リジンの城が焼け落ちた日から二週間、リジン国第五王子 嶺江(レイエ)は、誰とも口を利いていなかった。
陣屋と呼ばれた簡易宿泊所の一室に、長兄以外の兄たちと閉じこめられた次の日、早朝にその部屋から嶺江だけが引きずり出され、そのまま馬車に乗せられた。
座椅子一つ無い二メートル四方の板張りの小さな馬車。
窓はつぶされ、外を窺い知ることはできない。
轍の音、馬のいななき、それに周りにいるであろう人々の会話も聞こえるのに。どんなに叫んでも、全て無視された。
定期的に扉の下から盆と一体となった食器に食事が乗せられて差し込まれた時も。
付いていないナイフやフォークを頼んでも。
持ち上げられない仕組みの食器から手づかみや犬食いで食べるのが嫌で、食べずにいても。
蒸し暑い室内に喉が渇いて、水を頼んでも。
込み上げた排泄感に、フタもない容器にするのが嫌で、外に出してくれと頼んだ時も。
それは、移動中の一週間だけでなく、辿り着いた屋敷らしき中の一室でも同じだった。
馬車の中から出される時に袋に閉じこめらたせいで、ここがどこかも判らない。身体に柔らかな振動を感じて袋の口を緩められて、なんとか這いだした時にはもう誰もいなかった。
二間続きで奥側が寝室という、城にあった自室と大差ない部屋。備えられた調度も見劣りするものはない。
扉は二つあったが、どちらも鍵がかかっていて開かなかった。
窓は外側から何かに塞がれていて開けることはできないし、外の景色を見ることはできなかった。
高い天井近くにある小窓から、かろうじて空が見えるだけなのだ。
それでも、馬車に比べればずいぶんマシだった。
洗面所も浴室もきちんとついていて、嶺江は一週間ぶりに身体を清めることができたのだ。
そう思ったのもつかの間、トイレが無いことに気がついた。
思案の末、浴室の大きな排泄口のふたを外してそこに排泄したのだが、それも馬車の中の事を思えば雲泥の差だ。羞恥はあったけれど、馬車のように溜めるものではないから匂いがこもらない。馬車ではバケツの底から抜けるようになっていたらしいが、一日に一回しか処分してもらえなかったのだ。
だが、ちゃんとした部屋だというのに、人は誰も入ってこなかった。
食事は、壁際のひざの高さの机に置かれる。馬車の時と同じく、スプーンなどなく、皿も持ち上げられない。あいかわらず手で食べ、口を寄せてすすりあげるしかない。
行儀など、空腹に勝てるものではないことを身に染みて知っていたから、それは許容していたのだけど。
この誰とも話せない状態がひどく堪える。
ここはいったいどこなのか?
兄たちはいったいどうなったのか?
貴族は? 国民は?
自分はいったいどうなるのか?
捕まった時には十二歳で、つい先日十三歳になったばかりという嶺江は、生まれてこのかた一人だった時などない。
年の離れた五人目の、愛くるしい容貌を持つ王子は、常に誰かに優しくかまわれて育てられてきていた。
その幼さを愛されるゆえに、王族としての教育も、礼儀作法以外は他の貴族の子弟と同じ教育しか受けていなかった。
だから別れの前日に、兄たちが言っていた『リジンの王族として誇りある振る舞いを』という言葉も、感覚でしか理解できていない。
そんな、精神的に幼い王子に、この状況はひどく辛いものだった。
不安が日に日に募っていく。
泣き叫びたい衝動を王子としての矜持だけで押さえつけているせいか、この部屋にきて回復していた食欲も落ち込み初めていた。
その扉が開いた瞬間を、嶺江は知らない。
食事が差し込まれる壁の横にあった扉が音もなく開いた時、嶺江は緊張のせいか一週間なかった便意に襲われて、下衣を脱いでタイルの上にうずくまっていたからだ。
だから初めての来客があったことも、その彼がまっすぐに浴室に向かったことも気づかずに、腹痛に襲われながら固くなった便をなんとか出そうといきんでいた。
