??鳳凰の翼? - 2003-09-16 – 400,000HITキリリク ミミさん。
キイチにとって守りたい相手はボブ、そして仲間達。だけどボブにとってそんなキイチは目が離せない存在。その理由は……。ボブとキイチの視点がときたま変わります。
1

「キイチを警備隊に入れたいって話が出ている」
「え?」
 同僚のリッチがボブの机の端に腰掛けて、声を潜めて聞いてくる。チーム一の長身が身をかがめる様は、見た目には滑稽なものと写るだろうが、ここには今は二人しかいなかった。だからこそ、リッチが声を潜める理由もないのだが。
 だがリッチのその様子からして、それがまだ内密の話だとは知れる。
 何より、ボブはそんな話を露ほども聞いていない。
 だから不快さを露わにして、ボブはリッチを見返した。
「……そんな話は来ていないな」
 別にリッチを怒っている訳でなく、その発信元が誰かを想像するだけで不快になるのだ。それをリッチも知っていて意にも介さない。
「まだ知らないか?実は、今日あっちに行ったら、そんな話が上がっていた。向こうでは本気らしいが」
 あっちがどこかなど、ボブは聞かなくても判っている。もとより、リッチの情報網は多岐にわたっているが、その情報を仕入れられるような場所は、このカベイロスではただ一つだ。そして、その信憑性は限りなく高い。
「ちっ!」
 同僚とはいえ階級も年齢も上のリッチの前で舌打ちしてしまうほどに、ボブの機嫌は急降下していく。
 何より、キイチ絡みになると、ボブとて迂闊に放置はできないのだ。
「リオは?まだ何も言っていないか?」
「ああ、まだ何も」
「ならば、まだ公にはなっていないな。手を打つなら今の内だが」
「ったく……。懲りないな、連中も」
「それだけ、あの子が優秀だってことだろう?本人はそういう自覚はないようだが」
 くすりと強面の顔を皮肉げに歪ませて、リッチは机の上から飛び降りた。
「ダテちゃんといい、キイといい……そしてお前さん達といい……。リオ・チームは人材の宝庫だからな。狙われて当然といったところか」
 自分のことを棚に上げてそう宣うリッチに、ボブは苦笑を浮かべたが、すぐにその唇を引き締める。
「いつ頃その話は公になるかな?」
「……そうだな、数日中には。……根回しするなら今の内、と言った感じだったが」
 にやりとその口の端を上げ、どうする?と、目線で窺うリッチに、ボブは頷いた。
「キイはどこにもやらないさ。俺はまだあいつを──手に入れていないし」
「そういうと思った」
 リッチが自身の目の前で手を広げ、そして握りしめる。
「リオに話をつけてくる。任せてくれ」
「頼んます。持つべきモノは優秀な同僚ですっ」
 ボブが手を合わせて拝むと、リッチが嫌そうに眉根を寄せて返した。
「お前さんに拝まれると、背中がこそばゆい。まあ、俺もあの子は気に入っているからな、余所にやるなんて考えられんし。何せ、あの子なら背中を任せて安心できるからなあ」
 リッチの言葉には素直に頷けるモノがあって、ボブはふうっとため息を付いた。
 背中に目があると言われるキイチの防御能力は高い。今はボブ配下の警備兵になっているが、艦所属の警備隊に入ってもすぐに優秀な成績を収めるだろう。
 そして、今の地位よりも引き抜きの話が出ている警備隊の方が地位も待遇も良い。
 つまりキイチの事を考えるのなら、引き抜きの話をつぶさない方が良いのは、ボブもリッチも判ってはいた。
 だが。
「警備隊なんて暇でしょうがないからな。それだったら、こっちにいた方楽しいだろうよ」
「それは言える。キイにはもっと働いて貰わんと」
 ボブもリッチも、本人の意志よりは自分たちの要望を優先する。
 二人ともキイチを手放す意志などない。
 それに、とボブが嗤う。
「キイは……行かないしな」
 だいたいキイがここにきた理由をボブは知っている。だからこそ、キイチは絶対に己から行きたいなどとは言わないはずだ。
「ふふん?」
 ボブの言葉にリッチは嗤って返した。
 リッチとて百戦錬磨の隊員で、リオの元にいるから階級は低いが、実力はその辺のちゃちな司令官達とは雲泥の差があるほど凄い。
 その彼にしてみれば、ボブやキイチの心の動きなど手に取るように判ると言うものだ。
 それはボブも知っていて──だからこそ、こういう時はリッチの力を借りる。
 何より、どんな手段を使っても、ボブはキイチを手放すことだけはしたくなかった。
 なのに。
「え?」
 正式にその話が来たため、ボブは一応キイチに伺った。正式なルートでやってきたそれを、本人にも伺わずに勝手に反古にすることもできなくはなかったのだが。
 それでも聞いたのは、キイチの口から「行かない」という言葉を聞きたいと思ったからだ。
 だが、すぐに拒絶の言葉が聞けると思ったキイチの口からは、すぐにその単語が出てこない。座り込んで見上げる先で、キイチが困惑の表情を浮かべるのを、ボブは唖然と見つめてしまったほどだ。
 ──何故?
 そう思うほどに、キイチの態度が信じられない。
 しばし逡巡する様子を見せ、それでもキイチは躊躇うように首を傾げている。その視線は中空を睨んでいて、どう言おうかと言葉を選んでいるようだった。
 それに焦れてくる。
 どうして?
 という思いの方が強い。
 だから、返事をキイチの口から聞こうと思っていたのに、つい請うように問うていた。
「行きたくないならそう言えば、無理に行くことはないんだぞ」
「はい……」
 だがボブの真意に気付かないのか、キイチは小さく返事はしたが、それから先の言葉は出てこなかった。
 少なくとも、キイチの眉間に刻まれた深いシワが、自身の異動を望んでいないことを物語っていることは判る。なのに、速攻で帰ってくると思っていた、嫌だ、や、考えさせてくれ、と言った言葉はいつまでたっても出てこない。
 そういえば……。
 ボブは気付かれないように舌打ちをして、逡巡しているキイチを見つめた。
 戦闘時にはとかく大胆な行動とそのパワフルさに定評があるキイチだが、こと平時になると真面目で、一部以外の上の言うことはよく聞き、そしてあろうことか、決断力に乏しい。
 それは兵士になって2年強。まだ17歳という経験のなさから来るものであったとしても、だ。
 考えすぎなんだよな、こいつは……。
 下手に頭で考えるから悩んで──しかし、悩んだからと言って、それが正しい答えを導くかといったら、キイチの場合はそうでもない。彼は、だいたいにおいて勘で動いた時が一番正しい選択をしている。
 それに思い至ったボブは気付かれないようにため息を吐いて、キイチを見やった。
「なあ、この話を聞いた時、最初にどう思った?」
「最初……ですか?」
 キイチのまじめくさった言葉に、ちりっと胸の奥が疼く。ボブにしてみれば、明るく元気なキイチの方が好みなのだ。しゃちほこばって小さくなったキイチなど見たくない。
 だから。
「行きたいか、行きたくないか。どっちだった?」
 立ちあがってその肩に肘を置いて耳元で囁く。
 途端に耳まで赤くなって狼狽えるキイチに笑いかけて。
「さっさと答えろよ、俺も暇じゃねーんだ。こんなとこで退屈な押し問答しているくらいなら、ちょっくら遊びに行ってくるから」
 その気もないのに、キイチが苛つく言葉を投げかける。
「だ、駄目ですっ!」
 途端に、声を荒げてボブを睨んでくるキイチに、してやったりと思ったことは内緒だ。
 やはりキイチはこうでなければ面白くない。それに強い意志を持つ瞳は見ていて気持ちが良い。
「だったら、さっさと答えろよ。焦らされるのは嫌いなんだ」
「行きたくない……と思いました」
 深呼吸するように息を吸って、吐き出すと同時に聞きたかった言葉を貰う。
「そうか」
 信じていても言葉で聞くと安心する。ボブはキイチの肩に置いた腕を伸ばして、その頭をがしがしと掴んで揺らした
「い、痛いっ!」
「俺もお前を手放す気なんかねーよ」
 そう言えば、真っ赤になって狼狽えて。それでも何も言わないキイチの本音なんか、ボブには判りすぎるほど判っていた。
「ついでに、俺がいるから行かないんだ、とか言ってみ。この減らず口ばっかきく口で」
 むにっと頬をつねって引っ張って。
 嫌がって逃れようとするキイチは、見た目は心底嫌そうなのに、ボブより力があるはずのその腕の力は思ったより弱い。
「いひゃいっ!」
「ははっ、おもしれー顔」
 どうして、離すなんてできるだろう。
 腕の中で身悶える、ボブより大きな体のキイチ。
 最初に出会った頃の面影なんて、もうどこにもないが、それでも可愛くて構いたくて、そして苛めてみたくなる。ついでに鍛えたくて、もっと高みを目指すようにさせたくなる。
 ボブより優れたこの”坊や”、を。
 そして、己を忘れられない存在にもしたくて。
「なあ、キイ。どうして行きたくない?」
 押された拍子に机の端に腰を落としたキイチに覆い被さって、襟口を引っ張り吐息がかかる距離で聞いてみる。
「どうしてって……」
 キイチの喉がごくりと鳴って、色づいた肌にじっとりと汗が浮かんでくる。その様子をつぶさに観察しながら、ボブはもう一方の手をキイチのたくましい腰に回した。
「教えろよ」
 甘く囁き、答えを請う。
 そこまで接すれば、相手がどんな感情を抱いているのかはっきりと判る。
 そして、その答えも自ずと想像できるのに。なのに。
「……ここは……やりがいがあるから……」
 顔を背けて、やっとの思いで吐き出された言葉は、ボブの期待から外れまくった、色気のないものだった。
「……お前は……」
 途端に掴んでいた手から力が抜ける。
 責める声も、今のキイチにはその意味など判りやしないだろう。解放されて心底ほっとしている様子にさらに脱力する。
 そういや、頑固でもあって……しかも自身のことになると壊滅的に諦めが早い。
 昔からその片鱗はあったけれど、今日こそその性格が恨めしく思ったことはない。
 ボブがこんな事を仕掛けて今まで落ちなかった女性はいないというのに。そしてキイチも結構いい線までいっていたような、そんな気はしていたのに……。
 なのに。
「ここにいれば、他では経験できないようないろんな事が起こりますから、経験値稼ぎにはもってこいですね。それにここのみんなは好きですし」
 ボブに背を向けて言った言葉の最後だけは本音だろう。
 だが、ボブの聞きたかった本音はそれではない。
 腕の中の温もりは呆気なく消えて、ボブは苦笑を浮かべた。
 やはり一筋縄でいかないこいつを、どうすれば自分から告白させることができるだろう。
 最初から諦めている──まだまだ経験値ゼロのこの坊やに。
「判った。そう伝えておくわ」
「はい、御願いします」
 最後だけボブを向いて頭を下げたキイチに、手を振って退室を促す。その瞬間、キイチが寂しそうな視線を向けたのは気付いてたが、言わないお前が悪いんだと、ボブは自虐的な気分で部屋から追い出した。
 何より、いつまでもキイチがここにいるとなると、ボブの紙切れより薄い自制心が破けてしまいそうになる。
 音を立てて閉まったドアがキイチの姿を隠した途端、ボブは疲れ切ったように椅子に腰掛けて、背もたれに上半身を預けた。
 うまくいけば万々歳の恋の駆け引きは、天然坊やのお陰で全く勝負にならなかった。しかも、今度こそ、と期待してしまった、いわゆる節操のない下半身を、情けなくも自分で宥めなければならない。
「う?ん……やっぱり女性を相手にするのとは、ちょっと勝手が違うか……」
 下半身はそんな精神の疲れをものともせず、元気にテンパっている。
 それを服の上からそろりと撫でて。
「もうちょっと我慢しろよ」
 自分で言って、嗤う。
「キイのばーか……もうちょっとだけ勇気を持ってくれれば、楽しい未来が待ってんだぜ」
 無意識に呟いた言葉は、思った以上に切なく響いて、ボブはこれでもかというほどに深いため息をついた。

 

 なんとしてでも守りたい、と、その任を預かったとき、キイチは心底思った。
 何もできない、と、物を壊すことしかできない、と思っていた手が、守る術を持っていると知った時の喜びは、何ものにも代え難いものだった。
 そして、その守る対象に彼が含まれているとなると、その意志はより強固な物になる。
 だから、警備隊へ、という話は、迷惑なものでしかなかった。
 できれば、ボブに話が来た時点で断っていてくれたら、と思う。なのに、どうする、と聞かれて。
 キイチが返答に詰まったのは、ボブの真意が読めなかったからだ。
 表情の窺えないボブは、本当はキイチがそれを受諾するのを待っているようだ、と思えた。
 だから、すぐ返事ができなくて。
 行きたくはないが、ボブがキイチに行って欲しいと思っているのなら、それは断ることはできない。キイチはいつまでもボブの元にいたいのだが、ボブの方がどう思っているか判らない。
 ボブにとってキイチは、弟みたいなものなので、そうなると警備隊に入るのを推薦してもおかしくはない。キイチのような隊員にとって警備隊に入ることは、エリートコースでもあるのだから。
 結局、訳の分からぬ問答の末、行かないことにはなったが、その後のボブがひどく素っ気なかった。
 その冷たい態度に、キイチは部屋を追い出された後、しばらくその場に呆然と突っ立ってしまったほどだ。
「間違えたんだろうか?」
 行かないと言って欲しそうだ、と、そんな風に思えたのだが。
「行きたいって、言った方が良かったのかな?」
 イヤだったけれど。
 それがボブの望みなら、いつまでもここにはいられない。
 結局、深いため息をその場にこぼして、キイチは仕事に戻らざるを得なかった。
 それでも、ようやく側にくることができた『魔法の手のお兄ちゃん』から離れたくはない。いつも、いつまでもキイチはボブを視野の中に入れていたかった。
 それでもいつでも一緒にいることは叶わない。
 彼は、女性と遊ぶことを何よりも好むのだから。
「グレイル少尉」 
 リオの名で呼集された場に最後にボブが現れて、キイチは彼を詰問するように呼びかけた。
 朝から探していたボブをやっとこの手で捕らえたと。
 呼びかければ、二つの視線がキイチを見つめる。だが一つはすぐに外れて、もう一つは責めるようにキイチを睨んだ。
「お前は……」
 言葉尻にも責める色が窺える。だが、幾度も繰り返された対応に、さすがにもう諦めたのかそれだけだった。
 キイチはそれに微苦笑を返して、その傍らに立つ。幼い頃は気さくに呼びかけることができた彼は、今はキイチの上官だ。それをしっかり意識するために、キイチは作戦行動以外ではできるだけ階級で彼を呼ぶようにしていた。
 それが、キイチにとってのけじめだったのだ。
 面倒くさそうに座っている彼の手元に、抱えてきた書類一式を渡して、決済を請う。
「むうっ」
 睨まれる視線に慣れてしまうほどに繰り返されたそのやりとりに、他の誰も口を挟まない。
「キイが俺をコールネームで呼ぶまでは、こんなものしねーよ」
 子供のように拗ねて放り出すのもいつものことだ。
「ボブと呼べばいいんですか?」
「ああ……」
 うろんな目で見返すボブに、キイチは笑い返した。
「ではボブ。と、呼んだのでよろしくお願いしますね」
「……」
 ますます険しくなった視線は無視して、キイチはボブの様子を探る。
 微かに香る香水の匂い。
 シャワーを浴びた直後を思わせる、まだ湿った感触の髪。
 そのどれもが、ボブが今までどこにいたのかキイチに教えて、胸の中がきしむように音をたてた。
 それは酷く不快な音で、キイチは知らずに奥歯を噛みしめる。それでも決して表情は崩さない。そんなことになれば、ボブに突っ込まれて、また逃げられるのがオチだから。
 決して彼には弱みを見せないように。
 いつまでもここにいてもらいたいから。
「どっかのバカがシステムを暴走させたってことだ。緊急措置で暴走したメインシステムも含めて全てのシステムは無理矢理停止させたが、そのせいで艦の機能が使い物にならなくなった。とりあえず近くのドッグに入れる必要があるんで、仮のシステムを構築する。そんなに人数はいらねーから、厳選メンバーで行くからな」
 机に手をついて、しち面倒くさそうに説明するリオ・チームの司令官リオ・カケイ大佐がその場にいたメンバーを睨め回した。
 それが不機嫌だと感じるのは間違いではないだろう。
 覚えずメンバー全員がお互いに目を合わせ、その内幾人かがため息を吐く。
 ざっと確認した資料を片手に、ボブが口火を切った。
「暴走の理由は?」
 その言葉の意味に思い当たって、キイチの体は背筋に走った悪寒のせいで小さく震えた。
 艦は戦闘の道具であるとともに、この宇宙で暮らすための家。そして、身を守るために必要な設備だ。ゆえに、その機関システムのセキュリティには万全を期していて、一カ所が不通になっても大丈夫なように幾重にも回路を組んでいる。それらすべてが一瞬にして破壊されると言うことは、艦そのものが破壊されたときくらいなものだ。
 なのに、リオの談によると、そのシステムが暴走し、なおかつ航行不能になるほどに緊急措置を取らなければならなくなったという。
「暴走したのはシステムの全てだ。つまりは、質のめっちゃ悪いウィルスにやられたってことらしいがな」
「はあっ?」
 そういうことには疎いキイチですら不思議に思ったそれに、ボブも冗談めかして言う。
「質のわりーウィルスって、まさかポイニクス(不死鳥)の類じゃねえよな」
「当たり」
「へ?」
 途端に、ボブの体が椅子からずり落ちそうになり、それをキイチが慌てて支えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……すまん」
 だが、その情けない姿をみなが笑う余裕もない。
 リオの事務副官であるグリームベル中佐が端的に指摘した事実は、はっきり言って最悪なレベルだった。
「ポイニクスの最大の特徴は──激しい自己増殖性と己に対する攻撃を解析して対抗する力を取り込む自己成長性。ゆえに、未だに撲滅できないワクチンの一つで、数多の亜種があり、今やどれが基なのか判らない状態だね」
「最悪……」
 心底いやそうなボブが皆を代表して言葉を続ける。
「それって、こっちは、その手の専門家じゃねーぞ」
 途端に、リオがそっぽを向いた。そのあからさまな態度を、皆が見逃すはずもなく。
「そうなんですよね……」
 憂鬱そうにダテが呟くその言葉に、いやーな予感がみなの背に冷や汗を浮かばせる。
 ごくり喉を鳴らしたのは、誰だったのだろうか?
「まさか?」
 窺うようにボブが口を開き、キイチが後を引き継いだ。
「もしかして……また訳のわからないのを押しつけられたって訳?」
 途端に、ダテがこれでもかというほどに深く息を吐いて、リオがその超絶美麗と言われる顔をきつく歪めた。
「先日、リオが暴走してパラス・アテナでの司令官級会議をメチャクチャにして」
 途端に、全員が天井を仰ぎ見た。
「しかも、そこにいたアテナの次期司令官を罵倒したそうで……」
「げっ……」
 アテナの次期司令、ユウカ・リー中将を面と向かって罵倒して、無事で済むわけがない。まして、彼女の事務副官、ケイン・カケイはリオの弟にあたり、これまた犬猿の仲ときていた。
「で、後から呼び出されて、ねちねちとした嫌味と……紛いも一緒にこの仕事を押しつけられてきたわけです」
 微妙にダテの言葉が誤魔化された感はあるが、それよりもその内容に絶句する。
 ──最悪。
 他になんと言えばいいだろう。
「はめられたんだよっ!っくしょうっ!!」
 確かに。
 アテナ相手に頭で勝てるわけがないのだ。
「暴走野郎には、暴走戦艦をなんとかしろってことか……」
 言い得て妙なボブの言葉に、全員が音もなく頷いた。
 それでも。
「しゃーねーか……だからリオのところにいるわけだし」
 ボブが苦笑混じりに呟いたその言葉に反論する者もいないのは確かだ。
 ただ同時に、ダテの眉間に深いシワが寄ったことに、キイチだけが気付いてしまった。
 航行する術を失って宇宙空間を漂っている小振りの戦艦は「ティシフォネ」と記されていた。復讐の三女神の内の一人の名だということは、オリンポスの民なら誰でも知っている。
「本当にこの人数でいいのかよ?入ってみたらズタボロで、泊まり込んで徹夜で修理、なんてことになるんじゃねーだろーな」
 ぶつくさとぼやくボブに、ビル、リッチ、そしてリオとダテ、それにキイチという相変わらずのメンバーが輸送邸に乗って、件の艦に向かっていた。
「だからといって、一人でさっさと逃げないでくださいよ。敵前逃亡は重罪ですから」
 つい冷たく言ってしまう。
 戻るにしてもティシフォネとカベイロスの間には冷たく暗い宇宙空間が広がっている。さすがにそこをボブが越えられるとは思わないが。
「ボブなら、宇宙服で戻ってしまいそうですねえ」
 キイチの言葉を無視して窓から外の様子を窺うボブに、ビルも冷たい視線と共に言い放つ。
「誰が逃げるかっ」
 さすがにそれはできないと言い返すボブが、その直後にらしくもないため息をついた。
「今晩約束があったのになあ……」
「キイ、ボブを捕まえておけよ」
 リオの言葉に、キイチは真面目に頷いて、逃がすものかと決意を新たにする。
「オマエら……」
「……いい加減女性と遊ぶのは止めて貰えませんか?」
 真面目にやれば、どんな任務だってこなしてしまえるのに。
 いつだってボブの口から出るのは女性の事ばかりだ。
 そのたびに湧き起こるどす黒い塊に胸が圧迫され、ひどく息苦しくなる。冷や汗すら浮かぶその状況を必死で押さえ込んで、キイチはすべてを空気と共にごくりと飲み込んだ。
「キイ?」
 不意に名前を呼ばれ、顔をあげると傍らにいたダテが心配そうに見つめていた。それに気が付いて、キイチは無理に口の端を上げる。
「大丈夫」
 だが、胸は痛い。それでも。
「いつものことだし」
 肩を竦めて呆れている姿を模しながら、心の中でそれ以上は突っ込まないダテに感謝していた。これが他の誰かであったら、面白おかしくからかわれるだろうことは目に見えている。もっともそれが判っているからダテ以外の誰にも言うつもりはなかったけれど。
 それに。
 心の中でため息を吐いて、未だ顔を顰めたままのボブを見つめ直す。
 だいたい、ボブにはボブのしたいことがあって、結局キイチにはそれを止める権利はない。どんなにボブのことが好きであっても、ボブの好きな相手はキイチではないのだから。最初から諦めて告白もしていないのだから、もうどうしようもなかった。
 それでもついボブに寄り添うようにしている女性の姿が思い浮かんでしまって、胸が痛くなる。
「ああそうだ」
 ふと、ボブがキイチを手招きした。
「はい?」
「お前さ、来週非番だろ?」
「……はい」
 何を言い出したのかと思ったが、確かにそうなのでこくりと頷いた。
「俺もなんだ。でさ、俺の部屋に来いよ」
「え?……はい」
 なんでわざわざそんなことを言うのかと、それが不思議で。だが、キイチは素直に頷いていた。
 ボブは非番だろうが任務中だろうかかまわずに女性のもとに遊びに行ってしまうから、こうやって誘ってくるのは珍しい。
 そう思っていたら、それが表情にまで出ていたのか、ボブが困ったように苦笑を浮かべた。
「俺がお前を誘うのがそんなに珍しいか?」
「はい」
 思わず頷いて。
 皆の失笑を買ってしまった。
「私も不思議に思いましたからね。どういう風の吹き回しです?」
 ビルが奇妙なものでも見たと言ったような表情を浮かべて、ボブを見遣る。
「うるせー。来週、こいつ誕生日なんだよ。だから、な」
「へえ、そうなんですか?」
「え……あっ、そうです」
 一瞬考えて、慌てて頷く。
 確かに、もうすぐ誕生日を迎えるのだと、先日思ったばかりで。
「何歳になるんだっけ?」
 リオの問いかけに答えようとして、ボブが先に答える。
「18歳だよ」
「へえ……」
 途端に、みなの視線がキイチに集まったのを感じて、なぜだか顔が熱くなる。
「そんなに若かったんだな」
「態度だけは、一番だけどな?」
 憮然と言うボブに、キイチはムッして言い返す。
「それは少尉に対してだけです」
「ほら、それが生意気なんだよ。俺がどれだけボブと呼べって言っても聞きやしねー」
 襟首を捕まれ引っ張られる。自然に近づいた顔から慌てて視線を外して、むすっと口元を引き締めた。
 でないと、顔が緩んでしまいそうだと、キイチは焦っていた。
「離してください。痛いです」
 必死になるとこんな意に反した言葉ばかりは素直に出る。
「ほら見ろ」
「どっちもどっち」
「確かにな。おっと、そろそろ着くぞ」
 リオとリッチの言葉にボブが諦めたのかようやく手が放れた。それにほっと一息吐く。
 至近距離に心臓が悲鳴を上げそうになっていて、離れた今もそれは容易に落ち着かない。
「まあ、いいさ。そのうち素直にさせてやる」
と、いきなり耳元で囁かれて、キイチの心臓は確実に跳ねた。しかも笑みを含んだ意味ありげなその言葉が、キイチの脳に刻み込まれる。
「どういう意味です?」
 思わず問い返した言葉に、ボブは嗤うだけで返事はなかった。
2
 連絡艇のタラップから降りて、すぐに各自持ち場に散開する。キイチは、ボブと共に格納庫横にある倉庫が目的地だった。そこで、作業に必要な貨物を取り出してから、先攻したリオ達の後を追う。
 ふわりと出た途端に浮いた体を制御して、キイチは靴底の吸着装置を作動させる。微かな振動が足裏に伝わり、キイチの体が床に降りた。
 その傍らにボブも音もなく降りたって、キイチの腕を掴む。
「キイ。なんか嫌な予感しないか?」
 胡散臭そうに当たりを見渡すボブの額には深いシワが寄っていて、連絡艇の中でのふざけた様子は微塵もなかった。その変化にキイチは、ただ事ではないと顔が強張る。
「何か?」
「なんてーか……はっきりとは判らんが──ここはマズイって、思うんだ」
 つられてキイチも当たりを見渡すが、その鋭敏な勘にはまだ何もひっかからない。
「……それって、約束が守れないっていう意味じゃなくて?」
「ああ……じゃなくてなあっ!」
 あまりの緊張感にいたたまれなく、キイチがこぼした冗談に、ボブが呆気なく乗って。慌てて首を横に振っていた。誤魔化すように声を荒げて、キイチを睨み付ける。
「お前、後で痛い目見るぞ」
 それが冗談だと判っているから、キイチはくすりと笑みを零した。
「すみません──で、どんな予感ですか?」
「ああ、胸が痛い……。こう、得体の知れない何かに見られているような。ずっと探られているような気がする。お前は──?」
 言われても。
 まだキイチの勘にはひっかからない。
 ボブの言う勘とキイチの言う勘は違うモノらしく、いままでもこんなことは多々あった。そして、ボブの勘はある意味正しく状況を伝えてくる。それは、とてもあやふやな未来を教えてくれるものだ。
「危険があるってことですね」
 それが何かは判らない。
 だが、自分たちの取る行動の何かが引き金になって起きる未来に、マズいことが起きると、ボブの勘は教えていた。
「どっちにしろ、もともとおかしな状況なんだ。気をつけろ」
「はい」
 頷いて、ボブを見つめる。
 真剣に辺りを窺い、次の算段を考えるボブはひいき目でなく格好良いと思う。幼い頃から、こんなふうに格好いい人になりたいと思っていたものだった。
 と。
「ん?」
 視線に気付いたのかボブが訝しげにキイチを見やった。
「あっ、なんでもないっ」
 見つめていたことがバレたかと、キイチは焦って顔を背ける。
 羞恥に熱くなる顔を背けて、一歩を踏み出して──と、ぐらりと体が傾いた。
「わっ」
 無重力に近い空間での移動は神経を使う。
 ちょっとした反動が体の制御を奪って、浮いた体を回転させてしまうのだ。そかも簡単に慣性がついたそれは、容易には止まらない。
 まだ慣れていない平衡感覚が三半規管を狂わせて、キイチは為す術もなくふらついた。伸ばした手が近くにあった取っ手を握り損ない、焦りが激しくなる。
 落ち着かなければ、と思っても、初心者紛いのミスに頭が混乱してすぐに立ち直れない。
「ばーか、何やってんだよ」
 ボブの手が伸びてキイチを捕まえて、ようやく回転が止まった。
 腕の中に引っ張り込まれ、腰を抱えられるようにして立たせられる。それでようやく足裏の吸引装置が作動した。
 それにほっと安堵する。
「とりあえず、少しでも重力を回復させるのが先だな。これじゃ、歩くのもうっとうしいや」
 ボブの言葉に、恥ずかしさに真っ赤になったままの顔をキイチは俯かせた。
 こんな初心者でもしないことを……。
 訓練で嫌と言うほどやらされる無重力空間での移動は、この体にしっかりと覚え込ませていると思ったのに。恥ずかしいなんてものじゃなかった。
 と、腰に回されたボブの腕に力が入る。そのせいで、ぐっと引き寄せられて仰け反るようになって、キイチは思わず顔を上げた。
 間近に迫るボブの端正な顔に、どきっと胸が高鳴る。
 慌てて胸に手をついて突っ張ったが、ボブの顔がじわじわと寄ってきた。
「ボ、ボブっ?」
 息を飲んで、顔を背ける。 
「……惜しいな」
 頬を吐息がくすぐって、それに首を竦めた。
「何が……?」
「キスできるかと思ったのに」
「なっ!」
 冗談じゃないっと、慌てて腕に力を込める。
 確かにその態勢はあと5cm動かないうちに互いの唇が触れあっていただろう。
 かあっと火を噴くほどに顔が熱くなって、ボブの腕の中で暴れる。その瞬間、ここが無重力なんてことを忘れていた。
 暴れたせいか、二人の体が揃って宙に浮く。
「くそ生意気な奴になってしまったけどな、こーゆーときは可愛いよ」
 くるくると回転しながら言う台詞でないと、立て続けの醜態にキイチはボブを睨み付けた。
 落ち着かない体勢を必死で整えて、なんとか壁に足をつく。ついてしまえば、後はバランスを取るだけで、先にボブが足場を確保した。
 なのに。
「可愛いよな、お前って」
 いい加減やめてくれ、と訴えそうになりながらも、キイチはきつく唇を噛みしめる。今の醜態が、ボブにそう思わせてしまったのだと思ったからだ。
「すみません……」
 項垂れて詫びの言葉を呟くキイチのようにボブが鼻白んだように首を傾げた。
「え?と」
「こんな失態してしまうなんて、訓練不足もいいとこですね。帰ったら、訓練に励みます。すみませんでした」
「え?と」
 再度同じ言葉を呟いたボブが、キイチの顎を掴んで上げさせた。視界には入ったその顔には、苦笑が浮かんでいる。
「俺が言ったのは、慌てふためくお前が可愛いなってこと。失敗を嗤ったんじゃねーよ」
「え?」
「つまり、お前が女だったら速攻で押し倒すくらい可愛かったってことよ。真っ赤な顔して情けなさそうに顔歪ませてな。とても、俺よりでかい男とは思えねー」
 心底惜しそうなその言葉。
 だが、キイチは沸騰しそうだった脳が、その言葉で一気に氷点下まで下がったと思った。
 すうっと狭まる視野に、慌てて首を振って払う。
 するっと離れた腕ほ呆然と見つめながら、キイチは何度も先ほどの言葉を反芻した。
 女だったら。
 結局、ボブの好みはそれにつきるのだから。
「いやあ、惜しいっ。お前って世話女房タイプだしな。いろいろと細かいことに気が付きそうだ」
 凝りもせずに呟かれて、キイチは冷めた表情でボブに視線をやった。
「……そうですね。ボブがたくさん仕事できるように思いっきり世話して差し上げますから」
 心の中は思いっきり荒れているのに、声は平坦で、顔の筋肉も働くのを拒否したように動かない。だから、ひどく落ち着いて見えるだろう。
 今はそれに縋るしかなくて。
「前言撤回。俺が何をしても許してくれる子がいい」
「そんな殊勝な女の子なんか、カベイロスにはいませんよ」
 泣きたいくらいに頭の中が混乱しているのに、顔は笑みすら浮かべている。
 引き裂かれた感情と理性が、別々に動いて、キイチを苦しめた。
 結局ボブの頭の中には、女性しかいない。まかり間違っても、男であるキイチの入り込むスペースはないのだから、と。
「そろそろ行きませんか?」
 このままボブの戯れ言を聞いていると、自分を見失ってしまいそうで──そんな情けない態度など取りたくないと、キイチはボブより先に進み出した。
 本来なら、ボブを先に行かせて最後尾を守るのがキイチのいつもの役目だったのだけれど。
 今は、ボブの姿を見ていたくない。
「待てよ、こらっ」
 慣れないポジションに先に気付いたのはボブだ。焦るキイチの態度が変だとさすがに気付いて、その肩に手を伸ばす、が。
「っ!」
 今度こそキイチは感じた。
 ぞわりと、濡れたぞうきんで裸の背中を一撫でされたような、不快なざわめきが肌の上を這う。僅かに遅れてボブが足を止める。
「これは?」
 まだ正体のわからない気配にボブが呆然と振り返る時には、その手が腰に付けていた短銃に伸びていた。
「敵っ!」
 キイチの手に握られているのはボブが持つものより一回り大きい。ボブが持つものは護身用だが、キイチのは威力もある破壊用のものだ。それが油断なく構えられる。
「伏せてっ!!」
 鋭い叱責に、反射的にボブの体が沈む。だが、重力がないせいか思うように体が沈まない。キイチは慌てて、その体を体重をかけて押さえた。
「ちっ!」
 この時になって初めて、キイチは自分がミスしたことに気が付いた。貨物が通る故に広い通路は隠れるところは何もない。逃げるチャンスを無くして、キイチ達は隠れるところもない場所で敵を迎え撃つハメになった。しかも、話し込んでいたせいで仲間達ははるか遠くに移動している。すぐの助けは無理だった。
 キイチは苛つく己を押さえるように息を整え、悪寒の原因を探る。
 ボブの体のはるか向こう。
 分岐した道の影からそれはゆっくりと姿を現していた。
 その見慣れたフォルムに、キイチは息を飲む。
「カーペンター・フォー……」
 ボブも顔だけを上げて、それを凝視する。
「なんで……」
 震える唇が言葉を紡いだ。
 それは、オリンポスで作られたメンテナンス作業用ロボットだった。
 多関節の腕を4本持ち、4対の小さなタイヤで自動走行可能な多機能ロボットだ。宇宙空間や危険箇所、戦闘中の被弾箇所など、人間の身では危険なところを作業するために作られたロボットで、常ならばその手にあるのはそのための工具類だった。
 が、今その4本の腕にあるのはそれぞれに型が違う、だが明らかに殺傷能力を目的にして作れられたライフル銃だった。長い銃身が四方へと向けられ、ゆっくりとカーペンター・フォーの胴体が旋回する。
 いわば仲間であるロボットが明らかに異常を示している。
 その事に一瞬呆然としたキイチをボブの言葉が現実に引き戻した。
「やだねえ……勘が当たっちゃったよ」
 その脳天気さに、くすりと笑みが零れる。
 お陰で緊張が解れて、肩の力が抜けた。
「下がってて」
 ずりずりと匍匐で後退するボブを庇うようにキイチがその前に跪く。格納庫まで50メートル。そこまで戻れば、隠れるところはいくらでもあった。
 そして、あれはまだこちらに気付いていない。
 キイチは持っていた拳銃を構え、照準を合わせた。
 関節……しか、駄目だ……。
 見慣れた筐体をつぶさに観察し、狙う場所を決める。
 船外作業も念頭に置いて開発されたこの種のロボットは、その装甲は丈夫だ。単なる衝撃や熱戦では破壊できない。ならば動けなくすることが先決だった。
 キイチは一瞬でそれだけを判断すると、すうっと息を吸う。
 背後のボブが数メートル離れているのを感じる。
 そして、まだロボットは気付いていない。
 睨みつける瞳に力が入り、照準が合う。
「っ!」
 最大出力で設定されたその筒先から、装甲弾が飛び出した。狙い違わずカーペンター・フォーの軸足に当たる。
 ぐしゃ
 狙ったタイヤと筐体との隙間に走る軸。それが折れた。
 がくりと傾くロボットに、そのまま倒れてしまえ、と願ったが、それは叶わず、傾いたまま止まってしまった。
 さすがに安定性もあるせいか、その程度の故障ではその機能の大半を奪うことは無理だったようだ。しかも、こちらの動きに気付いたカーペンター・フォーの視認センサーがこちらをゆっくりと向く。
「キイっ!」
「急いでっ!気付かれたっ!!」
 ここで躊躇うボブではない。
 キイチの言葉と共に中腰になったボブが全力で走り出した。
 その気配を背に感じてキイチはホッとする。
 今はいても邪魔なだけの存在に、いなくなってもらったことに。そしてボブがその判断を誤らなかったことに。
 これがダテなら、ぐずぐずと躊躇うであろう事をキイチは知っていた。
 実戦経験の少ないダテの、まだ足りない部分がそれだ。だが、ボブはもう何度となくキイチと行動を共にしてきた。だからボブはキイチの言いたいことが即座に伝わる。
 それは小気味よいほどで、まるで心と心が通じ合っているような充足感をキイチは感じていた。
 だから。
「よし、来いっ!」
 バックパックから後ろ手に取り出したエネルギーパックを拳銃に追加装備する。
 人相手なら今の装備で十分だが、こちらに気付いた狂ったロボットには、それ相応の武器が必要だ。
 ワンタッチでつけられるそれ。
 その手に伝わる微かな手応えに、キイチはにやりと口の端を上げて嗤った。

