【高鬼(たかおに)】 1

【高鬼(たかおに)】 1

高鬼:鬼ごっこの一種。鬼より高いところに逃げるとOK。
ただし手が届くと駄目というルールがある場合も。
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 家城の恋人──隅埜啓輔は今19歳だ。
 高卒で入社してそろそろ一年。

 入社当初から、少し斜に構えたようなところもあったし、誰も知らない家族の確執から精神的には同年代よりは大人びてはいたけれど、それでも年相応の態度が見られることもあった。
 けれど今は、それがどうだろう。
 黒かった髪をほんの少し栗色に染めて、前髪を少し上げ気味にし、サイドの髪をバックへと軽く流す。
 髪型を変えただけなのに周りの見る目が変わる。
 外見だけでなく、知識も大人にふさわしいものとなり、内実ともにバランスのとれてきた啓輔は、より大人らしく、仕事もこなせる頼もしい男へと変化していた。
 頼れると、誰もが認めていけば、さらにつきあいは広がり、受ける知識も広がっていく。高校までとは違う世界の友人たちから入る情報が、どんどんと彼を変化させていっていた。
 それは、家城にとってはやはり好ましい変化だ。
 恋人の変化は──何より、その変化が陽性のものであるのだから、嬉しいものでしかない。
 だが、その変化は、家城以上に周りの女性たちにも好ましいものであったようで。
 休憩に行きすがらにすれ違った女の子達に呼び止められ、仲良く雑談に興じている恋人。
 さすがに内心では平静ではいられないが、培ってきた鉄仮面はそんなことで外れない。
 微かな笑みは愛想笑いの何物でもないが、ちらりと横目で窺ってくる啓輔以外は気付きやしない。
 もっとも、女性の視線の意味などすでに理解している。
 彼女たちにとって、家城は眺めて楽しむ花なのだ。
 傍らにいて、愛でることはできても、積極的に手折ろうとすることはできない。その高価な花が自分たちでは扱いきれないことを、知っているからだ。
 だが、啓輔は。
 笑いさざめく輪はさらに人を増やして、通路を塞ぎかけていた。その中で如才なげに応える啓輔はぐっと大人びていて、一年ほど前のおどおどした雰囲気などどこにもない。
 そんな啓輔は、彼女たちにとって手の届く花なのだ。手に入れて愛でたいと、彼女たちの瞳が訴えている。
 けれど。
「……それじゃ」
 啓輔は、そんな彼女たちに興味はない。
「ごめん、待たせた?」
 彼の性癖は同性に向けられているのだ。
 だから、いくら啓輔の回りに女性が群がっても、不快ではあっても平気な顔を見せることには、何の労力もいらなかった。
 その啓輔が歩み寄ってきた刹那、ふわりとシトラスの香りが漂った。くどすぎない、ほどよい香りだ。その香りに家城が顔を顰める。それは最近の啓輔が好んで使うローションの香りだと知っていた。
 だが顰めたのは、嫌いだからでない。
 その香りは、甘い記憶をくすぐる。触れあわんばかりに近づいた時に、特に強く香るそれは、類い希なる快感とともに記憶に植え付けられていた。
「家城さん?」
 少し笑みを見せた啓輔のどこかからかうような表情は、その効果を十二分に知っているからだ。──香りと行為の記憶を複合化して、家城の記憶に植え付け、事後のシャワーの後も使ったから、寝るためにベッドに入った後もふわりと漂った。
 その官能の記憶を持つ香りに、家城は微かに目を細めた。
「まったく、あなたの悪知恵には感心しますね」
「だって、少しは勝ちたいからね」
「誰の入れ知恵ですか?」
 あの時まで、ずっと無香料のものしか使っていなかったのに。
 ごく普通の香りを媚薬にするという、そんな娼婦の手管をいったいどこから仕入れたのか?
