緋だすき(1)

緋だすき(1)

八木和宏(やぎかずひろ)が両親の足がわりとして訪れた備前焼の店。
所在なげに店の外で佇んでいた時にその店の息子が話しかけてきた。それが井波英典(いなみひでのり)だった。しかし、次の日会社で逢った英典の態度はひどく冷たいもので……
年上(26)の和宏が年下(24)の英典に負けています。和宏の成長物語とでも思っていただければ。(切なめ)

備前焼 : 日本六古窯の一つ。釉薬を使わず高温で焼く焼き締めの技法で作られるもので、その窯変によっていろいろなものがあります。
沈んだ茶褐色の地肌の物が多いです。
緋だすき : 備前焼の技法の一つで、左の写真のように、灰色がかった淡いベージュのような地肌に、朱色に近い褐色の文様が入っている物。蒸し焼きに近い状態に晒されるため、他の備前焼より淡い色の地肌を持っています。

「まさか……」
 八木和宏(やぎかずひろ)は、部長の隣にいる男を視認して思わずひとりごちた。
 こんな場で思わず口走ってしまったが、それに気付いたのは既に声を出した後。
 まずいと慌てて口を噤んで視線を下げ、誤魔化すように床の規則正しい継ぎ目を目で追う。幸いにしてこぼした言葉は相手には届かなかったようだ。
 それにしても……彼が……なぜ?
 朝からずっと感じていた寝不足もどこかに飛んでしまったほどの驚きの後に来るのは、羞恥と困惑、そして疑問。
 いたたまれない気持ちの中にも何度も浮かぶ疑問に、和宏は答えが判っているにもかかわらず受け止めることができなかった。
 彼は、交換研修にしばらく配属されるのだ……そう部長が言っていたではないか?
 入社二年目である和宏が名前だけは知っているこの研修制度は、ずいぶん前から慣例としてあるらしく、今年も変わらず行われることになった。内容といえば、製造の人間と設計技術の人間を一ヶ月ほど交換してそれぞれの職場の仕事をしてもらうというもの。
 設計技術の人間は実際に製造機械を扱って、その数値にでない特性や癖を覚えることができ、製造の人間は自分たちの作ってるものがどういうふうに設計され、客がどんな要望を持っているのかのその課程を身をもって実感することができる。
 ただ、一ヶ月という期間しかないその間にどれだけのことができるか……という疑問も昔からつきまとっているのだが、特に問題が起きるものではないから、今もずっと行っているのだ。
「今日から一ヶ月間、頑張ってもらうから……まあ知らない人はいないとは思うが恒例なんで自己紹介を」
 禿を気にして帽子を決して脱がない定年間近の幸崎部長の隣で、彼はぺこりとお辞儀した。
「井波英典(いなみひでのり)です。高卒で入社以来もう6年ずっと製造にいました。今回の研修でいろいろ学びたいと思います。よろしくお願いします」
「井波君は、製造ではすでに班長に昇格している。なかなか厳しい面もあるから、その辺はみんなにも吸収してもらいたいね」
 やっぱりそうなんだ……。
 形通りの挨拶を聞いた途端、和宏はすうっと視界が狭くなるような閉塞感に襲われた。
 気持ち悪い……。
 快適な室温に保たれているはずなのに、全身が総毛立ち細かく身震いする。寒いのに全身にはじっとりと嫌な汗をかいていた。
 自分がどんな状況になってといるか誰より判っているのに、この極度な緊張を英典は解すことができなかい。
 ぎゅっと握りしめた拳は、見なくても白くなってるのが判るほどに痺れと痛みを伴っていた。だが今の英典にとって、その痛みこそが意識を現実に保つ唯一の拠り所なのだ。
 その痛みのせいかなんとか自分を保てているような気がして、僅かな安堵に縋って小さく息を吐く。そしてようやく伏せていた視線を僅かに上げ、もう一度彼の顔を見直した。
 いくら顔と名前を覚えるのが苦手な和宏でも、先日会ったばかりの相手だから、忘れようとしても忘れられない。
 いや、忘れるわけがない。
 あの後、あまりのことにいつまで経っても眠りにはいることができなくて、今の寝不足の原因を作ったのは彼なのだから。
 昨日は、同じ会社だとは一言も言わなかった。
 いや……今、6年会社にいたって……?
 院卒の和宏は、今年26歳。会社に入って2年目。
 少なくともその2年近くは同じ会社にいたというのに、先日会ったとき誰か判らなかったのは和宏のほう。部署は違っても、食堂や廊下……共有スペースはいくらでもある。それほど巨大と言える会社ではないのだから、知らない方がおかしい。
 ……教えてくれればよかったのに……。
 こみ上げてくる羞恥に俯き、下唇を噛みしめる。
 ほぼ半日、ずっと一緒にいた間、彼は初対面のように振る舞っていたのだ。
 いや……そういえば、彼は一度問いかけてきたではないか?
 会ったことがある、と……。
 それがこのことだったのだと、今なら判る。
 ぎりっと唇に食い込んだ歯が鋭い痛みを作る。
 からかわれていたのだと──頭がそう訴える。
 それが堪らなく惨めで。
 昨日が楽しかった分、その感情が酷くなる。
 たまたま知り合って、ともに行動して──最初から終わりまで和やかで楽しい思いをしたのも事実だ。だから一緒に行動できたことを嬉しいとすら感じていた。
 そう、あの別れる間際までは……。
 彼の最後の行動が理解できなくて、悶々とした一夜を過ごした朝。
 よりによって会社という場で再会した彼の視線は未だに和宏のことを捕らえない。にこにこと人なつっこい笑みはそのままなのに、それが和宏に向けられることはなくて、それが余計に和宏を責め苛む。
 結局、和宏の昨夜の思いはなんてことはない、悩む価値もないモノだったのだと結論づけるに十分な態度で。
 それがなんだかひどく心に衝撃を与えていた。
 僅か数十分で味わった度重なる衝撃が相乗効果のようにさらに激しい衝撃を湧きおこし、ひどい惨めさを和宏の心を一杯にした。
 最後のあの時以外は和宏にとっては、久方ぶりに楽しい時であったから、だからこそその落胆は大きい。
「八木くん」
「……」
 だから、部長が呼んでいるのにもすぐには気づかなかった。
「おい」
「八木くんっ!」
 隣に立っていた先輩の上木(うえき)に肘でこづかれて、ようやく少し苛立ったような部長の声に気付いた。
「は、いっ!」
 慌てて返事をすると、いきなり声を出したせいか見事なまでに裏返った声が出て、そのせいで顔が熱くなる。
 そこかしこで漏れる失笑に気付いて、和宏はその頬をさらに染めていたが、しかし俯きそうになる顔を必死で部長に向けた。
 苦虫を噛み潰したような部長の顔が和宏に向けられている。だが、英典の視線はどこか違うところを見つめているのだ。
 どうして……。
 思考が自分の中に埋まっていきそうな気配を必死で堪えて、部長の言葉を捕らえる。
 だがその言葉を聞いた途端、頭が真っ白になった。
「八木くん、井波くんを任せるから、いろいろ教えてやってくれ」
「は?」
 任せる?
 その言葉に和宏は返答することもできなくて、唖然と部長を見やった。
 今、部長はなんと言った?
「一ヶ月、君が講師だからね」
 投げやりな態度で言い捨てた部長は、和宏が目を白黒させているのを無視して、言葉を継いだ。
「それじゃ、解散っ」
 反論する暇もない。
 部長は用は済んだとばかりに解散を指示した後に、自身もさっさとその場を後にしてしまったのだ。
 任せたって……。
 慌てて部長を目で追うが、その背を見ていると反論する気概もみるみるうちに萎んでいった。
 結局、他人に逆らうことなどできない性格なのだ。
2
 どうしよう……僕が講師なんて……。
 自信なんてない。自分がそんなことには向いていないと知っているから、余計に惨めで顔が上げられない。
 視線を床に落としたまま所在なげに立ちすくむ和宏だったが、不意にその視界に他人の足が入ってきた。
 その足がそこで止まる。
 慌てて顔を上げると忘れていない顔がそこにあった。
 間違いない、彼の顔。
 だが、本当に彼なんだろうか?
 名前も顔も、同じだと頼りない和宏の頭が言っているにも関わらず、和宏は違和感を感じずにはいられない。
 それが何かはすぐに思い当たって、和宏は悪寒のような身震いをした。
 英典のその表情が、今まで見たこともないものだったからだ。
 どこか憮然とした表情の英典が、和宏をまっすぐに見据える。
「よろしくお願いします」
 へりくだった物言いなのに、その頭と視線は微動だにしない。背が高い筈の和宏の方が圧倒されるような雰囲気があった。
「……こちらこそよろしくお願いします」
 固い口調につられて、そのままの口調で返してしまう。
 途端にはっきり判るほどに英典の眉がひそめられた。
 しまった、と後悔しても後のまつり。
 人と話をするのが苦手な和宏のくせで、相手の態度や口調につられてしまうのだ。
 相手が不機嫌なら、応対する口調も不機嫌なように出してしまう。和宏自身にはそんな態度をとるつもりなどないのだ。ただ、つられる。特に失敗しまいと緊張すればするほど、それが出てしまうのだ。
 だけど……。
 いつもならそれでも慌てて笑顔を浮かべてフォローはできるのに、今日は何よりも彼の態度の方にショックを受けていて、そこまで頭が回らない。
 ……やはり……そうなんだ。あれは冗談で……からかわれていたってことなんだ。
 悔しい……。
 ただ、そう思った。だが、それも一瞬だ。
 結局自分がその程度の男なのだと。からかわれやすい態度を取ってしまったのだと……ひどく情けなくなる。
 彼と名を名乗り合って、一緒に遊びに行って……それがつい先日のことだったというのに。
 それなのにこの他人行儀の挨拶はその証拠じゃないのか?
「あの……?」
 何も言わない和宏に英典が困惑を滲ませながら問いかける。
 あ……仕事中だ……。
 放っておけば際限なく落ち込んでいく自分を、和宏は無理矢理奮い立たせた。
 なんとかしないと……。
 だけど……どうやって。
 結局、なんとか引きずり出した決意は、そこで引っかかって潰えてしまう。
 そして、出てきた言葉はなんとも情けない言葉だった。
「あ、すみません。その、何の説明も受けていないもので……何からしていいのか……」
 所在なげにあたりを見渡せば、ほかのメンバーはもう机について仕事を始めている。
 交換研修というものをどのように進めていいのか、二年目の和宏には何も判らない。去年初めて知ったその研修制度には、自身も研修中だったせいで全くのノータッチだったのだ。
 ふうっ
 あからさまな嘆息が聞こえて、彼を見やれば目が合いそうになって慌てて視線をそらす。
「そうですね。最初はこちらの組織の説明でもしてもらえませんか?打ち合わせ用の小部屋で待っていますから、準備してきてください」
 それは揶揄しているものではなかったけれど、ひどく冷たい声音だった。
 それこそ、和宏の胸に冷たい楔を打ち込むには十分なほどだ。
 ずきりと胸を走る鈍い痛みが和宏を追いつめる。
 確かに、はるかに勤続年数の長い英典にしてみれば、研修に何をやるのかくらい周知のことだろう。
 だが、教えられる側が仕切っている今の状況は、教える側が役に立たないとでも言われているようなものだ。
 いや……この研修役も結局押しつけられたもの……。
 さすがにそれくらいは和宏も気付いていた。
 今、ここは忙しい。
 立て続けに入ってきた特殊品の受注に対する設計作業に猫の手も借りたいほどの忙しさだ。なのに、研修の世話役に人手を割くことはよけいに忙しさが増すことになる。
 だから、いてもあまり役に立たない和宏が選ばれたのだろう。
 入って数度目の客対応で、接客が必要なところには使えないというレッテルを貼られている和宏は、未だに雑務といわれるようなことしかしていない。自分で設計することもほとんどない。
 そんな自分にいったい何を教えろというのか……。
 和宏は英典の後ろ姿を見送ると、長い嘆息を漏らすと、とぼとぼと自席へと戻った。
「八木、ご苦労さんだな」
 自席でディスプレイに向かっていた上木が顔を上げて和宏に声をかけてきた。それに愛想笑い以外のなにものでもない笑みを浮かべて応えた。
「なんでもあの井波君、相当なやり手らしくて、高卒にしちゃ出世頭らしいぞ。いっそのことおまえの方が研修してもらったらどうだ?」
 かははっ、と笑い飛ばしてくれるこの人の言には、嫌みは含まれていない。
 深いところを考えないこの先輩の発言にやっとなれたのは入社後一年も過ぎてからだった。最近、ようやく上木の言葉で落ち込むことはなくなった。が……。
 やはりその言葉は胸に響いた。
 たぶん、それは真実なのだ。どう足掻いても生徒役はこっちだ。
「……僕は……何をすればいいんでしょう?」
 思わずついてでた言葉に、上木も馬鹿笑いの口を噤んではたと考える。
「そういえばそうだな?」
 う?んと、と頬杖をついて考え込む上木の表情は真剣そのものだ。
 それはそれで、やはりきつい。
 上木の言葉から逃げるように当座の資料を引き出しから探していた和宏の背を誰かがぽんと叩いた。
「え?」
「それを教えてもらうのが君の役目」
「主任?」
 振り向けば、直属の上役でもある近藤主任がにこにことしながら立っていた。丸顔でぷくぷくした主任が笑うと、だるまさんのようだとみんなの失笑を買う。今もその穏やかな笑顔で、立っていたのだが、和宏にはとってはそれどころではない台詞だ。
「あの、役目って?」
「井波君の仕事の進め方を奪ってくること。それが君の研修内容」
 それって?
 訝しげに眉根を寄せる和宏に近藤がさらににこりと笑う。
「今回の担当は井波君が君を指名してきた。別に君に押しつけたわけではないんだ。ただ、彼の真意までは判らないから。だから、今回何をしたいのかは井波君に聞くしかない。私らには、どうして?という疑問の方が強かったがね。その理由までは教えてくれなかった。だが、まあ、いい機会だとは思ったからそれを承知した。いいかね、井波君の真意がどこにあるのかは知らないが、彼の仕事ぶりはトップも一目おいている。その傍で仕事ができるんだから、君はそれを自分に役立たせないと駄目だよ。いつかは君も責任ある仕事をしてもらわなければならないんだからね」
 柔らかい物言いなのに、言っていることは結構堪える。
 和宏はそれに頷くしかできなかった。
 その和宏の背を励ますようにもう一度ぽんと叩いて、近藤はその笑みを崩すことなく離れていく。
 彼が上司でなければ、とっくの昔に別部署に飛ばされていただろうということは和宏も理解していた。その近藤があそこまで言うのだから、それに従うしかない。
 彼が自分を指名した?
 確かにその真意はわからない。
 いったい何がどうなっているのか?
 今まで、できないから卑屈に流されるように過ごしてきた会社が、いきなり慌ただしくなってきたような気がした。
 それでも……もうなるようにしかならないのだ。
 和宏はとりあえずノートと筆記用具を持って指示された打ち合わせ室へと向かう。