 

 それはほぼ同時だった。
 キイチの拳銃から先ほどより威力が増した装甲弾が撃たれたのと、カーペンター・フォーの4つの手のライフル銃が撃たれたのと。
 単発銃弾式のキイチの銃は威力は大きいが、次の攻撃に僅かな間が開く。
 だが、カーペンター・フォーのライフル銃は単発ではあったが光線式だった。引き金を引いている間、一筋の何もかも焼き尽くす威力のレーザー光が照射される。流れる光の筋は目に見えない。そこに埃でもあれば、かろうじて見える程度。だが、確かにそこに合って、触れでもしたら弾が直接当たるのと大差ないダメージを与えるのだ。
 それをキイチは勘だけですり抜ける。
 その銃口の向きと、微かな焼ける匂い。そして弾着痕がその情報の全て。
 それでも触れた光線に、キイチの防御服が黒い染みを作る。
 キイチはその中を縫うようにして、格納庫側へと下がっていった。
 幸いにしてカーペンター・フォーはもとが工作ロボット故に、動きが鈍い。だが、精密・精巧さは他と比べモノにならない。キイチの行動を分析し、判断し、次の狙いは正確無比で、キイチは野性的な勘だけでそれを交わす。
「ちっ!!」
 駄目かっ!
 心の中で罵倒して、キイチは後ろに跳ねて着地した。その先ほどまでいた場所に着弾が集まる。
 後、10メートル。
 ちらりと窺う先で、ボブが身を隠しながら立っているのを見つけた。
 キイチをサポートしようとしているのか、その手に握られた拳銃はカーペンター・フォーに向いている。だが、幾度も狙っていたそれは、結局キイチの体が邪魔で撃てそうにない。
 動けないカーペンター・フォーは狙いやすい。けれど、どちらにせよボブのものではあれを倒せない。
 一瞬過ぎった思考に、即座にキイチは従った。
 再度バックパックから取り出した部品を手に持っていた拳銃に取り付ける。
 拳銃を一度だけ対戦車砲に変えることができる威力を持たせることがでるから。
 2秒とかからず組み立てて、腰をしっかり据え付ける。
 ちょうどその時、カーペンター・フォーの動きも止まった。
 視認センサーが慌ただしく動き、キイチの動きを探る。
 キイチの手の中のそれが何か、判断し分析しようとする。
 その瞬間、キイチは躊躇うことなく引き金を引いた。
 威力のあるそそれの反動はきつい。
 撃った瞬間、腰を据えていたにもかかわらず、キイチの体は反動で仰け反った。慌てて付いた片手で体勢を立て直し、立ちあがろうと腰を浮かした。
「ぐっ!」
 体が弾けるような衝撃に、キイチはそのまま背後に飛ばされた。
「キイッ!!」
 聞いたこともないようなボブの声が耳朶を打つ。
 何が起きたか判らなくて、キイチは視界に入っている天井を見つめ、そしてのろのろと頭を動かした。
その視野の端に、手足がある胴体部とセンサーが集まっている頭部との継ぎ目から火花を発しているカーペンター・フォーの姿が入っていた。
 ……ああ、当たったんだ……
 急速に失われつつある意識が、それでもそう判断する。
 良かった……。
 ただ、それだけが頭に浮かぶ。
 嬉しいと、顔が歪んで。
「キイッ!」
 聞き慣れた声が間近に聞こえ、閉じかけていた瞼をこじ開けた。珍しくせっぱ詰まっているボブを、キイチはぼんやりと見上げる。
「……ボブ……」
 作戦中に何度も呼んだ名前なのに、どこか違和感があった。
 なんでだろう?
 しばらく逡巡して、ああそうか、と気付いた。
 お兄ちゃんだ。
 彼のことはずっと、お兄ちゃんと呼んでいたから。
「痛むかっ」
 ボブの手がバックパックから取り出した薬をキイチの腕に圧入する。
「痛く……ないのに……」
 ふと呟けば、ボブの顔色が変わった。
「ストレッチャーっ!」
「経路を確保っ!」
 騒がしい声が、水の中にいるようにくぐもって聞こえる。
 何でそんなに慌てているんだろう?
 不思議な思いばかりがして、キイチは自分の手を持ち上げた。
 手袋が赤い。
 どうして?
 こんな色でなかったと、独りごちて。
 だが、不意に腕から力が抜けた。
 目の前に真っ黒な渦が巻いて、何もかもが闇に包まれて。
「キイッ!!」
 もう、返事ができなかった。

                    ◇◆◇
「バカ……」
 見下ろす先でコンコンと眠り続けるキイチに、ボブはため息混じりで毒づいた。
 力無く伸ばされた手に取り付けられた点滴液は、小さなポンプを介して一定のリズムで注入されていく。
 それが食事を取ることのできないキイチの栄養源と、そして細胞活性を促す薬だった。
 幸いにして重要な器官はみな無事で、外科手術だけでキイチは一命を取り留めた。だが、キイチはまだそのことを知らない。
 あの時から意識を回復しないキイチの腕につけられた点滴と生きる気力だけが回復する源なのだ。そこにボブができることは何もなかった。
 それが悔しい。
 キイチがあの時動かなかったのは、自分が後ろにいたせいだと知っている。
 一直線の通路で逃げるに逃げられない場所だった。
 ──まさか、あんなところで……。
 それを考えると、油断だと一言で言い切れるものかも知れない。
 単純な修理だと思っていたから、警戒心などほとんどなかった。ただ、嫌な予感はしたけれど、そのときの会話で緊張の糸が緩んでいたのだろう。
 可愛かったから。
 いつもは誰よりも強いと思わせるほどに、元気で力強さを見せてくれるキイチの、真っ赤になった姿が可愛かったから。
 だから、あの瞬間ボブは、嫌な予感のことを忘れていた。
 そしてキイチもあまりに焦ったせいで、いつも自然に行っていたポジションの維持と警戒心を無くしていた……。
「くっ……」
 痛みを堪えるようにボブの喉が鳴った。
「まだ……17だろう?そんな年で死に急ぐなよな……」 
 鼻の奥がきな臭くなって、溢れそうになる涙を堪えるようにきつく瞼を閉じる。
 その脳裏に浮かぶのは、ボブが知っているキイチの姿だ。
 初めて見たのは泣いている姿。
 それから綺麗な笑顔で笑って。
 ボブの姿を見るとひどく嬉しそうに笑ってくれた。
 だが、まだ小さかったキイチの姿が、ある日を境にずっと大きくなる。
 それまで実家に帰った時に逢おうと思えば逢えていたはずなのに、友達と遊びほうけて、ほとんど家に寄りつかなかった。だから、ここにやってきたキイチ・ウォンが、あのキイだったとは夢にも思わなかったのだ。
 同じ名前だな……とは思ったくせに。
 自嘲めいた笑みを浮かべて、ボブはようやく目を開いた。
 ポンプのパネルにつけられた緑の小さな光が、一定のリズムを刻む。ボブはポンプから続くそのラインを辿り、肌の中に消えていく寸前で指を離した。力のない腕は、酷く弱々しく見える。それは昔見た泣いている小さなキイチの腕とそう変わらない。
 だが、大きくなってボブの前に現れたキイチの腕は、皆を守るためにあった。そこには、ボブが知っている、弱々しいキイチはいない。
 それどころか、ボブに対して平気で悪態をついて、いつでも怒っている。そこには、懐いてくれていた様子なんてどこにもない。
 もう、あのキイチはいなくなったのだと、少し寂しくて。ただ、キイチの笑顔はあの時と変わらないから、本当はいつも笑っていて欲しかったのだけど。
 だが、そうやって笑いながら、重たいマシンガンとて軽々と担ぎ上げ、その反動を構えた体で平気で受ける。それがまた違和感があった。
 いつの間にかボブを越えていた体躯は、筋肉質でそんな重労働が決して負担には見えない。
 だが。
 キイチがカーペンター・フォーに撃たれた瞬間、その力は一気に減退した。自分が撃たれたことにも躊躇わず、トリガーをひいたキイチの腕からキイチ愛用の短銃が飛ぶのを見た。崩れたキイチを抱え上げ、そして、縋るように自分を見ていたキイチの瞳の、今まで見たことのない弱々しさに息を飲んだ。
 ──痛くないだって……そんな筈あるかよっ!
 笑うキイチに気が付いたら頭を殴るような暴挙に出たのも、どうしていいか判らなかったからだ。
 キイチは変わっていなかった。
「お前って……やっぱ可愛いよなあ……。そんなふうにいっつも一生懸命でさ。バカだよ。俺なんか庇ってこんな怪我してさ。お前のことすっかり忘れて、女ったらしって皆に言われるほどに節操無しで。お前にはいっつも怒られてばっかりで。いい加減呆れてんだろ、俺のこと。だから庇って貰わなくたって良かったのにさ。助けて貰う価値なんてないぞ、俺には」
 言っててあまりの情けなさに、思わず両脇に降ろしていた手を握りしめた。
「バカだよ、バカってんだよ……だから……」
 握りしめた手が小刻みに震え、血の気を失って白くなる。それでもボブは、拳から力など抜くことができない。そして。
「バカ……って言ってんだから……だから、いい加減起きて……いつもの……に……怒れ……よ……」
 まるで手の震えが全身にまで移ってしまったように。
 ボブの言葉は堪えきれないように震えていた。
3
「ん……?」
 目を開けて、最初に見えたのは乳白色の天井だった。
 見覚えのないそれに、キイチはぼんやりとそれを見つめる。聞こえる規則正しい音に、空調の奏でる優しい音。つんと僅かな刺激を与える匂いの中、衣擦れと足音がする。
 ここはどこだろう、と、キイチは頭を動かそうとして、途端に走った鈍い痛みに顔を顰めた。腹の辺りがひきつれたように痺れている。それに手足も結わえ付けられたように一定以上動かない。
 動きにくくて戸惑いばかりに襲われる。
「何、これ?」
 なんとか巡らした視野に入ったのはベッドとそこに寝かされている自分の体、そして上掛けから覗いた腕に、極細の透明チューブが埋め込まれていること。その先をたどれば、点滴のパックが送出装置に据えられていた。
 先ほどから聞こえていたリズムは、その点滴パック内の液を押し出す音だった。そのパックの表面に書かれた文字を読んで、そして刻まれた名と数字を読む。
 それは確かにキイチの名だった。それでここが病室だとは気付いたが、今度は何故こんなところにいるのかが判らない。
 と。
「やっと起きたか?」
 頭の方からした聞き覚えのある声に視線を巡らせば、眉を顰めて怒っているようなボブの顔があった。
 それはいつもと変わらす方であったようで、だがしかし、キイチはその姿に違和感を感じていた。だが、すぐにその目が赤いせいだと気付いた。
 見下ろす視線もきつく、静かな怒りが伝わってくる。
 何か起こらせるようなことをしただろうか?
 怒らせるのはいつものことだったが、未だここにいる記憶が戻らないキイチには、とんと見当がつかない。
「ったく。その程度の傷で4日も眠り続けるもんだから、さすがにドクターも心配していたぞ」
「4日?」
 言われるがままの言葉を問い返す。
 そのままもう一度点滴パックを見て、ならばこれは栄養剤かと思い至った。
 そのキイチのぼんやりとした視線に気付いたのか、ボブが眉間のシワを深くして問いただしてくる。
「お前、自分に何が起こっているのか判ってんのか?」
「えっと……」
 見つめられて居心地が悪いと思いながら、キイチはそれを思い出そうと記憶を辿った。
 長い間眠っていたせいか、脳の動きが悪い。脳細胞が慌てて動き出そうとしているのか、いろんな記憶が時間の前後関係を無視して浮かび上がる。それでもキイチはその中から関係ありそうな事象をピックアップしていった。
 少なくとも最初に関連ありそうな出来事は、ティシフォネに向かったこと。
 ボブとの会話。
 それから……。
「あ、撃たれたんだ……」
「ああ」
 武器を持ったカーペンター・フォーがあらわれて、キイチはそれに応戦した。
 ボブを逃がして、何も隠れるところがない空間で、最後に使い捨て対戦車砲システムを取り出して。
「当たって良かった」
 そういえば、命中したんだとほっと安堵の言葉を吐けば、途端に頭に痛みが走った。それは力の入っていないものだったが。
「痛いです……」
 傷口まで響いた。
「何が当たって良かっただっ、てめーは!」
 沸騰したかのように怒りだしたボブに、キイチは誤解を与えたと気付いて、慌てて首を横にふる。
「あ、……違いますって」
 それだけでも、関節がぎしぎしと音を立てるような気がする。
 これは、何もかもが強張って、筋力すら衰えているとキイチは朧気ながらに感じ取った。
「あいつに当たって良かったって思ったんですって」
 途端にボブが振り上げかけていた手が止まった。見る間に顔が赤くなる。
「あ、そか……すまん……」
 照れて謝罪するボブというのも珍しく、キイチは目を見張った。
「大丈夫です。もともと丈夫だし」
「生身の人間が撃たれたら怪我をするだけじゃすまねーんだぞ……」
 力無い言葉に、なぜかキイチは嬉しくなって自然に笑みが浮かぶ。
「でも、生きてるし。僕ってこういうことには、丈夫でしょ?」
「バカヤロっ!それでも軽々しく撃たれるんじゃねーっ!!」
 キイチの言葉に声を荒げたボブが、それでも小さく深呼吸して感情を鎮めた。
「とにかく全治一ヶ月。入院期間は2週間。その後は自宅療養ってことになった。それと……ドクターから伝言。今度から当たるんだったら、もうちょっと治しやすいところにしろってさ」
「そんな無茶な」
「無茶でも、今度から絶対にそんなとこに当てるな」
 傷ついた部分であろう腹の一部を指差しながら、きつい口調でボブが言う。きっとドクターにそこまで言わせるほどに傷が酷かったと言うことだろうと、キイチは思い当たって、心配かけたのだと申し訳なくなった。
「すみません」
「そう思うならさっさと治せ。ったく、何でお前が傷つかないといけねーんだよっ」
 苛々と、指を唇に押しつけているボブにキイチは目を丸くした。
「だって……、僕は警備兵だから。ああいう時は、みんなを守らないと」
 そのためには、自分の怪我など二の次だ。
 少なくともあの時はそうすることが一番だと思ったのだ。あのカーペンター・フォーの動きを止めさえすれば、後顧の憂いは無くなって、みな無事に脱出できるし、そうすればボブもみんなと合流できる。だが、そう思っていたのに。
「ばかっ!!」
 勢いよく怒鳴られた。
「他のところならいざ知らずっ、ここじゃ、そんな考えは捨てろっ!助かる時にはみんな助かるんだっ。一人だけ怪我して、死んでしまったとしてみろ。そんなん、俺達は許さない。みんな生き残ってなんぼだっ!!ああいう危ない時には、一番に逃げとけっ」
 ボブの荒々しい言葉にキイチは一瞬圧倒されかけた。確かにそれは確かに一番の目標だ。だが、それができない場合どうすればって考えれば、キイチは自分のとった行動が間違いだとは思えない。
 そう思うと、今度はボブの言葉に苛々と言い返す。
「僕の役目は警備です。ヘーパイトスの技術者を守ってこそなんぼ、の隊員なんです。それなのに、一人逃げるわけにはいきませんっ!」
「だからってお前が犠牲になるこたねーんだっ。こんな怪我してまで守る価値が俺達にあるってことはないんだよ。怪我してお前が死んだら、この世にキイチ・ウォンなんて人間がいなくなるんだ。そっちの方が十分重要なんだっ!特にお前のような、好んで弾の前に立つような奴は、命が幾つあってもたりねーし。命は一つしかねーんだよっ!」
「それはみんなだってそうでしょっ!ボブだって命は一つしかない。その命、僕は守れる立場にいるのに、守らないわけにはいかないっ!何より、僕はボブを守りたかったしっ!」
 ボブが声を荒げるから、それに応酬するキイチも自然に声が荒く大きくなる。
 だが、怪我をして初めて目覚めた体にはそれは負担が大きかった。
 気が付けば、息が続かずに大きく何度も肩で息をする。
 片肘をついて、起こしかけていた上半身が大きく揺らいで、キイチは再びベッドに体を寝かした。
 さすがにボブも今はそれどころではないと気付いたらしく、決まり悪そうに口を噤む。それでもきつく睨むような視線は変わらない。
 キイチとて負けてはいられなくて、じっとにらみ返していた。
「お前は……怪我しても煩いな」
 結局ボブがため的混じりで呟いた言葉で、張りつめた空気が和らいだ。
「誰のせいです」
 キイチもほっと一息吐く。
 もっとも返した言葉の裏にある言葉は、ボブも敏感に感じ取ったようで、うっと言葉に詰まっていた。
「とにかく……その件についてはここを出てからだな。とにかく今はその傷を治すことだけを考えろ」「はい」
 それにはこくりと頷き返す。
 キイチとて、こんなところでいつまでも寝ていたくはない。使わない筋肉はあっという間に衰えて、逆にそれを回復させるのには大変な労力を要する。体が資本の警備兵であるキイチにとって、それは致命傷にも近い。
 そう思いながら、目の前に上げた手を数度開閉させる。
「早く……治したい……です」
 それに、ここにいる間はボブから離れることになるんだ。不意にそう思って。
 少し感傷的になったキイチの耳に、ボブが幾分楽しげに呟いた。
「そっか、お前が入院中の間は、俺を止める者はいない訳で。ってことは、俺はその間自由だから──」
 その言葉に不安に駆られたキイチが見上げる先で、ボブは二カッと嗤った。
「って事は思いっきり遊ばれるって訳で」
「なっ!駄目ですっ!!」
 驚愕に思わず声を荒げて、途端に腹に痛みが走って、堪らずに顔をしかめた。
「大人しく寝てないと、治らないぞ?いいか?」
 あやすように言われても、先ほどの言葉が気になって睨む視線が強くなる。
「仕事……きちんとしてくださいよ」
「善処する」
 その一番信用ならない言葉に、キイチの眉間のシワはますます深くなっていった。
 ボブが去って静けさが戻った病室で、キイチはぱふっとシーツに顔を埋めた。
「ボブ……」
 膝を抱えて丸くなると、傷を刺激してしまう。それでも、その傷みすら気を紛らしてくれるなら幸いだと思った。
 いつも傍らにひっついて、ボブを追っかけ回していたから、今ここに彼がいないことが酷く気になる。
 最後に笑って出て行った彼が、あのまま女性の元に行くんじゃないかと、そう思うだけで落ち着いてはいられない。
 こんなにも動けないことがもどかしいことはなかった。
 閉ざされた空間がキイチを追い込んでいくようで、思考までもが狭い中をぐるぐると巡り続ける。
 ──怪我なんかするんじゃなかった。
 不意にそんな事を考えて、その口許に苦笑が浮かぶ。
 怪我をした瞬間も、さっきボブがいた間も、ボブの身代わりになれたことを悦んでいたのに。
 だが、今は後悔ばかりに襲われていた。
 今から退院するまで、そして任務に復帰するまで、ボブの元にはいられない。
 ボブの身を守ることがキイチの役目なのに、それができない。
 それよりも、キイチの変わりにボブが怪我をしていたら。そうしたら、必ずキイチは医者が言う以上にボブをずっとベッドに縛りつけて、絶対に女性なんか近づけない。
 彼が完全に回復するまでは、それができるのだ。
 それもこれも。
 ここにいる間は、キイチは自分の仕事ができないから。ボブを守ることなどできないから。
 閉鎖された空間。動けない体。
 いつもそばにいて欲しい人の不在。
 捕らえたい。
 離したくない。
 ひどい独占欲だとは思うが、キイチはそう思うことが止められなかった。

