月明かりの下で(1)

月明かりの下で(1)

第一王子(30)の幼なじみの男女三人の話。変わらぬ日々がいつまでも続きそうな、そんな憂鬱な日々が途切れた時。


 長い会議の後、ケレイス国の第一王子であるヴァルツは執務室に戻ってぐたりと椅子に座り込んだ。
 金にあかせて作った椅子は座り心地は大変良く、浅く体を預けているとこのまま眠ってしまいそうになる。
 それほどまでに精神的な疲労は濃く、長く艶やかな黒髪がほつれ頬をくすぐるのを、鬱陶しく掻き上げた。
「ああ、なんて面倒なことに……」
 ケレイス国は歴史有る強大な国で、それ故に今のケレイスの寝首をかこうという愚かな国は、少ない。
 ケレイスとタメを張ることのできるのは東の大国マゾルデぐらいで、西と南は海、北は氷の大陸。これを越えてまで攻め入る軍事力を持つ国はそう無かった。
 マゾルデとはここ数世代友好的な関係にはあるが、国境近くではたまに小競り合いがある。その地方独特の風土と風習。そんなものに根ざす民族の対立は根が深くて、双方の王ですら御しきれないものであった。
 それでも何とかなっているこのご時世。
 災難は別の所から降って湧いてきた。
 マゾルデとケレイス双方と接するラスターゼ。
 面積にすれば、ケレイスの1/20しかない商業国家だ。なのに、ケレイスとマゾルデ、双方に牙を剥いたのだ。
「面倒なんだから、喧嘩なんかふっかけてくるなよ……」
 目を瞑り、双方の地理関係を頭の中に浮かべる。
 ラスターゼは、三角形の国だ。
 一辺を海。一辺をマゾルデ。そして、もう一辺がケレイス。
「ちっちぇえクセに……強いなんて反則だ……」
 ブツブツと愚痴をこぼして、頭を抱える。
 ラスターゼの厄介なところは商業を生業にしているため、金だけは有り余るほど持っているということだ。田畑は少ないが、この手の国には珍しく人口分は賄えている。何より、海に面しているから、他のあらゆる国との交易も可能。
 当然、その中にはケレイスもマゾルデも含まれているのだが。
 雑貨や鉱石、食料類だけなら問題なかったが、どこかの誰かが戦艦や武器を横流ししているのだ。
 この厄介な小国に。
 儲け話には目が無いこの国が、もっとも手っ取り早く利益を出す海賊行為に走ったとしても驚きはしない。
 そんな輩はケレイスにも存在する。だが、それはあくまで個人の話だ。
 国として海賊稼業に精を出すなどと常識では考えられない。が、ここ最近急速に力を付けてきたラスターゼは、一番手っ取り早い方法だと、その手のことに手を染めたというのだ。
 最近増えた海賊の被害に頭を悩ませて、いろいろと調べた結果、そんな情報が入って来たのが一ヶ月ほど前。真偽の程を十分確かめて、それでも否定できなかった事実。
 それはマゾルデでも問題になっていて、双方の情報が秘密裏に交換された。その結果より、決定的になったのだ。
 愚かな国。
 大国と真っ向からぶつかれば、簡単に滅びるだろう国。
 だが。
「……面倒……マジ、面倒……」
 これ以上国を広げてどうする?
 違う風習、違う民族。
 戦えば、損害は必ずある。国としての海賊行為は止むかも知れないが、今度は残党達がのさばるだろう。国家という後ろ盾を無くし、自暴自棄になった敗残兵達を掃討するのは難しい。
 勝てばラスターゼが手に入る、と、好戦的な意見も有ったけれど、ヴァルツの頭の中に、ラスターゼが益になるという考えは全くなかった。
 その話を聞いた瞬間、「いらねえ……」と思わず呟いたくらいだ。
 もっとも、傍らから投げかけられた冷たい視線に、すぐに口を閉ざしたけれど。
 戦えば騎士達にもその配下にも、犠牲は出る。全くの無傷なんてことは戦には無理だ。そうすれば、泣く人間も多数いて。
 ヴァルツは、人を罰することも殺すことも厭わなかったが、面倒な戦を起こして死人を作るのは嫌だった。
 無駄な戦などしない方が良いのだ。
 だが。
 こうしてため息を零さずにはいられないのは、もう開戦は決まってしまったからだ。
 何せ、すでにマゾルデ国王がにこやかな文体で、ラスターゼに対して宣戦布告をしたいと言ってきたのだ。
 そうなると、こっちの軍務も黙っていない訳で。延々三時間続いた会議は、結局は開戦の方向に流れていった。
 それもこれも。
 会議の流れを思い出して、怠そうにぼやいていた口がきつく歪んだ。
 円卓の会議に集まった面々の内、ヴァルツと同じ頃の年代は少ない。
 その中に一人、ヴァルツの友とも呼べる人間がいた。
 軍務執政副官──ザーンハルト・オム・レンドリア。誰もが振り返るほどの美貌に流れる白銀の髪。濃緑色の瞳は熱をもたず、深い知性のみ表に出す。幼くして国一の学者が絶賛したという知力と記憶力。先祖返りだと言われている言霊の力を持つ男。
 彼が、あろうことか開戦を主張したのだ。
 普段は滅多に口を開かないクセに。
 言霊の力は人を操る。本人がいつだってそれを固く封印しているのは知っているが、他人はそうとは信じない。
だから、よっぽどのことが無い限り、自説を主張する事など無いのに。
 途中から強引に開戦へと話を持って行ったのは気がついていた。
 言霊の力を使わなくても、彼にはそれだけの力があるのだ。それに容易く乗ってしまった円卓の面々が愚かだとは思わない。
 それに軍務執政副官の言葉が、実際問題間違っているとも思わない。
 けれど。 
「判ってるだろうに……何でだよ……」
 戦を嫌うヴァルツを良く知っている筈の幼なじみの冷たい表情が、ヴァルツを打ちのめす。
 幼い頃からずっと一緒にいた。勉強も、遊びも、たいてい一緒にこなしてきたのだ。王子であるヴァルツにしてみれば、数少ない友人だ。
 滅多に口を利かないけれど、心は通じ合っていて、ヴァルツの考えも理解してくれていると思っていた。
 なのに。
 ここしばらく多忙に任せて会っていなかったザーンハルトは、前よりももっと美貌に磨きがかかり、なおかつ冷たさにも磨きがかかっていた。いっそ冷酷とも言えるほどに。
「判ってるけど……。友達だって思ってたのは私だけだって判ってたけど」
 開戦を渋るヴァルツに、ザーンハルトは助け船を出すどころか、確かに言霊を使ったのだ。
『ヴァルツ殿下に、おかれましては、【開戦の意志】を高められますこと……』
 言葉に込められた力。
 ザーンハルトが意識してその言葉を発したことくらいはすぐに気が付いた。だが、逆らえない。
 意志のある言葉は、ヴァルツの弱い心を簡単に覆す。
『……開戦……を』
 それでも変だ、と、ダメだと、途切れがちの言葉を、ザーンハルトは視線で先を促した。
 吸い込まれそうなほどに澄んだ濃緑色。
 いつも綺麗だと思っていた。
 それだけは昔と変わらない瞳に魅入られて。
『決する』
 結局は言ってしまった自分の弱さを、ヴァルツは悔いていた。
 願わくば、自国民が誰も犠牲にならないように。
 愚かな願いを免罪符のように祈りながら、僅かな休息を求めて体から力を抜いた。
 目覚めれば、開戦の準備が始まる。
 でも今は。
 僅かな平穏がいつまでも続くことを叶わないと知りながら願っていた。

 
 
