生産技術の部屋の外で捕まえた安佐に竹井のことを話す。
泣きそうだったと言った途端、安佐は「ありがとう」と言うと、心当たりがあるのか迷わず階段へと向かっていった。
その「ありがとう」がひどく嬉しそうだったのが印象的で、啓輔の方が面食らう。
「あ、行き先判るんだ?」
そのまま行かれるのも癪でつい話し掛けると、安佐はくるりと振り向いて頷いた。その顔が笑顔なのがむかつく。
「嬉しそうじゃん」
眉間の皺深く話し掛けると、さすがにやばいと思ったのか、無理矢理その笑みをひっこめようとして失敗している。
「あはは、ごめん。でも竹井さんってこういうときが一番素直なんだ。だから、君には迷惑だったかも知れないけど、その……実はそう仕向けたんだ……ごめん」
おい……。
「……」
無言のままじとっと睨んでいると安佐は困ったように頭を掻いた。
「竹井さんってね、ほんと普段素直じゃないだろ。だから、家城さんがちょっかい出してくれると、結構いっつもこんな感じになって俺的にはいい結末にはなるんだ。まあ、今回はちょっときつかったけど、それでも、ね。だから竹井さんには悪いけど……君たちにもね。でも俺としてはすごく嬉しい」
そういうと、照れたような笑みそのままに去っていってしまった。
な、に?っ!!
あまりのことに言葉が出ない。
もしかして、この二人っていつもこういうパターンなのか?
心配したこっちの方がバカなのか?
怒りがふつふつと湧き起こる。
心配したんだぞ、俺達のせいで喧嘩、なんて……って。なのに?!
ちくしょーーーーっ!
羨ましいじゃんかあっ!
夫婦げんかは犬も喰わない、を地でいっているぞ、それって。
雨降って地固まるのほうがしっくり来るか?
あああああ、もう無性に蹴飛ばしたくなってきた。
こう二人仲良く寄り添っているときに背後から思いっきり尻を蹴飛ばしたい。
そんな事を考えていると、啓輔の口元ににんまりとした笑みが浮かんできた。
こんど機会があったらしてみてーもんだ。
怒りを凌駕するほどの愉快な気分。
なんか、怒ってる方が馬鹿みてーだよな。家城さんもそれを知っているから、安佐さんにつっかかるんだろうか?
いや、きっと知ってるんだ。だからわざとつっかかっているんだ。
金曜日の事って、もしかしてわざとか?
鬱憤晴らしついでに、しただけか?
いや、いつもより激しかったっていうから、まあ怒ってはいたんだろうけど。
それに知らずに踊らされていた俺って……結構間抜け。
ああもう……ほ、んと家城さんって……何企んでいるかわかんねーよ……。
「ああ、もう……一個片づいただけでも良しとしよう」
いい加減考えるのも億劫になった啓輔はそうごちることでけりをつけた。
休憩時間も終わったというのにいつまでもふらふらしているわけにもいかないので、事務所に戻った啓輔は、扉を開けた途端に後悔した。
なんで?!?
ドアノブをもったまま立ちつくす啓輔にじろりと視線を投げつけたのは梅木。
まだ服部も帰ってきていなかった。
このまま回れ右をしようかと思ったが、視界の片隅で梅木が手招きをしているのを見て取ってしまった。
ふうっと大きく息を吐いてから返事をする。
「はい?」
梅木は服部の机に腰掛けるようにして啓輔が近づくのを待っていた。
「何です?」
それでなくても服部派の啓輔にとって、今この状態では梅木に関わりたいとは思わない。どうして今日はこうタイミングが悪いのだろう。
頭の中でごちていると、梅木が口の端をあげるだけの笑みを浮かべて啓輔に問いかけてきた。
声音も柔らかで、決して荒々しい所はない。だが、その目が笑っていない。
「なんで家城さんが誠と休憩なんかしてるんだ?」
あ?あ、やっぱりきたか。
もう近づく前から何を聞かれるのか判っていた。
「休憩前に家城さんが調べものが有るって言うんで、服部さんが対応したんで。俺、都合が悪かったし、先に休憩行っていたから、何があったなんて知りませんよ」
とりあえず事実を混ぜて返答する。
確かにここで何があったかなんて俺が知りたいくらいだ。
あの親密さは、ちょっとだけ……いや、とっても気になったのはこっちもだから。
「ふん。で、君は別の人間と休憩に行っていた訳か?」
何だ気づいていたのか?
