないことに、あまりの事にまともな返事が返せない。
 両親が恋愛だと言うことは知っていた。今でも仲がいいということもだ。
 だが、父親がバイ?
 さすがにその言葉の意味は、大学時代に聞いたことがあって知っていた。
「か、母さん……それでも良かったのか?」
 男と張り合ったと、笑っていうほど、この人は図太かっただろうか?
「だって、勝てたんですもの。私、勝てたのよ。そして、今でもあの人は私を愛していてくれるの。この手に私はあの人を捕まえた。そしてあなたを産んだのよ。私と父さんの愛の結晶をね。……あの頃の父さんは、今の和宏によく似ているわ。線が細くて、顔がね、好みだったのよ。でも負けず嫌いでやりたいことは何でもやるって所は和宏には似なかったわねえ」
 最後だけはため息混じりで、苦笑を浮かべた。
 それはいつも言われていることで、言われるたびに憂鬱になるものだったが、今はそれどころではなかった。
「ついでに、残念ながら和宏は女性にモテるタイプではないって事もよっく判っちゃうのよねえ」
 それはきつい……って思うんだけど……。
 思わず顔を顰めた和宏に、母親は「だから……」と続けた。
「だから、英君でも貰ってくれるならいいかな……なんて思ったのよ」
「……それって……いいのか……」
 思わず呟いた言葉は。
「いいのよ」
 と力説された。
「あんたの孫は無理だけど、もう一人可愛い息子ができると思えばね。それに」
「それに?」
 随分と楽しそうな母親に、和宏は一抹の不安を覚えながら問い返した。
「井波先生と縁ができるのよっ!これはもう、先生の作品がいただけるチャンスじゃないっ!!」
「か、かあさん……」
 呼びかけて、絶句する。
 それって……僕は備前焼と交換なのか?
 言いたかった言葉は、ただ胸の中でぐるぐると駆けめぐり、結局外には出てこない。
「欲しい先生の作品があったのよねえ。でも高いから絶対無理で……。あ、それを結納ということで頂ければっ!」
 両親の備前焼好きは筋金入りだったと、今更ながらに痛感した。
 それにしても。
 すでにその気になっている母親の様子に和宏は頭を抱えていたが、ふと、あることに気がついた。その途端にすうっと頬が熱くなる。
 自然に独白めいた呟きが口から漏れていた。
「……もしかして……英典の初恋って……僕、なのか?」
 それを備前焼ラブラブモードに入っていた母親は聞き逃さなかった。
「あ、そう言っていたわよ。先生、ご存じだったらしくって、後から聞いたわ」
「あ、そう……」
 だったら……その。
 英典が言っていた、相手に忘れられていたってのは僕の事で。
 和宏は英典が今度は諦めないと言った意味をようやく理解した。
 一度は諦めた和宏を、二度とは諦めない、と……。
「ま、まんざらでもなさそうだし、よっく考える事ね。もう和宏も立派な大人なんだから、そろそろ未来は自分で考えたら?」
 その言葉の意味はよく判っていた。
 いつも流されている和宏を、母親が一番焦れったく思っていたのは知っているから。
 無意識のうちに、その言葉にこくりと頷いていた。
 確かに、これは……自分で考えるべき問題だから。
 そして……たぶん自分はその答えをもう出している。
 だから、和宏はもう一度力を込めて頷いていた。
「……因果は巡るっていうけれど……」
 小さな小さな声が、かろうじて聞こえてはっと顔を上げると、そこには微かな苦笑を浮かべた母親がいた。
 訝しげな和宏に母親が頭をぽんと叩く。
「ほら、いつまでも熱出していたら会社にいけなくなるわよ。さっさと寝て治しなさい」
 その声音はいつもと変わらず明るくて、軽い足取りで部屋を出て行った。
13

 月曜日、目の前にいる英典の態度は先週と変わるものではなかった。
 ただ改めて対面した時に、羞恥に頬を染めた和宏を困ったように苦笑を浮かべて見やったそれだけが土曜日の英典を窺わせた唯一のこと。
「トラブルが起きたときの流れは、製造ではこうですけれど……」
 フロー図を指で辿り、説明を受けているのは和宏の方。
 知らないこと、知ろうとしなかったこと。
 それらを英典が逐一教えてくれる。
 時折吐かれるため息も、眉間のシワも相変わらずなのに、和宏は先週ほどショックを受けていない自分に気がついていた。
 あの時、きりきりと痛んだ胃は、今は痛んだことすら忘れている。
 諦めないで。
 何度も言われた言葉が頭の中にこびりついている。
 今まで誰に言われても、身に付くことの無かった言葉だというのに、英典の言葉だけは特別だというように、忘れることなどできない。
 何よりも、英典自身が諦めたことを後悔しているのだと、教えてくれたから。
 だから、二度と諦めないと言った言葉を信じたいから。
 自分も努力しようと思う。
 諦めないことを。
 英典ができると言ってくれたから。
 もう諦めないと言った英典の言葉だから。
「たとえば、この時にはどうしますか?」
 それは、賢明に英典の言った言葉を理解しようとつとめている和宏に、不意に下された質問だった。
「え?」
 その前に言われた言葉を頭の中で反芻している最中だったから、何を質問されたのか判らなくて、狼狽える。
「この桟の部分の樹脂のひけ、何が原因だと思う?」
 言葉を選び直して、ついでに敬語を取り払った英典が実物を手に和宏に指し示す。
 合成樹脂製の部品。
 細い径が二mmほどの棒状の部分に樹脂が回りきらずにちぎれたようになっている。
 それは、射出成形をしている和宏の会社ではよくある不良であったけれど。
「温度が足りない、圧力が足りない、樹脂のグレードミス……」
 請われるがままに、思いついた原因を和宏が口にすると、英典がふっとその口元を綻ばせた。
「それ、正解」
 そうして、手元に隠していたもう一つの合格品の製品を和宏に指し示す。
「二つを比べると一目瞭然だよね」
 言われなくても、その二つははっきりと色が違っていた。
「グレードが違う?」
「そう。これが金曜日の不良率悪化の原因。何て事はないケアレスミス。人為的ミスだよ。投入する品番をミスったっていうだけの。出てきたものを見ればすぐ判ることなんだ。なのに、なかなか気付かなかったせいで、不良品を多発してしまった。それはなぜだと思う?」
 続けられた質問に、誘われるように答える。
「……違うグレードだと誰も気付かなかったってこと、だから……」
 言いながら、和宏は英典の手の中にある二つを交互に見やった。
 色は違うのに、なぜ気がつかなかったのか?
「それはつまり……用意した材料が、計画された材料だと思いこませる要因があったっていうこと、かな?」
 自信のなさが声に出て、窺うようになる。だが、それでも英典は満足げに頷いた。
「そう。一見よく似た材質だから、出てくるまで誰も気付かなかった。出てきた製品の色が普段と違うのに、投入した物がいつもと同じ名前だからというだけで、おかしいと思いつつもそのまま流してしまった思いこみというミス。今回の不良品の発生はそういう複数のミスが絡み合ってできたものなんだ」
 言われてみれば……。
 人間の思いこみは時として厄介なもので、それでいいんだと思うことが不良品の発生に結びつくことは良くあることだから。
「……何事もね、疑うことがまず第一。おかしい、と思ったら、その原因をまず探ってみること。それが不良率低減の第一歩なんだ。それってさ、設計でも言えることだろ?」
「あ、ああ」
 頷いて、見やった英典は笑っていた。
 その笑顔にどきりと心臓が高鳴って、和宏は慌てたように息を飲んだ。
 じんわりと顔に熱が集まってくる。
 先週は、こんな笑顔を向けられたことが無かったのだから。
「やっぱさ、和宏は頭の回転早いや。毎年のように研修を受けに来た余所の部署の人間って頭が固くってさ。そんな簡単な事思いつきやしない。何事も自分が一番って余計なプライドばっか高くって」
「え……」
「製造からすれば、交換研修って面倒で仕方が無かったんだよね。なんかさ、どっか見下した感じがある奴らばっかで面白くなかったし」
 心底嫌そうな表情も、実は初めて見るもので和宏は戸惑いの方が大きかった。
「そ、そうなんだ……」
 自身も設計に所属する人間だから、迂闊な返事もできやしない。
「でも……和宏は違ったよな。最初っから。入社したときの研修の時だって、何につけ一生懸命で、いやがられる金型の洗浄作業なんかも熱心でさ。細かなところまできちんとチェックしてた。あれ見てさ、和宏はきっとできるって思った」
「え……」
 かああっと不意に込み上げてきた羞恥に和宏は視線を逸らすことしかできなかった。
 研修中はただ一生懸命で、言われたことしかできなかったから。
 そんな所を英典に見られていたなんて思いもしなかった。
 あの時だって、いろんな失敗をしていたというのに。どうして、できるなんて……。
「和宏って、ほんといろんな事考えすぎ。うじうじと考えるの止めて、頭より先に体動かしてみたら?」
「それができたら……」
 どんなに良いだろう……。
 動くことより先に頭がいろいろと考えてしまうのが、自分なのだから。
 躊躇いの方が大きいから、ふるふると小さく首を横に振る。
 できないと……考えてしまう。
「できるよ。和宏なら……。俺が見てきた和宏なら、できる」
 やけにきっぱりと言われて、しかもその声が間近で聞こえたと、驚いて見張った視界一杯に英典の顔が広がる。
「あ……」
 驚いて下がろうとした途端肩を掴まれて、固定された。
「ね、俺ちょっと堪らなくなってきたんだけど?」
 その口調がからかっているように楽しそうで、和宏は真っ赤になりながら唇を噛みしめた。
 英典の欲している物が判ったのだ。
「し、仕事中なのに……」
「だってさ、誘われているみたいなんだよ。俺見るたびに頬を赤く染められたらさ」
「そ、そんな」
 否定しようとするが、自分自身もそれは自覚しているから言葉が出ない。
「今日は和宏って、カリカリしていないよな。なんか吹っ切れているみたいだ」
「そ、それは……英典だって」
 先週に比べれば態度が軟化しているというか。
 とにかく、取っつきやすい雰囲気があるのだ。先週からこんな状態なら、自分もあそこまで気にならなかっただろうし。
「そりゃ、やっぱり和宏が好きだって言ってくれたからな。そうやって名前で呼んでくれたら意地悪する理由もないし」
「……意地悪?」
 英典にとって、あれは意地悪と呼べるものなのか?
