薊の刺と鬼の涙 9

薊の刺と鬼の涙 9

 車が滑り込むように入ったのは、穂波のマンションの駐車場だった。
 きっとそうなるだろう、とは思っていた敬吾ではあったが。
「俺……帰りたい……」
 なぜだか胸中を襲うのは、ここにきたことへの後悔だ。
 見慣れたはずの建物が、闇夜の中にのしかかるようにその重量感のままにそびえている。そう意識した途端、敬吾はぞくりと背筋を震わせた。

 無性に恐い、と感じて。
 だが。
「いやか?」
 楽しげだと思うその口調にムッとして、敬吾はマンションを見つめていた視線を穂波に向けた。
「いやじゃない」
 それも事実。
 だが。
「明日会社あるし……」
 その声音は弱々しい。
「酷くはしない」
 敬吾の動揺に気付いているのか、穂波は穏やかに言いながらも敬吾の腕を強く引っ張る。薄暗い場所から目映いほどの灯りをつけたエントランスに連れこまれ、その明るさに幾度も目をしばたかせる。
 だが。
「何て顔してる?」
 くすくすと揶揄するように笑われて、敬吾は自覚している故に顔を伏せた。
「うるさい……」
 取り繕えない顔を晒してしまったことが悔しい。この男にこれ以上の弱みを見せたくないと、いつも思っている敬吾であったが、それが今日はまったく叶わない。
「医者に連れて行かれる子供のような顔だ」
 敬吾の頬を穂波の手がつんつんと突くのを強く払いのける。
「何だよ、それ?」
「そのまんま」
 敬吾は返す言葉を失って、それでも臆することなく穂波を睨め付けた。
 確かに、恐いとは思ったけれど。
 こんなふうにからかわれることは嫌いだった。だが、それでも、引っ張られる足取りが重いことには気が付いている。
 引きずられているようだと思う。
 それはまさしく嫌がる子供のようで……。
 それに気付いた途端、敬吾は唇を噛んで俯いた。
「俺は……」
 エレベーターの中でも外に出ても、決して離されない手を所在なげに見つめる。
 なんでこんなに恐いんだろう?
 穂波の部屋が近づくたびに、ドキドキと心臓が鳴るのは、恋人の家に行く期待感からでない。通ってきた道は今まで何度も通った道で、それは一人きりであったり、今みたいに二人でだったり。
 だが、今までこんなふうに思いはしなかった。
 ただふと穂波の背姿を見た途端、何かが琴線にひっかかった。
 何だろうと、首を傾げた途端に、穂波が「ん?」と首だけで後を向く。
「いや……」
「ふん?」
 むすっとしたままの敬吾に、見張った穂波の目が次の瞬間すうっと細められた。同時に唇の両端がにっと上に向いて。
「っ!」
 敬吾が声にならない悲鳴を上げたのは、視界の端に黒い尖った尻尾をみたような気がしたからだ。
 