 英典に初めて出会った昨日のことが、頭の片隅に引っかかって、今のギャップが和宏を責め苛んでいた。
3

 うららかとはほど遠い。
 容赦なく照りつける日の光に、和宏は、はあッと熱を吐き出すかのようなため息をつくと額に浮かぶ汗を手のひらで拭った。
 辺りを見回し、僅かな涼を求めて軒下に移動してみる。
 ほんの僅かな影でも、直射日光に曝されないだけマシだ。
 ちらりとその建物の中を窺うと、大きな窓越しに、両親がここの主人と楽しそうに会話しているのが見える。
 その出窓風の窓にも、その中にもたくさんの焼き物が並んでいるのが見える。
 素のままの肌色に朱色の線が走っているもの。焦げ茶にそまり、釉薬がかかっていないはずなのに濡れているようなしっとりとした色合いのもの。その上に黄色みを帯びたしぶきがかかっているもの。大皿には丸い痕があったりと、一つとして同じ色合いのものがない幾多の備前焼がそこに並んでいた。
 備前焼 陶苑山(とうえんざん)
 建物の入口には、やはり備前焼で作られた看板が掲げられていた。
 まだまだかかりそうだな……。
 備前焼には興味がないうえに初対面の人と話すことを大の苦手とする和宏は、話題についていけないからと外に出てきたのだが……それを後悔するほどに外は暑かった。
 普段日を浴びない体はそれだけで疲労を蓄積する。ぐったりと脱力したように壁に背をもたれさせる様は、とても二十六歳には見えないだろう。そんな自覚もあって、人目につきやすい表側から建物の奥へと足をのばした。
 日本家屋風の店だから、軒下だけは広く影も大きい。
 僅かにそよぐ風にほっと目を瞑った。
 視界がなくなると、車の音に混じって鳥の声が聞こえてきた。ここは山に囲まれているから、それも不思議ではない。
 自然の音はそれだけで気分的にも涼をもたらす。
 それにしても……。
 あの分だとまだまだ話は長くなるだろう。
 両親の備前焼好きは筋金入り。今日も、贈り物には備前焼とばかり店に選びに来たのだ。
 あいにく父親の車が修理中のため、運転手付で和宏の車がそのご用を務めることになってしまった。
 暇だろ……と言われれば、返す言葉のない和宏は仕方なくついてきたのだが……。
 ここにきても暇だった。
 胸ポケットに入れていたタバコの箱から一本取り出し火をつける。
 手持ちぶたさの解消がてらに吸い出したのだが、それで暇が解消されるわけでもない。ただぼおっと空を眺めるだけが、今の和宏にできることだった。
 往来を走る車の音以外は静かだった世界に、重低音の排気音が割り込んできた。
 ふと顔を上げるとそうたいした間をおくことなく視界にバイクが入ってきて、それがウインカーを出して曲がってくる。
 スポーツタイプの大きなバイク。
 その程度にしか判らない和宏の傍らをそれが擦り抜けようとするのに気付いて、壁に身を寄せた。
 店の人かな?
 たぶん若い人だろうとは思うのだが、フルフェイスのヘルメットで顔は判らない。
 そのバイクが奥の物置小屋の軒下近くに止められ、乗り手が降りるのを、意味もなくぼんやりと目で追う。 と、不意に相手の視線が自分を見ていることに気がついた。それに気付いて慌てて視線を外す。
 こんな所でぼうっとしているから、胡散臭がられたんだろうな……。
 やはり店の中に入っていた方がいいのだろうか?
 だが、話好きなここの人に話し掛けられてもろくな応対はできない。
 どうしようとちらちらと中を窺っていると。
「……そこ、暑くないですか?」
 いきなり背後から声をかけられた。驚いて振り向けばフルフェイスのヘルメットを脱ぎながら彼が近づいてくる。
 だが、その落ち着いた警戒の色のない自然な問いかけに、和宏は反射的に頷いていた。
「え、……いえ、まあ……」
 あ……。
 言ってしまってから、自分が間の抜けた返答をしていると気付いて、かあっと頬が熱くなる。
 と、和宏より少しだけ背の低い彼がじっと見つめながら、僅かに首を傾げた。何かを考えているように、眉根を寄せている。
 あまりにじっと見つめられ、和宏はいたたまれなくなって俯いた。
 こんなふうに人と相対することが苦手な和宏だから、視線を合わせることもできない。
「……あの、店入られたらどうですか?」
 和宏の動揺に気付いたのか、彼がふっと笑みを浮かべて勧めてきた。
 それに首を振る。
「僕は両親をつれてきただけなんです。中に入っても何も判らないから……」
 その言葉に彼が首を伸ばしてひょいっと中を見る。
「あれ……ああ、八木さんですよね。父の友人の?」
 父?
 つられて一緒になって中覗き込む。
「あ、じゃあ井波陶苑(いなみとうえん)……先生の息子さん?」
 視線を向けると彼はこくりと頷いた。
「……八木さんとこの……やっぱり……」
 その口元から微かにそんな言葉が漏れ聞こえた。
「え?」
 向けた視線は苦笑で返された。
「興味ないからって言っても、ここでは暑いでしょ。中で待っていれば良いのに」
「……うん、まあ……話し掛けられても判らないから……」
 その言葉に和宏の躊躇いの原因に気がついてくれたのか、彼もそれ以上は勧めてこなかった。
 その代わり。
「じゃあ、こっちの奥に行きません?ここよりははるかに涼しいですから」
 それに言い返す間もなくぐいっと腕をひかれる。
「奥って……」
 確か作業場の筈……。
「今日は誰もいないから、入ってもかまわないですよ」
 にっこりとそう言われては、逆らうこともできなかった。