 どう考えたって、あれも英典の本音だろうに。
 それを思い出した途端、昂揚していた気持ちが急速に冷めてくる。
「……」
 堪らずに黙り込んでしまった和宏に英典はくすりと吐息で笑って、今更ひくのは許さないとばかりに強い口調で要求する。
「ね、舌出して」
「え?」
「舌、こんなふうに」
 ぺろっと英典が舌先だけを唇の間から差し出してきた。それを指さして、和宏にもしろと伝える。
 あまりに唐突な指示に、その意図が判らなくて躊躇っている間に、英典の顔がさらに近くなってくる。
「で、でも……」
「ほら、出してよ」
 その英典の瞳の奥でゆらりと揺れる熱を持った光に気付いて、和宏は息を飲んだ。
 どきどきと激しく鳴り響く鼓動が、英典にまで聞こえていきそうなほどで、息苦しさすら伴っていた。
 ちらりと視線が窓とドアへと向かう。
 曇りガラスのその窓は、今は何も映していないけれど。
 人が来たら……どうするつもりなんだ?
 だが、そんな羞恥も英典にとっては楽しむ術のようで、和宏をからかう。
「早くしないと人が通るかも?」
「そ、そんなっ、できない、そんなことっ」
 断ろうとする声は上擦っていて、それに対する返事はくぐもった笑い声を伴っていた。
「仕方ないな。じゃ、これで勘弁してあげる」
 和宏が出さなかったと舌の代わりだと、英典の赤い舌が覗いて。
 視界から外れるほど近くに迫ったそれが、和宏の渇いた唇をゆっくりとなぞっていく。
 くすぐったさを伴った感触に背筋にやんわりとした疼きが走る。それにうっすらと上気した肌から立ち上る英典の匂いが、土曜の出来事を思い出させてきた。
「んっ……」
 堪えようとして思わず漏れた声が、自身を煽る。
 ほんの数秒舌先だけで触れた英典は、ふたたび椅子に腰を下ろした。
 だが和宏は、たったそれだけのことで、熱に浮かされたようにぼんやりと英典を見つめていた。
「……やっぱ……和宏ってキレイだよな。その肌の色、俺好きなんだよ」
「……また、そんな事……」
 ぼんやりとした頭をしゃきっとさせるかのように頭を振って、英典を見やる。
 流されてしまうところだったのだと、理性が呼びかけてきて、それが後悔の念を湧き起こさせた。。
 こんなところで……。
 強引だと自ら言っていた英典を相手にするには、自分も気をつけなければ流されてしまう。
 それはそれで嬉しい事だけれど、それでは駄目だとふっと思った。
 少なくとも……ただ流されて英典に付いていくのだけは嫌なのだ。
 お互いに欠けている所を求め合いたいと思う。
 そんな仲でいたいから。
「仕事……しよう……」
 それだけ言って、手元のファイルに視線を落とす。
 欲しいと体は疼いてたが、それだけでは駄目だ。
 少なくとも英典にはもうバカにされるような態度は取りたくない。先週のような英典は二度と見たくない。
 それは、土曜日からずっと考えて結論づけていた和宏の決意だった。
 自分の存在が英典の枷にならないように。できることをしたい。
 そのための努力をする。
 その決意が和宏の表情に宿って、何よりもその瞳の力が強くなる。
 そんな様子がありありと判る和宏に、英典もくすりと喉の奥で笑って資料を取り上げた。
14
 英典に褒められて、自信がついたのだろうか?
 たった一ヶ月の研修が終わって本来の仕事をしていても、なぜかスムーズに事が運ぶようになってきた。
 仕事を進める上での基礎や気をつけなければならないこと。
 気がつけば、そんな細かなことが身に付いているのだ。
 そして何より、仕事の内容が少しずつ変わってきた。
「八木、この図面、こっちのFAXの訂正事項と照らして直しといてくれ」
 上木が図面とFAXを和宏の手の上に置いた。
「修正ですか?」
 それはいつもしていた事柄で、いわば上木のお手伝いというべき雑用なのだが、和宏は意にも介さずざっとFAXに目を通した。
 もともと図面を扱うことは嫌いではないから、それ自体苦になるものではなかった。
 修正するポイント、寸法、そして……。
 って、あれ?
 ふっと浮かんだ疑問そのままに、上木に問いかけていた。
「あの?」
「何だ?」
「これ、いつまでですか?それに、ここの寸法がおかしくなりますけれど?」
 修正して欲しいという数値にすると、他の寸法が狂ってくる。
 それが書かれていない。
「……あ、ああ……そうだな」
 上木も今初めて気付いたというように、しばらくその図面を見つめ、「確かに」と小さく呟いた。
「これは確認しておくよ。それと……いや。八木、お前がそこに電話して聞いておいてくれ」
「え?」
 思わず上木を見つめていた。
「何、驚いているんだよ。修正するお前が直接担当と話をした方がいろいろと面倒なくていいだろ?だいたい俺、これから出張なんだよ」
「はあ」
 困ったと、顔を顰める和宏だったが、上木の視線はその背後へと向けられていた。
「いいですよね、近藤主任」
「ああ、八木君がやりなさい」
 その言葉に跳ねるように振り向く。
 いつもの柔和な笑みは変わらず、主任が頷いていた。
 僕が……するのか?
 今までずっと、対外的な折衝はしたことがなかったというのに。
「最近……明るくなったよね。報告の時の会話もてきぱきとして要領を得た物になってきているし。研修の成果が出てきたかな?だから、やってみればいいよ」
「しかし……」
 さすがに押し込んでいた自信のなさが表に出てきて、困惑の表情を浮かべてしまう。
「こら、八木。下手なことしてトラブったら俺の責任になるんだからな。ちゃんと仕事しろよ」
「ということなので、八木君がんばりなさいね」
「あ、あの」
 だが、反論の言葉は口の中で消えていく。なぜなら、二人が穏やかに笑っていたからだ。
 いつも柔和な主任だけでなく上木の笑顔があるということに、和宏は戸惑いを隠せなかった。
「ま、そんな固くなる必要ないって」
 上木の手が肩に置かれる。
「上木さん……」
 軽くぽんと叩かれて離れたその後がなんだか暖かい。和宏は思わず左手をその肩に乗せていた。

 

『じゃあ、うまくいったんだ?良かったじゃない』
 入社してから数度目。ほとんど初めてと言って良いほどの対外的な折衝。もっともその内容は図面の中身の確認と言うだけの簡単なものであったが、和宏は問題なくそれをこなすことができた。しかも、相手が気付いていなかったミスを指摘し、それの改善方法まで提示することができた。
 相手もとても満足していたのだ。
 それを英典に報告する。
 研修が終わって以来、和宏は英典とプライベートで逢う時間がとれなくなっていた。
 研修中はまだ、食事に行く位はできた行為も、英典が自分の部署に戻ってからは時間が合わなくなっていた。まして、研修に出ていたせいで英典の仕事は半端ではなく滞っていたのだ。その穴埋めは、休日出勤という形になって、二人の逢い引きを引き裂いてくれる。
 だから、こうして毎日のように電話をしていた。
 いや、それすらも研修の一貫なのだ。
 英典の研修は終わっていたけれど、和宏の研修はまだ終わってはいなかった。
『ああ、さっきのお客の提言内容さ、今ひとつ判りにくかった。それと、敬語も、そんなしゃちほこばらないでさ、もうちょっとリラックスして。で、もう少しポイントを抑えた方がいいよ』
 つまり報告の仕方、電話での会話の仕方の研修だ。
 さすがに今更の研修内容に恥ずかしさが込み上げてくるのはどうしようもなかったが、それは和宏が一番苦手とすることだから、どうしても避けては通れないところだ。
 そして、その研修の成果は着実に上がっていた。
「英典のお陰だよ。近藤主任にも上木さんも満足していたし。ありがとう」
 報告が終わって、何よりも英典に言いたかった言葉を伝える。
 そんな簡単な言葉でも、つい先日まではなかなか口にすることができなかった和宏にしてみれば、格段の進歩なのだ。
『もともと和宏は明るかったものね。だから、自信さえつけば、大丈夫なんだよ』
 そう言って電話の向こうでは笑っているけれど、どうして英典がそんなことを知っているのかは判らない。
 それはきっと、和宏が忘れてしまった子供の頃の話なんだろうとは思う。
 英典の口から、その頃の話がぽろっと零れると、なぜか和宏の胸の内に悶々としたわだかまりが沸き起こるのだ。
 それを嫉妬と呼ぶことくらいはさすがに和宏でも気付いている。
 自分が思い出せない子供の頃を英典が懐かしんで、どう聞いても愛おしく思っている雰囲気に堪らなく嫉妬する。
 もっとも自分の子供の頃に嫉妬しているなんて、それは口が裂けても言えない。
 何よりも、未だに初恋が和宏なのかと、確認できていないのだ。
 そうだと知っているのに、もしかしたら違うかもしれないと思ってしまう。
 もし違っていたら……と思うと、聞くのが怖いのだ。
『それでさ……今週末は逢えるかなって思ったんだけど、やっぱり無理みたいなんだ』
 また……。
 これで何度目だろう。
 頭の中で駄目になった週末を数え、そんな女々しいことをしている自分に苦笑いを浮かべる。
 そういう考え方でもしないと、ひどく切なくなるのだ。
 ついこの前まで、英典がいない生活だったというのに、気がつけば傍に人がいて気にしてくれるという居心地の良さに溺れていた。
 だが、英典とて自分の仕事がある。
 いつまでも、和宏のことばかりに構っていられない。
 少しは自分で頑張らないと……。
 英典のがんばりを見るにつれ、思い知らされる。
 自分はまだまだ英典のしている努力の何分の一しか努力していない。
 英典に呆れられるのは懲り懲りだから、少しでも自分で頑張ろうと……だから。
 意識して明るい口調を作り出した。
「忙しいんだよな。今日も製造はバタバタしていたし」
『あ、いや、会社じゃないんだ……その家の方でさ、野暮用があって……』
 英典にしては歯切れの悪い言葉が聞こえてきた。
「野暮用?」
『あ、うん……。それで、今週と来週がつぶれるんだよ。それと、その後に、窯詰めがあって。で、窯焚きに突入するからさ、それは土日は手伝うんだ。……だから……当分週末は逢えない』
 窯詰めという単語に、英典の家の仕事を思いだした。
 備前焼を焼き始めると、十日ほど昼夜決して火を絶やさないという事くらいは知っていた。辞めたとはいえ、英典もその交代要員に組み込まれるのだろう。それほど、目が離せず、そして重要な仕事なのだ。
「だったら仕方ないな」
 零れそうになったため息は飲み込んだ。
 逢えないといっても会社では逢えるのだ。
 彼が父親を大事にしているのは、この前の会話で気がついていた。
 自分がゲイだと言うことを、責めなかった父親の助けがしたいとも言っていた。
 そんな英典の邪魔などできない。
「それが終わったら……」
 逢えないことを気にしている英典に、言いたいことを言おうと口を開きかけ──それが誘い文句になるのだと気付いて、顔が強張った。
『何?』
 急に無言になった和宏に、英典が電話の向こう訝しげに問いかけてくる。
「あの……」
 意識してしまうと言葉が出ない。
 頭の中はいろいろと単語が飛び交っているというのに、慌てれば慌てるほど、なんと言っていいのかわからなくなるのだ。
『和宏って……』
 ああ……また……。
 英典の声は和宏にとって、心の重りのようなものだ。
 暗く冷たいものであれば、心は重く沈んでいく。
 明るい楽しそうな声であれば、和宏も自然に弾んだ声になる。
「あ、だから……その……英典が暇になってから……でいいから……」
『ん?』
「また一緒に……赤穂に行ってみたい……んだけど……」
 途切れがちにようやく言葉を紡ぎ終わると、電話の向こうで英典が笑っていた。
 くすくすと小さな笑い声が間断なく響いてくる。
「英典?」
 和宏は動揺して訳もなく顔に血が集まって、狼狽えていた。
 なんで、ここで笑われなければならないんだ?