 

「キイチ、どう?なんだ元気ないな」
 することもなく、そうなると考えるのはボブの事ばかりで、そのあまりの不毛さにため息をついてしまう。そんなときに親しげに訪れた人を見つめて、キイチはきょとんと首を傾げた。
「あ?……あ」
 だが、すぐに彼の正体に気付く。
「コウライド少佐……どうして?」
 彼は、キイチがカベイロスに配属された時の教官だった人だ。キイチは彼に2ヶ月従事してヘーパイトスとカベイロスでの仕組みを教えられた。
 その後にボブの配下に配属されて、それからはほとんど合うこともなかった。そんな彼は今は、警備隊の副隊長の筈だと、キイチは思い出していた。
「忘れられるとは悲しいね」
 一瞬のキイチの表情の変化を読んだのか、コウライドは苦笑を浮かべて、ベッドサイドに腰をかける。
「あ、いえ」
 慌ててベッド上で居住まいを正していると、笑いながら手で制された。
「怪我人なんだから無理はしないように。……という前に、怪我をしないように無理はしないで欲しかったね。君が怪我したと聞いて、随分と驚いてしまったよ」
 彼には士官にありがちな高慢な態度がない。それはキイチが所属しているボブ達にも言えることだったが、彼も人懐っこい笑みが印象的な人だった。
「すみません、わざわざ」
「いや、こっちこそ見舞いが遅れてしまって申し訳ないね。怪我をした場所を聞いて、すぐには見舞いは無理かと思って遠慮したんだけど、意外に元気そうで安心したよ」
 蜂蜜色の髪が柔らかく肩まで飾り、濃い青の瞳がいつも静かに人を見つめてくる。
 本当に見た目はひどく物静かで、人当たりが良いように見えるのだが、実のところは結構苛烈な性格であることをキイチは知っていた。
 怒ると恐い。
 その言葉がまさに当てはまるのだ。
 殴られるて吹っ飛ぶ人間を多々見てきたキイチは、彼の指摘にただ苦笑を浮かべるしかできない。
「服がダメージを吸収していて、思ったより怪我が軽かったんです。それでも全治一ヶ月で、あと一週間はここにいないと駄目なんです」
 笑っている向こうでなんだか怒られているような気配がして、キイチは肩を竦めて上目遣いにコウライドを見上げた。
 そして、キイチのそういう勘はよくあたる。
「そうだね。だけど君の技量なら逃げられる程度のものだろう?記録を調べたが、ただの工作ロボットだろ?そんなものを避けられなかったなんて、キイチ・ウォンの名がすたると思うけれど」
「そんな……自分だって逃げられないことはあります」
 あの時、逃げることもできたかも知れない。だが、後顧の憂いを無くすためにもあれは倒さなければならなかった。艦の奥に入り込んでいた他の仲間達のためにも。そして、後ろにいるボブのためにも。 キイチはコウライドがじっと見つめているのに気が付いていた。指すようなその視線が痛くて、顔が上げられない。
 と。
「ロバート・グレイル少尉を庇ったって報告書にはあったけど?」
 その名にびくりと反応する。
「彼は君が命を課してまで守るほどの男かい?」
 声音が低く、冷たい。
 恐い。
 彼が感情を窺えない声を出す時は、その怒りがかなり大きいことを表す。二ヶ月そばにいて、その様をみたこともあって。
 その結果は。
 ……。
 記憶に甦ったその光景に、身震いしてしまう。
 彼は……こんな容姿の割には意外に手が早く、答えいかんでは殴られそうだと、本能が体を動かした。
「……怪我人は殴らないよ」
 苦笑混じりにそう言われても、怯えた体は元には戻らない。明らかにキイチの方が体格はいいのに、単純な強さから言えば、コウライドの方が強い。
「……グレイル少尉は、私の上官です。私の任務は、仲間を危険から守ることです」
 それが役目だと、何より目の前のこの男が最初に教えてくれた。それを守っただけだというのに。
「キイチ……」
 途端に室内の空気が一瞬にして、一度も二度も低くなったような気がした。それを敏感に感じた神経が、全身を動きに邪魔にならない程度に強張らせる。
「私が君に言ったのは、命を課してまで守れ、ということではない」
「……」
「他の軍ならいざ知らずヘーパイトスでは、己を守ることも重要だと教えているはずだ。ヘーパイトスは、個々人それぞれにいろんな技能が身に付いている。狭い艦内であれば、その人間がいないことによって、下手すればすぐに代わりがないことだってある。だから危険があるところに、自ら飛び込む必要はないと教えているはずだが」
「それは……判っていますけれど……」
 だが、自分にはそんな技量はない。
 手に持つ技量でヘーパイトスになったのではなく、警護の任に付くために、ヘーパイトスに入ったのだ。
 それは自分に当てはまらない。
 そう思っていた。
「キイチ……前にも言ったろう?お前は背に目があると言われるほどの気配への敏感さと勘の良さが買われている。それだけの力を持った技能者はこのカベイロスにはいない。リオ・チームが危険な場所で数々の成果を上げているのは、君がいるからだという評価を、君は知らないのかい?」
 それには首を横に振るしかない。
「リオ・チームはみなさん優秀です。自分はそれを助けるだけです」
 本当に、自分などたまに後ろでぼおっと突っ立っているだけのことだってあるから。
 と、途端に苛々とした手が伸びてきて、俯いていたキイチに顔を上げさせる。
「君は自分を卑下しすぎる。もっと自信を持ちなさい。どうしてそんなに萎縮してしまう?グレイル少尉とて、君がそこまで体をはって守らなくてもその瞬間なんとかしただろう。それ位の訓練は受けているはずだし。君が命をかける必要はない」
「でも……」
「でも、ではない」
 そういうコウライドの顔がひどく近くて、なのにベッドの上ではもう動くスペースはない。
「私は、君が傷つくのは堪えられない。だから君を私の元に呼び寄せて、私のそばで働けるようにしたい」
「そんっ!」
 反論する言葉もろとも唇が塞がれた。
 逃れることなどできないほど、きつく顎を掴まれて、後頭部を押さえつけられる。突っ張った手はどんなに強く押しても、コウライドの体を押しのけることは敵わなかった。傷を労ってか、無理な押しつけはしていない。なのに。
 動かない。
 そして、不意に背筋に疼きが走って、逃れようとする力までもが抜けてしまう。
 ──どうして……?
 彼がそんなことを自分にするということも驚きながら、それから逃れられず、しかも感じている事実に驚きを禁じ得ない。
 ただ触れられているだけの感触が、確実に性的なそれに変わっていく事実。
「キイ……君は、私が鍛えたい」
 息苦しさも手伝って、荒い息を繰り返すキイチに、コウライドははっきりと告げた。
「はあ……っ……、自分は……今のままがいい……すっ」
 ボブと離れるつもりはなかった。
 たとえ叶えられない思いでも、彼と離れたくないから、彼を庇い続けてきた。
「私とて、諦めるつもりはないよ」
 そして、コウライドのその強気な態度が自信に裏打ちされていることも、また、間違えようのない事実であることをキイチはよく知っていた。
 そしてその手が、未だ逃れる術を見いだせないキイチの肩を押さえつける。
「や、……めっ……」
 再び降ってくる口づけから逃れようと顔を背けるが、それすらも難なく捕らえられた。
 そういえば寝技が得意だったな……としょうもないことを頭が考えるのは現実を拒絶しようとしているからだったが。
「んっ……くっ……」
 するりと入ってきた舌が口腔内を貪り尽くすようにうごめく。
 逃げようとした舌が難なく絡め取られ、吸い付かれて、拒絶の言葉も発することはできなかった。ぞわりと総毛立つ肌の感触に煽られて、体が熱くなる。
「あ……ん……」
 くちゅっと濡れた音がやけに響いて、キイチは羞恥に顔を赤らめた。
 それほどまでにコウライドのキスは巧みで、拒絶する心も何もかもが流されそうになる。もとより、疲れていた心は、拒絶しようとする意志すら放棄していたらしい。
 だが。
 目を固く瞑ったせいで広がっていた闇の世界にふわっと異質なものが入り込んできた。
 ──誰かがいる?
 途端に明瞭になった意識が現実を認識して、キイチはあらん限りの力で体の上のコウライドを突き放した。
「あっ……」
 起きれないままに、見開いた目で気配を感じた方を見つめる。
 薄く開いたドアの影には、もう何者の気配もない。
 だけど。
「逃げたね。ここに乗り込む気がないということは、彼にとって君はどうでもいい相手なのかな?」
 くつくつと笑いながら告げられた言葉にキイチは首を振って否定しようとして──だが、その頭は硬直したように動かなかった。
 あの時、確かに感じた気配は今はもうどこにもいない。
「諦めなさい。私がいるから」
 コウライドの指がキイチの顎に垂れていた唾液を掬い取る。
「……知ってて……」
 なすがままにされながらも、キイチは震える声でコウライドを責めた。
「君と同じく、私も勘は鋭い方でね」
 邪気の欠片もなくコウライドが笑う。
「諦めなさい」
 同じ言葉を再度呟くコウライドからキイチは視線を外して、そしてその場所を見た。
 ドアの向こう、そこは見通せない場所。だけど。
 あの瞬間感じた気配は、確かにボブのものだった。
4
「どうしたんです?今日はおとなしくしているんですね?」
 うつむき気味に手元のディスプレイをのぞき込んでいたボブは、その明らかに揶揄混じりの言葉にちらり視線を向けた。
 見なくても判っている相手が、口元に薄ら笑いを浮かべているのを見て、不快さが増した。それでなくても、イライラと落ち着かない気分なのだ。そして、相手はその理由を判っているのだと、長年のつきあいから気がついていた。
 何せ生まれる前から一緒にいた相手だ。
 帝王切開で生まれた二人は、ほぼ同時に胎内から取り上げられ、その後手術によって別個体になった。それまでは、右肩と左肩でつながっていて離れることなどできなかったから。その時、たった一つの欠損部である片腕も形成され、それぞれの離れた肩に取り付けられた。
 そんな二人は、通常の双子以上に互いの心が伝わってしまう。そしてそれこそが、二人の特異体質だ。
「お目付役がいないものですから、てっきり遊び回っているのかと思いましたよ」
 ──判っているくせに。
 苛つきがさらにまして、ボブの眉間のしわがさらに深くなった。
 ビルの毒舌は今に始まったことではない。そんなものは、生まれてこの方聞き飽きていたとはずだというのに、それが聞き逃せない。
 自然にキーをたたく指が激しくなり、鳴らないはずの音があたりに響く。
「壊れますよ」
 ため息混じりのビルに、ボブとて自覚はあるから、その手を止めた。キーはこんな事では壊れない。壊れるのは、己の指だ。それもばからしい、と。
「で、不機嫌の原因は、キイの見舞客のことですか?」
「また夢にでも出てきたか?」
 やはり、と自嘲めいた笑みを浮かべて、ボブは体ごとビルに向き直った。ビルは睡眠中、何かの折りにボブの心を受けてしまう。
「いいえ。ただ、先日キイチの見舞いに行くと言った割には帰ってくるのが早かったことと、最近煩雑に訪れる見舞客がキイチにご執心だという、看護士達の噂話からの単なる推察ですが」
「……噂か……」
「まあ、単なる噂ですからね。真実のほどは判りませんが」
 噂どころか──ボブは自身の目でそれを見てしまった。
 そして得意げに視線をよこした、あの男の顔は忘れようもない。あの男は、ボブが見ていると知っていてわざと見せつけたのだから。
 腹が立つなんてもんじゃなかった。そしてあれ以来、キイチの元には行っていない。
 行って、あんなシーンを見せつけられるのはまっぴらごめんだ、とその事を思い出すたびにひどく腹立たしくなる。
 ──キイも、イヤなら押し退けろよな!
 まるで縋るように相手の服を掴んでいた指を、その場に乗り込んで引きはがしたくなったのも事実だ。
 だが。
「キイが誰と仲良くしようが、それはキイの意思だからな」
 明らかに怒りに満ちたその声音に、ビルは呆れながらも了承するかのように頷いていた。
 イヤならイヤと言わない限り、ボブにもビルにもどうすることもできない。二人にとってキイチは他人であり、その意思は言葉にしない限り伝わらない。
 そう、キイチは言わなければならないのだ。
 自身の思いを、そのまま言葉にして。
 だが、ボブ自ら何度もつくってやったチャンスに、キイチは気付かない。
 天然呆けもいいとこだ……。
 苛つく理由をキイチのせいにして、ボブはひそかに毒づいた。が、ビルはその口許に冷笑を浮かべてボブを見つめている。
「で、いつからあなたは自覚したんです?」
 容赦のない問いかけに、ボブは仕方ないとばかりに言葉をはき出した。
「最初からってのは語弊があるか?なんていうか、気になる相手ではあったな。だが、自覚したのは……あの時か……」
 今でも夢に見る。
 体の下で真っ赤になって身もだえていたキイチの姿は、扇情的にかわいかった。女相手ならいくらでも経験があるボブだが、後にも先にも男相手に欲情したのは初めてで、本気で欲しいと思ったのも事実。そしてあのとき確かにキイチが感じていたのにも気づいている。
 それでも、鋼の意思を発揮して、キイチが逃げる隙をわざと作ったことに彼は気づいていない。
 無理矢理することが恐いと思ったのもキイチが初めてだった。それほどまでに、キイチが愛おしくなっていて、そして、キイチの瞳に宿る想いなどとっくの昔に看破しているのだが。
「……意地が悪いですね……自分からは言わないつもりなんでしょう?夢にまでみて、妄想しているくせに。お陰様で、しばらくキイを見るたびに私まで欲情してしまったではありませんか」
「見せたくて見せてる訳じゃねーよ。……だいたい、誰が言うか。あんな可愛かった奴が俺よりでかくなりやがって。しかもくそ生意気に育ってから。そのうえ、その気になれば、俺を押し倒すことだってできるような奴なのに、俺が忘れていたからってすんなり諦めようってのが気にくわない。こういう事にはノミの心臓並みに肝っ玉が小せーてのが許せねーんだよ」
 キイチがなぜここにきたのか。
 まだ勉強できる三年間を無視して、カベイロスに配属を希望したのはなぜか。
 それに気づかないほどに、ボブは疎くはない。
 なのに、そんな思いでここまできたキイチなのに、致命的なまでに忘れっぽいボブが覚えていなかったからと言って、諦めようとしていたのだ。それがどうしても許せないし、そんな弱気なところをなんとかしたいと思う。
「それって……八つ当たりもいいところですよ、ほんとに。……意地が悪いとしかいいようがないでしょうねえ。あの子からすれば。それにキイはきっかけがないとなかなか一歩が踏み出せない子ですからね」
「……平気で死の局面にその体を投げ出すくせにな」
「それはあなただったからではないですか?」
「あいつは他の奴相手でもそうだよ」
 キイチは強い。
 その戦闘能力は、その専門集団であるアーレスに比較しても絶対にひけを取るものではない。
 ただ。
 このへーパイトスにおいて、物を作れないという──どちらかというと壊す方が得意だというそのことに、負い目を感じているキイチの唯一の欠点は今ひとつ自信がもてないところだ。
 だからこそ、先日のような場面で平気で身を投げだす。自信がないから、他の手段では守れないと思ってしまうのだ。
 だが、それではダメだ。
 ボブは知らずに頭を振っていた。
 それでは命がいくつあっても足りるものではない。死を選ぶ前にするべき事はいくらでもある。
 それこそ、ボブを囮にするようなそんな戦い方を選ぶだけの自信と度胸も持たなければならないのだ。そして、それでもボブを助けられるほどの技量をキイチは持っている。
 それにキイチは気づかない。
 ただ守ることだけに腐心して、犠牲にすることで守れるという手段に気がつかない。
 玉砕という言葉を、そんな戦闘場面でなく、対人関係において使って欲しいと思うのはおごりだろうか?
 キイチに足らない自信がつけば、それは自ずと言葉になるだろう。だからボブは待つしかない、と思っていたけれど。
「イライラしてくる……」
 たまらずに呟いた言葉に、ビルが哀れみの視線を向けてくるのを、わざと無視する。
 どんな思いで、ボブがキイチの言葉を待っているのか、それを知っているのは本人以外ではビルだけだった。
「それで……ここ数日、遊びに行かずに熱心に行っているのは一体なんなんです?まあ、見せつけて妬かせる相手もいないのでは張り合いが無いんでしょうけどね」
 暗くなった雰囲気を切り替えるようにビルがいつもの毒舌付きで問いかけてきた。
「……ティシフォネの修理計画だ。さっさとやらねーと、いつまでたってもとりかかれねーだろ」
 後半部は無視して、それでも不機嫌さが隠せないままに、言葉を放つ。
 向けた視線の先で、あの艦の断面図が展開されていた。
 その図面の右下に、知るされたTisiphoneが目に入って、ボブは忌々しげに唇をゆがめた。
「復讐の女神が乗っ取られてんじゃねーよ」
 艦につけられた名は、それぞれに意味がある。
 機動力がある彼女は、敵の懐に飛び込んでその唯一無比の主砲で復讐を果たすだろう。ティシフォネは復讐の三女神のうちの一人だ。アレトクとメガイラとともに、三位一体の攻撃を得意とする戦艦だと資料には書かれている。
 艦隊の意思を具現させるはずのティシフォネは、だが、いつ味方を攻撃するか判らないほどに狂ってしまった。
 だから、外部から主動力を停止させたのだが、それもいつまでこちらの制御下におけることか。
 そして片はついたと判断した司令部からその復帰行為を請け負ったのがリオ・チームで。
 だが、結果はさんざんだ。
 あのとき。
 キイチが撃たれたことであのまま全員帰投した。もとより、そんな装備をしていないのだから仕方がない。狂ったカーペンター・フォーが一体だけとは限らないからだ。
 そして。
「だいたいな、結局駆除できてるっていう最終確認をしていなかったってーのは、どういう怠慢だよ。しかもよりによって個体回路であるロボットに蔓延しているっていう事実が今頃になって判るってのは、どういうことなんだ?しかも、あのくそったれウィルスは……」
 事件に驚いた司令部が、改めて詳しい調査をさせた結果入った情報には、今頃になって判った事実が山のように入っていた。
 あの艦のウィルスは駆除できていなかったのだ。しかも、それは放置している間に増殖を重ね、固体回路であるロボットの頭脳にすら入り込んでいて、生命体を敵だと識別しているという。だからこそ、あのカーペンター・フォーはボブ達を攻撃してきたのだ。
 戦艦一隻がウィルスに乗っ取られているという状況に、発生から三日も経っている今頃判るなど愚の骨頂だ。
 だが、ボブが腹を立てるのはそれだけではない。
 ボブ達が進入するまで何の行動も起こさなかったウィルスの、人をバカにした行為こそが腹を立てる原因だった。カベイロスから後方支援ですべての動きをモニターしていたベルによると、あのウィルスは己の存在を誇示するために、ボブ達を招き入れたのだという。
『生かすも殺すもそいつの意思次第……という訳だね』
 ベルの言葉が、耳の奥に響く。
 つまりキイチが撃たれたのは、ウィルスが「邪魔をするな」と、その意思を露わにしたにすぎないと言うのだ。
「目に見える相手なら、ぶっ殺してやるのに」
 剣呑な言葉に傍らのビルも黙り込む。
 ボブは本気で怒っていた。そんなことでキイチが傷つくいわれなどないのだ。
 しかもキイチが庇ったのはボブ自身だ。あのとき、あんな場所で引き留めなければ、もう少し隠れるところもあっただろう。だが、あいにくとあの場所は、一直線の通路だった。
「それで……あなたはどうするつもりなんです?」
 大仰なほどにため息をこぼしたビルが天を仰ぎながら問いかけたきた。
 それに嗤いかける。
「俺たちへの修理依頼は撤回されていないだろ?」
「直すつもりですか?」
 もともとの依頼は、あの艦の航行機能を回復させること。
 しかるべき修理拠点に移動できるようにすること。
 だから。
「修理しようと思うと、あのウィルスをぶっ殺さないといけないわけだろ?」
 のばした手がビルの腕を掴む。それは、生まれたときには無かった互いの腕だ。
 ──大切なものを傷つけられておとなしく引っ込んでいられるかっていうんだ?たとえ、誰が反対しようとも、俺は一人でそれをぶっ殺す。 
 触れあう腕を介して伝わるボブの剣呑な意思を受け止めて、その場所が震えるのが伝わった。
 言葉にできない思いは、いつもこうやって伝える。それは滅多にしないことだったけれど。
 小さな吐息がビルの口から漏れ、ボブはようやく手を放して、苦笑いを浮かべた。
「……それをキイに直接言ってあげたらどうです?喜びますよ」
 苦笑混じりで返された言葉に、ボブは肩をすくめた。
「うるせーよ」
「お互い、本音が言えないってのは困ったものですね……」
「お前となら、否が応でも本音が伝わるのにな」
「それに慣れてしまったんでしょうね、あなたは」
 だから、本音を言わないキイチに焦れているのだと、自身以上にボブのことが判っているビルが嗤う。
「まあ、それに関しては私も同意見ですね。私にとってもキイチはかわいい幼なじみ。といっても、彼の目にはあなたしか入っていませんけどね」
 喉を震わせるビルに、ボブが剣呑な視線を向けた。
「お前まで手を出すなよ」
 それでなくても、キイチの周りにいるライバルは多いのだ。キイチがその意思を表示しなければ、逆にそいつらが意思表示するだろう。
「さあね」
 平然と言う彼の好みが本当は誰であるか、誰もがよく知っている。それでも。
「殺されないように気をつけろよ」
「はいはい」
 本音の注意は、いとも軽く返された。

