せっかく再会できた僥倖を、晃一は無駄にするつもりはなかった。
その結果、休みの日や早く帰ることができる日には連絡を取って、裕真の家に向かうようになっていた。
裕真も、晃一のお伺いに、断ることはなかったから、よけいに足繁く通うようになって、合い鍵まで貰ってしまったのは再会した日から一ヶ月も経たない内だった。
一年ほど前から一人暮らしを始めた晃一にとって、裕真の部屋は人気が無く冷たい自分の部屋より居心地が良かった。それまでは休みの日は実家に洗濯物と一緒に戻っていたが、最近は裕真の方に足が向いてしまう。
当然洗濯物まで持って行くことはさすがに躊躇われて、ある日気が付けば洗濯物が山になっていた。
洗濯か? 裕真の部屋か?
という自問の答えは判りきっている。
それでも、残りの下着が足りなくなってきた——なと、さすがに考え込んだ時に、ついぽろりとそれを裕真に零してしまった。
その次の日、裕真は晃一のマンションで一日かけて洗濯物と格闘したのだ。
「今度からこまめに持ってきてくださいね」
などと疲れた表情で言われて、晃一もさすがに反省した。けれど、自分で洗濯する気にはなれなくて。
結局晃一は洗濯物と一緒に裕真の部屋にやってきている。
本当に、裕真は晃一の我が儘に寛大だ。
いたければいたいだけ、自由にして良いと言ってくれる。
「はい、今日はさわらの塩焼き。お魚、好きでしたよね?」
「好きだよ。それに俺は何でも食べるから」
「それは、作り甲斐があります」
笑いながら小さな座卓に並べられる料理は、いつだって最低5品はある。
必ずある汁物かスープ。
タッパから出されるのは、自家製らしき漬け物。
実家の両親からいつも食べきれない程の野菜や漬け物が来るのだと言う裕太は、料理上手だ。
「残すのがもったいなくて……。俺って、貧乏性なんですよね。それで残った食材で保存食ばっかり作ってるんですけど、それでも溜まるでしょ? だから、晃一さんが食べてくれると助かります」
微笑む裕真はいつだって、楽しそうだ。
そんな風に言われれば、晃一だって悪い気はしない。というより、ますます図に乗ってしまう。
「これも、旨いっ。お代わり欲しいなあ?」
「はい、いくらでも」
「うちの母親より旨いかも」
世辞でなく本心から言っても、「そんなことないです」と謙遜するのが裕真だ。確かに専門の店のような洗練された美しさや旨さは無いけれど、その分懐かしい味に出会えることが多い。
子供の頃は苦手だった和風の野菜料理は、裕真の手にかかるとお代わりするほどにおいしいものになる。
ひたすら食べて、飲んで。
終わる頃には、幸せな感じになるのだ。
ゆたりと四肢を投げ出し、狭い部屋を占拠している晃一の横で、裕真は忙しそうに動き回る。
食後のお茶。
片付け。
風呂の支度。
着替えの用意。
晃一は指一本動かさなくても良かった。ただ、視線だけがいつも裕真を追いかける。
テレビを見ていればよいと言ってくれるのだが、やはり自分一人でのんびりするのは躊躇われた。
けれど、何がどこにあってどういう順番ですれば良いのか、というのが晃一には判らない。
ここ数週間でかなり判ってきたが、晃一が頭で考えるより、裕真の動きの方が早かった。
ちゃぶ台の片付けが終われば、今度は洗濯物だ。晃一のトランクスがパンと伸びて、小さく三つ折りにされて、さらに縦に二つに畳まれた。ゴムの部分にくいっと差し込まれたそれは、ずいぶんとコンパクトだ。
最初はトランクスに見えなかったその塊はそうやって作るのか、と折り方を見つめて感心してから、向けられない顔に視線をやる。
確か今日は、どっかの会社の面接に行ったんだよな。
面接は、する方もされる方も疲れるものだ。時々受け答えにも四苦八苦するほどがちがちになった学生を見ることがあるが、終わったときには、かわいそうなくらいふらふらに疲れ果てていた。しかも、そういう学生はまず面接に落ちてしまう。
裕真はどうなんだろうな……。
そんなに物怖じするようには見えないが、今日はいつもより疲れているように見えた。動きが緩慢だし、笑い方もぎこちない。
そんなときに訪ねた自身を恥じ入る気持ちもあるが、それでも晃一は帰ろうとは思わなかった。
自宅や実家よりここが良いのだ。
いっそのこと、ここに引っ越したいと思うほどに、居心地が良い。もともと狭い部屋が好きで、ごろごろするのが好きで、それを許してくれる人はもっと好きなのだから仕方がない。
「もう良いだろ、裕真も疲れているんだから座れよ」
タオルを洗面所に持って行こうと傍らを通り過ぎたとき、その足を掴む。
「うわっ」
いきなりだったせいか、裕真がたたらを踏んだ。かろうじてバランスを取ってほっとする裕真に、「悪い」とだけ声をかける。
だが、どう考えてても晃一の方が悪いのは判っているだろうに、裕真の方が申し訳なさそうに頭を下げるのだ。
「すみません、うるさかったですか? あの急いで終わらせますので」