「殿下」
 低い声音に夢が破られる。
 パチパチと数度瞬きし、眩しさに影となった声を掛けてきた人物を見やった。
「こんなところで寝てはお風邪をお召しになります」
 聞き慣れた声だ。
 数年前までは、もっと近くで何度も聞いた声。
「……ザーンハルト?」
「はい」
 誰かは判っていたのに、自信が無くて窺えば、抑揚のない返事が戻ってきた。
「何か用か?」
 この男がここにきた用など判りきっているから、ため息を零しながら、崩れかけた姿勢を戻した。
 ついでのように背を伸ばし、乱れた髪を払いのける。
 この髪が羨ましいと、昔言われたけれど、今でも覚えているのだろうか?
 ようやく光に慣れた視界に、きらめく銀の髪が鮮やかに映えた。
 こちらからすれば、その髪の方がよっぽど綺麗で、素晴らしいと思うのに。
「派遣する騎士団と指揮官が決まりましたので」
 白く細い指が報告書を差し出す。
 貴族の子にしては珍しく騎士にはならなかったせいか、上背はあっても筋肉が少ない。指も女のように細いままだ。弟と血の繋がりがないのではないかと揶揄されるほどに、ザーンハルトは優男であった。
 だが。
「第8と第9から、それぞれ選抜しました。総指揮官はマゾルデとの絡みもありますのでジルダ殿下が。副指揮官に第8のゴーゼルム団長。それから、第1騎士団から私が赴きます」
「……ジルダ……とお前が……」
 名前を聞く度に、ヴァルツの眉間のシワが深くなった。
 ゴーゼルムは良い。
 もともと越境区の警備を行っている第8騎士団の要であるゴーゼルムは、こういう戦には慣れている。しかも、その人柄故か、マゾルデの兵士達にも人気があるという。
「何故、お前が……」
 総指揮官がジルダというのも致し方ないだろう。
 ヴァルツの弟である第二王子ジルダは、並の騎士相手では歯が立たないほどの腕前は持っているし、知恵もある。運の良さでは王族ピカ一。しかも口達者であれば、交渉役も問題なかろう。
 ヘタな総指揮官ではマゾルデに舐められるが、ジルダなら問題ない。
 それにあちらの指揮官の位が高ければ、こちらも相応の者を出す必要があった。
 身びいきではなく、その点は十分な能力があると買っている。
 だが……。
 見上げる先で、ザーンハルトは何も窺えない顔で淡々と返した。
「この戦は重要です。大国マゾルデとの交渉は、慎重に進めなければなりません。それを鑑みた結果、私が適任であろうと、円卓会議満場一致で採決されました」
「う……」
 嘘吐け。
 言いたかった言葉を飲み込む。
 ヴァルツが席を立った後、どんな会議風景になったかなど簡単に想像できた。
 もっとも、この男が適任だということは、ヴァルツも否定はできなかった。常であれば、異論を唱えることはしない。
 円卓会議の結果に異論を唱えてどうなるというのか?
 ただ、面倒になるだけなのに。
 けれど、問題が一つだけあった。
「何か?」
「何でもない」
 窺うザーンハルトに、平静を装って返したが、口元が歪むのは避けられない。
「それで、他には?」
 ジルダとザーンハルトが一緒に。
 あのジルダ……。
 聡明で溌剌としたジルダは、民にも人気が高い。
 もとより、王族だと言うことを鼻に掛けない輩で、したいように振る舞い、惜しみなく皆に愛情を振りまく。
 そう、愛情を……しかも男にも女にも。
 惜しみない彼の愛情を注がれた者は、そろそろ三桁を越えたと聞いているけれど。
 そんな男とともに、ザーンハルトが戦場に赴くなど、王代の権限を用いても阻止したい。
 何しろザーンハルトはジルダの好みに合致しているのだ。
 もっともそんな事を今言えば、子供じみた我が儘だとこの男に一笑に伏されるだろう。
 それもまた──可能な限り、避けたいことだった。
?
2
 不安と矜持とに板挟みになって、悶々としながらどうしたものかと考えを巡らせる。
「続きまして、編制編成なのですが……」
 そんな中、報告書を指し示すザーンハルトが、前屈みになった。
 白に近い銀の髪が、ヴァルツの黒い髪と交じり合う。
 微かに匂うのは、艶出しの香料だろうか?
 甘い香りに、ふわりと体が熱を帯びた。
 こうしてみると、変わりはないというのに。
「殿下?」
 ぼんやりとザーンハルトの横顔を見つめていたら、訝しげに声をかけられた。
「ん?」
「お聞きになってませんね」
 小さく零されるため息。
 その音がもっと艶を帯びる時を想像して、熱はさらに高まった。
「殿下……?」
 訝しげな声音が珍しい、と微笑む。いつもと違うザーンハルトは本当に珍しくて、もっと慌てさせたい。
「ザーン……」
 幼い頃のように呼びかければ、僅かに眉間にシワが寄った。互いに政務に就くようになってからは呼ばなくなった名だ。
「話があるんだ、今宵私の寝室に来て欲しい」
 熱い期待を込めて乞う。
「私にですか……? 今ではダメなのですか?」
 判っているのだろうか? それとも気がついていないのか?
 ザーンハルトの表情からは何も窺えない。
「今でも良いが……。ここは、いつ誰が来るとも判らないからな」
「私は構いませんから、どうぞ」
 動揺など微塵も窺えない表情が憎らしい。
 判っていないのか、と、宙に浮いた誘い文句が哀しくて臍を噛む。
 どうしたものかと逡巡して、次の一句を紡ごうとした途端、先を越された。
「それに、最近紅玉殿に行かれていないと、妃殿下がお嘆きになっておられます。夜はお忙しいでしょうから」
「え……」
 まさかそこでその名が出るとは思わなかった。
「何で、お前が……」
「先日、呼びつけられまして。暇だと騒いでおられて、どうにかしろ、と……」
 その時のことを思い出したのか、ザーンハルトの眉間のシワがより深くなった。ヴァルツの眉間はそれよりもっと深くシワを刻む。
 甘い期待など儚くも消し飛んだ。
 妃殿下──セルシェにはザーンハルトもヴァルツも弱い。
 幼少から、彼女には二人とも頭が上がらないのだ。
 窺いにくい表情の中、それだけははっきりと判った責める視線に、憂鬱さを滲ませながら頷いた。
「……判った。何とかする」
「それで、お話とは」
「もういい……」
 ザーンハルトのひと言は、期待に膨らんだ心を呆気なく弾けさせた。しかも、冷たい水を頭から浴びせさせられたようなもの。深いため息を吐いて、情けなく首を振った。
 それに、仕事の流れで話をしても、適当に流されそうだった。
「それより、用件を続けろ」
「はい」
 冷たい態度の持ち主は、それから淡々と用件のみをこなしていく。
「判った。好きにしろと伝えろ」
 受け取った書類に花押を記し、突き出すように渡せば、黙礼をするだけで受け取った。
 恨みがましく見つめているのは判っているはずなのに、その背が冷たく全てを拒絶する。
「はあ……」
 無情に固く閉められたドアが、彼の拒絶を示している。流れる銀の髪の光跡が目に焼き付いている程なのに。
 そんな彼に、思い切って告白したのは、一年ほど前のことだ。
「好きだって……言ったのに。無視だもんなあ……。」
 一世一代の愛の告白。
 一生懸命手順を考えて、雰囲気を盛り上げて。
 恋の話もたくさん読んで、召使いからいろんな話を聞いた。
 それこそ、一生分は勉強したと思う。
 あんまりたくさん本を読んでいたら、ジルダが呆れて「面倒くさがりの兄上とは思えん」と額に手を当てていたが、気になどならなかった。
 ザーンハルトをこの手に入れるため、ただそのためだけに頑張ったというのに。
 無言と冷たい視線で返されて、そのまま無視された痛手は消えていない。
 あれから諦めたわけではないけれど。
 それでも彼の前に出ると、勇気が出ない。
 けれど、今度ばかりは怖じ気ついてばかりはいられなかった。今度の任務は、ジルダと常に共にいるようなものだ。百戦錬磨のジルダの手にかかれば、ザーンハルトですら難なく落とされそうな気がしてならない。
 そんな事になったら、と思うと、いても立ってもいられなかった。
 けれど。
 ジルダ以上に厄介なセルシェがザーンハルトを呼び出したとなれば、彼女の退屈度合いも最高なのだろう。
 さすがのザーンハルトも口実でそんな事は言いやしないだろうから。
「面倒くさ……」
 紅玉殿で彼女の相手をする大変さは、ザーンハルトの同情を買うほどだから。
 今日の所は完敗。
 諦めて、仕事に精を出すしかなかった。
「ねえねえ、それで少しは進展有った?」
 暇を持てあました女性ほど、厄介な代物はない。まして、紅玉殿に住む妃と呼ばれる女性は、滅多なことでは外には出られない。せいぜい美しく飾られた庭園を散歩し、書庫で読書し、楽器を奏でるくらいしか楽しむことがない。となれば、その退屈度合いは、他の者達の比ではなかった。
 だからこそ、足が遠のいていた紅玉殿で、ヴァルツは頭を抱えていた。
「……何もない」
 判っているだろうに、人の傷口に塩を塗るように問う。
 豊かな栗色の髪を巻いて肩に垂らし、浅い海の色の瞳を好奇心に輝かせているヴァルツの正室は、いつまで経っても好奇心旺盛だ。
「やっぱりねえ……。あのザーンが何か返してくれるとは思えないもの」
 可笑しそうに、けれど幾ばくかの同情を込めた声音が、余計にヴァルツを惨めにする。
 このセルシェは、ヴァルツの乳母の娘だ。
 幼い頃から一緒に遊んでいて、数少ない本音の言える友人だった。
 成長して、王位継承者であるヴァルツに正室の話が持ち上がった時、ヴァルツは速攻でセルシェを選んだ。
 このときばかりは、ザーンハルトの力にも頼った。
 セルシェの家系は王族に繋がっていたし、親戚に強い発言力を持った貴族がいたのも幸運だった。
「そういえば、この前ザーンを呼んだんだって?」
 昔から猫を被らせれば上手だったこの女の本性を知っているのは、ヴァルツとザーンハルトだけだ。
 そして、ヴァルツの恋心をいち早く気付いていたのもセルシェだけだった。
 だからこそ、彼女はヴァルツの正室の話に乗ってくれたのだ。
『可愛い弟たちのためだもの』
 あの時は心底感謝したけれど。
 今となっては、人選を誤ったかも、と後悔の念が湧き起こる。
 けれど。
 どう足掻いても、セルシェ以外にヴァルツに相応しい妻はいないのだ。
 人当たりが良く、度胸も有り、何事にも寛大で、知性も十分な娘を貴族から探し出すのは難しい。まして、遅らせれば遅らすほど、別の国から妃候補が大量にやってきて、断るのに苦慮することになる。
 セルシェが候補に挙がった時、そういう選択肢もあったのかと驚喜したのはヴァルツの方だ。だからこそ、速攻で申し入れ、即答してくれた時のセルシェの唯一の望みが、『紅玉殿にはザーンハルトも入れるようにしてね』だった。
「だって、そろそろ何か進展があったかと思ったんですもの……なのに、ザーンは、相変わらずの仏頂面でさ……面白くないったらありやしない」
「何にも無いって……。というより、あいつ、また冷たくなってんだけど。セルシェが何か言ったんじゃないのか?」
「あらぁ、私は何も。ただ、殿下は最近忙しそうなんだけど、会っていないの? って聞いただけなんだけど」
「で?」
「知りませんって……。でも、なんだかご機嫌は悪かったようなのよ。ちょっとだけ目が細くなってたから。殿下が何か怒らせたのかと思ったけど」
 そんな僅かな変化を見抜くとは。
 呆れて見やるが、それもことれもセルシェだからだろう。
 ヴァルツも同じくらいザーンハルトと付き合ってきているが、ちっとも判らない。
「怒らせる以前なんだけど」
 綺麗で判りにくい横顔を思い浮かべ、行儀悪く机に頬杖を突いて、ワイングラスを傾けた。
 芳しい香にしばし意識を傾ける。
「ああいう性格の人間は、押し倒しちゃった方が良いと思うけど?」
 不意にセルシェのあけすけな進言が聞こえて、口に含んだワインに咽せた。
「……っ! 押し倒すって……?」
 吹き出しかけたワインを手の甲で拭い、愕然と見やる。
 どこか遠い目をしたセルシェの口元が楽しそうに笑みを浮かべていた。
「だって、ザーンって雰囲気に乗ってくれるような感じじゃないもの。とにかく既成事実ってのも良いかも」
「……それは……」
 実を言うと考えていない訳ではなかった。
 それも手かも、と思ったのは、遠い過去ではない。
「でもさ……もしかするとその点も警戒されているのかも知れない」
 寝室と言ったから、拒絶されたのかも。
 だが、ザーンハルトと二人だけで話をし、しかもいっそのこと事に及べる場所はそうそう無い。
 昼間の執務室など論外だし、夜でも寝るまでは召使いが近くに控えている。人払いすれば良いだけかも知れないが、寝室という言葉で拒絶されたのなら、もっと警戒されるかも知れない。
「参ったな。こうしてみると、なかなか無いな」
 一人暮らしというモノに昔は少しだけ憧れたこともあったけれど。あのころの思いが再燃する。決して叶わぬ夢だったが、どこかで一人になれる場所はやっぱり必要だ。
「こうしてみると、ジルダがどこかに隠れ家を持っているのは当然かも知れないか……」
 自嘲の笑みを浮かべて、弟の奔放ぶりを羨む。
「あら、殿下も作れば?」
 事も無げに言うセルシェに首を振って。
「ジルダより籠の鳥だからね」
 一人では何もできない。
 何もさせて貰えない。
 今回の遠征でも、本来なら自分が行きたかった。
 ジルダではなく、自分で指揮を執って。そうすれば、ザーンハルトと共にずっといられたのに。
 けど、それは決して叶わぬ夢。口にしてもどうしようもないから、諦めて。
「言ったって無駄だもんな……」
 どうせダメだと判っているから、口論するのも面倒でしかない。
「殿下の悪いところね。やる前から、いっつも諦めが入っているとこ」
 つんつん額を突かれて、苦笑を返す。
「判っているけど」
「私を手に入れた時の殿下は格好良かったけど、あの時の苦労はしないの?」
「あの時は勝算があったからね。でも今度は……何せ、難攻不落の砦に巣くう敵より厄介で」
 ぼやいた途端に、思いっきり吹き出された。
「私はそうでもないと思うんだけどね」
 何を根拠に、と睨み付ければ、意味ありげに微笑まれる。
「私はずっと待っているのよ。ザーンハルトがこの紅玉殿に部屋を構えてくれるのを」
「え……」
 初めて聞いたその要望に、ヴァルツはグラスを持ったまま硬直した。
 ザーンハルトの部屋を紅玉殿に?
 それは、つまり。
「ザーンハルトを側室に迎えろってことか?」
 正室がいるから、次にできる部屋は側室用になる。
 そんな事はさすがに気が付いて。
「あら、ザーンハルトなら歓迎するわよ。でも、他の娘なら、いびり倒して出て行かせるけど」
 にっこりと口元は笑う。だがその双眸は笑っていない。
 ぞくりと生半可ではない寒気を感じて、ヴァルツは顔を引きつらせた。
「入れるわけ無いじゃないか。セルシェがいるのに」
 もとよりそんなつもりはないけれど。
 正室争いに破れた大臣達の間から、側室を、と未だに言ってくる。
「まあ、そうなったらしばらくはこの退屈もしのげるわね」
 楚々とした娘の本性は気位の高い山猫で毎夜のように爪を研いでいると、何も知らない大臣達に、いっそのこと教えてやりたい。
 そうすれば、きっと断るのが楽だろう。
 ふっとヴァルツは思い描いて、けれど無理だと首を振った。

?
3
 戦の準備は大急ぎで進められていた。
 いざ事が始まってしまえば、優れた側近達に囲まれた王代など花押を記すための存在でしかない。
 ヴァルツ直属になる軍務と文務のそれぞれの筆頭副官達が束で持ってきた書類の説明を聞いて、次々と決済していく。中にはどうでも良いような書類まで含まれていて。
「出陣式の演説の順番……って、こんなの勝手に決めればよいだろうっ!」
 執務室の机から動くこともままならないほどの仕事量に苛立ちを募らせて、机を思いっきり叩く。
 ひらひらと数枚の紙が宙に舞うのを無視して、ヴァルツは軍務の筆頭副官であるザーンハルトを睨み付けた。
 だが、どんなに強く睨んでも、ザーンハルトが返す声音は相変わらず抑揚がない。
「演説の順番は貴族にとって大変重要ですので、殿下の花押があると後々揉めることがありません」
 至極まっとうな理由に、判ってて言ったヴァルツは言葉を返せなくなった。さりとて、このまま黙ってしまうのもシャクに障る。
 だが、相手が他の誰かなら何とかなるが、ザーンハルトだと無視されるだけだ。結局、文句を言うのも面倒だと、黙って手だけを動かすしかなかった。
 それでも何か反発したくて、あら探しでも何でも良いから、と書類をぱらぱらとめくる。
 と、すぐに目的の物を見つけた。
 こんなところに有ろう筈がない物。
「……では、こっちの花束の請求書は何だ?」
 ムスッと唇を尖らせて、少し小さめの見慣れた花屋の名前が書かれた書類を突き出す。
 少なくもとこれは正式な書類とは思えない。
「……花屋の請求書ですね」
 さすがに、これにはザーンハルトの物言いも僅かに詰まった。けれど、伏せられた視線がまたヴァルツに向けられた時には、もう元の抑揚のない声音になっていた。
「これは、先ほど紅玉殿にお届けした水蘭の花束代でございます。受け取っていた書類が紛れてしまったようです。申し訳有りません」
 少しも申し訳なさの伝わらない表情。だが、そこを突っ込む前に、「紅玉殿」という言葉の方にヴァルツは反応した。
「……何で……紅玉殿にお前が花束なんぞ」
「水蘭は、セルシェ妃殿下のお好きな花ですので」
「それで?」
 何か嫌な予感がした。
 とっても大事な何か……を忘れているような。
「本日は殿下が妃殿下に婚約を願い出た記念日でございますから」
「あああああっ!」
 忘れてたっ!
 ずいぶん前に約束した記念日の一つ。
 ここ数日のあまりの仕事量に完璧に記憶から消えていた。
 思わず雄叫びを上げて天を仰ぎ、ついで突っ伏したヴァルツに、ザーンハルトは淡々と進言する。
「本日は夕刻から内輪に祝いの宴を開きたいと言われておりましたが、あいにく私は参加できませんので、花をお贈りし、お詫びを……」
 ザーンハルトの単語、一つ一つが突っ伏したヴァルツに鋭い刃となってぐさぐさと突き刺さる。
 退屈嫌いのセルシェが、退屈しきっているのだから、その宴に参加しなかったら何を言われるか。まして、あれだけ言われていたのに忘れていたなどと……。
「もっと早く教えろっ!」
 一人だけ抜け駆けして花を贈るなど。
 恨みがましく見上げれば、それは綺麗さっぱり無視された。
「申し訳ありませんが、書類はまだ残っております。どうか、ご決済を」
 指し示された書類の束は、気のせいかまた増えているような。
 じいっとその束を見つめ、それからザーンハルトを見つめ。
 深いため息を零して、ヴァルツは席に着いた。
「後で、ルランの店主を呼んでくれ。適当な物を見繕って持ってくるように」
「かしこまりました。では、こちらもお願いします。
 馴染みの宝石店の名を出して乞う。
 見返りだといわんばかりに出された書類の束が、夕刻のその時までに終わるとは思えないけれど。
「お前は、行かないんだな……」
「はい、仕事が終わりません」
 端的に言われ、ヴァルツは「そうか」としか言えずに、後は黙々と花押を記していった。

