【影踏み】  1

【影踏み】  1

 車を庭に乗り入れた家城純哉は、灯りの消えた暗い窓を見つめてため息を零した。
 家主である隅埜啓輔が戻ってきていないことは知っていた。その窓に人影は無いのも当たり前だと判っていた。それでも、思わず、いないのか、と捜してしまう。
 そんな自分に気付いて口元に嘲笑が浮かんだ。
 帰る前に彼の事務所に寄って「まだ、かかる?」という嘆きを聞いている。
 最近の啓輔は特に忙しくて、帰りもずっと遅かった。夜半の逢瀬もしばらく途絶えていたから、いないと判ってはいても、会いたくて来てしまった。
 情けない……。
 女々しいと己の心を罵倒して、純哉は庭の木の下に佇んだ。
 疲れて返る啓輔を労りたいと思ったからこそここに来たのだと、そんな正当な理由があるというのに。
 それでも主のいない雰囲気は相容れなくて、何とも言えない寂しさが湧いていくる。それはいつも賑やかな啓輔がいないというだけでは無いだろう。どことなく寒々とした雰囲気はこの土地が経験した哀しい過去のせいかもしれない。
 純哉が今いる庭は、車が一台入ってもなお余裕はたっぷりある。
 それでなくても田舎の庭は広いけれど、この土地は特に建物の面積が狭い。そこかしこに痕跡が残っているから、知らない人でも家があったのだとは容易に知ることができるだろう。
 たとえば、入り口から並んだ庭の踏み石が途絶えている場所。そこが玄関だったのだと何かの折りに聞いた。
 純哉が見た時には、もう無惨に煤けていた。かろうじて家の形は保っていたけれど、何もかも真っ黒で。屋根には大きな穴が開いていた。
 しかも崩れる危険があるからとすぐに壊されたから、見たのは数回でしかないのに、それでも黒い家の記憶ははっきりと残っていた。その記憶が、闇の中では鮮やかに甦る。
 もっとも、残ったのはそんな哀しい記憶だけではない。
 猛火に晒されて枯れかけた庭木も今年からは少し勢いが戻ってきたようで、月明かりに照らされた緑の葉がざわざわとざわめく。手入れの行き届かない庭は、雑草という名の緑がいっぱいだ。
 その庭でもっとも大きな木は、火事でも残った長屋の啓輔の部屋からでも良く見えた。
 夏はその枝葉が強い日差しを遮ってくれ、涼しい風を通してくれる。天然の葦簀のようなもので、落ち葉掃除が大変だとぼやきながらも啓輔がたいそう気に入っているのを知っていた。
 それだけではない。
 この土地も、この長屋も。隣人の佐山家の人達も地区の人達も、みんな啓輔は好きだ。一度にいろんなものを失ったせいか、残ったそれらを啓輔はひどく大事にしていた。
 そんな啓輔の思いに共感したい。できれば思うようにさせてあげたい。
 だが──この場に佇んでいると、寂しくて堪らない気分になる。
 こんな寂しい場所から連れ出して、あの明るいマンションの一室で共に暮らしたいと願う。
 純哉自身、一人で過ごしてきた時間があったことなど信じられないほどに、心が啓輔を求める。
 いつでも、あの笑顔を見ていたいのに。
 ずっと願っていて、けれど互いを思うが故に未だ叶わぬ夢。
 佇む純哉に風が絡んできた。
 生暖かく湿った風だ。身動げば不快な空気がまとわりつく。その不快さに思わず空を見上げれば、月が雲に隠れ始めていた。
 同時に、はるか遠くから雷鳴が届く。
「夕立か」
 こんなところで濡れるのもばからしい。
