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貴樹が岩の中にある部屋に閉じこめられてから、半年が過ぎようとしていた。
岩壁に細い鎖で張り付けられたままなのも変わらない。
そのままの姿勢で犯され、そうでない時は媚薬のせいで熱に浮かされたように喘いでいるか、眠っているかの毎日だ。
食事もそのままで与えられる。と言っても、普通の食物ではない。
下から注がれるのは、稲葉の精。犯されながら、溢れるほどに注がれる精の量は多く、腹が張ってしまうほどだ。
全身の皮膚からは、鏡を通して入り込んでくる人々の悪しき念が浸透してくる。途切れることなく参拝者を受けている神殿の神体である鏡を通して、岩屋の中の鏡に、祈りに来た人の念が通ってくる。その念の特に悪い感情、怖気だつ呪いを貴樹は吸収してしまう。
そしてもう一つ、朝昼晩と三回訪れる稲葉が持ってくる一升瓶の中の粘液と卵形の固形物もまた貴樹の食事なのだ。
一升瓶の粘液は上の口から注がれる。
腹がぽっこりと膨れるほどの量が、高い位置に設置された瓶から管のようなものを通して強制的に注がれる。
貴樹にとっては、媚薬の効果も与える粘液は、鬼に魅入られた人間のなれの果てだ。
粘液の元が傀儡と稲葉が呼ぶものだと貴樹は知っている。
忌避すべきそれを、けれど貴樹には逃れる術などなかった。
そのせいで、稲葉がいない間も欲情して仕方がなかったとしても、拒否する立場ではなかったから。
さらに下の口──アナルからは卵大の固形物が奥深くに押し込めれる。これもまた粘液と同様の材質でできていて、貴樹の中の苗床に栄養と、そして媚薬の効果をもたらせるのだ。
上からも下からも、常に与えられるそれらのせいで、貴樹の体はいつだって欲情していた。どんなに稲葉に犯されても途切れないほどの欲情に、貴樹の頭はいつもぼんやりとしていた。
だが、そんな貴樹の1日の中で、時々脳内がクリアになる時間帯がある。
たとえば、晩の行為が終わってしばらくした後。
晩から朝の間は、朝と昼、昼と晩の間より長い。
そのせいか媚薬の効果が薄れて、貴樹は自分を取り戻す。
稲葉がいない夜中から明け方は、鏡の外からもほとんど音が伝わらない時間帯だ。
そんな時に、音を立てるモノは貴樹しかいない。
拘束している鎖が、身動ぎするたびにジャリジャリと音を立てる。
媚薬に犯された体は、効果が薄れていたとしてもやはり疼いて、荒い吐息を繰り返して呻き声を上げる。犯されている間獣のように腰を振りたくっていた記憶も、それに拍車をかける。
稲葉はいないのに、記憶が体を犯すのだ。
最初の頃は空いた時間に独り言や泣き言を繰り返していたけれど、それもいつしか無くなった。
毎日毎日稲葉に犯され、痛みと快楽の果てにいる貴樹の精神が、「いつか」を諦めてしまったのはいつのことだろう。
「鬼」がいるのだから、「神」がいても良いだろうと考えたこともあったけれど、やはり「神」はいないのだと、諦めてしまったのはいつのことだろう。
鏡を介して移りゆく景色や人々のいでたちの変化を、眺めるだけの毎日。
1日の感覚などすでに狂っているけれど、それでも鏡の中が暗くなれば夜で、明るくなれば朝が来たのだと判る。
今の貴樹は、朝が一番嫌いだ。
太陽が昇れば稲葉が現れる。稲葉に犯され続ける1日が始まるのだ。
朝の食事が始まると、夜中の間にかろうじて消えていた媚薬の効果が復活する。欲しくて堪らなくて自ら腰を振ってしまうのだ。
いっそのこと狂ってしまったらどんなに楽だろう、と思ったのは過去のこと。
苗床の力で傷がすぐに治る貴樹は、狂うことも許されない。