 
 扉が開いた瞬間、ボブが来てくれたのだと思った。だが、ほんの少し上がった体温は、次の瞬間下がってしまう。
「こんにちは、どうですか、具合は?」
「もう大丈夫です」
 ボブと外見は似ていても中身は全く別物のビルに、感じた動揺を悟られないようにと笑みを作る。
「そうみたいですね。ドクターの診察はありましたか?」
「はい。明日には自室に戻って良いと言われました」
 ただし、安静にするこという制限付きでは合ったけれど。それでも、退屈な、そして面倒な見舞客から逃れられると思うと、嬉しかった。
 それに、ビルが小さく頷いて、手に持っていたカードを渡してくれた。手のひらで転がしたその表面にかかれた文字は、人気がある雑誌名だ。
「昨日最新号が出たんですよ。キイはこの雑誌、読んでいたでしょう?」
「はい。そっか……もう発売日だったんだ……」
 最後の方は独り言のように呟いて、再度手の中のカードを見やる。その中に入っているのは雑誌のデータで、それをハンディターミナルに差し込めば、中身が読めるようになっていた。ポケットにしまえるほどに折り畳み可能なスクリーンと言ったふうのそれは、新聞や本・雑誌用の物でどこの家庭でも家族分はあるものだ。
 紙が貴重な艦隊内用に開発されたそれは、今やオリンポス全土に広がって、ひどく重宝されている。しかもカードは専用の装置で書き換えが可能で、たまりすぎることもない。
 内容はいわゆる自己トレーニング法などを扱ったその雑誌はキイチの愛読誌で、発売日を忘れることなど無かったというのに。
「こんな部屋に閉じこもっていると、時間の感覚がなくなるものですよ。しょうがないです」
 そうかもしれないと、こくりと頷く。だが、それだけではないという気持ちも無きにしもあらず、だ。
「……ほんと……早く退院したいです」
 思わずぼやきが入った途端に、頭の上で吐息で嗤われた気配がして、顔が熱くなる。
 しかも。
「コウライド少佐にてこずっているようですね」
 図星をさされては、二の句が継げない。
「キイは作戦中の大胆さはどこに行ったのかと思うほどに、平常時は真面目な隊員ですからね。上官には逆らえないというのも判りますが、理不尽な行為は拒絶してもかまわないのですよ」
 一体どこまでビルは知っているのか?ビルが知っているということはボブも知っているということなのだろうか?
 急に襲ってきた不安に、キイは無意識のうちに探るような視線をビルに送っていた。
「それとも、キイにとって彼からの行為は理不尽ではないのですか?」
 もしかして、あの時、見られたのはボブでなく、ビルだったのか?それなら嬉しいけど……。
 だけどそれでも、ビルが言っていることの意味がよく判らない。
 一体何のことをさしているのだろう?
 毎日のように訪れるコウライドから受けてしまうキスの事を言っているのかと、キイチは羞恥より前に恐れを感じた。今や、逆らうことなく受けてしまっているキスに、あろうことか感じているなどとはとても言えない。
 結局、ビルの本意が判らぬままにうかつに返事をして、墓穴を掘るかもしれないという不安に、キイチは口を開けなかった。ただ、上官だから拒絶しなかった、という訳ではないことくらいは気がついている。少なくともあの時、理不尽だとは思わなかったのだ。
 いくら想いを寄せても振り向いてもらえない相手に、疲れてきているのかもしれない。
 だから……。
 黙ったままで俯いてしまっていると、ビルからの視線が痛いほどに感じる。
 何か返事をしなければ、と思うのだが、言い訳など何も思いつかない。自分がどんなにバカなことをしているか判っているからこそ、誰にも知られたくなかった。
「……っ」
 ため息のような吐息に、かすかに音が混じった。
 その音に気づいたキイチが顔を上げると、ビルが小さく笑っている。音は喉が震えた音だったのだろうかと、訝しげにその口元を見つめていると。
「ボブがティシフォネの修理に向かいます」
 動いた唇がそう告げていた。
「……ティシフォネ……?」
 頭が働かなかった。
 聞いた名前だというのに思い出せなくて首を傾げる、が。
「あ……でもっ!」
 狂ったカーペンター・フォーの姿が脳裏に浮かんで、それ以上の言葉を失った。
「いつまでもあの艦を放置しておく訳にはいきませんから」
「……安全……なんですか?」
 ロボットが狂ったおおよその原因は聞いている。だが詳しいことは知らない。ただ、狂ったのがあの一体だけでなかったということが後から判って、早々に撤退したのは正解だったのだと、自分のせいで修理ができなかったのかと危惧するキイチにダテが教えてくれた。
 だから、ボブが修理に行くのなら、狂ったロボットは撤去できたということなのだろうか?と、そう思ったのだが。
 口の端に笑みをうかべたままビルが首を振るのをキイチは呆然と見つめていた。
「メインの駆除のためには、動力を戻さなければならないのです。だがその途端にどこかに潜んだウィルスが活動するかもしれませんから、うかつなことはできません。本来、あそこまで汚染された艦は、あのまま完全に沈黙させたまま曳航したほうが無難なんですけどね。なのに、ボブはどうしても挑戦すると言ってきかないんですよ」
「ボブが……?でもどうやって……ですか?」
 知らずに震えている声が止められない。
 ボブがそんなに危ないところに行こうとしているのに。
「何しろメインもサブも汚染されているという悲惨な状況ですからね。どうやら、セキュリティも何も……頭脳本体の制御用端末から直接ウィルスを注入されたんです。そんなバカなことをした犯人は捕まりましたが、ウィルスというのは自己成長型で今更作成者にはどうすることもできません。ワクチンの開発を急がせていますが、成長型のやっかいなところですね、それもなかなか……のようです」
 つまりはウィルスに汚染されたままの状態の艦に乗り込んで修理しようとしている、そうビルが言っているようにしか聞こえない。
「ただ、セキュリティを強化して、汚染されていない頭脳の防御力を高めることには成功しているんです。ですので、その頭脳を今のメインと置き換えることを検討している訳です。ただし、新しい頭脳に支配権を移すために、一度だけ本来の頭脳にアクセスしなければなりません」
「それって……その瞬間に艦の制御が完全に乗っ取られることも……」
 そうなれば間近で戦艦の主砲が火を噴くだろう。
「ですので、まずメインの回路を完全に寸断しなければなりません。ボブがやろうとしているのがそれです」
「それって……それって……」
 ちょっと考えただけでもあまりの困難さに目眩がしそうになる。今はエネルギーを絶たれて眠っているとは言え、その周りにはどんな時でも動くようにバックアップ電源を持ったセキュリティシステムが常駐している。とても安全な作業とはとても言えないだろう。
 そして、そんな時に防衛の任につくのは、キイチだったはずで。
「それ、いつですっ!」
 ──準備をしないとっ!
 その瞬間そう思っていた。だがビルが首を振る。
「キイチは留守番ですよ。どのみち、その体では無理です」
 言われて初めてキイチは自分がケガ人だいうことを思い出した。
「で、でも……」
「私もキイチに無理をさせるために、これを伝えに来たわけではありませんよ」
「え……」
 不意に声音が柔らかくなったビルに、訝しげな視線を向ける。
「なぜ、ボブが修理することにこだわったかをキイに知ってもらいたかったからです」
 とすんと軽い音がして、ベッドの縁にビルが腰掛けた。自然に近づいたビルの顔が真正面からキイチを捕らえていた。
「放っといて、曳航するつもりだったんですよ。リオも……そして司令部も。なのにボブが強硬に自分の意見を押し進めたんです。どうしても修理すると……。この作戦が成功すれば、オリンポスにとってその内容は確かな知の財産になると主張して。……笑えるでしょう?いきあたりばったりの動きをするボブの作戦など、たとえ成功しても他の誰にも真似などできないというのに」
「それは……そうですけど」
 吐息がかかる距離にまで近づいた顔が、さらに近づいてくる。なのにキイチは逃げることができなかった。黙っていれば、ボブも今のビルのように知的で整った顔立ちをしている。正反対の性格とはいえ、こういう時にはやはりよく似ている二人。近づくにつれ、二人の区別が付かなくなるようなそんな錯覚すら覚えて。
「私もボブも互いに話すときは本音で話をします。そのボブが教えてくれた修理に拘った理由、その本音、お教えしましょうか?」
 途端に、ドキリと胸が鳴った。そのまま早まった脈の音が耳の奥でうるさいくらいに鳴り続ける。
 聞きたい、と思った。だけど……。
 その本音が、キイチに関わることだったらと、それが悲喜どちらかも判らない事への恐怖がキイチを襲って、開きかけた口が動かなくなる。
 だが、くすりと声無く笑ったビルが、小さく呟いて。
「これが……ボブの本音です……」
 そのまま唇をふさがれた。
 ビルとのキスはひどく濃厚で腰から下に力が入らなくなるほど官能的なものだった。背後で力無くついた手でどうにか上半身を支えている状態で、意識を現実に取り戻そうと数度瞬きすると、あふれた涙がこぼれ落ちる。気づかない間に漏れていた涙に、キイチは驚くことしかできなかった。
 コウライドとのキスでもこんなことにはならなかった、と。
「キイも……たまには本音でボブと話をすることをお勧めしますよ」
 そんなキイを見下ろして、ビルは幼子をあやすようにキイチの髪に指を絡めた。
 その心地よさに目を細める。まるで昔に戻ったような、そんな雰囲気に、先ほどまでの余韻は伺えない。
 それに、こうしていると不思議なくらいビルとボブの気配は似ていることに気が付いた。
 ボブがこんなふうに穏やかに接してくれたら、ビルがいつもの冷徹な部分をこんなふうに消していたら。
 その根底にあるものは確かにふたりとも一緒なのだと。
 だから目を瞑って気配だけを感じれば、先ほどのキスはまるでボブから受けているようで。
「そうすればボブも本音で応えてくれますから」
「本音……?」
「そう本音です。知りたくありませんか?」
 頭皮から伝わるぬくもりが離れるのが寂しいのか、それともビルの言葉の意味が知りたいと思ったのか、キイチは無意識のうちにビルの動きを追っていた。
「でも私が言えるのはここまでですよ。ボブの本音が知りたいと思うのなら、行動あるのみですから」
 音がして、扉が開いて、キイチに笑いかけたビルが、そこから出ていく。その姿が消えるまでキイチはビルを見つめ続けていた。
 その真意は判らないけれど。
 ただ。
 指先が触れた唇が先ほどの官能を思い出させる。途端に生まれた熱は体の中心に留まって、そのせいか酷く疼いて仕方がなかった。
 ビルは、本音で話をしろという。だけど、今の本音は。
「……ほんとは……ボブと……」
 ──したい……。
 ただ、それだけだった。
5
 キイチは、ボブの部屋の前でずっとつっ立っていた。
 退院の報告をと思ったのだが、それがこじつけだとはキイチ自身も自覚している。
「はあ……」
 思わずついてしまうため息は、いつもより熱く喉を通りすぎる。
 本当は、昨日のビルの言葉を確かめたくてここに来たのだ。
 『これがボブの本音です』
 そう言ってビルがキイチに施したのは官能的なキスで、見舞いの度にコウライドにされていたキスなどより何十倍もキイチを翻弄した。
昨夜などはそのせいでほとんど寝ていなかった。
 中途半端な睡眠は常以上の寝不足を呼び起こし、それが血圧を上昇させた結果、あやうく退院できなくなるという事態を引き起こした。もっともそれは無理矢理誤魔化したけれど。
 退院してとりあえず自室に戻ったものの、それでもぼおっとした頭に何度も繰り返し甦るのはビルとのキスだ。
 あれは確かにビルだったというのに、夢うつつの状態になると相手はボブへと変化する。その度に跳ね起きて。
 体の芯にわだかまった熱は冷めることなく今でもそこに残っている。
 意識だけではどうにもならないそれに、キイチは物理的にでも冷やそうとしたけれど、水のシャワーの冷たい刺激は火照る体を鎮めることはできなかった。
 結局、知らずに伸びた手に気付いた時には、その猛った己自身をキイチは扱き始めていた。