 

 難攻不落のザーンハルト。
 この思いを成就させるためには、どんな苦労も厭わない──とは思っているけれど。
「いい加減にしてくれ」
 目の前の華やかな衣装に身を包んだ今夜の主役は、可笑しそうに笑っていた。
 その視線に満ちた好奇の色は、絶対に隠せないと思うのに、どうして誰も気付かないのだろう。
「だって、退屈なんだもん」
 人払いをして誰もいなくなった途端、このわがままっぷり。
 今日の宴も、ヴァルツをからかうための物だとは気が付いていた。それでも無視するわけにいかない。
 このセルシェを怒らせれば、もっと邪魔をされることは判りきっていたからだ。
 傍らの机に、ザーンハルトが贈った水蘭の花が花瓶いっぱいに生けられていた。その横に置かれた繻子の布に包まれた耳飾りは、最初は確かに悦んでくれたが、今は完全に無視されている。
 それもこれも。
「最近、ことごとく貴女をダシにして、ザーンハルトに避けられている」
 ふっと頭に浮かんだそのままに口にした途端の、セルシェの大爆笑。
 そのツボにハマったと言わんばかりの笑いに、ヴァルツは呆然とし──そして数十秒後、気が付いた。
「……狙ったな……」
 ヴァルツがセルシェには弱いことを知っているのは、何もザーンハルトだけではない。
 当然、この当の本人も知っているわけで。
「あはっ……今頃気が付くなんて──もう少し頭は使った方が良いわよ。未来の陛下?」
 肩を震わせ、苦しそうに言葉を紡ぐセルシェの言葉に、ヴァルツの苦渋に満ちた表情はさらに歪んだ。けれど、セルシェの性格が判っていて気付かなかった愚かさにも気が付いていて。
「いい加減にしてくれ」
 繰り返される言葉もだんだんと弱くなる。
「でも、私だって、邪魔しようと思っている訳じゃなくてよ。ただ、退屈だから、二人を呼んでいるだけ。それを殿下への言い訳に使っているのはザーンハルトの方だもの」
「それも判ってはいるけどな。元凶が貴女だと思うと、文句の一つも言いたいではないか」
 切れる男は、セルシェが何も言わなかったとしても、ダシに使うだろうけど。けれど実際に何かを言ったら、ザーンハルトの言い訳にも信憑性が増す。まして、ヴァルツもその言葉を無視するわけにはいかない。
「でも、やっぱりザーンってば殿下のこと避けているわねえ。前より酷くなっているわよ。一年前なら、どんなに忙しくてもちゃんと宴の最中にやってきて、ひと言だけでも面と向かってわびを入れていたのに」
 ひとしきり笑って落ち着いたのか、今度はやけにしみじみと水蘭を眺める。ヴァルツもつられるようにその月の色をした花を眺めた。
 水蘭は、湖のほとりに咲く花だ。
 まだ幼い頃みんなで避暑に行った先の林に囲まれた湖で、セルシェが最初にこの群生を見つけた。呼び寄せられたヴァルツ達ですら、しばし言葉を失ったほどの華麗さだった。
「あのころに戻りたい……な」
 身分の差も何も関係なかった頃。
 屈託無くザーンと呼んでいた頃が懐かしい、としみじみと呟けば、セルシェも同調したのか、寂しそうに微笑んだ。
「いずれはこうなると判っていたのよね。いつかは、殿下とは離れなければならない。こんな風に遊べるのは今だけ。私もザーンも、ずっと言い聞かされていたから」
 繰り返し繰り返し。
 一緒に遊ぶたびに周りの大人達に言い聞かされて。
 それこそ耳にたこができる程になった頃、セルシェ達はそれまで呼んでいたヴァルツの名を「殿下」と変えた。
 子供ながら、乗り越えられない身分の差を理解した時だった。
「私は寂しかったよ。なんだか二人が、二人だけで遠くに行ったようで」
 呼び名以外は変わらなかったけれど。
 二人にそう呼ばれた時の衝撃は今でも覚えている。
 泣いてしまいたいほどに──実際その夜は泣き疲れて眠ったほどに泣いてしまった。
「それでも、三人だけの時は態度も変わらなかったし、良かったんだけどな」
 年頃になって妃にセルシェを選んだ時、それまで変わらなかった関係が少しだけ軋んだ。
 それに気付いたのは、セルシェが紅玉殿に入ってからしばらくは経っていただろう。
 気が付けば、遊びには来なくなった。
 セルシェには呼ばれれば来ているクセに、ザーンハルトの呼び出しは政務に関わることでなければいろいろと理由を付けて断られる。
 その内に、頑なに距離を取り始めたザーンハルトにヴァルツは焦ったのだ。
「どうやっても捕まえたかった。会わない日が続くと、会いたくて堪らなくなった。だが……」
「だから、私のせいだけではないからね。たまたま私を理由にするのが、殿下に一番効くから。けれどあのザーンなら、たとえどんな理由であっても正当性を持たせてしまうわよ。ザーンの賢さは殿下も十分ご存じでしょう?」
 それを言われるとどうしようもない、とヴァルツは口元を歪ませた。
 口も態度も、どんなふうにすれば一番効果的か判っているのだ、あの男は。
「けれど、そろそろケリを付けた方が良くなくて?」
 さすがに神妙な口調になったセルシェに、ヴァルツも頷いた。
 時は刻一刻と過ぎていく。
 ザーンハルトが忙しいと言っていたのはただの口実ではないのだ。
 ヴァルツがこうやって愛妃と睦み合っている──と思われている間も、準備は急ピッチで進められていた。
「出陣の儀は明後日ですって?」
 柳眉が顰められ、暗い声音が静かに響く。
「ザーンハルトが急がしている。予定通り進められるだろう」
 ここからラスターゼまでどんなに急いでも二週間はかかる。
 その間、前線で何も無ければよいが、それは甘い考えだろう。すでに時折小競り合いじみたものが発生するという報告もあった。
 マゾルデはすでに軍を向かわせているはずだ。
「国内の不穏分子も何か企んでいるようだ。警備の手を強めてはいるが」
「先日も城内に侵入者がいたそうね。ジルダ様が倒してしまわれたとか?」
 騒ぎは紅玉殿まで広まっていたか、とヴァルツは苦笑した。
「手加減ができなかったと言っていたが、どうやら事の真っ最中に忍び込まれて、余裕が無かったというのが真相らしい」
「どうせ、双方が忍ぶのに適した場所で楽しんでおられたんでしょう? 見つけたのは、荷入門の近くだとか」
 脳裏に浮かぶ城内の地図に、ヴァルツは顔を顰め、セルシェはくすりと忍び笑いをした。
「出発間近なので、ジルダ様も心おきなく楽しんでおられるよう。殿下もお見習いになられたら?」
「……私にジルダの真似をしろ、と?」
「器量だけなら殿下もジルダ様も同程度だと思うのですが……」
「誰でも良いなら、私とて苦労はせぬ」
 弟ながらあの無節操さにはついていけない。
 女性一人御し切れぬ己を知っているから、あんなに何人も付き合いたいとは思わなかった。
 まして、焦がれて止まない相手がいるというのに。
「あら、私が言いたいのは、押して押して押しまくれ、ということですよ」
 さらりと言われたセリフに、ヴァルツは酒を吹きだした。
「な……」
「何せジルダ様はこれと思った相手は、とにかく口説いて口説いて口説き落とすとか。その手際の良さは目を見張るものがあると言われていますし」
「……悪かったな」
 口説いて口説いて、思いっきり口説いているつもりなのだが、つい遠慮が入ってしまう自分に比べたら、確かにジルダの押しの強さは見習うべきかと思うけれど。
「あのザーンハルトを口説きまくって成功すると思うか?」
「ジルダ様なら、可能かも知れませんわね」
 意味ありげな笑みが、ヴァルツの心中に堪えきれない焦りを生み出す。
 何よりそれは、指揮官がジルダでザーンハルトが一緒だと聞いた途端に思ったことだ。
「もう後二日ですわよ、殿下」
 多分に揶揄が込められた言葉は、ヴァルツの焦燥を煽るのに十二分な威力を持っていた。

?
4
 宴が終わり、早々に寝室に戻ったヴァルツは堪えきれない衝動を収めようとグラスに酒を注いだ。
『ザーンハルトとジルダ様は意外にお似合いかも』
 セルシェの言葉は明らかに揶揄だと判っていた。
 けれど、モノにできない苛立ちは、そろそろ限界が来ている。
「一年だぞ、一年っ!」
 琥珀色の強い酒を水のように飲み干し、熱くなった体を持てあまして上着を剥ぎ取る。
 中から現れた均整の取れた小麦色の肌が僅かな月明かりの中、淡く輝いていた。
 うっすらと朱を帯びた目が夜空で淡く輝く細い銀の弓を見上げる。
「嫌われたくないって思うのは当然だろうがっ。なのに、それを逆手に取りやがってっ!」
 昔から大事な存在だった。
 姉のように慕ったセルシェとともに、弟とも兄とも思っていた。
 勉学に注力したせいか、体力は今ひとつのザーンハルトは護ってやりたいと思う存在だった。
 それがいつから変わってしまったのか。
 ヴァルツ自身、よくは覚えていない。
 ただ、気が付いたら、欲しい、と思うようになっていた。
 少年から青年へと成長する彼の姿を見つめると、胸の奥が甘く疼いた。細い体を抱きしめたいと欲した。次第に激化していく欲求は留まるところを知らず、いつしか柔らかな褥に細い体を沈め、冷酷に引き結ばれた唇を貪りたいとすら思うようになって。
 妃候補選びが本格化した頃、夢を見た。
 あの水蘭の群生地の傍らで、柔らかに苔生した大地に横たわったザーンハルトは何一つ身に纏っていなかった。
 日に晒さない肌は淡い象牙色で、鍛錬をするわけではないのに無駄な脂肪など無い。
 怯えと驚愕が入り交じった表情で、ヴァルツを睨む様は、はっきりと下腹部を滾らせた。
 触れれば、辛そうに身悶える。
 想像のザーンハルトは嫌がりながらもそこは難なくヴァルツを迎え入れ、柔らかく自身を締め付けてきた。
 激しく穿てば、滅多に変えない表情がはっきりと快楽に歪んだ。堪えきれないとばかりに開かれた唇の間から朱色の艶やかな舌が覗く。堪えきれないあえかな嬌声が耳を犯し、もっと聞きたいと獣のような激しい欲望に突き動かされた。
『ヴァルツ……』
 長い間聞くことが無かった呼び名。
 今の声でその名を呼ばれたいと、何度願ったことか。
 歓喜の渦に巻き込まれ、感動に身を震わせたその時。
 呆気なく夢は覚めてしまったけれど。
 夢だと知った時の寂しさは、二度と味わいたくないものだった。
 なのに。
 未だに夢を見る。
 いや、夢でしか見られない。
 ザーンハルトへの思いに気付いた時から、ヴァルツの我を張った行動は全てそのためにあったようなものだ。
 セルシェを妃にしたのも、ザーンハルトが実力があったにせよ軍務執政副官にしたのも。
 そのためには、面倒くさがりのヴァルツではあっても、労力は惜しまなかった、けれど。
 副官に就いてから仕事が理由になり、セルシェが紅玉殿に入ってからは、それも理由になり。離れていくザーンハルトに気が付いて、慌てて一年前に告白した。だが、その返事を貰えることもなく、さらに二人の間は広がっていく。 なにより、あれから政務で二人きりになることはあったけれど、個人的にはなくなっていた。
「嫌で避けるくらいなら、さっさと引導を渡せば良いんだっ!」
 元来短気なヴァルツは面倒は嫌い。
 何もしないで済むなら何もしない。けれど、どうにかしたかったら、一番単純な方法を使う──無理強いして押し通すか、さっさと押し倒してしまう方が性には合っているのだ。
 だが。
「はあっ……」
 好きな相手に乱暴をする気はない。
 もともと理由もなく他人を傷つけることは嫌いなのだ。
 無理に押し倒しでもしたら、ザーンハルトは傷つくだろう。王子であるヴァルツが命令すれば、体は開くだろうが、心は手に入れられない。
 それを考えると、思うようにはできない。
 矛盾を生む自分の性格が恨めしい。
「くそっ」
 このまま目の前からザーンハルトが消える。
 あの冷たい表情のまま、さよならも言わずにいなくなるのが簡単に想像できた。
 そう思うと、体を熱くしていた酔いも急速に醒めた。
 細い月は薄雲がかかってさらに細くなったようで、ヴァルツの体を闇に忍ばせる。
 しばらくそれを眺めていたが。
『月のない夜は窓辺には近づきませんように』
 そんな闇夜より、冷え冷えとした声音を思い出し、ヴァルツはため息を一つ零すと室内へと戻った。
 