 不思議に思っていた家城だったが、啓輔は小さく笑っただけで、視線をそらした。
「内緒」
 短い単語だけを残して、啓輔の歩みが速くなる。
 それはどう見ても答えたくない質問から逃げているのだろう。
 だが、食堂に近づくにつれ多くなった人々に、際どい会話はこれ以上は無理だ。もっとも、この程度では他の人たちには何のことか判らないだろうけれど。
 家城とてその程度の配慮はしているが、この慎重そうで実は無鉄砲な恋人は、時に無茶をしてくれる。こんな場所ではこれ以上の尋問は無理だった。
 だが、こういう戯れも心地よくて家城は好きだ。
「まだ多いね」
 人の多さに閉口したように振り返った啓輔の顔に、食堂の明かりが深い影をつくる。
「今日は、櫂もこの時間だって。高山さんも来るんだろうな」
「彼らも、ですか?」
 啓輔の言葉に家城はわずかに目を見開いた。
 啓輔の友達の櫂は、ようやく思いを遂げたのだと啓輔経由で聞いている。もっとも、そういう目で見てしまう家城からすれば、聞かなくても彼らの動向はバレバレだ。
 何しろ彼らは、隠すことなくいつも一緒にいる。
 天真爛漫な櫂とまじめで寡黙な高山が一緒にいれば目立つ。それは自分たち以上だとは思うけれど。
「不思議ですよね」
 テーブルに着きながら、食堂の入り口に顔を見せた二人に気づいて視線を向けた。
 仲がいいというより、元気な子供と落ち着きのある保護者と評されていることも知っている。その二人は、今は櫂が一方的にしゃべっているようだった。
 だが、家城にしてみれば、この二人が連れ立っていると、自信のない高山を世話好きな櫂が引っ張り回している、としか見えない。
 櫂といる高山は、エリート然とした雰囲気がかなり消えてしまうのだ。そして高山もそれでもいいと思っている節がある。
「まあ、櫂が気に入ったんだから、それでいいんじゃない?」
 啓輔が苦笑して返す。
 まあ、確かにそうだろう。
 たとえ見た目がどんなにミスマッチであっても、相性というものはまた違うものなのだから。
 きっと、高山も家城達のことをいろいろと観察しているだろう。
 たまに窺うように見られていることがある。あまり表情は変えないけれど、それでも家城よりははっきりと判る表情の変化。
 彼は、ただ感情を表に出すのが苦手なだけなのだ。
 そういう相手とつきあうのは、感情豊かな人間とつきあうよりは難しい。が、それでも高山が傍にいてもあまり気にならない。
 やはり互いに知っているということが、緊張をほぐすのだろう。
 そんなことをつらつらと考えて、二人がこちらに向かうのを眺めていた時だった。
「あの、さ……」
 啓輔の言いづらそうな声音に反応するかのように、家城の眉間に薄いしわが寄った。
 それでも振り向くころには、そのしわも消える。
「何です?」
 さりげなく返すのは慣れている。
 こんな風に問いかけられるときは、たいてい厄介ごとか、頼み事か。それは、別に啓輔だけとは限らない。
「ん?と、今度の土日も友達と会うことになっちゃって」
「え……」
 さすがにそれには驚いて、驚きの声が勝手に漏れた。ワンテンポ遅れて、あわててその口を閉じる。
 だが、啓輔は何を言った?
 また、土日に?
「どうしても、って言われてさ。なんかいろいろと相談されて……。ややこしいんだよな?、その相談内容が。でも、俺しか相談できないって言われちゃ、なんか断り切れなくなっちゃってねえ」
「先週もそんなことを言っていましたが?」
 啓輔が友人と会うというので、先週末は会えなかった。
 それが今週も、だというのだろうか?
 週末、金曜日の夜から土曜日は、啓輔が家城の家に泊まりに行くのが通例になっていた。そのまま日曜までいることもある。だが、それがダメになったのは、その啓輔の友人のせいで。
 平静を装ったつもりでも、啓輔は気がついたのか苦笑を浮かべた。
「ごめん、でも、どうしてもって言われて……。土曜か日曜だけって交渉したんだけど、もう一回だけって言われてさ。泊まり込みで相談受けるから……な?」
 その友人のことでも思い浮かべたのだろうか?