 奥は意外に緑があって、その合間に流れる風が心地よい。
 どことなく懐かしい雰囲気もあって、和宏は心が和むのを感じた。
「涼しい……」
 ぽつりと呟く言葉に彼が笑顔で返してくれる。
「僕、井波英典って言うんですけど?」
 こちらの動向を窺うように名を名乗られ、和宏は困ったようにあいまいな笑みを口元に浮かべた。
 もしかして……逢ったことがあるんだろうか?
 そう考えると、どこかで見たような気はする。
 だが、気のせいだと言われればそれまでの記憶。
 暑いせいだけではなく浮かんだ額の汗を手で拭うと、英典が何かに気付いたように視線を宙に向けた。
「ちょっと待ってて」
 和宏を奥の藤棚の下の丸太のイスに座らせた彼が、足早に奥に引っ込んだと思うと、それほど間を置かずに手に盆を持って帰ってきた。
「どうぞ」
 冷たそうな麦茶が差し出される。
「あ、ありがとうございます」
 喉が乾いていたので遠慮なくそれを頂くことにした。
 冷たさが喉を通り過ぎる爽快さにほっとする。
「八木さん……僕と会ったことあるんだけど……知っています?」
 飲み終えるのを待っていたかのように英典が問いかけてきた。
「逢っていますか?」
 言われて再度彼を見遣る。
 逢っていると言われればそうなのかも知れない。
 なんてなく見覚えがあるような気がする。
 だが、それがどこでだったかは思い出せない。
「八木和宏さんでしょう?」
 正確に名前を言い当てている彼に、どこで逢ったか和宏は必死で思い出そうとしていた。だが何せ、人の顔と名を覚えるのを大の苦手としている和宏だ。
「ごめんなさい……思い出せない」
 羞恥に熱くなる顔を俯かせる。
 これだから……人と話すのが苦手なのだ。
 逢っている人の顔を忘れるなんて、ひどく申し訳ない。そう思うから、あまり人に会わないようにしていたら、そのせいですっかり引っ込み思案になってしまった。
「そっか……」
 ひどく残念そうな英典を見るにつけ、余計申し訳なく思う。
「ごめん……」
 ぽつりと呟いた言葉に、英典が苦笑を浮かべた。
「やだな……そんなに気にしなくてもいいのに……」
「でも……どこで逢ったんでしょう?」
 気になる。
 どうも彼は自分のことをよく知っている。
「まあ、直接話をしたことはないんですけどね」
 口の中で呟かれ、不明瞭な言葉が漏れ聞こえる。
 和宏が不審げに視線を向けると英典はその笑みに揶揄を含ませ、和宏に向けた。
「内緒」
「え?」
 その単語に躊躇い、小さな声が漏れる。
 その素直な反応に英典が声を立てて笑った。
 素直な自然な笑いに和宏の口にも照れ隠しのような笑いが浮かんでしまう。
「教えてくれないんですか?」
「う?ん?だってそのうち判ることだから」
 けらけらと笑われているというのに、不快ではない。その笑顔が心のそこからだと判るからだろうか?
 楽しそうな人だな。
 そう思わせる雰囲気があった。
4
「それより、八木さんは今日は暇なんですか?」
 ひとしきり笑った後、小さく咳払いした英典がじっと和宏を見つめながら、そう問いかけてきた。
 何でそんなに見つめるんだろう?
 真摯な瞳に、いたたまれなくなり相手の胸あたりに視線を向ける。
「両親の送り迎えだけなんです。父の車が修理中で……話が終わったら一緒に帰らないと……」
 ほんとにいつになったら終わるのだろう。
 もともと、話し好きな両親に、どう見ても話し好きなここの主人。
「……じゃ、それ以外は暇なんですね」
 それに小さく頷くと、英典はあごに手をかけてしばし逡巡していた。
 それをぼおっと眺める。
 わずかに色を抜いているのか、やや茶がかった長めの前髪が額にはらりと落ちる。
 日に焼けた腕は、日に当たっていないのかと言われても否定できないほど白い肌の和宏より逞しいほど。
 背は和宏の方が高いのだが、実際は英典の方がその筋肉質の体から大きいように見えた。
「あのさ……車、お父さんが運転できるんですよね」
 ちらりと英典の視線が店の陰からわずかに見える和宏の車に向けられた。
「ええ」
 何の変哲もない大衆車だから、父が運転することもある。
 だから、こくりと頷くと、英典は満面の笑みを浮かべた。
「じゃ、お父さんに運転してもらって先に帰ってもらいません?」
「え?」
 あれ?
 言われた意味を頭が理解するのに、数秒を要した。
「それは……どういう?」
「んっと……暇なんだからさ俺とデートしない?」
 にっこりと砕けた感じで言われるそれに思わず頷きかけた。
 が。
「で、デート?」
 その単語の持つ意味が頭の中で駆けめぐる。
「あ、ごめん。二人でどこかに遊びに行こうっていう意味。深い意味はないって」
 和宏の驚きを面白そうに笑う。
 さっきまでの丁寧な言葉遣いがなりを潜め、ふと気がつけば一人称まで変わっている。
 これが本来の彼なんだろう。
 そのどこか悪戯っぽい視線に和宏は捕らわれていた。
「暇なんでしょ?だったら、行こう」
 すっと伸びた手が、和宏の腕を捕まえる。
 至近距離に迫った顔が、見上げるように和宏を見つめていた。
「だから、車のキー貸して」
 その口が言葉を紡ぐ。
「でも……」
 強い瞳が和宏の弱い心を逃さない。かろうじて絞り出した言葉は、くすりと笑われ消えていく。
「ああ、ここね」
 ちらりとその視線が下方にずれ、キーの在処を確認する。
 英典は躊躇することなく和宏のズボンの尻のポケットに指を入れた。
 すぐ傍らに人がいるその距離に慣れていない和宏が慌てて身を捩ろうとすると、
「動かないで」
と英典がぐっと掴む手に力を込めた。
 探るように動く指が、尻のあたりで蠢く。
 ただ、それだけなのになぜかぞくりと体が反応した。
 その見覚えのある感覚に、和宏の動きが止まる。
 何で……。
 性的快感を多分に含むそれに、困惑の色を隠せない。
「あった」
 キーを和宏の目前に差し出す英典は無邪気なまでの笑みを見せていた。
 そんな意図など毛頭ないのだろう。
 彼は男で、自分も男。
 たまたま感じてしまっただけ。
 戸惑いの視線をキーと英典に交互に移す。
「待ってて」
 そんな困惑などに気づきもしない英典が和宏から離れるとさっさと店の中に向かう。それを呆然と見送る和宏はふっと抜けていく力に逆らわずに、よろよろと丸太の上に座り込んだ。
 僕って欲求不満なのかな……。
 あんな何気ない行動に反応するなんて……。
 たぶんたまたま感じるところを彼の指が押さえたに過ぎないのだ。
 それにしても……。
 彼の行動力には驚かされる。
 説得したのだろう。
 店から出てきた英典が満面の笑みを浮かべて、親指を突き出した。
 それを見つめる目がまぶしげに細まるほど、彼は元気で明るい。
「お父さん、いいって。不肖の息子ですがどうかよろしく。なんて言われちゃったよ。なんか俺、お嫁さんもらった気分?」
 けらけらと笑うそれに、さすがに眉間にしわが寄った。
「お嫁さんって……まあ、そういう時の台詞とは思うけど……」
 父さん……。
 そりゃあまあ……今ひとつ覇気のない和宏を父が心配しているのは知っているが。
「あはは、そんな感じだったよお。お母さんにも、面倒かけますけどよろしく、ってすぐに許可もらえたし」
 ……なんてことを。
 羞恥にすうっと熱を持つ頬に手を当てる。
 その仕草に英典がぽりぽりと頭を掻いた。
「……照れてる八木さんってなんか可愛いね」
 照れ隠しの笑いが浮かぶその顔を見たとたん、ぼんっと顔が火を噴いた。
「可愛い……って言われても……」
 ほめ言葉に聞こえないそれに、戸惑いの色は隠せない。何より、なぜこんなにも顔が熱くなるのか。
 だいたい、ここは怒る場面のような気がする。
 さすがに眉根を寄せていると、英典もその目が宙を泳ぐ。
「あはは……まあ、それはおいといて……車、こっちだから」
 何気なく捕まれた腕にどきりと反応する心臓に戸惑いながらも、和宏は引っ張られるままについて行った。

「ごめん、小さくって」
 運転席に滑り込みながら、英典が肩をすくめる。
 行動的な英典に似合わない軽四。
「大丈夫」
 座席を一番後ろまで動かして、足の部分を広げる。
「バイクに金かけちゃったから、車は安いのしか買えなかったんだ」
「さっきの?」
「うん。金食い虫だよ、あれは。ま、好きだからいいんだけど」
 くつくつと笑いながら、車を発進させる。
 手慣れた運転は、車の方も相当乗り慣れているように見えた。
「どこか行きたいところある?」
 道に出る直前にいったん停めてこらちをちらりと窺う英典に和宏は首を振って返した。
「どこも……知らないから……」
 人が苦手だから、出かけるのも苦手。
 だから、興味がない。
「う?ん……そうだよなあ、この辺ってほんと備前焼ばっかだから……じゃあ、ちょっとだけ遠出ね。今晩とか用事ないよな?」
「何も……」
 素っ気ない返事を意に介さないのか、いつもにこやかに話しかけてくる。だからか、和宏の気分もひどくリラックスしていた。
 楽しい。
 初対面ではないらしいにせよ、慣れていない人とこんなふうに二人っきりになることがこんなに楽しいと思えたことは初めてのような気がする。
 それくらい、英典は自然に和宏に馴染んできていた。
「井波君、どこ、行くんだ?」
 ふっと問いかけるのも実は珍しいことを彼は気づいているのだろうか?
「あ、俺のこと、英典でいいよ」
 信号待ちで停まってから、ふっと和宏の方に顔を向けるとやはり彼は笑っていて。
「え、でも……」
「俺、親しい友達には名前で呼んでもらうことにしているから。だから八木さんも英典って呼んでほしい」
 親しい?
 親しいって思ってくれるんだ。
 ふうっと心の底から湧いてくる暖かなものはなんだろう?
「じゃあ……僕も名前でいいよ。和宏で……呼び捨てでいいから」
 思わずそう言っていた。こんなことは初めてだと、自分が信じられない。
「ほんと?俺も呼び捨てでいいよ。和宏」
 その自然な言われ方がすごくうれしい。
「えっと……英典は、どこに行くつもり?」
 呼びにくいけど、それでもと言葉にしたらほんとにうれしそうな笑顔が返ってきた。
「赤穂の方に行ってみよう?30分くらいだから」
 出てきた地名は隣の県のもの。
 だが、頭に浮かんだ地図で確認して、さもありなんと頷く。
 この場所からなら、岡山市街にでるより、隣の県のその市街にでる方が近い。
 英典が車を進める横の道路標識がその道を250──国道250号線と案内していた。
5