 
 何とも言えないモヤモヤとした胸のつかえがいつまでも取れない。
 どうにかしたいという思いは日ごと募るのだが、何せ今は開戦を控えた重要な時期だ。それを放って色事にかまけている暇は無く、そしてザーンハルトはその中心人物だった。有る意味、王代より忙しいザーンハルトは一刻も自由な時間が無いようで、彼を捕まえることがなかなかできなかった。もっともたとえ会ったとしても、なんと言って良いのか、ヴァルツには全く判らない。
 今日も銀の髪をなびかせて小走りで去っていく後ろ姿を見かけただけだ。いつもは堂々と歩いている姿しか見ないから、それだけ気が急いているということだろう。ザーンハルトにしては珍しいことだった。
 そんな姿を知ってしまったら、声も掛けられない。
 滅多に話をしなくても、彼が懸命に仕事をこなしているのは知っていた。
 国のため、民のため。
 最高の装備、最高の軍師、最高の戦略。
 金で勝てるのなら、金を惜しまない。
 知恵で勝てるのなら、精一杯の知恵を絞ろう。
 ザーンハルトの知識は、書籍や学者からだけのモノではない。
 時折姿が見えないと思ったら、他国にまで軍師に教えを乞いに行っていた。知識を得るために労力は惜しまないからこそ、彼が持っているのは生きている知識だ。
 国のため、役に立つ力──その力は、今回の戦でもきっと役に立つだろう。
 それは判っている。判ってはいるけれど。
 昼食の後、ヴァルツは消せない苛立ちを少しでも解消しようと、王城の中庭に出た。
 少し奥まった場所にある箱庭には、今の季節色とりどりの花が咲いている。花を愛でる趣味はあまりないが、それでも心和む風景であることは間違いない。
 心地よい風が、芳香を運んでくる。
 香りの元の白い花はバラの一種だとは聞いたことはあったが、何度聞いても名前は覚えられない。
 それよりもその奥を、とヴァルツは足を向けた。
 豊かな清い水を湛えた噴水には、湿地に咲く花を集めてある。
 その中に水蘭が有ったはずだった。
 豊かな水辺に生える水蘭の原種。
 先日セルシェの所にあった水蘭より、もっと小さいが、それでも美しさはひけをとらない。花瓶の花があれだけ見事だったことに、開花の時期が今頃だったことを思い出したのだ。
 だが。
 噴水の水音が聞こえ始めた頃、人の声も同時に聞こえたのに気が付いた。
 最初は水音に邪魔されたが、すぐに鮮明さをもって聞こえてきた。
「……ジルダ?」
 小声で呟いて、眉を顰めた。
 こんなところで逢い引きでもしているのか?
 可愛い弟ではあるが、あの腰の軽さだけは相容れるものではない。まして、今回の悩みの大半は、あのジルダの性癖が原因なのだ。
 微かに聞こえてきた甘ったるい声音に、歯の浮くようなセリフ。
 どう聞いても口説き文句だと気付いて、ヴァルツは無性に邪魔をしたくなった。
 たまには失敗して凹めば良いんだ。
 目を伏せて暗く責める。
 へこたれて、落ち込んで──目の前の戦局だけを考えてくれれば良い。
 それがお前の役目だ。お前しかできない役目。ザーンハルトにかまけてなどいられないように。
 私が、ザーンハルトから離れたこの場所で采配をふるわなければならないように。
 淡い期待と好戦的な感情を胸に、ヴァルツは声のする方に足を踏み出した。
 近づくに連れ、前よりはっきりと聞こえてくる声。
「その銀の髪、触って良いか?」
 甘い声音に虫ずが走ったが、それ以上に『銀の髪』という単語にびくりと足が止まる。
 木陰に見える黒髪は、愛すべき弟だろう。
 だが。
「かまいません」
 抑揚のない声。
 陽光を浴びて煌めく銀の髪にジルダの指が滑り込む。
 さらさらと流れる銀糸のような髪の持ち主は、容易に想像できた。
「細いな。絹糸の手触りだ。いつも思うが、ヘタな絹織物よりずっと触り心地が良い」
「ありがとうございます」
 ジルダに話しかけられて、他の誰がこんな抑揚のないしゃべり方をするだろうか?
 それに、この場所まで入ってこられる美しい銀の髪の持ち主は少ない。ヴァルツが知っているのは、二人だけだ。
 一人は、考え出せばいつだって狂おしいほどの熱い思いを持てあますことになる相手。もう一人はその弟。
 けれど、感情の窺えない声音──少し低い声音は、聞き間違えようもなかった。
 弟の方であれば、もっと快活に豊かな感情を込めた声音を出す。
 硬直しているヴァルツが見つめる先で、ジルダが手慣れた仕草で掬い上げた髪に口付けていた。
「いい香りだ」
「花の移り香です」
「似合っている」
 くすりと笑んだジルダに向けて、銀の髪の持ち主がふわりと頭を傾けた。流れる髪の間から、見慣れた横顔が覗く。細い線が判った。
 似ているとは思えない兄弟の兄の方──ザーンハルトだ。
 ぎゅうっと心臓が引き絞られて、思わず固く握った拳を胸に押し当てた。
 息が、苦しい。
 喘ぐように呼吸を繰り返す。
 何なんだ、その雰囲気は……。
 鮮やかな花の色と香りが甘く二人を包んでいる。ひげ面の体格の良いジルダの傍らにいるザーンハルトは、線の細さも手伝って儚げな雰囲気があった。
 その表情すら見なければ、若干俯き気味の様子が、恥じらっているようにすら見えた。
「素っ気ないなあ……。まあ、褥では可愛いから良いけどさ」
 しとね……?
 聞き慣れているはずの単語が、頭の中で疑問符と共に駆けめぐる。
 ザーンハルトが微かに顔を動かした。濃緑色の瞳が細められ、ジルダを見つめていた。その様子に、ジルダが笑い出す。
 くすくすと耳元で笑い続ける様子も、そんな相手からくすぐったそうに逃れるザーンハルトの眉を顰めた表情も、何もかもがヴァルツの脳をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。どどめ色の渦巻きと化した思考は、どんな情報もごった煮状態にした。
 それでも、まだ堪えていた。
 あれはジルダ特有の口説き文句の一つだと。馴染みの可愛い召使いを口説いていた時と同じだ、と。 
「もう城でゆっくりできるのは今夜だけだな。今夜はゆっくりと過ごせるかな?」
 甘ったるい声音で誘っていても、それでも、こんな戯れにザーンハルトが乗るわけがないと──思ったから。
 銀の頭部に口付けるように顔を寄せるジルダをぎりぎりと睨み付けた。
 嫌だと言えっ!
 声なき声で叫ぶ。
 銀の髪が良いんなら、テルゼで十分じゃないかっ!
 ザーンハルトの弟が、ジルダとそうしている姿など想像すらできなかったが、今のヴァルツのは頭は何でも有りの状態だった。相手が、ザーンハルトでなければ、ジルダが猿としてても構わない、とすら思った。
 お前には、相応しくない。
 ザーンハルトに相応しいのは、私だけだっ! 
 冷たい物言いで拒絶され、落ち込んでしまえ──私がされたように……。
 何度も断られ、何度も会話を逸らされたヴァルツだから、ザーンハルトが意図も簡単に避けるのを知っていた。だから当然ジルダにもそうするのだと思っていた。
 なのに。
「……お好きですね」
 ため息交じりの掠れた声音は一体誰のものなのだろう。
 信じられない面持ちで、ヴァルツはザーンハルトを見つめた。
「今夜は、これから始まる旅の疲れを取るために下された休暇でしょう?」
 何故そこで拒絶しない?
 何故、そこで静かにジルダを見つめる?
 何より、休暇が下されたなどと、王代であるヴァルツですら知らなかった。
 考えてみればいつものことで当たり前なのだが、なのに、何故、という思う方が強い。何故、私には会いに来ないのだ? と。
「ザーンの傍らにいるのは心地よい。静かに酒を飲み交わすのが楽しいと思えたことはそうそう無いが、ザーンなら別だ」
 手が肩に触れ、ジルダに比べれば小さな体が、ふわりと傾いだ。
「明日は式典の後すぐに出発ですし、遅くなるのは無理ですが」
「そんなに時間は取らせないさ。今から来てくれるなら」
 ジルダの二の腕に力が入ったのが判った。その太い腕の中に抱き込まれているのに、ザーンハルトは逆らわない。
「明日の英気を養おう……なっ」
 耳朶を喰むように囁くジルダと、それを避けないザーンハルトに、呆然としていたヴァルツの頭の中で、鋭い音が鳴り響いた。
 ぴしぴしっと、固い壁に斜めに亀裂が入る。ぽろぽろと崩れ落ちるのは理性の欠片。
「肌、戦場に出たら日焼けして酷いことになりそうだ」
「これでも肌は丈夫です」
「シミになったらもったいないね」
「気にはなりません」
 指が肌を辿っている。首筋を辿り襟元に入り込んだ指先がくいっと服を緩めた。
 そんな行為を逆らわずに受けているザーンハルトは相変わらず静かにジルダを見つめていた。
 それはまるで──どころか、恋人の睦み合いそのままで。
「ほんとに女顔負けだよな」
「恐れ入ります」
 二人が何か言うたびに軋み音はますます激しくなった。崩れ落ちる欠片も、今はもう山になっている。
 ぎりっと奥歯が嫌な音を立てた。
 手のひらに食い込む爪が鋭い痛みを発する。
 嘘だ。
 ジルダとザーンハルトが……。
 嘘だっ!
 目の前で起きている事実が信じられなくて、何度も口の中で呟く。
 なのに。
「ジルダ様。そろそろお部屋の方に」
 ザーンハルト自らが誘う言葉を口にして。
 その瞬間、確かに何かが爆発した。亀裂が入っていた壁など、あっという間に消し飛ぶ。
 目が眩み、握りしめた拳がさらに固く握りしめられた。
 名を。
 もう長い間自分は名を呼ばれていなかったのに。
 ジルダには、殿下ではなく名を呼ぶのか?
「ザーンハルト。暇なら用がある。私の部屋に来て貰おう」
 跳ねるように振り返った、二人の男。
 銀の髪に彩られたザーンハルトの瞳が驚愕に見開かれていた。
 ひどく珍しいその様に、彼が望んでしていた逢い引きを邪魔したのだと、はっきりと判る。
 途端にどす黒い炎が胸中を猛り狂う。
 細い腕を掴んで、強く引っ張った。力ない体が、逆らいつつも宙を舞うように引き寄せられる。
 ジルダの時には逆らわなかったクセに。
「殿下っ!」
「兄貴っ!」
 責める声音が、さらに苛立ちを膨張させた。