 
 ドアの前で動けないキイチの前髪に残っていた滴が額に落ちて、止められないため息と共にそれを拭った。
 冷たいチタニウム合金の扉は、さっきから微動だにしない。
 インターフォンを押せば、すぐにでも開くだろうその扉を、キイチは為す術もなく見据える事しかできなかった。
 とりあえず今は体の方は落ち着いている。
 だが、あの後今度は無性にボブに逢いたくなったのだ。見舞いもろくに来てくれなかった冷たい上官ではあるけれど──だからこそ逢いたくて堪らなくて、そして何よりビルとのキスの記憶は冷たいシャワーでも消すことはできなかった。
 インターフォンの前で泳ぐ手を、何度も握りしめて降ろす。
 それが、もう10分近く続いていることにキイチは気付いていなかった。
 この部屋の主が今日こにいることは知っているのに。
 逢いたくて堪らなくなって、気が付いたら髪を乾かす間もなくここにきていて。
 なのに押せない。
 入れない。
 聞きたいことはいっぱいあった。
 ビルが言った本音の件はもちろんのこと、見舞いに来なくなった理由も、そして、あの日あの時あの気配が誰の者だったのかも……。
「はああ……」
 自分がこんなに意気地なしだったかと呆れるため息は、今度は声を伴っていた。俯く顔に濡れた髪が張り付いて、それを梳き上げて。
「え……」
 上げた手そのままの形で硬直する。
 その腕を、痛みが走るほどにきつく掴まれて、キイチはたたらを踏むようにドアの内側に連れ込まれた。
「鬱陶しい奴だな、お前も」
 呆れたと、頭の上で嘆息され、事態が飲み込めないままに顔が熱くなる。
「……すみません……」
 謝ったのは無意識のうちだ。
 下げた顔が上げられない。
「というか、苛つくって言うか。いつまでそうしているつもりだ、いい加減顔を上げろ」
 叱られている訳でもないのに萎縮してしまったキイチは、そう言われておずおずと顔を上げた。
 だが。
 視線が絡んだ途端に、顔が火を噴く。
「おま……」
 慌てて逸らしたがそれはきっちりとボブに見られたようだった。呆気にとられたように呟かれ、キイチはますます火照る顔を鎮められなくなる。
 それでなくても情けない姿を晒したばかりだ。
 ドアを開けた途端にキイチがいたにも関わらずボブの態度は悠然としていたことにキイチは気が付いてい。つまりは、彼はそこにキイチがいることを知っていたに他ならない。
 これはもうさっさと用件を済ませて逃げるしかない。
 と、キイチは建前だったはずの用件に縋ることにした。
「すみません。その……退院の報告を、と思いまして」
 口の中でもごもごと呟いて、頭を下げる。
 もう一瞬でもボブと目を合わせることはできなかった。
 だが。
「知ってる。どうせキイのことだから報告に来るとは思っていたがな。それで、外の様子を見とこーとカメラのスイッチを入れたらもうお前がいるし……なのに、一向に入って来やしねーし。お前さ10分も何やってんだ?」
「それは……」
 さらりと交わしてうやむやにしようとしたのに、実は最初からすっかり見られていたと言われて、キイチは口の端がひくりと引きつった。
 しかも、どう聞いてもそこには揶揄が含んでいる。
「面白れーから、いつ入ってくるかと様子見ながら待っていたんだ──俺も気が短ーし……。どう見ても退院の報告だけとは思えない思い詰めた様子に──マズいなって思って開けた訳だ」
 駄目押しのように、「ん?」と問いかけられ、キイチは羞恥と怒りが入り交じった感情に襲われた。
 そこまで判ってて。
 しかも、羞恥に身悶えるキイチを楽しそうに見つめる彼の態度に、目眩すらしてくる。
 そこには、困っていたキイチを助けようと思う心はどこにもないようだ。
「悪趣味……」
 反撃しようとしても、結局小さく掠れた声でかろうじて一言呟いただけだ。
 しかも、それは完璧に無視された。
「で?何を言いに来た?」
「……それは……」
 と言っても、今の状況で言えるものではない。
 こんなふざけた状態でしごく真面目な話はできないと、キイチはほんの僅かな逡巡もせずに、きっぱりと言い切った。
「また、後でします。今日は疲れたので帰ります」
 じっとつっ立っていた10分間が今更のようにキイチに疲労を与えていた。
 その思った以上に疲れやすくなっている体に、キイチは内心驚いている。
 マズイと、自分の体力が思った以上に落ちていることに、激しい焦りを感じた。ならばこそ、こんなところでぐずぐすと不毛な会話をしている状態ではないと。
 そう思って、一礼しようとしたが。
「こら、帰るな」
 強く腕を掴んで止められた。
「あの……」
「……その髪、びしょぬれで肩まで濡れてる。とりあえず乾かそう」
 ボブの手が伸びて、キイチの濡れたままの前髪に触れた。近づいた視線が指先で弄んでいるキイチの髪をじっと見つめる。その近さに、キイチは知らずに息を飲んでいた。
 呼吸をするとボブにかかってしまいそうで。
 不意にくすりとボブが笑みを零し、キイチの肩を軽く押す。
 それはそんなに力の入った行為ではなかったが、キイチはそのまま一歩下がった。と、背後にあったベッドに膝裏を取られ、かくんと腰が落ちる。
 即座に脇から入れられた腕がその落下を押さえ、ぱふっと軽い音を立ててキイチはベッドに腰掛けていた。
「今、風邪をひいたら治りが悪いかも知れないぞ」
 悪戯した子を叱るようにボブがキイチの目線に合わせてくる。
 真面目な口調のわりにその目は笑っていて、キイチは昔に戻ったような錯覚に捕らわれた。
 いつもこうやってまだ幼いキイチを慰めてくれたボブのこの笑顔が好きで、逢えない間もいつだって忘れたことがなかった。
 物を壊して落ち込んで泣いていても、ボブがいればすぐに泣きやむことができた。
 今も昔も変わらないその笑顔。
 優しいお兄ちゃんに会いたくてここにきたキイチ。
 だけど。
「気をつけないと病室に逆戻りだ」
 そう言いながら立ちあがるボブを目で追って、キイチはやるせなさに下唇を軽く噛んでいた。
 彼は立派な男の大人になっていて、今やその優しい視線はたいてい女性に向けられる。
 何よりもキイチが欲しいその笑顔は、普通ならばキイチには決して向けられないだろう。
 ずっと自分だけを見て、笑って欲しい。
 そう思いながらキイチは伏し目がちに掌でベッドを押した。
 少し硬めのクッションは、どの部屋でも変わらないな、と、そんなどうでもいいことを考えて。
 が。
 不意に脳裏に浮かんだ光景に、冷めかけていた熱が復活した。
 このベッドで抱きしめられたあの記憶だ。
 女の代わりをしてくれるのか、と、とんでもないことを言ってキイチを押し倒したボブ。
 その端正な顔を思い出して、鼓動が並足から駆け足へと一足飛びに変化する。
「キイ?」
 ボブの訝しげな声に慌てて首を横に振ったが。
「別に何でもありません……」
 平静を取り繕おうとして声が奮えて、それが余計にボブを不審がらせた。
 見られたくない顔を覗き込まれて、タオルを握ったままの手をキイチの額に押し当てる。
「何か、熱いぞ?熱でもあるんじゃないのか?」
 違うっと言いたいが、その理由も言えないから、キイチは黙ったまま顔を背けた。
 自らの体の熱が周りの空気まで伝播してしまったようで、全身の熱が逃れられないと体の中を渦巻いている。
 そのせいもあって、キイチは無理にボブを押しのけようとした。
 なのに。
 触れた手がボブの体が小刻みに震えていることを伝えてくる。
 声を出していなかったせいで、すぐには気付かなかったのだが、ボブはどうやら笑っているようだった。
「何?」
 何を笑っているのか判らなくて首を傾げると、それがまたボブのつぼをついたのか、今度は堪らないとばかりに声をたてて笑い出されてしまう。
 呆気にとられたキイチだが、時折注がれる視線に、自分が笑われていると気付いた。
「何で?」
 口を尖らすキイチに、ボブの笑いは一向に止まらない。
 それでなくても熱い体は、今度は怒りも加わって沸騰状態だ。ただぽたりと落ちた滴だけが心地よい冷たさを与えてくれたけれど。
「す、すまん……いや……お前、あんまりにも面白くて……ははっ」
「ボブ……」
 あんまりの言い訳にその声音に剣呑さすら増す。
「だって、真っ赤になってうろたえるお前って、なんか、おもしれーの」
「面白いって……」
 変だというのは自覚しているが、だからと言ってこうまで笑われてしまうと、不快さしかない。しかも当の本人であるボブは気づいていなくても、その原因は彼なのだ。それを思うと、キイチはただボブを恨めしげに見つめるしかなかった。
「ま、とにかく、早く乾かさないとほんとに熱がでるからな」
「わっ」
 まだ残っている笑いを誤魔化そうとしているのか、酷く乱暴にタオルで拭き始めた。頭を掴んで振り回される状態に、キイチが悲鳴を上げる。
「や、やめてくださいっ」
「どれ、拭けたか?」
 楽しそうに呟いているボブが恨めしい。終わったはずなのに、まだ頭が揺れている感じがする。キイチは痛みに浮かんだ涙で目を細めた。
「乱暴なんだから……」
 見つめる先でボブが苦笑を浮かべる。
「ちゃんと乾かしてこないからだ。どれ?」
 滴が垂れるほどだった髪は、今はしっとりと濡れている程度だった。その髪の一房をボブの指が掴み、親指と人差し指の腹で擦って解す。かと思えば、指先だけで頭皮を押さえ、ゆっくりと動かした。それを何度も繰り返す。
 時折やんわりと指の腹で頭皮を押され、マッサージを受けているように気持ちいい。
「気持ちいいだろ?」
「はい」
「お前、怒ってばっかで、えらく肩肘つっぱって。それがキイなんだって言えばそうなんだけどな……。お前の話ってそんなに緊張するようなものなのか?」
「う…ん……あっ!」
 気持ちよくて、流されかけ、気が付いた時には頷いていた。
 びくりと震えた肩が、キイチの本心を如実に現していて、そんな態度を取ってしまったことを激しく悔いる。だが、取ってしまった行動を考えていてもラチがあかないと、キイチは諦めて前にいるボブを見上げた。
「何で……」
 酷く真摯な瞳をしたボブがそこにいた。
「あ、あの……」
 これはマズイと今までの経験がキイチに教える。
 普段不真面目なボブとて、いざとなればいくらでも真面目になる。
 そして、真面目なボブは──とにかく切れるのだ。
 そんな彼を誤魔化すことなどできない。
 けれど。
「すみません……。もう帰ります。お騒がせしました……」
 いつもなら内心の恋しさを隠して元気よく出て行って、そしてボブがほっとしたように、あるいは苦笑を浮かべる時もある別れ。
 だが、今日はいつもとは違っていた。
「座れっ!」
 いきなりボブの叱責が飛んで。
 浮かびかけていた腰を、すとんとベッドに落としてしまう。
 しかも声の勢いそのままに、キイチを見下ろす視線もきつい。眇めた目が、どう見てもいつものボブとは違っていた。
 キイチがその気になれば、ボブを押しのけて帰ることは可能だったが、今までそれだけはしたことがなかった。というより、キイチが帰るのを、いつもボブは悦んでいたような気がする。
 なのに、何故だろう?
 帰らせまいとするボブは、本当に真剣で、その手がキイチの肩を押さえる。
 そうなれば、もう立ちあがることもできない。
 つまり、逃げることができない。
「キイ、何が言いたい?何かを言いたくてここにきたんだろう?」
 ボブが何かを期待するようにキイチの言葉を待っている。
 子供のように期待する目をしながら、だけど、その瞳の奥深くに見え隠れする炎のようにちらつくものは何だろう?
 キイチはそれをじっと見ていた。
 知らずに視線を交わらせていることになるのだが、当のキイチはそんな自覚はない。
 ただ、それが何だろうか、と気になって。
「キイ?」
 だが、ボブの再度の呼びかけに我に返った。
 こんなことをしている場合ではないのだ、と。
「話……なんてないです……」
 聞きたいことはあったけれど、結局それを言う勇気は、この部屋に入るまでに潰えていた。
 それを思うと、何故ドアの前からさっさと立ち去らなかったのかと悔いばかりが湧き起こる。
 あんなにも躊躇った理由が今更ながらに思い出せる。
 キイチは、怖かったのだ。
 聞いたことで崩れる関係が。
 それが前進ならばいいが、もしかすると後退かも知れない。
 せっかくここまで来たのに、という思いが、キイチの決心をいつも鈍らせる。
 だから、このまま黙っていようと、結局そう結論づけた。
「もう、帰ります……。なんか疲れたし」
 小さく笑ってボブを見やる。
 誤魔化すための言い訳ではあったが、実のところ言ってしまうと、自分が疲れているのだと気付かされた。
 それが身体から来ているのか、心からなのかは判らないが、どちらにせよ、今キイチを襲っているのは早く帰って眠りたいということだ。
 そういえば、昨夜はほとんど寝ていなかったな、と思い出す。
 なのに、ボブの手が肩から離れない。
「泣きそうだな」
 離してくれそうにないそれに、どうしたものかと首を傾げるとそんな事を言われて、キイチは耳を疑った。
「え、でも……泣いていない……」
「泣いてる……」
 反論すれば即座に否定される。だが、自覚はないのだが、確かに視野が揺らいでいるように見えた。
「ボ……ブ……」
 途端に、目の奥が熱くなって、胸の内から熱い感情が込み上げてくる。
 もう、子供じゃない……と昔の思いに引きずられそうな自分を叱咤するが、堪えきれずに頬を涙が伝った。しかも俯こうとしたのに顎を掴まれ、それもできない。
「……落ち着け」
 静かに諭すようなたった一言。
 なのに、それが静かに胸の内にまで響いて、荒れていた感情が落ち着いてくる。
「いろいろあって精神状態が普通じゃねーから、いろんな事に流されて。それでな、もう自己コントロールがきかなくなってんだよ、お前は」
「そう?」
「ああ、だからいろんな事が言いたくなってここに来たんだろう?そうしないと心が落ち着かねーんだよ」
 なんでだろう?
 ボブに言われると、そうなんだと素直に思ってしまう。
「だから、何でも喋ってしまうといい。溜まりに溜まった鬱憤でもなんでも……溜め込むとろくな事にならん」
「でも……」
 そうは言われても、言いたいことはとてもボブに面と向かって言えるものではない。
 そして、それがキイチの心を揺るがす最大級の問題なのだ。だから、結局口を噤んで視線を逸らした。
「まだ言えないのか?」
 困ったように静かに笑われて──それも馴染みのないもので驚く。
 そのボブが僅かな逡巡のすえに「俺から話そうか、聞いてくれるか?」と言ったのに素直に頷いたのは、話を聞いている間は後回しにできるという打算もあったからだ。
「何ですか?」
 キイチが聞く体勢になると、ボブはキイチから手を離して床に座り込んだ。今度はキイチがボブを見下ろすようになる。
 そんなキイチをボブはじっと見つめていた。
「いつだったかな……。俺はお前の見舞いに行ったんだが、お前に会わずに帰った日があるんだ」
「え……?」
 不意にぞくりと背筋に悪寒が走った。
 ボブがいつの日のことを言っているのか、即座に気が付いた。怯えが瞳に宿って、この場から離れたくなる。だが、見据えるボブの視線から逃れられない。
「ドアの前まで行った時、そのドアは少し開いていて──誰かが故意にそこで停止させたような感じだったな。俺も変だなと思って……」
 覆い被されるように口付けられていたとき、確かに知った気配を感じた。終わった後、僅かに開いたドアを見つけたことも覚えている。そこにあった残り香のような気配も。
「ボブ……」
 体が知らずに震え始めていた。
 寒いわけでないのに、震えが止まらない。
 間違いない。 
 あの時、ボブはあそこにいたのだ──いや、判っていたのに、信じたくないと目を瞑っていた。ビルの気配が実はボブとよく似ているのだと知って、それに縋っていたのかもしれない。
 そう思うことで、あれはボブで無かったと、信じようとしていた。が。
「あれは……コウライドだな」
 見られた、のだと、今はっきりと頭が理解して、結局何も言えずに口を噤む。
 ボブのそれは、疑問でなく確認だったから、否定することもできない。
「それで、お前はそれでいいのか?だったら、俺が詮索することじゃないしな」
「え?」
「あいつは、お前を返せって言って来ている。なんでそんなにも、とは思ったが、どうやら、あいつはお前に気があるようだしな。それで向こうの警備隊にお前を入れたいんだろうよ」
「それは、前にも断って……。今回だって……一応、嫌だって事は伝えて……」
 呆然と呟いていると、ボブが鼻で笑っていた。
「俺とてお前を手放す気なんかない。だが、おまえがどうしても行きたいって言うなら止められない。どうする?」
「どうする、……って……」
 キイチの心は決まっている。
 ボブに会いたくてここに来て、ボブとともにここにいて、そして今しているのは、自分ができる唯一の、ボブを守るという仕事だ。それから離れることなど考えたこともなかった。
「僕は、どこにも行きません」
 前にも伝えた言葉は、間違いない。だが、キイチの行動を見つめるボブはその口元に薄ら笑いを浮かべたまま、問い返してきた。
「何で?」
「え?」
 まさかそう切り返されるとは思ってもいなかったキイチの顔がひくりと強張った。
 どうしてそれが言えようか。
 それこそがキイチの心にわだかまる、聞いて欲しくて話すことのできない事柄なのだから。
 だからキイチは誤魔化した。
 もっともそれも真実ではあったが。
「それは……みんなが好きだし……」
 選んだつもりの言葉が意外にストレートなのだと気が付いて、体が熱くなる。なんだか今は何を言っても墓穴を掘りそうだと、キイチは結局また俯いて口を噤んだ。
「それがキイの本音か……」
「え?」
 ──本音?
 その単語を最初はビルに聞いた。
 そして、ボブの本音が聞きたいと思ってここに来た。
 今の言葉からすると、ボブキイチの本音が聞きたいのだろうか?
 ──あの時ビルは本音で話をしろと言って……。
 ぎゅうっと握りしめる拳の中は、これでもかと言うほどに汗で濡れている。ぬるりと滑って力がうまく入らない。
 どうすればいい?
 ビルの謎かけのような言葉と、ボブの今の言葉がシンクロする。
 あの時、ビルはキスをして、それがボブの本音だと言った。
 ならば、ボブがキイチにキスしたいと言うのが、ボブの本音だと──そう結論づけそうになって、慌てて否定する。
 そんな筈はない、と……。
 ボブは女性が好きで、キイチは弟に過ぎなくて。
 だが。
「ボブ……」
「何だ?」
「……いえ……」
 喉まででかかった言葉が、ひっかかって一向に出てこない。
 結局押し黙ったキイチに、ボブの眉間のシワが深くなっていく。
 やっぱり無理だ。
 キイチの本音をボブに伝えることなどどだい無理な話だったのだ。と、キイチが俯きながら、唇を噛みしめた時。
「……ほんとに……お前は……」
 ボブが大仰なほどのため息と共に、立ちあがった。
 思わず追いかける先で、鬱陶しそうに前髪を掻き上げて、キイチを見下ろしている。
「じゃあ、最後の質問だ。その質問の答、俺が気に入らなかったら、お前を警備隊に異動させる」
「えっ!!」
 飛び上がるように立ちあがったキイチの腕が、知らずにボブに伸びていた。
「行きたくないってっ」
 今、そう言って。
 その理由も言って。
 なのにっ!!
「落ち着けよ、答えが気に入らなかったら、と言っているだろう?」
 キイチの慌て振りとは対照的にボブはその口許に笑みすら浮かべている。
「答えって……」
「お前が本音で言えば、俺が気に入らないなんて事はないさ」
「本音……?」
 本音といえば……と、再びキスシーンを思い出したキイチは、いまがそんな状態になっていると気付いて、ばっとその手を離した。
「馬鹿力……」
 呟きながら襟元を直すボブは、焦らすようにその質問をなかなか口にしない。
 それにじっと堪えるしかなくて、キイチは爪が食い込むほどに拳をきつく握りしめた。
「さて、と」
 一言呟いて、そして微かに口の端を曲げたボブがキイチを見つめる。
「……お前が一番守りたいのは誰だ?」
「え?」
 瞬間、頭が惚けて、何を問われたのか判らなかった。
「お前は、誰を、一番、守りたい?」
 そんなキイチの反応も判っていたとばかりに、今度はゆっくりと単語ごとに区切ってくる。しかもその視線は決してキイチから離れない。
「……一番……守りたい……?」
 確かにボブはそう言って。
 そして、その答えが気に入らなかったら、キイチは警備隊に行かされてしまう。
 ──何で……。
 そんな質問をしたボブの真意が判らなくて、そして、質問された途端に真っ先に思い浮かんだ名前に、息を飲む。
 それが誰か?なんて、キイチにとって考えるまでもないことだった。 
 だが、それを口にすることはどうしても憚られて、唇が強張って動かない。
「キイチ……深く考える事じゃないだろう?思ったことを言えばいいんだ」
 ボブは簡単に言うが、それが簡単でないから、今日は醜態を晒し続けてきたのだ。
 キイチはごくりと唾を飲んで自分を落ち着かせようとしたが。
「キイチ、言えよ。でないと、警備隊行きだぞ」
 まるですでに答えを知っているかのように、ボブが苦笑する。
 どうして……と、頭はパニックに陥っていて、何といえばいいのか判らない。警備隊には行きたくない、が、言うこともできない。
「でも……」
「何だ、言うのが恥ずかしいのか?だったら態度で示してもいいぜ」
 それはそれで難しいことを言う。
「だけど……」
「じゃ、言えるように手伝おうか?」
 少し声音に苛つきが混じったような気がして、そのせいで引っ張られる腕になすがままになる。
 近づいて、胸が触れあうほどになって、少し背の低いボブがキイチを見上げて笑う。
「お前は、この状態で……どうしたい?」
 にやりと笑う唇を覗いた舌が舐めている。
 眇められた目が、キイチの視線をじっと捕らえていた。
 それから目が離せない上に、なんだかだんだん近づいてきているような気がする。そしてどんどん早くなる鼓動が煩く、もう周りの音など聞こえない。なのに、ボブの声だけは響く。
「やりたいこと……我慢するな……。それとも……したくないのか?……お前は、俺といるより警備隊に行くことを選ぶのか?」
「ちがっ!」
「だったら、しろよ。俺といたいんだろ?」
 その言葉がきっかけだった。
 押しのけようとしていた手がボブを引き寄せる。少し顔を傾けて、逸らそうとしていた筈の顔を近づけた。
 何がしたいか?
 何を守りたいか?
 どうしてどこにも行きたくないか?
「ボブ……。ずっと、ボブといたい……。誰よりも、ボブを守りたい」
 言ってしまえばそれはとても簡単なことだ。
 だけど、ずっと言えなかったこと。
 キイチは遠慮がちにボブの唇に自分の物を触れさせた。
 ボブの求める答えは、これで間違いないとは思うのだけど、それでも大胆になるには、まだ勇気が足りなかった。
 大丈夫、と思う反面、見当違いのことをしていたら……と思ってしまうのだ。
 そんなキイチにできるのは、ただ触れ合うだけの優しいキス。
 ボブがはね除けないことだけに縋って、角度を変えてはむように、何度も何度も口づける。
「キイ……」
 甘い声が耳をくすぐる。思わずしがみついた腕を掴まれて、なされるがままだったボブがキイチに深く吸い付いた。
「ん……」
 隙間を見つけて入り込んできた舌が荒々しく動いて口内を蹂躙する。
「んっ……う……」
 慣れないキスに、息が苦しい。なのにどんなに苦しくても、抱きしめる手は互いの体をきつく密着させる。いや、キイチの体は既に力を失っていた。縋るように沿えた手は、引っ掛かっているだけだ。
 早いリズムを刻む鼓動は、胸を介して絶妙な音楽を奏でていた。
 それすらも心をとろけさせる。
 貪るように触れあった柔らかさが、甘美な痺れを全身にもたらした。
 ずっと……こうしたかった……。
 熱くて柔らかくて。
 だが、明らかな意志をもった舌と唇の動き。
 一度弾けてしまえば、もうキイチを止める術はなかった。
「……合格だ……」
 一瞬ボブの唇が離れて。息つく暇もなく再び合わせられる。
 もう言葉なんてどうでもよかった。
6
 ボブの手が離れた途端に、キイチはベッドに崩れ落ちた。
 まるで軟体動物にでもなったかのように、体に中の骨が自覚できない。くにゃりと情けなく揺らいでしまう己の体が、自分の物でないようでキイチは情けなくボブを見上げた。
「ボブ……」
 ぼんやりと焦点の合わない瞳で見上げる先に、その口許に優しい笑みを浮かべて見下ろすボブがいる。その唇が濡れて朱色に染まり、艶めかしく光っている。
 いつもより紅い……。
 それに気が付いて。
 不意に自分の唇もそんな状態なのだろうかと気になった。
 先ほどまで蹂躙という言葉が相応しいほどに、吸われ、甘噛みされ続けた唇は、未だにじんじんと痺れて、感覚がない。なのに、何げなく指先で触れた途端に、息を詰めるほどの甘い疼きが下肢まで伝った。
 堪らずに顔を顰めると、視線の先でボブまでもが顔を顰める。
「お前は……」
 掠れて上ずった声音に、それでなくても早い鼓動が一気に跳ねた。
「あ……」
 ボブが何を言いたいのか、こういう時だけはっきり判って、自分の取ってしまった行動に羞恥する。きっと誘ったように見えたのだろう。そんなつもりは全くなかったけれど、ボブは狂おしい情熱の炎を明らかにその瞳に宿していた。
 それから逃れる間もなく、キイチの肩にボブの手が柔らかく伸び、ベッドに座った状態で、腰をかがめたボブにふわりと抱き寄せられる。途端に湧き起こるボブの匂いが鼻腔をくすぐり男としての本能がそれに煽られた。キイチの芯が思いもかけず反応して、その節操のなさが情けないと慌てて逃れようとしたけれど、だが、思った以上にしっかり抱きしめられて、身を捩ることもできない。
「そんな顔すんな……」
 耳朶を含むように囁かれて、落ち着き始めた筈の鼓動は胸が痛くなるほどの激しいリズムを刻む。
「どうして……」
 問う言葉は再び封じ込められて、変わりのように与えられる快感に酔いしれる。
 思考も何もかも停止して、夢心地のように幸せな気分に包まれる。
 だけど、頭の片隅で、何かが信じられない、と呟いている。
 ついさっきまで、こんな事態は予想すらしていなかった。ボブとこうなるなんて、願望ではあっけれど、絶対にあり得ないと思っていたからだ。
 途端に思い出すのは、いつもボブのまわりにいる女性達の影。
「……ほんとに……?」
 くちゅっと湿った音を響かせて離れたボブの紅い唇を追いながら、キイチは知らずに呟いていた。
 そんなキイチの葛藤に気付いたのか、ボブがくくっと自嘲気味に笑った。
「お前がさっさと言わないから、さすがの俺も、我慢の限界が来たようだな」
 仕事中では聞いたことのない甘い声。きっと女達は幾度も聞いたことのある声を、キイチは自分だけに言って欲しかった。それをずっと聞いてみたかった。
「絶対にお前から言わせてやるって思ってたんだよ、俺は。だから、できもしねー我慢、しまくってたっていうのに……。お前はしらねーだろーけど、俺はずっとお前に欲情してんたんだ」
 耳朶に直接囁かれたせいで、ずくっと湧き起こる下肢からの甘い疼きは、それだけで全身に広がってキイチを苛む。
 まだキスしかされていないのに、キイチの雄ははっきりといきり立っていて、解放を求めていた。しかもキイチの太股の間についたボブの膝が、微妙な位置でそれを押さえていて、気のせいかそれが揉むように動いている。
 いや、気のせいじゃないだろう。
 キイチの潤んだ瞳が見上げる先で、ボブは微かに嗤っていたから。
「や、やめ……」
 恥ずかしくて溜まらない。
 まだまだ余裕のあるボブに比べて、キイチはもう限界だと知られているのだ。しっかりと抱き締められて逃れられない腕の中で、羞恥に真っ赤になった顔を胸に擦り付ける。噛みしめた口の端から、熱い吐息が漏れた。
 ボブの手があやすようにキイチの髪を嬲るのですら、快感を呼び起こす。
「やめねーよ。言ったろ。できもしねー、我慢を強いさせたんだから……。だいたい、俺を誰だと思っている?お前が俺のことを好きなんだってのは、見てりゃ判ってたしな。そうなったら、俺だって妄想の塊になって、暇な夜のおかずはおまえだったんだぜ。もう、いつになったら、それが現実になるのかばっか考えてな」
 ボブの言葉に、頭の中まで真っ赤に染まって、キイチは言いたいことも何もかもが吹っ飛んでしまう。実際、押さえ込まれているとはいえ、キイチの方がずっと強い。なのに、押しのける努力すらできないというのは、自らが受け入れているということに他ならない。
 それでも、こんな悦びに、いざとなると湧き起こるのは恐怖と戸惑いだ。
 それに、やっぱり信じられない。
「そんな──だったら、どうして……?」
 そんな思いまでしてボブが何も言わなかったことに気が付いて、申し訳なく思うより先に、恨めしくなってくる。
 ボブがキイチをおかずにしている間、キイチはボブを思って叶わない夢に涙していたというのに。 今宵も女性を抱いているのだと、嫉妬に狂って、犠牲になるのはいつも枕だった。
「ばーか。こういうのは言わせてなんぼ、だろーが」
 それが男としてのプライドだと、胸を張られては、キイチも反論する言葉を失ってしまう。
 しかも突然、耳の下を舐められて。
 双方男の場合は、告白などできないでないか?という疑問は、口にする前に喘ぐ悲鳴に変わってしまった。
「あっ……ボブっ……」
「にしても、いい匂いだな。風呂あがりってのはそそられるもんだが、キイのはそれだけじゃないな。なんてーか、キイの首筋にこういう匂いを嗅ぐと……なんかこうムラムラしてくる……」
「いい匂いってっ──!」
 啄むような口づけに続いて、舌先で幾度も耳下をなめ上げられる。
「んあっ……」
 堪えきれない嬌声にキイチが恥ずかしくて身を焦がし、力の抜けた身体がベッドに倒れていく。ずしりと思いボブの体を全身に受け入れて、温もりが一体化する。それが幸せにさせてくれるけど。
「ボブ……?」
 何故かボブの身体が小刻みに震えていて、どう見ても笑ってようにしか見えなかった。
「いや、……やっぱり、お前でもこういう時は、かわいい声を出すなって……」
 申し訳無さそうではあるが、その声の震えは止まっておらず、煽るように触れるか触れないかの距離で唇を首筋に沿わせている。 
 震える呼気という艶めかしい愛撫のせいで、キイチの身体はぞわぞわと疼いてしまう。まして、限界に近い身体は意に反して思うように動かない。
 からかわれるから止めたいと思った声も、もうどうしようもなかった。
「あっ……」
 思わず漏れる甘い喘ぎを自覚して、服から見える場所はこれでもかというほどに真っ赤に染まっていた。
「……いいだろ?キイも苦しいだろうし……」
 掠れた問いかけすら、痺れるような感覚を与え、キイチはその意味に気付くことなくただ小さく頷いていた。
 もう体が動かない。
 苦しくて……解放したくて。
「ボブ……」
「無茶はできねーしな。……だが、やり始めたらどうなるかわかんねーけどよ……」
「ボブ……」
 のしかかる重みですら、嬉しいと思ってしまう。
 ようやくその腕の中にキイチを捕らえてくれたボブが、躊躇うことなくキイチを欲してくれることが嬉しい。
 もう何をされたっていい、とすら思えたほど。
 だが。
 我慢を止めたボブはキイチが思っていた以上に、性急にキイチを求めてきた。
 その手がキイチの肌を辿って、そこから生まれるくすぐったさに身を捩る。なのに、ボブはキイチを押さえ付けて、思うように動かさせてくれない。
 それでも何とか逃れようと、推一動く首を振れば、それすらも許さないとばかり、無理矢理口を塞がれた。
「うぐっ……」
 慣れないキスは、キイチを翻弄する。粘着質な音がロの中で響いて、耳に直接届いているようだった。もとより腕はきつく押さえつけられている。どんなに聞きたくなくても、それはキイチを犯すように響いてきた。
 ボブの行為に、何もかも初めてのキイチはなす術がない。ただ、されるがままに流されてしまって逆らいようがなかったけれど。だが、際限のない深いキスに呼気すらも絡めとられ、息も絶え絶えになってしまう。キイチがどんなに逃れようと足掻いても、ボブは離してくれなかった。
「んんっ!」
 意識がすうっと暗くなりかけ、やばいっと脳髄が危険信号を鳴らす。
 それにボブが気付いたのか、ようやく離してくれた。途端に一気に入ってきた新鮮な空気が気道を焼き、キイチは激しく咳き込む。
 そのために浮いた背にボブの手が回り、背骨のくぼみを指先がやんわりとなぞっていく。
「や……ぁっ!」
 ぞくりと粟だつ肌に訳も判らず、拒絶しようとして、キイチは再びベッドに押えつけられていた。
「ボブ……」
 情け容赦ない攻めに、キイチの瞳には既に大粒の涙が浮き、流れ落ちていた。そのせいで、すぐ先にいるボブの顔がよく判らない。
 ただそれだけの存在であるボブが、よく見えない。
 そのことがキイチを不安にさせ、ボブの気配を必死になって捜す。だが、いつもならすぐに判る気配は、意識が乱れているせいか容易に掴まらなかった。
 どうして……。
 肌と肌が触れあう距離にあるのに、ボブがひどく遠い存在のように感じて、キイチは必死になって手を伸ばした。その指先にボブの指が絡む。
 5本の指がしっかりと互いの指に絡まり、きつく握りしめられた。
「ボブ……」
 それだけで、千々に乱れていた意識がすうっと落ち着いてきた。
「すまないな……」
 押し殺した声が低く響いて、キイチは数度目を瞬かせる。そのせいで流れ落ちた涙を、ボブのもう一方の指が、掬い取っていった。
「キイは初めてなんだよな、何もかも。だけどな……俺がこんなにも我慢できないってのは……お前がそれだけ我慢させていた、ってことなんだ。だから……」
 だから、キイチが悪い、とボブは言う。
「そんな……」
 キイチとて言いたいことは幾らでもある。
 我慢し続けてきたのはキイチとてそうなのだ。
 ただ、ボブのように経験がないから、ただじっと我慢し続けてきただけで。二人でする場合はどうするかなんて、夢想の中でしか考えたことがなかった。
 その時のボブはとても優しかったのに。
 だが。
 再び、深いキスに翻弄されるキイチは、ボブの背に回した腕を力を込めて抱きしめた。
 どんなに激しくても、それでボブの思いだというのなら、それは決して苦痛ではない。どんなに苦しくても、必ずその先にあるのは快感だと思えるからだ。
 現に、キイチのロ内をまさぐるボブの舌が、上顎の一か所を触れる度に、ざわりと疼きが湧き起こる。それは確かに快感で、激しくなると背筋を駆け上がり、全身を震わせた。そのたびにキイチは息を飲み、四肢を突っ張らせる。
 きゅっと裸足の足がシーツを蹴り、その方向に幾重にもシワが走った。それもすぐに違う力で引っ張られ、次々と変わっていく。
「あ……やっ……」
 ボブの手が素肌に触れたと感じた途端、激しい羞恥が湧き起こり、一気に体の熱が上がった。もう限界まで上がっていると思っていたのに、それはまだ余裕を残していたようで、吐き出す息すら熱を籠もらせている。
「くくっ、可愛いな、ここは」
「あっ……そこはっ……やっあっ……」
 ボブの指先が小さな突起をつまみ上げ、やわやわとこねる。くすぐったいと思ったのも束の間、その脈動と共にぞわぞわとした疼くような刺激が走った。
「んくっ……んっ……」
 ねっとりとした感触は、舐められているのだと判る。
 爪の先で弾かれて、鋭い痛みすら走っているのに、キイチは泣きたくなるような快感に身を震わせることしかできなかった。
 まだ、たったそれだけなのに。
 上半身ばかり嬲られて、まだ疼いている場所には到達していない。
 ウエストだけは緩められていたけれど、服の下でそれは既に解放を願っていた。
 もう触りたい。
 切に願う思いはあったけれど、自ら触るのは羞恥心の方が勝ってそれをさせなかった。ただ、ボブが与えてくれる快感をじっと待っていて。
「んっ……ふあっ……」
 するりと悪戯のように服の上からそこを撫でられ、詰めていた息が吐き出される。途端に甘い喘ぎ声が溢れ、キイチは嫌々するように首を振っていた。
「最高だ」
 感極まった声音が、甘く耳に届く。
「な……に……?」
 意味の判らない言葉に、知らずに問いかけて。固く閉じていた目を薄く開く。
「お前の反応だ。その辺の女なんか目じゃねえ?。俺をこんなにも煽る。」
 言葉とともにぐりっと太股に押し付けられた物に、キイチは驚きに目を見張った。それはまさしくいきり立ったボブのそれ。
「あっ……」
「だから、優しくなんかしてやれない。そんな余裕もない。覚悟しろ」
 それは最後通告だった。
 そして。
「……我慢……なんか……しなくて…い……い」
 キイチも自身の腰を強くボブに押しつけていた。

 