 手の中には、この家のカギと自分の家のカギ。握り直せば、手の中で踊って音を立てる。
 今は二つのカギでも構わない。
 同じ熱を持つ形の違う金属を指先で探りながら、「今は」と思う。
 互いの家を行き来して、それでも幸せだと思えるのだから。それに、純哉がこっちの家で待っていた時は、帰ってきた啓輔は本当に嬉しそうだ。
 その笑顔を見るだけでも、幸せだから。
 カチャ
 小さな音と振動。続いてドアノブに手をやれば、簡単に開く。
「ただいま」
 自然に言葉が出るほどにこの家にも馴染めていると気がついて、純哉は微かな笑みを浮かべた。
 

 雷鳴が古い家を震えさせる。
 予想通り純哉が家に入ってすぐに雨が激しく降り始めた。遠かった雷は、閃光と共に音を響かせる。
 今日のメニューは、啓輔の好きなミートソーススパゲティ。と言っても、冷蔵庫の中身は空に近く、缶詰のミートソースがなければ、卵焼き程度しかできなかった。それに野菜サラダ。冷蔵室の閑散さとは別物ではないかと思うほど一杯だった野菜室のキュウリとレタスとトマトで作ったものだ。
 食べきれない、と泣きつくようにして貰った野菜は、純哉の部屋にもたくさんある。毎日毎日野菜を食べても、また持ってくる啓輔と二人で、ため息を吐いたこともあった。
 けれど、こんなふうに貰えることがどんなに幸せか、啓輔は良く知っていて、愚痴を言いつつもいつだって嬉しそうに食べていた。
 と──。
 稲光が窓の外を白く染めた。
 食器を並べる音が耳に届かないほどの雷鳴が響く。重なって聞こえるのは、激しい雨音だ。
 いつの間に、と目を見張るほどにいきなり激しくなった雷雨は、車の運転すら難しいと思えた。
 啓輔はまだ会社だろうか?
 原付でトコトコ帰ってくる啓輔にとって、この雷雨は災難でしかない。風も酷くなっているようで、外の木のざわめきが酷くなる。
 電話をして迎えに行った方が良いだろうか?
 冷たいと評される横顔が、濡れそぼった啓輔の姿を想像した途端、歪んだ。
 窓に向かい、暗い空を見上げる。
 室内の灯りに照らされて、太い雨の軌跡が空から地面まで届いていた。さっきまで乾いていた地面は、今は無数の水たまりに覆われている。
 これは……。
 会社に残っていれば良いが、帰る途中であったら。
 黙って待って脅かそうかという思いは立ち消えて、啓輔の受難を思って顔を顰めた。
 ポケットに入れていた携帯を後ろ手に取り出し、フラップを開ける。
 短縮の一番に登録されている番号を押そうとしたその時、庭先が明るい照明に照らされた。
 タイヤが土を喰む音。
 ぐるっと旋回した照明が、車のヘッドライト──しかもタクシーだ。
 一瞬、啓輔が乗っているのかと思ったが、どんなに遅くなっても彼は自分の原付で帰る。でないと次の日の朝もタクシーを使わないとダメだから。
『そんなもったいないことできねえよ』
 危ないから、雨の日は風邪をひくから。
 何度言っても聞き入れて貰えなかったのだ。そんな啓輔がいつか止むと判っている雨に、タクシーを使うことはない。
 雨音の中に、ドアが閉まる音が響く。バシャバシャと聞こえたのは、誰かの足音。眩しすぎるほどのライトが、また旋回した。
 タクシーを返してしまう?
 純哉は眉根を寄せて、どうしたものかと思案した。
 家主を無視して迎えて良いものだろうか?