 困ったと口にしながらも、まんざらでもないような表情が浮かんでいる。
 頼られるのがうれしいのだろうとは思う。
 しかし、そんな表情は啓輔の性癖を知っている家城としては、黙って見過ごすことなどできない。もわもわっとしたどす黒い澱みが胸の内に生まれ、狭い気道を無理矢理這い上がろうとする。
 それを矜持というもので押さえ込んだ。
 こんなことで取り乱すのはあまりにも愚かしい。その矜持は、家城の鎧を強固にする。
「啓輔だけ、というのはその方も相当相手がいないのですねえ。気の毒なことで」
 うっすらとした笑みは皮肉が込められていて、席に着こうとした高山がびくりと反応する。そんな彼には軽く頭を下げた。
 ちらりと啓輔と家城を交互に見やった高山は、結局何も言わずに席に着く。その隣に座った櫂は、異変には気づいていないらしい。席に着くか着かないかの内に、高山に向かってしゃべり始めた。
 その内容から、どうやら今度の週末にドライブに行く算段をしているらしいと判る。
 だが。
「確かに相談する相手ってのはいそうにないんだよ。だからさ、もう一回だけな」
 啓輔は櫂達の話より、そのことが重要だとばかりに家城に畳みかける。
「今週も……」
 隣の仲睦まじい様子が、妙にしゃくに障る。
 ここで啓輔の頼みを許可すれば、また会えないのだ。
 週末の逢瀬は、体の繋がりを意味している。
 毎日だって抱き合いたいと思う相手だが、体への負担を考えて週末だけにしていた。それなのにまた今度も会えないとなると、二週続けて駄目だというわけなのだ。
「だから、また今度ってことで」
 だが、啓輔がここまで頼むのであれば、嫌とは言えなかった。
 彼を束縛はしたくない。
 どんなに好きな相手であっても、プライベートというものはある。特に啓輔は、会社に入って完全に過去の一時期と決別している。家庭生活の破綻から、荒れていた時期だ。そのせいで、啓輔が今も親しくしている友人はとても限られているのだから。
 だからこそ、今も残っている交友関係は大事にしてほしいという願いはある。
 だから。
「そうですか、しようがないですね」
 と、呟いたけれど。
 嫌だという本音が、胸の内からため息になって迫り上がってきて、それを家城は慌てて飲み込んだ。



 今週末会えないというのであれば、週中にでも一度会いたいものだと思った家城は、その件を問いかけようとした。けれども、がやがやと騒ぎながら近くのテーブルにやってきた同僚達に邪魔されて言葉にし損ねた。
 空いた席が少なくて、何人かが家城達と同じテーブルに着く。
 そうなると迂闊なことは言えない。
 もやもやとしたわだかまりを胸に抱えている家城に気づいていないのか、啓輔は、自分より年嵩の人達に親しく話しかけられ、嬉しそうに微笑んだ。
 そのせいで、育ち始めた澱みが、ぐんと一回り大きくなる。
 家城だけだと同じ席で誰も一緒に休憩しようとしないが、啓輔がいると開発部関係の人間達が一緒に席に着くようになってきた。啓輔の友人である櫂がいれば、そちら関係の製造の若い子達と一緒になることもある。
 そうなれば、家城も高山も、少し居心地が悪い。
 だが、二人ともそれが嫌だとは言えない。互いに目を合わせて、わずかに肩を竦めるだけだ。
 会社の人達と親しくしないわけにいかないからだけど──だが。
 彼らは、男、なのだ。
 彼らが啓輔の好みではない、とは判っているのだけど、好みでない啓輔に惹かれた前例を家城自身持っているのだから油断はできない。
 そんな一見無表情の二人の内心など気づきようもない同僚達が、声高にうわさ話に花を咲かせていた。
 それは人の悪口のような物もあったけれど、それはそれで家城にしてみれば面白い情報だった。そんな事を噂される人間も、噂する人間も、それぞれの人となりを知ることができたからだ。
 と、そんな情報を聞いているうちに、気が付いたらうわさ話がどういう経緯か、それぞれの愛車の話になっていた。
「坂木さんってば、えらく高い車に換えたって?」
「ああ、あの金食い虫の?」
「そんな、金がかかんの?」
 啓輔が少しうらやましそうなのは、車を持っていないからだ。入社一年目では、なかなかお金が貯まらない。何より、啓輔は自分の給料だけで生活していかなければならない。
 高卒一年目。
 それで何もかも──家の修理も含めて──賄うには、かなり苦しいと家城に零したことがあった。
 だがそんな事情など他人が知るよしもない。
 未だ、原付バイクでそこそこの距離を通勤してくる啓輔は、こういう時には格好のターゲットだ。
「隅埜もさっさと免許とれよ。で、車買えばいいじゃん」
「んな簡単に言ってくれちゃって?」
