11
「あの、どうです?」
「何だ?」
 100m走のタイムを測って、キイチは荒い息を落ち着かせながら問うた。
「満足したかってこと」
 有無を言わせずにトレーニングルームに連れ込まれて、体力テストをされて、ようやく一段落がついたところだった。
「ああ……前と同じくらいだな」
「そう」

 リオが大丈夫だと言った言葉を信じていないのだとは思ったが、いきなりこれだとは思わなかった。
 キイチは数度深呼吸してから、ストレッチを始める。
 敏感なキイチの勘は、その姿をじっと見つめるボブの視線に気がついていたけれど、今は意識的に無視していた。
 舐めるように肌を這う視線は、気にし出すと犯されているような気分になる。
「ちっ」
 だがその耳に小さく聞こえた舌打ちに、驚いて顔を上げるとボブの顔が大きく歪んでいた。
 思わずその視線を移動させると、そこには懸念事項の一つであるコウライドが見て取れた。
「あ……」
 慌てて立ちあがったキイチにコウライドがまっすぐに歩み寄る。
「やあ、久しぶりだな。もう大丈夫かね」
「はい」
 ちらりとボブを窺うが、彼はしかとを決め込んだようで、腕組みをしながらよそを向いている。
「それなら、異動の件も予定通り行きそうだな」
「予定通り?」
 嬉しそうなコウライドの言葉にキイチは驚いたように訪ねていた。
「ああ、聞いていないのか?君の体力回復をまっていたのだが、予定通り一週間後にはOKだな。君が来てくれるのを楽しみにしているよ」
 にやりと自信満々の笑みがボブに向けられる。それをボブがことさらに無視しているのが、判った。
 キイチもどう返して良いか判らない。
 黙り込んだキイチの態度に、それを了承と受け取ったのか、コウライドは来た時より上機嫌なのを隠そうともしなかった。
「じゃ、いいポストを用意しておくから」
 絶対的な優位。
 自分の力でないその優位をひけらかすコウライドに、キイチは初めて嫌悪を感じた。
「ええっ!」
「何だ、やっぱり気付いていなかったのか」
 キイチの驚きに苦笑を浮かべたボブを、マジマジと見つめる。
 あの時、ボブの部屋から飛び出した時、やけに何も言ってこないと思ったら、ボブは気絶していたという。その初めて知った事実に、キイチは頭の中であの時のことを必死で思い出そうとしていた。が、断片的にしか残っていない記憶では、あの時のボブの様子が一つも浮かんでこなかった。
「あの……ほんとに?」
「ほんとだって。お前、遠慮無く背から押しつけたんで、俺は息が詰まって……」
 そんなに長い間押したという記憶もないから、それだけ自分が己を失っていたのだと判るが、それにしてもだ。
「すみません……」
 怒られるようなことをしたボブもボブだという思いはあるが、だがそこまでする必要もなかったろう。
 キイチはマズかったと素直に謝った。
「まあ……いいさ。それより、いい加減にこっちに来いよ」
 くすりと笑うボブが手を差し出す。
 その手をじっと見つめ、キイチは赤く染まった頬を持て余しながら、首を振った。
 じっと立ちつくすキイチは、部屋の中央に立っていて、その前のベッドにボブが座っている。
 一通りのトレーニングをした二人が食事の後にボブの自室に戻ってそれぞれにシャワーを浴びたのはつい先ほどのことだ。
 そして、今、当然とばかりにボブがキイチをベッドに誘おうとする。
「何でだ?」
「だ、だって──」
 キイチの躊躇いなど判っているのだろう。ボブが面白そうにキイチを見上げていた。
「ばーか、たいしたことはしやしねーよ。でねーと明日お前動けなくなるだろ?」
「じゃ……何で?」
「いいから来いよ」
 未だ躊躇うキイチの手首を掴み、ボブは思いっきり引っ張った。
 逆らう間もなくキイチの体はボブに包み込まれる。
「で、でもっ」
 慌てて手をつっぱってもしっかりと押さえつけられ、頭に頬を押しつけられた。
「一週間以上我慢したんだ。挿れなくても楽しもーぜ」
 甘い声で言われて、背筋から下肢にかれて痺れるような疼きが走る。
「だから……その……」
 相変わらずストレートな表現にこれでもかと言うほど赤面しながら、キイチはどうにか顔を上げた。
「どうしたら……?」
「何だ、わかんねーのか?」
 くすくすと笑うボブが、キイチの体を倒してベッドに縫いつけた。
 知らずに体が強張って、警戒する心がいつまでも解れない。
「まあ、いいから。俺のしたいようにさせろよ。無茶はしねーよ。動けなくなるのがイヤなんだろう?」
「本当に?」
「ほんとーだ」
 もう何もいうなとばかりに唇を塞がれる。
 舌が口の奥まで入ってきて、執拗にキイチの舌を弄んだ。それに応えて、キイチも舌を動かす。拙い動きは恥ずかしいほどだったけれど、ボブはそれを意に介さず、素直に喜んでいるようだった。
 時折甘い息がボブからも零れる。
 それに気付くと、警戒していた心も解れてきて、キイチは押しとどめようと突っ張っていた手から力を抜いた。代わりのように、ボブの背に回す。
 風呂上がりで、薄いシャツしか身につけていない二人だから、あっという間に常より高い体温が伝わってきた。
「ん……ボブ……」
 一時はどうなるかと思ったけれど。
 やっぱりボブから離れる事なんてできない。
 ボブの手がキイチの太股をなぞり、敏感な場所を探る。それに応えるようにキイチも同じラインを辿って、既にはっきりと固くなっているボブの逸物に触れた。
 途端に記憶があの時の快感を呼び起こす。
 どくっと高く鳴った心臓に、体温が一気に上昇する。
 もうそうなると我慢などきかなくて、キイチもボブも荒々しく互いを求め合った。
「あぁ……ボブっ……」
「キイっ……」
 ボブが二人のいきり立ったモノを一つに掴み、それにキイチの手も沿わせる。ボブの意図をすぐに気付いたキイチがボブの手ごと上下に扱いた。
「うっあ……っ」
 自分だけでする時より、はるかに激しく感じて、手の力が緩みそうになる。
 なのに、今度はボブがしっかりと掴んで、それは決して緩むことはなかった。そして二人分の先走りが手の動きを助け、さらなる快感をもたらす。
 ボブはともかく、キイチは人の部屋だと言うこともあって、自分ですることもなかったから、熱が限界になるのも早い。
「あっ……やっ……っ」
 快適な温度設定が保たれている部屋の中で、全身を汗まみれにした二人がベッドの上で身悶える。
 荒い息と、滑った音が響き、その感覚が短くなっていた。
「やだっ……もうっ!」
「俺もだっ」
 触れあっていると感覚までもが同じになるのか、二人が同時に限界に達した。
「んあっ!」
「っ!」
 手の中で震えるそれからいつまでも手が離せないで、二人はもう一方の手でお互いの体を抱きしめていた。
 荒い息が混じり、触れあうだけの口づけを交わす。
「キイ……」
「はい……」
 ボブからの呼びかけに、挿れられたとき以上の満足感を得たキイチが、瞳だけを動かす。
「無茶はするな」
 短い言葉と共に、ぎゅっと体を抱きしめられる。
 重くて、大きくて、そして熱い。
 昔も今も変わらないボブの匂いに包まれて、キイチは固く目を瞑った。
 この人を置いて、どこにも行きたくない。
 離れたくもない。
 『死が二人を分かつまで』
 結婚の際にそんな言葉を使う国もあると、不意にキイチはそんなことを思い出して、顔を顰めた。
 たとえ、死んでも別れたくない。
 ずっとずっとボブと共に過ごしたい。
 だから。
 ──だから、死にたくない……。
 そのためには。
「絶対に無茶はしません……」
 抱きしめる力に押し出されるように息を吐き出して、キイチはボブの胸の中で、こくりと大きく頷いた。
 ふわりと傍らに置いたはずのバックが浮き上がる。
 それを難なく捕らえて、キイチは慣れた手つきで背負った。
 この前と同じように連絡艇で格納庫に降り、艇から降りる前に手にしていた荷物を点検する。
 まだティシフォネは沈黙を保ったままだ。
 外に出で、作戦を開始してしまえば、こんなゆっくりとした時間は無くなる。そして、忘れ物をしたからといって戻ることもできない。
「行くよ、キイ」
 緊張のためか固い声音のダテに笑みで返して、キイチはちらりと後方を振り返った。
 チーム毎に降りるために、ボブはまだ中にいる。そんな彼に視線を送ると、ボブもキイチを見返していた。
 お互いに何も言わない。
 けれど、目が心情を伝えてくれる。
『気をつけろ』
 そう言われていると感じて、キイチは小さく笑った。
 それは、こっちの言葉だと。
 一緒にいられない不安は、ここにきた時点で不思議なほどに消えていた。それこそキイチ自身、呆気にとられるほどだ。
 それが何故かまでは判らなかった。
 だが、確かに彼が行く場所は危険度は低いし、そのための警備兵もいる。彼らだって優秀なのだ。
 何より、キイチの勘がボブは大丈夫だと言っていた。
 もう一度、ボブを見つめて、先に踵を返す。
 返される言葉がないのは知っているから、もう振り向くことなくタラップを軽く蹴る。浮いた体を巧みにバランスを取って前進させた。
「このまままっすぐ行くぞ」
「了解」
 目の前でリオがダテに話しかける。そのダテの後方に控えるのが、今回のメイン技術者であるベルだ。彼の持つプログラムの知識とダテの持つエネルギー伝導の知識が同時並行で使われる。
 だから、今のキイチが考えるべき事はパートナーであるダテを守ること。
 ダテが後方を振り返ることなく、足を進める。その後ろにキイチがいるのを当然のように感じているだろう。
 その背を見ながらキイチは思う。
 ダテを守ることが、すなわちボブを守ることになる。だから、全力を挙げて守るけれど……。
 昔と同じ思いは、だが、どこか昔と微妙に違う。
 前は、どんなことがあっても何をしてでも守ろう、と思っていたけれど、今は。
「ダテちゃん……」
「ん?」
「僕は死にたくなくなった……」
 こんな時に言う言葉ではなかったも知れない。
 その言葉が聞こえた他のメンバーまでいっせいに振り返ったのだ。けれど、自らの覚悟というものは、はっきりと伝えておかないといけないと思った。
 振り向いたダテがマジマジとキイチを見ていた。
 だが、すぐにその顔に微笑みが浮かんだ。
「当然だよ。誰だって、死にたくない。それがキイだからって例外じゃないよ」
「ただ、僕は警備兵で……」
「キイの命はキイの物。キイが危なくなったら、私たちの事は放っといていいよ。私たちはキイを犠牲にしてまで助かりたくないから」
 ダテの言葉はボブの言った言葉に似ていた。それに素直に頷いてしまう。
「自分の命は自分で守るさ。キイはそれを手助けしてくれるだけでいいんだ。何が何でも、なんておもわんでいいからな」
「ここで私が死んだとしても、それは決してキイのせいにはなりません。私の対応がマズかったということです。ただキイは他の誰よりも悪意やそういう気配に敏感です。それを私たちに知らせてくれるだけでいいのです。それがあなたにとって、全力で仲間を助けると言うことになると思いますよ」
 リオやベルまでもが、優しく諭す。
 ベルの手がキイの肩を抱えて、くすりと笑みを零した。
「それに、もしキイが死ぬようなことになったら、今度は私たちがボブに殺されてしまいます。そのためにもキイは無事生還しないとね」
「そ、そんなことっ」
 ベルにまで知られていると知って羞恥に頬を染めたキイを、今度はリオがこづく。
「まあ、このリオがついているんだ。大船に乗った気でいるんだな」
「……」
 途端に、その場にいた者が、皆いっせいに押し黙ってしまった。
 視線が自然にダテへと向けられる。
「あ、あの……」
 リオがいながら、二度も三度も危ない目に会っているダテも、その自覚があるせいでリオを庇うことはできない。
「お前ら?っ!」
「ちょ、ちょっと待ってっ」
 声が荒げたリオをダテが引き留める。
 相変わらずの雰囲気は、それでも皆の緊張を取り除くには十分だった。
 守りたい、守られたい。
 それが自然に思える。
 先頭をリオ。そしてベル。次にダテが続いてしんがりをキイチが。
 いつものように。