 けれど、窓から零れる灯りに、人がいるのはパレているだろう。大事な客だったら──と思うと、無視するわけにはいかない。
 鳴り響き始めたチャイムの音に、重いため息を吐いて、純哉は窓から離れた。


「あれえ、啓輔は?」
 覗き窓など無いから、さっさと玄関のドアを開ける。と、僅かの間に濡れた髪をかき上げる男の姿があった。しかも開口一番これだ。
「……彼は、まだ会社です」
 見たことがあった。
 彫りの深い顔。肌の色は日に良く焼けたのかと思うほど浅黒いが、元からだと言っていた。純粋な日本人なのにどこかエキゾチックなその雰囲気を持つ彼は、骨太でがっしりとした体格をしている。僅かな間に濡れたのか水滴が縁なしのメガネを伝っていた。
 そんな特徴的な相手だから、純哉は記憶を探ることもなく、名前までも思い出した。
「晃一さん……、どうしたんですか?」
「いやあ、ちょっと啓輔と話がしたくてね」
 にっこりと笑って、さっさと中に入ってくる啓輔の従兄弟──萩原晃一(はぎわらこういち)を止める手だてなど無くて、純哉は眉間のしわが深くなるのを何とか堪えて後を追った。
「お仕事の方は? お忙しいのでしょう?」
 若くして社長の地位にある晃一は、法事には必ず来てもとんぼ返りをするほど忙しい。なのに、平日でしかも特に用事もないはずの今日、いきなりの訪問の意味が判らなかった。
 彼が来るので有れば、啓輔が何か言っているはずだ。
 だが、ここ数日の記憶を辿っても、そんな記憶は無い。
「忙しい……って言ったら、忙しいけどなあ。俺なんていなくても、静樹がなんとかしてくれるよ」
 その口元に浮かんだ自嘲のような笑みが気になった。
「晃一さん?」
「俺より静樹の方が会社にとっては大事なのさ。何せ俺が休んでも何にも滞らなかったくせに、静樹が三日連続で休んだ途端に、てんやわんや」
「……何かありましたか?」
 谷口静樹(たにぐちしずき)と言うもう一人の従兄弟も純哉は幾度か会ったことがある。晃一のように啓輔のため、ではなく、晃一が行くのであれば、という態度が明確な鋭利な刃物を思わせる青年だった。
 純哉の目から見ても、静樹と晃一は、これは、と勘ぐってしまうほどに仲が良かった筈だ。甘やかせすぎではないかと思うほどに、かいがいしく世話を焼いていたことを思い出して、首を傾げる。
「……ちょっとね」
 晃一は骨太の体格のせいで面と向かうと怖い雰囲気があるが、それでも会話をすれば少年のような陽気さがいつでもあった。なのに、今は憂鬱そうに唇を尖らしている。
 喧嘩、でもしたのか?
 だからと言って、こんなところまで来るだろうか?
 曲がりなりにも社長という地位にいて、そこそこの会社を引っ張っているのに。たかたがそれだけのことで、放りだしてくるとは思えない。そんな無責任な男ではないことも今までのつきあいから知っていた。
 純哉が訝しげに見つめているのが判ったのか、不意に晃一が苦笑した。持ってきたバックを指さして、言う。
「まあ、仕事はね……。ノートパソコン持ってきたし。メールチェックできれば、多少のことはなんとかなるから」
「ああ……って?」
 嫌な予感が込み上げて、思わずその荷物を持ち上げた。
 特大サイズのスポーツバックとノートパソコンが入っているというビジネスバック。どう見ても、一泊の荷物ではない。
「もしかして?」
「しばらく泊めて貰おうと思ってさ」
 にっこりと笑われて。
「ところで、お腹空いたなあ。何か、無い?」
 見付けたサラダに釘付けの晃一の後ろ姿を呆然と見やる。
「しばらく、ですか?」