真面目で、人が良い。
こういう世話焼きが一人いれば、重宝するだろうになあ。
少なくとも晃一の仕事は、世話を焼いてくれる人間が一人いるとずいぶんと助かる。幸いにして好調な業績のせいか、晃一の社長としての仕事もずいぶんと増えてきた。最小限の人員で、最大限の効果を出すという静樹の方針の下、増えた仕事は確実に晃一にも振られてしまう。
今は昔と比べて、システムがルーチンワークの業務をこなしてくれるが、その分妙な煩わしさも増えているのだ。しょせん、コンピューターは自ら判断することはない。決められたフォームにして、是非判断をプログラム化することは可能だろうが、今度はその前処理が必要になる。
確かに全て自分がやるのが順当であるとは思う。だが、事務処理系の単純作業は、誰かにしてもらいたい。
苦手な事務処理が晃一の場合は結構負担になっていたが、裕真が手助けしてくれたら、うまくこなしていけそうな気がしてきていた。
「なあ、裕真?」
「はい?」
ようやくぺたりと裕真が座り込んだのは、食後からすでに二時間が経過していた。まだ何かやりたそうにしている裕真を強引に座らせて、この時間だ。
「今日は面接だったんだろう? どんな感じだった?」
「あ、はあ……」
問うた途端に、裕真は口元を歪めた。
その表情を見る限りではあまり印象は良くなかったのだろう。
「俺は……どうもはっきりしないところがあって。会社にとっては、はきはきとしたところが必要なんでしょうね……」
言葉を選ぶように呟いて、苦笑を浮かべる。
確かに、晃一から見ても裕真は「はきはき」とはほど遠い。どことなくおっとりとしているところが、面接官には悪い印象を与えるのかもしれない。
俺には十分なんだけどなあ……。
それに、家事をこなしているときの裕真に無駄な動きは感じられなかった。
そういうところが、仕事に生かせればきっと上手くやってくれるだろう。
対外的なところは静樹と晃一がやる。裕真には、もっと内部の——外とはあまり関わらないところで仕事をしてもらいたい。そのついでに、安らぎの場所になってくれたら……。
具痴を聞いて、美味しいもので慰めてくれて、ゆったりと寛がせてくれたら……。
だから、他社の面接なんて全部落ちて欲しい。
「もうそろそろ決まらないと大変だとは思うんですけど……こればっかりはなかなか……」
普段見られない落ち込んだ様子に、晃一はぎくりと頬を強ばらせた。
裕真の不幸を喜んでいる自分を自覚したのだ。
あまりにも理不尽な願いは、己に反吐が出そうなほどに愚かしいものだった。
「裕真は経済学部だったっけ?」
「はい……」
「あの大学は結構良いし、経済学部卒には有名人が多いところだから、門前払いってのは無いだろう?」
懺悔のように、良いところを探してしまう。
こくりと頷く裕真の顔が見られない。
「だが……良くないと思っているのか?」
まだ結果はきていないようだが、裕真の様子では、感触は悪かったのだろう。
「はあ……すみません、ご心配かけて。晃一さんにもこつをいろいろと聞いているのにこんな状態で。でも今度こそはがんばりますね」
「ん……」
だったら、うちに……。
と言いかけた言葉は飲み込む。
前に一度だけ、晃一の会社に来ないか、と、それとなく促してみたことはあったのだ。
まだこんなにも親しくなる前に、飲んでやっぱり就職活動の話になって。
けれど、それは裕真が拒絶した。
『俺の立場で、晃一さんの会社って、縁故入社になってしまうでしょう? そんなこと、晃一さんの会社に入りたいってがんばっている人に悪いし』
そう言って、にっこりと笑う裕真の人の良さに、呆れて、けれど裕真らしくて晃一は、そうか、と苦笑するしかなかった。
それに……静樹がダメと言いそうだな。
零れたため息と共に、脳裏に人事の権限を持っている従兄弟の姿が浮かび上がる。
萩原産業の採用基準は静樹が決めたもの。静樹がダメと言えば、採用はできない。社員の紹介で入社を希望するものも今までいたが、試験と面接の基準は一緒だった。ただ、一般の人達と違うのは、多少なりとも内情が判っているところだろう。それをうまく活かせた者がかろうじて入社している程度だ。
そうなれば……きっと、裕真はダメだろう。
この男は、そんな情報すら拒否しそうだ。
重いため息を零すと、裕真が晃一の顔を覗き込んですまなさそうに頭を下げてきた。
「すみません、晃一さんもお疲れなのに、こんな暗い話になっちゃって」
「あ、いや」
知らず、体が仰け反った。後ろ手に付いた左手に体重をかけて、裕真から離れる。
なぜか体が熱くなって、鼓動が早くなっていた。
「俺が聞いたんだから、気にすることはない」
逸らした視線が、畳の目を辿る。
変化した体の調子に、眉間のシワが深くなる。
一体、何が起こったのか、判らない。
なのに、覗き込まれた途端に、鼓動が早くなって、体が熱くなった。
嘘だろ……?