 英典が最初に車を止めたのは、赤穂城趾だった。
 駐車場に車を止め、土産物屋と高い城壁を横目で見ながら中に入る。
「でもね……ここ、城がある訳じゃないから、何にも無いんだよね。この先、抜けたところに大石神社があるから……そこ行ってみよ」
 この先、と行った先がずいぶんと遠かった。
 何せ、もともと城があった所だ、そこを横断してようやく神社に辿り着ける。
 きっと、地元の人の散歩コースなのだろう。
 ゆったりと歩いている人が多い中、英典は和宏を引っ張るように足早に歩いていった。
「大石神社って……赤穂浪士の?」
「そうだよ。その人たちをモデルにした木彫りの人形が飾ってあるよ……んと、あんま興味が無かったかなあ?」
 今更の事実に気が付いて英典が困ったように笑うのに、和宏は曖昧な笑みで返した。
 確かに興味はない。
 だが、わざわざ連れてきてくれた彼にそれをそのまま言うのは気が引けた。
 それに一つ一つの木彫りの人形につけられた説明を読んでいくのも結構楽しかった。
「英典はここにはよく来るのか?」
「う?と、二回目。ダチと来るときは、この先の店で買い物とか、映画見たりとか……後、海浜公園とか赤穂御崎かな。でも、和宏と来るのに、なんでかここが思い浮かんでさ。たぶん行ったこと無いだろうから、行ってみようかって気になった」
 英典のいった店名や地名の一つも判らない和宏にしてみれば、どこもかしこも一緒にしか思えない。だが、なぜ英典がこの地を選んだのか……改めて目前の木彫りを眺めた。
「赤穂浪士って……悔いとかなかったのかな?」
 説明文を読んでいた和宏の耳に突然そんな声が入ってきた。
「え?」
 横を向くと、英典が驚くほど真摯な瞳でじっとその人形を見つめていた。
「ほら……さ、奥さんに危害が加わらないように離縁までしてさ、それで江戸に出て……そこまで敵を討とうと決意した時に……なんでこんな事をするんだろう、そこまでして敵を討って……でも奥さんとかすっごい悲しむじゃないか……そんなこと思わなかったんだろうか?」
 そんな事を一度たりとも考えたことの無かった和宏にとって、英典がなんで急にそんなことを言い出したのか見当もつかない。
 何より、和宏がどんな答えを期待しているのか……それが判らない。
「俺って……もう駄目だって思うとさ、なんかすぐ割り切っちゃうんだよね。簡単に別の道を選ぶタイプ。で、後から後悔するわけ。あの時、こうすればよかった。ああしておけば、こんなことはなかった、って……。駄目だって思いこんだら駄目だって。必死でそう思うことにしているるんたけど……。でも気がついたら、いつの間にか後悔の嵐。和宏ってそういうことない?」
 ふっと向けられた瞳に、和宏は誘われるように本音を吐露していた。
「僕は……駄目だって思っても……そんな風に割り切れないかな。悩んで悩んで……それでも他の道は選べなくて、妥協してしまうから……そしたら、たぶん変わるためのタイミングをはずしちゃって……結局今のまま。何も変わらない。だからそういうことではしょっちゅう後悔している。あんなに悩まずにこうしとけば良かった……って。だけどさ、だからと言っても僕は赤穂浪士のような事はできない。彼らはきっと悩んで悩んで悩み抜いて、それでも敵を討つという手段を選んだんだよ。僕はそこまで悩む前に諦めると思うから。それにきっと……そんな勇気はない」
 そうだ。
 彼らのように実行することはできない。
 そんなふうに賢明に生きる事はできないから。
 ある意味、英典のような考え方は理想なのだろう。今までだって、まず行動してみろ、と何度言われたことか。
 子供の頃も、大学を経て、会社に入ってからも。
「ああ、そうだね。和宏ってそんな感じだ。もっと自分に自信を持ったっていいのにね。なのに周りにあっさりと流されているような気がする」
 あっさりと肯定されたのに、それが不快ではない。
 不快だと思う事は、とっくの昔に消え去っていた。
 それほど、何度も言われ続けて慣れてしまった言葉なのだ。
 だから、和宏はそれに笑みを浮かべるだけだった。
 その後、何故か黙ってしまった英典に居心地の悪さを感じながらも、自分から声をかけることができなくて、何度も何度も説明文を読み返す。
 どうしよう……。
 もしかして、さっきの答えに気を悪くしたのだろうか?
 いたたまれなさにちらりと視線を送るのと英典が和宏を向いたのが同時だった。
 一瞬視線が絡み、慌てた和宏がふいっと視線を外す。
 戸惑いの色を浮かべて俯く和宏を一瞥した英典がぽつりと呟いた。
「腹減ったな……」
 そう言いながら、和宏の袖口を引っ張った。
「え……?」
「なあ、食べに行こう。ちょっと早いけど……いい店あるんだ」
 そう言いながら見せてくれた笑顔にほっとする。
「あ、そうだね」
 考えることなく頷く事ができたのは、彼の笑顔につられたせいだろう。
 だが、それが英典を悦ばせたようだった。
 突然嬉しそうに和宏の腕にまとわりつく。
「今の笑顔、良かったよ。なんか楽しそうって思えたから……連れてきて良かったって思えた」
「あ、ちょっと!」
 ぐいと絡みつかれたまま引っ張られ、ぐらりと体が傾ぐ。慌てて踏ん張る和宏に英典がくすくすと喉の奥で笑いかける。
「考えない……それが和宏が楽しく生きるキーワードかもね」
 キーワード?
 英典が何を言いたいのかが判らない。
 何を考えないのか?
 引っ張られ、駐車場に戻る英典は相変わらずの上機嫌だ。
 何でそこまで楽しくできるのか?
 その方が和宏には判らなかった。
 地味なお店で食事をして、赤穂御崎で穏やかな瀬戸内の海を見ながらぼうっとして……和宏の肩が凝らないコースを英典は選んでくれているようだった。
 だがそんなコースでも、もう車の外はすっかりと日が暮れている。
 和宏が車を岡山に向けた時間は暗闇に包まれたばかりではあったが、刻一刻と暗くなるはずの闇が、市街に近づくにつれ街の明るさでその闇が妙な白っぽさを目に写す。
 後僅かで和宏の自宅に着く。
 そんな夜空を見上げながら、英典がぽつりと呟いた。
「もうすぐデートは終わりだね?」
 とたんに和宏の心にすうっと冷たい風が吹いたような気がした。
「そっか……そうだね」
 帰りたくない。
 そう心が訴える。
 出不精もここまで……と親に呆れられるほどの和宏がこんなふうに他人と出かけて思えるのは初めてのことだ。
 それほど、英典との今日の遊びが、和宏にとって楽しかったということなのだろう。
 名残惜しげに外の景色を眺めていた和宏だったが、突然隣の席からくつくつと笑い声が聞こえてびくりと振り向いた。
 運転席で、英典が笑っていた。
「なに?」
 半ば茫然と英典を見遣りながら問いかけると、その彼がふいっと和宏から視線を逸らした。
「いや……なんか、今の和宏ってすっごい素直なんだよね。出会ったばかりの固かった表情が解れて、すっごく読みとりやすいんだ」
「それって」
 もしかして……。
 すうっと顔が熱くなる和宏に視線を向けた英典がくすりと笑みを漏らす。
「……帰りたくない……って思ってなかった?」
 どきん
 心臓が一際高く鳴り響いた。
 確かにそう思った。
 楽しい時間が終わりを告げるその時が来て欲しくないと。
 だが、今のこれは?
 英典が言った自分の台詞が、まるで女性の誘い文句のように聞こえたのだ。
 どきどきと高鳴る心臓を持てあましている和宏に反して、英典はいたって冷静に見えた。
「あ、この道でいい?」
「え、あ……そこでいい。その家だから」
 街中とはいえ、まだまだ田圃が広がっている土地。その田圃に囲まれた静かな所に和宏の家はあった。
 家の前の道は私道のようなものだ。近所の人と家族以外の車はほとんど通らない。
「今日は、ありがとう……楽しかったから……」
 高鳴る心臓はまだ治まらなくて、和宏を翻弄する。
 きっと顔は赤くなっているだろうと思うから、暗い今の時間が好都合だと思えた。
「楽しいって言ってくれると連れ回した甲斐があったな。俺も、和宏のいろんな表情がみれて楽しかった」
「え?」
 ドアを開けようとした手がその言葉に完全に止まった。
 ひょ、表情って?
 かあっと顔が熱くなる。
「言ったろ。素直になった和宏って、結構表情豊かなんだよ。さっきだって、まだまだ帰りたくないって思ってたみたいだし……そんなふうに思われると、このデートって成功かなって……すっごい嬉しい」
「あ、あの……」
 伸ばされた手が和宏の腕を掴む。
「しかもそういう時の和宏って無茶苦茶可愛くって……すっごいそそられるんだけど……」
 そそられるって?
 英典の言葉が何を言っているのかわからなくて、ついそのまま深く考え込む。
 そのせいで、英典の動きへの反応が鈍っていた。
 ぐいっと引き寄せられ、きつく抱きしめられる。背に回された手が和宏の後頭部を押さえつけていた。
 塞がれた柔らかな唇に気づいたときには、すでに合わされてから数秒が経っていた。
「うっ……」
 そんなっ!
 こんなシチュエーションがまったく思いつかなかった相手だったから、余計に今の状況を理解するのが遅れた。
 思い出したように抗う手は完全に封じられ、制止しようと言葉を発するために開けられた唇の隙間から、舌が入ってくる。
「うぅ……く……」
 相手は男、なのに……。
 それなのに、巧みに動く舌に上顎を擦られ、ぞくりとした疼きすら感じる。
 ちゅくっと洩れる水音に、耳から犯され、髪の中を蠢く指がざわりとした刺激すら与えてきた。
 何で……。
 自分が感じてしまっていることを自覚して、頭の中が真っ白になった。

 数刻の後、離された和宏の唇はその余韻にしっとりと濡れ、赤く色づいていた。
 その口が無防備に薄く開かれ、荒い息がそこから洩れる。
 その姿が、さらに英典を煽ることすら気づかない和宏は、ぐったりとシートに身を埋め、喘いでいた。
「何で……」
 ようやく発した言葉に、英典が苦笑を零しながら応える。
「言ったろ。そそられたから……なあ、来週もデートしよう。土曜日の10時、迎えに来るからね」
 発した問いに対する答えは、信じられないものだった。
 しかもデート。
 こんな事をされて、その意味が『二人でどこかに遊びに行こう』という単純なものとはとても思えない。
「僕は男だからっ!」
「知ってるよ。でも、そんなこと別にして、俺は和宏とまた出かけたい。なあ、和宏は、俺と出かけるの嫌か?」
 そんなはずはなかった。
 楽しかった想い出。
 だが……。
「だからさ、また逢おう」
「……」
 和宏は首を振った。
 楽しいかもしれない。
 だが、今みたいな行為をされることは堪えられない。
「もう……いいよ」
 がちゃりと音をさして、車のドアを開ける。
 田圃の間を走る風が思いの外ヒンヤリとしていて、火照っていた体に心地よかった。
 あんな事をされたというのに、不快ではない今の感情が和宏には信じられなかった。
 逢わないと言っておいて、それが残念だと思う心もある。
 しばらく佇んで考え込んでしまった和宏に、英典は戸惑いを許さないとばかりに声をかけてきた。
「和宏……土曜日来るからね、忘れないでよ」
「僕は……」
 はっと顔を上げて、窓越しの英典を見つめる。
 彼はうっすらと微笑んでいた。
 とたんにうっと言葉に詰まる。
 自分が何を答えようとしているのか……。
 断わらなければ。
 その思いが一気にふくれあがる。
 だが、口を開く前に、英典は車を出してしまった。
 まるで、否定する言葉は聞きたくない、というように。
 茫然と突っ立つ和宏をそこに残したまま。
6
 打ち合わせ室で再び相対した英典は、先日とは全く別人のようだった。
 にこりともしない表情は、和宏が持ってきた資料を食い入るように見ている。
 胸が痛いくらいの緊張。
 窺うように英典を見ていた和宏は、それなのに声をかけられた事に気づくのが遅れた。
「すみませんが、ここの……」
 話しかけた英典は、和宏が気づいていないことが判ったのだろう。
 ふっと言葉を切る。
 非難の色がその瞳に宿った頃、和宏はようやく我に返った。
「あ、すみません……どこですか?」
 慌てて、彼が指さすところを覗き込む。
「ここ、この予定の立て方」
 イライラとスケジュール表の一点を指で叩く、その様子に焦る心が余計に和宏を慌てさせる。
「あ、そこはですね……えっと……このフロー表で……。あれっ……違う?」
 ぱらぱらと何枚もの資料をめくるが目的の物が見つからない。
「すみません……あの……えっと」
 焦れば焦るほどさっき見かけたはずの資料が見つからない。
「いいよ、もう……そのファイル貸してください」
 きつい口調に、びくりと体が強ばる。
 動きの止まってしまった和宏の手からひったくるように英典がファイルを奪い取った。それをぱらぱらと一度めくるだけで、目的のものを見つけだしたらしい。
「なんだ、ここにあるじゃないですか」
 ムッとした口調で指し示された所を見れば、確かにその資料だった。
「あ、はい……すみません」
 だが、自分が持ってきた資料、自分が説明しなければならない項目を全て相手に先手を取られてしまうという事は、いたたまれない恥ずかしさを和宏に与えていた。
 しかもいったんそれに支配された頭は、飽和状態になって次に何を言えばいいのか判らない。
 真っ赤になっておたおたしている和宏に、英典がはあっとこれ見よがしなため息をついた。それが余計に和宏の羞恥を煽る。
 僕は……何で……。
 いつもこうだ。
 やろうと……しっかりとやろうっていつも思うのに……なのに、どうしてこうなるんだ……。
 ぎりり
 口の中できしむ音がする。
 いつの間にか、強く歯を食いしばっていた。
 英典はそれに気づいた様子もなく、自分で資料をめくって調べ物をしている。
 何故、こんな僕を研修担当に指名したのだろう。
 こんな……何の役にも立っていない僕を……。
「それじゃ、このスケジュールで研修しますから」
 結局、和宏が立てるべき研修計画を英典は自分で立ててしまった。その手際の良さは彼が一目置かれている、という事を彷彿とさせる。
「あ、はい……」
 それに比べて……。
 たった2時間足らずの打ち合わせ。
 その間に和宏は自分がいかに何もできないかを思い知らされたような気がした。
 今までだってあった劣等感が、英典の仕事ぶりを見てひどくなったのだ。
 洩れそうになるため息を、必死の思いで止める。
 だが受け取ったスケジュールをざっと見て、びくりと体を震わせた。
 これって……。
 ほとんど四六時中、英典が和宏にひっついていることになる。
「あ、あの……僕にばっかり付いていることになっているんですけど……これだと」
 和宏は、設計技術の中でもそうたいした仕事をしていない。
 そんな和宏とともに行動したからといって、それが英典の役に立つとはとうてい思えなかった。
「何です?」
 何か不満はあるのか?
 その目がそういっているようで、思わず口ごもる。
「あのですね。言いたいことがあったらはっきり言ってもらえませんか?そんなふうだと、俺も嫌だし」
 不快そうに言われても、それが余計に和宏を縛ってしまう。
「あ、はい……」
 結局、俯いてしまった和宏に再度浴びせられたため息は、逃れる事もできない地獄のように和宏を落ち込ませた。
 それを見て取った英典が、その眉間のシワをさらに深くしたことにも気づかないほど。