「ん?、静樹が処理できない案件でもあったらさ帰るけど。後、お客への挨拶とかさ、そういうのはこっから行くよ。幸い、空港に近いからすぐに東京に行けるし」
「それって……」
 まさか。
「社長室が岡山に有ったっていいだろ?」
 トマトをつまみ食いしながらにっこり笑う晃一に邪気は無い。
 だが、予想を違わなかった晃一のセリフに、純哉は自分でも珍しいと後から思ったほどに、呆然自失してしまった。

 雨が止むのを待っていたという啓輔の帰宅は、11時近くになってからだった。
 庭にあった純哉の車に気がついたのだろう。
 嬉々として飛び込んできた啓輔の動きが、「お帰りぃ?」と明るく出迎えた晃一の前でぴたりと止まる。気がつかなければ、仏頂面をして床に座っていた純哉に飛びついていただろうけれど。
「晃(こう)兄ちゃん……、何で?」
 一度は険悪な関係ではあったけれど、今はすっかり仲良くなった従兄弟との再会を悦ぼうとはしているようだが、何でもないこの時期に彼がいることがどうしても馴染めないらしい。きょときょとと晃一と純哉を交互に見やってどうしたものか途方に暮れている。
 啓輔は純哉の感情の変化にすぐ気付く。今機嫌が悪いことにも気がついているのだ。
 その理由が、晃一にあることも容易に想像できたらしい。
「えっと……俺も食べて良い?」
 しばらく逡巡した後、おずおずと伺ってきた。その言葉と情けない表情に、純哉の地に落ちていた機嫌も、ふわりと浮上する。
「ええ。すぐに用意します」
 今まで働いていたのだ。疲れている恋人を癒してやりたいからこそ、今日ここに来たというのに。
 闖入者に気を取られて、肝心の目的を忘れていたと、純哉はすぐに料理にとりかかった。
「あ、俺、先に食べちゃったけど」
 今頃気付いたように申し訳なさそうにされても。
「いいですよ。材料はまだあります」
 骨太とは言っても余分な贅肉などなさそうな割には、見事と言える食べっぷりだった。空っぽになったサラダの器に新しく切ったトマトを入れていく。
「美味しいだろう? 佐山のおばちゃんがくれたんだ」
「あ、お隣の? ああ、旨かった」
「んで、何で来たんだよ。こんないきなり。俺、何にも聞いていないよ」
「それがさあ」
 最初の驚きが癒えれば、後は仲の良い従兄弟の会話だ。子供の頃のように互いの言葉遣いが幼くなっている。それは、見ているだけなら微笑ましい光景ではあったけれど。
 何となく面白くないのは、あまりにも二人がひっついているからか。
 啓輔のこととなると抑えきれなくなる嫉妬心は、自身でもどうにかしたい。
 こっそりとため息を吐いて、料理に専念しているつもりだが、耳は二人の会話をしっかりと拾っていた。
「静樹が冷たいんだよ」
「静樹が? 何でさ? 晃兄ちゃんの我が儘、何でも叶えてくれそうだったじゃん」
 従兄弟の中では静樹が一番年上なのだと聞いていたが、この二人の会話では静樹はいつも呼び捨てだ。
 変わった関係だなとは思ったけれど、本人達はずっとそれで過ごしてきたので違和感などないらしい。
 前回会った時──と言っても半年以上前の訪問時の仲睦まじい静樹と晃一の様子を思い出す。あの仲の良さに、啓輔は二人の仲をそうだと信じている。帰った後、しきりに騒いでいて、純哉も否定する材料が無かったのだ。
 だが。
「この前、俺失恋してね。そしたら……」
「へ、失恋って、誰に?」
 背後からなのに、驚愕に目を見開いた啓輔の表情が想像できる声音。思わず、純哉の手も止まった。喧嘩したらしい感じは伝わってきてはいたが、詳しい事情までは結局聞けていないのだ。
「この前、お見合いした娘。すごく可愛い子で性格も良くて。気に入ってこのまま結婚までっ、て思ったんだが……」
