大学を卒業して一年程立った頃、仲の良かったメンバーが集まって同窓会が開かれた。それに、幹人も友人達と参加していた。
久しぶりの友人達との再会に、酒も料理も話も進む。
しかも、企画した幹事の手腕は見事なもので。
「最後までビンゴできなかった奴には罰ゲームがあるよ。二つ用意していてね、この宴会に3万円寄付するか、駅の噴水前で女装して30分立っているか。どっちでも選択可」
そんな罰ゲーム付きのビンゴ大会すら、皆は悦んで参加していた。
もっとも、ほどよくできあがった輩は、皆自分が最後になるわけはないと信じている。
そして幹人もその中の一人だった。
後になるほど異常な雰囲気になったゲーム。
けれど、どんなに頑張っても勝負は時の運で、誰かが最後になる。
そして最後まで頬を強張らせていた幹人は、結局それを崩すことなどできなくて。
「女装する」
嫌々ながらもそっちを選んだのは、先月我慢できなくて買ったパソコンのせい。
雀の涙のボーナスなど頭金で消えてしまって、月払いのローンがしっかりと残っていた。
じとっと幹事を見上げると、はいっとばかりに紙袋を渡される。
「着替えてきて」
指し示されるついたての向こう。
どうやらあらかじめ用意していたらしい着替えの場所に、さすが、とばかりに舌を巻いた。
金よりは一時の恥を選ぶ奴ばかりだと、よく心得ていると言った方が正しいかも知れない。
「おお……」
幹人が皆の前に姿を現した途端、低いどよめきが室内に木霊する。
生成のダウンジャケットに膝上のジーンズ地のフレアスカート。見ようによってはきつく感じる眉はカツラの前髪、男であるからこそ目立つ喉元は毛糸のマフラー、薄いながらもあるすね毛は黒いストッキングが隠していた。
しかも女性達の手によって施されたメイクが、幹人の肌を綺麗に輝かせ、形良い唇を朱に色づかせているのだ。
照れて朱に染まった頬も、可愛らしさを助長した。
それはどこからどう見ても女性にしか思えない。
「なんか悔しいわね」
ため息と共に女性達が呟く。
「あんなんで駅前になんか立ったらナンパされるんじゃねーの?」
当惑した視線がそこそこに交わされていたけれど。
「30分立ってくればいいんだろ?ナンパなんかする奴は、蹴飛ばしてやるよ」
カラカラと笑う幹人の声は、どう聞いても男の声だ。
途端に、男達の視線が抗議のそれに変わる。
「幹人、お前喋るな……頼むから」
そんな事を言われても、幹人は「何で?」と首を傾げるだけだった。
「寒い……」
だけど、30分だけと言ったことを早々に後悔し始めた。
今日の場合、30分も、と言った方が正しいな。
そんな詮無いことを考えながら、少しでも暖を逃すまいと身を縮める。
幹人は僅かな隙間をくぐり抜けて入ってきた冷気に身を震わせ、急いでマフラーをきつく引っ張った。
ジャケットのポケットには『外は寒いからね、プレゼント』と、女性に笑いながら突っ込まれたカイロが入っている。そのお陰で、その周辺は暖かいのだけど。
ポケットは腰の位置。
せいぜい下腹の当たりにまでしか移動しない。
しかし、寒いのはそこから下なのだ。
スカートの下、足の間を冷たい夜風がすうすうと通り過ぎていく。
いつもズボンの布地に纏われた肌は、冷気に酷く弱い。薄いストッキングなどでは、何の役にも立ってない。
「後、10分」
何度も何度も幹人は睨み付けるように時計ばかりを見つめていた。
足はさっきから地団駄を踏むように動き続けていて、爪先などはもう痺れてきて感覚がなくなりかけていた。
ゲームに乗ったのも、二つの罰のうちこっちを選んだのも、どちらも幹人自身とはいえ、寒さと情けなさに激しい後悔ばかりが湧いてくる。
少しばかり飲んでいた酒など、この寒さに完全に抜けていた。
しかもそれでなくても惨めな気分を味わっているというのに、それを逆なでするように何度も男にナンパされてしまうのだ。