 啓輔達に流れる穏やかな時間は、けれど家城にはほんの少し冷ややかに感じる。
 複数いるのに、1人だけのようなそんな疎外感を感じてしまう。だが。
「家城さんは、車買い換えないのか?」
 啓輔の何気ない一言が疎外感を吹き飛ばす。
「私は……そうですね。そろそろかな、とも思うんですけど。今はこれという車がないものですから」
「あ、それ、僕も思うね。なんか似たようなデザイン多くってさ」
 櫂が賛同する。
 彼の車は軽四の中古車だ。彼の体格にはあっているが、一度助手席に高山を見かけたことがあった。
 それほど大きくはない彼だが、やはり窮屈そうで、櫂もそれを気にしているのだろう。ちらりと視線が動く。
「もうすぐモデルチェンジする車もあるし。でも、あれもまだ乗れるだろう?気に入っているって言ってたし」
 櫂の心配に気がついたのか、ぽつりと高山が割って入る。今のままでいい、と暗に言っているのが判る程度には、家城自身、観察眼はある。そして、櫂が心底嬉しそうにしていることもだ。
 そしてその、非常に珍しい発言にも、皆最近は慣れてきたのか平気で応える。
「あ、俺、今度のって楽しみなんだよなあ」
「まあ、好みの問題だからね」
「鈴木さんは、今なんだっけ?」
 啓輔の問いに鈴木が呟いた言葉は、家城にも聞き慣れない言葉だった。
「こいつ、入社早々買った車がルノーなんだよ。で、いまだにローン地獄」
 他の人に会社名を言われて納得した。
「だって早く返したいって思ったんだけどね?」
 そういえば、濃緑の外車が確かルノーだったな、と家城はふと駐車場に視線を走らせる。いろんな車がそこにはあるが、彼の車は、目立たないまでも確かな存在感があった。
「へえ、幾ら?」
 啓輔が何気なく言った問いに、鈴木がはにかみながらその金額を耳打ちしていた。
 その刹那、啓輔が目を見開きながら、感嘆の声を上げる。
「うわっ、すげっ」
「だって気に入ったから、ね」
「でもすげ?よ」
 鈴木はそれほど声が大きくない。
 賑やかな食堂で、自然啓輔の体が鈴木に近づいていた。それはきちんと言葉を聞き取ろうとする行為のせいだろう。だが、その親密さが、家城が胸の奥底に封じ込めていた嫉妬という塊を大きくしていく。
 それでも。
 何を考えている?──と、それを押さえ込むのは容易なこと。
 他愛もない会話で起きた流れであって、鈴木はそんな意図はないはずなのだ。
 だが。
「今度乗せてあげようか?いろんな車乗ってみるのも参考になるし」
「うわあ、乗りたいっ!」
 鈴木の誘いに、啓輔の表情が一気に年相応のものになる。
 うれしそうに目が輝く様は、大人っぽい啓輔にしてみれば珍しいもので、そんな彼を、鈴木もほかの人たちも、おもしろそうに見つめていた。
 それが嫌だ、と家城の心がざわめき、苛立ちを募らせる。
 大人げない独占欲だ。
 恥ずかしい感情だ。
 理性が、家城を制する。
 それは啓輔を束縛する感情だ。
 彼だって友人は大事だし、交友関係は広い方がこの先のことを考えるといいはずだ。
 そう思うから。
 けれど。
 嫌だ、という思いは消せない。
 最近ここまでひどく感情が荒ぶったことはなかった。しかも人前で、だ。
 苛立ちは押さえつけようとする理性とは裏腹に、次第に募っていく。
 止められない、マズい。
 焦りが、家城を動かせる。
「……そろそろ」
 腕時計を見せて促せば、「ああ」と啓輔も頷き返してきた。
 先に休憩にきていた家城達は、もう十分休憩時間をとっている。
 だから、この行為は自然なはずで。
 席を立って食堂を出ながら、そんなふうに言い訳を考える己を恥じた。


 結局、啓輔から「来られない」と聞いた休憩の後、出張や仕事のせいでろくに話をする機会もなかった。
 家城自身会社にいるときは忙しさに残業が続いていたし、啓輔もここのところ連続の残業になっている。そんな様子が判るから、平日に来いとも言えない。
 メールにしてみても、その忙しさのせいか愚痴めいたものになってしまう。
 そんな中、啓輔から「会いたいよお?」と甘えたメールが入ってきたときには、そこが事務所だと言うことを忘れて顔が綻びそうになった。けれど、その直後に入ったお得意様の電話応対に時間をとられて、結局会えない。
 こんなふうに何かに邪魔されているのではないかと思うほどに、啓輔に会えない時間が長く続いて。
 そのまま週末を迎えてしまう。
 土曜日、やはり啓輔は友人のところに行ったのか、家城の元には来やしなかった。
 この期に及んで、友人との約束より家城を優先することを望んでいたのだと、ふと我に返って──苦く自嘲する。
 啓輔の来ない週末は、家城にとって退屈でしかないものになっていた。