 変なこと……言ったんだろうか?
 先ほど口走った言葉を思い出そうとして、すでにそれが頭からすっぽりと抜け落ちていることに気付く。
 こ、こんな……。
 理解できない羞恥と動揺に呆然と椅子に座ったまま硬直していた和宏の耳に、ようやく英典の返答があったのは、それからしばらく経ってからだった。
 声を聞いただけでも笑いが乗ったままのその声音が、和宏の耳に甘く響く。
『和宏って……可愛いね……』
 途端に、くらりと視界が揺らいだ。
 堪らず目前の机にがくりと片手をつく。
 な、何?
 笑ったかと思えば、いきなりそんな事を言う。
『聞いている、和宏?』
「……ああ……」
『赤穂の件、覚えておくからね。和宏が誘ってくれたんだから、楽しみにしているからさ』
 あ……僕が誘ったことになるのか?
 今まで、英典が誘うままに出掛けていて、和宏の方からどこかに誘うことはなかったのだ。
『あはは、早く行きたいな。今度は、海浜公園にでも行ってみようか?あそこも散策するにはちょうどいいよ』
「あ、ああ……」
 動揺は激しかったけれど、和宏はほっと安堵していた。
 やっぱり英典は明るい声が似合う、と……。

  
15

 毎日の電話が短くなっていく。
 申し訳なさそうな英典に余計な心配をかけたくなくて、和宏はできるだけ明るい声で対応するようにした。
 会社でも、暇を見つけては逢う。もっとも部署が違えば、休憩時間もそうそう時間が合わなくて、一日に一回逢えるかどうかだった。
 それでも、英典が笑ってくれる。
 それだけで和宏は満足できるのだから。
 逢いたいと負担はかけたくない。
 何より、英典には大切な仕事があるのだから。
 もうすぐ窯焚き開始かな?
 それでもそうやって、気が付けば英典の予定を指折り数えてしまう。
 火を入れてしまえばひたすら火の番だ。その後は窯出し。それも終われば、ようやく英典と出掛けることができるのだ。
 前回、何も知らないままでのデートはひどく楽しいものであったから、今度正真正銘のデートとなるとどういう事になるのだろう?
 それを考えると、ふわっと体が熱くなる。
 何か一つでも未来に楽しみがあると、現実を過ごすのがとても楽しみになって来た。
 いつかはその未来が来る。
 だから、多少の辛さがあっても乗り越えられる。
「ご機嫌だな?」
 上木がぽんと肩を叩いて通り過ぎた。
 気軽に声をかけたように見えた上木の表情は、だが和宏でも気が付くほどに覇気がなかった。
 そういえばここ数日そうだったと思い起こす。
 気が付けば、ぼんやりと和宏の方を窺っていた。それに和宏が気が付くと、思い出したかのように用事を言いつけてくる。
 だから、頼むタイミングでも計っているだけで、体調でも悪いだけなのかな、と思っていたのだが、今日もどうやら悪いようだ。
 自席に腰を下ろした上木は、やはりここ数日来と同じく和宏の手元を窺っている。
 そこには、二日ほどかけて和宏が仕上げたばかりの図面があった。
 訝しげに窺っていた和宏に気が付いた上木が、手を伸ばしてきた。
「見せてみろよ」
 その動きに何か意図するような感じはなく、差し出される手のままに和宏は図面を渡していた。
 できあがったのは昨夜のことだ。
 それからじっくりとチェックをして、何度も修正をかけた。
 ようやく正しいやり方を覚えたとはいえ、まだまだこういう細かくて正確さを要求される仕事には神経を使う。
『二重三重のチェックは当たり前』
 そう言ったのは英典だから、和宏は最後の確認に特に力を入れていた。
 特に、細かい場所の寸法と指定交差──そして、指示された項目の追加事項など、抜けやミスがないか、徹底的にチェックした。
 だから、もう間違いはない筈だが……。
 食い入るように図面を見つめる上木の横顔を、和宏は不安げに見つめていた。
 そういえば……。
 さらりと長目の前髪が目にかかるのを鬱陶しそうに掻き上げる様子を見て、上木がこんな髪型をしていたのだと気が付いた。
 少しにやけた印象が強い上木だったが、ここのところはその曖昧な笑みが消え、どことなくきりりとしている。それは二割り増しは男ぶりが上がっていると思う。
 そんな上木の集中した姿は、ここのところずっと見た覚えが無かったのに。
 慣れない現状に、何故か鼓動が早くなる。
 緊張しているだけだとは思うけれど。
 かさっと渇いた音を立てて、3でワンセットの図面がめくられる。
 上木の指が時折図面上を辿り、寸法公差をチェックしているのだろう、電卓を叩くこともあった。
 緊張で和宏の握りしめた手の平が、じっとりと汗で濡れてきた頃。
「OKだな。問題ない」
 上木の声に確かな安堵が滲み出ていたが、和宏はそれ以上にほっとしていた。
 思わず力が抜けて腰が椅子からずり落ちそうになって、慌てて体を支える。
「ほら、作成者印を押して近藤主任に確認印を貰ってこい」
 そんな和宏の頭の上から、ふわっと図面が降ってきた。慌ててそれを手に受け止める。「はいっ、ありがとうございますっ」
 うまくいったのだと思うと礼を言う声も弾んだ。
 そんな和宏に、上木が驚いたような表情を見せた。
 和宏が自分の印を作成者欄に押すのをじっと見つめている。
 和宏は、そんな視線に気が付いていなかった。ただ、急いで留守中の近藤主任の書類箱に図面を持っていくだけだ。
「あ、八木」
 書類箱に図面を入れて振り返ったタイミングで、上木が声をかけてきた。
「はい?」
 もしかして何かミスが?