?
5
「お待ちください、殿下っ!」
 必死で踏ん張っているのだろうが、根本的な力が違う。
 腕力に物を言わせ、無理矢理引っ張っていく間、すれ違った家来や召使い達が何事かと瞠目していた。
 その様子にザーンハルトも気付いたようで、途端におとなしくなる。
 大仰に漏らされたため息は無視した。
 今振り返れば、王子らしからぬ所作に、眉を顰めているだろうことは判っていた。
 だが、それも全てザーンハルトのせいなのだ。
 こちらが責められる謂われなど無い。
 振り返りでもしたら、この胸の内に膨らむ激しい衝動が抑えきれなくなるだろう。だが、さすがにそれは拙い、と、僅かに残っている理性が必死で堪えさせる。
「殿下、どちらへ?」
 抗うことを諦めたのか、素直に付いてくるザーンハルトが問うていた。ちらりと視線だけで背後を振り返れば、難しい顔をして足下を見つめている。
 問うているくせに顔を上げていない事へもまた腹が立ってきて、ヴァルツは故意に無視した。
 ヴァルツが向かっていたのは、紅玉殿に隣接する翠玉殿だ。通路と扉二枚を隔ててある一対の建物は、王族の男と女それぞれの居住区でもあった。紅玉殿が女性の館であれば、翠玉殿が男性の館となる。
 ヴァルツの寝室も、翠玉殿の一角にあった。
 その扉を蹴り飛ばして開け広げ、何か文句の一つも言おうとしたザーンハルトを勢いよく突き飛ばす。
「っ、くっ!」
 柔らかな敷物の上を勢い余って転がるザーンハルトを睨み付けながら、後ろ手で扉を閉める。
 閉まる直前、僅かな隙間から何事かと警備兵に声を掛けられたが、「何でもない」と下がらせた。
 ジルダが追ってくるかと思ったが、彼はあの箱庭より外には出てこなかった。ちらりと見やった先で、苦笑をしているのが判った。
 しょうがねえ奴。
 そんな風に揶揄されているような気がして眉根を寄せたが、今はそれどころではない。
 ずっとずっとザーンハルトのことを思っていた。強引にすることを躊躇い、彼がこちらを向いて受け入れてくれることを願った。
 すげなくされて、どんなに惨めだったか知れない。
 それでも、はっきりとした拒絶の言葉はなかったから、いつかは、と一縷の望みは捨てきれなかった。
 なのに。
「うっ……」
 転がった時に打ち付けたのか、左の肩を押さえて蹲るザーンハルトの胸ぐらを掴んで引き上げる。
「あっ……」
 苦しそうに顔を歪めたザーンハルトが薄目を開けて、ヴァルツを見つめていた。
 透き通った濃緑の瞳。
 濃い色なのに水蘭の葉より淡く光りに満ちた色。
 その瞳に己だけが映されるのを、どんなに願ったことか。
「待っていたんだ……。お前の答えを。なのに……お前は、いつの間にかジルダとできていたってわけか?」
 バカだ……。
 おとなしく待っていた自分が。
 くっ、と口の端が歪み、堪えきれない嘲笑が零れる。
「で……か……」
 何か必死で言い繕おうとしているザーンハルトが、首を必死で動かそうとしていた。だが、押さえつけられた体は動かず、微かに銀の髪が宙を舞うだけだ。
 光に煌めく銀の髪は、細い銀糸のようでいつも綺麗だと見惚れていた。どんなに人が多くても、この輝く髪を間違えようもなかった。
 なのに、触ることをジルダには許したのか?
「肌を見せて、髪を撫でられて。甘い言葉で籠絡されたか? えっ?」
 この男を落とすのに一体どんな手管を使ったのか?
 笑みすら滅多なことでは見られない。感情などどこかに捨てているような男を、ジルダは甘い声すら上げさせたと言うのか?
 先ほどの二人の睦言が甦り、目の前が真っ赤に染まる。
 朱色の中で、紅潮した顔が苦しげに歪んでいた。
「ち、が……」
 紅く濡れた唇が言葉を紡ごうとする。だが、吐き出そうとする息は締められた喉につかえ、情けない音を立てるばかりだ。
 聞きたくない、言い訳など。
 もう何も。
 言霊の力が怖かった。
 喋らせれば、二度と近づけないように命令されるのではないか?
 激しい畏怖がヴァルツの心を支配して、ぎゅっと指に力を込めれば、音はすぐに止んだ。
 必死に縋っていた指が、足掻くようにヴァルツの腕に爪を立てた。ちりっとした痛みに視線をやれば、綺麗に整えられた指先が、奇妙に白く歪んで震えている。かりっ、かりっと袖の布地を引っ掻いていた。
 指の背がごりっと確かな塊に触れた。白い喉に強く押し当てられた指の関節が、微かに覗く喉仏を押さえつけている。
 嫌な感触だとふと思い、視線を動かした途端に、濃緑色の瞳が見えた。深い緑の瞳が、今は泣き濡れて外の光を反射している。その瞳の焦点が合っていなかった。
 類い希な知力を宿している瞳。
 だが、今はその名残すら無くなろうとしていて。
 途端に、激しい焦燥が生まれた。
 光が、無くなる。
 冷たい表情の中でも、時折揺らぐザーンハルトの瞳は、唯一の感情が発露するところだ。その瞳が、力を失っていく。
 引っ掻いていた爪の力も弱くなっていた。その指先が、ひくりと震える。
「あっ……」
 大事なものがなくなる前兆だった。気付いた途端に、激情が一気に衰えた。
 指から力が抜けた。
 指先に痛みを残して、絡んでいた衣服が外れる。指先に銀糸が絡まっていたが、その糸がぶちぶちと切れた。
 もっとたくさんの銀糸が絨毯の上に舞い落ちる。
 絡まった銀糸が痛いほどに指に食い込んでいて、多少の曲げ伸ばしでは外れなかった。いや、それだけでなく関節が強張っていた。一体どれほどの力が込められていたのだろう?
 何度も曲げ伸ばす指の向こうで、銀の髪がふわりと動いた。絨毯の上から持ち上がり、だが、すぐに床に落ちた。
 がくがくと震えるのは、そこから伸びる体。
 ぜぃぜぃ、と耳障りな音が、耳まで届いた。
 細い体が起きあがり、四つん這いになっては崩れ落ちる。繰り返される荒い呼吸が、激しい咳に邪魔されていた。常よりさらに青白くなった指が、絨毯を引っ掻く。
「げっ、げほっぉっ、げほっげほっ──ひ、あぁぁ──はぁっ……で……か……」
 肘をついてかろうじて起こした顔が、ヴァルツに向けられた。銀の髪が、汗と唾液に濡れた頬に張り付いている。細められたまなじりから、滴が溢れ流れていた。
「ザーンハルト……」
 こんな顔は知らない。
 こんなにも泣きそうな──いや、泣いている顔なんか。
「で、か……げほっ」
 何か言いたげなのだが、その声は酷く掠れ、喋るたびに咳に邪魔をされた。
「す……っせん……げほげほっ!」
「い、良い、今は喋るなっ」
 咳をするのも痛めた喉を苦しめるのだろう。
 辛そうに喉を押さえているのに、それでも喋ろうとするザーンハルトを、制した。
 言いたいことはたくさん有った。
 聞きたいこともたくさん有った。
 だが、今は。
 グラスに水を注ぎ、与える。
 震える手が、グラスを受け取ろうとして、けれど力が入る間もなくそれは滑り落ちた。
「す…いま……」
 申し訳なさそうに震える瞳がヴァルツの罪悪感を刺激する。
「いや、良い。少し待て」
 じわりと広がって染みこむ水から避けることもできないザーンハルトの体を抱え、ベッドに下ろした。座るのも辛そうな様子を窺いつつ、再度グラスに水を注ぐ。
「水、持てるか?」
「あ……ん」
 返事すらろくにできない様子にため息を吐く。
 近づこうとすれば、彼が見上げてきた。その瞳に浮かぶのは、明らかな恐怖。
 普段でも喋らないザーンハルトだから、口が利けない今の状態とたいして変わらないはず。なのに、彼は怯えていた。それが、いつもよりはっきりと判る。
 震えているせいだけではない。
 目が、怯えていた。微かに揺らいで、視線が合いそうになると逸らされる。
 こんなザーンハルトは知らない。こんなに弱い彼を、見たのはずいぶん久しぶりのような気がした。前回は、熱にでも浮かされていた時だったろうか?
 手を添えて、グラスを持たせる。
 小刻みに震える感触を手のひらで味わい、きつく唇を噛みしめた。
 何とか口元までグラスを運んだが、今度はカチカチと歯に当たるだけで傾けることができていなかった。
 顔色は少しは良くなったのだが、ちらちらと盗み見る瞳にはっきりと浮かぶ怖れ。
 かと思うと、触れている手を凝視する。
 気になって仕方がないという風に。
「……」
 そして、また。
 一瞬だけ見つめられた。
 すぐに俯く。さらりと流れる髪。
 相変わらず飲めないグラスを両手で包み込み、その水面を凝視している。
 震えて。
「ザーンハルト」
「あ……」
 びくりと体を震わせ、顔を上げる。
 けれど、すぐにそんな自分を恥じるように顔を強張らせた。
 沈み込むのは恐怖。
 僅かな間に自分を取り戻したのか、いつもの表情に戻っていく。
「あ、待て」
 惜しかった。
 思わずグラスを持つ手を握る。至近距離にある濃緑色の瞳をじっと見つめた。
「で……か?」
「水、飲ませてやる」
「え……?」
 手の中から消えたグラスを追いかける目が心許なさそうなのは気のせいじゃない。
 まだ、見ていられる。
 だから。
 くいっと冷たい水を口に含んだヴァルツの意図に気付く前に、ザーンハルトの頭を抱き寄せた。
「んっ!」
 柔らかな唇が驚きで開いた瞬間を狙って水を流し込む。
 溢れた水が口角を伝い、顎から喉を鳴らした。それでも、次々と流し込む。
 じっと見つめ続ければ、薄目を開けた濃緑色の瞳と出会った。途端にばちっと音を立てたかと思うほどにその目が見開かれた。至近距離でぼやけた視界が、綺麗な朱色に変化する。思わずヴァルツもぱちくりと目を見開いた。
 口内に水が無くなっても、ヴァルツは体を動かすことができなかった。
 思ったより溢れなかった水を飲み込むように抱いた喉が動いたのも感じた。
 嘘だ。
 信じられない面持ちで、真っ赤に染まったザーンハルトを見つめる。
 ジルダに口説かれている間、全くの無表情だったのに。
 こんな口付けで、明らかに紅潮している頬。潤んでいる瞳はあまりにも艶っぽくて、抱きしめる腕に力が籠もり、水を与えるという大義名分が無くなった唇は離しがたくてなっていた。
 開いていた唇の間から忍ばせた舌が、柔らかな舌を見つけ出し、吸い出して絡める。
「んっ」
 息苦しそうに喉が鳴ったのが、甘い喘ぎに聞こえた。立ち上る芳香が、体の芯を熱く刺激した。堪えられない衝動に、頭の後を強く押さえる。指に銀の髪が絡まった。細い体が腕の中で何度か身動ぐのを押さえつけて、貪るように舌を絡める。
 ずっと欲しかったもの。
 体より心を、と思っていたけれど、それでも一度触れあえば手放すことなどできなかった。あんな可愛い表情を見てしまえば、愛おしいと想う心はさらに強くなる。
 こうなれば、突き飛ばされるまでこのままで。
 いつか拒絶されると怖れながらも、ヴァルツはザーンハルトの唇を味わい続けた。