 ただ、そこにはボブがいないことだけが、いつもと違うことだった。
 結論から言えば、作戦は成功だった。
 ただ、一つだけトラブルはあった。
 ティシフォネの中枢は、ベルの手によって難なく浄化されてしまったのだ。
 ベルは普段執務室に待機することが多いせいか、その実力は噂でしか知らない者が多い。
 けれど。
 最初に彼が持ってきた端末を中枢に直接繋いで、動力を封じられて仮死状態と言えるそれを探った。
 その場でキイチもダテもいて。リオだけがベルのすることを気にもとめない。
 その繋いだ場所からあっという間にウィルスが侵入してくる。
 けれど、小さな警告音は絶えず鳴り響くのに、侵入してくるウィルスは全てあっという間に無効化していた。
 そうやって、端末と中枢のラインを確保する。
 後は、データの切り替えだった。
 緊急措置的に動力をカットしたせいで、中枢は仮死状態だ。けれど、端末からの命令が最優先であると知らしめるために、全動力を発動しなければならない。
 そのほんの僅かな時間、中枢を牛耳ったウィルスが、ティシフォネの攻撃力を使ったとしたら。
 それが一番の懸念事項であったけれど。
 キイは、初めてダテの得意分野であるそれの実力を見ることになった。
 ダテが持ち込んだのは自分で設定した端末一個。
 それをケーブルで繋ぐ。
 動力系統をコントロールするソフトだけが入っているそれは、ダテの10指が動き出した途端に、息を吹き返した。
 キイチの目の前で、艦内回路図が色鮮やかな光の筋を幾つも浮かび上げさせる。
 その一つ一つが、たった今解放されたエネルギーが伝達された場所で、それがどんどん末端まで広がる。
 その一つ一つをダテは完璧にコントロールして、危険な武器関係に到る回路は全て遮断していた。
 それは息をつくまもないほど、見事な操作で、動きに躊躇いがない。
「すご……」
 主わず呟いたキイチにリオが鼻で笑った。
「こいつは、機械そのものを見ただけで設計図のみならず全ての回路図までも目の前ですぐに展開できるんだそうだ。しかも何がどこにあるのか、までな。だから、制御も自分の手を動かす感覚で、頭の中に浮かんでくる。だから、こいつに任せときゃいいんだよ」
「へえ……」
 その間にもダテの手は動き続ける。
 それでも額に浮かぶ汗と、きつく引き締められた口許が、その大変さを物語っていた。
「抗っていますね」
 ぽつりとベルが言ったのは、それから10分ばかり経った時だった。
 それにダテが小さく頷く。
「何だ?」
「この第一主砲の辺りで、遮断されていた回路が開放されました。すぐに次を遮断しましたが、何者かが末端で操作していると思われます」
 ベルが自分の端末にダテと同じ制御回路図を映しだして、その部分を指さす。
「ここですね」
「……ボブっ!」
 すぐさまリオが無線でボブを呼び出した。
 その名に、キイチが跳ねるように顔を上げる。
「第一主砲の近くだ。5739付近、調べろ」
『了解』
 短い言葉に、ボブの元に行きたい衝動が一気に込み上げた。だが、その必要性がないことが、キイチ落ち着かせる。
 彼の場所は大丈夫。
 あの場所の危険は、かなり低い。
 そして、その程度の危険を回避できるだけの実力はボブにはある、と。
 

 ボブの声が消えて、部屋にはダテとベルが操作する端末の音だけが響く。
 珍しい、と思う。
 いつもなら、工具を操作して修理をして、と言った一連の操作をしていると煩いくらいに音が響く。けれど、今日はそんな小さな音だけだ。
 低く静かに響く音。
 それに耳を傾ける。
 淀みのないリズムはダテの動きを現している。けれど、ふとどこかずれた音が聞こえているのに気が付いた。
 時に低く、時に高く。そして長かったり弾けるようであったり。
 それはダテ達の動きとは全く異なる音で、キイチは不快にしかならない。
 しかも、ダテ達の動きが激しくなるにつれて、その音も激しくなった。
 キイチの背にイヤな冷や汗が流れる。
 身動きならないままに体が強張って、酷く緊張を強いられた。
 いつの間にか、音が耳について離れない。
 ダテとベルの手による静かな攻防戦はまだ続いていて、いつまで経っても終わりそうな気配がない。
 やることがないせいで音から逃れられないままに、捕らわれて、神経がぴりぴりとひきつれた。
 敵意は感じない。
 それはこの場の誰をも攻撃する意志はない。
 なのに、敏感になった神経を逆なでしていく。その音を聞きたくないと、耳を塞ごうとするのに、手が動かないことに気が付いた。
 手も足も……そして口も。
「……ダ……テちゃ……」
 どうにか動かしても、掠れた声が音にならない。呼びかけられたダテは画面を食い入るように見ていて、キイチの変調に気が付かなかった。
 だが、キイチと同じく暇していたリオが気が付いた。
「キイ?」
 口が動いているのに気が付いたけれど、ガラスがきしむような音に遮られて届かない。どこか、断末魔の悲鳴のような音が、脳に直接響いていた。
「おい、キイっ!」
 がくりと崩れたキイチに、リオが慌てて駆け寄る。
 ダテがちらりとそちらを窺ったけれど、すぐさま視線は画面に戻った。人を構っている余裕はないようだ。
「……お…と……」
 震える声。
 かろうじて出た言葉が表す意味がリオには伝わらない。
 それは、キイにだけ判る音の変化だった。
 聞こえていたのは、端末の操作音ではない。低く、高く、人の可聴領域でない音がキイを責め立てる。
 それは、ダテ達の攻防が激しくなるほど強くなっていった。
 だが。
 不意に音が消えた。
 それは。
「終了」
 ダテが呟いたのと同時。
 そして、その場にキイチが崩れたのもまた同じタイミングだった。
12
 鈍い痛みが頭の芯にある。
 もっと寝ていたい、とキイチはそれから逃れられる方法を探していた。体を動かし、楽な姿勢を取ろうとする。
 けれど。
 何かが右手を押さえていて、寝返りが打てない。
 呆けた思考は、とんとはっきりしなくて、キイチは苦しげに呻いた。
「キイ……」
 心配そうな声が耳に届く。
「ん……」
 呼びかけられたからの無意識の返事は、それでも頭を覚醒へと導いて、キイチはうっすらと目を開けた。
 どこかで見たような天井の模様が目に入る。
 それから。
「キイ……」
 安堵したように零れた微かな声には聞き覚えがあって、キイチは顔を動かした。途端に頭の芯に鈍い痛みが走って左手で頭頂部を押さえる。
「うう……ボブ?」
「ああ、痛いのか?」
 頭を押さえた手にボブの手が重なった。
「何で?」
 問いかけたのはボブが自分の傍にいる理由が判らないからだ。
「何でって……言われてもな」
「ここって……病室ですよね。僕たちはティシフォネにいたんじゃあ……」
 キイチは中枢で修理しているダテのパートナーとして派遣されていて、ボブは別の場所で作業していた。
 声だけは聞いたあの時。
「それは、他の連中も聞きたがっていたぞ。お前、いきなり真っ青になって倒れたんだ」
「あ……」
 言われて思い出す。
 あの時キイチを襲った音の攻撃。
「なんか……酷い音がして……。最初はじりじりと耳の奥から脳を冒してくるような、そんな弱いものだったんですけど、気にし出すとどんどん酷くなって……」
「音?そんなもん、誰も言っちゃいなかったが?」
 それに首を振る。
「聞こえない音です。たぶん……ティシフォネのウィルスに汚染された中枢が、最後の悪あがきをしたんだと思います。ダテちゃん達の攻撃が激しくなると、音も酷くなりましたから」
「……音、か……」
 一言呟いてボブが黙り込む。
 ボブはキイチの唯一の弱点を知っていた。可聴限界を超える音。特に高周波域側の音を敏感に察知してしまって、しかもそれが頭痛に似た苦痛を呼び起こすのだ。
「弱かったのだと思います。それにどちらかというと、低音側だったのに……。だけど、何故か酷く敏感に察してしまって……。対処できなくて……」
 言っているうちに情けなくなってきた。
 これでは警備兵としても失格のような気がする。
 実際に、高周波域側を利用した武器もあるのだから、そういう場にいるとキイチは手も足も出ないことになるからだ。
 それに気付いたのだろう、ボブがキイチの額にかかった前髪を梳き上げた。
「気にするな。病み上がりだということもあったんだと思う。休んでいたら良くなる」
「でも……」
 そんな言葉では込み上げた不安は消し去ることはできない。
 キイチは縋るようにボブを見上げていた。途端にごくりとボブが喉を鳴らす。
「そんな目で見るなよ」
 苦笑が落ちて、キイチは自分がボブを凝視していたことに気が付いた。
 慌てて逸らした視線が、見るともなく点滴パックに移動した。
「センセは、それが終わったら帰っていいって言ってる。他におかしなところはないらしいし。気分はどうだ?」
「まだちょっと頭痛がするようだけど……すぐに治ります」
「そうか……じゃ、鎮痛剤も貰っとくわ。ちょっと待ってろ」
 どこか落ち着きのないボブがさっさと病室を出て行く。それを見送って、キイチは小さくため息をついた。
「こんなことになるなんて……」
 最近、特に酷くなっているような気がする。
 ボブには言えなかったそれが重く心にのしかかる。
 過敏反応自体は、種類はいろいろあれど珍しいものではない。音というのは特殊だが、全くない訳ではなかった。だが。
 『時にこの過敏反応は、酷くなることがある』
 初めてこれを経験した時、医者に言われたことが重く心にのしかかる。
 慣れによって対抗する力ができて、いつかは症状が出なくなるか、和らいでしまうことが多いと言われているそれが、稀に逆に酷くなってしまうことがあるらしい。
 キイチは今まで何度か同じように音に苦しめられた。
 今回の件を除くと近くではダテとともにコンテナ内に閉じこめられた時だ。その手の工具で壁を切る間中苦しめられた。けれど、気を失うまでにはいかなかったのに。
 ぶるりと突然寒気に襲われ、キイチは両腕で体を抱きしめるようにした。
 治らなかったら──いや、酷くなったら、キイチはたぶん完全に後方任務に回されるだろう。
 気絶するまでになっているのなら、それは他人に誤魔化せるものではない。
 武器を手にとって前線で戦うのではなく、地上で他の物を手にとって働くことになる。
 だが、それはキイチのしたいことではなかった。
 イヤだと心が叫ぶ。
 死ぬのはイヤだと思ったけれど、それもボブが傍にいてこそだ。
 最悪艦隊勤務と地上勤務に別れてしまったら、もうボブと共にいることできない。一年中宇宙にいるパラス・アテナに派遣されいるカベイロスは、年に一回ほどしかオリンポスには戻らないのだから。

 
「キイチ……泣いているのか?」
 突っ伏して肩を震わせているところに声をかけられて、キイチはゆるりと顔を起こした。上げる前に袖で涙は拭ったけれど、赤く腫らした目ではバレバレだ。
 目に入るのは、淡い赤系統の色。
 その優しい色合いに縋るようにキイチは俯いて呟いていた。
「僕……どうなるんだろう」
「キイチ……?」
「だんだん酷くなる。みんなには聞こえない音が、僕を苦しめて……。とうとう気を失うまでになって……。こんなんじゃ、みんなの足手まといだ……。どうしよう……、僕……どうすれば……」
 震える肩に重さが加わって、手を置かれたことを知るけれど、顔を上げることはできない。
 アリンは何も知らないのに。
 そう思うのに、言葉が止まらない。
「今日はまだ疲れているんだよ。復帰直後だったから、キイチの神経が過敏になっているんだ。だから些細なことにも反応してしまう」
「でもさ……」
「僕たちが出会った時も、キイチはひどく反応していたじゃないか?あれで、凄く神経質なんだなって思ったけれど、しばらくしたら落ち着いて──キイチは聡いからすぐに今の状態に慣れる。そうなれば、また大丈夫になるよ」
 同室になったばかりの時の事を言われ、キイチはようやく顔を上げた。
 あの時、アリンはキイチのことなど特に気に掛けるまでもなくごく普通に生活していた。それなのに、キイチの反応に気付いていたというのだろうか?