惚れっぽさだけは自他共に認める晃一だ。
この反応がなんなのか、誰よりも良く判っていた。
けど、そんな筈は……無いはず。
よりによって、裕真にまで?
ちらりと見上げた裕真は、どうみたってふつうの男だ。
前に啓輔の家で見かけた、家城などとは比べものにならないほど平凡な男だ。
あれぐらい格好良ければ、こんな反応も致し方ないと思ったが、なぜに裕真にまで?
自分の節操なさに呆れ果て、熱を逃すように熱いため息を吐いて意識を切り替えた。
「そろそろ寝るか? 裕真も早く寝た方が良い」
伏せた瞳から裕真の姿が消えて、彼が立ち上がる音だけが聞こえていた。
「じゃあ、急いで片付けます……」
「俺は眠い。けど、裕真が寝ないのなら、俺は起きて待っている」
疲れているはずなのに、几帳面に片付けようとする裕真を、晃一は制した。
まるで駄々をこねている子供のような制止の仕方だが、これが裕真には一番効くのだ。
かなり疲れている裕真を早く休ませたかった。
現に、裕真の顔から表情が消えていた。滅多に見せない表情。晃一の視線があるときには見せない裕真の心がそこに晒されていた。
途端に、胸の奥が軋む。
あまりにも裕真に似合わない顔に晃一までも辛くなる。
「裕真?」
不安に、つい呼びかければ、裕真はハッと肩を僅かに震わせて。
「あ、すぐに布団敷きますね」
何事も無かったかのように、笑顔を浮かべた。
まるで条件反射のようだ。
初めてそれに気づいたときには、己が実は厭われているのではないか、と不安になった。だが、どうやら裕真は自分がそんな表情を浮かべたことには気づいていないらしい。
一度、意を決して問うたときに、裕真はそんなことなど無いと笑っていた。
その笑顔が嘘だとは思えない。
ならば、あの表情の意味は……。
並べられた布団に入り、吐息を零す。
ただ、単に疲労が表に出て、笑顔が消えただけなら良い。十分な休みを与えれば、きっと疲れもとれるから。
けれど、いつもにこにことしている人間の真意ほど、難しいものは無い。彼の心根は優しいのは間違いないけれど、自分に優しくしているとは思えないところがあった。
晃一にとって、裕真は心安らぐ場所だが、裕真にとって晃一は気を遣う相手ではないのだろうか?