「最初は痛いって言うけどな」
さっきまでは強気だったボブの言葉が、ほんの少しためらいを含んだ。だが、そんな風に心配されると妙に嬉しくて、そんなことはどうでもいいと思う。
 何だって、最初がないと始まらない。
 だから、キイチは涙に濡れた頬を緩めて、笑みを作った。
「……撃たれたこと思ったら……たいしたことじゃ……ない」
「何て、たとえだ」
 苦笑を浮かべるボブに笑い返して、キイチは力が入らずに投げ出していた足を曲げて立たせた。
「いいよ……。ボブがしたいように……してくれたら……僕は……何も知らないから……」
 少なくとも女性相手に浮き名を鳴らしたボブがキイチの体こそを最高だと言ってくれるのなら、それら全てをボブにあげたい。
「もっともっと……ボブの最高の相手に……なりたい……から……」
 そのための最初なのだから。
「キイっ!」
「あっ!」
 ボブがキイチのむき出しの胸に噛み付くように口づけだ。
 痛みと、それを上回る快感に、あられもない悲鳴が喉から迸る。
 もう、ボブは止まらない。
 それが嬉しいと思うのだから、自分がどんなにボブに溺れているか判ろうと言うものだ。
 ズボンを荒々しく下着ごと下ろされ、あっという間に全裸になる。その目の前で、ボブも自分の服を脱ぎ捨てていた。
 その姿をキイチは目を細めて見ていた。
 適度についた筋肉は、どんなに遊んでいても自己トレーニングを欠かしていない証拠だ。
 その筋肉がキイチを捕らえて離さない。
「うっ……あっ……はっ……」
 いきり立ったキイチのモノをすり抜けるように進んだボブの手が、奥まった場所を探る。
 滑るそれが目指した場所を間違いなく探し出し、ぐりっと押しつけられた。
「んくっ!」
 滴るほどにつけられた滑りの力を借りて、奥へと入っていくそれにキイチは知らずに後孔を締め付けた。奥まったところに入るにつれ、異物感が強くなる。
「ううっ……」
「痛いか?」
「……ちがっ……っ」
 痛いことはないのだけど、それでも反射的に排泄しようとする体が止められない。
「大丈夫だ、傷つけないから」
 言葉の優しさとは裏腹に、さらに侵入してきたそれは今度こそ圧迫感を与えてくる。しかも入ってきたそれが広がるように動くものだから、それも倍増だ。
 それに、時折びちゃりと音がする。
「あ……何?」
 尻を伝うその違和感に、キイチは眉根を寄せながらボブを見つめた。
「は?……ああ、潤滑剤だ。痛み止めと弛緩剤も多少入っている優れもので、ここを使う時の必需品だ」
「じゅん……ざ……?」
「せっかくこいつとゴムとをお前の誕生日プレゼントに一ダースずつ用意してやったのに、ケガなんかするから、渡せなかったじゃねーか」
「そ、それって!」
「ま、ようやく渡せたんで良しとしよう」
 そんなっ!って──一ダースっ!
「んあっ」
 一言文句を言ってやろうと思ったのに、つぷっと差し入れられたもう一本の指に、声が出なくなる。
「ううっ……やだ……」
「すぐ、良くなるって」
 確かに、ひきつれる痛みはあるけれど堪えられないほどではない。しかも、指が体に馴染んできたのか、前ほどの圧迫感はなくなっていた。
「いいだろ、これ。男同士の必需品で、あのダテちゃんだって最初は絶対お世話になってる筈なんだ」
「えっ?」
 途端に脳裏に浮かんだ映像は、キイチと仲の良いダテが何故だが裸で組み伏せられていて。
 茶色の髪が蠢く下で、あられもない姿を見せていた。
 それは想像でしか過ぎなかったけど。
「そ、そんなことっ!」
 自分も同じ姿で組み伏せられているのだと、意識すると、羞恥心はもう最高まで高まってしまう。
「だけど、俺はもっとお前をよくしてやる。あの二人になんか負けるものか」
 にやっと嗤ったボブが、恐い、と、その日何度目かの思いにキイチは力無く目を閉じた。
 それでも、そんな余裕があったのは一時でしかない。
「そろそろ、挿れるぞ。もう我慢できねー」
 すっと解放されて一息つく間もなく、今度はもっと大きな塊がそこに当てられる。
「や……っ!」
 反射的に叫んで逃れようとしたのは、指よりもはるかに太いと気付いたから。
「逃がさない」
 ぐっと腰を掴まれ、引き寄せられる。その先にあるのは、ボブのモノで。
「んああっ!」
 めりめりと音がしそうなほどに開かれ、侵入してくる物体に、キイチは堪らずに悲鳴を上げた。それがボブのモノであったとしても、恐いモノは恐い。
 何せ、受け身でいるしかないのだ。
 ロボット相手に戦った時も、これほど恐いとは思わなかったのは、あの時はキイチも自ら考え動いていたからだ。
「キイ、もっと緩めろ」
 きつい縛めにボブも顔を顰めて、キイに訴える。
「い、っ、だめっ……」
 緩めた方が楽だと知っていたが、それで言うことが聞ける状態ではなかった。相変わらず深く押し入り開こうとするそれを体は拒絶する。
 痛みを逃そうと浅く呼吸を繰り返すが、それも効果がない。だけど、それでも休み休みとはいえ、ボブのモノが奥へと入っていく。その広げられる圧迫感と異物感は相当なものだ。
「入った……」
 ほっとした声に涙で潤んだ目を向ければ、ボブが満足そうに微笑んでいた。
「判るか?」
 見惚れてぼんやりとしていたキイチは問われた意味が判らない。
 そのままボブを見上げていると、くすっと笑みをこぼしたボブがキイチの手を掴んだ。堪えるためにきつくシーツを掴んでいた指を一本ずつ外していき、離された手がキイチの後に回って。
「ここで繋がっている」
 触れた先にあるのは、二人の接合点。
「ぼ、ボブっ!」
 あからさまな状態を知らされて、キイチはかあぁぁっと耳まで真っ赤になって狼狽えた。確かに広げられた後孔はキイチのもので、そこに入っているボブのモノもそこにあって。
 潤滑剤のせいか滑っていたそれは、酷く艶めかしく、キイチの心臓は早鐘のように鳴り響いた。
 そして、この先にある出来事を想像して、それだけで全身が総毛立つ。
「動くぞ」
 呟くような宣言に答える間もなく、ボブがゆっくりと抽挿を始めた。
 ゆっくりと抜き、そして押しこむ。最初はゆっくりと、回数を重ねるにつれ早くなって。
 潤滑剤の湿った音と喘ぐようなキイチの吐息が重なって、狭い室内に響いていた。
「あっ……ああっ、ああっ……ははあっ」
 最初は苦痛を耐えるために必死で声を押し殺していた。だが、それもボブのモノが体内の一点を擦り上げるたびに走る衝撃に、甘く堪えるような喘ぎになっていく。
 ボブの手が互いの腹の間にあるキイチのモノに触れ、先端を指の腹で嬲る度に、ぞくりと全身がざわめく。
「ぼ……ぶぅ……もっ……と」
 知らずに出てしまった求める声に気付いて、ボブは口の端を上げて笑い、キイチは恥ずかしく俯く。だが、それも一瞬のことで、きゅっと引き締められた口許のまま、ボブが一気に動きを早くした。
「うっ……あっっ……ああぁぁっ」
 痛いと思った。
 だが、同時に気持ちいいとも思う。
 こんなところに快感の源があったなどと、普段は考えもしなかった。なのに、今はそれをはっきりと自覚する。ボブがそこを突き上げてくれるのが嬉しくて、縋り付く手に力を込める。
「んっああっ……ボブっ…ボブッ……ああっ……」
 ぎゅっと握りしめられ、柔らかく揉みしだかれて、キイチのそれは既に限界だ。
 慣れないせいの痛みさえなければ、とっくに達っているだろう。
 それでも。
「ぼ、ボブッ!もうっ」
 せっぱ詰まった声音に、ボブがにやりと笑い、その手の動きを早めた。
「んああぁっ!」
 迸る悲鳴とともに、勢いよく吐き出されるそれは、キイチの胸まで飛んだ。
 びくびくと震え、何度でも吹き出す。
「若いねえ……」
 ボブが苦笑混じりに呟く言葉は、キイチには届いていなかった。ただ、いつまでも続く快感の余韻に身を震わせ、弛緩している。
「お?い……」
 さすがにボブが焦れて、キイチの頬を叩くと、虚ろだった瞳がゆっとりと焦点を結んだ。
「ボ……ブ……?」
 掠れた声が、かろうじてボブを呼ぶ。
「そんなに良かったか?」
 問われてキイチはただ頷いた。
 未だに痺れる手足に、ぞくぞくと疼く体。それは一人でするよりはるかに激しい快感をキイチに与えた。
「ん?まあ……良かったな。……ということで、今度は俺が……」
 ぽりぽりと照れたように頬を掻いていたボブが、ぐるっと腰を動かす。
「んあっ」
 いきなりの刺激に堪らずキイチは弛緩していた体を突っ張らせた。
「俺、まだなんだよな」
「うっ……ああっ……」
 達ったばかりの体に、その刺激は先ほどよりも強烈で、零れる声が止められない。
 ぐいぐいっと押し上げられ、ずれる体にキイチは必死でシーツを掴んでいた。その体をボブが抱き締める。
 ぬるりと二人の間の肌が滑り、白い液が薄くのばされた。その滑る刺激が肌を甘く震わせる。
「んあっ……ああっ……はあっ……」
「キイ……愛している……もう離さないっ……」
 ボブの声が彼の限界を示していて、数度の抽挿の後。
「ううっ!」
「あぁぁ……」
 ぎゅっと抱きしめられ、熱いほどの温もりに包まれて、キイチは歓喜に満ちた声を漏らしていた。
7
 人が動く気配がした。
 閉じたままの瞼の裏が灯りを透かしてほんのり赤くぼやけている。
 その色に、同室のアリンを思い出した。
 だから。
 アリンが任務に行くのか?と、任務の時間が違う彼のことを思い浮かべ、そしていつもと同じことが自然に頭の中に浮かんでくる。
 だからアリンのスケジュールを思い出そうとしたのは無意識で、だが、いつもならすぐに思い出せるそれが、今日は一向に浮かんでこなかった。
 おかしいな、とは思うのだが、思考と体を結ぶ神経が眠ったままのようで、反応しない。
 そのアリンだと思う人の気配がキイチに近づいて、頬に柔らかく触れた。途端に、まず瞼が動いた。
 うすらぼんやりとした視界に入った人影は、見慣れたアリンのものではない。
「え……?」
 次に声帯が反応して、そしてぼやけた視界が鮮明になっていって。
 そしてずっと働いていた聴覚が脳と結びつく。
「おはよう、キイチ」
「あ……」
 アリンよりももっと見慣れた顔が飛び込んできた。何よりも色が違っていて、そのせいだけでない印象も違っていた。
 何で?と思うまもなく、昨夜の事が一気に吹き出すように思い出される。
 途端に、頭の中が真っ白になるほど血がのぼって、全身がこれでもかというほどに真っ赤になった。吐き出す息も何もかもが熱い。そんなキイチが、かけられていた布団を一気に頭の上まで引っ張ったのは無意識のうちだ。
 思わず息まで止めてしまったキイチが我に返ったのは、薄闇の中にまでボブのくぐもった笑いが聞こえてきたせい。
「お?いっ!」
 とんとんと布団の上から叩かれても、昨日のことのみならず今自分が取った行動もキイチを苛んで、声を出すこともままならない。
 それでも息苦しさは相当で、しかも自分の発した熱はあっという間に布団の中で上昇する。
 頭の中まで熱で冒されそうな状態に、キイチは羞恥を隠すより、新鮮な空気を求めることを選んだ。どちらにせよ、いつまでも隠れてはいられない、という打算もあったから。
「はい……」
 それでも対応した声は、掠れてか細い。
「……真っ赤だな」
 ちらりと覗いた肌に、ボブが感心したように呟いた。それすらもキイチを苛んで、掴んだ布団の端をきつく握りしめる。
「何です?」
 返した言葉がきつくなったのにも気づかず、それにボブが苦笑を返したのにも気づかない。
 今のキイチの頭の中にあるは昨夜の痴態の数々で、あのときはどうでもいいと思っていたことまでもが、羞恥のもとになっていた。「ったく、何恥ずかしがってんだよ。今更だろう?」
「それでも……」
 恥ずかしいモノは恥ずかしく、キイチはそれ以上隠れた場所から出ていけなかった。
「だったら、こうするまでっ」
 勢いよく発せられた言葉ともに、掴んでいた布が引き剥がされる。爪に引きつる痛みを感じたのと、一糸まとわぬ肌に空気を感じた。
「あ、やっ!」
 慌てて取り戻そうとしたのだが、起こした上半身を下半身が支えきれなかった。がくりと力が入らずに崩れた膝から腰のせいでキイチの体がふわりと前へ倒れる。そのまま行けば床とご対面だ。だが、キイチの体はそれより前にがっしりと抱きかかえられてた。
「危ないぞ」
 くすりと笑われ、その吐息がうなじをくすぐる。
 途端にびくりと反応したキイチの雄をボブを見逃さなかった。
「元気だな、キイのは」
「これは……朝だから」
 もたれかかっていたボブから体を起こそうとして。
 呆気なくベッドに押し倒された。
「あっあのっ!」
「かわいーねー」
 いやらしく耳元で囁かれて、それでなくても早い鼓動がさらに早くなる。全力疾走しているがごとくのその動きに、それでなくても落ちている体力はさらに消耗させられた。もとより、下半身には力が入らない。ベッドに強く押しつけられたこともあったが、その動けないことにキイチは酷く不安になった。
 その思いのままにボブを見上げる。なのに、その先でボブが嗤う。
「また、したくなった」
 声と共に、首筋に唇が降りてくる。
「あっ……イヤだ」
 熱に浮かされるように交わった昨日はともかく、さすがに鈍く痛む体が拒否しようと抗う。なのに、快感の元は触れてきた熱に煽られてあっという間に硬く熱を持った。
「何がイヤだ。ここはこんなになって」
 呆気なくむき出しのそこをなで上げられ、悲鳴にも似た音が喉から漏れる。
「やめっ……おねがっ……」
「やめられるか、こんなお前を目の前にして」
 明らかに欲情に晒されて上擦った声に、キイチの顔がひきつる。だが、それでも必死で懇願した。
「お願いっ……これ以上やったら……動けなっ!あっ」
 指の腹が巧みにキイチの雄を擦り上げて、叫びそうになった口を必死で閉じた。だが、まだ疼いている胸に吸い付かれて、体はびくりとのけぞってしまう。
「ん……くっ……やめ……っ……」
「どうした?今日はやけに逆らうな。気持ちよくないか?」
 咄嗟に首を横に振ったのは本心だ。
 どうにかなりそうなほどの快感は、もう限界に近い。だが、それでもキイチは必死でそれに抗った。
 ともすればボブに縋りつきそうになる指を、そうしないようにと、きつく固く握りしめる。
 このまままた最後までいってしまうと、入院したときと同じように一日ベッドで過ごすことになる。現に今とて上半身はまだ動かせるが、下半身は怠く動きが鈍い。そうでなければ、ボブを蹴り飛ばしていただろう。
 それが恐ろしい。
 思うように動けない事への不安が、快感に流されることを拒否していて、それが抗う糧となっていた。
 そんな微かな抵抗にボブが気が付く。
「キイ……何やってんだ?」
 訝しげな声と共に愛撫する手が止まっていた。
「え…っ」
 問われて口を開いた途端、びりっと鋭い痛みが走る。
「何、噛みしめてんだよ。傷になったじゃねーか」
 ボブの指が触れると鋭く痛んで、キイチは顔をゆがめた。それにボブも顔をしかめ、そしてため息をつく。
「……流されちまえよ、何にも堪えずにさ。気持ちいいんだろ……」
「でも……動けなくなりそうで」
 恐い。
 動けなければ、何かの時に対処できない。
「別にいいだろ?ここで寝てればいいんだから」
 キイチの言葉の意味に気づかないボブは簡単に言うけれど、それはキイチにとっては死活問題だった。
 警備兵はどんな時でも呼び出しがあったら出なければならない。それはボブとて一緒だろうが、キイチは動けないことが即、命にかかわることだってある。
 そして、その命は仲間達の命なのだ。
「でも……もう怠くて……。これ以上やったら……」
 か細く、縋るように願う。
 守れない。
 守りたいモノが守れない。
 言葉にできなかった思いが、熱く胸の内をこみ上げる。
「……ああ、判ったよ」
 不機嫌ではあったけれど、諦めたようにボブがキイチから離れた。その手によって乱暴にかぶせられた布団にキイチはほっとしてしがみつく。
「まあ、どっちにしろ、時間がねーか……。仕事なんかする気分じゃねーが……」
「ダメですっ!」
「判ってるって……」
 ため息をついたボブが、上着を手に取った。
 その時になって初めてボブがすでに衣服をきっちりと身につけていたことに気が付いた。
 目覚める前に誰かが出かけようとしていた雰囲気は、ボブが身支度をしていたせいだったのだと気づく。

「じゃあな。ゆっくり寝とけ」
 笑って出ていくボブに、先ほどまでの激しい欲情の名残はない。
「はい」
 頷くキイチの股間はまだその名残がありありと残っていたけれど、それでももう縋る事なんてできなかった。
 これは……自分でするしかないよな。
 あのままボブにしてもらえば、絶対に最後までやらされる。
 今のキイチにとって、それは酷く恐ろしいことだった。
 そして、このままここにいれば、あのボブのことだから、またキイチを抱くだろう。
 深く考えなくてもキイチはそう思って。
 

 結局、なんとか動けるようになった途端にキイチは早々に自室へと戻っていった。
 
 自室で療養といわれても、傷自体はもう保護する必要もないほどに治っていて、特に治療を要することもない。
 要は体が受けたショックを和らげ、現場に復帰する準備期間のようなたぐいだと考えればいいらしい。
 だが、狭い部屋ですることもなく、キイチはここに戻ってきた次の日からさっそく暇をもてあますようになってしまった。
 勝手に帰ったとボブには怒られたとはいえ、あそこに戻ればまたされてしまう。
 体調が万全の時であれば、それもいいかも……とは思うのだが、今は何よりも落ちた体力を復活させなければならなかった。
 だが、キイチの部屋は二人部屋で、ベッドと小さな台と言った方がいいような机だけのスペースくらいしかない。
 開いている空間は、2メートル四方はあるのだが、それでも寝っ転がって筋トレなどしようものなら、もう一人はベッドに上がってもらわなければならなかった。それにそこは二人の共通スペースだから、あまりわがままも言えない。
 もっともアリンは自分以外のことにはあまり興味がないようで、キイチが何をしようと一向に気にしなかったし、一日の大半は配属先に詰めている。だからその間は自由には使えるのだが、それでもキイチはもう何度目か判らないため息をついていた。
 普段ボブとともに任務について、帰ってから筋トレするときは、苦もなくノルマをこなせるというのに、いくらでも時間がある今は、どうしてもやる気が湧いてこなかった。
 しかし、もともと動くことが好きだから、こんなふうにぼんやりしているのは耐えられない。
 結果、退院してから二日後には、キイチは自室でのトレーニングを諦めた。
 どうせやるなら本格的にメニューを組んでやりたい。
 そのためにはマシントレーニングが欠かせない。
 そう決意すると、行動は早かった。
 くだんのトレーニングルームは幸いに人は少なく、マシーンはどれも空いている。
 これなら存分に今の筋力を試せそうだと、ほくそ笑んだ。
 まずランナーを使って体をほぐそうと考える。動けない間も、手と足はできるだけ動かして萎えないようにはしてきたが、どうしても動かせなかった腹筋周りはかなり落ちている自覚はあった。それらの筋肉を回復させなければ任務には戻れない。
 だから、復帰までにどうしても筋力を戻す必要があった。
 だが、まだ無茶はできない、と走りながら頭の中でトレーニング内容を組み立てる。
 リズムよく足を動かすと、不思議と頭の中がすっきりとして、手際よくメニューがくめる。ついでに、動けなかったストレスまで解消して、キイチはご機嫌だ。
 まだまだ大丈夫だな。
 最初から飛ばせないけど。
 キイチにしてみれば、ゆっくりと数字を上げる。
 デジタルの表示が10km/hrから15km/hrへと、そしてさらに上がり、それに合わせて勢いをつけようとして──。
「キイっ!!」
「えっ、うわっ!」
 いきなりの罵声に、キイチはバランスを崩してランナーのスピードに乗り損ねた。途端に体が設定スピードのままに後ろに運ばれ、足がベルトから床に落ちる。たたらをふんで、無様にこけるのを回避したキイチは、ほっと安堵の吐息をつきながら、声をかけた男を恨めしげに見つめた。
「……なんですか?」
「お前、何やってんだよ」
 明らかに不機嫌なボブに、苛立ちを忘れてしまう。
 一体何がどうしたというのか?
 それに、今はボブは仕事中のはずで。
「なんでこんなところに?まさかまたさぼって女性の所に?」
 それなら許さない、と身構えたら。
「ばかやろっ!俺はもう遊ばねえってっ!」
 間髪入れずに頭をはたかれて、キイチの目の前に星が散った。
「いた……」
 思わず頭を抱えてうずくまる。
「いいから、来いっ!」
 だが、痛みが治まるまでボブはおとなしく待ってはくれなかった。首の後ろで襟を捕まれ、引っ張られる。
「ちょっ、ちょっと待ってっ、わわっ」
 それは文字通り引き立てられる、と言った状態で、キイチは慌てて普通に歩こうとしたが、何せ首根っこを捕まれている状態だから、それもままならない。
「……離してください?」
 そんな無様な姿を往来する隊員達が見て笑っている。それに気づいた途端、キイチは情けなくも懇願していた。
「だったら、部屋に戻るな?」
 相変わらずのボブの不機嫌の理由が判らなかったが、それでもこの状況から逃れたくて、キイチはこくこくと頷いた。
 と、同時にボブの手が離れる。
 引っ張られていたせいか喉が絞められていて、堪らずに襟を緩めた。
「ほらっ、さっさと行け」
 ついでに文句を言おうとした途端に、先制を取られる。
「はい……」
 今は逆らわない方がよさそうだとキイチが仕方なく答え、足を進めようとしたその前にいきなり影が差す。
 慌てて足を止めたキイチの前に、片方の口の端だけを上げたコウライドが立っていた
「グレイル、ケガ人相手にずいぶんと乱暴なんだな」
 笑っているのに目はボブを睨んでいて、その場の空気が一気に氷点下になる。
 そそくさと近場の隊員たちが逃げていくのを、キイチは自分も逃げたいと思いつつ、つながれた腕を恨めしげに見下ろした。
 コウライドが現れた途端に、ボブがキイチの腕を掴んだのだ。その力強さは振り払いようもない。
「彼がきちんと療養しようとしないので、連れ帰るだけです。部下の体調管理も上官の務めですから」
 にやりと勝ち誇ったように笑うボブに、コウライドのこめかみがぴくりと引きつった。
「君のような不作法でがさつで──しかも節操のない人間が上官などと、キイチもかわいそうなものだ。やはり、彼にはぜひとも警備隊に来てもらわなければならないな。その方が彼のためだ」
 さすがに年の功。
 コウライドもうかつにボブの挑発には乗らず、お返しとばかりに言い放つ。
 こわっ……。
 ぞくりと走る悪寒は、はっきり言って敵を前にしたときより激しい。キイチを挟んで対峙する二人の視線は鋭く、触れるだけで火傷でもしそうだった。
「その話は、カケイ大佐の名で正式に断ったはずです」
「だから、第二の嘆願書を総合司令部に提出した。パラス・アテナの次期司令チームの象徴入りの用紙でね」
「なっ!」
 ボブもキイチもその言葉に目を剥いた。
 次期司令の象徴が入った用紙を使用できるということは、それは彼女たちが正式に認めているということに他ならない。
 艦隊において、司令部の意向だと皆に知らしめるのにもっとも有効なのは、直接の言葉だ。次に、正式な書類に書かれた直筆のサイン。そして、それが不可能な場合に配布される、象徴入りの用紙。
 コウライドはそれを使って嘆願書を出した。
 それを逆らえる者はそうそういない。
 カベイロスはへーパイトスの配下ではあったが、ここパラス・アテナに派遣されている以上、アテナの管轄下でもある。だから、このままでは、たとえリオが反対してもキイチの所属は警備隊に移ってしまうだろう。
 たかだか一人のためにそこまでやるのか?
 そこまでコウライドが手に入れようとしているとは、当のキイチですら想像もしていなかった。
 勝ち誇った目をして、コウライドがボブを見やる。
「正式な配属転換の指令が降りるのは来週になるだろう。それまでは、君に預けるしかないが、決して無茶はしないでくれよ。またケガをさせるような真似でもして見ろ。我々はたとえ君たちでも容赦はしない」
 笑って、きびすを返す。
 その余裕のある態度は、もうキイチを手に入れたと思っている証だ。
 そして、キイチもそれが現実に起こる可能性がきわめて高いと気が付いた。なにしろ、アテナの次期司令、ユウカが許可したのだから。
「そんな……」
 キイチの体がおこりのようにがくがくと震え始めた。
 やっとボブと想いを遂げることができて、これからだと思っていた。今まで堪えていた分、もっとずっとボブの元にいられて、そしてボブを守ってやる。
 だから、一刻も早く元の筋力を取り戻したいと思って──。
「っ!」
 ぎゅっと気が付いたらボブの袖を掴んでいた。
 きつく下唇を噛みしめて、崩れそうな体を支える。
 こんなことで。
 そう思うほどに、体に力が入らない。
 胸の中で暴れる荒々しい感情が、言葉を封じ込める。
 イヤだ、と叫びたいのに、言葉が出ない。
 パラス・アテナの次期司令部の象徴。緋色のフクロウが羽根を広げて枝に降り立つ、それ。
 それに敵うものなどいない。
 リオならばそれに逆らうだろうが、それでも一度決まったことを覆すにはそれ相応の労力が必要だ。
「帰るぞ」
 突然引っ張られ、硬直していた足がもつれる。
「まだ、なんとかなる」
 その言葉に視線をむければ、ひどく厳しい横顔が目に入ってきた。目の前にいない敵を睨みつけるように、空中を睨んでいる。
「ボブ?」
 思わず呼びかけた言葉に返事はなかった。ただ、その代わりのように腕を引っ張られる。
 そんな自分が情けないと思っても、縋る相手にただ流される。
 これでは、守りたいと思うことすら僭越だと思える程で、キイチはふがいなさにただ俯く。
 もっともっと。
 心の中で何度も叫ぶ。
 もっともっと身も心も強くなりたい。
 何者にも負けないほどに強くなって、ずっとボブの元にいたい。
 ボブを──守るために。
 それしかできないのだから、と、キイチは引っ張られながらも己の手を見つめていた。
8
「ここ……」
 そんな予感はあったが、それでも連れてこられた部屋に入った途端、キイチは責めるようにボブを見た。
「いいから、そこに座れ!」
 不機嫌丸出しでキイチにベッドを指さす。
 そこは、つい先日ボブに抱かれた場所で、キイチは思わず顔を熱くした。今はその痕跡もないそこで、自分がどんな痴態を晒したか、あの時は無我夢中だったが終わってしまえば恥ずかしいなんてものではなかった。
「キイ?」
 訝しげに、だが、多分に怒りも含んだ声音に、キイは押されるようにそこに座る。
「お前……病み上がりなんだぞ、判っているのか?」
 怒っているのは判るが、そんなたいしたことはしていない。そう思っているキイチはムッとして言葉を返した。
「その病み上がり相手に腰が立たなくなるほどしたのは誰ですか?」
「……」
 途端にボブの全身からゆらりと怒気が立ち上がったように見えた。
 失言だとすぐに気づいたが、だからと言って取り返しがきくものではない。
 それに謝るのも変だと思い、仕方なく窺うようにボブを見つめれば、彼が本当に小さく息を吐いた。
 その瞬間目線が外れ、ボブの肩が落ちる。
「お前……設定何キロにしていた?」
「え?」
 その呆れたような問いかけも意味が判らない。
「だ?か?らっ、ランナーの設定だよっ」
「え、ああ、18km/hrですけど?」
 なにげになく答えて、スパンっと小気味よい音がキイチの後頭部で響いた。
「くうっ……」
 たまらずに頭を抱えるキイチを、ボブが呆れたように見下ろしていた。
 最近とみに増えた攻撃に、キイチが声も出せずに、睨み付けると。
「お前なあ……2週間ずっと走っていなかったくせに、なんでそんないきなりの速度なんだよっ!そんな通常の訓練並みの速度でマジ走るつもりだったかよ?」
「えっ……?」
 いつもは20km/hr近くの設定で走っていたから、それでも加減をしていたと思っていたし、時間もいつもよりは短縮して30分程度で切り上げるつもりだった。
 だから、それが無茶だとは思えなかったが。
「出血して手術して、なおかつ寝たきりで腹筋は衰えて。そんなお前の心肺機能が前と同じになんて思うなよっ。初っぱなからそんなに飛ばしてどうするつもりだ?も一回入院するつもりか?」
 息つく間もなく言われて、反論するタイミングを失ったキイチをボブが抱え込んだ。
「俺は……お前を失うつもりなんかねーんだよ。お前がベッドで一向に目を覚まさなかった時の気持ち、お前に判るか?」
 肩の上に顎を乗せられて、耳朶の後ろで囁かれる。
 その言葉の意味に、キイチは得も言われぬ程の幸福感を味わっていた。
 ボブには申し訳ないけれど、心配されたと言うことが嬉しくて堪らない。だが、続く言葉が耳に入った途端、キイチは驚いて目を見開いた。
「俺はな……あんな無茶するお前に腹が立って腹が立って……だから、目が覚めたら、思いっきりお仕置きしてやるって思ったんだ。二度とあんなふうに危険に飛び込んでいかないように──そんな事をしたら、命の危険よりもっと辛いことをお前に与えてやって、そして、もっと慎重に行動することを覚えさせようと思った」
「なっ、何、それっ?」
 ぞくりと悪寒が走って、慌ててボブから離れようとする。だが、背に回された腕の力は強く、キイチは完全に拘束されていた。カチャリと鈍い音と小さく痛みが走った右の手首の方を見下ろせば、そこには鈍く光るリングがはめられていた。その金属製のリングの正体を知って、キイチの顔から音を立てて血の気がひく。
「この前逃げられたからな。あんな無茶なトレーニングをやろうって気なら、ここで俺にたっぷり抱かれてもいいだろう?そしたらさ、この辺の……」
 そう言いながら、ボブの手がキイチの太股の内側をなで上げる。
「こことか、こことか……鍛えられるぜ」
 内側をのぼって、足の付け根から腰へと回る手が酷くいやらしく動きながら、さらにまた太股へと降りていく。
「んくっ!」
 ぎゅっと押さえつけられたのは、股間のふくらみで、そこは微かに反応しかけていた。まだ微かな痛みはなぜか徐々に大きくなる。
「や、やめっ」
「たあっぷりやろうぜ」
 押し殺したような低い声音が、確かに揶揄を含んでいる。だが、ボブの手に握られたコントローラーの意味に気付けば、青ざめた顔も元には戻らない。
「ボ、ボブ……」
「腹筋が鍛えたければ、いろんな方法があるしな。いくらでも俺が手伝ってやるぜ」
 ボブの指が手の中のコントローラーのキーを押す。
 途端に、右手首のリングが強く引っ張られた。その先にあるのはボブの左手首にはめられた同じ形のリングだ。
「うあっ!」
 カチッと二つのリングが密着する。
「鍛えたいなら、俺が鍛えてやる。毎日毎日、動けなくなるほどに──そして、最高の悦楽と共に。お前が俺から離れられなくなるほどのな」
 それが何を意味しているのか、先日と同じく欲情に満ちた目を見ただけでキイチは理解した。確かにあの快感は、キイチを溺れさせるほどだった。けれど。
「や、やだっ……」
 ぶるりと体が震えた。
 ボブの怒りは周囲の気温を氷点下に下げるのではないかと言うほどに冷たく激しい。触れあった部分は堪らなく熱いと思いのに、そうでないところから伝わる冷気に、キイチは鳥肌を立てていた。
 手首をボブに繋がれて、その指がキイチの指に絡められていた。
 ゆっくりとなぞるそれは、ただそれだけの行為なのに体を熱くする。
「ボブ……っ!」
 激しい感情とは裏腹に、ボブの唇がそっと優しくキイチの喉を辿った。
「うっ……あっあっ……」
 喉を震わせるキイチにボブはそこを何度も啄む。
「やっ……何でっ……」
 のしかかられ身動きもろくにできない状態で、キイチはすでに涙目の状態だった。先ほどのボブの言葉にどんな酷いことをされるのか、と恐れていたのに、彼が施す愛撫は非常に優しい。シャツは面倒くさがったボブが引き裂き、ズボンはさっさと下ろされてしまった。今やシャツの残骸が腕や肩にまとわりつくだけで、キイチの体を隠すモノは何もない。
 大きな手の平が剥きだしの肌を辿って、敏感な場所を柔らかく撫で上げる。
「んくっ」
 堪える声に、くくっとボブが笑う声が降ってきた。
「まだ、音を上げるのは早いぞ」
「んあっ」
 つんと雄の先を突かれて、びくりと全身が震える。抱かれる快楽を知ったばかりの体は、浅ましくも既に放出への準備を整えていたのだ。それを指摘されて、キイチの体が朱に染まる。
 恥ずかしいが、欲情するのが止められない。
「触れて欲しいか?」
 それに思わずこくこくと頷いて、また笑われた。
 恥ずかしさに脳まで沸騰しそうなのに、それでも触れて貰える期待に胸が高まる。なのに。
「まだ鍛えるのが終わっていない」
「え?」
 いきなり体の上から重みが消えた。
 慌てて目を見開いてボブの姿を探せば、彼はキイチの頭のところに移動していた。そのせいで手首を引っ張られて、右手だけが頭の上にある。
「あ、あの?」
 ボブの行動の意味が判らないと、問いかければ。
「さあ、やるぞ。とにかく腹筋が一番衰えているんだろ」
 ボブの体がキイチの上を縦断して、開いている方の手が腹の上をまさぐる。
「う?ん、怪我をしたのは上腹部だから、まずは下腹側から鍛えるか」
 にやりと、心底楽しそうに笑った後、ボブが下した命令に、キイチは当分忘れないだろう。
「腹筋だな。下腹部に力入れな」
「腹筋っ!この格好でっ!!」
 思わず声がひっくり返っていた。
 ボブの言う下腹部を鍛える腹筋ならば、仰向けになり膝を曲げ、腰を持ち上げるようにする。そのせいで骨盤が浮き、足まで引っ張りあげられていくという腹筋に他ならない。それは定番のトレーニングで、することには問題はない。だが、それを裸でするとなると、何もかもがさらけ出されてしまう。
「鍛えたいんだろ?何を遠慮することがある?」
「え、遠慮なんて」
「いいから、しろ」
「でも」
「やれ」
 有無を言わせぬボブの迫力に、キイチは結局根負けした。
 見られると言っても相手はボブなのだ。
 すでに先日隅から隅まで見られている。何が恥ずかしかろう、と無理矢理結論づけて。
「んくっ」
 頭を上げ腹を見つつ、ゆっくりと腰を上げる。
 だが、途端にぱたりとキイチの足がベッドに落ちた。
 こんなっ!
 激しい羞恥心がキイチを襲って全身が真っ赤に染まる。
「どうした?」
「ど、どうしてってっ!だいたいボブだって何をしようとっ!」」
 足を曲げて腰を上げようとした瞬間、ボブが体を伸ばしてその腰の下に入り込もうとしたのだ。そして、舌先でつつかれたのは双丘の片側。
 ボブのいたずらは、一瞬のことだがダイレクトに下半身に響いた。
 キイチの体は先日の事を忘れてはいなかった。
 熱を持つ柔らかな舌が辿ったラインを。
 思い出すだけでその場所が疼いて、腰を上げるような力など入るはずもなかった。
「やれよ」
「や、やだ……」
 きつい言葉に視界がぶれる。
「鍛えたいんだろ?」
「だけど……こんなのは嫌です」
「何だよ。筋トレやりたいって言うから手伝ってやってんだろ?お前がそうやって腰をあげたら、俺だってやりやしーのに」
「そ…んなこと……僕には、できないっ……」
 喉から嗚咽が漏れる。
 ボブにとっては一石二鳥かもしれないが、キイチにとってはできることとできないことがある。
 少なくともこれはできないことだった。
「ならば、もう俺の許可なく訓練することは許さない。療養中のトレーニングメニューは組んでやるが自室での自重トレーニングだけにしろ」
「え……」
 それでなくてもボブのきつい言葉に呆然としていたところに畳みかけるように言われて、一瞬何を言われたか判らなかった。
 幾度か反芻し、ようやく理解して。
 慌てて、首を横に振った。
 そんなペースでは、復帰した時直後もたいした動きはできないだろう、と。
「キイが何を言おうとも許さない。これは命令だ。その怪我をした時も、今日の訓練も、俺にこれでもかと言うほどに冷や汗を流させた。どっちにしろお前は当分後方勤務だから、慌てて鍛え直す必要はない。理由は、怪我による体力と筋力の劣化、それに精神訓練だ。まあ、安心しろ、俺達はどうせティシフォネの修理に手一杯だから、その間ゆっくりと回復訓練ができるだろう」
 その言葉にキイチはひくりと喉を鳴らした。
 キイチの役目は守ること。
 後方勤務はそれができないということだ。
「だ、だからって……。これからがんばればすぐに復帰できますっ。ティシフォネの修理には復帰して警備兵として──」
「ダメだっ!」
 『守るために』と、そう続けたかった言葉は、ボブが言わせなかった。そして、キイチが言おうとした言葉が判っていたかのように、自嘲気味に嗤って言う。
「だから、連れていかねーんだよ。どんなに復調していてもお前はまた同じ事をするから。ヘーパイトスでは自分の命を守れない者は、前線に出る資格はねーよ。だから、今回は絶対にお前は留守番だ」
「そんな……」
 目の前が一気に暗くなる。
 思わずきつく瞑ったまなじりから熱い滴が流れてシーツにシミを作った。
 いつだってボブを守りたいと思って──それが自分の役目だと、頑なまでに信じているキイチにとって、それは自身の存在意義を否定することだった。
 