 前までなら、本を読んだり、ビデオに撮った映画を見たり。
 普段出来ないことをする格好の日であったはずなのだ。
 だが、彼が来るのが当たり前になった時から、一人でいるのが苦痛になった。
 それは、告白していない、あの無理矢理に来させていたときからずっとだ。
 啓輔が来たからと言って、やることが変わる訳ではない。だが、啓輔のいない週末は確かに酷く侘びしいものにしかならない。
 それに、今回は何故だか不安がつきまとう。
 会社ではごく普通に話をし、特に厭われている様子もない。啓輔の仕事が切羽詰まって休憩に行けない時に、隣でその様子を眺めていても、「暇なら手伝え」と文句は言っても、その表情は嬉しそうだった。
 誰もいなくなったときに乞えばキスもする。
 乞わなくてもしかけてくる。
 それはいつもの啓輔だ。
 だが。
「啓輔……」
 独りごちて、引き剥がすように携帯から視線を逸らす。
 家城以外誰もいない部屋は、冷たく静かだ。
 所在なげに視線を惑わせて、結局数秒も保つことなく、家城は携帯に視線を移した。一つ小さなため息を吐いて、もう一度だけ、と逸る気持ちを納得させ、手の中で弄んでいた携帯を開いた。
 こんなにも不安になる要因は、啓輔の言った友達が誰か判らないせいだろう。
 夜が更けるにつれ、時間が経つにつれ、その不安は大きくなる。
 泊まり込んでまでの相談とは一体なんだろう?
 その内容が見当もつかなくて、家城の不安は余計に増していく。
 なにしろ啓輔の性癖は、同性に向けられている。
 たとえ「友達」というものであっても、安心など出来やしない。
「節操無しだし……」
 つい愚痴めいてしまうのは、彼の若さにもよるところが大きい。
 少なくとも家城よりは旺盛な性欲が、2週間も触れずに保つとは思えない。
 そんなことを啓輔に言えば、「そんなことはないっ!」と怒られて、余計に意地を張って会おうとしなくなるから、口には出せないけれど。
「いったい、誰と会っているのか?」
 せめてそれさえ判ればいいのだろうが、タイミングが悪いのか、それとも啓輔が故意にはぐらかしているのか、その返事を聞いてはいない。
 今日の昼頃、ふと思い出したことがあって何度か電話したけれど、ずっと圏外か電源が切れているというメッセージが流れていた。もっともそれは、どうにか繋がった時に、さっきまで映画を見ていたと、素直に謝られてしまい、責める言葉が継げなくなる。
 そんなこともあって、何度も電話するのも大人げないような気がして、次ができない。
 かけたいけれどかけることのできない手の中の携帯を何度も握りしめ、家城はその感触を苦く思いながらそれを見つめていた。
 友達と会っているだけなのだ。
 そう思いこもうとして。
 だが、何かが頭の片隅でちくりちくりと刺激してくる。それが気になってしようがない。
 だからこそ、手の中から携帯が手放せない。
 啓輔から『迎えにきてくれ』といつもの明るい声でかけてきて欲しいと切に願っている。
 けれど、ずっと待っていても携帯は沈黙を保ったままだった。
 結局、家城の方がもたなかった。
 手が誘われるようにボタンを押していく。
 出るだろうか……。
 時刻は深夜の11時を過ぎようとしていて、今なら出ることが出来るだろうし、宵っ張りの啓輔ならまだ寝ていないだろうと思うから。
 けれど。
 長く続いた呼び出し音に、家城は深いため息をついて携帯を閉じた。ぼんやりと光っていた背面のディスプレイが消えるまでそれを見つめる。
 友達と会っているからといって、携帯に出られないということはないと思う。
 それとも家城のことを気にしないほどに、その友達との話に熱中しているのだろうか?
 零れるため息に、家城は己の女々しさを感じて、自嘲の笑みを口の端に浮かべた。

ろくに啓輔と連絡が取れなかった土曜日の夜を、まんじりともせずに明かした家城の頭の中は、寝不足もあってどんよりと曇っていた。
 そんな自分が情けなく、また明日の仕事に差し障りになるのを恐れて、家城は気分転換でもしようと街中まで出てきた。
何をする気力も湧かないが家にいても不毛なだけだと、欲しかった本でも買いに行こうと思ったのだ。
 目当ての本屋の周辺は日曜日とあって、家族連れやカップルがやたらに多い。
 商店街のアーケード下を人混みを縫うようにして、本屋へと向かおうとして。──その足が、本屋の入り口でぴたりと止まった。
 中から出てきた人に邪魔そうにされて、慌てて端に寄ったけれど、視線は何かに固定されたかのようにその場所から動かない。
 近くの喫茶店から出てきた男同士の二人組──仲のよい友人同士のように戯れている彼ら。
 手の中で交わされるのは、飲食した代金のやり取りだろうか?