だから。
「はじめまして、嶺江様」
扉が開くと同時にかけられた言葉に身体が硬直した。
とっさに振り返った視界に、簡易の礼服を着た貴公子の姿。まだ若い、兄達と同じくらいの。
そう認識すると同時に、こつんとタイルが鳴った。同時に、激しい臭気が鼻をつく。
「──っ、く、くるなっ! はいるなっ! 無礼者っ、出て行けっ!」
真っ赤になって叫び、やっと出た小さな塊を隠すようにその場に尻を付く。
よりによって、こんな時に。
俯いた視界に剥き出しの下肢がうつって、慌てて両手で股間を隠した。
「出て行け……」
「私に命令されますか?」
羞恥に震える嶺江に、被さるように冷ややかな声音が落とされた。
かつん、と目の前に磨き上げられた革の靴先が入ってくる。
びくりと顔を上げた嶺江に、彼は小さな笑みを浮かべた。
「そう、人と話をする時はそうやって、視線を合わせることが大事ですよ」
満足げな様子が、嶺江の怒りを呼び起こした。
「出て行けと言っている」
過去、嶺江の命令は両親と兄達以外には常に有効であった。
まして、こんな排泄の場に乱入することなど、誰一人としてありえなかった。
なのに、この男は嶺江の言葉に嘲笑すら浮かべ、あろうことか屈み込んできた。
「出て行きません」
「なっ!」
「私は嶺江様の教育係としてすべてを把握する必要があります」
「きょ、教育係?」
「はい、お見せください」
「何だって、──ひっ」
理解できないままに呆然としている嶺江を、男は両脇に手を入れて引き上げた。
華奢とはいえ十三歳の身体を、男はさほど力をいれた風でもなく持ち上げてしまう。
白いなめらかな肌は、ここのところの心労で少し荒れていた。それを見て取った男の視線が、上から下へとゆっくりと辿っていった。
子供と大人の中間の育ちきらない体躯の、柔らかな膨らみがすらりと伸びた脚へと続く辺りだけが、茶色く汚れているのに気づき、視線を止める。
「ああ、これは。ずいぶんと溜めていたようですね。色も良くないし、悪臭が酷い」
冷静な指摘に、かあっと身体が熱くなる。
医者であっても、そんな露骨な事を言われたことは無い。
「見るな、見るなっ……」
慌てて身体を引きはがそうとするが、掴まれる力が強くなっただけだ。
骨が軋むほどの力に痛みが走り、冷や汗が流れ、荒い息を零す。苦痛に喘ぎ俯く嶺江に、冷ややかな声は容赦がなかった。
「まだ出ますね。全て出し切りなさい」
顔を跳ね上げた嶺江の至近距離で、男が口角を上げる。
「排泄しなさい、と言っているのです」
「お、おまえは、いったい?」
嶺江の口調に怯えが混じった。
男から感じる威圧感が激しい。単なる教育係が持つ雰囲気ではなかった。
人に命令しなれた者。
自分と同等の者が持つ臭いがそこにあった。
呆然と見つめる嶺江に、男は「ああ」と頷く。
「これはご挨拶が遅れました。私の名は、ガジェ・ルイエンと申します」
「ガジェ……ルイエン……ルイエン……」
喘ぐようにその名を呟く。
その姓を何度も聞いた。優しかった兄達が、顔を歪ませ憎々しげに呟いていた名。
「はい、現王カルキス・ルイエンは私の兄。私は第三王子ですが、このたび元リジン領地の領主補佐の任をいただきました」
──同時にあなたの教育係兼世話係を努めさせていただきます。
整った顔立ちに、恐ろしい侵略者の顔が重なる。
「お、おまえがっ、おまえたちがっ!」
優しかった父王と母を殺した。
城に火をかけて、燃やした。
めらめらと音を立てて燃え上がる育った城の光景が、脳裏によみがえる。
瞳が赤く染まったように視界が赤い。
大切な場所を奪った男──っ!
激情に理性を失い、闇雲に振り払った手が、柔らかい何かを引っかけた。
ぱあ────んっ!