「どうして?って顔をしているね」
 くすりと笑ってバラ色の瞳が細められた。
「同室だから、見ていないようでも見えてしまうものだよ。それでなくてもキイチは、自室ではもっと無邪気で考えでいることが顔に出やすいし──判りやすいよ」
「そ、そう?」
 さすがに言われた途端に、顔が熱くなった。
「ほらっ」
 アリンが笑う。それにつられるようにキイチも口許に笑みを浮かべた。
「ほら、しばらく部屋にもどっていなかったし。いろいろあって疲れたんだよ。だから帰ろう?もう帰っていいんだろ?」
 それに頷いて。
 けれどはっと気が付いてドアの方に視線を向ける。
「ボブが──グレイル少尉が薬を取りにいってて……」
「そうなんだ?」
 アリンもドアの方へと向いた時、そのドアが開いた。
「見舞い──じゃないな?」
 ひくりとその頬がひきつったボブに、アリンは先ほどまでの笑みを消して無表情のままに頷いていた。
「迎えに来るように頼まれましたので」
 誰からとは言わなかったけれど、ボブはそれが誰かは判ったのだろう。
 悔しそうに顔を歪める。
 彼は逆らえない。
 彼にとってリオは、他の有象無象の連中とは別格の扱いなのだ。
 そのままふいっと視線を逸らして。
「判った、これが薬だ。痛むようなら飲ませてやってくれ。センセは点滴が終わってんなら帰っていいって」
 アリンの手に薬を渡したボブの手が、手際よくキイチから点滴のラインを取り除く。
 それをキイチはじっと見つめていたというのに、その間、ボブはキイチと視線を合わせようとしなかった。
 ここで、ボブと行きたい、と言えば良いのだろうか?
 そんな事が頭の中を占めていく。
 できれば、ボブの元に行きたい。それは間違いないけれど。
 こんな状態でボブのところに行って弱みをみせてしまうと、また後方勤務の話が出てきそうだった。
 それだけは避けたくて。
「じゃあな、ゆっくりと休めよ」
 結局決心がつかぬままに、キイチはアリンに引っ張られるように病室から出て行っていた。
「あ、あの……」
 振り返った先で、ボブはもう居住区とは反対側の執務室の方に足を進めていて、キイチの呼びかけは宙に消えていく。
「キイチ?」
 アリンの呼びかけに前に向き直った。
「いいんだ」
 呟いて、足を進める。
 こんなんだったら、前の方が良かった。
 引き裂かれるような胸の痛みに、キイチは唇をきつく噛みしめて堪えていた。
 部屋に戻って、鈍い頭の痛みに鬱陶しくて薬を飲んだ。
 だが、それよりも胸の痛みの方が苦しくてキイチを責め苛む。それから逃れるようにベッドに寝っ転がって、じっと天井を睨んでいた。
 その横にアリンが立ってキイチを見下ろしている。
 けれど、どうでも良かった。
 ボブと離れることは、どうしようもないことだと思ったからここに戻ってきたのに。
 キイチの口許から微かな吐息の音がした。
 先ほどボブと別れたことをすでに酷く悔いていて、あの時に戻りたいとすら思う。
 と、長い吐息の音が途切れる頃、それと同じくして、キイチのベッドが片側に沈んだ。
 そちらに視線をやれば、アリンがキイチのベッドに腰をかけていた。体を半ばひねるようにして、キイチの髪に手を触れてくる。
 穏やかな瞳。だが、彼の感情はいつも窺えない。
 淡々とその日を過ごして、仕事をこなしていく。
 今も、キイチは彼が何を見て、何を考えているのかが判らなかった。
 何より、こんなふうにアリンがキイチに構うことなど今までなかったのだから。
「苦しいか?」
 穏やかな声に、口の端を上げて応えた。
 肯定でも否定でもなく、ただ応えただけ。
 だが、なぜだろう?とも、考えていた。
 アリンといると心地よい。
 悔いて嘆いていた心が、先ほどより落ち着いてくる。心が和らげば、頭の痛みよりも苦しい胸の痛みが和らいできた。
「キイチは……どうしたい?」
「どうしたいって?」
 視線を動かせば、瞳に捕らえられる。
 吸い込まれそうな瞳だと思う。
「キイチは流されやすいから、悩むんだね。だからこんなにも不安定になって、こんな状態になってしまう。だったら、悩む原因を絶たないとね」
 髪を梳く手は止まることなく、アリンが微かに笑んだ。
「流されているから……悩む?」
「そう。グレイル少尉にもカケイ大佐にも……。そしてコウライド少佐に……それに自分の頑なな心にも……。それら全て」
「え?」
 驚いて見返せば、ふっとアリンが視線を逸らした。
 その先にあるのは壁だというのに、彼は確かに何かを見ているようだった。
「だけどね、流されることは難しい事なんだよ。何があっても無視できるくらいに──それだけ心が強くないと堪えられなくなって壊れていく。今のキイチのように」
 そんなつもりは無くて、首を横に振る。
 けれど、アリンも小さく首を振っていた。
「キイチ……。君が同室でいる限り、僕は楽だから。だから、君が壊れる前に忠告する気になった。だから聞いてくれ」
 どうでもいいんだと、なんでもないことのように言っているのに、だけどそう思えないのは何故だろう?
 淡々とした口調で言葉を継ぐアリンに、不快なところは一つも感じなくて、キイチも口を挟まなかった。
「したいことをしなよ。いつもそうしろっては言わない。だけどね、時には思うがままに生きないと、苦しくてどうしようもなくなる。人生でね、たった一つだけでもやりたいように過ごす物があるだけで、心はずっと軽くなるから」
「たった一つ……?」
 人生の中でたった一つ……。
 アリンの言葉が心を波立たせる。
 確かに昔は、自分は生きたいように生きてきたと思っていた。
 親たちの反対を押し切って先の学校に進むことも止めて。
 でも、今は……。
 何か、しているだろうか?
「キイチは何がしたい?」
 問われて、キイチは視線を宙に泳がせた。
 したいこと……。
 一生懸命考えようとするけれど、どことなく頭の芯に真綿でも詰まっているように考えがまとまらない。
 重い頭に手を当てて、数度叩いてみるけれどそれは回復しなかった。
「キイチ……辛いのか?」
「いや……痛みはなくなったけれど……なんかさ、集中できない……」
 その言葉にアリンが手を伸ばす。
「薬が効いてきたのか……。それに少し熱があるようだから──眠ればいいよ。まだ時間はあるんだから」
「うん……」
 手のひらで目を塞がれて、それに誘われるようにまぶたを閉じる。
「眠って起きて──すっきりした頭で考えるといいよ。きっといい考えが思い浮かぶ。キイチなら、ね」
 アリンの声が遠くに聞こえて。
 頷こうとしたけれど、その記憶がないままにキイチの意識は途絶えていた。
 眠っていたのだと思う。
 だが酷く怠い体が鬱陶しくて、キイチは現と夢の狭間を何度も往復した。
 そのせいで、なかなか頭がすっきりしない。
 呼吸をするたびに喉が焼けつくように熱い。それでも喘いで、新鮮な空気を欲した。
 そのたびに呻くような声が出て、そのたびにアリンが宥めるように背をさすってくれたのも微かに記憶がある。
 それに安心して、苦しさから抜け出せたことも覚えている。
 そして、何度目かに夢の世界へと意識が流された時。

 ……ですっ……キイ……は……。
 
 音の無かった世界にいきなり声が入ってきて、キイチはうっすらと目を開けた。
 照明を落としているのか暗い部屋に、外の灯りが眩しいほどに入ってくる。
「お帰り下さい」
 強い口調に視線を巡らせば、光が入ってくるのをを遮るように、ドアの所に人が立っていた。
 それがアリンだとはすぐに判ったけれど、彼がそんなふうに声を荒げることなど滅多にないことで、キイチは訝しげに目を細めた。
 と。
「……から……」
 別の声が耳に入ってきた。
 誰かと相対しているのだとは、その声が教えてくれる。けれど、その声は低くて聞き取りにくい。
「……見舞いだ……」
 だが、かろうじて聞き取れた単語に、キイチは怠い体を無理に動かして半身を起こした。
「アリン……?」
 問いかけたのは、来てくれた人に会おうとしたからで。
「キイチ、寝てないとっ」
 だが跳ねるように振り返ったアリンの照らされた横顔が、明らかに顰められていた。
 しまった──と、その表情がはっきりと言っている。
「あ……」
「目覚めたのなら、会ってもいいだろう?」
 なぜ、と問いかけようとしたキイチの声と、相手の声が被さった。
 途端に、びくりと体が震える。
 立ちふさがっていたアリンを難なく押し退けた大きな体が、キイチの方に迫ってくる。
「コウライド少佐……」
 震える唇が、無意識のうちにその人の名を紡ぎ出していた。
 コウライドの手が動いて灯りを点ける。
 咄嗟に俯いたのは、眩しさに目がくらんだのだとも言える。けれど、本当のところは灯りが点いた瞬間に目に入ったコウライドの、常にないほどの厳しい表情のせいだった。
 怒っているのだと、彼を関わったものなら誰でも知っているその表情。
「倒れたと聞いてね。あれだけ元気そうだった君が?と思ったんだよ」
 ベッドの傍らにまできたコウライドは、きつい視線で嬲るようにキイチの起こした半身を上から下まで見て取った。
「だが、確かに顔色は悪そうだな」
 じっと俯いているキイチにコウライドの手が伸びる。
「っ!」
 いきなり顎を掴まれて、無理矢理に顔を上げさせられた。それでも目線が合わせられない。
 掴まれた場所に指が食い込んで、酷く痛む。けれど、それに顔が歪んでいるのに気付いているであろうコウライドは、その指にさらに力を込めてきた。
「てっきりカケイ大佐辺りが嘘八百並べ立てたのかと思ったのだが……どうやらそうではないらしいが……。だが、一体どういうことだ?何か企んだのか?なぜ、私の申請が却下されなければならんっ」
「……却下?」
 その願ってもない言葉に、キイチの目が大きく見開かれる。
 だが、今の状況ではそれを素直に喜べない。
 コウライドの怒りはかなり激しく──しかも、その対象はキイチなのだ。
 この状況は、戦闘中に至近距離で敵と対峙した時よりも恐かった。