啓輔は苦笑を浮かべつつ、頷いた。
「それにあんまり家城さんと親しくていると、噂が怖いし。それでもともと今日は別行動の予定だったんだ」
わあ、俺って嘘つき人間。
訳の分からないことを頭の片隅で考えてしまう。
だが、そんなふざけた考えも、すうっと細められた梅木の目に浮かんだ怒りの前では立ち消える。
こっえーーー!
肩を竦めて、啓輔は微妙に視線を外して梅木を窺った。
だが、逃げようとしても梅木の視線がそれを追いかけるように動く。
昔からいろいろと悪さはしてきたが、どうも大人という物は団体の子供に弱いのか、こんなふうに視線を合わせてくることはなかった。その時と比べると、はっきり言って今の状況の方がよっぽど始末に困る。
自分が一人しかいないってのこんなにも弱いものなのか?
とにかく梅木から逃れたいという気持ちの方が強かった。
「ただの休憩にしちゃあ、随分と仲良さげだったよな。お前の方もあれは生産技術の竹井さんだろ。あの人も結構美人だし。いつからお互いに趣旨替えしたわけ?」
「竹井さん……趣旨替え……って、違うっ!」
何てこった。
いったん疑い出すと際限がないのか、こいつは!
俺と竹井さんの状況見て、どうしてそういう結論になるんだ?
慌てて梅木の言葉を否定する啓輔を、梅木はじとっと見据えていた。その様子では、何を言っても信じて貰えそうにない。
あーーーっ!
どうしろって言うんだよお!
頭の中で思いっきり叫んだときだった。
ドアの開く音にはっと振り返る。
「家城さんっ!」
天の助け!
マジでそう思った。
その後に服部の姿を見るまでは……。
梅木の顔がさらに怒りに満ちていくのが視界の端に入る。
啓輔は、今のうちにとじりじりと後ずさった。
「どうしたんです?」
事務所内の剣呑な空気を感じ取ったのか、家城が眉間に皺を寄せて声をかけてきた。
服部などは、青ざめて強ばった表情でそっと様子を窺っている。
「なんで貴様が誠とあんなに親しげなのか聞きたいと思ってな」
これ以上はないというくらい、ドスの利いた声が、梅木の口から漏れる。
その視線は鋭く家城を見つめている。
「別に、私が誰と休憩に行こうが自由でしょう。たまたま、ここに来た時間が休憩時間だったので、ご一緒しただけですよ」
相変わらずの口調は、梅木の怒りに晒されてもぴくりともしない。
その視線はまっすぐに梅木へと向けられていて、その中間地点で火花でも散っていそうだ。
「誠はっ!」
何かをいいかけた梅木。だが、それに家城が言葉を被せた。
「服部さんは誰のモノでもないですよ。彼は、今フリーらしいですから」
その言葉に梅木はぐっと息を詰まらせると、音がしそうなほど歯を噛み締めていた。
きついわ……それ。
服部の告白を梅木が断ったこと、それを家城が暗に匂わせたのが判る。
それを言われれば、梅木お得意の「誠ちゃんは俺のものだ」は通用しない。
にしても……。
うかつにため息すらつけないこの緊迫した空気。
あ?やだやだ。
啓輔がじとっと諸悪の根元を見つめていると……。
「こんなところでする会話ではないでしょう。何だったら、今日私の家にでもきて下さい。服部さんも来られる予定ですし」
挑発するように家城がその口の端をあげた。それは誰の目にも嘲笑としか取れない笑み。
空気が再現まで張りつめて音がしそうだ。
ぴりぴりとした雰囲気が啓輔の肌をちりちりと刺激する。握りしめた掌はじっとりと汗が滲んでいた。
そして当の服部はというと、家城の影に隠れるようにして困ったように様子を窺っている。
あ、ああっ!
俺だってそこに隠れたいよお!