 カチリと小さな金属音がして、穂波がドアを開けた。
 途端に、猛烈に帰りたいという思いが湧いてきて、引っ張られる力に足が逆らうように踏ん張った。先ほど見たのは幻想だと判っているのだが。
「敬吾?」
「俺……」
 入ってしまえば、待っているのがどんな行為か知っている。
 いつでも、いつだって。
 そして……今日は……。
「やっぱり……帰る」
 平気なふりをしようとしたのに、言った声は震えていて、敬吾は情けなさにきつく唇を噛みしめた。
 どうしてだろう?
 心が、それを受け入れない。
 暗く澱んだ空気を纏う敬吾を穂波がしばし見つめ、そしてその手がゆっくりと離れた。
 だが、敬吾にしてみれば、まさか離れるとは思っていなくて、呆然とその手の動きを見、そしてゆっくりと穂波の顔に視線をやる。
 どうして……。
 声にならない言葉が、微かに震える唇を動かした。
「敬吾が選べばいい。俺は無理強いはしたくない」
「え?」
 苦笑に、だがその瞳に宿る暗い色に敬吾は息を飲んで、言葉の続きを求める。
 何故か、こんなふうなシチュエーションが昔にもあったような、奇妙な既視感もあって。
「帰るなら……送っていってやる。また、誰かに捕まったら大変だからな」
 穂波の口の形が奇妙に歪んで、己を嘲るようにくつくつと喉を鳴らした。
「ゆきと……」
 その言葉の意味。
 心の奥底に閉まった記憶を突くそれに、敬吾もきつく顔を顰める。
 あの時も。
 そう言われた。
 来るか来ないか?
 敬吾は迷って、それで。
 でも、あの時はまだ自分の心が判っていなかった。穂波がどんなに自分を愛してくれるかなんて判っていなかった。だから、離れた。
 けど、今は。
「俺は……帰りたくない」
 それも事実。
 でなかったら、車から降りなかった。
「なら、どうする?」
 それでも敬吾は玄関前に佇んで、所在なげに穂波を見上げる。
 どうしようもなく恐い。
 脳裏にちらつく黒い尻尾の意味は、敬吾は知りすぎるほど知っていたからだ。
 そうだ……だから恐い。
 でも。
「幸人、俺……どうしたいんだろう……?」
 根付いたように足が動かなくて、敬吾は助けを求めるように、穂波に視線で縋った。
 このままここから帰りたいという思いも、部屋に入って穂波と共にいたいという思いも、両方心の中にある。それはちょうど均衡をとっていて、どちらも選ぶことができない。
 と、穂波がくすっと笑みを零した。
「何を怯える?俺がお前に快楽以外の物を与えると思っているのか?俺が与えるのは、槻山以上のものだ。あんな奴とのことなど完全に忘れさせてやれる程の快楽だよ、敬吾」
 きつく抱きしめられた胸を通して、声が甘く響く。
「お前を狂わせることができるのは、俺一人だけだ。何もかも、俺に任せろ。俺なら、お前に何も考えられないほどの快楽をくれてやれる」
「幸人……」
「俺に抱かれるのが恐いなんて……二度と思わせないほどに、その体に覚え込ませてやるさ。何もかもどうでもよくなるほどに狂わせてやる」
 耳朶を甘噛みされ、ねっとりと舌を這わされる。
 途端にぞわぞわと肌が粟立って、敬吾の膝ががくりと折れた。その体を難なく抱き取って、敬吾の体が宙を泳ぐ。
「恐れるな、俺を」
 浮遊感に必死にしがみつく敬吾に、畳みかけるようにかけられた言葉にすら、体が酔いしれるような震えをもたらす。その一言一言、全てが、さっきまで心を占領していた恐怖心を押さえつけていく。
「もう、離さない。……誰にもお前を渡さない」
「んんっ!」
 下ろされたベッドで息つく暇もなく、敬吾は全身で穂波の重みを受け止めていた。

「んあぁぁっ!」
 深く激しく穿たれて、敬吾は堪えきれないままに嬌声をあげていた。
 ベッドに沈んだ体が、突き上げられるたびに幾度も跳ねる。そのたびに捕らえられて押しつけられて、逃げることもできないままに、敬吾は享楽の中にたたき込まれていた。
 もうそこには、他に考える余地など無くて、次に来るであろう快感を期待するだけだ。
 それは確かに穂波の言葉通りだった。
 何もかも考えられないほどの快楽。だが、それも過ぎるほどに与えられれば、苦痛にもなるのであって。
「いあっ……やめっ……ひっ!」
 無意識のうちに制止する声が出るほどに、その突き上げは容赦がなく、敬吾は必死でシーツに縋っていた。
 それでもここに到るまでも、そして今も、穂波は全身を使って敬吾を高め続けていた。それに翻弄され、敬吾の逸物はとっくに爆発寸前まできている。
 だが。
「もうっ……お……ねがっ!!」
 喘ぐように掠れた声で頼んでも、穂波は決して許してくれない。
 達く寸前になると、穂波の力強い指が敬吾のモノを痛むほどに縛める。突き上げる勢いも、すっと弱くなり、浅く弱い抽挿が快感を散らしてしまう。そうかと思えば、深くこれでもかというほどに、きつく抉られて、今度は快感以上の衝撃に襲われてやはり達けない。
「やあっ……もうっ……あああっ!」
 その頬を濡らすのは、涙なのか汗なのか、それとも閉ざすことのできない口から溢れた唾液なのか、もう見た目では判らない。
 だいたいそんなことを気にしている余裕もなかった。
 達きたいと、全身が訴える。
「あっ……はあっ……はあっ……はっああああっ!」
 喘ぐような呼吸に合わせて突き上げられ、そのまま悲鳴となる。全身が汗で濡れ、滴となって飛び散った。荒れ狂う波に翻弄され、息つく暇もない。
 けれど、その津波のような激しさは穂波の激情そのものなのだ。
 その感じさせないはずの穂波の感情を敏感に感じたからこそ、敬吾はここに来ることを恐れた。どんな事態が待っているか、本能が気付いていたからこそ。
 だが、それでも敬吾はここにいることを選んだ。  
「あっ……あああっ……ふあっ……あ……もっ……と……っ」
 ひどく長く我慢させられて、行きも絶え絶えになった敬吾のうなじに穂波が口づける。
「敬吾……達くぞ……」
 その言葉だけで達しそうになって、敬吾はくぐもった悲鳴を上げた。
 途端に激しくなった抽挿は、穂波のいきり立った逸物を敬吾にはっきりと感じさせて。
「……敬吾っ!……」
「あああああっ!!」
 穂波のせっぱ詰まった呼びかけと同時に、ぐいっと突き上げられ、その瞬間縛めが解かれた。
 びくびくと震える先から、勢いよく吐き出される白濁した液が下肢に飛ぶ。我慢させられていた分だけ、快感は激しく、敬吾の頭の中かは真っ白になって弾ける。
 なかば意識を失った敬吾の体が何度も痙攣し、全身を総毛立たせたまま硬直していた。