 OKを貰ったにもかかわらず、今までの条件反射からか悪い方向へと頭が働く。だが、上木の口から出た言葉は、意外、の何物でもないモノだった。
「今日、一緒に食事にでも行かないか?」
「……え?」
 ワンテンポ遅れて返答してしまう。
 それほど意外な言葉だった。何より、上木から和宏を名指して誘ったのは初めてではないかと頭が記憶を探る。
「今日、家には誰もいねーし、一人で食べるのも侘びしいしさ。どうだ?」
 そういう理由なら……。
 だいたい、仕事はどうにかこなすようになったとはいえ、誘われて断れないのが和宏だ。さすがにそこで嫌だと言えるほどには強気にはなっていない。
「あ、はい、行きます」
 その今ひとつ乗り気でない態度は隠すのに失敗する。その相変わらずの和宏の態度に、慣れている上木は、ふっといつもの笑顔を浮かべて頷き返していた。
 

 何か……。
 気まずさを伴う居心地の悪さが二人がついているテーブルの周辺に漂う。
 定食のみそ汁の椀を口に付けながら、そっと上目で上木を窺うと和宏が味わっている気まずさなど感じている風は見えない。
 上木とはこんなふうに二人っきりで食事をしたことなどなかった。
 いつも複数の人間と一緒にいるか、一人で食事をとるか。
 上木は仕事のできない八木を邪険にするわけでもなかったが、だからと言ってなにくれと世話を焼くようなこともしない人間だった。
 今日の図面の確認もそれが元は上木の仕事だったからに過ぎない。
 自分がよければそれで良いと言った自己中心的な性格で、自分の言動が他人にどう思われたって構わないと言ったところがあって、最初の頃は和宏もそれに振り回されていた。
 上木のきつい一言に落ち込んでそれに気をとられて失敗し、また指摘されて……。それを何度繰り返しただろう。
 ようやくその言動に慣れたのはごく最近のことだ。
 だから、いまだに上木と二人っきりというのに和宏は緊張してしまう。
 コトンと茶碗が置かれる音にすらびくりと反応してしまう。
 その自らの小心さを味わってしまう相手であるということも、堪えられない要因の一つだ。
 英典のお陰で身につけつつあった対外的な鎧は、こういう時に堪えられるほどまだ厚くはなっていない。
 まして、上木という人間を悪い意味でよく知っている。
 それが鎧を内側から壊していくのだ。
 やっぱり断れば良かった。
 その時できなかったからこの場にいるというのに、結局そんなふうに後悔してしまう。
 後悔して……それで終わり。
 結局、何の役にも立たない後悔は、何度しても同じ事の繰り返しだ。
 結局こうやって、味も素っ気もない食事を流し込むようにして食べて、また後から苦しむのだ。決して強くない胃腸の拒否反応に。
 そのせいもあって、定食一膳分の食事を全て食べることはできなかった。
「何だ、もう食べないのか?」
 食べ終えて顔を上げた上木が眉を寄せながら和宏の膳を見やっていた。
 三分の一近くが残されているそれに、和宏は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
 食べられない。
 無理に食べれば、後から苦しむことになる。
「ふ?ん。よくそんなので足りるな。だからガリガリでそんなになよっとした感じなんだな」
「そんなこと……」
 ないとは思うが、和宏は俯いてその視線から目を逸らした。
 なよっとか……。
 そうかもしれない。
 背の低い英典と一緒にいても、きっと立派に見えるのは英典の方だ。
 見下ろした先で、骨が目立つ手首から先が見える。
 対して、上木の手も英典の手ももっと大きくて立派だ。
「おい、八木?」
 呼びかけられ、顔を上げた先で上木はすでに立ち上がっていた。
 その手に伝票が握られているのを認めて慌てて立ち上がる。
「あ、あのっ」
 レジに向かう上木を追いかけた和宏をちらりと振り返った上木は、数度首を横に振った。
「誘ったのはこっちだから、おごり」
 手も挙げて和宏を制してしまう。
 そんなことを上木が言ったのは始めてで、それだけで狼狽えた和宏だったが、それでも意を決して声をかけようとした。だが。
「でも……」
「いいから」
 こちらを振り向かない上木は、もう和宏の言葉など聞いてはいない。
 目の前で支払われる金を和宏は為す術もなく呆然と見つめていた。
16
「あの、ありがとうございます……」
 車のドアを開けようとした上木に和宏がぺこりと頭を下げる。と、くるっと振り向いた上木が持っていたキーの先でつんつんと額を突いていた。
「お前さ……」
 言いかけて、小さなため息をつく。
 その拍子に和宏の顔が歪んだ。
 その所作の後にどんな言葉が続くのか、知りすぎるほど知っているのだ。
 研修中の英典の時と同じく、呆れた顔で呟かれる言葉。
 いつもそうだと、心が耳を塞ぎたがる。
「……」
 黙って俯いて、下唇を噛みしめた和宏の行動は半ば無意識だった。
「顔上げろよ」
 視界の中に上木の腕が入ってきた。
 その手が間近に迫って顎に触れる。
「え……」
 避ける暇は無かった。
 掴まれ、俯いていた顔を無理矢理仰向けさせられた。
「俺が恐いか?」
 至近距離に上木の顔がある。
 それでなくても人の顔に視線を合わせるのが苦手な和宏だから、慌てて顔を背けようとしたのに、それは許されなかった。
 逸らそうとすると掴んだ手に力を込められる。
「八木、答えろよ。俺が恐いのか?」
 その声がひどく真剣みを帯びていて、上木の行動はどう見ても冗談ではなさそうだった。
 何でこんな事になっているのか?
 訳の判らないことに恐怖を覚える。
「八木?」
 頬を強張らせて、きょろきょろと瞳を動かしてしまうのは、無意識のうちだった。
 恐いか?と聞かれているのだから、その返事はYESでしかなかった。
 確かに恐かった。
 今の怖さは別にして、一緒に仕事しなければならない上木は常に畏怖の対象であったのだ。だが、本音を言うと上木に限らず、誰だって恐い。
 自分の行動に対する人の反応が恐い。
 相手がどう思っているか?
 悪い方向に深読みしてしまって対応が遅れてしまって。
 そうなれば他人が和宏に群れる印象は悪いものでしかなくなる。その結果、和宏はまた萎縮してしまって……。
 積み重ねられた悪循環から自分を守るため、和宏は他人に対して一歩退いた態度しかとれなかった。
 慣れるまでが大変なのだ。
 たがらか、今、恐くない相手と言えば両親と英典だけだ。
 後は、何とか近藤主任くらいだろうか?幸崎部長に至っては、すでに雲上人扱いだ。
 だけど……。
 よく考えれば、英典だって恐い。仕事のミスをすれば怒る英典は恐い。
 だが、英典は好きだから、堪えられる。
 好きだと言ってくれるから堪えられる。
「八木?」
 再度問いかけられて、返したのは曖昧な笑みだけだった。
 どうとでも取れる情けない笑顔。
 だが今の和宏にとってそれだけが精一杯だ。嘘を言うことも本当のことも言うことはできない。
 だが、それで十分和宏の心情が伝わったのか、上木の手が離れていった。
 強く掴まれていたせいで、その場所にまだ指があるように感じて、思わず手の平でそこを撫でてしまう。
 外されてホッとしつつも、上木の視線が和宏を射るように見つめているのが気になった。
「俺さ、お前が初めての後輩なんだよ。まあ、だからといってお前に何かしてやった覚えもないけどさ。いや、むしろお前の邪魔をしていたかもしれないな……俺のせいだろ。お前がそんなにも自信を無くしたのは……?」
「え……?」
 一体何を言い出したのか?
 自嘲気味な笑みを浮かべる上木のそんな表情を見るのも初めてのことなら、どこか申し訳なさそうな声音を聞くのも初めてだ。
 呆然とする和宏におかまいなく上木は言葉を続けていた。
「焦れったいくらいに人の言うことをまともに受けるんだよな、お前は。つい最近まで、お前は俺の顔色窺ってばかりで……。こんなヤツ、初めてだと思った」
 ぼんやりと見つめる先で上木の体が小さくなったように感じた。
 だが、実際には上木は一歩下がって遠のいただけ。
 力無く自分の車にもたれかかって和宏を見やる。
 ただそれだけなのに、ひどく小さく感じた。
「今まで、人がなんと思おうが俺は俺のやりたいようにやってきた。その反発は当然覚悟していたから、それを無視することも反論することもできた。だけどな、後輩が来ると聞いて最初はもう少し柔らかく接しようとは思ったんだ」
 深いため息が漏れ、口元が歪む。
「だけど……お前は最初の挨拶からして自信なさげで……なんかさ、見ていてイライラした。こんなのが後輩になるのか?って思った……」
 和宏はその言葉に、入社直後の事を思い出そうとした。だが、どこか霞がかかったように輪郭がはっきりしない。
 新入社員が集まった部屋に和宏を迎えにきたのは、近藤主任だった。
 それから……今の部屋に連れて行かれて……たぶんその時に上木に会ったはずだ。
 そうか……第一印象は大切だと、英典が言っていた。
 だから、いまはできるだけ努力はしている。
 初めて逢う人も必ず顔を見て……少しでも覚えるようにはしている。
 そんな態度が、相手に好印象を与えるのだと……英典が言ったから。
 その言葉の正しさが、こんなところで証明されるなんて……。
「……僕は確かに……そうだったと思います。今でも……自信なんてありません。それは……別に上木さんのせいではなくて、ずっとそうなんです」
 それを上木が気にすることはないのだ。
 和宏はともすればうつむき加減になる顔を必死で上げ、上木に視線を向ける。
 見つめた先で上木が苦しそうに視線を逸らしてた。
「僕がしてきた失敗も、何もかも……俺の責任ですから……」
「違うっ!」
 上木が心配する必要はないのだ……と続けるつもりだった和宏の言葉を、上木が強い口調で遮った。
 違うと、何度も首を横に振る。
 悔い縛った唇に歯が食い込んで、白っぽい色に変色している。
 その上木にしては珍しい激しい感情の露出に和宏は言いかけていた言葉を飲み込んでしまう。
 これは誰だろう?
 今の今まで会話をしていた相手だというのに、相手が誰か判らないようなひどく不安な気持ちになる。
 今彼は誰だ?と、問いかけられれば、和宏ははっきりと答えられないだろう。
 それほど、今ここにいる上木は、上木らしからなかった。
 その何かに堪えているように震える肩が、夜目にもはっきりと見える。
「俺が苛ついて……自信なさげなのに、実は意外にできてしまうお前に苛ついて、お前の邪魔をしていた。お前ってさ、教えるときちんとこなせるんだよ。自分に自身がないせいか、ちゃんと確認して、言われた通りにするんだ。だからと言って言われたままじゃなくて、ちゃんとそれを自分のものにしている。そういう基本的に大事なところをしっかり持っているから、ほんとにできるんだ。それが悔しかった。このまま全てを教えたら、追い抜かれるって焦って……気が付いたら、教えたふりをして、何も教えていなかった。それなのに、お前はそれが自分のせいだと思いこんで……それもまたイライラして……。お前が自分のミスだと思いこんでいた幾つかは俺のミスなんだ。俺が否定しなかったら、お前はますます自分のせいだと思いこんで……。……そして……客先でやってはいけない俺の失敗を……俺は……お前のせいにした……」
「え?」
 苦しそうに吐露された言葉が和宏の頭の中を駆けめぐった。
 上木さんの失敗?
 それを僕のせいに……???
 だが、いくら考えてもそんな事があったなんて思いつかない。
 確かに英典に教え貰うまで自分が何も知らないことすら知らなかった。
 それは英典すら驚いていたほどで、いろいろと根ほり葉ほり聞かれたのは事実だが、それを上木が意図してやっていたとは思わなかった。
 きっと聞いたけど覚えられなかったのだろうと思ったのだ。
 それに、客先でやってはならない失敗……というのは何だろう?