啓輔はその安全地帯に向かってそろりとそろりと足を進める。が、そこは安全地帯ではなかった。
家城の後に行ったら真正面から梅木の怒りの視線を浴びてしまうことになるのだ。
服部さんが隠れようとする気持ちが分かってしまう。
「それに何をそんなに怒っているんです?あなたにとって服部さんは<ただ>の友人でしょう?」
家城が面白そうに嗤う。
わざと挑発しているのが誰の目にも明らかだったが、梅木がそれに反応した。
座っていた机を勢いよくひっぱたくと、脇目も振らずに部屋を飛び出す。
「家城さん?」
俺は呆然と壊れんばかりの勢いで閉まった扉を見つめながら、家城に呼びかけた。
あまりのことに声が上擦っている。
「どうすんの、この後始末」
「さて」
そ、そこで平然とするなよなっ!
小首すら傾げて、「さて」じゃねーだろっ!!
服部は泣きそうな顔をして、じっと閉まってしまった扉を見つめていた。
「でも」
「は?」
「少なくとも梅木さんにとって服部さんは特別なんだってことははっきりと判りましたけどね。ね、服部さん?」
家城の言葉に服部がはっと顔を向けた。
「特別?ほんとに?」
その問いに家城はこくりと頷いた。
「私がいる時にはふざけた態度しか見せたことのない彼が、心底怒りを燃え立たせた。それは、服部さんだからですよ。他の人間ではそうはならない。彼にとって服部さんは<ただ>の友人ではないんです。彼だって、そのことに気づいたはずですよ。自分が何でそんなにも怒っているのか。何をしたがっているのか。だからいたたまれなくなってここから逃げたんです。でも、彼は来ますよ。だから家で待っていましょう」
最後の言葉は服部に向けられた物で、それは今まで聞いたことのないほど優しい声音だった。
「はい……」
服部が頷く。
だけど……。
啓輔は家城が服部にだけ優しいのが気に食わない。
う?と唸りながら二人を見つめるしかできない自分が悔しい。
ちくしょっ!!
俺だって、あんなふうに優しくされてーよ。
ここんとこ、いじめれ続けているような気がしてたから余計にそう思う。
仕事だからと家城も出ていった事務所は……妙な沈黙が漂っていた。
そりゃそうだろう、とは思うのだが。
かといって、この場を解す案など浮かびそうにない。
服部は、ずっと目前のパソコンを凝視している。
動かない手。
動かない視線。
こんな状態の服部と、あの怒り心頭の梅木。
逢わせてどうなるっていうんだろう……。
啓輔のほうも考えるばっかりで手が動かない。
情報配信チーム。
ここまで仕事が滞ったのは初めてのことだった……。
きっかけっていうのはどこに転がっているか判らない。
啓輔は自分からそのきっかけをつくった。一向に自分から動こうとしない家城に、自分から迫ることで。
服部の場合は、それは最初は全て梅木から与えられた。
しかし、自分の気持ちに整理をつけて、自分の思いを再確認したのは服部の方が早く、そして、どうにかしようとしたのも服部の方だった。それに梅木が対応しきれないのだ。
自分が持っている少なからずある後悔、罪悪感……そういう悪感情が梅木を一歩ひかせる。
啓輔がうまく家城の感情を引き出せたのは、家城が啓輔に対してそういう後悔するような感情を持っていなかったからだ。そして、絶妙なタイミングで、家城が自分のことを気にしていると言うことに気付いたことを逃さなかった。
いつまでたっても切り出せない家城に切り出させるきっかけをつくった。
服部とて、この時を逃せば、きっかけを掴めずにずるずると今の関係のまま進んでいただろう。
事の始まりは不本意なことだったかも知れない。
だけど服部は気付いてしまった。自分が梅木のことを好きなのだと。
梅木の感情が絡むから難しいけれど、後はそんなに難しいことではない。梅木が服部を好きである以上。
帰りの車の中で、家城がそんな事を言っていた。
小難しい話で、啓輔には半分も理解できない。
だが、家城にしてみれば、そんなに難しいことではないらしい。
服部も梅木も好きあっているのなら。
でも、あそこまで頑なに服部の感情を受け入れようとしない梅木をどうすけばいいんだ?
見ている分には他人の言い分など聞きそうにない人だ。
例えば力関係で、服部の方が強ければ強引にでも進めてしまえるとは思う。
確かに切れた服部は恐ろしいものがあるが……。
啓輔の脳裏に梅木にファイルを叩き付ける服部の姿が浮かんだ。
あの勢いで迫れればなんだかそのままなだれ込んでいきそうな気はするが……。
あの勢いって、相当感情的にならないと出ないみたいだしなあ。今は地の底を漂っているような服部にそれを期待するのは無理というものだ。
それより何より、梅木は来るのか?