全てが現実で、全てを受け入れるしかない貴樹にとって、いつしか日々はただ移ろいゆくものだけで、何ら期待できないものだった──けれど。
そんな貴樹の日々に変化が起こり始めたのは、数週間ほど前のことだ。
子を孕め──と言われて植え付けられた種。
その場所が中から膨らみ、僅か数週間で貴樹の腹は妊婦の臨月のそれより大きくなってしまった。
その腹の膨らみ具合を稲葉が嬉々として観察している姿は、媚薬にとろけていた貴樹にも異様に感じた。だが、だからこそこの腹の中に確かに稲葉の子がいるのだと実感してしまう。
稲葉の力を受け継ぐ、次代の鬼がいるのだ、この腹の中に。
稲葉の子が。
そう考えると、怖い。けれど、自分の中に別の命が生きていると感じるのは、不思議な気分でもあった。
ずっと一人だと思っていたけれど、今は二人だな、と考えることもあった。
しばらく前から、胎動もはっきりと感じ始めた。
日に日に激しくなるその胎動は、稲葉の与える食事を吐き出すほどに激しい衝撃の時もある。
稲葉の大きなペニスを銜え込まされ揺すられ続ける間も、動くなと文句を言っている程に中から蹴られることもある。
内臓が傷つくような痛みに暴れる貴樹に、あの稲葉ですら行為を中断することすらあった。
胎動に苦しむ貴樹を見やる稲葉はずいぶんと嬉しそうだ。元気な子の証だと、見たこともないような笑みを見せて、あと少しで刻が来ると悦ぶ。
もうすぐ産まれる。
己の腹から稲葉の子が。
それを考えると、ぶるりと悪寒が走る。
そんな器官など無い己の体から、どうやって子が産まれるというのか?
怯えとも恐怖ともつかぬ震えは全身を総毛立たせ、飢えてこもる熱すら冷ますほどだ。だが同時に、なぜだか妙な嬉しさがあった。
役目が終わる安堵感のせいだと最初は思っていたけれど。
それとは違う、とも気が付いていた。
産まれた子は稲葉に似ているのだろうか?
そんな事を考えることもあった。
だが、産まれた子を見ることができるのだろうか?
終われば殺されるのだろうか?
ずっと食べさせられ続けてきた傀儡達のように、とろけて喰われてしまうのだろうか?
稲葉に? それとも腹の子に?
そんな事を考えた拍子に、胎動が激しくなったような気がした。
ぼこぼこと腹の表面が波打っている。
まるで、貴樹の考えに呼応したかのような動きに、思わず話しかけていた。
「おまえ……元気に産まれるのかな?」
その言葉に胎動の動きが僅かに変わった。
聞いているのだろうか?
「おまえさ……ああ、なんか呼びにくいから……。そうだなぁ、は、羽角(はずみ)って……。仮の名前つけてもいいよな」
昔、鬼が出てくる物語に出てきた名前を思い出して、呟く。
それに胎動が呼応するのに、貴樹はなんだか嬉しくなって微笑んでいた。
「なあ、羽角」
もうずいぶんと長い間、こんなふうに穏やかな話し方をしていない。
「羽角……喰らってくれるか、俺を」
けれど、岩屋の中で響く小さな呟きの内容は暗い。それでも、貴樹は微笑んでいた。
「俺を……最後の一滴まで、俺を……。は、ずみ……おまえが喰らってくれ……」
微笑みながら、思いついた名前で呼びかける貴樹の目から涙が溢れ、ぽたぽたと地面まで落ちていく。
たとえ生き延びても、こんな体で人として生きていくなど、もうできないだろう。
激しい痛みすら快感にかえてしまうような体になってしまった今では。
食欲よりも睡眠欲よりも、快感を貪ることを覚えてしまった己の体では。
「どうせなら、おまえの力になれば良い」
腹にいるのは稲葉の子であると同時に、己の子でもある。
いつしか、貴樹はそんな事を考えるようになっていた。
腹の子を成す種の材料も、元をただせば貴樹の感情と精であったのだから。
産まれる子が鬼と呼ばれる人に災いを為す存在であったとしても。