あんなふうに細々と動くのは、たとえ本人が好きであっても疲れるはずだ。まして、連日の就職活動は芳しくなく、裕真の疲労は、かなり蓄積されているはず。
だが、裕真の質は、何があっても他人のせいにはしない。
「昨日ね、布団干したんです。今日干せていたら、もっとふっくらしていたのに」
「いや、十分気持ち良いよ。裕真も寝て見ろよ」
「はい、明日は休みだから、たっぷり朝寝できますね」
そう言う裕真が、晃一より遅く起きたことは無い。
いつも晃一は包丁の音や鍋が煮える音、電子レンジの音や、おいしい匂い。
そんなもので目が覚める。
それはどんなに早い時間でも実に気分爽快な目覚めで、これを家の目覚ましにできないだろうか、と考えているほどだ。
「お前も朝寝しろよ」
「はい」
仕方ないなあ、と口元を綻ばせている裕真につられて、晃一も口元を綻ばせた。
優しくしてくれている分だけ、自分も優しくしたい。
いつしか気など遣わなくても良いと思ってもらえる立場になってみたい。
裕真はいつも優しくて、甘えさせてくれて。
彼の傍はほんとうに居心地が良い場所だった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
もう聞き慣れてしまった古い蛍光灯のスイッチが音を立てる。
ふっと消えた灯りの中、カーテンの隙間から外の灯りだけが入ってきていた。
白い影が、裕真の顔の近くを照らしている。
疲れているせいか、さほど間をおかずに、呼吸音が規則正しくなっていった。
「裕真……」
音のない声で呼びかけて、晃一は闇に慣れた瞳に裕真を映した。
「ごめんな……。お前を疲れさせたい訳じゃないけど、お前の傍にいたいんだ」
昔、静樹が傍にいるのが当たり前だった。いつだって、晃一の傍にいて、何くれと世話をしてくれて。
今なら、あれが静樹の愛情表現だったと判る。その愛情が他人に向けられて、今はもうその恩恵全てに浴する事はなくなったけれど、それでも静樹も晃一を厭うている訳ではない。
きつい言動の端々に、晃一を案じているのが判る。だからこそ、今までやってこれたのだ。
けれど、時にあの優しさが無性に恋しくなる。そんな時に会ったのが、裕真だった。
裕真の優しさは、静樹のそれ以上に、晃一を癒してくれるのだ。
つい縋り付きたくなる優しさ。けれど、晃一の全てを癒せるほどに、裕真は強くない。
晃一は、裕真の無表情に気づく度に、そのことを痛感していた。
他人の事にかまけている状態ではないのだ、裕真は。
なのに、そんな裕真を自由にさせられない自分がいる。
疲れていると判っている面接の日に、のこのこのと上がり込んで、夕飯の相伴に預かって。明日には洗濯もしてくれるだろう。
裕真と晃一の年の差は、10才近い。
それなのに、頼り切って、疲れさせて。裕真にとって一番大切な時期に何も手助けできないで、あろうことか面接全てに落ちて欲しいと願っていて。
あまりにも情けない自分に、晃一の涙腺がふるりと緩みかける。
それをぐっと力を込めて押さえた。
もう泣かない。
これ以上、自分を惨めになどしない。
「裕真……俺もがんばるから……お前も……俺から離れないでくれ」
つい零した言葉は、晃一の本音だった。
その言葉を噛みしめて、晃一はふっと笑った。
ああ、そうか。
さっきの動揺の原因にようやく思い至ったのだ。
惚れっぽい自分が、また惚れたのだ。
この静樹と同じく、世話好きな男に。
顔なんて、関係ない。
何よりも晃一が欲する温もりが、裕真にはあるのだ。
だから、離れたくないと切に願い、そして、それは晃一にとっての相手を欲するきっかけになる。
けれど。
今まではただ相手から与えられるそれだけを望んでいた。
欲しくて欲しくて。
子供のように自分か゛返すことなど考えずに、ただ温もりだけが欲しかった。
それなのに、今裕真を見る晃一の心に、一つの決意が宿る。
——頼るだけじゃダメだ。
裕真を離さないためには、裕真にとって自分が心安らぐ場所にならないとダメだ。
今まで思ったことのない決意は、静樹の時のような失敗を繰り返したくないという考えもあったけれど。
与えられる温もりを、晃一は初めて返してみたいと考えたのだ。
どうしてこんなに早く起きているのだろう……。
清々しい日差しに眩しげに目を瞬かせながら、晃一は動き回る裕真を目で追っていた。
「あ、おはようございますっ。ちょうどみそ汁ができたんですよ」
視線に気が付いたのか、にっこりと朝日より清々しい笑顔が向けられる。
「今……何時?」
ぼおっとした頭を巡らせば、時計が6時30分を指していた。
どこぞの年寄りか、と、最初の時も思ったけれど、どうして目覚ましも使わずにそんなにきっちりと目が覚めるのか。
「今日は、タマネギとサツマイモです」
「ん、顔洗ってくる……」
「タオル、判ります?」
「ん?」
こくりと頷く。
「なあ、いつも思うんだが、裕真は朝寝とかしないのか?」
晃一が裕真くらいの時は、休みともなれば昼まで寝倒していた記憶しかない。昨日よりも明らかに元気になった様子にはほっとしたけれど、だからと言ってこんな朝早く動くことはないだろう。
「朝寝、ですか? そうですね。夜更かしした時にはありますけど……。昨日は早かったですから、なんか目が覚めちゃうんです」
「早いったって……」
11時を回っていたはずなのに。
できあがっているご飯にみそ汁。漬け物に目玉焼き。
食欲をそそる匂いが、鼻孔をくすぐる。寝起きで怠い体に、活を入れてくれる匂いだ。
もうすっかり虜になったみそ汁の味に舌鼓を打ちながら、晃一はちらりと裕真を上目遣いに見つめた。
みそ汁の効能か思い出してきた昨夜の決意が、いきなり実現不可能な気分になってきたように感じて、気付かれないようにみみそ汁の中にため息を落とす。
どうやったら裕真の役に立てるだろうか?