?
6
「ザーンハルト……どうした?」
 いつまでも逆らわない腕の中の男に、唇を離したヴァルツは堪らずに呼びかけた。
 このまま先に進んでも良いのか?
 惑いが口にさせたのだ。
「わ…たし……は……」
 凝視する先で口がぱくぱくと動く。だが、思うように言葉が出せないようだ。必死で言葉を紡ごうとしているが、結局無理だと諦めたように俯く。
 さらりと銀の髪が流れれば、耳の後まではっきりと紅潮しているのが判った。
「ザーンハルト、私はお前が好きだ。愛している。お前の心も体も全て欲しい、そういう意味で好きだ」
 揚げ足など取られないように、事実のみを伝える。
 一瞬ジルダの甘い睦言が脳裏を過ぎったが、すぐに追い出した。
 思いが通じ合えば幾らでも、どんな甘い言葉でも囁いて見せよう。
 だが、今は確かめたい。
 はっきりとした言葉で。
「だがお前はジルダの方が良いのか? 私より、あいつの方が?」
 身を焦がす程の嫉妬を味わいながら、問う。
「ち……が…いまっ」
 すぐに首を横に振ったザーンハルトの必死な様子に、全身の力が抜けるほどにほっと安堵した。
「ジル……様……は、ちが……ま……す」
 懸命に言葉を紡ごうとする唇を指先で押さえ、判ったと頷く。
「そっか……良かった」
 言葉が出せないザーンハルトから、顛末を聞くことは今は無理だ。
 詳細は後でたっぷりと当人から聞き出すとして。
 と、ヴァルツはザーンハルトの顎を引き上げた。
 すぐに逸らされる濃緑色の瞳を追いかける。
 変わらない表情は、いつもの調子なのに、そんな些細な仕草が期待をさせる。
 今日ならば、返事が聞けるのではないか、と。
「ザーン、返事を聞かせて欲しい。もうずっと待った。今日を逃せば、お前は戦場に行ってしまう。また、こんな気持ちを抱えながら、お前の帰りを待たなくてはならないなど、嫌だ。だから……」
 甘んじて受け入れてくれた口付けの時の様子が期待を助長させる。
 あんな表情は、初心な乙女が頬を染める様子と変わりが無い。
「ザーン、私が好きか? 受け入れてくれるか?」
 ベッドに腰掛けたザーンハルトの前に跪く。
 途端に慌てたように立ち上がりかけたザーンハルトの両手を握って、再度座らせ、騎士が王族にするように語りかけた。
「答えて欲しい。今日こそは」
 視線が絡んだ。
 何か言いかけて澱む唇が幾度目かに閉ざされた。
 長い沈黙の後、振り絞るような声が零れた。
「わ……たし……は……」
 苦痛がザーンハルトを支配しているかのように、眉間に深いシワが寄っていた。
 そう言えば、最初に告白した時もこうだった。
 滅多に変えない表情が束の間こんな風に顰められて、そして彼は……。
『殿下っ! ヴァルツ殿下っ!!』
 たまたま急用で呼びに来たセルシェの使いの者に邪魔されたのだっけ。
 しみじみと思い出して、あれがそもそもの失敗だったと内心でため息を吐いた。だが、今は。
『殿下っ! マゾルデより使者が。至急、謁見の間にお越しくださいませっ!』
 あれ?
 過去と違う言葉に、首を傾げ。目の前のザーンハルトが鋭い視線をドアの方へ向けているのにも気が付いた。
 半ば呆然として背後のドアを振り返る。
『殿下っ! 殿下っ!』
 騒々しい声音は、文務執政副官の声。間違ってもセルシェの使いではない。
 ということは、これは現実か?
 二度目の邪魔……?
 くらりと目の前が暗くなった。
「で……か?」
 促すたどたどしい呼び声が頭上から聞こえるが、蹲ったヴァルツはとてもすぐには動けなかった。
 不機嫌きわまりない内心を隠すことなく席に着いたヴァルツは、跪いて頭を垂れていた使者を見やった。
 ちらりと傍らに控えたザーンハルトを窺えば、何事もなかったかのように立っている。もっとも、声を出すことがあれば、誰もがすぐに異常に気付くだろうけれど。
 あと少しだったのに。
 内心の愚痴を不謹慎だと責める理性に、このくらい許せ、と毒突いて、邪魔した輩を睨んだ。
 だが、彼は他国の使者。叱責するわけにもいかない。
「ケレイス第一王子ヴァルツだ。マゾルデからの使者と聞いたが?」
 誰に言うでもなく言葉を紡ぐ。
 反応したのは、その使者本人だ。
「はいっ。マゾルデ、第二軍コゼル隊のセルゼリデと申します。我が王より書簡を言付かっております」
 胸に抱えるようにしていた包みから幾重にも油紙に包まれた書簡が差し出された。近場にいた騎士が受け取り、文務執政副官へと渡す。
 副官はさらに文務執政官へ。
 常ならば王に仕える執政官も、今は全員が王子付きだ。
「封書の花押は、紛れもなくマゾルデ王のものでございます」
 複雑に組み合わされた陰影を読み取り、書簡に施された封印を取り外していく。文務・軍務の執政官と副官、そして王と王代にのみ伝えられる仕組みは、国別に方法は全て違う。しかも不定期にそれは変更され、秘密が漏れるのを防いでいた。
 その複雑な封印を解くのをもっとも得意とするのがザーンハルトだったが、今はただ黙って見守るだけだ。
「殿下、どうぞ」
 恭しく差し出された書簡を受け取り、前にも見たことがあるマゾルデ国王の流れるような文字を読み取った。
 最初は、こんな時間に何を、と苛立たしく読んでいたのだが。
「真かっ!」
 終わりの署名を確認する間もなく、叫んでいた。
「マゾルデのあの第三軍が敗走したと言うのはっ!!」
「はい、間違う事なき真実でございます」
 苦渋に満ちた声音が俯いたままの使者の口から漏れるのを、ケレイス側の列席者は半ば呆然と聞いていた。
「最初は我が軍が優勢と聞いておりました。しかし、ラスターゼが傭兵部隊を繰り出した途端、いきなり……」
 ぎりっと奥歯を噛みしめた音が、高座まで響く。
「……傭兵は南の国のものと……?」
 悔しさが滲み出たマゾルデ国王の書簡から読み取れた事実をそのままに呟く。
 途端に、視界の端でザーンハルトの頭が跳ねた。
 睨み付けるようにヴァルツの手元の書簡を見つめている。
「見よ」
 差し出せば、奪い取られた。だが、今はその不作法を責めるものなどいない。南の傭兵の驚異を知らぬ愚か者など、この国の重鎮にはいないのだから。
「獣使いでした」
 知られた事実。
 けれど、その獣の生態は、北の国のものを怖れさせるには十分だった。
 彼の獣は人を喰らうのだ。
 人の数倍はある体躯。騎馬より速く駆け、漆黒の毛皮は闇に紛れる。その鋭い爪先は軽々と人の体を切り裂き、牙は一般的な鎧であるなめし革など簡単に食いちぎる。
 その恐怖は一度でも相対したことがあれば心の中に染みついてしまう。
 北国でも人を喰らう肉食獣はいる。だが、往々にしてそういう獣は人に飼い慣らされない。飼い慣らせば、その獣は牙を抜かれたも当然のように弱くなる。
 なのに、南の傭兵達はまるで対のように獣を従わせているのだ。
 そんな獣などいない北国では、炎のような双眸が悪魔のようだとして、冒険物語で必ず出てくる代物となっていて、子供達はその獣を想像上の生きものだと思っている。
 魔獣フォングレイザー。
 それが物語上での名だ。
「だが、獣使いを雇うのは高い。幾ら金があるからと言っても……。それに第三軍は、そこそこの兵力を持った強者と聞いております。なのに、何故」
 文務執政副官が躊躇いがちに意見し、目線でザーンハルトに窺っている。
 声が出せないのを知らないからだが、それを感じさせることなくザーンハルトは頷くことでそれに答えた。
 それは当然の疑問で、ヴァルツも思ったものだ。
 獣使いの傭兵一人を一期間(三ヶ月)雇うのに、最低でも3000万の金がいるのだ。一人前の騎士の平均的な年収が500万だと言うことを考えれば、それは破格の値段だった。
 しかも倒されたのは数人編成の小隊ではない。
 マゾルデ国王は第三軍と言ったのだ。どの程度の人員を配置したかまでは知らないが、兵力にして五千は軽く届くであろう。
 なのに。
 視線が使者に集中する。
「……傭兵の数は私が出るまでに確認できただけで、千人」
「そんなバカなっ!」
 財務も管理する文務執政官が声を荒げた。
「幾ら裕福とはいえそんな金を傭兵に……。しかも、自軍が襲われないために膨大な上質の肉が餌として別途必要と聞いている。その費用も……幾ら勝つためとはいえ、そんな事をしたら……」
 泡を吹きそうな初老の男をため息を堪えながら見つめ、俯いたまま顔を上げない使者を見やる。
 悔しさに震える肩が、彼の言葉の真実味を高めていた。
 ちらりと視線を流せば、間髪を容れずにザーンハルトが小さく頷いた。
「勝てばそれで良いのだろうよ」
 呟くように伝え、落ちてきた前髪を掻き上げる。
 厄介なことになった。
 だから、戦なんて面倒なことは避けたかったというのに。
 それでも、今更もうどうしようもない。開戦の意志はマゾルデには伝えてあるし、こうやって書簡を送ってきたところを見ると、直接的な意思表示はないが、応援を乞うているのははっきりしていた。
「明日には我が軍も出立だ。だが、その前に魔獣対策の準備も必要だな」
 両脇に控えるそれぞれの執政官達に視線を送る。
「御意」
 難しい顔の文務執政官に、副官が呼ばれる。
 非常時の基金が必要だと、耳打ちしているのも聞こえた。
 金、金、金。
 あっという間に消えていくそれらは、天から降って来るものでも地から湧いて来るものでもない。
 開戦の意志決定を強く促したザーンハルトは、この事態を予想していたのだろうか?
「昨年の税収は落ちたと聞いているが……。この戦に金が要ったからと言って、税負担を重くすることなど無いようにな」
 言わずもがな、の言葉が口を衝く。
「開戦する以上、勝たなければならない。だが、民の暮らしを犠牲にすることは避けよ。投入した兵力を持って、最大限の効力を発するよう手配せよ。決して長引かせるな。暑い季節が来れば、獣はさらに力を発揮すると言われているしな」
 言いながらも視線がザーンハルトに固定される。
 先ほど頷いた拍子にずれたのだろう。喉を隠す薄布を直す手の方にも青いアザが見えた。
 長引かせるな。
 口にした理由ももちろん本心だ。
 だが。
 きっと出立間際まで、ゆっくりすることなく過ごすであろうザーンハルトを引き留めることはもう無理だから。
 肝心の返事を聞かぬまま、別れなければならないから。
 だから、一刻も早く帰ってきて欲しい。
 個人的なものでしかない願いは、王代としては失格の評価にしかならない。それでも、気が付けば民よりも騎士達のことよりも、それでもザーンハルトに早く帰ってきて欲しいと願う。
 だが、ヴァルツはそれでも王代であった。
 願いは胸の奥深くに仕舞いこみ、零れそうなため息すら飲み込む。
 凛と胸を張り、不安など微塵も感じさせてはならない。
「使者殿には、休む場を。文務、軍務両執政官は明日の出立に間に合うように準備せよ。ザーンハルトは、──ジルダ、と良く打ち合わせをしておけ」
 その名を口にするのも嫌だったが、それでも王代として指示せねばならないことであった。
 明日出立する軍はジルダが率いることになる。
 必要な事柄は全て伝え、補佐するのがザーンハルトの役目だ。
「はっ」
 短い返答は、いつもの声音と変わらないように思えた。
 けれど続いた咳。
 苦しそうに僅かに顰められた眉根に、深い後悔が湧き起こる。
 こんな状態では、己が与えた怪我の手当すらできない。
 ほとんど喋れないザーンハルトがしきりに筆を走らせている。その筆を持つ手もどことなくぎこちなさを感じた。
 早く手当をしてやりたい。痛めた喉も医師に診せた方がよいだろう。
 けれど、今はそんなことを言い出せる状況ではなかった。

?
7
 庭を眺めて、少しだけ気を抜いた。
 本当なら、休憩を取る暇など無いのだが、それでも根を詰めすぎると判断を間違えそうだったのだ。
 机の上にある書類の束は、ザーンハルトがいた頃より量が多かった。彼が持ってきていた時は、嫌味だ、嫌がらせだ、と思うほどの量だったが、それでも彼なりに厳選してくれていたのだろう。ここ数日でそれが判った。
 数回の深呼吸をするだけの休憩を過ごし、椅子に戻る。
 積み上げられた書類を手に取った途端に、眉間に深いシワが寄った。
 簡単な内容は、王を通すような物ではない。それでもここに来ている以上、何らかの決済をしなければならなかった。ため息を零して、花押を記して、次の書類を手にとって。
 処理していく手順はいつもと同じ。ただ、前より考えることが増えた。
 可決すべき事と否決すべき事が、ごちゃ混ぜになっているのだ。前のように流れ作業的に迂闊に処理すれば、とんでもない書類を決済することになってしまう。
 王の代理を務めるヴァルツの決済は絶対。
 喩え間違っていても覆せるものではないから、間違いは許されなかった。
 けれど、前は。
「ザーンハルトか」
 いなくなって初めて気付いた。
 順番を考慮して書類を並べ直し、考慮しやすいようにしてくれていたのは。
 不要な処理は差し戻して、適切な決裁者に渡していたのは。
 忙しいと言っても、軍務執政の筆頭副官であるザーンハルトの仕事量は、もっと多い。それなのに、彼はいつだって、自分で書類を持ってきていた。こうやって、厳選して並べ直した後の書類を。
 いつも何も言わなかったクセに。
 そんな僅かな事に気付くたびにうれしさと同時に寂しさを感じる。
 書類に立て続けに花押を施していると、ふわりとヴァルツの黒髪が風に踊った。視線を窓にやれば、はるか遠くに霞んだ山が見えた。南にある高い山々のその麓に、ラスターゼに向かう街道があった。
 一週間前、その街道をザーンハルト達は南へと向かったのだ。
 どよめきが大通りの両側から響き渡る。起こる歓声。湧き起こる花吹雪。
 城から外苑の壁に向かう大通りで催された盛大な出陣式。
 儀式が終わって執務室に戻ったヴァルツは、窓からずっと一団が消えた先を見つめていた。
 その次の日も、またその次の日も。
 いつでも窓の外を眺め、「ザーン……」、と山の麓を見つめながら、彼の名を呼ぶ。
 出立までの間、個人的な話をする時間はなかった。獣使いの事を誰よりも知っていたのは、ザーンハルトだったからだ。末端の兵士にまで行き渡るほどの防御策を手配するのに、彼は走り回って。
 かろうじて話ができたのは、旅立つ前に医師の手当てを受けていた時間。その時にはザーンハルトはもう声を出すことは叶わなくなっていたから、ただひと言言われただけだ。
『お気を付けて』
 声というより、空気が漏れたような音だった。
 その時に、同時に直径が三センチばかりの滑らかな樹皮を持つ枝を渡された。
 獣の対処のために兵士達にも渡されたものだ。それが魔獣の今判っている唯一の弱点らしい。数が足りなくて、持てる人間は限られていた。だから、返そうとしたのに、ザーンハルトは頑として受け取らなかった。
 その枝は、今もヴァルツの執務室の机の上にある。
 お前はこうやって俺のことを気に掛けてくれるというのに。
 俺は、お前を護る喉を潰してしまったんだな。
 戦場で、腕力も剣の腕もないザーンハルトの最大の防衛力の筈なのに。それを、身勝手な己の怒りによって潰してしまった。
 冷たい風が、ヴァルツの黒い髪をなびかせる。
 南にあるラスターゼは、凍らない国だ。この冷たさとは無縁の国。
 風邪などは引かないだろうが、慣れない内は体力の消耗が激しいと聞く。
 どうしてあんなことをしてしまったのか……。
 よりによって喉を潰してしまったことを、ヴァルツは心底悔いていた。
 