車を持っていない啓輔はバイクを会社に置いて、家城の車でマンションへとやってきた。
服部も自分の車で来るだろう。
では梅木は?
あんな怒ってた状態で、来るのか?無視するんじゃねーのか?
「来ますよ」
だが、家城は一言で言い切った。
「彼は本気で服部のことが好きだから、だから絶対に来ます。来なければ、彼を失うことになるくらい判っているでしょうし……それに彼も相当独占欲は強そうです。好きである相手が、他人の、しかも男でもOKという相手の家にいると言うことには堪えられないはずです」
う?ん。
確かにそうかも。
啓輔とて、家城がそういう相手の家に行っているとなると、やっぱり嫌だと思う。
例えば……竹井さんとか……滝本さんとか……。
考えるだけでも嫌だ。
だが、想像するシーンは、なぜか家城が相手を押し倒しているのだが……。
ぶるぶると首を振ると、啓輔はその考えを追い出した。
とにかく自分達の事は、いいから……。
頭を何とか元に戻す。
それで梅木が来るとして……じゃあ問題はというと、服部の願いを聞きとげてくれるかどうかだ。
結局はそこになる。
梅木が罪悪感を消すことが出来るかどうかで決まる。でないと彼を怒らせた甲斐がない。
家城の部屋に服部が来、それから一緒に夕食を取った。
今日は、家城お手製のと言うほどのものでなく、「焼き肉」だった。
タレはニンニクがたっぷり入っている。
これで精力つけて押し倒して貰おうって腹か?
なんて馬鹿なことだと思いつつも、何となく勘ぐってしまう。
ま、これはこれでついでにこっちまで精力が付きそうだ。
結局三人の中で一番量を食べた啓輔は片付けも家城に任せて、床に座り込む。ソファに背中を預け、ぼーっと天井を仰いでいると、服部がくすくすと堪えきれないといったように笑っていた。
「変?」
「いや、変って訳じゃないけど……隅埜君ってここが自分の家みたい。凄くリラックスしているんだね。それに凄くこの部屋に馴染んでいるよ」
「そう、かな」
確かに今住んでいるところと比べたら、ここの方が居心地はいい。
座っていれば食事は出てくるし、テレビだってこっちは衛星放送まで入る。
6畳二間、トイレも風呂も簡易的に作りつけているしかない今の家の状況を考えると雲泥の差だ。しかも、ここには家城がいる。
ここにいれば……たぶんいつだってほっとしている。
「服部さんだって、できるよ、そんな所がさ」
きっと梅木さんの元がそういう所になる……って思うんだけど。
そう言い切れそうで言い切れないところがあの梅木さんなんだよなあ……。
でもまあ、リラックスするかどうかはともかく、とりあえず暗く落ち込む気分にはさせてくれそうにないない所だとは思う。
「そうだね」
啓輔の言いたい事は伝わったのだろう。その口元に微かな笑みを浮かべた服部ではあったが、その笑みがふっと消えた。
それはほんの僅かで、気を取り直したかのようにまたその口元に笑みをたたえてはいる。その復活力が出てきた分だけ、昼間にくらべればかなりマシではあるんだけど……。
はあああ
考えれば考えるほど、幸先が良いとは言えない。
そういう考えであることが、余計に待つ身が辛い。
梅木がまだ来ない。
待っていると、いらぬことばかり考えてしまいそうだ。
食事が済んでから一時間は経つ。もともと啓輔にとっては、待つというのは性にあわない。
「啓輔、ため息ばかりついていては服部さんに失礼ですよ」
洗い物が済んだのか、家城がリビングに戻ってきた。啓輔の様子を見て苦笑いを浮かべつつ、注意する。
ああ、そうか。
啓輔は、再度つきかけたため息を飲みこんだ。
「でも……なんか待ちくたびれた」
もう9時が過ぎようとしている。
その内、梅木が来るだろう。
それを考えると、どうしても胸中穏やかとは言い難い。
何が起こるのか?
どうすればいいのか?