 研修は、どう見ても英典の役に立っているようには見えなかった。
 一週間、ずっと一緒にいて切にそう思う。
 いや、研修が、ではない。
 和宏が、だ。
 質問されても答えられない。反対に和宏が英典に教えて貰うことの方が多かった。
 今だって、設計が作った図面の細かい見方が違っていると指摘されて、ショックを受けていたところだ。
 1年以上……もうすぐ2年。
 常に見てきた図面の読みとり方が違うというのは、今までやってきた事が全て否定されていたような物だった。
 だが、指摘されれば、そうだったのかと改めて気づく。
 いつもしていた失敗の原因がそこに合ったのだと……。
 だが、それを英典から指摘されたことがひどくショックだった。
 確かに彼は、もうずっと製造にいて、見慣れていたのだろうけど。
 今まで、上木やいろいろな人に説明されていたはずのそれにずっと気付かなかったのに、よりによって英典に知らしめさせられた。その事実。
 近藤主任が初日に言っていた言葉が、今かろうじて理解できた。
 結局、最初にできないというレッテルを貼られてしまった和宏はずっと雑務しかしてこなかったから、仕事の仕方そのものがきちんと理解できていなかったのだ。教えられて、やっている内に覚えているはずの事柄を、何も理解していなかったから。
 それを教えて貰えと。
 実務畑だけで仕事をしてきた英典からそれを奪え、と、そう言われたのだと。
 近藤主任にしてみれば、それが和宏のためになるからだと言うことを言いたかったのだろう。だが、和宏にはその相手が英典であるということがひどく屈辱を覚えていた。
 こんなにも情けない自分を知られたくなかったのに。
 彼にミスを指摘されるたびに、目の奥が熱くなる。
 だからといってそこで泣くことなんてできないから、それを腹の中にため込んで。
 顔を上げられない。
 英典を見ることができない。
 かろうじて保つ表情がどんどんと感情を無くす。
 笑うことも、悲しむことも、怒ることも……何もかも感じることができなくなる。
 もう、彼の嘲るような言葉を聞きたくないのに……。

 
「英典さんっ!トラブルなんですっ」
「何だって?」
 打ち合わせ室を使って品質保証部との関わりを説明していた最中だった。
 ノックもそこそこに扉が開いた。
 寸前に廊下に設けられた窓の曇りガラスに慌てたふうの人影が通ったのだけは見えていたから、何事かと構えていた和宏達の驚きはそうたいしたものではなかったが。
 だが、飛び込んできた女の子が叫んだ言葉に、英典が大きく反応した。
 立ち上がり、彼女の手渡す紙を受け取って覗き込む。
 英典と女の子の双方の真剣な瞳は、他からの干渉を許さないほどの真剣みを帯びていて、和宏はただ二人の様子を見つめることしかできなかった。
 漏れ聞こえる二人の会話の時折判る単語から、射出成形中の製品に不良品が多発しているということは判った。
 その不良率が二十パーセントを越えているという。
 それは和宏でも判る異常な不良率だ。設計段階で考慮に入れる不良率は一パーセントなのだから。
 二人が覗き込んでいる紙はそのデータが記されているのだろう。互いに指さしながら、細かいところまでチェックしていく。
 いい……雰囲気だな。
 唐突に和宏はそんなことを思い、そしてそんなことを思った自分に気付いて二人から目を逸らした。
 彼らは仕事をしているだけだ。今は仕事中なのだから。
 彼は製造の班長だし、トラブれば研修中だろうと呼び出される。そんなことは判りきっているというのに。
『英典さん』
 彼女はそう呼んだ。
 そう思った途端に、胸がきりりと小さく痛む。
 あまり他の部署の人を知らない和宏でも、彼女は知っていた。
 快活でてきぱきと仕事をこなす、美人と言うよりは可愛い感じの女の子で、和宏のいる部署でも人気があるからだ。
 この二人が並んでいると、ひどくお似合いだ。
「じゃ、これで駄目なら電話で教えて」
「はい、判りましたっ」
 元気な声が狭い室内に響く。
 それが耳障りだと、机の下で拳を握り込む。
 あっ……何で、こんな……。
 自分の取った反応に驚く自分がいて、和宏は思わず握った手を開いて見つめていた。
 自分はいったい何を考えたのか?
 狼狽えるばかりで結論などでない疑問が頭の中を駆けめぐる。
 カタッと椅子をひく音がして顔を上げると、英典が元のように机についていた。だが、トラブルが気になるのか、手に持った紙を何度も見つめている。
 その眉間に刻まれたシワはさっきから酷くなるばかりだ。
 だが、自分に向けられたものではないその難しい表情に、和宏はいつしか魅入ってしまっていることにも気付いていなかった。
7
 
 電話が鳴って、迷うことなく英典が出た。内容が判っているだけにその眉間のシワもそのままで、最初の言葉も簡潔に終わらすとすぐに用件が始まる。
 和宏はただぼんやりとその姿を見つめるだけだ。
 一言二言返して、乱暴に電話を切った英典が手招きするのが見えた和宏は、慌てて席を立って近づく。
 と、英典がぐいっと和宏の腕を掴んで引っ張った。
「え?」
「トラブル直らないんだっ。ついてきてっ!」
「え?」
 何が起きたか判らぬままに引っ張っていかれる。
 なぜ、製造のトラブルに自分が引っ張っていかれるのかが判らない。
 手首を掴まれてぐいぐいと引っ張られる様に、はたとこれがひどく恥ずかしいのではないかと気がついた。
 気づいてしまうとすれ違う人の視線が痛い。
「井波さんっ、手を離してくださいっ!」
 力を込めて足を踏ん張り、引っ張ろうとする英典から無理矢理手をもぎ取った。
「何?急いでいるんだけど?」
 むすっと足を止めて、振り返る英典に和宏は文句を言いかけた口を閉じた。
「急ぐんだから……言いたいことがあるんだったら、さっさと言ってよね」
 英典のイラつきは最高潮のようで、和宏は「ごめん」と小さく口の中で呟くことしかできなかった。
 そんな和宏を一瞥した英典は、いらついた神経を落ち着かせるように息を吐き出す。
「ほんと……八木さんって……」
 何かを言いかけ、ふっと口を噤む。
 だが、何が言いたいのか和宏には判ってしまった。
 完全に呆れられているのだ。
 ずきんと胸に激しい痛みが走る。それに加えて、きりきりと胃まで引き絞られるような痛みがあった。
「ほら、行くよ」
 つっけんどんな物言いで踵を返す英典は、もう和宏を見ていない。
 離れていく背中を見ても、和宏は動くことができなかった。
 十メートルばかり離れて、ようやく英典が気付くまで。
「……八木さん?」
 足を止めた英典が訝しげに眉根を寄せる。その口調がきつい。
 違う……。
 彼を困らせることはしたくなかった。忙しいのだと知っている。役に立たない自分よりはるかに。
 だが。
 もう……。
「先に行ってください。急ぐんでしょう?」
 かろうじて小さな笑みを浮かべることのできた口元は、次の瞬間には堪えきれずに歪んでしまう。
 もう……嫌だ。
 ここまであからさまに自分との差を見せつけられて。
 彼ができることがこんなにも悔しい。こんな追いつけない実力の差を見せつけられることはもう嫌だ。
 だいたい、自分がついていく必要もないことなのに……。
 どうして、こんな……彼に振り回さなければならないのだろう。
「いいから、来いよっ!」
 どうしてっ!
 それでも和宏を引っ張ろうとする英典に、混乱した頭の奥でプチッと小さな音がした。
「行ってくださいってっ!」
 初めて……叫んでいた。
 誰もいない通路。
 相手があの英典だから……だからかもしれない。先日逢ったあの英典、だったら……。
「僕なんか、行ったって何の役にも立たないのにっ!製造のことなんか何も判らないし、邪魔になるだけだから、さっさと行けよ」
 言ってしまっていた。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、ひどく自虐的になっている自分がいた。
 もう嫌だ……。
 こんなにも思い知らされるなんて……。
 同じ設計の先輩達に指摘されるより、英典に指摘されることが何倍も堪える。
 それが堪えられない。
 あまりの惨めさに、和宏の喉の奥で嗚咽が漏れた。
 だが、それはさすがに恥ずかしいと感じて、必死で堪える。
 だが、高ぶった感情は早々に治まるものではなかった。
 そんな和宏を、じっと見つめていた英典がふっと首を振った。
 それは微かだったけれど、和宏は呆然とそれを見つめる。
「……役に立つか立たないかなんて……行ってみなければ判らないのに、なんでそんなことを行く前に判断するんだ?」
 判らない、と彼は言う。
 だがその言葉の半分も理解できない。
 自分のことは自分が一番よく判る。
 だから、行っても無駄だと言っているのに……。
「行ってくれよ、もう……急ぐんだろ……」
 身じろぎもせずに呟く先で、つかつかと英典が歩み寄ってきた。
 ぐいっと力強く腕を掴まれる。それが痛い。
 和宏は、掴んでいる手を見つめた。背は和宏の方が高いのに、手は英典の方が大きく見える。
 モノを作る手。
 自分とは違う。
「いいから、来いよっ!」
 引っ張られ、その力強さに体が揺らぐ。
「強引なんだ……。考えてみればそうだよな。あの時も強引だった。僕が呆気にとられている内に段取りを決めて……。再会したとき、別人だと思えたけど……そうしてみるとやっぱりあの時と一緒だ。強引で……。明日の約束も……勝手に決めて……英典を見ていると……」
 高ぶった感情が、仕事中だからと押さえていた事まで口にさせていた。
「!」
 とたんに英典が大きく目を見開いた。
 和宏自身も今ここで口走ることではないと気がついて、慌てて手で口を覆う。
「やっと……呼んでくれたんだ……」
 だが、狼狽える和宏に対して、英典はその口元を綻ばせていた。
「え?」
「ずっと待っていたんだ、名前で呼んでくれるの。親しい相手とは名前で呼ばれたいって言っていただろ。あれ、会社だから別って訳じゃなかったんだけどね」
 ほっとしたような安堵の表情が英典の顔に浮かぶ。
 名前って……。
 だって……再会した時、冷たかったのは英典の方だ。
 だから、和宏は英典に馴染むことができなかったのだというのに。
「店で逢ったとき、同じ会社なのに知らなかったって言うの、本音を言うと結構堪えた。だから月曜日の顔合わせの時、こっちも知らない振りをしてみたけれど……、そしたら初めて合ったみたいに対処されちゃって、こっちも意固地になっちまった。もう仕事のことだけを頭に接していたから……ずいぶんと冷たい態度になってしまって……」
 じゃあ……あれはわざとなのか?
 あの冷たい口調も……全部?
「だから……せめて何かの拍子にでも名前で呼んでくれたら、こっちも態度崩そうとしたのに、そっちも全然態度が崩れないし……いい加減参っていたんだ。こんなこと始めた自分に嫌気がしてきたところ」
 あんなに冷たい態度……。
 ずっと味わった屈辱感は本物だ。彼の指摘事項は全て事実だった。
 仕事に関して言えば、あれが彼の実力で、狼狽えて何もできなかった……何も知らなかったのが自分の実力。
 この差は、紛れもない事実。
「俺、強引なのは判っている。だから、それを指摘されても気にしない」
 だけど、何度もつかれたため息は、あれは本当のことだろう。
 この、泣きたくなるような惨めさを味合わせたのは……英典なのだ。
「ああ、しまった。こんな事をしている場合じゃない。早く行かないと」
 製造のトラブルを思い出したのだろう。
 研修に出ていても、何かあれば呼び出されるほど頼りにされている英典。
 英典が慌てて踵を返しながら、和宏に手を差し出した。
 それに首を振る。
「和宏?」
「一人で行ってくれ。僕は行かない」
 じりっと後ずさる和宏に、英典は訝しげに眉根を寄せる。
「僕は……もう駄目だよ……。こんなにも自分は何もできないのに研修の担当者なんて、無理だから……だから……担当は代わって貰う」
「ちょ、ちょっと待ってよっ!」
 制止する言葉が耳に入ったが、もうそれに応える気はなかった。
 踵を返して駆けだした和宏は、とにかく誰にも見つからない場所を探していた。
 もう……嫌だ。
 そうしないと人前でも泣き出しそうなくらいに、胸が痛かった。
8