 その日、ヴァルツの手がペンから離れたのは、日が暮れてからかなり刻が経っていた。
 クセのように窓の外を眺めれば、星が瞬き月の光が辺りを照らしていた。薄墨の闇の中、街の壁が白く淡く光っている。
 月が無い夜は、窓の傍らに立つな、とザーンハルトからさんざん言われていたけれど。このように明るい夜も、やはり注意しろと言われていた。
 闇夜の時は、室内の明かりが人影を明るく照らしてしまうし、月夜の時は、白い肌を持つヴァルツの姿が目立ってしまう。
 だったら、いつ夜の景色を見られるんだ?
 子供のように文句を言ったことを思い出す。
 それは……。
 珍しく困惑に歪ませた顔が、椅子に座るヴァルツを見下ろしていた。
「そういえば、あの時の答えも聞いていないな」
 くつくつと喉を鳴らす。
 考え見れば、ザーンハルトは答えられない質問に弱かった。
 何でも知っているクセに、時に答えられなくて。そうなると黙ってしまうのだ。天才的な頭の中で、必死で答えを考えているのだろうけど。
 黙ってしまうザーンハルトを見るのは、今思えば楽しいものだった。
 だからだろうか?
 一年も待ってしまったのは。
 答えてくれないザーンハルト。
 それはとりもなおさず、答えられなくて困っていると言うことでないだろうか?
 怒りに駆られて喉を押さえつけた日、ザーンハルトは答えを迫るヴァルツにそんな表情を見せた。
「早く……帰って来いよ」
 答えを聞きたい。今度こそは。
 もう待てないよ。
 月に向かって願う。
 早く、帰って来い──と。
 冴え冴えとした月明かりの下、くっきりとヴァルツの姿が浮かび上がっていた。白い肌の横顔に、黒い煌びやかな髪が風になびく。上等な絹の服地すら、月明かりに輝いていた。
 その姿は、遠目から見てもはっきりと判るもので。
「なっ!」
 視界に入ったそれに気付いたのは、偶然だった。
 月を見るのに疲れて、顔を逸らしたその瞬間だったのだ。
 ──黒い塊。
 巨大な球が跳ねた。
 咄嗟に身を捩って伏せた上を、黒い球が通り過ぎていく。
 カッ!!
 壁に平行の傷が三本。抉られて、地の木材が覗くほどの深さだ。
「な、誰だっ!!」
 叫んだ瞬間に目が合った。
 燃える炎の双眸。
 巨大な黒い毛並み。
 ぐるっ
 白い牙がやけに目立つ。
 実物を見たのは初めてだった。だが、絵本に描かれたその姿はこの国のたいていの子は知っているし、ヴァルツも例外ではなかった。
「魔獣フォングレイザー……」
 南の海の向こうから渡ってきた人食いの獣。
「何で……こんな所に……」
 四つん這いのまま、体が動かなかった。
 ヴァルツとて、剣の稽古は欠かしたことはない。実力もそこそこだ。
 だが、圧倒的な力の差という物がそこに存在した。
 ──喰われるっ……。
 目を逸らしたら負けだと判っていた。けれど、恐怖が体を支配する。ヴァルツは硬く目を瞑って、その衝撃に備えていた。
 けれど。
 時間が経っても、一向にその衝撃は訪れなかった。
 それどころか、別の場所からガツガツと何かを喰む音がする。加えて、ごろごろと甘えたように喉が鳴る音。
 いつまで経っても何も起きない。
 そおっと片眼を開けたのは、好奇心だった。
「え……」
 見て取った光景に、瞠目する。
 がたりと腰をついた拍子に音が鳴ったが、獣は見向きもしなかった。
 ただ、一心不乱に机の上の何かを囓っている。
 はむはむと嬉しそうだと思うのは気のせいだろうか? いや、明らかに長い尻尾が揺れていた。
「あれは……」
 獣が噛んでいるのは、ザーンハルトに渡された枝だ。
 滑らかな樹皮は、今は獣に囓られて一皮むけている。どこか陶然とした鳴き声に、ヴァルツは逃げるのを忘れていた。
 弱点──とは聞いていたけれど。
 ここまで効果があるとは思ってもいなかったのだ。だいたい、襲われた瞬間は、そんなものの存在を忘れていた。
 あれは、何と言ったか……。
「あ?、招猫香(しょうびょうこう)やん?」
「そうだ、招猫香」
 ザーンハルトに教わった名を呟いて、はたっと気付く。
 慌てて背後を振り向けば、若い色黒の男がにやりと笑って見下ろしていた。
「こんばんは、王様」
 にかっと笑うその顔の中でやけに白い歯が目立った。
「お、お前……」
 じりっと臀で後ずさる。
 背が高い。
 肌の色は、茶褐色と言えるほどで、闇夜に紛れてしまいそうだ。瞳も髪も黒く、この国の衣装であることが浮いていた。何より、発音が生粋のケレイス人が使うものと微妙に違う。どこかの方言も入り交じった、独特の言い回しも慣れたものではない。
「ジゼ。よろしく?」
 自分を指さして言う。
「ジゼ?」
「そ、ジゼ。んで、ザンジ」
 今度は獣を指さす。
「ザンジ……」
 てくてくと歩み寄って、ぽんぽんと頭を叩く。ずいぶんと嬉しそうなザンジが、枝を銜えたままごろごろと喉を鳴らして、ジゼに擦り寄っていた。
「お、まえ……獣使いか?」
 問うた瞬間、執務室の扉が勢いよく開け放たれた。

?
8
「殿下っ! ご無事でっ──うわぁ!」
「──っひぃ!」
 駆けつけた警備兵が飛び込むと同時に立ち竦んだ。
 どんな屈強な襲撃者に対しても、怖じけづくことなど無い兵がだ。あろうことか悲鳴すら上げて、後ずさる。
 それほどまでの威圧感、そして恐怖。
 黒い獣が低く身構え、他を圧倒する。
 ヴァルツ自身もそれ以上は身動ぎ一つできなかった。
 だが。
「▽▽△△※※」
 低く歌うように流れた聴き取れない言葉に、ひくりと身が強張る。
 意味が判らないまでも、本能が恐怖を知らせる。同時にすぐ傍らでザンジの耳がひくりと動く。
「来るなっ、下がれっ!」
 激しい衝動が喉を動かした。
 言葉にならない悲鳴のような叫び声だった。
 左の指先をザンジに添えたジゼが、右手だけを動かす。
 その口元に冷酷な嘲笑さえ浮かべて。
「※※」
 影が通り過ぎた。
 黒い球が壁と床を跳ねる。
 真っ赤な飛沫が視界を朱に染めた。
「ぎゃあっ!!」
 耳をつんざく悲鳴が、室内を木霊する。
 遅れて聞こえた重い音に重なって、金属が跳ねる音がした。
「うっ……あっ……」
 ぴちゃ。
 体が動かない。
 ぴちゃん……。
 天井から赤い滴が落ちてくる。
 頬に落ちたそれが、涙のように顎を伝った。生臭い臭いが鼻に付く。けれど、動けない。
 血の臭いに慣れていないとは言わない。
 もっと凄惨な殺しの場面を見たこともある。
 けれど。
「よしよし」
 満面の笑みを浮かべたジゼがザンジを労る。
 巧く狩りをしてきた飼い猫を愛でるように、愛おしそうに頬を擦り寄せる。
 敵わない。
 人の力では到底敵わない。
 それほどまでにザンジは素早く、力強かった。
 城の中央を護る警備兵の力が劣っているとは思わない。けれど、床に落ちた腕がその実力の差を物語る。
 黒い獣に傷一つ付けられなかった剣が、役目を放棄して転がっていた。
 目映いばかりの刃は、刃こぼれ一つしていないけれど。
「ひっ……ぎぃっ!」
 のたうち回る持ち主は、もう二度と自分の腕ではそれを持てない。
 引きちぎられた傷は、容易には塞がらない。噴き出す血が床に池を造っていた。
 ばしゃっ!
 暴れる体が、赤い液溜まりの上を転がる。途端に散った滴が、ヴァルツを汚して。
 蒼白となった心が、ひくりと反応した。
「さ……がれっ、……下がれっ、い、医者をっ!」
 ヴァルツの喘ぎと同一の必死の言葉が、凍り付いた場を溶かした。
「暴れさせるなっ!」
 仲間の手が、苦しみに暴れ回る体を押さえる。
「そや、はよ手当てしたら死なんで済むし」
 命を下した男の脳天気さを感じて、その不快さに相手を睨み付けた。ぎりっと奥歯が嫌な音を立てる。
 ジゼと名乗ったこの男の真意が判らない。
 けれど、これ以上警備兵達を踏み込ませるわけにはいかなかった。
 たとえどんな手練れであっても、この一対の侵入者に敵うとは思えない。
「……何が目的だ……お前の目的は、私か?」
 異国の民の年齢は判りにくい。だが、ジゼは若く見えた。ヴァルツよりは若いかも知れない。
 それにザンジに擦り寄る時には、もっと子供っぽく見えた。
「そう言われたんやけどな、これ」
 にかっと笑い、ザンジが弄ぶ招猫香を突く。
「ザンジの好物やから。こいつくれる奴、ザンジ、なかなか殺そうとしないんや。特にこんな所で貰えるとも思ってなかったやろうし」
 ならば、招猫香を揃えれば──だが、城内にあったはずの招猫香は、先発隊がほとんど持って行ったはずだ。今から城下をかき集めても、間に合わない。
 思案するヴァルツの前で、ジゼも思案していた。
「……ザンジが殺さんかったら、終わらんわけで……。でもザンジは動かんし……。なあ、どうしょっか?」
「私に聞くか……」
 どこか惚けた男だ。
 殺す相手を前にして、こんな悠長にしていて。
 しかも、警備兵に囲まれているというのに……。
 子供のように拗ねた表情を見せているのだ。
「このまま帰ったら、金貰えんし……最悪、裏切りもんや、なんや言われるし」
 ぶつぶつと言っている割には、口調は楽しい悪戯でも考えているよう。
「裏切り者か。ならば、実際裏切ったらどうだ?」
 有る意味つられたとしか言い様がない。
 けれど、言った途端に結構な名案だと思ってしまった。
「私を殺す対価は幾らか?」
 問えば、う?んと唸って、こんだけっと三本の指を出す。
「金塊三本もろうた」
「一国の王子の命が金塊三本か。ずいぶん安く見られたものだな」
「いやあ、他にもいろいろ貰うてんけど。それは部族に入るんや。俺の小遣いになるんが、こんだけ」
「小遣いか……。では私は月に四本出すと言ったら、どうする?」
「気前良いやん」
 にかっと笑うのはこの男のクセなのか。
 必死の覚悟が萎えてしまう。
 腰に手を据えて高みから見下ろしているくせに、その目が柔らかく笑む。途端に、ふわりと心が軽くなる。
 その瞬間確かに消えた殺意。
 まとわりついていた重みが消えて、ヴァルツはふうっと大きく息を吐いた。
 強張った筋肉が痛い。
 そっと手を動かして、両の指を互いに握りしめる。
「でもなあ、依頼主裏切ったら、俺まで殺されるんや」
 常識を口にして悩むフリを見せる男に、くすりと笑うだけの余裕が出てきた。
「お前は簡単に殺されるつもりか?」
「まさかっ、俺とザンジは強いしぃ」
「なら、問題なかろう?」
「ん?でも、部族の裏切りもんにもなっちまう」
 そっちの方が問題だと顔を顰めるジゼに、「部族?」と問う。
「ラスターゼっちゅう国に部族ごと雇われてんねん。で、誰か王様殺して来いって言われて、怠けとった俺に白羽の矢が立ったというわけで」
 やはりラスターゼか。
 重い吐息を落として、それでも気を取り直して言葉尻を捕らえる。
「お前は怠け者か?」
「そや。戦争に使われるなんて嫌やからな。怠け者になっとったら、無茶怒られた」
「嫌いなのか?」
「おうっ、俺とザンジは二人だけで狩りをすんのが好きな訳や。こうやってこそっと忍び込んで、誰にも気付かれずに目標だけを殺すのが一番。不特定多数を殺しまくるってのは性に合わん」
「……こそっとね……」
 呟いて扉の外を見やる。
 先より増えている警備兵は、今はもう猫の子一匹通れない程の警備網を敷いているはずだ。
 その視線の意味に気付いたのか、ジゼがそっぽを向いた。
「招猫香のお陰で、手順が狂うて……」
 だが、口で言うほどに魔獣と呼ばれるこの獣が招猫香に弱いと、実のところ信じていなかった。ジゼが何かを命令しただけで、彼の獣は招猫香を手放して警備兵を襲った。
 命令こそが絶対なのだと容易に推測できる。
 となれば。
 ヴァルツは慎重に言葉を選んだ。
「で、お前はこんな戦に手を貸す部族に思い入れがあるのか?」
「ねえよ、んなもん。俺の両親は稼ぎに行って依頼者の頼み通りに戦に手を貸して、結局罠に落とされて見殺しにされた。こいつの親もそん時に一緒に死んだ。それを部族長は知ってて、何にも手出ししなかったし、敵討ちもさせてくれんかった。あいつらは金さえありゃあ良いんだよ」
 ザンジの喉を撫であげ、毛並みを整えるジゼがちらりとヴァルツを見やる。
 その目が何かを期待していると思うのは気のせいではないだろう。
「あんたさ、評判良いよ。ラスターゼの国民はこんな戦なんてしたくねえんだよ。みんな判ってんだよ。だから、民の中にはこっちに逃げ出している奴もいるんだぜ」
「……ああ」
 報告には上がっていた。
 ラスターゼからの難民がいると。
 だが。
「けどなあ、そいつらを殺す役目も部族は請け負った」
 暗い目が伏せられる。
 それがどんな意味を持つのか?
 浮かんだ凄惨な光景に、覚えずぞくぞくと肌が粟立った。
「俺たちは対なんだ。ザンジは俺の言うことしか聞かないし、他の獣たちもそうだ。対の言うことしか聞かない。だから……みんなが老人も女も子供も引き裂くのを止められなかった。みんな部族長の命令が絶対だからって……。こんな小さな子が、腹を喰い裂かれて……最期におかあさんってな……」
 自分の手を見つめるジゼの瞳が暗く澱む。
 その手の中にその子がいるかのように。──いや、いたのだろう。
 国境の森の中で見つかった喰い殺された人々。助けられた者達も皆たいそう怯えて、精神に異常を来した者もいると言う。
 黒い悪魔が来た、と。
 悪魔に襲われた、と。
「……俺はザンジにそんな事させたくねえ」
「私はそんな命は出さない」
 ジゼが何を期待しているのか、判ったような気がした。
「私とて国のためなら人も殺す。だが、決して無用な殺しはしない」
 少なくとも、ヴァルツ自身は。
「こっちの王さんは優しいって評判だけど」
 笑うジゼが、手を出してくる。
 ごつごつとしたひび割れのある手のひらが、ヴァルツの腕を掴んだ。
「でも、偉ぇ奴ってすぐ覆すからなあ」
 強い力で有無を言わせずに引き寄せられる。
 吐息のかかる距離で強い力を持つ瞳が、ヴァルツを見据えていた。
「あんたも同じだろ?」
「私は、殺さない。私は年端のいかぬ子供は殺させぬ」
 絶対に、と言えない苦悩を押し隠し、今はジゼにそれだけを伝えた。
「ふ?ん。あんた、はね」
 意味ありげに呟く言葉に顔を歪める。
 たとえ王であってもできない事はある。
 それをヴァルツは知っていて──そして、ジゼも知っているのだ。
 それでも。
「私だって、子供がそんなふうに死ぬのは嫌だ」
 それだけは真実だと、言い切って、間近な瞳を睨み返した。
 明るい茶の瞳が、灯りを映して赤く揺らぐ。その中に、歪んだヴァルツの顔があった。
 呼吸すらままならない緊張感がヴァルツを襲う。
 身じろぎすら許されない時間は、だが唐突に終わった。
「……ジゼ?」
 視線を外したジゼが視線を彷徨わせ、そしてヴァルツへと視線を落とした。
「くれるか?」
 笑みを浮かべた口が囁く。
「何を?」
「お前の……」
「……私の……?」
 くすりと喉の奥で笑ったジゼを訝しく見返せば、彼の笑みはさらに深くなっていった。
9
 くれ、と言う。
 だが、何を?
「こういうことだ」
 答えは言葉ではなく行動で与えられた。
 体が強く引き寄せられ、腕の中に収まる。一回り大きなジゼは、骨太でがっしりとした体つきをしていた。ヴァルツの体など呆気なく抱え込まれる。
「な、何だ?」
「ザンジに襲わせたくなくなった」
 それは悦ぶべき事か。だが。
「殿下ぁっ!」
「うあぁぁ!」
 形容しがたい悲鳴が警備兵の中から湧き起こる。
 どこか遠いその悲鳴を、ヴァルツは聞いてはいた。
 瞠った瞳に、至近距離過ぎてぼやけた顔が映る。塞がれた唇を、柔らく熱い塊がなぞり、突いた。それが強引に唇を割り開く。
「んっ……うっんっ……」
 歯茎をなぞられて、嫌悪より先にぞくりと全身が痺れた。途端に緩んだ歯列へと食い込むのは舌だ。
 ようやく正体に気付いた時にはもう遅くて。
「あっ……うっ……」
 ぼやけていても、ジゼが笑っていた。
 楽しそうに、うれしそうに。
「んっ……ううっ……」
 逃げようとする体は、腕ごと抱きしめられて身動ぎ一つできない。
 くちゅくちゅと舌が絡め取られ、溢れる唾液が吸い取られる。
 ジゼの舌が上顎を擦るたびに、じんわりとした疼きが唾液を分泌させ、溢れる。それらも惜しいとばかりに、掬い取られた。
「お、まえ……」
 息苦しかった。
 放された途端に、ずるずると床に崩れ落ちた。
 床に手を付き、荒い息を繰り返す。
 いきなりの行為に驚いたせいもあるが、ジゼの口付けは容赦がなかった。何もかも吸い取ろうとする勢いに、呼吸すらままならなかった。
 今ジゼは口いっぱいに唾液を含んでいた。ヴァルツのものだ。飲み干しもせずに、味わうように口の中で掻き混ぜている。
 途端に全身の血が沸騰したかのような熱さを感じた。
「な、……にを……」
 ただそれだけのことが酷く厭らしい。
 込み上げる性的衝動に近いそれに、戸惑いながらも肌が紅く染まるのが止められない。
 ジゼがそんなヴァルツを見下ろして微笑む。
 ゆっくりとザンジを引き寄せ、その口に己のそれを押し当てた。
 一体何をしようとしているのか、身動ぎ一つできないでいるヴァルツの目の前でその行為は成された。
 ジゼがそっと口を開く。
 なみなみと蓄えられた唾液は、ジゼだけの物でない。
「や……め……」
 体が震えた。
 何をしているのか判っていないのに、止めさせたいと思った。
 だが、結局動けなくて、目の前でザンジがジゼの口内に長い舌を差し込む。
 肉食獣のそれはひどく赤くざらついてた。その舌が、光る唾液を零さないように掬い取る。
 ちゃぷっ……。
 唾液がザンジの口の中に消える。
 味わい、舌が伸びる。
 びちゃびちゃと音を立てて、ザンジはジゼの口内にあるヴァルツの唾液を全て味わっていた。
 その間ずっとザンジの深紅の瞳はヴァルツへと向けられている。
 己が味わっている物が誰の物か判っているのだ。
 ぞくっ
 背が疼いた。
 がくがくと足が震え、床を滑った。
 歯の根が合わないほどに震えて、思わず自分の体をかき抱いた。
 獣と口付けているのはジゼだ。なのに、まるで己自身がザンジと口付けているような気がした。口内を荒らされ、蹂躙されている。
 錯覚だと判っているのに、その考えから逃れられない。
「やっ……」
 恐怖と、それを上回る快感が、ヴァルツの思考を混乱させた。
 ぎゅっと目を瞑り、嫌々と首を振る。
「もうええか?」
 優しく問うジゼの言葉が聞こえるまで、ヴァルツはそうしていた。
「な……にを……」
 矜持すら保てないほどに動揺した瞳に浮かぶ怯えを、ヴァルツは晒した。
「なんや、興奮しとんか?」
 嘲笑の浮かぶジゼの頬を舐めたザンジを、ジゼが押しやる。ヴァルツの方へ。
 条件反射的に避けようとした体は、素早く伸びたジゼの腕に止められる。
「大丈夫だ」
 安心させる笑みではあったが、体の奥底から込み上げる恐怖心は消えない。全身が震えそうなのは何とか堪えることはできたが、油断すれば無様に叫んで逃げ出しそうだった。
 そんなヴァルツの頬を、ザンジがぺろりと舐める。
「口、開けや」
 その言葉に瞠目した。
 瞬時に頭が言葉の意味を理解した。
 嫌だ、と頭を振る。
 逃れるように背を仰け反らせた。だが、ジゼの手は緩まない。
 宥めるように、ヴァルツの頭部を撫でて、指先で促す。
 開けろ、と、歯列を割った。
「やっ、あっ……」
 ジゼの容赦ない指先に割られた隙間から、ザンジの舌が潜り込んできた。酷くざらついた舌が、口内を蠢く。ジゼの時と違って長く熱い舌が口内をいっぱいにし、さらに奥へと進む。
 獣特有の臭気に、激しい吐き気を催す。
 咳き込んで吐き出そうとするが、それすらも許されなかった。
「我慢しい、すぐ慣れる」
 優しい声音が、涙を浮かべたヴァルツを宥める。
「んっくっ」
 見上げる先で、ジゼが困惑の色も露わに苦笑していた。
「なんや、可愛いよ、あんた。だからさ、舐めさせてやってえな。な、すぐ終わるけぇ」
「あっ、あぁ……」
 圧迫に堪えきれず、顎の力が緩む。大きく開いた口内に、ぬめりと生臭い舌がさらに深く差し込まれ、奥深くを蹂躙した。
「んぐっ」
 激しい吐き気に胃を痙攣した。
 堪らずに仰け反った。
 唾液を撒き散らして、舌が外れる。
 蹲って激しい嘔吐感に全身を震えさせた。けれど、出てきたのは僅かな胃液だけだ。
 それでも、咳き込み、何度も吐き出した。