いろいろと考えてみるけれど、裕真のテリトリーで何かできることといえば、これがまた情けないことに何も思いつかない。なにしろ、裕真は家事全般なんでもできるのだ。
晃一が何か手助けしようと思っても、きっと裕真の邪魔になるだけで。
裕真になくて晃一にはある最たるものは仕事だが、それはもう断られている。
いつか必ず入って貰おうとは思うが、こればっかりは本人の意思が大事だ。となれば……。
「なあ、何か欲しいものないか?」
ずずっとみそ汁を吸いながら、上目遣いで窺う。
言われた裕真は、きょとんと晃一を見返していた。
「ほら、いっつも世話になってるから、何かお礼でもしたいと思ってな」
「お礼なんて——いりませんよっ」
けれど、裕真はぶんぶんと音が鳴りそうなくらいに勢いよく頭を振った。
「俺が好きでしているんです。それに食べてもらえると作り甲斐があるし。送ってもらった食材も傷まないし」
「けどさ」
「お礼なんてもらえるような事してないですっ」
だからいらない、と強く拒絶されて。
こういうところは意外に意固地で、晃一は、ダメか……と、力なく空になったお椀をちゃぶ台の上に置いた。
裕真にあって晃一にないものはいっぱいあるけれど、晃一にあって裕真にないものはあまり無い。
だけど、それをひけらかしたところで裕真は喜ばないのだ。
たとえどんなに高価なものを贈ったとしても、裕真はこの調子で絶対に受け取らないだろう。
それに晃一自身、物で裕真を釣りたいわけではなかった。
それでも、言ってしまったのは、それしかなかったからだ。
後はどこかに遊びに行くとか……。
けれど、男二人で——特に裕真が行って楽しめるところ、となるとこれまた思いつかない。
一体どうすれば、裕真は喜んでくれるのだろう?
はあっと重いため息を吐く晃一の前には、すでに裕真はいない。
かちゃかちゃと洗い物が始まる音に、ぼんやりと視線を向ける。
ほっんと、良く動くよなあ……。
慣れた仕草で洗い物が手際よく片付けられていく。その姿をぼおっと見つめていると。
「あっ」
水音共に、裕真が小さく叫んだ。
何、と背を伸ばした晃一の視線の先で、かすかに見えた裕真の横顔が苦笑を浮かべていた。両腕を上げ、服を見下ろしている。
「どうした?」
「え、あっ、ちょっと跳ねちゃって」
振り返った裕真のシャツの濡れた部分の色が変わっていた。ところどころに白い泡も付いている。
「大丈夫か?」
「着替えようかな……。ちょっと酷いですよね、これ」
つんと裾を引っ張って自分でもまじまじと見つめて、苦笑いを浮かべていた。その苦笑に、晃一もつられて笑みを浮かべた。らしくない失敗は、偶然だったのだろうけれど。それでも、裕真がそんな失敗をするのが微笑ましくて堪らない。
「そうだな、着替え……」
着替えてしまえ、と言いかけた晃一の言葉が止まる。
目の前で裕真が無造作にシャツを捲り上げたのだ。肌着を着けていない裕真の肌が日の光の下に晒される。
ごくり、と自身の喉が音を立てたのが、どこか遠くに聞こえた。
スポーツマンのように筋肉隆々という訳ではない。けれど、皮膚の下で筋肉が動いているのがはっきりと判る。
伸びる腕から肩。
肩胛骨から背中、腰にかけて。
細身の体に、意外なほどに筋肉がある。
今まで見たことがなかったのだろうか?