意識が飛んだ。
白く弾けたそれに、全てが覆い尽くされる。
けれど、同時に灼熱の炎にあぶられた痛みが、意識をつなぎ止める。
口内に嫌な錆びた味が広がった。
ひくりと震える身体。
悲鳴が口の中に消えたのは、男が向けた氷のような瞳のせい。
「おあいこですね」
至近距離でにこりと笑うガジェの瞳は笑っていない。
氷のような薄い青が、熱を感じさせないままに、嗤う。
訳も判らないままに、全身が総気立つ。
笑顔が怖いなどと、ついぞ感じた事のない現実に、恐怖がさらに増す。
「痛かったですよ」
嘘だと、呟きたいのに、口が動かなかった。
動かせない視線の先にうっすらと赤くなった線がある。さっき引っ掻いてしまったあの傷の変わりが、この痛みだというのか。
おずおずと動いた手のひらが、熱を持った頬に触れた。
触れただけで痛い。
口の中に広がる熱い液体が止まらない。
「い、……たい……」
滲んだ視界の中で、ガジェが首を傾げていた。
「痛い、ですか? そんなに力はいれなかったつもりですが」
そんなに……って。
力をいれなくてこうなら、本気であったならどうなるのだろう?
労るように触れた手のひらの感触が、貴公子然とした姿と似合わなかった。前に剣を巧みに扱う兵士の手を触らせてもらったことがあるが、そんな手のひらだった。
ならば、今は服に覆われていない腕は、どんな力を持っているのか?
「痛いですか?」
再度問われて、おずおずと頷いた。
逆らったらダメだ。
本能が、訴える。
「痛かった……」
「それはすみませんでした、気を付けます」
嗤いながら謝るガジェが怖い。
王族の持つ絶対者としての威圧感と力。それ以上に、得体の知れぬ恐怖が、ガジェにはあった。
この男は、敵だ。
リジンを滅ぼした敵だ。
父と母を情け容赦なく切り捨てた敵。
憎むべきと同時に、精神的に幼い嶺江には激しい恐怖の対象。
がくがくと震える全身をガジェが抱きしめた。絶対的な力を込めた腕からは逃げることは叶わない。
「良い子は叩いたりしないのですが」
あからさまな怯えに、ガジェが苦笑をこぼした。
優しい笑みの裏に、鬼が見える。
母に刃が振り下ろされる時の見た鬼が。
後宮の奥深くで兵に捕らえられた己を助け出そうとした家来達と共に、母は無残に腕を切り落とされ、首を落とされた。
味わう血の味がその記憶を呼び覚ましてしまう。
怒りはあっけなく潰え、力の入らない身体の震えが止まらない。
もとより常に優しく触れられていた嶺江には、脳震盪を起こすほどの頬への衝撃は、それだけで心に大きな傷を作った。
すでに抗う気力などどこにもなかったけれど。
身体がくるりと引っ繰り返され、タイルの上で手をつかされた。
四つん這いな上に、汚物に汚れた尻が剥き出しな事に気がついて、全身が熱くなる。だが、背に軽く手を乗せられているだけだというのに動けない。
恐る恐るガジェを振り返ると、彼はシャワーのノズルを外していた。
「あ、あの?」
「ん」
キュッキュッときしむ音を立てて取り替えられたそれは、直径が十mm程度の棒状のものだ。
「何を……?」
「ああ」
その棒の先に油状のものを塗ったガジェは湯の栓を開けた。先端からあふれ出る程度に湯量を調節し、それをかざして見せる。
「これは粘膜が傷つかないようにですね……」
「粘膜?」
「そう、こうやるんです」
にこり、と唇が弧を描いた。がっしりとした腕が、嶺江の腰を掴む。
「なっ!」
何を、と問う間もなく、ぬるりとした棒が突き付けられたのは尻のはざま。どぼどぼとあふれ出る湯の勢いが油断していたアナルを押し開いた。
「ぎゃっ!」
流れ込む湯が、体内を逆流していく。
それでなくても張っていた腹に多量の水が追加されていく。
「い、嫌だっ、離せぇっ……やめろっ」
入れさせまいと尻に力をいれるが、固い金属の棒はしっかりと押し込まれていて、抜けてくれない。ならば、と、身体を動かそうとするが、力強い腕はびくりともしなかった。
「あまり動くと、ノズルの先で腸壁を破ってしまいますよ」