 何せ、キイチの手には武器になる物も何もない。その上、頼みの綱の自分自身は、未だ回復はしていなくて、力が入らない。
 顎を掴んでいる腕すら外すことができないのだ。
「まだ知らないのか?君の異動が却下された。理由は、作戦中の昏倒の発生。先だってのケガによる精神的不安定さによるもので、回復するまで現状維持が望ましい……」
 忌々しげに言われた言葉にキイチが目を見開いた。
「何で……誰が?」
「カケイ大佐があることないこと連ねた報告書を提出していた。だが、そんなものはどうとでもなる。君の実力は警備班にいてこそふさわしい。そんなことは予測できたことで、どうとでもなるはずだったのに。だが、パラス・アテナの医療指揮官が作った正式な診断書など、どうやって手に入れたというんだっ!」
「えっ……?」
「医師がダメだと言えば、確かに無理はできない。だが、それがカベイロスの医師のものだったら、さらに上の医師に見せて覆すことだってできる。だがっ!!」
 ぎりっと音がしそうな程に、コウライドの口元が歪む。
「どうやって、そんな物を手に入れたっ!!そんなにも私の元に来るのが嫌なのかっ!」
 狭い部屋の中、コウライドの罵声が耳が痛くなるほど響き渡った。
 

「やめてくださいっ。キイチはまだ休んでいないとっ!それに、キイチはずっと休んでいたんです。診断書など、彼自身にはどうこうしようもないんですっ」
 アリンが背後から腕を掴もうとしたけれど。
「うるさいっ!」
 一喝されて、その動きが止まる。しかも怯んだ瞬間に、コウライドの手が動いた。
「うわっ!」
 壁に重い物がぶつかるような音がして、視線を動かした先でアリンが床に蹲っていた。
「ア…リン……」
「う……」
 微かな呻き声と身動ぐ体に、大丈夫なのだとほっと安心する。
 と、同時に腹の底から込み上げてくるのは怒りだ。
 ここのところアリンには世話になりっぱなしで、まだ礼も言っていない。そのアリンを目の前でこんな目に合わせられて、キイチの怒りに火がついた。
 ──守りたい。
 その思いはいつだって変わらない。
 キイチの顎を掴んでいる手を両手で掴み、渾身の力を込める。
 それをやらせないとばかりに、コウライドの手にも力が込められ、互いがきつく睨み合う。
 互いの力が拮抗して、ぴたりと動きが制止した。
 未だ完全でない体は、息を吐くだけで力が抜けそうで、気が抜けない。対して、コウライドはその口許に笑みを浮かべ、余裕綽々だ。
「無様だな。あんな変人共のいるところにいるから、体が鈍って、この程度の事が避けられない」
 あろうことか、リオ・チームを侮辱する。
「う……るさ…」
 骨がきしみそうな程に掴まれて、口が開かない。
 激しい痛みが顎の骨を襲う。それでもキイチは睨む瞳を外すことはなかった。
 前は怖い存在だった。
 強い人だった。そして尊敬すべき上官だった。
 だが。
「ゆる……さ……」
 こんな理不尽な行為は、たとえ上官であっても許されない。
 リオもボブも──こんなことはしない。
「減らず口は、カケイ大佐の教育の賜か?まあいい、教育し直せばいいんだからな」
 くくっと喉を鳴らしたコウライドが、次の瞬間右手を後方へ引いた。
 先が読めた行動に、咄嗟に体をひねって避けようとしたけれど。
「ぐふっ!」
 息が詰まるような衝撃が腹から全身に走り、そのまま意識までもが闇に吸い込まれる。
 その意識に、柔らかなベッドの感触はない。
「どうした?この程度の攻撃も避けられないのか?」
 嘲るように嗤うコウライドが、動けないキイチを冷たく見下ろした。
「キイ……チ」
 アリンが必死で立ちあがろうとするけれど、アリンとて気絶しなかったのが不思議なほどの一撃を受けている。体が思うように動かないようで、何度も咳き込んで結局蹲ってしまった。
 その目の前で、コウライドは意識のないキイチの体を軽々と抱き上げた。
「別にここで回復を待つ必要もないだろう?私のところにいれば、彼はもっと成長するさ。あんな奴らに渡すなどというもったいないことをしなくてもな」
 冷たい笑みが、その口許に浮かんでいた。
13
 鈍い痛みが腹から伝わっていて、その不快さにキイチは身を捩った。
 その途端、カチャカチャと何か硬質な音が響く。
 それも耳障りだと顔を顰めて──その所作のせいでキイチははっと目を開けた。
 現実の自分に起こった出来事を思い出してしまったからだ。
 薄暗い部屋は最低レベルまで落とされた明かりのせいだとは判った。けれど、今いる場所が判らない。
 ぐるりと動かした視線の先には誰もいなくて、キイチは自分が一人だけだということにまずはほっとする。だが、それも知らない場所だという不安にすぐにとって変わった。
 もっともカベイロスという工作艦の中にいたのだから、他のどこに連れ出せるものでもない。
 見渡した感じは、居住区の部屋でキイチ自身もマットレスだけのベッドに寝かされている。だが、他には何もない。
 人が住んでいれば必ずあるはずの身の回りの物は何もなく、ここは使われていない部屋だとキイチに教えた。
 けれど。
 今カベイロスの乗員は、定員に近い。
 こんなふうに開いている部屋は、キイチが覚えている限りでは数個しかなかった。
 ならばその中のどれかだろうか?
 キイチはもっと調べようと体を起こそうとして、またあの目覚める原因となった硬質の音に気がついた。それはキイチの腕と足の辺りからしていて。
「っ!」
 目がそれを捕らえた途端、鋭く息を飲む。
 そこには、拘束具であるリングがはめられていて、それから樹脂製の太い鎖がベッドの下に向かって伸びていてた。
 ぞくりと背筋に悪寒が走って、キイチは両手で包むように身を抱く。
 こんなことをする人間に心当たりは一人しかいない。
 だが、さすがにそんなことまではしないと、と思いたい心もある。けれど、今までの経緯からして、キイチをこんなところに監禁しようなどとするのは、コウライドしか──いない筈で。
 だが、不安に襲われていた筈のキイチが、不意に苦笑を浮かべた。
 コウライドの姿を思い描いた途端、その傍らに同類のようにボブの姿がちらりと浮かんでしまったのだ。
 確かに彼もキイチを監禁しそうな気はする。
 そう思う自分が可笑しくて、そのせいか悪寒を感じたほどの不安が消え去ってしまったほどだ。
 だが、今回に限れば、キイチを監禁したのはコウライドだ。
 そんなにも彼はキイチ自身を欲していたというのだろうか?
 こんなふうに拘束して、監禁して。
 だが、動くたびに聞こえる音に、キイチの怒りは徐々に増幅されていった。
 このあまりに理不尽な行為に、キイチはきつく唇を噛みしめる。
 その動きに、鎖がまた音を立てる。
 それをキイチは目で追った。
 その動きを見ている限りでは鎖は長い。少なくとも部屋の中を自由に動くことはできるだろう。
 ただ、見上げた先にあるドアには、きっと鍵がかかっている。
 それが今の状態で開くとはとても思えない。
 そして、こんな場所にキイチを連れてきたコウライドが、それを許すはずもないだろう。
 キイチは悔しそうに喉を鳴らしていた。
 いろんなことが起きて、悩んで。確かに今は普通じゃないという自覚はある。
 だが、こんなふうに簡単に拉致されてしまったことに、キイチ自身のプライドは酷く傷つけられた。
 これでは、警備兵として失格だ、と、悔しさで噛みしめた奥歯が嫌な音を立てる。それは、作戦中に音に負けて、気絶してしまった時とは別格の悔しさだ。
 あの時は、目に見えないものが相手で、しかもこれからどうなるのか判らないという不安ばかりが先にたっていた。だが、今回のこれは、明らかに相手が判って、しかも相手の方が悪い。キイチ側に何の落ち度があるというのか?
 しかも、そんな理不尽な行為にキイチは負けてしまったのだ。
 確かに相手は強かったし、こっちの体調は最悪だった。それは今でも体の怠さとして引きずっている。
 だが、こんなところにこんなふうに閉じこめられて監禁されるいわれはどこにも──ない。
 そう思い始めると、ふつふつと怒りがキイチを支配して、手が知らずにきつく握りしめられた。
 あの時、コウライドは何を言った?
 ぼんやりとした頭ではあったけれど、その時のことはすぐに思い出せる。
 キイチの異動は却下された、とあの時、コウライドは確かにそう言った。
 診断書がどうのこうのと言っていたけれど、その内容からして、ボブか──いや、リオが何とかしたのだろう。
 パラスアテナの司令部の象徴付きで申請して、却下されたのだ。
 そうなれば、もうその申請は何度されても通るものではない。だからキイチの異動は回避された訳で。
 だから、コウライドにキイチを連れ去る権利はない。しかも、自らの思うがままにならなかったとはいえ、あんなことで激怒していたコウライドは、もうその時点でキイチは軽蔑した。
 階級は確かに上であろう。実力も確かに凄い。
 けれど、人間として尊敬できない相手に、いくら生真面目だと言われるキイチでも、理不尽なことに従う意志はなかった。
 それに、怒りが意識をはっきりとさせ、結論づける事ができなかったアリンの問いかけが今更ながらに浮かんできた。
 ──寝て覚めたら、判るよ。
 確かに。
 キイチが小さく笑う。
 今のキイチは自分がしたいことを、はっきりと自覚していた。いや、元からそれしかないほどに、考える必要もないことだった。
 キイチにとってボブが全てなのだ。
 ボブがいるから、ここに来た。それが、キイチのしたいこと。
 だからそんなボブが求めてくれるのなら、それに悩むことなく応えれば良かったのだ。そうすれば、あんなふうにこじれる事はなかった。
 動けなくなってボブを守れないのは嫌だけど、だったら、ボブも動けなくすればいい。いつまでもボブといたくて、そのためにもボブを閉じこめたいのは自分の方もなのだから。そんなにも好きな相手が欲してくれるのに、何故拒絶するような事をしたのだろう?