意外なほどに男らしい体つきに驚きを禁じ得ない晃一は、必死で思い起こそうとしたけれど。
あんな風に肌を晒した裕真を見たことが無いことに気が付いた。
風呂に入っても、裕真はちゃんと着替えて出てくるし、朝は朝で晃一が起きるころには、もう着替え終わっている。
ラフなトレーナーを着ている事が多いせいだろうか。裕真はずいぶんと着やせするタイプだったらしい。ひ弱に見えたけれど、それは服から出ている場所の印象と表情と、その細身の体のせいだった。
すっかり服を着終えた裕真の肌はもう見えない。
けれど、彼が動くたびに晃一の目には裕真の筋肉が動く様子が見えていた。
肩胛骨が動き、腕の筋肉が動き——。
そういえば……。
唐突にずっと気になっていた事を思い出した。思い出した途端に、口が開いていて。
「なあ、裕真?」
「はい?」
振り向かずに返事をする裕真に、僅かながらに躊躇う。
けれど。
「俺が酔っぱらってここに初めて来た日な」
「はい?」
「俺……重かった、ろ?」
「そうでもなかったですよ」
肩越しに振り返った裕真はためらいなく答えて。
「タクシーに乗せるまでと、降ろしてから部屋に運ぶだけでしたから」
短かったしと苦もなく言ってのけている裕真の言葉に、晃一は躊躇いがちに問うた。
「それって、俺……もしかして、負われた?」
ふわふとした浮遊感。
頬に伝わる温もり。
再会した夜の気恥ずかしい思い出の中にあった、未だ正体不明な部分。
「あ、はい。友人に頼んで……。晃一さん歩いてくれなかったから」
くすくすと、思い出し笑いをする裕真に、晃一の体はさらに熱くなった。耳朶まで熱くてそれを手で覆う。
俯いた顔が火照ってしょうがない。
「すま、ん……」
「あ、ほんと俺、重いの平気なんです。子供の頃から良く歩いていたせいか、足腰が丈夫なんですよ。こっち来てからもなるべく歩くようにしているし」
「でもさ」
「買い物も、まとめ買いするんだけど、それ持って歩くし」
いかに重いものでも平気かと力説する裕真の、あの筋肉の正体が判った。
「裕真って、自然に体鍛えているんだな」
距離を歩いて、重い荷物を持ち歩いて。
健康的な食生活だから、贅肉なんて付かない。
すらりとした細身の体は、骨と筋肉だけ。
「鍛えてるって意識はないんですけどね」
「おれなんて、贅肉ばっかだ……」
こんなところも裕真に負けている。
悔しさと、羨望と、憧憬が入り交じった感情を持てあました。
「こっち、もうすぐ終わりますから」
「ん」
思い立ったように身につけるシンプルなエプロンが良く似合うことに、見つめる目が細くなる。
内に籠もるいろんな感情が、少しずつ一つへと集約していくのが、自覚できた。
参ったな……。
時が経つにつれて、裕真への思いが強くなる。
10も年下の大学生の子。
なのに、目が離せない。
「裕真」
「はい?」
「今日、洗濯終わったら、どっか買い物行かないか?」
少しでも晃一にできること。
「俺の車で、郊外にできたスーパー行こう。まとめ買いするのに便利だろう?」
何だって良い。
「え、でも悪いです」
「悪くないさ。俺が食べたいものもあるし。一度裕真に作ってもらいたかったんだ。その材料とかさ、な」
足代わりでもなんだって良い。
「そうですか? だったら」
「そうそ。ほら、行こうぜ」
裕真が頷いてくれたことにホッとしながら、晃一は急くように彼の背を押した。
今は、裕真にとって必要不可欠の買い物に付き合うくらいしか、できそうになかったからだ。
出会うことなど考えてもいなかった相手と出会うと、その相手が本物か勘ぐりたくなる。けれど目をこらしても、彼は間違いなく知っている相手だった。
たくさんの人々が行き交う店内の、ちょうど中央部分。いくつかのテナントからの通路が交わる場所は少し開けていて、待ち合わせに最適な場所となっている。近くにあるエスカレーターを使って行き交う人も多い。
そんな場所で、晃一は信じられないと呆然と立ち尽くした。
「なんで……ここへ? なんか、ひどく場違いじゃないか?」
思わず呟いた晃一の本音に、静樹も自覚はあるのか眉根を寄せて視線を逸らした。
休みと言うこともあって、家族連れの多いスーパーの中。その中でもこの場所は、年のそこそこいった男性がやたらに多い。その中で、カジュアルな姿なのに凛とした雰囲気を持つ静樹は、妙に浮いていた。
その静樹が眇めた視線を送り、訝しげに問うてくる。