「ひっ」
恐ろしい言葉が、簡単に動きを封じる。
「ああ、良い子です。そのまま、漏らさないようにね」
「や、やだ……っ、く、苦しい……」
ぐるぐると腹が鳴っていた。排泄を我慢することなど無かった。
「湯はもう止めました、このまま十分程我慢しましょうか」
「む、無理ぃ、嫌だ……何、これ?」
吐き気も伴う気持ち悪さに、アナルの異物感。そして、張り詰めた腹は最初っから痛みを訴えている。
排泄の欲求は、我慢などできないと訴えていた。
「だめですよ、十分ももたないんですか?」
「や、ぁぁ──、出る、出したいぃ……」
腹の痛みに負けていきむと、ぴゅっとノズルの脇から水が吹き出した。
そうなると我慢する気など消し飛んで、力いっぱい息む。
からんと金属の音が響いた。
「おやおや……」
呆れた声音が耳を素通りして行く。
「ん、くぅっ」
ビチャビチャと滝のように吹き出した湯が、排水口脇で跳ね返り尻や足を濡らしていた。
それが終わり、今度は体内の大きな塊がずるり、と降りてくる。
「あ、くぅっ」
「おや、時間が短いから無理かと思いましたが、どうやら出そうですね」
「い、嫌だ、み、見るな」
湯は気にする間もなかった。
だが、今度出てくる物は他人に見られて良いものではない。排泄は見られないことが当たり前の世界で育ったのだ。なのに、いきみたいのを必死で我慢して、懇願してもガジェは笑みを浮かべたまま出て行ってくれなかった。
「やぁだぁ、見るなぁ──」
下腹に走る鈍痛がさらに激しくなった。
我慢できずに、腰を落として力いっぱいいきむ。
しゃがみこんで、腹を圧迫しないようにひざを開いて身体を丸め、手を床について身体を支える姿を、ガジェが楽しそうに見つめていることも気づかないで。
塊がみしみしとアナルを押し開くのを止められない。だが、出てこないのだ。
時々小さな塊が零れ落ちる。けれど、大きな塊はいきみを止めると、すぐに引っ込んでしまった。
「う、うくぅっ、くぅ──っ」
何度も何度もいきむ。
自分のものと思いたくない臭気と、いきみのせいで、軽い酸欠にすら陥った。
そんな中。
「いっ」
喉が悲鳴に震えた。
鋭い痛みに、裂けた感触。吹き出した液が大腿を垂れた。
それでも、いきむのは止まらなかった。
「あ、うっ、ああ──、み、見るなぁ……」
重たい音が浴室に響いた。
続いて、破裂音が何発も響き、ボタボタと塊が落ちていく。
「ひぃ、うん、あくぅ……うう……」
いっそう激しくなった臭気が浴室に蔓延する。
固体の音が液体に変わって、何度も放屁の音が響いた。
なんとか治まった腹痛だったが、今度は激しい羞恥心が込み上げる。
結局ガジェは最後まで出て行く事なく、嶺江の様子を見つめていた。
「ひぃ、く……ひっく……」
込み上げる衝動に訳も判らず嗚咽を繰り返す。
そんな嶺江の汚れや汚物を湯で洗い流したガジェが、嶺江の腰を抱き寄せ耳元でささやいた。
「ああ、泣かないでください。便は出さないと身体には毒ですから。さあ、もう一回洗いましょうね」
「え……」
「はい、挿れますよ」
否──と言う間はなかった。
「うくっ」
鋭い痛みが走り、異物がヒリヒリするアナルを押し開く。
「今度はもう少し我慢できますか?」
優しくささやかれる言葉に首を降る。
まだ落ち着いていない腸が、すぐに活発に動き出してしまったのが判る。
「そう。ならば我慢せずに出しても良いですが……、回数を増やしましょう」
「そ、そんな……」
嫌なのに、抗議の声はガジェの笑顔を見たとたん、尻つぼみに消えて言った。
がくがくと恐怖に震える身体は、まるで操り人形のようにしか動かない。
何度も何度も入れられた湯を、堪えきることなく吹き出しながら、首を振る。
嫌なのに。
この男に逆らえない。
「また夕方に行います。朝晩毎日排泄すること──それが嶺江様が受ける教育の第一段です」
力無くタイルの上に崩れ落ちた嶺江を見下ろして、ガジェはずっと浮かべていた笑みを深くしながら言い放った。
【了】