「でもさ、どうすんのさ?ここに梅木さんがきたらまた今日みたいに喧嘩するわけ?」
それも気疲れの原因だった。
あの短い時間の二人のにらみ合いは端から見ていても結構疲れた。それの際限がここであるとしたら、こんどは果てしなく続きそうな気がする。
「別に喧嘩するつもりはありませんよ」
「じゃあ、何するつもり?」
啓輔の疑問に家城がくすりと笑う。
「何も……」
ただそれだけを言う。
何もって……何もしないってことだよな。
啓輔はまじまじと家城を見、そしてはっと服部を見遣った。
「ごめんね、隅埜君。迷惑かけてすまないとは思っているんだけど……だけど、後少しだって僕も思うんだ。あの昼間の梅木さんの様子を見ていると、そんな気がした。僕だって何にも判らず流されていた昔じゃないから。あの時の梅木さんのお陰で、少しは強くなったんだ。だから、そんなに時間をかけずになんとかするからね」
「はあ?」
服部が啓輔を見、そしてちらりと家城に視線を移した。
「隅埜君と家城さんのお陰で、決心がついたんだ。いつまでも、与えられるモノだけを待っていたら駄目なんだって……隅埜君みたいに、自分からぶつかってみないと駄目なんだって。僕、頑張るから」
はあ……。
きっぱりと言い切る服部に啓輔は訳が判らなくて呆けた表情を浮かべた。
何が俺みたいだって?
自分からぶつかるって……。
押し倒すってことか?
いや……ちょっと待て……。
啓輔は両腕を躰の前で組み、じっと考える。
押し倒すって……俺みたいにって……。
それってまさか!
思いついた考えに茫然と家城を見遣ると、家城がふいっと視線を逸らした。
あ、あんた!ばらしたな!
家城が絶対言いそうにない啓輔と家城の初めてのキスシーンは確かに、啓輔が押し倒したようなモノだった。
お、俺はまだいい……いや、メチャ恥ずかしいけど……まあいい。
だけど、家城は啓輔にあれを蒸し返されると、未だに真っ赤になる。それがどんな顔をして、服部にばらしたと言うんだ?
あ、だからか。車の中でいろいろ言っていたのは。
きっかけがどうのこうの、タイミングがどうのこうのってのは!
別に怒っている訳ではないのだが……。
どうも信じられない。
あの、家城が喋った、ということが。
「僕は今までずっと助けて貰っていたんだよね。梅木さんには、無理をさせていたんだって思う。僕のことが好きなのに、まるでそれが責務のように仕方なく僕を抱いているふりをしなくてはいけなかったんだよ。全部僕を助けるためだったのに……じゃあ、僕が梅木さんを好きになったら、今度は自分が悪いって言うような人だから。ずっと無理させているんだ。だから、今度はそれを吹っ切らせてあげるのは僕の役目だよね。だから……僕が落ち込んでいたんじゃいけなんいだよね」
きっぱりと言い切った服部に今日の落ち込んでいた様子は微塵も見られない。
そんな様子を見ていると、なんだか大丈夫のような気がしてきた。
呼び出し音が鳴ったのは、それから10分ほどしてからだった。
出迎えた家城に導かれて入ってきた梅木の眉間には深い皺が刻まれ、その口元は一文字に引き締められていた。入ってきてからじっと服部の様子を窺っているのだが、服部はその視線をまっすぐに受け止めていた。
互いに酷く緊張しているのか、その表情が崩れることはない。
にしても……。
啓輔はそんな二人を交互に見比べながら、再びつきそうになったため息を慌てて飲み込んだ。
ここまではっきりと嫉妬を露わにしているのに、それなのに服部さんの思いがうけられないなんてほざいている梅木さんの気が知れない。
ちょっとだけ素直になって、受け入れてしまえばいいんだ。
そうすれば万事うまくいく。
どうしてそんなに拘ることがあるんだろーか?