 あの時から、キイチの心は不安ばかりが先に立って、できることもできなくなってきていた。
 それに。
 音がキイチを責め苛むのであれば、それを克服する術だってあるはずだ。
 キイチが今いるのはヘーパイトスであって、宇宙屈指の技術者集団なのだ。その中でもTOPレベルにいるリオ・チームにいるというのに。
 彼らなら、キイチを助けてくれるだろう。
 人は、守って守られて、生きていくのだから。 それに気付いて。
 気付いてしまえば、キイチの心は一気に冷静さを取り戻した。
 だからいくらでもいろんな方法を考えつく。
 たとえばボブを閉じこめる方法。
 動けなくする方法。
 確かに彼は上官でもあって、本来なら手をあげることも叶わない相手。だが。
 それ以前に恋人であるのだ。
 そしてそのいろんな手段を行使できるくらいの力を警備兵であるキイチは、いろいろと持っていた。
 キイチはボブより強い。
 それさえ忘れていなければ、なんとでもなるはずだった。
 もっとも、キイチの思いはボブも理解してくれたようだから、そんな手段は使わなくても良いだろうけど。
 そう思った途端、キイチは声に出して笑ってしまった。
 それだけで、心が軽くなって、今の状況がどうとでもなるんだと思わせてくれる。
 暗い思考は、実際問題無限ループに陥りやすい。つい先だってまでのキイチがその状態だった。
 だが今は。
 コウライドに対する怒りが、キイチの無限ループを裁ち切ってくれた。
 その事だけは感謝する。
 だけどそれだけだ。
 鎖を両手に持って左右に力強く引っ張る。
 ピシッと鋭い音がして、鎖がぴんと伸びた。それは手で切れるような強さではない。
 つい、先ほどまで、キイチの手には何もなかった。しかも、怠い体と働かない思考がキイチの戦闘力を奪っていた。
 だが、今は違う。
 怠い体は前と変わりはないし、コウライドの強さが半端でないことは過去対戦したことで知っている。けれど、今手の中には鎖がある。何もない訳ではない。
 何より、どうしてもボブの元に帰りたい。
 ただ大人しく流されるだけではダメなのだ。
 この手でしたいことだけでも掴みたいから。
 
 バカだな。
 ふと、思う。
 こんなふうに隔離されて、ようやくいろんなことに気付くなんて自分のバカさ加減に呆れてしまう。
 だが非常事態に陥った時のこの緊張感が、何もかもを冷静に考えさせる。
 あの時だってそうだ。
 作戦中、ボブの声が聞こえた時、確かにその場に自分がいないと言うことに不安はあった。だが、あの場所がそんなに危険ではないと言うこともきちんと判断できていた。
 だから、あの場から動く事はなかったのだ。
 今もそうだ。
 あの時よりはるかに多くの時間はあったから、余計にいろんな事を冷静に判断して。
 

 何がしたい?
 問われれば、今はいつでも答えられる。
 もう間違えることはない。
 遠慮することもない。
 キイチがボブとともにあるためには、キイチが強くないとダメなのだということに気がついたから。
 それは、全てにおいてだということも。
 視線の先でドアが開いていく。
 それをキイチは、じっと見つめていた。
 
 開いたドアはすぐさまに閉じられた。
 外の方が明るいせいか、影になった人物が誰かなど、キイチは見えなくても知っていた。
「おや、もう目が覚めたか?」
 余裕の笑みを浮かべて、コウライドが近づいてくる。
「熱は下がっていたが、体の具合はどうだ?できればすぐにでも再教育といきたいところだが?」
 白々しい、とキイチは気付かないように舌打ちをする。
 一体何の教育をしようというのか?
 こんなところに閉じこめて、こんなふうに拘束して。
 この男が何をしようとしているか皆目検討がつかなかったけれど、それでもキイチは怒りを露わにして、手を掲げ目の前に鎖を垂らした。
「どうやってです?」
 低い怒りを含んだ声音に、コウライドも鼻白んだように歩みを止めた。だが、すぐにその笑みは元に戻る。
「どうやら元気になったようだな。それは結構」
 キイチの問いかけなど無視するように彼の手が肩にかかった。それにぞくりと悪寒が走る。
 触れられたくもない相手というのは、そうそういない。
 けれど、今がその時だった。
 コウライドに触れられるのが嫌で堪らない。だからと言って、素直に負けを認めるわけにはいかない。
「何を?」
 もう決して視線は逸らさない。
 彼には負けるわけにはいかないのだから。
 本能がたとえ恐怖していても、それを表に出すわけにはいかなかった。
「筋肉を見せて貰おうか?少なくとも、あの時は回復していたはずだったが?」
「嫌です」
 間髪入れずに答えたキイチに、コウライドの表情に怒りが露わになる。深くなった眉間のシワがひくりと動いていた。
「おやおや、あんな素直で良い子だった君が、そんなふうに私に口をきくとはね。これは少し躾も必要か?」
「結構っ!」
 軽蔑しきってしまった相手には、触れられるだけで総毛立つ。
 意志とは関係なく粟立つ肌に、キイチは唇を噛みしめて堪えた。
 けれど、それに気付いているだろうコウライドの手は止まらない。先ほどより大胆になった手は、緩く着ていた上着の中に差し込まれた。
「やめろっ!」
 咄嗟に払おうとしたが、鎖を掴まれて引き留められる。
 明らかに瞳に宿っている欲望が、キイチに嫌悪感ばかりを呼び起こさせた。その瞳にコウライドがキイチに固執する理由をかいま見たような気がして、だからこそ余計に拒否反応が起こる。
 だから。
「ぐわっ」
 勝手に手が動いていた。
 動けるようにだろう。少し長い鎖を両の手で握り引っ張る。
 その途中、輪になった鎖の中にコウライドの首があった。
 ──手の中にある全てが武器になる。
 それをコウライドは部下に、そしてキイチのような訓練生に教え続けてきた。それはその身に染みついていて、そのチャンスを逃すキイチではない。
「僕を解放しろっ!リングのコントローラーはどこだっ!」
 ボブのもとに帰るために、自由になる。
 そのための手段を選んでいる暇はない。鎖は、キイチを拘束したが、その余裕のある長さがコウライドを捕らえる武器になると、キイチは即座に判断していた。
 だが。
「あま…い……」
 掠れた声が耳に届く。
 びくりと本能が体を動かそうとした。
「くっ」
 コウライドの意図にキイチが気付いたのと、体か回転したのとが同時だった。
 ベッドにしたたかに後頭部を打ち、グワンと脳が揺れる。目の前がぶれて、体の動きが止まった。その瞬間を逃さないとばかりに、コウライドの体重の乗った肘がキイチの腹に沈んだ。
「ふぐうっ」
 咄嗟に腹筋に力を入れたけれど、息が止まるほどの衝撃は鎖を握る手の力を弱めた。その隙をコウライドが逃さない。鎖がすぐさま音を立てて、キイチの顔の横に落ちてくる。
「私を誰だと思っている?……だがまあ、その隙を見逃さないところは合格点だな」
 腹の上にまたがってキイチを押さえつけたコウライドは、赤くなった喉をさすりながら苦笑していた。
「うう……」
「ふむ……。だが、さすがに何度もこんなことをしていては、私の身も無事ではすまないな。どうしようもない。しようがないな」
 言葉と共にコウライドの手がポケットを探り、ややあって取り出されたその手の中にあったのは、チューブや包装された錠剤。それとリングのコントローラーだ。
 それを見た途端、キイチの顔から音を立てて血の気が失せた。
 それを楽しそうに見やったコウライドが、コントローラーを操作する。
 と。
 呆気なく両手首が引き寄せられて、拘束された。こうなると目の前でひっつけられた両手首を、キイチは呆然と見つめるしかなかった。
 そのリングは拘束具と言うだけあって、普通の人間ではどうしようもない。これを素手で壊すことができる人間がいるらしいという噂は聞いたことがあるが、それでも眉唾物だとキイチは思っていた。それほどにその拘束具は効果が高い。
 それにしても、どうしようというのか?
 キイチの瞳が怯むように揺らいだのをコウライドが見逃さなかったのだろう。
「怖いか?」
 と問う。
「誰がっ!」
 悔しくて睨み付けるけれど、今の状況では相手を悦ばせるだけだと気がつく。だけど、どうしようもない。
「君がもう少し素直になるようにしようか?」
 視線の先で小さな音がして、錠剤の包装が解かれていた。
「何を……?」
「これは君が素直になる薬だよ。さあ、飲みなさい」
 そう言われて飲めるはずもなく、キイチはぎゅっと口を噤んだ。
 だが、それもコウライドの思惑の範囲内のことだったのだろう。ただ嗤って、そしてキイチの喉に手をかけた。
「ぐっ……」
 完全に締められて、呼吸も血流も止まる。
 すぐに激しい息苦しさと、酸欠になった脳が悲鳴をあげ始めた。
「うっ……あっ……」
 口が酸素を求めて無意識のうちに開く。すかさず、その奥にコウライドの指が侵入した。最奥にまで入れられた錠剤に、嘔吐感が押し寄せる。けれど、締められた喉に咳をすることも叶わなかった。
「飲みなさい」
 冷たい命令と共に、空いた手がキイチの下顎を上へと押さえつけ、口を閉じさせる。
 すぐさま喉から手を離し、そのままベットサイドまで降りたコウライドは、口を閉じさせたままのせいで苦しげに呻くキイチを、面白そうに見下ろした。
 ものの一分も絶たないうちに、その手も離れる。
 途端に、キイチが咳き込み始めた。
「んがっ…っ…あはっ……」
 その視線から逃れることなど考える暇もなく、キイチは何度も咳き込んで喘ぐように呼吸をした。その間にいつの間にか、錠剤は嚥下されていたけれど、それに気付く余裕はなかった。
「んっくっ!」
 酸素を求めて胸と腹の筋肉がなんども痙攣する。気管がこれでもかと開いて、喉の奥も開いて。
 錠剤が気管に入らなかったのは奇跡に近かった。
 のたうつように体を捩るキイチの両手の鎖を、コウライドは彼が抗う間もなく、ベッドの足にくくりつけた。動ける長さはもうない。
 しかも、足の鎖までもが短く調整される。しかも足は幅方向のそれぞれの足に括り付けられたものだから、しっかりと開かされた状態だ。
「や……め……っげほっ……」
 コウライドの飲ませた薬の効果が判らなくて、彼が何をしようとしているのかも判らなくて、キイチは苦痛に潤んだ瞳で彼を見つめる。
 武器であった鎖は、やはりキイチを拘束するものでしかなく、思うように動けない事への焦りは、冷静な思考力を奪う。
「怖いかい?怖いという思いは必要ではあるが、同時にもっとも不必要なものでもある。何しろ、怖いと思うだけで動きが鈍るからな。さて……」
 ベッドの縁に腰掛けてコウライドはほくそ笑んだ。
「10分ほどで効いてくるよ。君はどんなふうに素直に反応してくれるか?」
 ぞくり、とキイチの全身が悪寒に打ち震えた。
14
 意識が朦朧とする。
 時折目眩すらして、キイチは縋るように手首から伸びた鎖を掴んだ。
 効き始めた薬は、あっという間にキイチの意識を白濁化させ、正常な思考を奪っていった。
 今、どんな状態なのか。
 どこにいるのか。
 そして何をしていたのか。
 それら全てが曖昧で、何も把握できない。
 ただ、今だけが現実としてキイチを支配する。
「辛いかい?」
「は……い……」
 コウライドが何かを言うと、それを言葉として理解する前に、キイチは返事をしていた。
 しばらくして、『辛いか』と聞かれたことに気がつくが、今更どうしようもない。しかも言葉にされると余計に辛くなっていたのは事実だった。
 なんでこんなに辛いのだろう?