  どのくらいそうしていただろう。
「キイ?」
 固く目を瞑ったままびくりとも動かないキイチに、ボブが訝しげに声をかけた。
 その声に促されたかのようにのろのろとまぶたを開ける。
 その目がボブを見つめ、そして繋がれたままの腕へと移動した。 
 拘束されたそれは、コントローラーで解除しないとはずせない。そしてそれを持っているのはボブだった。
 つまりボブはキイチの反抗を見越してそれをつけたのだ。
 そこにキイチの意志はない。
 それに気づくと、何もかもがイヤだと感じた。
 キイチがボブを好きなのは間違いなく、そしてボブがキイチの事を好きだというのも間違いないだろう。
 なのに。
 どうして守りたいと思うのをジャマするのだろう?
 どうして、強くなりたいと思うのをジャマするのだろう。
 キイチは繋がれたままの右腕はそのままに左腕だけで上体を起こした。
 そんなキイチの背後にボブが同じく座っている。それを肩越しに見据え、キイチは乱れた前髪を指で梳き上げた。
 随分と楽しそうだ。
 ボブの顔にはまだ笑みが浮かんでいて、先ほどのキイチの醜態を思い出しているのか、じろじろと背後から見つめてくる。その欲情に満ちた視線が痛くて──鬱陶しい。
 キイチは堪まらずにため息をこぼした。
 先ほどまでキイチを襲っていた激しい羞恥は、その大きさそのままに、怒りへと変化していた。ふつふつと湧き上がるその怒りは、遊びに出掛けるボブを捕まえ損なったあの時の苛だたしさにも似ている。
 まるで人を小馬鹿にしたように、するりと手の中から抜けていくボブを何度捕まえたいと願っただろう。捕まえて、閉じこめて──もうずっと己だけのモノにしたいと、幾度も祈った。
 それと同じ事をボブが請う。
 だが、それは受け入れることなどできない事だ。
「ボブは……」
 そういえば先日抱かれた時も、まるでキイチが悪いかのようにボブは扱っていた。
 湧き起こる激情は、その時は許せたことまで思い出させ、それを燃料にしてさらに大きく激しくなる。
「ずっと僕の思いが判っていて、それでも黙っていたんだって……」
「そうだが?」
 激情に駆られたまま口にした言葉に、ボブがきょとんと首を傾げる。 
「そうやって判ってて……なのに、からかうように僕にひっついて、そして逃げて。それって僕の反応見て面白がっていたってことなんだ」
 好きだと言われて舞い上がっていたから、先ほどまでは思い到らなかった事実。
 だけど。
 今は許せない、と思う。
 好きだから。
 好きでいたいから。
 こんなふうに乱暴にされるのは堪えられない。
 それに。
 ボブが奪おうとしているのは、キイチの存在意義だ。
 キイチは怒りのままに、リングの嵌った腕を大きく振り上げた。
「わわっ!」
 その腕にはボブも付いている。大きく振り上げられた腕が勢いよく降ろされれば、今度はその勢いのままにボブの腕も振り下ろされた。その反動でボブがベッド上で転がる。
「むぐっ」
 勢い余って顔をベッドマットに突っ込ませて藻掻くボブの背に、キイチは全体重をかけて押さえつけた。そのせいでボブは左手を後ろ手にさせられて、肩がきしむ。
「お、おっ前っ!」
 ひしゃげたカエルのように無惨な呻き声を上げて抗議するボブに、キイチは涙に濡れたまま冷ややかな視線を向けた。
「ボブが僕をお仕置きするというのなら……僕だって、ボブをお仕置きしたっていいわけでしょう?」
「な、何っ!」
「だって、ボブは僕をずっと騙していた。僕を好きなくせに、ボブは女の人ばっかりを追いかけて。それって、随分とバカにした行為だよな。しかも何がプレゼント?もし怪我せずにいたら、本当にあれをくれたって訳?だけどさ、あんなもの貰ったら、どうしていいか判らないじゃないか。つまり、あれも僕をからかうためのモノなんだろ?」
 ずっと疑問には思っていた。
 ボブがキイチを好きだと言ってくれたことは嬉しい。つい先日の出来事は、まだこの体にその快感のままに刻まれて残っている。だから、不安に思ったこともどうでも良いことなんだと思っていた。
 だが。
 とっかかりは些細な事だったかも知れないが、それでもそれが引き金になって、真綿にくるまれて押し込められていた不安が勢いよく刺を突き出した。
「僕って、ボブにとって何?」
 キイチにとってはボブは優しいお兄ちゃんだった。
 優しくて、頼もしくて、あこがれて。どんなに遊び歩いていたとしても、確かにその技量は羨むほどであったから。
 なのに。
「好きだって言ってくれて嬉しかった。抱いてくれたのも……嬉しくて。なのにさ、なんか優しくないって思うのは気のせい?まるで僕のこと玩具かなんかだと思っている?僕さ……ボブ以外の人知らないよ。だから、ボブがすることを受け入れるしかないんだって思って」
 とうとうと、息つく間もなくキイチは訳のわからぬ感情の正体を吐露していく。
 ぐちゃぐちゃになった頭の中は、もう何がなんだか判らない。
 ただ、ぐいっと押しつけた掌から伝わるボブの体温だけがキイチの現実だった。
 それに縋るようにぐいっと掌をさらに強く押しつける。
 そのたびにボブの体が震えるのが肌を通して直接響いた。それにも縋って。
「好きなのに……僕の体がいいって言ってくれるから、それなら好きなようにしてくれて良いって思ったけど。でも、それでも僕にもやりたいことがある。僕は……警備兵なんだ。何もできない僕の手ができること。それをないがしろにされては……僕はここにいる意味がない……」
 ぽたりと滴がボブの背に染みを作る。
 最初は一滴だったそれが、幾つも幾つも重なって次第に大きな染みになっていった。
 それなのに、ボブは一言も返さなくて、その顔をベッドに沈めたままだ。
 それはまるでキイチの言葉をすべて拒否しているようで、キイチは堪らない絶望感に襲われた。すうっと視野が狭くなる閉塞感に、同じような思いをさっきもしたと気付く。
『第2の嘆願書』
『次期司令の象徴入りの用紙……』
 コウライドの言葉が頭の中に響く。
 あの時、ボブと引きはがされると思った時も、今と同じような症状に捕らわれた。だが、今はもっと酷い。
 暗くなった視界は、なかなか元に戻らなくて、キイチは気持ち悪さすら感じていた。
 それに堪えるように細められた目がボブの背を見つめる。
 これだけ言っても、何も言ってくれないんだ……。
 黙り込んで突っ伏したままのボブは、こんな駄々をこねるようなキイチとは口をきくのも嫌なのかも知れない。
 ふと、そう思って。
「くっ」
 鼻の奥がきな臭くなって、かろうじて止まっていた筈の涙がまた溢れ出す。
「……僕は……ボブが好きだよ。ずっと言えなかった言葉だけど、ボブのお陰で言えた。だから……もう……いい」
 キイチはふらりとボブの背から離れた。
 先ほどまでボブが操っていたコントローラーを取り上げ、スイッチを操作する。
 途端にかちりと小さな音がして、二つのリングは別れ、そのまま腕からも外れて音を立てて床に落ちる。それは、二人の決別をも意味していて、キイチは強張ったままの表情でそれを見つめていた。
 願いは叶ったのだから。
 本当はずっとボブの元にいたかったけれど。
 キイチはゆらりとベッドから立ちあがると、あちこちに散乱していた服を身につけていった。
 もうここにいたくないと、思いばかりが急いて体がついていかない。破れたシャツの代わりに、ボブの物を借りようとしたが、震える指が何度もシャツを取り落としていた。その合間にも、ぽたぽたと涙が落ちて、喉から嗚咽が漏れる。
 先ほどまでは人生で最良の時だと思っていた。
 なのに、今は。
 ゆらゆらと足取りもおぼつかないキイチは、それでもドアに向かう。
「僕は……もう……満足したから……」
 そう決心して呟いても、足は意志とは別物のように動かない。
 だが通路を通った隊員の訝しげな視線を目にして、キイチは慌てて外に出た。
 上げた腕でぐいっと涙を拭き取り、息を吐く。
 その背後でドアが音もなく、閉まっていく。それを肩越しに見つめて。
 完全に閉まった途端、ひどい脱力感に襲われて、キイチはゆらりと壁に背をつけた。
 ボブからの何かしかの反応を期待していた心は、穴の開いた風船のようにしぼんで、もうそこには何もない。
「どうして……」
 愚痴るように呟いて、大きくため息を吐く。
 その吐き出す息に何もかもを乗せて、キイチはぎゅっと手を握りしめた。
「ボブが守ることを許してくれないのさ……」
 それが己の存在意義なのだと、キイチは唇を噛みしめながらその場を離れていった。
「生きてますか?」
 ぽんぽんと軽く叩かれたにもかかわらず、背は酷く痛み、ボブは口の端から堪えきれない呻き声を出した。
「ああ、どうやら生きているようですね」
 安堵よりは怒りが満ちた声音に、ボブはうっすらと目を開けた。それより前に、そこにいるのが誰かなんて判りきってはいたが、彼の怒りの原因が判る故に目覚めたくないと思っていたのだ。
 だが、それも許されない。
「キイは?」
 呻き声に紛れた問いかけをしながら、辺りを見渡す。
「私が来た時はいませんでしたよ。だいたい……あれは結構痛かったですから、私も咄嗟に動けませんでした」
 顰められた顔に浮かぶきつい視線に、ボブも、ああ、と息を吐き出した。
 咄嗟の衝撃や痛みが片割れに伝播してしまうことがある。
 二人はそういう性質を持っている。今回もそれが起きたのだと、ビルの言葉を聞く前から気が付いていた。でなければ、彼がここにいる理由がつかない。そして、だからこそビルが機嫌が悪い。
 気が付いてしまえば痛みは遮断できるし、肉体そのものに傷があるわけでないから負担は本人よりは軽い。だが、油断しているところへの痛みは、精神的なダメージが大きい。
「俺は……気ぃ失ってたのか……?」
 キイチにのしかかられたことだけは覚えている。背に加わった情け容赦ない重み。本人に自覚があったのかどうかは知るよしもないが、それは見事に急所に入り、肺を圧迫し呼吸を遮断した。吐き出しきった息は声を出す余力もなく、もがくだけしかできないボブなのにキイチは決してその手を緩めない。──結果、ボブは情けなくも意識を手放し、その後に何が起きたか判らない。
「この様子では、キイを強姦しようとでもしたのですか?」
 カチャリとビルの手の中で転がるリングからボブは顔を背けた。
「ちょっと……からかいすぎただけだ」
 無茶をした、と怒りにまかせて支配しようとしたのは否めない。
 だが、それでも離してやったし、それまでの愛撫そのものは優しくしたつもりだった。
「あいつがあんまり無茶するから……とにかく懲らしめて、それで──そんなにすぐに回復しなくても良いって事を伝えて」
「おや、ティシフォネへの修理の延期は、キイチの回復を待っているのかと思いましたが?」
「それを言ったら訓練でも無茶をしそうだ。それに、コウライドがまたキイにちょっかいを仕掛けてきてな」
 ボブがトレーニングルームでの出来事と、その後のコウライドとのやりとりを伝えると、ビルがきつく顔を顰めた。
「象徴の入った用紙ですか?厄介ですね」
「だろ?だからさ、とにかくキイチはまだ療養中だってことで、たとえその辞令が発動しても、その効力を遅らすことができないかと思ってな」
 自室療養が長引いてるとなれば、キイチの警備隊への出頭は遅れる。その僅かな間でも、何か工作するには必要だった。
「でまあ、お前は後方勤務だって言ったら、いきなり怒り出したんだよ」
 ふとあんなふうに怒ったことはなかったな、と思い出した。自らもパニックを起こしていると判る、落ち着きのない怒りは、まるで子供の癇癪と相違ない。しかも、その姿はボブにキイチの小さな頃を連想させた。大切な物が壊れたと言っては泣き、直ったと言っては悦び、見ていて気持ちが良いくらいに感情表現が素直だったあのころ。キイチも変わったと思っていたが、根底のところは変わっていないのだろう。
 もっとも昔のように華奢な時なら怒っても可愛いと言ってしまえたが、今のような体格になられては手がつけられない。ツボに入った攻撃は、本人の意志など無関係に、ボブを陥落させていた。
「そうですか……。それにしては、キイチは本気で怒ったようですが?」
「知るか……ああ、マジで痛い」
 ボブにはキイチが怒った原因などわかりようがなかった。
9
 ボブの部屋を飛び出してから、キイチは自室に戻る気にもならず、ぼんやりとテラスにあるソファに身を埋めていた。
 テラスの天井はスクリーンになっていて、今外に見える筈の宙空の様子を映し出している。
 そこに見える夜空は大気を介していないせいで、どこまでも凛とした静けさを持っていた。揺らぐことのない小さな光がこれでもかと言うほどの量で闇の中に模様を作る。
 その宇宙が白く見えるほどの星の量を見ていて、キイチは不意に嘆息をついた。
 銀河の中心が近いその空は、母星であるオリンポス近くで見られる空とは星の量で全く違う。
 それはキイチの今いる場所が、故郷を遠く離れているのだと知らしめて、そのせいで胸中に一気に望郷感が広がった。
 はるか過去の歴史では荒れた土地であったオリンポスは、度重なる改造で今は穏やかな気候と豊かな命を持つ星にと変化している。その時の苦労も、星の持つ力の凄さも、幼い頃から繰り返し教えられてきた。幼い頃からキイチは、素直にそれに感動し、そしてそんな星をいつまでも大事にしたいと思っていた。それは今も変わらない願いとなっている。
 込み上げる熱い思いにじわりと目尻に涙が浮かぶ。
 ホームシックといえば恥ずかしいが、それでもキイチはその思いを拒絶しようとは思わなかった。
 帰りたい。
 湧き起こる思いは誰にも止められない。
 ただ、帰りたいのは今も両親が住んでいる家ではなかった。
 帰りたいのは、時すら遡った幼き頃。
 オルゴールが自らの時を止めてしまったように手の中で動かなくなったあの時に。
 そうすれば、こんな思いをしなくてもよかっただろうに。
 ただ身の回りに起こった事を素直に感じ、思ったままに行動すれば良かった頃に、キイチはボブに出会って、感情の赴くままに彼を慕った。
 キイチにとって楽しかったあの頃。
「ふう……」
 突然キイチは体を起こした。
 今まで見上げていた宙から目を逸らし、膝上で組んだ手を見つめる。
 骨太の手は、とても器用とは言えない。武器を扱うことには慣れた手が、このヘーパイトスでは価値が落ちてしまう。
「アレースに行けば良かったな」
 実のところ、それは過去に何度も言われていたのだ。
 キイチの過去幾多の適性検査の結果は、いつだってそれだった。そして性格もアレースに向いていると出ている。いつもはそれは間違いだと思っていたけれど。
 今は、確かに自分はアレースに向いているのではないかと、思う。
 戦っている時は、何も惑うことはない。
 したいことをし、しなければならないことをする。
 それは本能にでも根付いているように、キイチの戦闘中の判断には迷いがない。そうしなければならないと知っているから、どんな時でも自らの判断を優先する。
 それがたとえ命を落とすような危険な行為であっても。
 なのに。
 ここではそれが否定される。
 確かに、守りたいと思うことは、オリンポスではとても大切なことだと教えられる。
 そしてキイチにとって守りたいのは何よりもボブであった。
 だからこそ彼のそばに来たのに、彼はそんなキイチから、守るべき術を取り上げる。自分の身を守ることを放棄する者は、前線に出る資格がないと。
 アレースとヘーパイトスの価値観の違いが、そこに出ていた。
「僕はヘーパイトスの隊員でいられない……」
 ボブがその価値を振りかざしてキイチからキイチである事を取り上げるのであれば、いつまでもここにはいられない。
 コウライドがキイチを欲するのであれば、彼の元に行くのも考えた。だが、彼は任務とは別のことでもキイチを欲している。それだけは、受け入れられない。
 こんなことになってもキイチはボブが好きだったし、彼以外の誰も受け入れようとは思えなかった。
 そして、それはさらにはっきりとキイチを支配する。それに彼とてヘーパイトスなのだから。
 だからコウライドの元に行くことはできなかった。
 ならば、どうすればいいのか?
 そう考えた途端、キイチは無意識のうちにぽつりと呟いた。
「異動届って……どうやって書くんだっけ?」
「どうして?」
「……あっ……」
 誰かがキイチの独り言に応えた。
 途端に自分が何を口走ったかに気付いて、慌てて口を噤む。しかも、それを人に聞かれたのかと思わず見上げれば、そこにはよく見知った顔があった。
「キイチ。どういうつもりだ?」
「アリン……」
 そこにいたのは彼にしては珍しく、苛立ちを露わにした同室のアリンだった。
 アリンと初めて逢ったのは、キイチがカベイロスに配属されたその日だった。
 連絡艇を降りて出会った担当官に挨拶をして、まず今の自室に連れてこられた時、彼は部屋にいて、言葉少ない挨拶をした。
 もともと口数の少ないアリンに、その後も二人でいても会話は弾まない。
 それでも二人で過ごす時間は、嫌なものではなかった。
 キイチはその能力故か緊張していると酷く気配に敏感になる。
 最初の頃は、このカベイロスにいる間中そんな状態に陥って、キイチを疲れさせた。なのに、アリンといる部屋はそうでもない。
 ぴりぴりと張りつめていた神経が、何をするでもなく部屋でぼおっとしているだけで和んできたのだ。そこに、アリンがいるというのに。
 だからと言ってアリンが何か特別な事をしているという気配はなかった。
 彼はいつもごく自然にしたいようにしているようで、キイチが何かしているからと遠慮することはない。
 仕事が違うから、同僚というのは違うだろう。だが、友人かと言われるとそれも違うようで、キイチはアリンとの関係はなんと言うのだろう、と幾度か考えたことがあった。 
 その彼が、見上げる先でキイチを見つめている。
 珍しいアリンからの問いかけにキイチは口を開きかけ、だが所在なげに俯く。
 人に聞かれるつもりでなかった言葉は、まだキイチとてはっきりと決めたことではない。しかも、何故?と問われても、その理由は言えるものではなかった。
「……異動したいのか?」
 キイチの逡巡に気が付いたのか、アリンが言葉を変えてきた。
 最初の苛立ちを含んだ声とは違い落ち着いたそれは、いつものアリンのしゃべり方だった。
 どんな時でも決して不快ではない。
「……したい……」
 それにつられるように答えていた。
 目線は床を這ったままで、その視界にアリンの足が入っても上げることはできなかった。そのまま軽くソファが沈む。
「どこに行くんだ?」
 先ほどより身近な場所で声が聞こえ、キイチは少しだけ顔を上げた。
 すぐ横に座ったアリンが、感情の窺えない瞳を向けている。
 それがバラ色と言うことを、他ならぬアリンから聞いたことがある。
 彼の瞳は、バラ色と称させる色をたたえていた。そして、表情の変化の少ない端正な顔立ちを持つ、アリンは他にもその体に赤系統の花の色を持っていた。
 それはアルビノに代表される色素が無い故の血の色とは違う。
 瞳の色は鮮やかなバラ色だが、アリンは肌の色は僅かに色を持ついわば桜の花の色だ。
 桜はオリンポスにはない花だが、キイチはそれを知っていた。そしてそれを教えてくれたのは誰あろうアリンで、綺麗な色だといったキイチにデータベースから引っ張って見せてくれたのだった。
 その自然な花の色と同じ色をアリンは肌に持っていて、そして髪はそれに合わせたように浅緋色をしている。
 その色もアリンが教えてくれたもの。
 アリンは母親からそれを聞いたと、その時ばかりははにかみながら教えてくれた。
 キイチは、そんなアリンを見つめながら、その色合いが余計に心を和ませるのかもしれないとふと思う。
「キイチ?」
「……もともとアレースに適性があると言われていた……」
 答えを請われて、キイチは和ませるその色合いから自ら目を逸らした。
 白と黒の混在した宙を見上げ、現実へと心を戻す。
「ここでは……僕の価値は下がるだろ?」
 命を賭してまで守りたい人がいるからここに来た。
 だけど、彼はそんな思いはいらないと言う。
 拒絶して、彼はキイチを安全な場所にいさせようとした。
「どうして?」
 再び鼻の奥がきな臭くなって涙が抑えられなくなってきて、それを必死で堪える。なのにアリンが判らないと不思議そうに問いかける。
「どうして……って……」
 俯いた瞳を上げれば、そこにあるバラ色の瞳が揺らぐことなくキイチを見つめていた。
「どこにいても、キイチはキイチなのに」
「え……と……?」
 アリンが何を言いたいのか判らない。
 じっと見つめていると、アリンが不意に宙を見上げた。
 バラ色の瞳が、煌めく星を写す。
 相変わらず変化しない表情で、アリンが歌うように言葉を紡いだ。
「僕は僕だからここにいる。ここが好きだから、ここにいる」
 まるで見えない何かに語るように、そしてその言葉に惑いはない。
 その横顔はいつものアリンだというのに、そこに人でないような雰囲気を感じて、キイチは我知らずごくりと唾液を飲み込んだ。
 そのままの表情で、アリンがキイチに視線を寄こす。
「キイチもそうなのだと思ったけれど──?」
「それは……」
 途切れた言葉の先を察して、キイチは問われるがままに首を横に振る。
「違わない」
 キイチはボブを追うために、ここに来たけれど。
 実際のところボブだけでなく、ここにいるみんなが好きなのだ。
 コウライドにしてもあんなふうに迫られなければ彼だって上官としては好きなのだ。もちろん全てがそんなふうに思える相手ではないけれど、それでもここの人達は仲間としてはいい人ばかりだと思う。
 それはカベイロスが好きだと言うこととイコールでくくれるだろう。
「僕もカベイロスは好きだけど」
 その言葉に間違いはなかった。
 だけど。
「ここにいることが堪えられない」
 カベイロスは好きだが、ボブとこんなふうに対立するのは嫌なのだ。
 お互いが好きあっていると知ったからこそ、余計にそう思う。
 ボブが大人しくキイチに守られてくれれば、こんなことにはならなかったのに。
 子供じみた我が儘は、今のキイチにとっては全てなのだ。
「……キイチは17だっけ?」
 ふとアリンが呟いた。
「この前18になった……けど何で?」
 素っ気なく訂正する。来年になれば、キイチと同じ年の新兵が配属されてくるだろう。
 そんな関係ないことがちらりと頭を過ぎる。
「キイチは……体格もいいから大人びて見えるけど、やっぱり年相応なんだな」
「え?」
 それは子供じみているということなのだろうか?
 あまり良くない印象のその考えに、キイチは眉を顰める。
 それを見て取ったアリンは僅かに口の端を上げた。
「好きなのに、気に入らないことがあるから逃げようとする。逃げて、今より良くなると思うなんて、それは子供の考え方だ」
「そんなのっ」
 暗にバカにされたとカッと頭に血が上る。だが、アリンが続けた言葉に、その怒りも一気に冷めた。
「自分が大人だと思うのなら、もう少し我慢してみることだ。それに逃げてばかりでは道は開けない。嫌なことに黙っていてもそうだから。僕は、黙ってなんかいなかったよ」
 その言葉はひどく重くキイチの心に響いた。
「アリンは……何を黙っていなかったって……?」
 きっと聞いてはいけないことなのだろうけれど、口が勝手に口走っていて。
 なのにアリンは、何でもないことのようにキイチにそれを教えた。
「……僕は……アルテミスに行けと言われた。どうしてそんなことを言われたのか、どうしてそうした方が良いのか──そうしないと大事な人に迷惑がかかることも知っていたけれど、それでも、僕は残ることを選んだ。そうはっきり言ったよ。その理由も何もかも。二人でとことんまで話し合って、時には喧嘩にもなったけど。少なくとも僕はその時の自分の行いに間違いはないと思っている。それで良かったと今でも思っているよ」
 喧嘩?
 アリンに似合わないその単語に目を大きく見開いて、キイチは彼を凝視する。
 いや、その内容も何もかもが今のアリンからは想像できない。
 それに。
「……大事な人に迷惑がかかるのに?」
「それは上の方から来た、ある意味命令だったんだ。それに相応の理由もないのに背けば、罰せられるだろう?だから僕がどんなに行きたくないと言って、それでその人がそれを受け入れようとしても、そのために必要な十分な理由は無かったんだ。あの時はそんな我が儘なんか聞いて貰える状況じゃなくて、大変だったわけで。それにその人は、僕がそこに行った方が十分に働けると思っていたし」
「……それでも、ここに残ったんだ?」
「ここが好きだったから」
 最初の言葉が繰り返され、アリンはほのかな笑いを見せた。
「僕はどこに行っても僕だから。どこに行っても変わらないけれど──だけど、僕は好きな場所で働きたかった。そしてそういうところで働くことが、僕には大切なことだったから。だから、そんな事苦にもならなかったよ。あの人にとっては……あの時は迷惑なことだったかも知れないけれど」
「僕の場合は……行かないで良いと言ってくれるけど」
「なら良いじゃないか。どうして異動依頼が必要なんだ?」
 躊躇いつつ呟いた言葉は呆気なく結論づけられる。
 確かに、行かなくて良いのはそうなのだが。
「だけど、僕は警備兵としてここにいるわけで──。なのに、後方勤務なんか言われても、そんなの僕には受け入れられない。目の前であの人が危険な目にあっているとしても、助けに行けない場所にはいたくない。だったらいっそ……ずっと遠くにいればいい……と思って……」
 だから、アレースに。
「それで、キイチは後悔しないのか?手の届かない遠い場所で、その人の危険を知って。その人がここにいるとしたら、たとえどんなに離れていても連絡艇で数時間の距離だろう?だけど、ここ以外に行ってしまったら、それこそ運が良くても数十光年。もしかすると一日でそこに行けば助けられたかも知れないのに、それだと絶対に間に合わない。その時に、キイチは後悔しないと思えるのか?」
「それはっ!」
 へりくつだと言いたくて。
 だが、キイチはそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。
 アリンが言ったような事態になれば、キイチは確かに後悔するだろう。
 何故、彼の元を離れてしまったのか、と。
「何か意見の相違があるのなら、まずとことん意見をぶつけ合うのが先だろう?それをキイチはしたのか?」
 そんな風に問われれば、確かに意見をぶつけるまでは到っていない。
 ボブが命令だと言って、それに混乱したままに言葉をぶつけて──それだけだ。
 上下に動いた喉をアリンが見つめていて、その顔が柔らかく微笑む。
「まだやることはいくらでもある。それをしないでとっとと逃げるのはキイチらしくないと僕は思うよ。それに──」
 不意に、拗ねたようにアリンが唇を尖らした。
 そんな子供っぽい仕草を、アリンがしたことに驚いている間に、これまた信じられない言葉が耳に届く。
「僕はキイチが同室で良かったと思っているんだ。君といるとひどく楽で。ようやく落ち着けると思っていたんだ。だからキイチには僕が一人部屋に入れるほどに出世するまでずっといてもらいたいと思っているのに。そんな僕を見捨てるのか?」
「そんなこと……」
 呆然としたまま反射的に呟いた言葉は。
「そうだろう?キイチは僕を見捨てるつもりなんかないよな。だから、異動届なんて言い出さずに、ここで頑張るよな」
「あ、はい……」
 畳み込まれてキイチは気が付いたら頷いていた。
 そして、それを言い直すことができないほどに、艶やかに微笑まれて、もうそれだけでキイチは完全に言葉を失う。
 まして。
「良かった」
 そう言われては、出て行くなどとどうして言えるだろう。
 