梅木と服部の関係は、梅木自身で始めてしまったことだ。嫌ってしまったのならともかく、まだ想いが残っているのだから。だから嫉妬しているのに。
自分でしてしまった事を、今更無しになんか出来るもんじゃない。
そう思ったとき、ちりりと胸の奥で何かが焦げるような痛みとそれに伴って目の奥が僅かに熱くなった。
そうだ……してしまったことは消えない。たとえ、一生後悔することになっても。
啓輔はその痛みの元を知っていた。
未だに、彼に逢えば後悔に胸の奥が痛む。
彼が平気な顔で自分に接する度に、本当はそれだけ後悔に苛まれる。
会社で逢ったから……普段の彼の様子を知るにつけ、あんな目に遭わせたことを後悔する自分がいる。
自分のしてしまっことは悪でしかあり得なかった。
だが、梅木達のそれは、確かに道徳的には変かも知れない。普通だったら考えられないことだろう。だが、服部はそれを受け入れる事にした。こうやって付き合っている人達が他にもいることを知ってしまったから。それに関して言えば啓輔とて責任はあるかも知れない。
でもお互いその想いがあるのであれば、それを拒絶することはないと思う。
付き合って、付き合うだけ付き合って……それから。
啓輔が物思いに耽っていたら、苛々とした舌打ちが聞こえた。
はっとその方に目を向けると、梅木が憎々しげに家城を睨んでいるところだった。
「で、あんたらは何を企んでいるんだ?」
勧められたソファには座ることなく、梅木はまっすぐに家城を見据える。
それに対する家城も、3mばかり離れたところで腕組みをして立っている。
家城は、はて?とばかり首を傾け、不思議そうに梅木を見返した。
「何のことでしょうか?私たちは別に何も企んでいませんよ」
それが演技しているようには全く見えない。
凄い……。
ふと気がつくと服部の方が緊張の余り酷く顔を強張らせていた。普段でもそう日に焼けていない服部の肌は白い方だ。だが今その顔は蒼白に近い。それは貧血にも似ていて、今にも倒れそうに見えた。
幾ら、固く決意してみたとしても、やはりこういう修羅場には不向きな人だ。
膝の上に置かれた拳がふるふると震えていて、服部の心理状態を如実に現していた。
「企んでいないわけがないだろう」
梅木の押し殺した声が部屋の温度を一・二度下げ、その口元に冷たい嗤いが浮かぶ。啓輔は知らず、身震いした。
自分が当事者でない。梅木の相手は家城なのだ。なのに、自分が責められているような気がした。
「あれからな、いろいろ考えてみたが、どうも俺も嵌めようとしているとしか思えないんだよ。今まで、そんなことなかったよな。あんたら、見ているこっちが恥ずかしくなる位、暇さえあればひっついていて楽しい噂を立てまくってくれていたというのに。しかも、少なくとも、他の誰よりも俺はそのことを知っている。あの部屋に入り浸っていたのは伊達じゃない。なのに、急に誠にちょっかいをだしたってのは、何か企んでいる証拠だろうが」
ばれちゃってる……やっぱ、俺がメインで動かなくてよかった……。
啓輔には、家城のように堂々と変わりなく対応なんてできそうにない。
もし今の家城の立場だったら、馬鹿なことを言って墓穴を掘っていたかも知れない。
啓輔は自分が第三者であることに心底ほっとしていた。
それにしても。
つい浮かんでしまった自嘲めいた笑みを、啓輔は俯くことで隠していた。
昔の俺だったら、平気で突っかかっていたんだろうな。
怖いもの知らず。
それを地でいっていたような気がする。
家城に逢って……この会社でいろんな人に関わって、自分は少しは「怖い」と思えることを知った。してはならない分別を少しはわきまえれるようになったのではないかと思う。
だからこそ、ここで突っかかるなんて馬鹿なことはできない。
いや、したくなかった。
家城の策を壊すようなことはしたくなかった。
「では、たとえそうだったとして、梅木さんはなぜここに来たんです?」
相変わらず動揺の欠片すら見られない家城が反対に梅木に問いかける。
それどころか梅木を見据えるその視線は、どこまでも冷たい。
怒ってるんだろーか?