 そんなごく普通の二人だったけれど、その二人の容姿に家城の視線は釘付けになっていた。
「けい……すけ?」
 二人のうち、背の高い方は見間違いようもない。困惑気味の笑みを浮かべながらお金を受け取っている彼の衣服は、家城がプレゼントしたものだ。似合うからと渡したときは、ぶっきらぼうに礼を言われたけれど、それが啓輔のお気に入りになっているのは知っている。
 そして、もう一人は……。
 家城の口から思わず信じられないままに名が零れた。
「確か……タイシ?」
 啓輔の素行が悪かった頃の友人で、数ヶ月前に起きた啓輔の行方不明時の主犯の男。
 啓輔と会社での友人である緑山敬吾の二人を街中で拉致し、槻山という男に売りつけた。一昼夜たって決して無事とは言えない状態で戻ってきた彼らを、家城達は静観することにしたのだけれど、その直後、今度は啓輔だけが拉致されて。
 心身共に傷を負った状態の啓輔を助け出したときに、彼がいた。
 あの時痛めつけたあの男は、槻山が引き取った。その後のことは何も知らないし、知りたいとも思わなかったけれど。
 それほどまでに、家城にも啓輔にも忌むべき相手だ。
 二度と会いたくないと、あの事件の後啓輔に言わしめたほどの男のはず。
 だが、家城に気づかないまま通り過ぎる二人には、そんな様子は微塵も感じられなかった。
 タイシの手の中の包みを突っついて何事か語りかける啓輔の様子は、どこをどう見ても仲のよい友人同士だ。
 何故?
 と頭の中に浮かぶいくつもの疑問符を、家城はどうやっても冷静に処理できなかった。
 冷静に判断できないから、結論が出ない。
 握りしめた手のひらに嫌な汗がじっとりと滲み、食いしばった歯がきしむような音を立てる。
 不快な音が頭骨を介して脳に響き、思考を邪魔した。
 それでも必死になって考えるのだが、気がつけば堂々巡りの思考になっていた。
 何かが起きて仲直りしたとしても、だったら家城にも一言あってもいいはずなのに。
 反対されると思ったのだろうか?とも、ふと思ったけれど、それでも嘘をつかれるよりはマシのはずだ。いや、嘘ではないのだろう。彼が友人になったというのなら。
 だったら、なおさら隠す必要はないはずで。
 どこに行くのか、遠ざかっていく二人に声をかけたい衝動を、家城は必死でこらえていた。
 今ここで声をかけたら、修羅場になりそうだった。
 家城にとってタイシは忌むべき相手だから、紳士的な態度など望むべくもない。
 そんな家城に気づいたからこそ、啓輔も言えなかったのだとは思うけれど、それはまた別問題だった。
 そうやってどこか冷静に判断している己にも、さらに怒りが増幅された。
 一体自分が何に怒っているのかすら判らなくなって、ただ混乱する頭を落ち着かせるのに必死だった。
 どうしたらいい?
 よりによって何故彼なんだ?友達なら、他にもいるだろうに。何故、あの男なのだ?
 何をすればいい?
 啓輔に、どう対応すればいい?
 啓輔に友人ができるのはいいことだ。だが、何で……?
 何もかも判らない。
 啓輔と敬吾が行方不明になったとき、穂波を戒めることができたのは、先に彼が怒っていたからに過ぎない。目の前で怒りを露わにする彼に、かえって冷静になってしまった。
 だが今は家城一人だ。
 諫めるものも誰もいない。
 けれど。
 家城はふっと肩の力を抜いて、大きく息を吐き出した。
 そのまんま怒りを啓輔にぶつけて、それが元で啓輔の反感を買ってしまったらどうする?