 喘ぐように浅い呼吸を繰り返し、熱くて怠い体をベッドに擦りつけるように身を捩る。
「助けて欲しいか?」
「たす……けて……?」
 オウム返しに言葉を紡いで──だが、そう言われると、本当にそうして欲しいと思う。
 だから、言葉を繰り返す。
「助けて……」
「言葉遣いがなっていないね。私は誰だい?」
 僅かに厳しさが増した声音に、キイチは慌てて言い直した。
「すみま……せん……。コウライド少佐……」
「そうだ。私は君の上官だ。だから、それ相応の対応は必要だ。違うかね?」
「いえ……。申し……訳…ありま……ん」
 そう言っている間も熱くなった体が、助けを求める。
 息苦しくて、もっと楽になりたいと願う。
「すみま…ん……助…て……さい……」
 ちらりと今の状況を作ったのも彼だと思い出しはするのだけれど、それも渦を巻く思考の中にあっという間に飲み込まれる。
 怠くて、焦れったくて──そして、今のこんな状況が怖い。
 動けない。
 思うようにみれない。聞けない。しゃべれない。
 ただ、肌に触れる衣服や空気の流ればかりがキイチを責め苛む。
「いいだろう。どうして欲しい」
「熱くて……服を……緩めて貰い………」
「わかった。脱がせればいいんだな」
 その声が嗤っているのに、キイチには天の助けの声のように聞こえた。
 しっとりと汗が全身に浮かんだキイチから、コウライドの手によって衣服が剥ぎ取られていく。
 ひんやりとした空気が直に肌に触れて、それが気持ちいい。
「汗が酷いな。これで涼しくなっただろう」
「はい……」
 はふっと小さく息を吐いて、キイチは欲するがままに身を動かした。それがコウライドの手を助け、キイチの肌をさらに露わにする。
 あっという間にキイチの体はあますことなくコウライドの目に晒された。
「ふむ……筋肉の付きは申し分ないな。余分な脂肪もない……」
 手が敏感になった肌を辿る。
 そこから腹筋へ。そして腹筋から大腿筋。上腕二頭筋に大胸筋。
 触れられるたびに微弱な電流のような刺激が走り、キイチはその度に全身を震わせた。それが整った筋肉をさらに際だたせ、コウライドがさらにそれを辿る。
 だが、それがびたりと止まった。
「あっ……」
 切なげに声が震えて、先を乞う。けれど。
「なるほど。素直に異動してこないと思ったら……こういう訳か」
「う……あっ……」
 肌に鋭い痛みが走る。
 つねられて引っ張られた肌は瞬く間に赤くなって、元の朱色の痕跡を覆い隠した。
「君の初めてが私でないというのは癪だが……。だが、それはそれで楽しめそうだ」
 コウライドの口が歪んで、別の場所に移動した指先が肌を赤く染めた。
「あっ……痛っ……」
「痛い?違うだろ……気持ちいいはずだよ。こうされると……ほら」
「んあぁっ……」
 痛いと思っていた。確かにびりりと痛みが走る。なのに、コウライドの言葉を聞くと、その痛みが快感に取ってかわった。
 震える唇から切なげな吐息が漏れて、粟立つ肌が次々と朱に染まる。
 その快感がもっと欲しくて。
 キイチはコウライドの指先に自ら肌を擦りつけていた。
「ああ、ここが怪我をした場所か」
 腹筋近くにできた真新しい皮膚の盛り上がりにコウライドが触れた。
「あ……」
 先よりもはっきりと体が震え、コウライドの目に晒された下腹部が力強く反応する。
 その変化にコウライドが驚いたように目を見張り、楽しそうに口の端をあげた。
「若いね」
 腹筋をなぞっていた指先が、下腹部へと移動する。
「ん……くっ……」
「気持ちいいかね?」
「……は…い……」
 触れられた場所からぞくりとした甘い疼きが全身へと走っていく。コウライドの指が明らかにその意図を持って動いているのに、キイチは為す術もなくそれを享受する。
「あ……いぃ……」
 甘く掠れた声がキイチの濡れた唇からこぼれ落ちる。その顔は紅潮し、薄くしか開いていない瞳までもが赤く染まり始めていた。
 それは明らかに性的な快感に晒されている状態で、何よりも、キイチの雄はすでにいきり立っている。
「んああ……」
 声は嬌声となり、堪えることなく吐き出された。
「さあ、次はどうして欲しい?」
 問われて、逆らう意識など欠片もないキイチは、素直にその言葉を口にした。
「達…きたい……です……」
 縋るように目がコウライドを捕らえる。
「達きたいか?どうやって?」
「……触りたい……外して……んっ……下さい……んくっ……」
 ガチャと激しく鎖が音を立てる。
 キイチが両腕の拘束を外したいと無理に引っ張れるせいだ。
「おやおや、君の手首に傷が入ってしまう。動かしたらダメだ。我慢しなさい」
 それは静かではあったが、命令としてキイチに下された。
 途端にキイチは怯んだようにコウライドを見つめたが、結局「はい」と小さく答えて、下唇を噛みしめる。
「んく……」
 すすり泣くような悲鳴と震える体を堪えるようにして、キイチの腕から力が抜けた。その結果、ずっと引っ張られていた鎖が緩み、音がしなくなる。
 コウライドが遊ぶように触れる指先からの快感は収まりはしていない。けれど、上官が動くな言ったから、キイチはただ従うことしかできなかった。
「良い子だ、キイチ。ほら、ご褒美だ」」
 唯々諾々と従うキイチの従順さにコウライドは満足げにほくそ笑むと、下腹部辺りで遊ばせていた指を、するりとキイチの雄に絡みつかせた。
「ん、くあ……っ」
 敏感な先端を指先で嬲られ、キイチはあられもなく悲鳴をあげた。
 手足は動かせないが、その分体が若鮎のように跳ねる。
 キイチのそこは、ボブに他人に触れられる快感を教えられていた。そのせいで、コウライドの指の動きに悪戯に反応してしまう。
「ああぁ……いいっ……もっとっ」
「凄いね……」
 キイチの嬌態に煽られたかのように欲望に掠れた声を出すコウライドが、さらに指の動きを激しくする。すでに流れるような先走りのせいで、そこは酷く滑っていた。そのせいで密着した指が、さらにキイチを高めていく。
 何度も背を仰け反らせ、自ら擦りつけるように腰を突き出すキイチの嬌態に、コウライドは楽しそうに見つめる。だが、突然その手を止めた。
「あっ……」
 快感の渦から一気に突き放され、キイチが潤んだ瞳をコウライドに向けた。
「欲しいか?」
「はい……もっと」
 問われて間髪入れずに返すほど、もうキイチの頭は快感を追うことしか考えていない。
 だが、コウライドは先に飲ませた錠剤の残りをキイチの前に差し出した。
「さっきは一錠しか飲んでいなかったこれだがね。これは一錠だと、逆らう意志を消す効果があるんだ。捕虜なんかに使うと効果的なんだ。ただまあ、体が熱くなって欲望に敏感になるという副作用もあって、普段なら敬遠される薬ではあるんだが。しかも、二錠飲めば、今度ははっきりと快感が増す。そして三錠も飲めば、もう相手に従うしかないほどに、快感の虜になれる。──それはもうずっと……」
 最後の方はとても小さな声で、キイチにまでははっきり聞こえていない。ただ、快感が増すという言葉だけがキイチにはっきりと告げられる。
 コウライドの指先にある白い小さな錠剤は、まだ幾つかがベッド脇の机に転がっていた。
「どうするキイチ、まだ飲むかい?飲みたいならいくらでもあげよう。飲めば今よりもっと気持ちよくなれる、この薬を。──キイチは、飲むだろ?」
 錠剤がキイチの唇に触れる。
 飲めばもっと気持ちよくなれる。
 疼いて暴発しそうな体がもっと、もっと……。
「自分で口を開けて飲みなさい、キイチ」
 他人が聞けば、コウライドは決して強要はしていない。けれど、キイチにとってそれは命令であって、逆らうことなどできない。
 だから、口を開けて、入れられた錠剤を飲み下す。
「良い子だね、キイチは。これならすぐにでも、私の忠実な部下になれるよ。強くて、たくましく、誰にも負けない忠実な部下。私の望むようにしてくれればいつでも、この快楽を君にあげよう」
 小刻みに震えるキイチは、限界近くになっている快感の先を欲して、縋るようにコウライドを見つめた。
 次の錠剤の梱包剤を破いてる指が、早く自らに触れてくれることを祈って。
 じっと……。
 再び、コウライドの指がキイチの雄に触れる。
「んん……」
 またあの快感に浸れるのかと知らずに体が身震いして、そそり立った先端から透明な液が垂れ落ちた。それをコウライドが指先で掬い、キイチの先端になすりつける。
「おね……がいしま……す……」
 達きたくて、先を欲して、キイチの目尻から涙が流れ落ちる。
「いいだろう。一回達った方がいいか」
 コウライドの手が先ほどよりきつくキイチの雄を掴んで。
 と。
 痛みを伴う音。
 耳が悲鳴をあげるほどで、快感すら吹っ飛んだ。
 金属が引き裂くような音が何度も部屋中に木霊する。
 びくりと快感でなくキイチの体が震えたのと、コウライドの体が沈み込んだのが同時だった。
 遮る物のないキイチの肌が、火傷しそうなほどの熱い風に晒される。
 けれど。
「ああっ……」
 熱さすら快感を呼び起こした。堪えきれずにあげたのは嬌声に近い。けれど、それは続く音にかき消された。
 何度も何度も、叩きつけるような音がして。
「な……に……?」
 床に伏せたコウライドが体を起こし呆然とドアを見つめる。いや、それはもうドアとは言えない。壁に開いた巨大な穴としか言えないだろう。
 分厚く部屋を守る隔壁でもある壁が、無惨に引き裂かれている。
 それは人が通るに十分な大きさを持っていた。
「キイっ!」
「お前はっ!」
 長い足が旋回して、コウライドに叩きつけられる。だが、その攻撃を一瞬で見切ったコウライドが、床を這うようにして避けた。
 ぎりぎりと音がしそうなほどに食いしばっているのだろう。
 歪んだ口許をしていたのは、ボブだった。
 そのボブが、ベッドの上のあられもないキイチの姿を目にした。
「キイ──っ!!」
 その声は、悲鳴でしかない。
「ふざけるなっ!」
 ボブが咄嗟に駆け寄ろうとするのを、コウライドが足払いをかける。油断していたわけではないが、それでも体術にかけては、コウライドに歩がある。ぐらつく体は、あっという間に叩き伏せられた。
 それら一連の動きは全てキイチの目には入っている。
 だが、キイチは虚ろな瞳のまま、それを見つめていた。
 ただ快感の先が欲しい。気が狂いそうなほど触って欲しくて、達きたくて堪らない。
 自然に腰が揺らいでいたが、キイチはそれが恥ずかしいことなどとは気づきもしなかった。
 ただ、欲しい。
 触れて欲しい。
「ちくしょうっ!」
 そんなキイチの姿を目にして、その異常さにボブは完全に切れていた。
 裸に剥かれているだけでも許せないことなのに、キイチは完全に我を失っている。
 しかも机に転がる錠剤に、ボブは覚えがあった。
「てめえっ!キイに何錠飲ませたっ!!」
「お前に教える義理はないね。カベイロス内での破壊行動を起こした者は、我が隊によって拘束される。大人しくして貰おう」
「それならてめえは何だっ!キイを監禁してこんなっ!」