 英典を振りきった和宏は、内線電話で近藤主任に体調不良を理由にした早退を連絡した。
 嘘ではない。
 心の痛みのせいか、内臓がきしむように痛む。
 こみ上げる吐き気は堪えられないほどではなかったが、それでも仕事をする気は毛頭なかった。
「気をつけて帰れよ」
「すみません」
 主任の言葉に、小さな声で答える。
 駐車場を歩きながらふと背後の工場を見上げた。
 考えみれば、仕事が楽しいと思ったことはなかった。
 それでも……入ったはじめの頃は一生懸命仕事をこなそうとしていたはずだ。
 なのに……今の体たらくと言ったら……。
 疲れていた。
 たった一週間。
 英典の相手をすることが、和宏をひどく疲れさせていた。
 早退した和宏を、両親が心配そうに様子を見に来るのを追い出して、夕食も取らずにベッドに潜り込んでいた。
 横になっていれば、痛みも和らぐ。
 疲れた体もささくれだった心も、なんとか落ち着いてくれる。
 だが……。
「ごめん……」
 知らずうちに謝罪の言葉が口をつく。
 あんな言い方をするつもりはなかった。和宏が惨めな気持ちになるのは別に英典のせいではない。
 判っていた。
 なのに、まるで彼を責めるようにな事を言ってしまった。落ち着けば、何もかも自分の責任だと判るのに。あの時は、自分が堪えられなかった。
 彼がため息をつくと、胸が抉られるような痛みを覚えるのは何故だ?
 冷たい視線が蔑まされていると感じて、堪らなく嫌だと感じるのは何故だ?
 彼のきつい口調を聞く度に、耳を塞ぎたくなるのは何故だ?
 そして……そのたびに、土曜日の朗らかな笑みを見せる英典を思い出してしまうのは……何故……。
 そのギャップにひどく衝撃を受けるのは何故?
 何故?
 積み重ねられた疑問。
 その答えは……さすがに和宏にもわかっていた。
「ごめん……」
 呟くと、緩くなった涙腺から涙が滴り落ちる。
 物怖じしない明るさと仕事への態度、そしてそれを自分のモノとして確立している英典は、和宏にとって何もかもが理想だった。
 憧れが、気がつけばそういった情になるのはよくあることだろうか?
 だが、たった一日でそういうことになってしまったその感情が、何かに惑わされているせいだとは思いたくない。そこまで自分を誤魔化したくはなかった。
 あのキスが不快でなかった理由も、最中に感じてしまった事実も、否定することはできない。
 あの屈託のない笑顔に……惹かれてしまったのだ。
 だからこそ、仕事中の彼の態度に堪えきれなかった。
 せめて……逢っていなければ、もう少し違う研修でいられたかもしれない。
 だが、実際に英典と出会ってともに過ごした事実は消しようがない。
 和宏は、英典が好きになっていた。
 そうなった以上……なけなしのプライドが情けない自分をさらけ出すことを否定する。嫌だと、必要以上に対応しようとしてみせる。だが……それは無理な事だ。
 意識的にも無意識的にも無理を重ね続けて、それでもうまくいかなかったから、今その限界がきたのだ。
 心と体が悲鳴を上げている。
 たかが一週間も持たなかった。
 それに、恋愛にも奥手な和宏は、今までまともに人を好きだと思ったことはない。
 だが、それでも和宏は、自分の今の思いがそうなのだと判る。彼に嫌われることを何よりも恐れている自分。呆れられることを恐れている自分。
 二つの事柄に翻弄されて、今の和宏がうまく対処できるはずもなかった。
 だから……自分は逃げ出したのだ。
 英典の目前から。

 

 さっきから玄関のチャイムが鳴り響いていた。
 その音が頭に響いて、喉から微かな唸り声が漏れる。
 一向に鳴りやまないところを見ると、両親はとっくに出かけているのだろう。
 和宏は仕方なく重い体をベッドから起こした。
「っ!」
 立ち上がった途端、酷い立ちくらみに襲われた。それをなんとかやり過ごしても二日酔いにも似た頭痛がする。目の奥も痛い。
 どこか気怠げな体にふらつきながら、重い足取りで階段を降りた。
 甲高い音が屋内に鳴り響いていた。狭い場所で響くそれは、妙な反響を起こして頭痛に干渉する。
 苛つきを加えた不快な感情が胸の奥にせり上がってくるのを何とか堪えながら、和宏は早くチャイムを止めさせようと、玄関に向かう足を早めた。
「はい?」
 鍵を開け、無造作に開く。
 かちゃりとした音に片手を額に押しつけて頭痛に堪えながら、顔を上げた。
 と。
「おはよう、和宏」
「え……」
 にこやかな笑みを浮かべた英典がそこにいた。
 とたんに時計を見上げれば、十時を少し過ぎたところ。その数字に約束を思い出す。
 ……昨日あんな事を言ったのに……どうして彼はここにいて、そして笑っているんだ?
 戸惑いが和宏を襲って、呆然と立ちつくす。
「あれ……着替えていないんだ。まだ調子悪い?」
 笑みが、心配そうに歪んでいく。
「ちょっと頭痛が……それより……何で……?」
 ドアノブを握ったまま硬直している和宏の手を、英典がそっと掴んだ。
「約束したろ。デートするって」
 とたんにその手からかあっと熱が広がった。
 一緒にあがったに違いない血圧と早くなった血流が、頭痛を激しくして目眩すら起こさせる。
「あ……でも……」
 自身の変化に狼狽えて引っ込めようとした手は、ぎゅっと握られていて振りほどくこともできなかった。
「でも、頭痛がするんだったら、休んだ方がいいか……やっぱ、それって俺のせい?」
「ちがう……」
 ふるふると首を振る。
 寝不足も体調不良も、何もかも自分のせいだ。
 英典のせいではない。彼が普通なんだ。
「でも……どうしようか……」
 ちらりと英典が和宏の服を見遣る。
 その視線に寝起きのパジャマ姿だったことを思い出して、今度こそ顔まで熱くなった。
 こんな姿で玄関先で問答をしているのも変だと気づく。
「ご、ごめん……着替えてくる」
 その言葉にようやく、英典の手が解け、これ幸いとぱたぱたと階段を駆け上がる。
 部屋に入ると、壁に背をつけて大きく深呼吸した。
 心臓がドキドキと高鳴っている。
 そのせいで頭痛が前より酷くなったようだった。
 こめかみを押さえ、何度も深呼吸する。
 息苦しい。
 昨日、あんな事言ったのに……。
 戸惑いがひどい。だが、それ以上に和宏の心を占めているのが、嬉しさだった。
 来てくれて嬉しい……と。
 胸の上でぎゅっと拳を握って押し当てた。
 とにかく心臓の鼓動を落ち着かせたかった。
 が。
「大丈夫?」
 突然背後から声がした。
「な、何でっ!」
 慌てて振り向けば、部屋のドアの所に英典が心配そうに立っている。
 自分のことだけで精一杯の和宏には、近づく英典に気付かなかった。
「ごめん……なんか酷そうだったから後ついてきた。ほんと……苦しそうだ。寝ていたら?」
 近寄られ顔を覗き込まれる。
 至近距離にある英典の顔が、先週の別れのキスシーンを彷彿させ、和宏の顔がぼんと火が噴きそうなくらいに真っ赤に染まった。
 青白かった顔がいきなり赤くなったのだ。それに英典が気づかないはずがなかった。
「和宏?」
 ぐっと腕を掴まれる。
 改めて英典の思いを自覚したばかりの和宏にとって、そのせいで心臓が破れそうになるほどの勢いで鳴り響く。
「ご、めん……僕、今日は……調子悪いから……」
 気付かれているとは思ったけれど、だからといってぼおっとすることなんてできなくて、掴まれた腕のままぐっと英典を押しのける。
「寝ていたい……だから帰ってくれ」
 俯き固く目を瞑る。
 早く帰ってくれ……。
 気づかれたくない。
 男に恋してしまった自分の気持ちなんか。
 憧れて勝手に理想にして、だけどそんな自分との差に勝手に怒って……。
 こんな感情なんか……。
 自分でも収拾がつかない感情が頭の中を駆けめぐる。
 なのに。
 気がついたら、俯いた和宏に下からすくい上げるように英典が口づけていた。
 柔らかな感触は、前の時と同じ。その瞬間、全身に走った悦びも、そして快感もだ。
「っ!」
 慌てて押しのけた先で、英典がくすりと喉の奥で笑う。
「そんな顔されたら、堪んないよ」
「そんな顔って!」
「ほら、真っ赤」
 英典の指が頬に触れた。
 その手の方が冷たい。
 何より、鏡を見なくても顔の熱さが自覚させてくれる。
 とにかく、熱い。
 それを指摘されれば、余計にこの熱さは増すというものだ。
「な、俺のこと、好きだろ?」
 英典が確信を持って問いかけるのに、和宏は応えることなどできない。
 それどころか、さらに真っ赤になるほどに全身が熱を持つ。
 頭痛と熱と、そして混乱。
 英典が言っていることが判らない。
 知っている単語なのに、頭が理解しようとしない。
 何で?
 何が?
 これは……いったい?
「和宏?」
 硬直して身動きもとれずにいた和宏の体が小刻みに震えているのに気付いた英典が訝しげに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
 ばくばくと跳ねる心臓。
 ぐるぐると結論づけることなどできない思考。
 そして。
「……うっ……どいてっ」
「和宏っ!」
 和宏が渾身の力を込めて、英典の手を振り払った。
 半ば壁に押しつけられた英典の前を和宏は階下のトイレへと駆けだすしかなかった。
 気持ち悪いっ!
 込み上げる吐き気と頭痛。どちらが先にきたものか。
 ただ苦しくて、何度もえづく。
 胃も頭も心も胸も……何もかもが苦しくて……何も……判らなくて……。
「うっ……くっ……」
 ぼろぼろと大粒の涙が頬を流れる。
 堪えようと、どうしようもないから我慢しようとしていたものが堰を切ったように溢れだして止まらない。
「……和宏」
 トイレの外から声が聞こえた。
 その拍子にずきりと後頭部が激しい痛みを訴えた。それが吐き気を誘発する。
「帰ってくれ……」
 数度えづいてそれをやり過ごした和宏は、無意識のうちに呟いていた。
「大丈夫か?」
 ドンドンと叩かれるドアの音が鬱陶しくて、煩い。
 もう嫌だ。
 何もかも……。
 英典に恋してしまった自分。仕事のできない自分。こんなことで参っている自分。
 何も一人で処理できないといわれているようで。
 情けなくて、たまらなく惨めだと自身を責め苛む。
 だからこそ、こんな姿を誰にも。何よりも英典に見られたくない。
「帰れっ!」
 叩かれるドアの音に負けじと声を振り絞る。
「帰ってくれっ、大丈夫、だから……」
「でも……」
 心配してくれる声は判る。だけど、駄目なんだ。
 英典だから。
 見せたくない。
「頼む……」
 そんな言葉がドアの外に漏れ……そして。
「判った……」
 その言葉に心底ほっとする。
 ずぎすきと痛む頭が、それだけで落ち着いたような気がした。
「ゆっくり休んでて」
 それでも心配そうな声が漏れ聞こえ、それに返す言葉を失っていた和宏の耳に足音が遠ざかるのが聞こえた。
 帰ってしまう。
 途端に、襲ってくる激しい寂寥感にぶるっと体が震える。
 寒い、と自らの体を抱き締めて奪われそうな熱を堪えようとする。なのに、寒い。
 とにかく寒くて、温もりが欲しくて。
「英典……」
 ぽつりと……口をついて出ていた。
 