 割と初期の段階で客と接することは無くなっていた和宏だから、そんな失敗なんて押しつけることなんてできなかったはずで……。
 後は、アシスタントのような感じで雑用のためにひっついていった位で。
 咄嗟に思い当たらない事を思い出そうとして、ひたすら心の中を探った。
 だが、出てこない。
 あるとすれば……。
「あっ……」
 まさか……一緒に客先に行ったあの時……。
 はっと顔を上げると、上木が顰めた表情で和宏を見つめていた。
「思い出したか?あの時、その会社のライバル企業の図面を持っていって提出してしまったのはお前ではなく俺だ。あの失敗を責められたとき、あれを勝手に持ち出して行ったのはお前だと言ったのは俺だ。お前は訳も判らずに謝ってばかりで……。あの時、身に覚えがないと言えば、それでも何とかなったのに……というか、俺もさすがにそう言うと思ったのに……お前は謝るばかりで、結局、お前が判って持ち出したのだと言うことになって……お前には、最悪のレッテルが貼られた……」
「あ、あれは……」
 責められて、そうなのだと思いこんでしまったのだ。
 正確に言えば、持ち出したことは確かに覚えがなかった。だが、和宏自身が持ち出していないと言い切れるほど、自信がなかった。
 だから謝って……そういえば、あれから近藤主任と上木さん以外からの仕事は無くなった。
 でもあれが……上木さんがした失敗、だったって……。
 目が丸くなるほどに見開いた瞳の先で、上木がぎりっと唇を噛みしめていた。
17
「お前にはどう謝ったって許されないことをしてしまった、とは思っている」
 その声は淡々としたもので、それほど気にしているようには見えない。
 だが、食い込んだ歯の痕も生々しい唇に気が付いてしまうと、上木がそれだけ気にしているのだと和宏に窺わせる。
 そんなことを今更言われても……。
 ぎゅうっと両の拳をかたく握りしめて、爪が手の平に食い込む。
 それが痛いと思えない。
 和宏の頭は今完全に飽和状態で、何を言われても流れていく感じだった。
 時折、単語が引っかかって、余計に頭を混乱させる。
「もう言うつもりはなかった。だが、最近の八木は無くなっていた自信が出てきて、本来の仕事ぶりができるようになってきた。それがあの井波のせいだと思うと……俺は、なんだかいたたまれなくなってきたんだ。俺のせいで自信を無くした八木を、自分の手で結局復活させることができなかった。俺は……とんでもないことをしたのに、お前のフォローすらできなくて……。最近明るいお前を見ていると、そんなことをした自分を思い出してしまう。本当なら、こんなふうに仕事をする筈だったんだと……。何もかも俺のせいだと……。あの時のことは嫌で嫌で堪らない記憶だ。思い出したくもないのに、お前を見ていると思い出してしまう。だから……」
 上木が辛そうに落としていた目線を和宏へと向けた。
 自嘲するように歪んだ口が紡ぐ言葉を、和宏はただ聞くだけだった。
 だが。
「明日な、近藤主任と部長に言うよ。何もかも……。出ないとお前はいつまで経っても仕事を貰えないだろう?」
「なっ!」
 その言葉が耳に入った途端、和宏は思わず一歩足を進めていた。
「そんなことをしたら、今度は上木さんがっ!!」
 叫んだ言葉は無意識だった。
 ただ上木を止めたかった。
 確かに、上木のしたことは和宏にとってとんでもないことで、その後のことを考えれば許せないことかもしれない。
 なのに、和宏は上木が自分で告白するのを止めたかった。
 だって、もう済んだことだ。
 確かに雑用ばかりしてきた。
 仕事の仕方もろくに知らなかった。
 だが、今はそれを英典に教えて貰った。仕事の量だって、できるようになったら確実に増えている。
 あの、幸崎部長ですら、声をかけてくれることだってある。
 きっかけは上木だったかもしれないが、その後に自滅状態に陥っていたのは自分のせいだから。
 そこまで上木が責任を感じる必要は無い、と思ったのだ。
「八木?」
 まさか否定されるとは思わなかったのだろう。訝しげに眉をひそめる上木に、和宏は詰め寄っていた。
 言いたい言葉が言葉にならない。
 そんなジレンマに苦しみながら、和宏はそれでも思いつく限り言葉を続けた。
「それって……もう済んだことだから。仕事ができないって思って……知ろうとしなかったのは僕の責任だから。今またそのことを掘り返しても仕方がないって思う……。僕は確かに上木さんのこと……苦手で……。恐くて……聞けばいいことも聞こうとしなかった……。自分が仕事できないのはそんな態度のせいだって僕だって判っているから……。別に上木さんのせいだけじゃないんです……。僕があの時、ちゃんと言い訳していたら……きっとこんなことにならなかったし……。でも、ほんとぼんやりしているばっかりで……あのころからずっと上木さんにも近藤主任にも迷惑かけっぱなしだったから……。だから、その……あの時のことはしようが無かったんだと思うから……だから上木さんも忘れてください」
「八木……だけどな」
「僕は、これから頑張ります。最近、ようやく上木さんの言葉にも慣れたんです……だから、そんなふうに落ち込んでいる上木さんって……なんかすごく違和感があって……。だからその、いつもの上木さんになってくれると……嬉しいです……」
 苦しかった思い出は、確かにずっと和宏のことを苦しめていたが、時が経てば忘れることだってできる。
「でも、俺は本当に酷いことをしてきた。お前のせいにしたことだけじゃない。俺は先輩としてお前のことを任されていたのに、何も教えなかった。それどころか教えたふりをしていた。お前が俺よりできることを嫉妬して……俺は……お前をできないとみんなに思いこませて……。本当は俺よりできるのに……」
「僕が、上木さんよりできる、なんてこと……」
「できるさ。最初の頃、俺が気付かない細かい部分をいつもお前の方が先に見つけた。図面も正確だし、ちゃんと会社の方針にのっとってやれば、俺より立派な設計ができることも俺は気付いていたんだ。それに嫉妬した。俺が数年かけて身につけた技量を、入ってきたばかりのなよっとした頼りなさそうなお前がしてしまうことが、俺は悔しくて……。自分の居場所を無くしてしまいそうな気になった。もともと、仕事以外のことでの受けは悪い方だから。今まではそれでもいいって思って勝手気ままにしていたのに……。お前を前にすると酷く焦りが湧くんだ。お前に……追い越されるのが恐い、と感じた」
「追い越すなんて……」
 そんなはずはないと、首を左右に振る和宏の肩に上木が手を置いていた。
「追い越すよ、お前は。いつか必ず俺のこと。その時に、お前は俺のことをどんなふうに見るだろう?口ばっか悪い嫌な先輩とかしか思わないだろうって……思ったら……嫌だった。他人がどうしようと今まで何とも思っていなかったのに……俺はお前にだけは、できる先輩だって思っていて貰いたかった。俺だけが、お前の相手ができるんだ……って思っていて貰いたかった……。だけど、最近になって本当のお前が出てきて……、もう駄目だって思ったんだ。もう誤魔化しきれない。お前ができることにみんな気付く。現に井波も気付いていたから、お前を講師に名指しした……」
「それは……」
 確かに英典は知っていただろう。何せ、ずっと前から和宏のことを知っていると言っていた。それを上木は知らないから、井波に気付かれたと思ったのだろう。
「確かに僕は……ずっと自信がなかった。その自信を取り戻したのは、ひ……井波君のお陰で……」
「だから、俺は焦ったわけだ。もう、お前は俺のものじゃない。俺だけが独占できる存在じゃない。これからはみんなに接して……。そうしたら視野が広がって……もっといろんな知識を手に入れて。そうしてあっという間に俺を追い越す」
 上木は笑っていた。
 唇だけが笑みを形作って、喉の奥で引っかかるような笑い方をする。
 ひどく蔑んだ笑みだと、和宏はそんな上木を見つめていた。
 確かに上木のしたことは酷いことだ。
 だけど……。
 そんなふうに追いつめたのも自分のせいなんだ。
 そう思ってしまうから、上木ばかりを責めることなどできない。
「……もし、お前が俺のこと許してくれるっていうならさ……ちゃんとした……先輩・後輩でやり直したいよ」
 その言葉がひどく寂しそうだと和宏は感じて、咄嗟に首を振っていた。
「許すも許さないもないです……。僕のせいでもあるんだから……」
「そういうところがイライラするんだよな。何もかも自分のせいにする」
 不意に不機嫌そうに低い声になった上木の様子に、びくりと体が構えてしまう。
「あ、すみません……」
 反射的に謝っている和宏に、上木は思わず苦笑いを浮かべていた。
「そうじゃなくて……。慣れたんじゃなかったのかよ?」
「あ……」
 こつんと指先で突かれた額に手をやりながら羞恥に俯く和宏に、上木は静かに笑っていた。
「考えてみれば不思議だな……。何でさ、お前がこんなにも気になったんだろう?他人がどうであれ、気になったことなどなかったのに……。俺はお前には負けたくないと……思ってしまったから……こんなことになってしまったんだから……」
「さあ……」
 判るはずもないと和宏は首を傾げた。
 今までの上木しか知らないから、コメントのつけようがなかった。
 ただ上木の笑顔につられたように小さく笑みが浮かんだ。
 だが、ふっと上木が表情を変えた。
 辛そうに眉をひそめ、ふいっと視線を逸らす。
 その見慣れない態度に、和宏が訝しげに眉をひそめたのと上木が踵を返したのとが同時だった。
「それじゃ……俺、帰るわ」
 言い切られた言葉とその背はもうどんな言葉も受け付けないとばかりに和宏を拒絶しているように見えた。
 その壁を突破するほどの勇気はまだ和宏にはない。
 まだ言いたいこともあったような気がするのに、気が付けば駐車場で一人呆然と立ちすくむだけだ。
 一体何が起きたのか?
 何故上木がいきなり帰ってしまったのか?