「キイチは私に再指導を仰いできたのだよ。先だっての作戦中の昏倒は、自分の意志の弱さから来るとしてね。そのためにこの部屋を使っていたというわけだ。薬にしても、彼が自分で飲んだのだよ」
 あくまで優位に立っていると信じて疑わないコウライドは、自信満々にボブを見下して言う。
 だが。
「キイがお前に拉致されたのは、キイの同室であるアリンが証言している。しかもお前はアリンにも暴行行為を働いている」
 壊されたドアの縁に腕組みしてもたれていたリオが、睨み付けながら言い放った。
「ついで、キイが再指導をお前に仰ぐことは決してない。もしそうであるならば、キイは直属の上官である俺に何らかの話を通すだろう。キイがそういう性格であることは、お前自身よく知っているはずだ」
「カケイ……大佐……」
 その言葉にコウライドが全身を戦慄かせて、リオを睨み返した。
 けれどリオはそれを一笑に伏し、くいっとドアの外に向かって顎をしゃくった。それに促されるように、背の高い男が背をかがめて穴から中に入ってくる。
「コウライド少佐。君のこの部屋での行為は全て記録されている。キイチ・ウォン曹長が最初は合意で無かったこともその記録にある。彼は抗い、だが逆に君にねじ伏せられて無理矢理最初の薬を飲まされたのだということも」
 低い、だがよく通る声だった。
 まだ若い。
 リオとそう変わらない。
 けが、リオやコウライドよりは落ち着きを持っており、自分の力に自信を持つもの特有の威厳があった。
 その姿に、コウライドがびくりと背筋を伸ばす。
 そうせざるを得ない相手。
「ラフティン提督……」
 コウライドの震える唇が彼の名を呼ぶ。
「コウライド少佐。カベイロス艦総指揮官の名において、君を拘束する」
 冷たく言い放ったリオネ・ラフティンはカベイロス艦における総司令官であった。
「ば、バカなっ!どこにそんな記録がっ!だいたい、私は何もっ!」
 根回しまでして、絶対的な優位を持っていただろうコウライドではあったが、総司令官まで出てくるとは思っていなかったのだろう。その形相が信じられないと言っていた。
 だが。
 ラフティンの横に、寄り添うように立つ朱色の存在に目が入る。
「自分が、キイチがその意志でなかったことを証明します。自分はずっと”視”ていました。視始めた時、キイチは彼に優位でした。すでに拘束されはしていましたが、それから逃れようと必死でした。そのキイチを押さえつけ、無理矢理薬を飲ませたところまではっきりと視ています」
 『視る』と言うたびに、微妙な違和感が辺りに漂う。
 見ることなど叶わないはずの密閉された空間での行為を、アリンは視たと言った。
「ま……さか……」
 その意味にコウライドは唐突に気付いた。
 視ることができる存在。
 その存在は、決して秘匿されているわけでないから、コウライドとて知っている。
「何で……アルテミスでないのに……何で……」
 ただ、その力を持った人間はあまり他の艦隊にはいない。もっぱら第六艦隊アルテミス・セレーネーに所属して、そこから各艦隊に必要時に派遣されることが多いのだ。
 それも各艦隊の指揮艦に配属させられる。
 こんな単なる工作艦であるカベイロスには通常であれば、決していない存在。
「ここがいいからいるんです。他のどこに行っても、自分は力を使う気はありません」
 無表情で淡々とした口調はいつものアリンだった。だが、コウライドはそれを知らない。ただ、蒼白な面持ちでアリンを凝視していた。
「アリンは、先祖代々の遠隔透視能力者だ。マクスウェル一族の名を聞いたことはないかね?その力はアルテミスの折り紙付きで、彼が視た事柄は、正式な証拠として採用できる許可証もある」
「マクス……ウェル……」
 オリンポスでも有名な一族の名に、コウライドは戦慄きながら崩れ落ちる。
 何より、彼はアリンをすでに傷つけている。その彼が、そういう資格を持つほどの相手だとは、コウライドは知らなかった。しかも、そんな相手がどんな証言をしたか、想像に難くない。
「しかも、この薬は……。君のクラスではこの薬の使用許可は下りないはずだ。その辺りも何かありそうだな」
 ラフティンがベッドの上で身悶えるキイチを痛ましげに一瞥すると、すぐにコウライドの腕を取った。
「さあ、行こう」
 崩れ落ちたコウライドは動こうとしない。けれど、ラフティンにアリン、そしてリオが無理矢理に外に連れ出した。
 外には、ラフティンの命で集められていた警備兵が、自分達の上官の失態を信じられない思いで見つめていた。
 お互いが顔を見合わせ、構えた銃を上官に突きつけるわけに行かず、右往左往している。
 けれど、ラフティンの指示に逆らえるものでなく、彼らは厳しい表情のままにコウライドを連れて行った。
「あいつの処遇は任せる。どうせ、なんかあるとは見ていたんだろう?」
 リオの言葉に、ラフティンはくすり笑みを零したが、それに答えはしない。
 ただ、その視線の先に、数人の蒼白な面持ちの警備兵を捕らえていて、小さくため息をついた。
 その気配だけで、背後に控えていたラフティンの副官が動いた。
「3人ですね」
「ああ」
 リオの視線がその双方を往復し、そして頷いた。
「なるほど……。キイチもああなる運命だったというわけか」
 薬と快楽で支配された、哀れな兵隊。
 これから当分の間、薬を抜く治療を受けることになる彼らは、再びカベイロスに戻ってくることはないだろう。
 リオの言葉にラフティンは何も返さなかった。
 ただ、ちらりと部屋の中を窺う。
「あの薬は常習期間が長いほど回復に時間がかかるが、彼はまだ一回目だしな。まあ、三錠一気に飲ませられたら、危うかったが」
「ああ」
 途端に、リオも厳しい顔つきになって部屋の中に視線を送る。
 アリンからキイチが薬を飲ませられたと聞いた時、さすがに焦りを感じたのだ。だからこそ、こんな強硬手段に出た。
 ドアを破壊するのは簡単だ。
 ある意味、得意といってもいい。
 もっと穏やかに開ける手段もあったのだが、気がついたらボブが既に取りかかっていた。
 それほどまでに、あの時は皆怒りに血が昇っていた。
 二錠と三錠の違いは大きい。
 たった一錠の違いが、回復もその治療法も大きく違ってくるからだ。
 低く唸るリオに視線を移したラフティンは、普段の態度からは想像できない程の部下思いの部分を見せるリオに苦笑する。そして、宥めるように言った。
「だがちょうど二錠だ。それだったら、彼には愛してくれる相手がいるようだし、存分に飽きるまで相手をして貰えるだろう。それだけでかなり薬は抜ける。達きたいだけ達って、足腰立たなくなるまでやって貰えば、何もかもすっきりするさ。あの状態の時は病室で直すもんじゃないから、あのまま自室に連れて行くがいい。何なら、防音完備の空き室を用意してもいいし。ああ、でもグレイル少尉は個室だから大丈夫か。それにまあ、たっぷり愛し合えば、ここ最近あったいろんなごたごたは一気に回復するものだしね。触れあうってのは一番だよ。君も最近はすっきりとした顔をしているしね」
 言われた事は、確かにその通りなのだが。
 リオは額に手を当てて、ううっと唸った。
「……指導には、一応礼を言うが……露骨だな……」
 彼もリオに負けず劣らず苛烈な性格をしているのだが、その外見と持ち前の要領の良さで、決して外にはそれを悟らせない。そのお陰で、若くしてカベイロスを指揮する立場にあるのだ。
 それに、とリオは苦笑する。
「お前さ、それって経験あるようだけど?」
「……想像するのは自由だね」
 何食わぬ顔をするリオの同期の横で、アリンが肌を瞳の色のようにバラ色に染めて、俯いていた。
15

 刺激がいきなり無くなって、キイチは低く呻いた。
 何かが起きたのは判っていた。
 爆発時の音とその後の臭気に、使われた爆発物の名が脳裏に浮かぶ。しかも、それまでコウライド一人だった場所に複数の人の気配を感じた。
 そんなことまではっきりと頭は理解するのに、何よりもの優先事項は、刺激を受けていた場所が放置されてしまったこと。
 疼いて、欲して止まない場所に早く触れて欲しくて、キイチは喉の奥で唸った。
 堪えることは苦痛に近く、そのせいで閉じたままの目尻に涙が浮かんで流れる。
 そのままの放置はどうにも我慢できなくて、命令されてそこに大人しくさせていた手を動かそうとする。けれど、やはりそれは縛められたままで、ガチャガチャと鎖を鳴らしただけだった。
 何とかして……。
 開いた口が言葉を吐こうとする。けれど、上官に願う言葉ではないと、それだけははっきりと頭にあって、キイチを縛る。
 中途半端に止められたそこは、爆発寸前までいっていて、そんなところで止められて気が狂いそうなほどだった。
 だから、腰が自然に突き出すように動いていた。それは全くの無意識で、見ている者をどんなに扇情的に煽るかという事も気がついていない。
 と、不意に裸の体に何かがかけられた。
「んくっ……」
 限界までに敏感にさせられた肌は、その刺激だけで全身を震えさせる。
 だが、薬の効果は、そんなものでは足らないと言う。
 貪欲なまでに快感を欲して、触れあう全てが欲しいと、余計に切なく疼いてしまう。
 その間に複数の人の気配は一度消え、たった一人が傍らに残る。
 またコウライドがそばに来たのだと思って、泣き濡れた瞳を開けてそちらに向けた。
 ひどくぼんやりとした視野に、人の姿が映る。
 だが、それは先ほどまでとは違うように見えた。
 コウライドよりは細い。
 もう少し若くて、何より、彼の姿を見た途端、キイチの全身は甘く疼いたのだ。それは、コウライドとは違う。
 もっと大切で、もって甘えたくて──そして誰よりも触れて欲しい相手。
 誰よりも彼の元にいたくて、何があっても彼の元から離れたくないと願う。
「ボブ……」
 手を伸ばしてた。
 だが、ガチャリと音がして手が伸びない。
「待ってろ、外してやる」
 小さな操作音がして、手足からキイチを拘束していた物が外れた。
 思わずまじまじと目の前まで動いた手を見つめる。
 動いて良いのだと、はっきりとそれは示していて、その嬉しさにキイチはボブに向けて満面の笑みを浮かべた。
 その途端、彼が息を飲んだ音がした。
 これはボブだ。
 キイチは硬直したまま自分を見るボブにただ笑いかける。なぜだかとても嬉しかった。それに彼ならば、何を言っても、どんなことを言っても大丈夫なのだ。
 何せ、ボブは上官であると同時に、キイチを好きだと言ってくれた人なのだから。
 だからキイチは縋るように彼を見、誘うように手を伸ばして請うた。
「ボブ……抱いて……」
「キイっ……」
 息を飲む音がして、彼の体が大きく揺らぐ。
 なのに手を出してこない。
 それに焦れて、だったらもっとと、必死になって彼を誘った。
「ね……。ねえ……抱いて……。僕をボブで一杯にして……ね?」
 どういえば良いんだろう?
 どうしたら抱いて貰えるのだろう?
 どうすれば、この狂いそうなほどに続きを求める体を鎮めて貰えるのだろう?
 そのためには何だってするのに。
 はらはらとキイチの頬に涙が零れ落ちる。
 欲して止まない相手なのに、どうして来てくれないのだろう?