 そう思ったとたん、怒りが急速に衰えた。
 家城のせいで、啓輔が離れる。
 不意にそう思って、とたんに背筋がぞくりと震えた。
 足がふらりと動き始める。
 ようやく辿り着いたばかりの本屋が、店内に入ることなく遠ざかっていった。だが、今はそんなことに構っていられなく、ただこの場を離れたかったのだ。
 落ち着いて、ゆっくりと考えたかった。
 それに、今自分がどんなに情けない顔をしているか判っている。
 そんな姿をさらしたくなかった。
 いや、二度とそんな顔を人前で晒すことなどしないと誓ったはずだったから……。
 その大きな手のひらで半ば顔を隠すように覆って、家城は足早にその場を立ち去った。



 週明けの朝の挨拶を交わす啓輔の様子は変わらない。
 相変わらず元気で。それは出会ったばかりの時よりも、今の方が明るさを伴っていた。そんな啓輔にしたのは家城自身だという自負はある。そして、啓輔が何より我がままを言う唯一の相手であるという事もだ。
 けれど。
「どうでした、お休みは?」
 さりげない声を出すのはお手の物だ。そして、啓輔の表情がかすかに曇るのを見て取るのもだ。
「どうかしましたか?」
 返事が来る前に問いかける。それに明らかに狼狽える啓輔。
「いや、なんでもない。楽しかったよ。家で……そのいろいろとしててさ、気分転換にビデオも見たし。次の日は本屋に行く用事があって外に出たときに食事して……。おもちゃ屋までつきあわされて……疲れた」
 最後の言葉とともに苦笑いを浮かべた啓輔は、始業開始の時刻だからと、それじゃ、と手を振って仕事場に向かう。
 ビデオ、食事、本屋……。
 きっと啓輔は嘘をついていない。
 けれど。
「相手……教えてくれないんですね」
 家城の固く握りしめられた手のひらに爪が食い込んだ。
 ああ、もう切らないと。
 ふとそう思う。
 いつも啓輔のためにしていた爪の手入れ。だが、来ないと思うとそんな気力もなくて。
 いつもより伸びた爪先を見入った。
 そうだな……、今度啓輔が私と会う日が来るまで伸ばし続けてみようか?
 ふとそう思って、だがすぐに、馬鹿なことをと自嘲する。
 たかだか啓輔が隠し事をしていたと言うだけで、ひどく弱気になっている自分に気がついて、家城はそれを振り払うように頭を振った。
 気になるなら問いただせばいい。
 判らないまま放置するのは性に合わない。真実ははっきりさせないと駄目だ。そうしないと、何も対処できない。
 ただ。
 啓輔の様子があまり変わらないことが気になった。
 啓輔にとって、家城に隠し事をするのは気にすることでもないのだろうか?もしかすると今までもこんなことがあったのだろうか?
 啓輔の手の内はわかりやすいと思っていたけれど、それも嘘だったのだろうか?
 浮かんだ疑問は、たくさんの別の疑問を浮かび上がらせる。
 考えてみれば、悪ぶっていた高校生活を、教師に気づかれずに過ごしたほどの男だ。だますことには長けていると思った方が良い。
 では、何もかも疑ってかかって……。
 慌ててその考えを否定する。
 そんなことできる訳がない。
 それでは恋人などとは言えない。
 何もかも信用して甘い睦言を交わすだけが恋人との関係だという幻想を抱いているわけではないけれど、それでもすべてを疑ってかかるという関係では恋人とは言えないと思う。
「……」
 深いため息を零す家城は、そこが事務所だと言うことも忘れていた。
 いつも冷酷無比を絵に描いたような対応ぶりを見せつけ、鉄仮面と評されるほどに表情を変えない家城が、物思いにふけってため息を吐く姿など、皆見たことがない。
 怖いもの見たさで、皆が家城の様子を窺うけれど。そんな周りの奇異の視線にも気づかないほど、家城が自分の世界に浸っていた。
 そんな品実保証部の面々の仕事が捗るはずもなく。
 週明けの月曜日、仕事はそこそこにあるというのに、品質保証部は開店休業の状態だった。


「あれ、家城さんも残業?」
「隅埜君こそ」
 結局定時を過ぎても終わらなかった仕事に、家城は残業に入る前にと休憩に出向いた。
 その食堂で、少し疲れた風情で啓輔も休憩をしていたのだ。いつもはお茶しか飲まない啓輔が、今日はジュースを飲んでいる。それだけ疲れが体にあるということだろう。啓輔は、疲れが溜まっているときは甘いものを飲みたがる。
 一瞥しただけでそれだけを見て取るほどに、家城は啓輔の事を判っていた。