 結局和宏には何も判らずじまいだった。

 
18
 家に帰り着いてからも和宏は何度も上木の言葉を反芻してみた。
 上木の言葉通りなら、和宏の仕事ができなくなった原因は確かに上木にあるのかもしれない。
 だが、あの時上木に言ったことは決して建前なんかじゃなかった。
 ほんとうに上木のせいだけではないと思ったのだ。
 きっかけはそうであったのかもしれない。
 だが、上木の嘘を言い返すだけの気概はあの時の和宏にはなかったし、何より上木の勢いに自分がしたのだと思いこんでしまっていた。
 そんな心の弱さだって原因なのだ。
 いや、考えれば考えるほど、それが原因だと思ってしまう。
 英典のように強ければ、そんなことはなかったろう。
 もっと強かったら。
 他人のなすりつけを言い返せるだけの自信と強さを持っていれば……。
 結局そこに行き着いてしまう。
 そうすればもっといい結果になっていたかもしれないのに。
 ベッドに仰向けになり天井を睨む。
 いつだって自分の力を誇示するように自信満々な上木の悔いた表情が脳裏に浮かぶ。それは決して気持ちの良いものではなかった。
 なんだかんだ言っても、あの会社で普通に接することのできた数少ない相手の一人なのだ。
 恐くはあったけれど、それが嫌みのないものだとは知っていたし、嫌いになりたくもなかった。
「本気なのだろうか?」
 明日、主任達に告白すると言っていた。
 その上木の言葉は真実だろうと思う。
 そんなことをすれば、上木の立場はどうなるのだろう?
 下手したら、他の部署に行ってしまうかもしれない。
「それは……嫌だ……」
 結局のところ、自分のせいでこんなとことになったと思っている和宏だから、それが原因で上木がそんな扱いを受けることになるなど考えたくもなかった。
 上木の告白を止めたい、と思う。
 だが、あの上木であれば、和宏の言葉など聞きやしないだろう。
 どうしようと、思い悩んでいるとき、部屋のどこかで携帯が鳴り響いた。
 がばっと跳ね起きて、部屋の中を見渡す。
 軽快な音色を奏でるそれは英典が自ら設定した着信音だ。
 慌てて放り出していたシャツの胸ポケットから携帯を取り出した。
「もしもし?」
 僅かな緊張は、聞こえてきた声音に一気に霧散する。
「英典……」
『元気?』
 会社で一度逢っているというのに、必ずそう言う英典に和宏の強張っていた表情も緩む。
「ん……まあね」
『あれ?なんか、変?』
 僅かな会話で和宏の変調に気付いた英典の声音が変わった。気遣うように問いかけてくる。
 いつも英典は和宏の僅かな変化を見逃さない。
 声音の変化でそれを見破る英典を凄いと思いつつも、それが今はひどく心地よかった。
 思いを告白し合ったあの時の和宏の変調を、英典がずっと気にしているのだと知ってしまうから。
 会社ではどんなに素っ気ない行動を取っていたとしても、こうして電話するときの英典はいつも優しい。だから、どんなに嫌なことがあっても、英典の冷たい態度に傷ついても、電話一つで癒されるのだ。
『和宏?』
 再度の問いかけに和宏は一瞬逡巡したが、それでも相手が英典だからと喋り始めた。
 先ほどの上木との会話を、思い出しながら、できるだけ正確に。
 呆然としていてはっきり覚えていないところもあったけれど、それでもかなりなところは伝わったはずだ。
『ふ?ん……そうだったんだ……』
 語り終えた和宏の言葉に届いたのは、英典のそんな言葉だった。それはどう聞いても、低く怒りを孕んでいるとしか思えない。
「ひ、英典?」
 まさか怒ると思わなかった和宏は動揺して呼びかけていた。
『だってさ、変だと思ったんだ。和宏って基本的にできるはずだって思っていた。現に今だってちょっと段取り教えただけで、その一の知識を十にもして役立たせているんだよ。おかしいとおもっていたんだっ』
 言っているうちに興奮してきたのか、英典の口調がさらにひどく強くなる。
「で、でも……きっかけは上木さんだったけど……でも……」
『和宏って……」
 言い募っていた言葉は、英典のため息で遮られた。
「あ、あの……」
『和宏って……人がよすぎるよ……』
「え?」
『それって、絶対和宏は悪くない。確かに和宏の態度にも問題がないとは言えないけどさ。でも、絶対にその上木ってヤツの方が悪いっ』
「で、でも……」
『でも、じゃないってっ!どうしてそんなヤツ庇うのか、その方が俺には判らない』
 判らないとはっきり言われて、和宏は言葉に詰まってしまった。
 英典なら、上木を止める手段を何か考えてくれるかも、と思ったのに、この様子ではそれは無理だ。何より、英典には和宏の考えが理解できないと言う。
 それを思った途端、急に胸の辺りが苦しくなる。
 空いた手で痛みを覚えた辺りを押さえると、その痛みも少しは和らいだ。
 それでも、完全に消すことはできない。
 話さなければ良かったという激しい後悔が湧き起こり、和宏の心を千々に乱れさせる。
『和宏……?』
 電話口から聞こえる英典の訝しげな声に、そのまま切断のボタンを押してしまいたい衝動に駆られた。
 それを堪えて、かろうじて言葉を選び出して話しかける。
「ん、何でもないから……。上木さんのことは、もう少し考えるから……ごめん、変な相談して……」
『……その……まあ……和宏が良いのならそれでいいけど……』
 途端に英典のトーンが落ちたように感じた。
 窺うような気配が和宏にも伝わってくる。
「英典……」
『俺はたぶん上木というヤツとは相容れない。だけど、結局のところ確かに彼への対処方法は和宏が自分で決めなければならないことなんだよな……。だから、俺はもう何も言えない。ただ……』
「ただ?何?」
『仕事以外では二度とその上木ってヤツと二人っきりになるなよ』
「え?」
 一体何を言い出したのか?
 呆気にとられている和宏に、英典が念を押すように強い口調で言う。
『だから、絶対に二人っきりになるなってこと。今日みたいに二人だけで食事も駄目。他の人が一緒の時はいいけど……』
「でも何で?」
『……”でも”でも、”何で”でもいいから、判った?』
「う、うん……」
『……ほんとに和宏って……』
 最後の言葉は、尻つぼみに小さくなって、和宏にはうまく聞き取れなかった。
 一体何を考えてあんなことを言い出したのだろう?
 上木に続いて、英典からまで訳の判らない事を言われ、そういう事を考えるのに慣れていない和宏の頭は沸騰寸前になってしまった。
 
 
「八木君ちょっと」
 考え事が処理しきれなくて寝不足気味な和宏は出社して部屋に入るなり、近藤主任に呼び出された。
 手招きされて打ち合わせ用の小部屋まで付いていくと、そこには先客があった。
 上木と幸崎部長の姿を視認した途端、和宏はその場に足を止めてしまう。
 この二人に、近藤主任、そして自分という4人が揃うと言うことは、その中身は考えなくても判ってしまう。
 口を真一文字に結んで座っている幸崎部長の目前に直立不動で立っている上木は、ちらりと和宏に視線を向けると、再び幸崎部長へと戻していた。
 立ちすくむ和宏に近藤主任がとんと背中を押して誘導する。
「あ、あの……」
 背を押す手に戸惑いを感じて振り向けば、相変わらず穏やかな笑みを浮かべた近藤主任が僅かに首を傾げて問いかけてきた。
「今ね、上木君から詳細は聞いたんだ。君は昨日聞いたらしいけど、実際のところどうなのかね……?」
「あっ……」
 やはりその件だったのだ。
 実際のところ、と言われても……確かにそれは事実のことで……。
 だが……今それを肯定すれば、上木の立場はますます悪くなるだろう。
 しかし、否定することもみんなに嘘をつくことになる。上木の行動までをも否定することになるのだから、それはそれで上木を傷つけるだろう。
「そ、それは……」
 何かを言わなければという強迫観念にとらわれて口を開けば、3人の視線が集中して、思わず口を噤んでしまう。
「別に彼に確かめなくても、この俺が言っているんだから間違いないです。今更ですが、俺はどんな罰でも受けるつもりです」
 凄い……。
 凛として言い切る上木の姿は、今まで見てきた中でも群を抜いて立派に見えた。
 有無を言わせない強さが、全身からみなぎっている。こんな上木の言葉に、もう和宏は否定することなど絶対にできないとさえ思ってしまう。
「そうか……」
 それは、和宏などより部長と主任の双方にも伝わったのだろう。
 まず主任がうんうんと幾度も頷いて、それからちらりと部長の方へと視線を向けた。それに部長がこくりと頷いた。
 それが合図だったのか、近藤主任がにこりと笑みを浮かべてなんでもないように言った言葉は、上木と和宏を驚かせるのに十分値するものだった。
「上木君の言うことが真実である、ということは……実は知っていたんだがね」
 和宏などはその意味を理解するのに数秒を要したくらいだった。
「あ、あの……?」
 まず上木が衝撃から立ち直ったようで、その真意を問う。
「仮にも直属の上司だからね。部下がどんな性格かは把握しているつもりだよ。八木君が忘れっぽいというのもね。あの時、八木君の資料は実は僕がそろえたんだよ。間違える筈もない。なのに君は八木君がそろえたと言い、八木君もそれを否定せずに謝っていたから……何か考えがあるのかと思って放っておいた」
「え?あっ……」
 その言葉がキーワードだったのか、その時のシーンを今更ながらに思い出してしまった。
「そ、んな……知っていたんですか?」
「否定しないから、僕も否定しなかった。それだけのことだよ。自分の言葉に責任を持つことは重要だ。八木君は謝ってしまった。肯定したのとおなじだから……。まあ……しばらくして、庇っているとかそういうんではなくて、本当に忘れていると気付いたときには、もう後の祭りでね……さすがにしまったとは思ったが。僕も気になっていたから、ようやくけりがついたのかと思うとほっとするね。ああ、それに部長もこの件はご存じだが、僕からの依頼で黙っていて貰った」
「あの時、私は最初上木君の言葉を信じたのだったのだが……しばらくして近藤主任から相談を受けてね。……しばらく様子を見ることにした。言っては何だが、二人ともなかなか癖のある性格で、こちらとしても扱いに困っていたところがあったから、それで二人を組ませたのだが、それは失敗だったかとあの時はほんとうに思ったものだったが……。実情はどうやら我々が考えていた以上に八木君には酷なことになっていたようだね。まさか、教育自体が不十分であったとは思わなかった……」
 さすがにその辺りまで至ると幸崎部長も苦渋に満ちた表情になっていた。
「それに気付かず、やはりできないのだと結論づけていた。もちろんそう思わせて当然のような態度ではあったけれどね」
「あ、あの……すみませんでした……」
 頭を下げた途端に、近藤主任が和宏の頭を軽くこづいた。
「ほら、すぐそうやって謝る。今回の件、当然のように上木君にも非はあるし、私も監督不行届だった。だが、君ももう少し自信を持ちなさい」
「確かに、その性格には問題はあるが……だが、君の最近の仕事ぶりは目を見張るものがある。それに今さら過去のことを蒸し返して事を荒立てることもないとは思う。だから、今回はとりあえず不問にしたいと思っているのだが……八木君はどう思うかね?」
 不問?