だが、その表情からは家城の感情など何も窺えない。
「お前らが何を企んでるのか知りたかったってとこかな。それに」
梅木がちらりと服部に視線を移した。途端に険しかった表情がふっと解れた。
強張って蒼白な服部の様子に気づいたのだろう。
「誠がここにいるのは堪えられない」
一転して梅木の纏う雰囲気が変わったような気がした。
掠れたような弱々しい声音。家城に対していた怒りが、一瞬のうちに霧散したような感じだ。
その声音のまま、服部に話し掛ける。
「誠、帰ろう」
そうして欲しいと声は懇願していた。
それにびくりと服部が顔を上げた。じっと梅木に見入り、梅木の真意を探ろうとする。その柔らかな下唇が噛み締められて歪んでいた。
「服部さんは自分の意志でここにおられるんです。せっかく楽しく話をしていたのに、なぜ帰る必要があるんです?それにあなたがそんなことをいう権利がありますか?」
だが、家城がわざとその視界に入り、お互いの視線を邪魔する。
ふっと口の端だけを上げ、嘲るように細めた目で梅木を見返した。
「権利?そんなもの……」
僅かに梅木がたじろいだ。
それでなくても冷たい表情の家城が、それを意図的にしているのだから、相手に与える圧力は相当な物だろう。
「服部さんだって大の大人ですよ。他人にとやかく言われる筋合いはないと思いますけど」
その有無を言わせぬ口調に、梅木も口ごもる。
完全に無視されている啓輔は、そのお陰で何とか冷静にその様子を窺うことは出来た。いや、この場合無視されている方が幸いなのだろう。
できれば、キッチンにでも引っ込んでいたい。
つきたくてもつけないため息を何度飲み込んだことか。
「それは……」
何か言いたげに口を開き、結局梅木はその口を閉じた。
その固く結ばれた唇は、言ってはならないと自分を戒めているように歯が食い込んでいた。
そんな様子に気づいた家城が、小さく息を吐いた。
「まあ、これは本人同士の問題なので私が口出しすることではないとは思っています。だが、彼は、思い詰めるタイプのようですので……それはよくご存じでしょう?」
「ああ」
吐き出すように言われたその簡潔な単語は、前の時を思い出しているのかひどく辛そうに啓輔には聞こえた。
服部もその言葉に俯いてしまう。
彼にとって、それは癒されているとはいえ、トラウマなのだ。
服部が強くなろうと努力していることを啓輔は知っていた。毎日同じ事務所で顔をつきあわせているのだ。できるだけ、外に出ようと、他の人達と交わろうと、無理な笑顔を浮かべてもがんばろうとしているのを知っていた。
それでもそう言うことを繰り返した日は、夕方には酷く疲れている服部がいた。
癒されてはいても、いつかまたなるかも知れない。
そのせいで梅木に心配かけたくない。
それを何かの時に聞いたことがある。
疲れ切った服部がつい漏らした愚痴だった。
そんな服部を啓輔以上に梅木は知っているはずだ。
なのに、その梅木自身が服部を追いつめている。
そして、それら気づいたらしい梅木を家城が畳みかけるように追いつめていく。
「結果はどうであれ、あなたが取った行動は確かに服部さんを助けましたよね。でも、じゃあそれでって突き放すのも無責任ではありませんか?彼の気持ちをそこまで無視して押し進めるつもりなのですか?無理強いすることで翻弄して、今度は突き放すことで翻弄して……結局、あなたが一番服部さんを追いつめているんですよ」
その言葉に梅木は何も言えない。
くっと噛み締められた唇は今にも食いちぎられそうな程に変色していた。
「あなたが取った行動です。それが服部さんのためだと思っているのなら、最後まで責任をとるべきなのはあなただ」
怖い……。
啓輔はぞくりと走る寒気に、自分の肩を抱いた。
家城の言葉は正論だろう。
だが家城の整った顔立ちが無表情なままで、しかも声音がひどく冷たいから、端で見ていても怖くなってくる。
いつも唯我独尊を地でいっているような梅木が、完全に圧倒されていた。
も、もしかして……これを金曜日にやったのか?
あの安佐さんに向かって……。
そりゃあ……怖いわ……。
滝本や安佐や竹井が、啓輔に文句を言うのも判るような気がした。
まして、あの日はアルコールも入っていたのだから……。
だが、こんな家城を安佐は利用するのだと言う。
こんな家城を相手にするデメリットよりもメリットがそれだけ大きいと言うことだ。つまりそれは、竹井がそれほど扱いにくいという事を啓輔に教えた。
気の毒に、とは思ったが、家城に焚きつけられることを選ぶより、竹井の方を何とかするべきではないのか?
他人を巻き込んでする事ではないだろうが。
……。
俺は何を考えているんだ。
ふっと気づくと、今この場で起きていることとは、どうも違うことばかり考えているような気がする。
これが現実逃避と言ーんだろーか?
続く