「断られたって訳ね」
 言い淀んだ先を啓輔にはっきりと言われて、晃一の肩ががくりと落ちた。
「俺、がんばったつもりなんだけどね。今度こそって思ったのに」
「今度こそって……そんなに見合いしてんのか?」
 何気なく問うた啓輔の言葉に、晃一の顔が苦く歪んだ。
「もう、数え切れないくらいにねえ。それでなくても若いってだけで甘く見られるのに、独身だろ? 会合とか行っても、結婚しろってうるさく言われるし。もともと結婚願望が強い方だし。なのにさあ、何でか恋人ができなくて。だったら、見合いをって思ってんのに、数回つきあうと断られるんだよ。今回の子も、今度こそって思ったのに……」
 くしゃりと歪んだ顔が今にも泣きそうだと、考える間も無く、晃一の目から大粒の涙が溢れ出した。
「何でだろう……。何で……」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、子供のように泣きじゃくる。いや、子供そのものだ。
 純哉の目にも、その姿がひどく情けなく映る。
 今まで会った時には思わなかったほど、晃一は泣くと情けない。立派な体格とエキゾチックな風貌とのギャップが激しすぎるのだ。
「晃一さん……あなた、彼女の前でも泣いたりしてませんか?」
 思わず問うてしまうほどにだ。
「ぐすっ、今回はっ、泣いてないっ」
 今回は、ね。
 少なくとも断られた中の数回は、これが原因だろう。
「晃兄ちゃん、昔から泣き虫だったもんなあ」
 苦笑いを浮かべる啓輔がティッシュをボックスごと差し出した。
 泣き虫でも程度がある。晃一のこの泣き方は子供と同じだ。これでは今時の女性の目に叶うわけがない。
「し、ずきっに、絶対泣くなって──ひくっ、言われてたし。だから泣かなかったのにっ」
「地位もお金も、顔もまあまあなのになあ」
「静樹もそう言う。けど、ダメなんだよ」
 しゃくり上げるが止まってきて、なんとか落ち着いてきた晃一が、唇を尖らせて文句を言う。
 その静樹に対しての文句なのだろうが、いい大人のする表情ではない。
 これでも社長か?
 何度も浮かんだ思いは、今や消えなくなっていた。
「しかも、今回は静樹の奴冷たいんだ。いっつも目が赤い時には目薬さして慰めてくれたのに。今度は自分で何とかしろって。今までは、なんだかんだ文句は言っても慰めてくれたのにっ」
 ぶつぶつと呟く。
「ご馳走食べたり、プールで思いっきり泳いだり、ゴーカート走らせたり。爽快な気分でいさせてくれてさ、そうすると失恋なんて忘れてしまえたのに」
「ふ?ん、いっつも静樹が?」
「そうそう。この前の時は映画三昧。コメディタッチの面白いのばっかりで思いっきり笑った。静樹、自分ではあんまり映画なんて見ないクセに、面白いの良く知っているんだ」
 さっきまで愚痴ていた晃一の表情が変わっていた。嬉しそうに、静樹を褒めている。
「静樹、なんて言うか何でもできるってタイプだよな。頭も良いし、器用そうだし」
「器用そうじゃなくて、器用。忙しいからなかなか自分ではやろうとしないけど。でも一人暮らししている静樹のマンション、すっごく綺麗に片づいていてさ。何度か彼女の部屋行ったけど、静樹の部屋が一番綺麗だった」
 嬉しそうに静樹の名を言う晃一は本当に嬉しそうで。
「静樹が家にいたら、便利だと思うよ」
「晃一さん、もしかしてそんなふうにいつも彼女たちに教えませんでしたか? 静樹さんのこと」
「へ? う?ん……そう言えば、話したなあ。俺が社長で、静樹が副社長で。で、静樹のこと言うさ、なんかつい自慢話みたいになってね。こんな何でもできる奴が従兄弟なんだよって感じで」
 それがどうした?