 思わず幸崎部長の艶やかな頭をマジマジと見下ろし、そして上木を見つめた。
 その上木は信じられないと、やはり光っている頭を凝視している。
「八木君?異論はないかい?」
 ここで和宏が何かを言わないとおさまりがつかないと言わんばかりに近藤主任が畳みかけてくる。それに反射的に頷いていた。
 ふと頷くだけでは足りないのだと思い返し、口を開く。
「僕も……今更上木さんを責めたいなんて思っていません。原因は確かに上木さんだったかもしれないですが……僕にも責任はあると思います。それに上木さんには昨日謝って貰いましたから、それだけで十分です」
 一気に口走って、近藤主任を見やると、彼は満足げに頷いていた。
「よし、そういうことだな。じゃ、あとは近藤君に任せるから……」
 きしむ音を立てて立ち上がった部長は、面倒な話は終わったと、さばさばした表情で打ち合わせ室を出て行った。
 

19
「お前は……本当にそれでいいのか?」
 この後どうするのか……。
 自分からは何も言うことはない。
 そう言って、後は二人で考えるようにと近藤主任に言われ、打ち合わせ室にそのまま残っていた和宏に上木がぽつりと問いかけてきた。
 それに困惑の消せない表情を、それでも繕って答える。
「いいんです。昨日謝って貰ったから……本当にそれだけでいいんです……」
 英典がこの事を知ったら甘いと言われるかもしれない。
 だが、事実を知って上木を責めようなんてどうしても思えないのだから仕方がない。
 あれはもう、和宏にとって過去のことなのだ。
 今のことだけで手一杯の和宏にとって、過去にいつまでも縛られたくない。
「お前って落ち込むと長いから、もっとねちっこいヤツかと思っていたけど……実際にはさっぱり系なのか?」
「はあ?」
 苦笑いを浮かべて言う上木に、和宏は戸惑いを隠せずに問い返す。
 ねちっこいって……僕はそんなふうに見えるのだろうか?
 自分の落ち込みやすい性格を棚に上げて、そんなことを考えてしまう。
「俺さあ……いろいろ考えたんだよね?。何でお前がそんなに気になったのか?何で焦っちっまったのか、とかさ。いろいろと……」
 机の上で肩肘をつき、手の甲で顎を支えている上木の表情には、幸崎部長を前にしていたときの殊勝さはどこにもない。
 懸念事項が片づいた途端、すっかりいつもの上木に戻ったようで、それに対して妙に喜ばしい気持ちになっていることには和宏自身驚きすらあった。
 だが、本当に嬉しいのだ。
 この姿が上木だと思っているから、自分のせいで変わらないでいてくれた方が嬉しい。
「で、まあ……気付いたんだけど……な……これがまた……」
「はい?」
 上木は、もう何も教えないなどという事はしないだろう。
 ならば、怖がる必要ははもうないのかもしれない。
 そう思いながら、上木が何を言おうとしているのか意識を集中した。
 逡巡する様子が珍しいとさえ思いながら。
「俺さ、……まあ、どうやら……お前のことが好きみたいなんだよ」
「はい……ってっ!えっ?」
 照れ隠しのように笑いながら簡単に言ったその言葉に何気なく頷きかけて、慌てて上木の顔を凝視した。
「好きなんだよ。好きだから、お前に負けたくなかったんだな。で、その始まりを考えると……割と最初の方からかな?ってさ……あはは」
「は、あ?」
 最後には笑いになって、まるで冗談のように言う。
 それに返すべき言葉が見つからなくて、和宏は曖昧な返事をしていた。
「俺も女相手の恋愛経験はそこそこにあるんだが、相手が男ってのは初めてでな。どうしていいのかよく判らないのだが……。まあ、相手が八木ならいいかっていう気もあって……」
 今ひとつ反応の鈍い和宏は、照れたようにぽりぽりと頭を掻いている上木から視線がはずせない。
 誰が誰を好きだって……?
 同じ単語が頭の中をぐるぐると回っていく。
「で、どうよ?感想は?」
 焦れて問いかけられて、ようやく我に返った。
「か、感想って……言われても……」
「嫌か?」
「嫌って……その……」
 別に男に思われることに嫌悪感はない。今の恋人も男なのだから。だが……そう。今は恋人がいるのだ。
「あ、あのですね……僕はその……他に好きな人がいて……」
 言っている最中に英典の顔が浮かんできて、顔が熱くなって思わず俯いていしまう。
 途端にくつくつと渇いた笑いが和宏に届いて、はっと顔を上げると至近距離に上木の顔があった。
 その顔がニヤリと嗤う。
「そいつって井波のことだろ?」
「え、あ、あのっ、何でっ?」
 動揺して大きく目を見開いた和宏に、返ってきたのは爆笑だった。
 苦しそうに腹を抱えて身を捩る上木に、一体何が起きたのか和宏には全く判らない。
「う、上木さん?」
「お、お前って……判りやすいっ!やっぱり相手は井波だったんだっ」
「あっ……」
 カマかけられたのだとようやく気付いた和宏の顔がますます赤く頬が染まってしまう。何より、どうしたらいいのか、全く頭が働かない。
 そうするとますます上木の笑いは酷くなるのだ。
「上木さん……、あ、あの……誰にもっ」
「さあ?、どうしようかなあ??」
 笑みを含んだ声は留まることなく、意外な大きさで室内に響く。
「う、上木さんっ!」
「言わないって……。でもさあ、お前の態度でバレそうだよな」
「あ、……それは……」
 かあっと羞恥にさらに熱くなる頬に、思わず手を当てて和宏は俯いてしまった。
 確かにそうかもしれない……と、今更ながらに自覚して、余計に頭が混乱する。
「しかし、八木に相手がいようといまいと、俺の思いってさ変わるもんじゃないだろ?」
「え?」
 未だ混乱の域を脱出できていない頭には、上木が何を言っているのかが理解し難い。
 変わらない?
 つまり……諦めないってこと?
 驚いて思わず見返すと、子供のように悪戯っぽく笑う上木の姿があった。
「それとも八木は俺のこと嫌か?」
「あ、いえ……そんなことは……」
「なら、好きだよな」
「はっ?」
 問われた言葉の意味が違って返答したのかと勘ぐって首を傾げる和宏に、上木はしてやったりと満足げに頷いていた。
「だって嫌いじゃないんだろ?だったら好きだってことだろ?それに、本気でお前のこと気にかけたら、俺だってバカじゃないから今までの失態はしやしないぞ。これでも学生の頃は幾多の高校生を志望校に合格させた家庭教師でもあったんだから、教えることにかけては誰のひけにもとらない」
「えっと……その、だからって……」
「だから、あの井波に負けやしないってことだ」
 何かを言い返そうとするのだが、所詮和宏の敵う相手ではなかった。
 和宏が一を言う間に五くらいは平気で返してくるのが上木だ。
 だからこそ、あんな責任を押しつけられることになったのだと、今更ながらに認識させられる。
 ……どうしよう……。
 落ち着けば考えるまでもないことなのに、今の和宏は次から次へと言葉を投げつけられ、その処理だけで手一杯状態になっていた。だから、上木に対して、反論することができない。拒絶することも否定することもできない。
「ということで……俺、本気だから。仕事の方もしっかりとお前を鍛えるからな。俺自身の力で鍛えて、あんなヤツにお前を取られないようにする」
「あ、あの……だから……取られるとかじゃなくて……」
 僕は英典が好きだから……。
 という言葉は、思いついた途端に恥ずかしさが込み上げて、言葉として出て行かない。
 おたおたと狼狽えるだけの和宏に上木はにっかりと笑うと、言いたいことは言ったとばかりに、くいっと顎をしゃくった。
 がたりと音を立てて立ち上がるところを見ると、仕事に戻るらしい。
「あ、あの上木さんっ!」
「ん??」
 ドアを出る直前で振り向く上木に、和宏は言うべき言葉が見つからない。
「あ、あの……」
 断らなければと焦るのに、幾つもの単語が頭の中に浮かんでは消えていった。
 ど、どうしよう……。
 焦れば焦るほど、頭がパニックを起こす。
 せっかく英典に教えて貰ったいろいろな対処法は、今この時には全く役に立たなかった。
「ほら、今日もたっぷり仕事はあるぞ。今までのように放っとくってことはしないから、どんどん俺の仕事して貰うからな」
「あ、はい」
 仕事の話に思わず頷く。
「なら、来いよ」
 はるか先で差しのばされた手のままに、和宏の体が見えない手に掴まれたかのように引っ張られる。
 仕事はしなくてはならない。
 だから、上木の言葉には逆らえない。
 だけど、一体今の状況はどう考えればいいんだ?
 長年の懸念が消えただけとは思えないほどの上木の上機嫌さの正体だけはわかるから、和宏は背筋に流れる冷や汗に身震いするしかなかった。
 どうして……。
 ずっともてることなんて無かった自分が、何故こうやっていきなりもて始めるのか?
 英典が好きだから、上木の事は断らなければならないのに、素直には引き下がってくれそうにない上木をどうしたらいいのか?
 だいたい……このことをどういうふうに英典に言えば良いんだ?