9
 人の気配がなくなったと気付いた途端に吐き気が収まった。だが、こんどは全身が猛烈に怠い。
 和宏は、壁に手をついて立ち上がると、ドアの鍵を開けた。
 外にはやはり誰もいない。
 帰れ、と、自分で言ったにもかかわらず、そこにいないのを知ってしまうと、和宏はがくりと肩を落とした。先ほどからずっと心を占めている寂寥感を思い出して、ぶるりと全身を震わせた。
 いや、それだけではなかった。
 比喩ではなく、寒い。
 廊下にはじっとりとした熱気がこもっている。なのに、寒い。
 全身に吹き出した冷や汗が体温を奪い、肌が総毛立っていた。
 思わず両腕を掴んで、ぎりっと体を掻き抱く。
 ひどい寒気に、和宏はのろのろと自室へと戻っていった。
 夏用の薄い肌布団だけでは寒い。
 しかし、だからと言ってベッドに倒れ込んでしまうともう起きあがることなどできなかった。これ以上熱を奪われないように、胎児のように体をまるめる。
 寒い……。
 外からも中からも、何もかもが和宏を冷たく冷やそうとする。
 震える唇が言葉を吐き出そうとし、だがその寸前できゅっと噛みしめられた。
 彼は……もういないのだから……。
 固く瞑った目尻から、滴が溢れる。
 この全身を襲う怠さと寒気には覚えがあった。
 嘔吐を患うとその反動で起きる熱だ。熱の上がり際に起きる状態だと和宏はぼんやりと思っていた。
 体がひどく怠く、動くのも億劫なほど。今度吐き気を催したら、這ってでないとトイレまでいけないかもしれない。そこまで体が怠くなっているというのに、全身が別のものに変化したようにざわざわと疼いて、じっとしていられない。そのために楽な姿勢を取ろうと身動ぐのだが、結局はたいした動きはできなくて同じ姿勢で蹲る。
 眠りたい。
 眠ってこの怠さと寒気から一時でも解放されたい。
 そう思うのに、眠ることができない。
 寒いな……。
 しかも、眠りの邪魔をするように、薄い布団では寒いと体が訴える。熱に浮かされてどこか混濁した意識が、それでも家には誰もいないことだけを知らしめる。
 もう、眠くて……怠くて……寒い……。
 和宏の体の動きがそれでも小さくなっていった。
 所在なげに居場所を探そうとしている手足が、ようやくあるべき場所を見つけたとでもいうように落ち着きを取り戻した頃。
 ……英典……。
 眠りに入る寸前、和宏の瞼の裏に浮かんだのは、赤穂御崎で海をバックに笑っている英典の姿だった。
 

 苦しい……。
 和宏は藻掻くように手を動かした。
 ねっとりとした粘り気を持った液体が全身にまとわりついている。その中をどうにかして前に行こうとするのだが、一歩歩く事にまとわりつくそれは、とても重くて足枷のように拘束する。
 しかも、思うように息ができない。
 和宏は口を開け舌を突き出すようにして新鮮な空気を吸い込もうとするのだが、入ってくるのは僅かな空気ばかりだ。しかも……酸素が足りないのか。
 頭の奥がずぎすきと鈍い痛みを訴えながら、酸素を欲している。
 判っている。
 体の他の部分も酸素が足りないと言っているのだから。
 だが、いくら頑張ってもままならない呼吸。
「あぁ……」
 こんなものがあるから……。
 全身に絡まる液体が邪魔で邪魔でしょうがない。なのに、手足をじたばたさせるくらいでは、それはなくならない。
 どうしたら……。
 どうしたら行けるのだろう?
 和宏の心に焦燥感が生まれ、先に行きたい欲求に責め苛まれる。
 行きたい……。
 その欲求だけが心を支配する。
『和宏?』
 誰かが声をかけてきた。
 周りには誰もいないのに、と首をきょろきょろと動かす。
 和宏が身動きをするたびに、液体もねっとりと一緒に動く。
 淡い虹色のような奇妙に入り交じった色合いの液体がところどころ光っていた。それは和宏が動くたびにどんどんと光っていく。
 そのせいでよけいに視界が悪くなって先が見えない。
『……和宏……』
 声が聞こえるほうに行きたい。
 動かない手足を無理に動かすとよけいに酸素が足りなくて、開けきった口から必死で空気を取り込む。そのせいで、口の中がどんどんと粘ついていく。渇いてしまった口の中に残った唾液が苦みを訴える。
 喉が……。
 声を出そうにも、出ない。
 だいたい吐き出すほどの空気もない。
 必死で動くから暑くて汗が出て。
 足りない。
 何もかもが……。
 足りない。
「……あ……」
 掠れた声が喉の奥から漏れて……。
 その拍子にびくりと全身が震えた。

「……あ……?」
 吐息と変わらない音が口から漏れた。
「和宏……目が覚めた?」
「……英典?」
 ぼんやりと膜がかかったような視界の中に、見知った顔を見つけて反射的に言葉を返していた。
 それから、何で彼がここにいるんだろう……と、今ひとつはっきりしない頭が考える。だけどその答えが出る前に英典が心底ホッとしたように小さく笑った。
 その笑みにどきりと心臓が高鳴る。
 僅かに目を見開き、目前の英典をマジマジと見つめると、英典もそんな和宏の瞳をじっと見つめ返していた。
「落ち着いているみたいだね」
 ほっとしている英典の顔から笑顔が消えない。
「良かった」
「……英典……」
 笑みを浮かべる彼はデートだと連れ回された時の英典そのものだと、和宏はぼんやりと考えていた。
 ああ……ここにいるのは……あの英典なんだ。
 楽しい一時を過ごした……あの英典……。
「……ずいぶんうなされていたよ」
 その時のことを思い出したのか、英典の笑顔が曇っていく。
 嫌だな……。
 途端にそんなことを思った。
 それどころか、眉間にシワを寄せて考えこむ様を見た途端、きりきりと胃のあたりに痛みが走る。
 見たいのはあの英典であって……そんな顔をしたら、会社で見る井波という男のようになってしまう。
 どちらも同一の人物なのに、今の和宏にとってそれは全くの別人だとしか思えなかった。
 だからこそ、二人が同一だと今は思いたくない。
 悪いのは自分なのだ、彼にそんな顔をさせるのは。本来の英典は、今のような明るい笑顔を見せてくれる人の筈なのに、和宏に関わるとこんな苛立ちを内包した表情をさせてしまう。
「ごめん……」
 和宏は申し訳なくて、唇を噛みしめた。
「やっぱり心配だったから……戻ってきて良かった」
 そんな和宏の内心の葛藤などに気付かない英典の人懐っこい笑みは変わらない。
 安堵の表情が、和宏を和ませる。
 ここにいるのはあの英典だから……。
 それだけしか考えていたくない。
 どこか集中できない思考が、それ以上考えることを拒否していた。寝る前よりマシにはなった体の怠さ。だが、いざ手足を動かそうとすると力が入らない。
 異様に重いと感じている布団すら動かすことが大変で、和宏は起きようとするのを諦めた。
 まだ……熱が高いのか?
 コントロールできない体が鬱陶しい。
「きたら、ぶるぶると震えているんだもんな。こんなに暑いのにひどく寒そうで。それでもっと布団をかけて……」
「ごめん……」
 では英典が布団をかけてくれたのだ。
 寒さが和らいだのも、熱が落ち着いたのも英典のお陰だろう。でなかったら、体を温めることもできなくて、さらに悪化していたかもしれない。
「……なあ、起きる少し前って随分うなされていたよ?大丈夫だった?」。
「うなされて?」
「ああ、熱、結構高そうだったんでさ、ヤバいかなと思って熱を測ろうと思ったんだけど、人んちの体温計なんてどこにあるか判らなくて」
 ……熱?
 って、ああ……。
 額に何か乗せられている感触に手を伸ばす。
 触れた柔らかな布地はしっとりと濡れていて、たっぷりと含まされた水はまだまだ冷たかった。換えたばかりだと判るほどにそれは十分冷たくて、存在に気付けばひどく心地よいものだ。
 それにふと気付くと押入に入っていたはずの分厚い布団が幾重にも和宏の上にある。
 それこそ、手足を動かすのも一苦労なほどだ。
 重苦しさはこのせいだったんだ、と思わず苦笑が漏れる。だがこの重みすらも心地よくて、今は除けてくれとは言い出せなかった。
「何か欲しいものある?とりあえず、スポーツ飲料と熱冷まし兼頭痛薬……って、何か食べないと駄目かな?とりあえず、飲み物だけ飲む?あっ、吐き気は収まった?」
 落ち着かない英典からの矢継ぎ早の質問に応えることなく和宏はぼおっと英典を見つめていた。
 どうしてこんな自分に英典は世話を焼いてくれるのだろう。
 自分が仕事ができないことを英典のせいにして、ひどいことを言ったような気がするのに。心配して様子を見ていた彼を追い出すようにしてしまったというのに。
 寝起きのぼけていた頭が少しずつ、自分がしたことを思い出してくる。
 心配してくれたのに、礼を言うどころか……。
 笑顔の筈の英典の眉間に小さなシワが寄っているのに気がついた。
 それは不快なものではなかった。
 同時に視線に縛られていたからだ。まだ熱の高い和宏の一挙手一投足を逃さないとばかりに、その視線が外れることはない。途端に、どきどきと心臓のリズムが早くなって、息苦しさを覚える。
 それでなくても熱で体温が高い体だというのに、まだ熱が上がる余地があるというのだろうか?
 熱い……。
 見つめられているところが、火傷しそうなほどだ。
 どうにかなりそうだ……。
 はふっと熱い吐息を吐き出す。
 上がりきった熱が脳までも犯したというのだろうか?
 和宏は今が止まってしまえと、自分が念じていることに気がついた。
 こんなふうに、いつまでも彼にじっと見つめていてもらいたい。
 こんなことで幸せだと……。今のこの時間の中に留まっていたいと……。
 苦しさの中にある悦びが和宏を支配していた。
10