「お前の方こそ、なんでこんな遠い店に……。そっちこそ、よっぽど似合わないだろう?」
「俺は、まあ……」
肩を竦めて苦笑を返す。
確かにほとんどコンビニで事足りる晃一の行動範囲には、こんな大型スーパーは入っていなかった。衣食住に必要な物は、実家に行けばあるのだから。
だが、コンビニや近所のスーパーぐらいだと、裕真は一人で行けると断られそうだったのだ。
それにこれくらい大型だと買い物も時間をかけて行える、と思ったけれど。
手持ち無沙汰な若い男が二人。
知らず互いに視線を合わせて、同時にため息を零して。
「慣れないから疲れたんだろう?」
苦笑と共に零された静樹の言葉に、晃一も苦笑で返した。
数少ないイスから立つ気力がない。
最初は、裕真に付いて回っていたのだが、彼のパワフルと言って良いほどの買い物にかける行動力と、人混みと、眩しいほどの照明に疲れてしまったのだ。
「買い物にこんなに気力と体力を使うとは思っても見なかった」
「同感だ」
口元が薄く開いて、笑みが浮かぶ。
「静樹は、カズミちゃんと来たんだろ?」
この静樹が、こんなところにいる理由など一つしか思いつかなくて、幾ばくかの揶揄を込めて問いかけた。
「……そうだけどな」
言った途端に、てきめんに視線が泳ぐ。
滅多に見せない柔らかな笑みが、その口の端に浮かんでいた。
カズミの話題が出るときに、静樹の口元に浮かぶあの笑みだ。初めて気付いたときには驚いて、そんな笑みを浮かべさせる相手の子に嫉妬したこともあったけれど。けれど、そんな相手を見つけたことは良いことなのだと考え直した。
幸せであれ——と願うようになったのはいつの時からだろう。
この何でもできる従兄弟の意外な一面が微笑ましくて、大切にしたいと思うようになったときのような気がする。
この静樹の唯一の弱点。
もっともその弱点を容易に突けば、よけいに激しくなって返ってくるから、やはり静樹は侮れない。
「ってことは、今日こそは、カズミちゃんに会わせてくれるんだろう?」
かなり若いと聞いているその相手の子。
実は、未だに会わせて貰っていない。なんだかんだ言い逃れて、その機会を作ってくれないのだ。
「可愛い娘なんだろうなあ、静樹がべた惚れなんだから」
「べた惚れって……。それは止めろと言っているだろう? それに、別に会わせたくなくて会わせなかった訳じゃない。ただ、機会が無かっただけだ」
「だから、その機会を作ってくれなかったくせに」
静樹の視線が先ほどから、エスカレーターへと向かっている。
上がれば、衣料品。下に降りれば食料品のフロア。静樹の視線を辿れば、下りのエスカレーターのようだった。
「そういや、料理上手なんだってな。お前、最近少し太ったろ?」
「え?」
途端にひくりと強ばった静樹に、笑いかける。
「気が付いていない? 前はさ、痩せすぎってくらいだったけどな。シャープすぎて、尖った感じが強かったんだけどな。今は顔の輪郭が少し丸くなっているよな」
「そりゃあ……多少は。だが、そんなに大きくは……」
「太っているってことは無いからな、俺は悪か無いと思うけど。印象が柔らかくなったっていう程度。いつまでもきついだけじゃいられないだろ? 今くらいのがちょうど良いって」
だが、そんなほんの少しの違いに気付いている人は多い。
晃一の代わりに、厳しさを全面に出していた静樹。その手腕を評価されていると同時に、嫌われているのも知っている。
それもこれも、晃一自身が情けないせいではあるから、静樹の印象が変わってくれるのは嬉しいことだ。
「それを言うなら、晃一もだな」
しみじみと自分の考えに浸っていた晃一に、どこか冷ややかな言葉が向けられた。
一瞬、何を言われたか判らなくて、静樹を見つめて。
「えっ、俺、太った?」
慌てて己の腕や腹を見つめる。
「太ったというほどではないが……。いや、太ったかもな。ウエスト、きつくないか?」
揶揄の込められた視線と口調に、ひくりと強ばったのは晃一の頬だ。
「そんなことは……」
「前は不規則な生活で、結構食事を抜いていただろう? だが、最近はどこぞへ出かけては据え膳上げ膳を享受しているというじゃないか」
「享受っていうか……。いや、裕真の食事は美味しくってさ?」
「だからと言って、据え膳上げ膳はないだろう?」
「誰がそんなこと」
確かに据え膳上げ膳ではあるけれど、なぜに静樹がそんなことを知っているのだろう?