 それに思い至った途端に、今度はそればかりが頭の中をぐるくるとする。
 どうしよう……。
 何度も口中で呟いた言葉が、再び舌の上で転がった。
 こんなこと……英典になんて言えない……。
 それでなくても今までの仕打ちを知って怒っていた英典だから。
 それに、窯に火を入れると不眠不休の毎日になる備前焼の窯元なのだから。余計な心配はさせたくなかった。
 仕事と家と……それでなくても忙しい英典の手を患わせたくない。
 だから。
 和宏は密かに決意していた。
 自分の手で解決しようと。
20
 だが、その気になった上木の強引さは半端なものではなかった。
 何より、英典に逢いに行けない。取りにくいとはいえ、僅かにあった休憩時間の逢瀬すら諦めざるを得ないほど。
 仕事の量も確かに増えた。
 今まで上木が一人で抱え込んでいた、和宏に回さなければならなかった仕事が順当に巡り始めたせいもある。
 やり方を覚えたとは言え、じっくりとチェックをかける和宏の作業効率は、まだまだ悪い。
「はい、次はその原価の計算をしてみてくれ、1LOT(ロット:生産投入一回分)あたり300,2000,5000個の三種類がいるから」
「は……い……」
 返事はしたものの……。
 図面ばかり相手にしていた和宏にとって、その原価を策定するための表がまた扱いに困るモノだった。
 何しろ、図面だけの知識に加えて、会社が扱っているシステムに入っているデータベースからその材料のデータと単価を引っ張り出し、その作業にかかる人員までをも計算して出さなければならない。まして投入量が違うと、それぞれの作業工程で時間もロス量も何もかもが違ってくる。これがまた泣けてくることに単純な倍数ではないのだ。
 判らなくて悩んでいたら、上木がこれでもかというくらいに懇切丁寧に教えてくれて、それは同じ課の人間達に、『あの上木が……』と呆れられるほどだった。
 確かに理解力だけはある和宏だから教えて貰えればそれを身につけて生かすことはできる。だからそれはそれでありがたいのだが、そのせいで四六時中上木と一緒にいることになってしまうのに困ってしまう。
 今日などは、久しぶりに会社内で逢った英典の前で、上木がまるで見せつけるように肩を抱いてきたのだ。
 その密着した体が微かに震えているから、上木がわざとやっているだと和宏には気がついていた。慌ててその体を押しのけようとしても、それはそれでじゃれ合っているようにしか見えなかったのだろう。
 向けられた英典の視線が明らかに怒っていた。
「ざまー見ろ」
 怒りも露わに、だが、時間に追われていたのか英典が行ってしまうと、得意げに上木が言った。
「上木さんっ!」
 さすがに怒りをぶつけても、和宏の迫力でひるむ上木ではない。
 楽しそうな上木とは裏腹に、和宏は今日かかってくるであろう電話の内容を考えて胃が痛くなってきた。
 自分で何とかすると思ったことすら後悔してしまう。
 楽しそうな上木の様子が恨めしい。
 深いため息で心の中の不安を追い出しながら、事務所へと戻る。
「上木さん……出張は?」
 事務所に戻って上木の勤怠欄に出張と書かれているのを見つけて、これから出掛けるのかとほっとしたのも束の間、何故だが自席に座って動こうとしない彼に驚いて声をかければ。
「取りやめ。月曜になったから、八木も一緒に行こう」
 などと言い出す。
「ぼ、僕もですかっ?」
「近場だし、日帰りだ。そんなにトラブルようなところじゃないし、ちょっとした打ち合わせだからな。それまでに、いる資料は……っていうと……」
 これとこれとこれと……と呟きながら、上木が出してきた資料の山は、半端な量ではなかった。
「上木さん……こんなにできていなくて……どうやって今日出張に行くつもりだったんですか?」
 思わず漏れたため息混じりの文句に、上木がからからと笑う。
「だから、行くのを止めたんじゃないか」
「……」
 あまりの事に返す言葉もなかった。
 それでも上木はいつもちゃんと仕事はこなしている。
 もしかするとこのアバウトさ……というものは、ほんの少しは持った方がいいのかな?
 そんな風に思わせるほど、上木の仕事ぶりは相変わらずいい加減だというのに、滞ることなど無かったのだ。

 

『何だよ、あいつっ!!』
 軽やかな音色に英典だと確信して出た途端携帯を取り上げる。
 繋がった途端に飛び出してきた怒気の含んだ声に、和宏は思わず耳から遠く離した。
 再び耳に近づけるのもはばかられるほど、離れているというのに聞き取って理解するには十分な声がこれでもかという勢いでぽんぽんと飛び出してくる。
「あ、あの……さ」
 意を決して耳を近づけて返答しようとしたのだが。
『何、あの態度っ?絶対見せつけてるんだよっ。だいたい和宏も何であんな奴に良いようにされてんだよっ。はね除けろよっ!!』
 1つ言う前に10は返ってきた言葉に、ただただ絶句するしかない。
 こればっかりは上木以上の英典に、和宏が敵うわけもない。
 というより、その質問に答えることもできなくて、和宏はただ唇を噛むくらいしかできなかった。
 英典の怒りはもっともだと思う。それほど今日の上木の行動は露骨だったし、それを邪険に振り払うことができなかったのは事実なのだ。
 ただ、上木は同じ職場の先輩だから。
 それだけの理由が、和宏の思い切った行動を阻ませる。
 それを知ってか知らずか英典に鼻息荒くまくし立てられては、和宏はもうどうしようもなくなっていた。
『あいつ、俺に張り合っているんだっ。俺と和宏がつきあっているのに気付いてんだろ?和宏が教えたわけ?』
「あ……うん……」
 教えたというか気付かれたというか……。
 確かに上木は二人の中を知っている。
『で、あの態度?和宏ってば俺が好きだって事ちゃんと伝えたのかよ?」
「あ、あの……たぶん……」
 聞かれた内容に対する答えが咄嗟にきちんと思いつかなくて、しどろもどろに肯定する。
 あの時は、どんな会話だったんだろう?
 好きだと告白されて真っ白になった頭は、その辺りの記憶がかなり曖昧だった。
 たぶん言った筈だが……返ってきたのは、それで構わないと言ったようなもので……。
 さすがにそれを伝えると英典の怒りをさらに買いそうで、和宏は口を噤むしかなかった。
『ああもう、和宏ってば、ぼおっとしているから……心配なんだよなあ。他には何もされてない?』
 イライラしている様子が和宏にまではっきりとわかって、ひどく申し訳なくなる。
 窯焚きの作業は、不眠不休になることもあるという。昼間の仕事がある英典がどこまで手伝っているのかは判らないが、それでも昼の様子では相当疲れているのだろう。
 そればかりが気になって、和宏は無意識のうちに謝っていた。
「ごめん……」
 ほんとうに自分のせいで英典には迷惑ばかりかけている。
 英典のイラつきの大半は和宏のいせだという自覚が、余計に和宏をいたたまれなくして、いつも必要以上に疲れさせているような気がしてならなかった。
 だから謝った。
『……』
 ふと気付くと、長い間英典の返事がなかった。
 ぴたりと止まった会話が双方に不自然な沈黙を作り出す。
 会話のきっかけがいきなりなくなった和宏は、沈黙が嫌で何かを言おうとしたのだが、何も思いつかなかった。
 もう、どうして僕はこう……。
 いつもぽんぽんと好きなように会話を誘導している人が羨ましいと思っていたが、こういうときにはその思いがさらに募る。
 そんなことばかりを考えていた和宏には英典の沈黙の意味が判っていなかった。
 うじうじと次の言葉を探し続ける。
 と。
『和宏……』
 冷たい声が携帯から漏れてきて、知らず知らずのうちに和宏は姿勢を正していた。
 ひどく緊迫した雰囲気が和宏の辺りに漂う。それほど、英典の声には静かなのに有無を言わせない迫力があった。
『俺はここから離れられない。でも……和宏は来られるだろう?』
「え?」
 一体何のことだと訝しげに返すと、イライラとした口調が先ほどより増して返ってきた。
『ここに来いよっ!!俺の家っ!』
「えっ!!家って?」
『和宏と俺が逢った店の裏の方が自宅。とにかく来いってば』
 どこか駄々っ子のように強請られるさまは、とてもいつもの英典からは想像がつかない。拒絶することもできないその強要に逆らえるわけもない。
「えっと……判った、行くよ……。あ……でも、窯焚きは?」
 言っては見たものの、やはり躊躇いが込み上げて口を付いて出た言葉は。
『そんなもの今週初めに終わって、今は窯を冷やしているから用はないのっ!待ってるから』
 まくし立てられた言葉に反論するまもなく、ぶちっと音を立てるような勢いで携帯を切れられてしまう。
「あ、英典?」
 呼びかけても、返ってくるのはツーという不通話音ばかり。
 思わずまじまじと携帯を見つめてしまった和宏は、数秒の後大きなため息を吐き出した。
 怒られるとは思っていた。が、今日の英典はその想像をもっと越えて怒っていたような気がする。
 しかも、来いだって……?
 逢いたいとは思っていたが、こんな形では逢いたくない。どうして好きこのんで怒っている相手のところに行かなければならないのか?
 それでなくても怒っている相手というものはたとえ相手が英典であったとしても恐いものは恐い。
 だが、行かなければもっと大きな怒りに晒されるだろう。
「あら、和宏出掛けるの?」
 台所から顔を出してきた母に頷く。
「ちょっと……遅くなる、と思う」
 英典の用事が何なのかは判らないけれど、これから備前まで車を走らせたら、そんなに早くは帰っては来られないだろう。
「そう?……気をつけてね」
「ん……」
 心配かけたくないから小さく笑って返事をした。
 玄関を出ると風がほとんど無く、その割には湿気が高い。そんな不快な空気が身にまとわりついて、数歩歩くと汗が滲んできた。空を見上げても、どんよりとした雲が覆っていて星が見えない。それが、和宏の心の内と同じような気がして余計に気が沈んでしまう。
 重い心を奮い立たてはみたものの、しかし結局はそれに失敗して、動きづらい足を引きずるように車へと向かっていった。
続く