そのたんびに声を出して凄んで追い返してはいるけれど。
噴水周りで、待ち合わせをしている他人が、皆離れていってしまったのは、正体不明のオカマにしか見えないからだろう。
「ああ、もうっ」
じろじろと見られる視線を感じて、幹人は苛立ち紛れに目の前の椅子を蹴飛ばした。
けれど重い金属の椅子は、動くどころか幹人の爪先を痛めつけただけだ。
「う?」
踏んだり蹴ったりの上、鈍い痛みがじわじわと這い上がってきて、目尻に生理的な涙まで浮かんでしまう。
もう、帰ろうか……。
幹事が預かっているなけなしのスーツは捨てられることはないだろう。
このまま駅の中にでも逃げ込んで。
寒いからトイレにでも行ったとか言って……。
逃げ出す言い訳ばかりを考えていたから、目前にその男が来るまで気付かなかった。
目に入ったのはダークグレーのスーツ。
紺のネクタイ。
少しくたびれているのは一日着ていたせいだろうか。
幹人は、またナンパか、と凄んで見上げた、が。
「???っ!!」
叫ばなかったのは奇跡に近い。
眼球が零れんばかりに見開かれた視界に入った見知った顔。
こんなふうに見上げる角度まで一緒だ。
「大丈夫か?寒そうだけど、誰か待つのなら構内で待ったら?」
酷く聞き慣れた声が妙に優しげに耳を打つ。
「……っ」
「もうずっとここにいるだろ?こんなとこいたら、変な奴らばっかり寄ってくるから」
手首を掴まれて、引っ張られる。
あ、あんたも変な一人じゃないかっ!
そうは思っても、先のナンパな男達のように怒鳴ることなどできない理由があった。
「こんな冷たい手をしている。風邪をひくよ」
声音は優しい。
態度もそんなに強引ではない。
けれど。
幹人の頭は完全にパニクっていた。
──しゅ、主任???っ!
声のない単語が頭の中で木霊する。
一緒に働きだしてから、もう半年以上が経っている。
その直属の上司の顔を忘れるはずもない。
「ここなら風も当たらないし、暖房もある。すぐに温まるよ」
心配そうな声は、会社で聞いているよりもはるかに優しいけれど、それでもその低い落ち着いた声質は、やはり彼のモノで。
「ああ、それより、そこの喫茶店でも入って暖かいモノでも飲んだ方がいいかな?」
つっと動いた視線を追えば、駅での待ち合わせにもよく使う行き慣れた喫茶店。
慌ててブルブルと首を横に振っていた。
マズイ……。
たらりと冷たい汗が背筋を流れる。
「嫌って言われても。……もしかしてナンパかと思っているのかな?」
くすっと困惑と照れが混じったような笑みがこぼれる。
だけど、これのどこがナンパじゃないと言えるのか、と幹人は独りごち、それどころではないと慌てて後ずさっていた。
喋れば、男だと判ってナンパなどする気も起きなくなるだろう。
けれど、そうすればどこかで聞いた声だと思われる。
いくらカツラと化粧をしているとはいえ、顔の造作まで変わっている訳ではないのだから、じっくり観察すればバレてしまう。それだけは避けたかった。
言いふらす人ではないとは思うけど、それでもこんな姿をしているのが幹人であるなどとは知られたくない。
「ああ、逃げないでよ。そんな心配することはないからさ」
安心させるかのようにことさらに優しい声音。けれど幹人は上げることのできない顔を何度も横に振っていた。
どうしたら。
さっきから逃げようとするたびに手首を掴んだ手の力がきしむほどに強くなる。
逃がす気などないのだ。
それに気付いた途端、ぶるっと体が小刻みに震えた。
怖い。
思わず上目遣いに見た先で、変わらず主任は笑っている。
だが、伝わる雰囲気が幹人を怯えさせた。
捕らえた、のだと、見下ろす主任の目が言っているような気がした。
「名前、教えて欲しいな」
結局、逃げることも敵わず、ずるずると引っ張って行かれる。
ここで暴れれば、人目もあることだから彼もいつまでも掴んでいるわけにはいかないだろう。
だが、それでも離さなかったら?