 もう、我慢できない……。
「ボブ……ボブ……」
 必死に願う。
 と。
「ボブ、一度達かせてやれ。その後はお前の部屋に運んでやる……後は任せる……」
「リオっ!」
 消えていた気配がまた増えて、そしてまた消えた。
 だけど、リオが言った言葉ははっきりとキイチは理解していて、その表情が歓喜に満ちあふれた。
 達かせて貰える。
 それこそが、今キイチの一番欲して貰えることだから。
「あ、あぁ……ボブ……来て……」
「キイ……そうだな……一度達こう……」
 悲しそうな声が聞こえて、そして。
「ああっ!」
 待望の刺激──ボブにとってはただ触れただけなのに、それだけでキイチは激しく全身を震わせて吐精した。
「ん……んんっ……」
 何度も何度も断続的に吹きだして、ボブの手を汚す。
「んあぁぁぁ……ボ……ブ……」
「キイ」
 肌に触れた布地の刺激が新たな快感を誘発する。
 だけど、それ以上に包まれた温もりにキイチは甘い吐息を漏らした。
 気がつけば自由になった手が体の上の温もりをきつく抱きしめる。
 もう離さない。
 その思いを全て込めて。
「ボブ……もっと……離さないで……」
「ああ」
 問いかければ間違うことない言葉が返ってきて、キイチは嬉しくなって微笑んだ。
 だが、たった一度の吐精で満足できるはずもなく。
 キイチは運ばれる担架での振動にすら、体を疼かせて喘ぎ声を出した。それでも必死で押さえつけたそれは小さくて、通りすがりの人達には気付かれてはいない。
 それは、薬に冒されたボブがキイチに課したたった一つの命令だった。
 それがなければ、キイチが後で恥ずかしい思いをするからという、それだけの配慮。
 その命令をキイチは可能な限り守った。
 薬に犯された体ではそうするしかなかったとしても、守りたいと言う思いは、コウライドの時よりは強かった。
 だから必死で堪えて。
 ボブの部屋についた記憶はない。
 だが、優しく抱きかかえられベッドに降ろされた時、キイチはいつまでもボブに回した腕を放そうとはしなかった。
 ただして欲しいことがあるから。
「ボブ……ねえ、抱いて……」
 甘えて、ボブの耳朶を柔らかく噛む。
 途端にびくりと震える体が愛おしくて、さらに何度も噛み付いた。
「……判ってる……いくらでも抱いてやる。いくらでも感じていいし、どんなことをしてもいい。だから……」
 嗚咽のようにボブが喉を鳴らして、それに視線を動かせば、ボブがキイチをじっと見つめてた。
 酷く悲しそうな表情に、キイチは自ら手を伸ばして彼を誘った。
 そのまま顔が近づいてくる。
「うん……いっぱい……しよ……」
 口づけだけで、気持ちいい。
 ボブが離れた時、何かが口内に転がっていた。
「飲むんだ」
「うん……」
 促されるがままに飲み込んで、ごくりと嚥下する。
 はあっと熱い体を冷ますように大きく息をして、冷たいシーツの感触を楽しむように手の平で撫でた。
 そんなキイチの上下に動いた喉元にボブが啄むように口づける。
「んあっ」
 びくんと弓なりに体が跳ねる。
 ボブなら、何も我慢することがないから、声も堪えなくていい。手が敏感な肌に触れるだけで、あっという間にキイチの雄はそそり立ち、触れてくれと願う。
 慣らすためにボブの手が、後孔に向かうと、もうそれだけでその場所がひくつくのを自覚した。
 もうボブは何も言わなくて、ただ行為にだけ没頭する。
 それをキイチも素直に受けて、感じるがまままに声を上げた。
「あっ……あああっ……」
 二度目の吐精は、さらに呆気なく、キイチの肌を白く汚す。
 全身に吹きだした汗と混じったそれが、たらりと流れるのをボブの指が掬い取って、後孔へと流し込んだ。
 だがもう指だけでは物足りない。
 まだまだ違和感はあるというのに、その違和感すら刺激になってもっと大きなモノをキイチは欲していた。
 体を埋め尽くす、熱い楔がもたらす快感の存在を、キイチは知っていたから。
「ああ、……もういいから……。挿れて……ねえっ……挿れてよっ!」
 言葉が強請るように甘く、舌っ足らずになって、腰も浅ましく揺れ動く。
 足はボブの腰に回り、自ら押しつけるように両足を締め付ける。
 欲しくて堪らない。
 何をされれば、自分が感じられるか。この体の疼きから解放されるのか、キイチは知っていたから。それをくれる筈のボブに強請って。
 ボブが自らの雄を、キイチの後孔に押しつけてきた。
 熱い、指とは比べ物にならない大きさの塊が、ぐっと入ってくる。
「んああぁぁ」
 歓喜の声が部屋中に木霊する。
 喉を震わすそれが、さらなる快感を呼び起こし、キイチは激しく頭を振っていた。
 狂う。
 まさしくそれだ。
 閉じられない口から、激しい嬌声が迸る。
「ああっ、もっとっ!もっと奥までっ!」
「凄……すげーよ……熱くて……締め付けられる……」
 ボブも感極まったようにキイチを抱きしめる。
 その重みすら心地よくて、キイチはますます腕に力を込めた。
 そのせいで、さらに奥までボブの雄が進んで。
「んあっ!」
 またも呆気なく弾けていた。
 何度も何度もキイチは達った。
 体は前も後も二人の出した精で、酷く汚れている。
 最初に出した物はもう乾ききっていて、動くたびに体から剥がれ落ちた。
「ああ……」
 最後にはもう出る物もなく、ただ行き過ぎた快感だけが朦朧としたキイチを襲う。それはもう苦痛にすらなってきて、キイチの体を責め苛んだ。
 なのに、体が止まらないのだ。
 おかしい、と理性が警告したのはいつだったろうか?
 手の中にいるボブがすでに疲労しきっていることも、自分がどんなに異常な状態かと言うことも、ようやく意識が気付き始めた。
 だけど、それでもキイチはまだボブを欲していて、抱きしめた腕を放さない。
「キイ……もう……」
「うん……うん……」
 ボブも、それ以上にキイチも、喉が掠れきって声が出ていない。
 囁くような呼びかけに、その言葉の意味を理解して、キイチはただ頷く。
 そして。
 ボブが最後の力を振り絞るようにキイチの最奥を抉った。

 

 目覚めた時、毎朝味わうような爽快さは全くなかった。
 ただ、動くこともままならないほどの酷く重い下半身に、ひきつれるような肌の感触。
 あくびをすれば、喉の奥が風邪をひいたように痛い。
 それこそ指一本に到るまで残っている疲労感に、一体何事かとキイチは目を開いた。
 途端に入ってきたのは、キイチの傍らでひどく顔色の悪いボブの寝顔だ。
「え……」
 どうして自分がボブと一緒にいるのかが判らなくて、慌てて体を起こそうとするけれど、身動ぐこともままならない状態で、キイチはすぐに諦めた。
 だが、この状態はボブとそういう行為をしたのだと表していて、キイチはどうしてこうなったのかと、一生懸命思い出そうと顔を顰めた。
 はっきりと覚えているのは、アリンと何かを話していた時のこと。
 体の不調を労ってくれていたアリンの勧めるがままに眠って。
 気がついたら誰かと話をしていた。
 そこまで思い出した途端、ぞくりと激しい悪寒が背筋を走り、キイチは堪らずに背を丸めた。
「思い……だした……」
 誰と話をしていたかがきっかけだった。
 それこそ走馬燈のように全ての記憶がキイチに襲いかかって、ひどい苦痛に襲われたようにキイチは呻いた。
 飲まされた薬。
 熱くなった体。
 それを鎮めるために、キイチはコウライドにすら縋って。
 その途中にボブが来て。
 後のことは全てボブ一色だ。
 今は欲望すら感じない程に疲れ切った体が、ボブのお陰だと言うことははっきりと理解していた。
 情けなくて、だがボブがそこまで頑張ってくれたことも嬉しくて、複雑な心境でキイチは眠っているボブを見つめる。
 助けて貰ったのだ。
 守りたいと思う相手に守られて。
 それは、いつもなら悔いることだというのに、今のキイチは酷く幸せな気分だった。
「ありがと……」
 自然に言葉が出る。
 あのボブがあんなにも一生懸命抱いて、キイチを欲望の渦から助け出してくれた。それが嬉しい。
「どういたしまして」
「えっ」
 途端に聞こえた声に、びくりと体が強張った。
 見開いた瞳の先で、いつの間にか目を開けていたボブがにやりと笑う。だがすぐに苦痛を堪えるように眉根が寄せられた。
「なかなか貴重な体験だな。足腰立たなくなるほど攻め続けるってのは」
 ううっと小さく呻くボブに、キイチは申し訳なく俯く。だがすぐにその顔を上げさせられた。
 顎に添えられた手の動きに逆らう間もなく、軽く唇が合わせられる。
「でもまあ、その分お前の体を思いっきり味合わせて貰ったからな。それに、積極的なキイってのも珍しいし……」
「それはっ」
 恐ろしいことに、記憶は全て残っている。
 自分がどんなに浅ましくボブを欲したかと言うことも。
 全身を羞恥に染めてベッドに突っ伏すしかないキイチをボブは楽しげに見つめていた。
「う?ん、媚薬ってのもいいもんだな。なかなか楽しかったし。それに、知っているか?」
「えっ……?」
「キイの飲んだ薬、一回位じゃ抜けねーんだ。性的興奮するたんびに、薬の効果が発現して──そうだな、あと数回は昨日みたいになるらしいんだけど?」
 意地悪げに嗤ったボブの言葉に、キイチは声もなく息を飲む。
 あれが……後数回?
「ま、今日はもう相手してやれーねーから、興奮なんかするなよな」
 などと言われても。
「……あ、あの……昨日みたいにあんなにも狂ってしまうってこと?」
「ああ、そうらしいな。だから、その効果が完全に抜けるまで、お前この部屋から出るな。外で欲情したら、大変だから」
「……」
 言わずもがな、だ。
 キイチはただこくりと頷くしかなかった。
 ようやく部屋から出られる朝、いつまでたっても出てこないボブを、キイチはベッドから引きずり出した。
「朝ですよ」
 床にぐたりと倒れ伏したボブが、ぼんやりと顔を起こす。
「朝かよ……もう……」
「今日から僕、出ていいんですよね」
 待望の勤務再開。
 ここでボブと抱かれる日々は薬のせいとは言え、幸いそのものだった。それでも、そればっかりというのも気が引けて、早く仕事に復帰したかったのだ。
 もっとも、休みだったから何を気にすることもなく、ボブを求められたし、彼もどこにも行くことはない。
 だから湧いてくる欲情のままにボブを求めて、それにボブも答えてくれたけれど。
 一週間、欲情した自分が取った行動は、思い出したくもないほどで、薬が抜けたことをどれほど感謝したことか。
 しかもいつもと違う筋肉がついているのに昨日気付いた始末だ。
 それこそ、入院中に落ちてまだ少しだけは回復してないかった体力もすっかり回復するほどに。日がな一日運動し続けていたと言っていいだろう。
「お前……元気だな……」
 見上げるボブの瞳に浮かぶどこか非難めいた色に、キイチは苦笑を返した。
「基礎体力はやっぱり僕の方がありますから」
「だけどな……」
 何度も抱かれる内に、快感だけを追う方法を見つけた。
 気持ちよくて、だけど体に負担をかけないように。
 体に負担をかけない楽な姿勢も、どうすればボブを先に達かせることができるかも……。
 それに気付いてしまったら、キイチの負担はぐっと軽くなった。
 潤滑剤はキイチに使えば体の負担を楽にはする。けれど、それを使ってボブ自身を嬲るのも楽しいと知った。
 だから最終日だと判った昨日は、気付いた知識を全て使って。
 キイチに挿れる前に、ボブはさんざん達っていた。
 その差は翌朝にしっかりと現れている。
「ようやく仕事できるんですよね?」
 まだ特有の怠さは少しあるけれど、動きが鈍るものではない。
 にっこりと笑うキイチに、ボブは深いため息をついていた。
 目の下にクマをつくったボブを、リオ・チームのメンバーは苦笑しつつ出迎えていた。
 さすがにその原因がわかるから、揶揄するものはいなかったけれど。
 その原因を作ってしまったキイチにしてみれば、何も言われない方がはるかに恥ずかしいものだった。

【了】