 啓輔の前に皿を置く純哉を見上げる晃一は、何の疑問も抱いていないようだけど。
「……女性は他人と比較されるのを嫌う人が多いですよ。まして、男性のその従兄弟の方が家事全般上手で、あなたが褒め称えるほどで」
 それに。
「仲を勘ぐられたのかも知れませんね」
 言いかけた言葉を飲み込んで、そんな風に誤魔化す。
「仲って?」
「晃兄ちゃんと静樹が実は恋人同士ってこと」
 よっぽどお腹が空いているのか、掻き込むように食べている啓輔は、遠慮という言葉はどこかに置いてきてしまったようだ。
 止めようかと思ったが、まあ、相手は晃一だし、と純哉は無視して啓輔の前に水を置いた。
「へ……そうなの?」
「自覚ないんだ……。あんなに甲斐甲斐しく世話されてんのに」
「顔の良い方々ですから。女性陣にはあらぬ想像する方もおられますし」
 そうでなければ、もっと悪い想像をするだろう。
「そういえば、晃一さんのスケジュールは、静樹さんが把握されていますよね」
「そうだけど?」
「夜などにどこかに誘われた時、次のスケジュールの段取りは静樹さんがしたりしているんでしょうね」
「そう……だけど?」
「晃兄ちゃんのことだから、静樹がダメって言ったから──なんて正直に伝えてんだろ、彼女たちに」
「そ…う……だけど、その……拙かった?」
 ひくひくと強張る頬を見れば、彼もその拙さに気がついたようだ。
「それって、マザコンみたいだよなあ」
 途端に、遠慮もなく啓輔が言い放って。
「マザコンって……。だって、静樹は」
「何でもこなしてくれるんだよな。家事一切、スケジュール一切。そう言えば、出張の荷物も静樹がわざわざ家に来て用意してくれるんだって?」
「それは……俺、すぐ忘れ物するから」
「同じじゃん、お母さんが静樹だって言うだけで」
「……」
 晃一が口をぱくぱくさせて何か言おうとする。
 けれど、言葉は出なくて。
「啓輔……言いすぎです」
 皿を下げるついでに、耳元でそっと囁けば、あちゃあっと啓輔が顔を歪めた。
 けれど、もう遅いのは明白だ。
 がたんと音を立てて立ち上がった晃一が、のろのろと階段へと向かう。
「あ、あのさあ」
「なんか疲れた。布団借りる」
「あ、ちょっと待ってよ。出すから」
「いいんだ……。俺、何にもできないけど、布団敷くくらいはできるから」
 いじけ声が、啓輔を止める。
「そこまでは言ったつもりはないんだけど……」
「お休み……」
「あの?」
 啓輔が心配そうに上がっていく晃一を見つめるが、晃一は黙々と上がっていってしまった。
 視界から、完全に晃一が消えたのを確認してから、小さな声で囁く。
「啓輔……覆水盆に返らず、という言葉を知っていますか?」
「ごめん」
 これが啓輔なのだけど、さすがに今日は拙かった。もっとも、止めなかった自分も同罪だ。
 二人して天井を見上げながら、揃ってため息を吐く。
「まあ、自覚して貰う方が、晃一さんのためにも静樹さんのためにも良いことだと思いますよ」
 恋人でないのであれば、あのひっつき方は異常だ。
 もっとも、晃一がそう思っていないだけで、静樹の方は判らないが、今回はその静樹が冷たいと言うのだから、何かが静樹の方にもあったのだろう。
「大丈夫かなあ……晃兄ちゃん」
 心配そうな啓輔には悪いが、彼には良い薬だ。だが。
 ドタッ! バサッ!
「うわぁっ!!」
 騒々しい物音と叫び声に、思わず啓輔と顔を見合わせた。
「……押し入れの中身が崩れたような気がする」
 眉間に深いシワを刻み、うんざりと呟くその言葉を否定できない。
「布団敷くくらいはできるんでよすね」
「……知らない。でも……俺がやった方が良いような気がするよ」
 ふらふらと虚ろな瞳が階段へと向けられる。
「私も手伝います」
 未だ聞こえる物音。
 二階の惨状を考えることを放棄して、啓輔と共に重い足取りで階段を上がっていった。

続く