何をしているんだと声をかけられて、こっちは何と答えられると言うのだ。
声を出せば男とバレる。
いや、幹人だと彼にバレる。
それを防ぐには、隙をついて逃げ出すことが一番なんだけど。
「俺は、竜城(たつき)って言うんだけどね」
笑って言う名を、幹人はやはりとげんなりと聞いていた。
できれば他人であって欲しいと、この期に及んでまだ願っていたのだと、ため息をつく。
「教えてくれないかな、名前」
それにはふるふると首を横に振るしかない。
なのに、竜城は笑う。
「じゃあ、適当に名前を付けようか?」
「?」
言葉の意味を図りかねて、視線だけで窺えば、悪戯っぽく返された。
「呼びづらいからね。そうだな……」
ふと立ち止まって、幹人の頭から下までゆっくりと視線を走らせる。
まるで見透かされているようだ。
引きつった頬は緩むことを知らないままに、さらに強張った。
ほんの少し考え込んだ竜城は、だがすぐににんまりと意味深な笑みを見せた。
「じゃあ、ミキ、で、どう?」
「えっ!」
聞き慣れた名前とよく似た名。
そのせいで、堪えていた声が思わず漏れた。
すぐに失言に気が付いたけれど、途端にぐいっと肩に手を回されて抱き寄せられる。
「ミキ……いい名だろ。俺が好きなやつの名前の一部なんだけど?」
「あ……」
言葉が理解できない。
呆然と見上げる先で、竜城が笑んでいるのに真剣なまなざしを向けてきた。
「ミキ……ミキトだろ?」
声にされなかった文字が、なのに幹人の耳にはっきり届く。
──ミキト。
かつてそんなふうに彼から名前で呼ばれたことはない。
だが、その名は確かに幹人のもので、それはつまり、竜城がとっくの昔に気づいていたのだということを幹人に教えた。
「な……んで……?」
震える声を聞いても、竜城はうっすらと笑うだけだ。
代わりのように肩を抱く手の力は強まり、歩く速度が速くなる。
パニクった頭は、何も考えられないままに、幹人はひきずられていった。
その先にある何かを、竜城は目指している。
それは判るのだけど、幹人の頭はそれを否定していた。
判らないと訴えて、考えることを拒否する。
ただ、冷え切った体が、布地越しに伝わる熱を貰って温もっていっていく。
そして、竜城が明らかに幹人の正体を知っているということだけ。
なのに。
「し、主任……?」
沈黙に堪えきれなくて、思わず呼びかける。
「あ、あの?」
「あのままあそこにいさせると、誰かに連れて行かれそうだったからね」
「じゃ、じゃあ、最初から……?」
茫然と見詰めると、竜城はフフッと可笑しそうに言う。
「可愛い部下の姿を、たとえ化粧しても見間違えるわけがないだろう?」
「え?」
「ずっと狙っていたからね」
「ええっ!」
頭に先ほどの竜城のセリフが今更のように甦る。
──俺が好きなやつの名前の一部なんだけど?
それは、幹人がどんなに深く考えても、そのまんまの意味でしかとることができない。
そんなバカな、こんな事はあり得ないと思うのに、体は引っ張られるがままに歩いていく。
「おいで」
優しく招かれて、導かれたのはホテルの一室。
幹人が女装しているのを見つけて、いち早くホテルに電話して部屋をもぎ取ったのだという。
「これはチャンスだって思ったんだよね」
それから幹人を噴水前から連れ出したのだと、ドアを開けながら教えてくれた。
だけど。
地元と言えるこのホテル。
何で二人で泊まらなければならないんだろう?
仲良く並んだ二つのベッドに、幹人は首を傾げて竜城を見つめる。
「その格好も可愛いけど、やっぱりスーツ姿の君の方が好きかもな、──だから……脱いで、ミキ」
その言葉の意味が判った時には、焦点が合わないほどに竜城の顔が近づいていて──。
この日の記憶は、後になるほど羞恥に彩られ、薄れるどころか鮮やかにすらなっていった。
しかも、竜城がふさげて幹人のことを「ミキ」と呼ぶたびに、味わったすべての羞恥と快感とともに記憶がよみがえる。
「やめてください」
恥ずかしくてたまらなくて、何度そう嘆願しても、決して竜城は聞き入れようとはしなかった。
【了】
622,222 プチキリ れびいさんのリクエストです。
友達とのみ会の罰ゲームで、女装させられた男の子が、上司にナンパされる。(かつら等も含めて完璧だった)
見た目は女の子のようなので、間違えたよといいながら、ほんとは前から狙っていた部下の男と知って声をかけている。
というリクエストでした。