 その傍らにいるのは鈴木だ。開発部の滝本チームの一人。
 鈴木の癖なのか、小さな声で囁くような話し方でうまく聞き取れない。だが啓輔には十分聞き取れたようで、くすっと笑みを零した。
 その様子に、苛立ちが込み上げる。
「何の話なんです」
 気が付いたら話に割り込んでいた。
「え、あ、鈴木さんの車、この前検査に出したら、代車がエアコン無しで辛かったんだって」
 それは確かに他愛もない話で、家城はほっと安堵した。だがすぐに、こんなことで安堵する自分に戸惑ってしまう。
「まだ暑くはないでしょう?」
 そう尋ねたのは内心の動揺を押し隠すためだ。
「それが雨が多くて、窓が曇っちゃって」
「ああ、なるほど」
 納得して頷けば、はにかんだ笑みを見せて頷かれた。
「でさ、今度乗っけて貰う約束したって訳。土曜にドライブ行こうって」
「え?」
 声がひっくりかえらなかった自分を褒めたかった。
 家城は一気に荒れ狂った心情を、必死で宥めていた。啓輔が伺うように見つめる意味に、ひくりと頬が引きつったけれど、幸いにも鈴木は気付いていないようで、穏やかな声音でゆっくりと喋る。
「ちょうど土曜に実家に行く用事があって。僕の実家、山陰の海の近くなんですよ。たいした用事無いんで日帰りだし、一人で行くのも退屈だから、どうかなって。僕の車の他にも家族の車があるし。見せてもらえるよって」
「隅埜君、行くんですか?」
 まさか、この場で行くなとは言えない。けれど、行って欲しくはない。だが。
「うん……まあ、行きたいかなって」
「隅埜君、日本海にはあまり縁がなかったそうなので」
 歯切れの悪い言葉遣いと啓輔の目が行きたいんだ、と訴えている。
 その期待に、駄目だと言える訳もなく。
「楽しそうですね。きっと隅埜君も楽しめると思いますよ」
「そうだね。ね、鈴木さん、ほんと良い?」
 家城の了承を貰って、確実に声音が変わった啓輔に、家城はこれでよかったのだと自分を納得させた。
 目の前で鈴木と楽しそうに時間を決める啓輔を見ることは楽しい。
 もしかすると啓輔はこんなふうにもっといろんな人達と遊ぶべきなのだろう。家城にはできないいろんなことを、他人から教わって吸収すれば、啓輔はもっと成長できる。
 最近とみに男らしくなったのも、家城だけとのつきあいではなしえなかったろう。
 こんな面白みのない自分とばかりいるよりは。
「家城さん」
 呼びかけられて初めて、家城は自分が俯いていたことに気が付いた。
 情けない姿だと自嘲して、けれどおくびにも出さないで、啓輔と向き合う。
 いつの間にか鈴木が席を立っていたことに、今更ながらに気が付いて、さすがに唖然とした。そんな家城に啓輔が眉根を寄せながら問うてくる。
「やっぱ、止めようか?」
「え?」
 びくりと家城の体が震えた。
 押し殺した声音は、まだ幾人かいる人達を気にしたものだが、その視線は真っすぐ家城に向けられていた。
「ほんとは嫌なんだろ?」
「それは……」
 どんなに繕っても啓輔は、すぐにその綻びに気付く。そしてその原因を察してしまうのだ。不思議なことに啓輔には家城の仮面が効かない。
「俺、櫂以外でこんなふうに誘われたのってなかったから、ちょっとはしゃぎ過ぎたよな。鈴木さんには悪いけど、断るよ」
「けい……」
 名を呼びかけて、だがすぐにその口を閉じた。
 嬉しい。
 啓輔が察してくれたことは恥ずかしいけれど、とても嬉しい。
 だが──。
 本当にこれで良いのか?
 家城を気遣って言ったであろう啓輔の表情が浮かないことに気付いてしまって、素直には喜べなかった。だから。
「構いませんよ、行っても」
「え?」
「行きたいのなら気兼ねなく行って来てください。これが一泊でもするというなら、私も考えますが、日帰りなんです。それに……彼は、そういう相手じゃないでしょう?」
 言葉を選び、何げない風を装えば、啓輔が意外そうな視線を向けて来た。それを敢えて無視して、言葉を継ぐ。
「変わりに木曜の夜でも一緒に食事をしませんか?」
 それは、泊まらないかという問いかけと同じ意味のもので、啓輔もすぐにそれを察した。
「……いいよ」
 この際、平日はしないという約束事など二の次だった。それでも啓輔が受諾してくれたことは喜びだ。
「金曜だと次の日に堪えますからね」
「うっ……」
 ついでに揶揄したのは、ちょっとした意趣返しだった。


続く