 繰り返した嘔吐に身も心もずたずたになっていた。
 激しく喘ぎ、床に頭を擦りつける。
 酷い疲労にそのまま崩れそうになった。
 だが。
「殿下……殿下っ」
 警備兵の悲鳴が微かに聞こえた。
 途端に王子としての矜持が甦った。
 最後に残った王子としての誇り。こんなところで侵入者の前で蹲るわけにはいかない。
 ぼろぼろと流れる涙と鼻水、吐瀉物で汚れた顔を必死で拭い、顔を上げた。震える腕で、体を起こす。
 時間にすれば、僅かな間だったはずだ。
 ジゼの傍らでザンジがごろごろと満足そうに頬を擦り寄せている。
 その対達をヴァルツは睨み付けた。
「良く頑張ったな」
 優しい声音は、首を振って拒絶した。
 どう見ても彼は年下で、自分は年上で、この国の王子で。
 侵入者であるジゼに対して、何があっても醜態を晒す訳にはいかなかった。
「こんなこと、大丈夫だ……」
 必死で取り繕った声は、未だ震えていた。
「それより、一体今のは何だ?」
「襲われとうなかったら、招猫香をずっと持ってんのが良いんだけど、そんなにも無いやろから。だから、覚えさせたんや」
「覚えさせる?」
「対である俺が、相手の唾液をザンジに与える。そしたら、ザンジが相手を覚える」
「……」
「もっとも、これやんのは結婚相手を覚えさせるためなんや」
「はぁ……?」
 結婚……相手?
 ぎくりとジゼを見やる。
「……だから、今ザンジの頭の中は、あんたは俺の伴侶ってこと。伴侶は襲ってはならんもんだから」
「……伴侶……」
 ならば、これはジゼの部族の風習──獣を飼い慣らすための所作の一つ。
 ザーンハルトがいれば、好奇に目を輝かせる姿が見られたかも知れない。
 ふと、そんな事を思い、けれど、と首を振った。
 今の行為をザーンハルトには見られたくなかった。
 たとえ、自分のみがこれで安全だと言われても、ジゼと獣の口淫に明らかに感じたことが、許せなかった。
 まして、伴侶などという戯言は、絶対に聞かせたくない。
「……こんなことしなくても……。普通に、相手を覚えさせることはできないのか?」
 何とか言えた案を、ジゼは素っ気なく否定した。
「ねえよ、んなもん。直接やったら、顔を近づけた途端喰われっちまうし。まあ、ザンジは腹が満足している時は命令以外の狩りはしねえよ。俺と同じで怠けもんだから、普段でもおとなしいしな」
 その言葉に首を傾げ。
 びくりと反応する。
「待てっ。だったら、今の行為は何だっ!」
 城にいる以上、餌に不自由させることはないだろうに。
「そりゃ、確実性を増すためと……。あんた可愛いから、どんなもんかと思ったんだよ。まあ、部族裏切るんだから、役得ってことで」
「や、役得ってっ!」
「だって、あんた好みやから」
 にっこりと笑うその視線が妙に熱い。
 さあっと血の気が音を立てて退いた。
 怒りに熱くなった体が、一気に冷える。
「ま、まさか、お前──男色?」
 自分の事を棚に上げて、指させば。
「そうや。ほれ、俺の立派やろ」
 ほれほれっと、指さされたところについ視線を向けて。
 慌てて顔を背けた。
 下衣を持ち上げる膨らみの並々ならぬ大きさに息を飲んでしまった。
 そんな己が信じられないと一人羞恥する。
「……まあ、これでザンジも俺もあんたの言うこと聞くから、許したって。な、王様」
「……私はまだ王子だ。王の代理ではあるが……」
「あ、そか……、じゃ、改めてよろしく。王子さん」
 手を差し出されて、睨み付ける。
 それでも、手を出した。
 握り返される大きな手。
「あ、んで、唾液与えんの、何回かやんないとダメなんだわ。ってことで、またよろしく」
「え……」
 ぞくりと背筋に悪寒が走り、治まったはずの震えが甦る。
 月に金塊四枚と貞操。
 金貨四枚なら容易い取り引きだが、あの行為は頂けない。
 深いため息を落とすヴァルツとにやにや笑うジゼ。そしてごろごろと喉を鳴らして笑んでいる黒い獣のザンジ。
 何が起こったのかよく判らないままに、危機は去ったと知ったのだろう。
 警備兵達が互いに顔を見合わせて安堵の吐息を零すのを聞きながら、ヴァルツは汚れた顔を隠すように手のひらで覆った。
 ざけんな……。
 悪態を全て飲み込んで、ただ疲れたと、壁に寄り添うように体を傾けた。
 だが、触れたのは温もりのあるそれ。
 びくりと体を強張らせて、逃れようとしたけれど。
 触れた耳朶から伝わる微かに聞こえる心音が妙に心地よい。
 ふうっ。
 耳をくすぐる吐息に乗った臭いが、思ったほど酷いものでないと気付く。
 鼻がバカになったのだろうか?
「ザンジ?」
 掠れた声音に、ザンジが喉を鳴らした。すりすりと頬を擦り寄せる。
 懐いてくれると言うのか?
 伝わる温もりと穏やかな心音と、心地よさそうな喉の鳴る音に、ささくれだった神経がひどく安らぐ。
 さっき人の血を流した牙の横だというのに、嫌だとは思えなかった。
「殿下……」
 扉付近で窺う怯えた声に手を振った。
「もう下がれ。大丈夫だ。お前らは近づかぬ方が良いからな。用があれば呼ぶ」
「しかし」
「良いと言っておる」
「はっ……」
 心残りに顔を歪め、けれどそれでも退出する彼らを見送ってから目を瞑る。
「あ?あ、ザンジを布団代わりにしてから」
「気持ちいいんだよ……」
 疲れを意識すると、動くのが嫌になる。
 明日にはもっと酷い騒動が巻き起こるのだろうけれど、今はもう何もかも考えたくなくてヴァルツは目を瞑った。
「王子さんやったら、もっと良い布団があるだろうに」
「ちょっとだけだ」
 呟いて、大きく息を吐いた途端にそのまま意識を手放した。

続く