「本当に──がんばれよ」
 席を立つ時にはいつもと変わらない表情の窺えないアリンに戻っていたけれど、キイチはただこくりと頷いていた。
 諦めるには早すぎるのかも知れない。
 もう一度ボブと話をして。
 キイチが何をしたいのか、どうしたいのか。
 それをきちんとボブに伝えたいと思った。そして、ボブがキイチを好きだと言うのであれば、もしかすると異動の話は最後の手段としてつかえるのかもしれない。不意にそんな事を思いついたのだ。
 それがどんな結果をもたらすかは知らないが、黙って出て行くのも──という気になったのは確かだ。
 そして、それを悟らせたのが、あのアリンだったことにキイチは苦笑を浮かばせずにはいられなかった。
 同室であるとはいえ、こんなふうに悩みを打ち明けて話をしたことはなかった。
 いつもどこか夢見ているように遠くを見ているアリンに声をかけづらく思っていたことも確かだが、今日は時折そんな目をしていても気にならなかった。
 一度湧いた親近感は、アリンの見方を変えたようだ。
 と。
 不意にアリンが最後まで言わなかったあの人が誰なのか知りたいという好奇心に捕らわれる。
 だけど。
 それはたぶん聞くことはないだろう。
 言っても良いことなら、彼は躊躇わずに言っているような気がして。
 だから彼から言わない限り、キイチは聞かないことにした。

 伸ばした手に触れたカップはすっかり冷めていて、生ぬるいコーヒーを喉の奥に流しこむ。
 ここに来た時のどうしようもないほどに暗い気分はもうどこにもない。
 ただ、あんなふうに飛び出した手前、今更ボブの元に戻るのも面映ゆいような気がして、これからどうしようと、キイチは逡巡していた。
 どちらにせよ、療養中の間は考える時間はまだまだある。
 それに──?
 不意にキイチは鋭い視線を感じて顔を上げた。ゆらりと巡らした視線の先に見て取った人影に、深く眉間にシワが寄る。
「リオ……」
 彼がまっすぐにキイチを見ていることに──その足が惑うことなくこちらに向かっていることに、キイチは嫌な予感に捕らわれながらも彼から視線を外すことなどできなかった。
 
?
10
「正式な辞令の前に内示がきた」
 唐突な言葉ではあったが、キイチはその意味が手に取るように判った。
 リオは、きつく眉間にシワを寄せるキイチを意に介す様子もなく、傍らのソファに腰を下ろし、コーヒーを注文している。
 だが、再びキイチに視線を向けた途端、その口の端が悪戯っぽく上がった。
「ユウカの承認付きだ。覆すのは難しいが?」
 言葉にならなくても、その瞳が『どうする?』と聞いてくる。
 キイチはごくりと息を飲み、そして見つめるリオから逃れるように目を伏せた。
「……イヤ……です」
 アリンと話をする前なら、行く、と伝えていただろう。だが、今のキイチには、そんな思いは欠片もない。
 ボブと離れることは考えられない。
 それでも、第2艦隊の次期司令──最高司令部の承認付きという鳴り物入りの辞令を覆すことが難しいことくらい知っている。
 基本的に個人の意志が尊重されるのがオリンポスの常であったが、それでも多勢に有益であることが尊重されるのは致し方ないのも事実。意にそぐわない配属は、そういう時に起こる。
「そうだな、俺もイヤだ」
 それは確かに難しいことではあったけれど、だからと言って覆すことは実は不可能ではない。
 キイチは伏せていた顔を上げて、リオを見つめた。
「ボブが……何とかするって……」
「だろうな」
 キイチが多くを語らなくても、リオは頷いて苦笑する。
「ボブがお前を手放すわけがない」
 リオが意味ありげに笑みを浮かべ、見つめる瞳に羞恥に顔を染めるキイチが写っていた。
「その……」
「あのボブが真面目に仕事をしているんだ。何があったかなんて容易く判る。……にしては、浮かぬ顔だな。お前は嬉しくないのか?」
 聡い上官も考え物だ。
 ボブといいリオといい、キイチの思いなど何もかも見透かされていたと考えると、どんな顔をして会えばいいと言うのか。
 キイチは再び力無く俯いた。
「……嬉しかったです。けど……」
「ボブがティシフォネの修理を延期したのは、お前が無茶をしないためだろう?」
「それは……」
「お前がまた怪我をするのがあいつは堪えられないようだな。だから万全の体調になるまでって、言っていた」
「え、でも……」
 ボブはキイチを連れて行かないと……。
 ふるふると首を横に振っていると、リオが眉を顰めた。
「……そういや、お前は異動の件知っていたな?どうしてだ?」
 何かが変だと呟いたリオがキイチを睨み付ける。
「……それは、コウライド少佐に聞いて……」
「コウライド?それをボブも聞いたということか?」
「はい、いっしょに」
「……ふ?ん」
 リオの前髪がさらっと横に流れる。
 頭を傾げたのだと気付くと同時に、リオが口元を歪めて呟いた。それが耳に届いた途端、キイチの背筋に悪寒が走る。
 リオは確かに言ったのだ。
「おもしろくねー……」
と。
「あ、の?」
「あいつら、何やってんだっ?俺抜きでっ!」
 はっきりと響く声音で続けられた言葉に、キイチの頬がひくりと引きつった。
 もしかして、やぶ蛇?
 疑問ではあったが、それは確信でもあった。
 リオは、騒ぎから外れることを嫌う。
 何よりも中心であることを望む彼の耳より先に、自分たちが異動の件を知っていたことが不快だったようで、彼は明らかに不快そうに鼻を鳴らした。
「判った。この件、俺がなんとかする。お前は、養生して復帰したらすぐに任務に就けるようにしろ。俺がユウカからお前を買い取ってやる」
「……でも……」
 強気なリオの言葉はありがたかったが、その言葉はボブと相反する。
 だから、素直に頷けなかった。
 リオの言葉に従おうとしたら、今度はボブの言葉には従えない。──いや、従えない方がいい……けれど。
「……なんだ、ボブに何か言われたのか?」
 さすがにリオには隠し事はできない。
 睨まれて、仕方なくキイチはボブに後方支援業務につけると言われたことを伝えた。
 だから、トレーニングは無茶をするな、と言われたことも。
「……確かに無茶は駄目だ。だが、俺はお前を後方支援にするつもりはねーぞ。だいたいそんなもったいないことできるか」
 むうっと唸りながら呟いたリオが、にやっと口の端を上げたのはその直後。
「判った。ボブからもお前を買い取ろう。そうすれば、お前が何をしようとあいつに文句は言わせない」
「それは……そうですけど」
 ありがたい──と思うのだが、どこか釈然としない部分がある。それでも、リオに逆らう愚を犯すほど、キイチも愚かではなかった。
 結局ため息をつきながら、さっき浮かんだ違和感を訴える。
「ところで……何で『買い取る』って事になるんですか?」
 まるで物のようだと不快になるのは、ボブにも物扱いされたことが脳裏に残っているからだろう。
 どうしてここの上官達は……。
 本人達に悪意はないのだが、とにかく人をコケにすることが根付いているのか、言葉が悪い。
 その『買い取る』発言も、他意は無いだろうけれど。
「それ相応の対価を払ってやった方が、後腐れがないだろう?やつらが文句を言わせねーよーにしてやるよ」
 そう言って嗤うリオに背筋が寒くなる。
「対価って?」
「あいつの悪評を俺がどれだけ握りつぶしたと思う?そのツケ全部だ。安いもんだろう?」
 にやりと嗤うリオに、彼に借りは作りたくない、と心底思う。
 けれど、今のこの状態は既に借りを作っているのと同じだろう。
 そして、ボブが何かをするよりも、ユウカと親しいリオが動く方が何倍も効果があるのは確実で。
「……そうですね」
 少なくともボブの悪癖にはキイチもさんざん苦労をさせられてきたから。
 その原因をキイチのせいにするボブを思いだし、ムカッとするのは止められない。
「判りました。僕はリオに買い取られます」
 調子の良いボブの表情を思い出し、そんな相手に少しくらい苦労をさせたいと、キイチは思わず言っていた。
 リオに促されて、彼の執務室に向かうとダテが安堵した表情で迎えてくれた。
「アリンとビルがね、連絡してくれたんだよ」
 キイチにダテが話しかけるのを見て取ったリオは、さっさとその奥の部屋に入り込んでしまう。
 それを横目で見ながらダテが苦笑いをしながら教えてくれた。
「アリンはテラスにいるキイチの様子が変だっていうし、ビルはボブがヘマしたんだっていうし」
「変って……」
「詳しいことは言わなくて。アリンとはそんなに話したこと無かったから、どう対応していいか判らないうちに切れてしまうし……。そうしたらリオは黙って行ってしまうし、ね」
 ならばリオはわざわざ来てくれたのだろう。
 タイミングがいいとは思ったけれど。
「異動の件で」
「ん、聞いた。でもリオが何とかしてくれるだろう?」
「はい……」
 こくりと頷くと、ダテもほっとしたように笑いかけてきた。
「キイチが行きたいというのなら、俺は何もしないって──そう言って出て行ったから。どうなるかと思ったけど、良かった」
 心底安堵している様子に、キイチも小さく笑いかける。
「いろいろと悩んだけど──アリンが励ましてくれて。やっぱりここにいたいって思ったから」
「ん?、それにリオやボブがキイチを手放すわけ無いって思ったしね」
「リオは僕を買い取るそうですよ。ユウカや……ボブから」
 冗談めかして伝えたら、ダテが目を見開いて絶句していた。
 やっぱり買い取るというのは変だよな、と思っていると。
「ボブからも?何で?」
 どうやらダテの疑問はそこにあって、買い取るということ事態にはなんのリアクションも無かった。常識人を自負しているダテであっても、相当リオに毒されていると、キイチが嗤う理由もたぶん気付いていないだろう。
 そんなダテに、キイチは苦笑しつつ答えた。
「ボブは僕を後方支援業務に回すって言うんです。だから、そんな無駄な事はできるか、と」
「後方?……あ、なるほど。ボブはキイチを怪我させたくないんだ」
「……そうなのかな。でも僕はそれじゃ、イヤだから」
 守りたい。
 その思いは変わるものではない。
「私もリオに何かあるかと思うと、おちおち後ろで控えてなんかいられない……と思うことがあるよ。だからボブの思いもキイチの思いも判るところがあるけどね。それでも……私はリオに執務室にいてくれ、とは言えない。厄介だけど、ああいうリオもリオだから」
「うん……」
 ダテの言いたいことは判る。
 だが、それを素直に受け入れることはできない。それはリオもきっとそうだから。だから、ダテも決してリオには強要しない。
 ボブもそうであって欲しかった。
 けれど。
「ま、言って聞いて貰える人じゃないし、ね」
 それはそうだと、二人の口許に苦笑が浮かんでいた。
 
「ティシフォネの修理に行くぞ」
 突然のリオの発表に、ボブの顔色が一気に変わった。
「あれは延期するってっ!」
 食って掛かるボブにリオが冷たく嗤う。
「延期する理由がないだろう?キイチの療養期間は終わったんだ。先日受けさせた体力テストでも、問題なかったしな。だいたい、この作戦内容だとドンパチになる可能性も低いし、俺達だったら、そんなに難しくもない。この前はまさしく油断以外の何者でもなかったしな。だが、今回はこの前と同じ轍(てつ)は踏まない。その対策は十分だ。で、他に何か問題あるか?」
 リオから聞いた話では、ボブが延期した理由はただキイチに無茶をさせないため、というただそれだけのことだったらしい。そこに自分の名を聞いて、キイチは聞きながら顔を赤らめた。
 そこにはボブの想いが隠されている。それに、さすがにキイチも気付いたのだ。
 そして、その理由が解消されてしまえば、ボブが実行に反論しようもないことをリオは指摘した。その言葉通りに、ボブは呆然とキイチを見つめ、そして睨むように目を細めた。
 そのボブからそっと視線を外して、キイチは唇を噛みしめる。
 キイチが何をしようと今のボブには口出しできない。それは悦ぶべき事だったけれど、何故かひどく寂しかった。
 あの日、部屋から飛び出して以来ボブのところには行っていない。
 リオと話した直後、リオの名で正式にキイチの異動が決まった。
 それはコウライドとは別件の、リオ配下内での話であったから公にはなっていない。それでも、リオの名で正式に成されたそれに、ボブは反論の余地がなかった。
 なにより、キイチがそれを了承したのだと聞いた途端に、ボブは何も言えなくなったと言った方が正しい。
 結果、キイチはリオの直属となって、直接の指令はリオかダテからしか受け付けなくて良いと言うことになった。
 それは確かにキイチにとっては歓迎できることだ。
 彼らは、キイチに警備兵として必要な訓練をすることを認めてくれたし、いろいろと便宜を図ってくれたのだから。
 それに。
 部屋に何度もボブが来た、ということはアリンから連絡があって知っていた。
 その間、キイチはずっとダテの部屋に守られるようにしていたのだ。
 一つしかないベッドを明け渡すダテに、キイチは申し訳なさがあったが。
「どうせあまり使わないし……」
 頬を染めて呟くダテに、それ以上遠慮ができなくなったのも事実。
 ロックの厳しい将校クラスの個室に、ボブがどんな技を使っても入れるものではなく、そして昼間はリオかダテがキイチのそばにいる。しかも、他人が滅多に入らないもっとも奥まった部屋でだ。いつもは遠慮無く入ってくるボブ達を閉め出してまで、キイチはそこに保護されていた。
 そこでキイチはひたすら体力回復に努めていた。
「それとも何だ?お前は参加しないつもりか?」
 帰ってくる言葉が判っていて、リオが悪戯っぽく問いかける。
 リオの計画を知っているキイチにしてみれば、言い様にからかわれるボブにひどく申し訳ないのだが、だからと言ってリオの作戦を無駄にするという恐ろしいことはもっとできない。
「参加しますって……。っていうか、この内容は、俺の考えた通りじゃないか。ただ……」
 ボブの視線はキイチから外れない。
 きつい視線から逃れるように、キイチはちらちらとリオとダテを窺った。
「ああ、キイチはダテちゃんと組ませる。こいつら、結構息が合うしな。それにエネルギー系統の操作はダテちゃんの得意分野だ。確かに危険度は高い場所だが、キイチがいるなら大丈夫だろうし、適任だろう?」
 くすりと嗤うリオに、ボブは返す言葉を失う。
 最初の計画では、事件の中枢であるその場所に行くのはボブであった。
 それをリオはダテに任せると、計画を練り直した。
 ボブはそれよりもっと後方、艦の動力源のシステムの確認とその発動を担当するようになっている。それは、キイチ達ははるかに離れていた。
 そこは、キイチ達の場所よりずっと安全だろう。
 そして。
「汚染されたシステムの移行作業は、ベルがやる」
「はい」
 簡潔な返事が返され、計画はボブ以外には無言で了承されていた。それにボブはもう何も言えない。
 キイチにはそれがはっきりと判っていた。
 リオは凄い。
 伊達に厄介な連中の上に君臨しているわけではない。それは常々判っていたことだけど、今日キイチははっきりとそう思った。
 リオだって、ダテが怪我をすることを厭わないわけではない。前に怪我をした時の荒れようをキイチははっきりと覚えていた。だが、それでもリオは必要であればダテを前線に押し出す。
 そうする必要があるからだ、と言われればそれまでだが、その決断力はボブにはない。
「そのプラン通り明日には出る。文句があるなら今のうちだ」
 細かいことは言わない。
 プランを見ても、書いていない。
 それでも、誰も何も言わせない力がそこにある。
 ふと視線を感じて見上げれば、ボブと視線が絡んだ。
 そこに、仕方がないと、諦めの色が浮かんでいるのを見て、キイチは安堵したように微笑んだ。
 ここでリオとボブがキイチのことで反発することだけは避けたかったから。
 途端にボブが驚いたように目を見開いたのが判った。
 そしてすぐに顔を顰めたのも。
「解散だ」
 短い言葉に、メンバーが各々に席を立った時も、ボブの視線はキイチから離れなかった。
「キイ……」
 何となくその場を離れ難くて、ぼんやりとしていたキイチに背後からボブが暗い声で話し掛けてきた。
 来るとは思っていたけれど、それでもキイチの肩が跳ねる。
 既にリオとダテは別室に戻っていた。
 ここまで来たら、二人の庇護は必要ないのだけど。
「はい」
 振り返ってもボブの顔を見る勇気はなくて、視線は彼の腹の辺りを彷徨う。
「もう大丈夫なのか?」
 罵倒されると思ったが、かけられた言葉は労れるそれで、キイチは肩すかしを食らったように顔を上げた。
「確かに……筋肉は戻っているようだが?」
 優しい視線が捲り上げた腕を見つめている。
「はい。もう……大丈夫です」
 間近で見たボブは、いつもと変わらないようで、だが、どこか違和感を感じた。
 そう──覇気がないのだと、気付いたのはその直後だ。
「あの?」
「何だ?」
 ちりちりと疼くような痛みが胸の奥に宿る。
 こんなに近い距離にいるのに、なぜか遠く離れたような気がした。
「すまなかったな」
 何も言えずに固く口を噤んでいたキイチに、ボブの方が先に口を開いた。
「この前は……。アリンだっけ?あいつに叱られたよ」
「え……?」
 アリンが叱る?
 その想像できない事柄を告げられて、キイチは目を大きく見開いた。
「俺のしようとしていることは、キイチをキイチで無いものにしてしまうってな。言われたことはそれだけで、言われた瞬間は何を言われたかもよく判らなかったし、腹も立った……だが後で考えると、結構堪えた」
 そう言って自嘲するように嗤うボブは、キイチから目を離さない。
「それにこうやってお前と離れて、落ち着いて考えたら確かにこの方がいいのかも知れないって思い始めた。お前が手の内にいると、俺はお前を良いようにしてしまう。それこそ、どこにも出さずにずっと部屋に押し込めてしまうかも知れない。──だが、それではキイチではなくなるよな。俺が好きなキイチは……そんなところに閉じこもっているようなキイチではないし」
 何度も名を呼ばれて、その優しさにほっとすると同時に、言い様もない不安も込み上げる。キイチは堪らずその腕に縋っていた。
「僕は……いつだってボブを守りたい。そのために、強くなりたいと思ってきた。今よりももっと」
「……それでも俺はキイチが傷つくところは見たくない」
 ボブの本音に、キイチも頷く。
 二人の思いは結局は同じなのだ。
 キイチもボブが傷つくところなど見ていたくなくて、だからこそ守りたいと願う。
 ボブもキイチを守りたいから、閉じこめようとする。
 だけど。
「今度の作戦では、僕はボブについていられないから、だから危ないことなんかしないで」
 言ってしまえば言い様もない不安が押し寄せてくる。けれど、それは現実なのだ。
 いつだっていっしょにいられない立場を、お互いが選んでしまったのだから。
 それを思うと、あの時アーレスに行こうとした思ってしまった自分が信じられない。
 キイチの縋った手にボブの手が重なる。
「俺の方がまだ安全だ。お前はダテちゃんとだろ?なんてーか……俺、すっごい不安なんだけどな」
 苦笑混じりではあったけれど真剣な瞳に見つめられて、キイチはぞくりと背筋が痺れた。
「それって……ダテちゃんを信じてないって事?」
「いや……その……監禁癖っていうか、襲われやすい体質っていうか……不幸を呼び寄せるっていうか……なあ、そう思わねーか?」
「そんな言葉に同意を求められても……」
 再びぞくりと背筋に走ったのは、今度は悪寒に近い。
 リオの膝元でそんな事を言うボブにも呆れてたものだけど、触れあわんばかりの呼気にそんな事をゆっくりと考えている暇はなかった。
「まあ、悪運強いリオがいるから大丈夫か」
 揺らめく吐息に笑ったのだと気付いたけれど、すぐに唇を塞がれて、キイチは固く目を瞑った。
 やっぱり好きだ。
 思いのままに縋る指が強くなる。
 1週間ぶりのキスは、熱くていつまでも離したくないと思った。
 いや、離れていたからこそ思う心はさらに強くなって、ボブにさらに惹かれていく。
 離れることが話し合うことに結びついた二人が、こればかりは譲れない思いを、互いに認識しあったから。
「く……」
 深くなる口づけに、キイチが苦しげに喉を鳴らした時。
「てめーら……用は済んだんだからさっさと出て行け」
 地を這う言葉に、キイチは咄嗟にボブから体を引きはがした。──いや、引きはがそうとした。なのに、いつの間にか背に回されたボブの腕がきつくキイチを縛める。
「無粋だぜ」
 ボブがからかうように言葉を投げつけた先に、別室に戻ったはずのリオがいて、その後ろでダテちゃんが頬を染めながらそっぽを向いていた。
「てめーがダテちゃんの悪口言わなきゃ、放っておいたがな。何だ、さっきの台詞はっ」
「いや、言葉通りですって。ね、ダテちゃん」
「そ、そんな……」
 赤い頬が、一気に青ざめて狼狽えるダテに、キイチが慌ててボブの口を塞ごうとしたけれど、縛められて思うように動けない。
「たとえ事実でも、他人が言うと腹が立つんだよっ!」
「……リオ……」
 庇うどころでないリオの言葉にダテがますます小さくなる。
「とにかくっ、さっさと出て行けっ!だが、明日の作戦にキイチが動けなくなるような真似はすんなよっ。それこそコウライドの思うつぼになるぞ」
 苛々とぶつけられた言葉に、キイチがどう対応しようかと考える前に、ボブが肩越しに笑った。
「判ってますって」
 そのふてぶてしい態度に、やはりボブなのだと安堵するが、同時にもう一つの不安材料を思い出した。その途端、無意識のうちにボブに縋る指に力が籠もった。
「とりあえずちょっとキイは借りるから。じゃ」
「えっ、ボブっ!」
 強引に引っ張られて部屋を出で行く寸前、ちらりと背後の二人を見やったが、やけに明るく楽しそうなボブに、もうリオもダテも声をかける気はなさそうだった。

?続く