窺うような視線に、静樹が吐息を落とす。
「いつかお前が、嬉しげに呟いていたからな。独り言にしては、大きかったからよく聞こえた」
「え、本当か? 俺、そんなこと言った?」
「言った。まあ、今日はちゃんと買い物に付き合っているってことだろう? お前がこんなところにいる理由は」
言われて、「ああ」と頷く。
別に隠すことではないし、静樹はまだ裕真と再会していないのだ。この機会に会わせるのも良いかもしれないだろう。
「子供の頃と同じでひょろ高い奴だけどな。でも結構力は強くって。見た目を裏切ってるよ」
「そうか。……あっ」
昔を思い出したのか、遠い目をした静樹の顔が不意に上がった。視線がまっすぐにエスカレーターへ向かっている。
「何? カズミちゃん?」
これは絶対に見なければ、と晃一もそそくさと立ち上がって、視線を向ける——と。
「裕真っ」
「あ、すみません。お待たせして」
両手一杯の重そうな袋をものともせずに裕真が小走りに駆けてくる。
「なんか、ずいぶん買い込んでいるな」
長いネギと大根の覗く袋はなどは、今にも持ち手が千切れそうだ。
「あ、これは俺のじゃないですよ」
そう言って振り返った先に、男の子が申し訳なさそうに立っていた。その子も、重そうな袋を両手にぶら下げていた。
「あの……」
「ここに来れば連れがいるからって言うんで、そこまで一緒に持ってきたんですよ。でも、俺先に走っちゃって」
「あ、ありがとうございました。俺の連れって、彼なんで」
にこりと笑う男の子。
その視線の先を裕真が辿り、遅れて晃一も辿って、まさか——と目が点になった。
「和巳、呼んでくれれば良かったのに」
心配そうにその手の荷物を取り上げるのは、静樹だった。
「エスカレーターだから、何とかなるかなあって思ったんだけど、結構重くってさ。そしたら、この人が一緒に持ってくれて」
「それは、すみませんでした」
「あ、いえ」
裕真が、慌てたように首を振る。
にこにこと笑みを浮かべる彼は、高校生くらいだろうか?
可愛いと言えば可愛いかもしれない。
けれど——どこからどう見ても男。
「すっげぇ美味しそうなカツオ有ったんだ。親父に教えて貰った料理、一度作って見たかったんだ」
「お父さんの? それは美味しそうだな」
「んっ」
料理上手な可愛い子。
間違いではない。
そして、静樹がどんなに和巳を大事に思っているのかは、その柔らかな視線だけでも判る。
「ああ、本当に重い。どうもすみませんでした」
裕真が持ってきた荷物を持って、静樹が顔を顰めた。
「エスカレーターの乗り降りに手伝っただけですから」
まっすぐに静樹を見つめる裕真に、ふと晃一は首を傾げた。
どこか陶然とした表情をしていると思うのは、気のせいなのだろうか?
嬉しそうに駆け寄ってきたときには、まっすぐに晃一を見つめていた裕真は、今は静樹しか見ていない。
「裕真君、だよな」
「はいっ」
弾む声。
ずいぶんと嬉しそうな反応に、晃一の眉根が寄った。
「え、何? 静樹、この人知ってんの?」
「あ、ああ。従兄弟の家の近所の人だ。子供の頃遊んだことがある」
「へ、え?、すごい偶然っ。静樹の子供の頃、知ってんですか?」
にこにこと楽しそうに笑うカズミ……くん。
晃一にしてみれば、名前からして女の子だと思っていた相手が、実は男の子だったっていう事実は驚愕して然るべきものな筈。
なのに、今は、裕真が静樹しか見ていないことが気になって仕方がない。
「いえ、俺が遊んで貰ったときには静樹さん達はもう大きくて。凄く立派に見えて」
「それって、いつ頃?」
「……確か俺が大学に入るか入らないか……、か? 最後に会ったのは」
「そのくらいですか? 確か10年くらい前ですよ。俺はまだ子供だったから、大人の静樹さんが凄く格好良くて」
「へえ?、静樹は今でも格好良いけど、その頃から格好良かったんだ?」
「はい。俺が住んでいたところは田舎だったから、静樹さんって近所の人とは全然雰囲気が違ってて」
「ああでも、想像できる」
静樹を褒められて我が事のように喜ぶ和巳を、静樹も苦笑を浮かべつつも大事そうに見つめている。
そんな静樹を、裕真は嬉しそうに見つめていて。
なんで、そんな目で静樹を見るんだよ。
心臓がぎゅうっと締め付けられる。
息まで苦しくなって、晃一は大きく息を吐いた。
明るい照明の下、明るい声音で楽しそうに語らう三人。
その中に入りたいのに、入れない。
口を開けば、とんでもないこと言いそうな予感があって、声がかけられないのだ。
みんなが楽しいのだから、喜んで良いはずなのに。
静樹が幸せなら、良いと思っていたのに。
けれど。
胸が痛い……。
どうすれば良いのか判らなくて、けれど、何かがしたくて堪らない。
零しそうになったため息すら、聞かれるのが怖くて飲み込む。
手のひらに爪が食い込んで、その痛みだけが現実のもののように感じる。その痛みに縋り付くように、晃一はひたすら両手を強く握りしめていた。
続く