「俺は、全ておまえのものだ」
狂えなかったはずの貴樹の精神は、それでも病んでいるのだろう。
バカな事を、と思いながらも、それでも腹の子が愛おしいと感じてしまうのを否定できなくて、口元が知らず孤を描いた。
ここに来てからずっと笑うことなど無かった貴樹の笑みは、誰にも見られることなど無かったけれど。
それはとても幸せそうな笑みで、どこか稲葉が貴樹の膨らんだ腹を見て見せた笑みと似ていた。
昨夜あたりから、腹の張り具合が限界に近かった。
夜半過ぎからさらに酷くなって、身動ぐと口から内臓がはみ出そうになっていた。
「う……くぅ…っ、あっ」
痛みに顔をしかめ、虚ろな視線で己の腹を見下ろす。
ごろっ、と腹の中で塊が動く。ぼこりっ、と腹の表面が凸凹と波打っている。
きりきりとした痛みに銜えて排泄感までが強くなって、貴樹は無駄だろうと思いながらも何度も息んだ。
はあはあと喘ぎ、深く息を吸い込んで一気に息む。
力が入れるとミシミシと体の奥底が軋み、重い鈍痛の中に激痛が走った。
裂けていると感じるけれど、それ以上に出したいという思いが強い。
「っ、あぁぁぁ──くぅぅぅぅぅっ」
じゃり、がりっと、四肢を繋ぐ鎖が久しくなかった貴樹の反乱に悲鳴を上げていた。痛みに体を丸めたいのに、それすら許されない。
「っ、またっ」
僅かに許された休息は短く、すぐに痛みはぶり返し、さらに強くなっている。
もう鈍痛なのか、激痛なのか、自分が何に悶えているのか判らない。
「あ、んあぁぁ──っ」
助けて。
歪んだ相貌の中、固く瞑ったまなじりから滂沱のごとく涙が流れ落ちる。今までにない痛みに、決して口にすまいと思っていた名が勝手にこぼれ落ちだした。
「あ、いな……ばぁ、稲葉ぁ」
彼が来ても、助けなどしてくれない。それが判っていても、止められない。
「あ、ぁぁぁ、い、いな、ばぁ」
何度も何度も、悲鳴と共に名を呼ぶ相手は、いつもならエサの時間だと来る筈なのに、今日は来ない。
その事実に気づくことなく、貴樹は苦しみ、喘ぎ、絶望の悲鳴を上げ続けた。
「い、なばぁ、ぁぁぁっ」
叫んだとたんに、腹の中の子が激しく暴れだした。
すでに腹の痛みは限界なのに、その上胎動までもが加わったのだ。
「だ、だめっ、静かにっ、うぐぅ! だめだっ、動くなあっ、腹が裂けるぅっ!」
必死で腹の子を宥めるが、声が届かないのか、言うことを聞かない。
「だ、だめぇ、頼むぅ……は、ずみぃっ」
名を呼んだとたん、胎動が僅かに治まった。
「は、ずみ……羽角……」
縋るように何度も繰り返すと、胎動が治まっていく。
「羽角っ……んくぅ」
けれど、安堵したのもつかの間、直後にさらなる激痛が襲ってきたのだ。
「がっ、ぁぁぁぁぁぁぁ──っ」
激しく仰け反って全身を硬直させた。
激痛に絶叫と共に白目を剥く貴樹の姿を、鏡が全て映していた。
伸びきった肉の落ちた足の間から白い細い腕がのぞき、足を伝って行く。裂けていく体を意にも介さずに出てくる、それは人の頭。
「ぁぁぁぁぁぁ────」
続く肩が、さらに体を裂く。
背が、腰が、足の力で押し出されていく。
新生児というよりは、すでに産まれて三ヶ月は経っているかのようにしっかりとした赤子が、貴樹の体からのそりと這いだしてきていた。
全身を貴樹の血で彩った赤子が、血の海の中で四つん這いになり、人の赤子とは違う瞳の力で岩屋の中を見渡す。
それが不意に貴樹を振り仰いだ。ぺたっと尻をつき、すでに意識を飛ばしている貴樹をじっと見つめ──、不意に笑い出した。
「きゃはは、きゃははははっ」
幼子がお気に入りで遊んでいる時のような楽しげな笑い声が、岩屋の中に響く。
いつまでもいつまでも。
手に付いた貴樹の血を舐めながら、赤子はいつまでも笑い続けていた。