 和宏の視線に気付いて、英典が照れたように小さな笑みを浮かべる。
 それに気付いて、和宏もその場を紛らすかのようにぽつりと問いかけた。
「……帰ったのかと……思ってた……」
 あの時、確かに人の気配はなくなったと思ったのに。
「ん?ああ、なんかさ、和宏が辛そうだったから……。俺のせいだもんな、そんな風に辛い思いさせてんの。それは、判っていたからさ」
 ベッドサイドで、和宏の顔を覗き込んでいた英典の視線がふっと逸らされた。俯いて、絡ませた自分の指の動きをじっと見つめている。
 俯いたせいでさらりと長目の前髪が垂れ下がり、それが英典の顔つきを変えたように見えた。
 沈思黙考するタイプではない。意見を通す強さを持つ英典なのだ。その彼が逡巡する様を和宏は初めて見た。
 だが、それは僅かな時間だった。
 秒針が時計盤を一周するまもなく、顔を上げた英典は再び笑っていた。
「でも、帰ってきて良かった。玄関は鍵をかけた形跡なし。いくら呼んでも出てこないし、しょうがないんで勝手に上がらせてもらったら、死にそうなほど色をなくした和宏が丸まって震えているし」
 組まれていた指がほどかれ、右手が和宏の顔に伸びてきた。それをじっと目で追う。
 指先が近づいてき、近寄りすぎてふっと視界から外れた。
「こんな……ひどくなっているなんて……俺どうしようかと思った……」
 言葉とともに見えなくなっていた指先が額に触れる。
 ぞくりと不快でない疼きが肌の表面を粟立たせ、熱のせいで敏感になった体を疼かせていった。
「もう……熱は下がってきたのかな?さっきよりは少し冷たいような気がする。でもさ、ほら唇もかさかさだ」
 指先が頬を辿り、唇に達する。英典の指の腹にささくれだった皮膚が触れていく。そんな引っかかりを擦るように指の腹が唇をくすぐって。
「飲みたい……」
 喉も渇いていた。
 だけど、何かがもっと渇いていて。
 和宏は、いまだぼんやりとした視線を英典に向けていた。
 今なら……何を言っても……熱のせいだとごまかせるかな?
 目覚めた時、彼がいてくれたこと。
 夢の世界から救ってくれたこと。
 何もかもが……嬉しい。
 ここは……会社じゃない。だから……英典が優しい。
 だから、今だけ……。
「渇いて…………欲しい……」
 スポーツ飲料の五百ccのペットボトルのふたを開けた英典に手を伸ばす。
 受け取ろうと触れた指先が空を切った。
 渡されると思ったペットボトルの口がそのまま英典の口に含まれて。

 自分のものでない髪が頬をさわさわとくすぐる刺激に、和宏はそっと目を閉じた。
 ごく
 ゆっくりと注ぎ込まれた液体を喉を震わせて飲み込む。
 溢れないように少量ずつ注ぎ込まれる甘い液体に物足りないと感じるほど、英典は慎重に与えてくれていた。
 数度喉を動かさなければ飲み込めない量に息苦しさを感じて、離れた瞬間に息を吐きだした。
 冷たくて甘い。
 そして……。
 和宏のその吐息が英典にかかる。
「おいしい?」
 揶揄するでなく、優しい声音が降り注ぐ。
 揺らいだ視界の向こうに英典がいた。
 覆い被さって和宏を覗き込んでいる英典の様子がよく判らない。今、どんな目をして自分を見ているのか?
 なんでこんなに揺らいで見えるんだろう?
「和宏?」
 その声が甘く耳に響いて、和宏はようやく頭を動かした。
 味を問いかけられた事を思い出す。だから、こくりと肯定する。
 喉がからからに渇いていたから、いつも以上においしく感じたのも事実。
 何より、心の中にあった渇きすら癒されたような気がしたのだ。
 だけど……。
 まだ足りない。
 長い年月を経て失ってしまったものが、まだ足りないと欲している。それが何かまでは判らないけれど、だが、今欲してるものだけは、判る。
 今なら、何を言っても許されそうだと本音が理性を凌駕して自らを強請る。
 欲しいんだ。
 だから。
「……まだ……」
 喘ぐように呟いていた。
「まだ?」
 英典に驚いたように問い返されて、和宏の顔が羞恥に染まる。
 自分が何を欲してしまったのか?そして、英典がそれに気付いてしまったことも判ってしまったから。
 だが、欲しいのだ。
 今は……。
 その熱を最初に植え付けたのは、英典の方だ。何も気付いていなかった自分に英典が教えたのだ、と。
 収集のつかない理性が、責任転嫁を考え出す。
 心の片隅で、これは熱に浮かされてだからやめろ、と訴えてはいたけれど。だが、大勢を占めるのは欲する心でしかない。
 そのくらい、和宏の感情は落ちつきなく欲していた。
 ほんとうに。
 心が渇いて……だから。
 触れあった粘膜がくちゅりと湿った音を立てた。
 覆い被さるように抱きしめられ、怠い体が受け止めきれなくて悲鳴を上げていた。なのに、押しのけようなんて気はさらさら起きない。それどころか離したくないと、英典の背に回した腕に力を込めた。
 口内を貪るように動く肉厚な英典の舌が上顎の敏感な部分を擦り上げる。
 そんなところが感じるなんて思いもしなかった和宏は、悲鳴に近い喘ぎに喉を幾度も鳴らしていた。
 全身が痺れたようになって思うように動かない。
 口の端から頬を伝って髪までがしっとりと濡れている痕が冷たく感じる。ぼんやりと向けたベッドヘッドにペットボトルが見えていて、その中の液体が残り僅かとなってベッドが揺れるたびにその液面が濡れていた。
「ふっは……」
 ぞくぞくとわき起こる疼きに、全身が総毛立つ。そのせいで敏感になった肌が英典の手のひらの熱をダイレクトに感じてしまう。
 自分の方が高いはずの体温なのに、英典の手が熱くて堪らない。
 触れあった部分からとろけていきそうな、そんなあやふやな感触から逃れようと和宏は必死で英典に縋り付いていた。
「あっ……ああ……」
 漏れる声も切なげに、自らの耳を犯してくる。
 変だ……と思う。だけど、欲しいと思う心が止められない。
 きっと……きっと、熱のせいで理性なんか吹っ飛んでいるんだ……。
 和宏はそう思うことで自分を納得させていたが、それでも。
 こんな……。
 人に触れられることがこんなにも感じるなんて……。
 首筋から胸腺まで表面を薄くなぞるように指先が辿っていく。
 着ていたパジャマがはだけられ、日に当たらない肌が英典の目に晒されていた。羞恥と興奮に煽られて朱に染まった肌が、びくびくとざわめく。
 触れると手のひらにしっとりと吸い付くようなきめの細かい肌。
「キレイだな……」
 欲情に掠れた声が英典の喉から漏れ、それを和宏は夢心地の中で聞いていた。
「この色さ……緋だすきを出したときの色だよな。ほんのり朱色に染まった肌の色……。そうだよ。俺はこんな色が出したかったんだ。こんなキレイな色が出したくて……」
「……緋…だすき?」
 英典の唇が心臓の上に触れる。ねっとりと這わされた舌にざわざわとした疼きが全身へと飛散する。
 弾けるように鳴り響く心音を英典が聞いていると思うと羞恥がさらに酷くなって、和宏は身もだえた。だけど、動けない。両腕をベッドに押し付けられて、ただ肘から先で縋るしかないのだ。
「こうすると……」
 きつく吸われてちりっとした痛みが走った。その痛みが下腹部へと走り、堪らなく身悶える。
「ほら……緋だすきの色」
 ほら、と言われても固く目を瞑って襲ってくるざわめきを堪えている和宏にとって、何も判らない。
 緋だすき?
 その聞き知った単語の意味が頭の中に思い浮かばない。
「こんなキレイな……朱色が出したくて……」
 ちりちりと何度も吸い付かれ、そして満足げな吐息が肌をくすぐる。
「ん……くっ……」
「だけど、出なかった……」
 ふうっと長い吐息が胸の突起のあたりを撫でていく。
 途端に広がるざわめきにもう和宏は翻弄されるしかない。
「ふっ……は……何……が?」
 ようやく、緋だすきという言葉の意味を思い当たった和宏は、うっすらと目蓋を上げて英典を見つめた。
 胸の上で蠢く頭が少しだけ止まる。
「俺さ……一応……陶芸家ってやつ、目指してたんだ」
 少し暗く沈んだ声に身を強張らせた途端、ざわりと強く突起を舐め上げられる。
 堪らず開けていた目蓋をきつく閉じて。
「だけど……兄さんのように思うようなものが作れなかった。俺、備前焼の技法の中では特に緋だすきが好きだったんだよ。あの備前焼の中でも明るい色合い……焼き物なのに人肌の色……」
 ちゅっと音を立てて吸い付かれ、びくりと体が跳ねる。
「なのに、色が出ない。思うような……色とかたち……でなくて……思い詰めるとどんどん思った色から離れていく……」
「うっ……ああっ……」
 脇の下から腰、そしてパジャマのズボンの中にするりと手が入っていく。
 くすぐったさ以上に熱がそこから伝わる。
「だから……やめたんだ……俺には向かない……」
「んくっ……っ!」
 不意に高ぶったそれを握りしめられた。
 直に他人に触れられた衝撃は、目蓋の裏で光が弾けるほどで。
 もう弾けそうだと思っていたのに、それがさらに張りつめてしまう。
「も、もう……やめ……っ!」
 ぐりっと先端を指先でこじられ、痛い筈なのに襲ってくるのは快感なのだ。
「偉そうなこと……言うけど……俺だって挫折組。だから……」
 指先で軽く叩かれると、粘着質な感触が震えるそれに響く。
「や、やだっ……あっ……」
 限界がきていた。
 さすがにこのまま達ってしまうことに激しい羞恥が襲ってきて、ぐっと手に力を込める。だが、和宏より力強い英典に敵うはずもない。
 柔らかく揉みしだかれるだけで、それが震える。
 体の芯を走り抜ける電流に動かない体で身動ごうとはするけれど。
 和宏の口から堪えきれない喘ぎが漏れていく。
 もう、手に力が入らない。
「諦めないで……なんて言えたギリじゃないけど……」
 英典が何を言っているのか?
「うっ、あああ」
 緩急の差が短くなり、先端の敏感な部分を複数の指の腹で嬲られて。
「和宏はできるよ。……だから、諦めないで……」
「あ、あああっ!」
 意識が弾けた。
 
「諦めないで……」
 その言葉が耳の奥でこだまする……。

続く