 意識を飛ばしたのは一瞬だったのだろう。
 敬吾が気が付いた時には、まだ穂波はぐたりと敬吾の傍らに横たわっていた。その背が荒い呼吸に大きく上下している。
「……ゆ……きと……」
 手を伸ばして、ぼやけた視界の向こうにいる穂波の顔を探った。触れるその感触にほっと安堵する。
「まいったな……」
 自嘲めいた言葉が手の平に直接伝わって、穂波の腕が包むように敬吾を抱きしめた。
「酷くしないって言ったのにな。我慢できなかった」
 さわさわと穂波の手が敬吾の肌を辿る。いまだ敏感なままの肌は、それだけでぞくぞくとした快感を呼び起こし、敬吾はくっと息を詰めて堪えた。
 ──判ってたけど……。
 達ったせいで、少し理性を取り戻した敬吾の、どこか覚めた頭がそう言う。
 槻山の件を知ったにしては、どうも大人しく引き下がったと思ってはいたのだ。
「だから……恐かったのに……」
「え?」
 小さく口の中で呟いた言葉が聞き取れなかったのか、訝しげに問い返した穂波に、何でもないと首を振る。
 独占欲の強い穂波が、槻山の事を知って嫉妬しないわけがなかったのだ。それを我慢させれば、どこかで破綻が来る。
 そしてそれがどんな形で発散するのかも敬吾は気付いていた。だからこそ、あれほどここに来るのが恐かった。
 もっとも、これが穂波なのだから、今更どうこうしようもない。それに。
 ここまで苛めてくれたら、確かに槻山のことなんかあっという間に忘れてしまいそうだ。
 ──まったく……あいつより幸人の方が意地が悪いじゃないか……。
 あまりに激しい抽挿に、ひりひりとひきつれたような痛みがあるそこを意識してしまい、顔を顰めた。
「う?む……」
 と、穂波が中空を睨んで唸っているのに気が付いた。
「な……に……?」
 嫌な予感がして、敬吾はひきつった顔のままに穂波を見やる。
「もうちょっとやりたいよーな……」
 ──やっぱり……。
 がくっと全身から力が抜けて、ベッドに沈み込む。
 穂波が欲するのであれば、受け入れるのはやぶさかではないけれど。
「明日……休めないから……」
 先日休んだツケは、まだ解消できていない。
 上司に知られている関係は、そうでなくても勘ぐられるのだから。
「また、今度にしてください」
 ため息混じりの懇願は。
「しょーがねーか……」
 どうにか聞き遂げて貰えそうだった。


 質の悪い風邪をひいていたと会社の届け出は誤魔化して、啓輔は次の月曜にようやく会社に復帰した。それでなくても心許ない有給休暇の残がこれで一気に減ってしまったと、それが別の意味で啓輔の頭を悩ませていて、早々に戻ってきた申請書とにらめっこをしていた。
 その姿が微笑ましくて、見ている敬吾も思わず微笑を浮かべる。それでもひさしぶりの会社は楽しいのか、何度か訪れた家城の家で療養していた頃の啓輔からすればその表情は格段に明るい。
 そんな彼に、今聞くべきことではなかったかも知れないが、家城の家ではどうしても問うことができなかったそれを聞きたくて、敬吾は暇をみつけてここに来たのだ。
 幸いにして、この部屋のもう一人のメンバーである服部は、啓輔がいない間のツケが回っているせいで、朝からバタバタと走り回っている。だが、申し訳なさそうな啓輔に、「病み上がりなんだらか」と笑って部屋から出なくて良い仕事ばかりをさせていた。
 それに啓輔は申し訳なさそうだけど、それだから今、あの事の話ができるのだから。
「話した?」
「一応……でも何にもいわれなかった……」
 端的な言葉に、間違いのない返答がされる。今最大の関心事であるそれをふたりは間違えようがなかった。啓輔の視線が、敬吾ではなく机の上に散らばった数々の書類に向けられていても、意識はそれしかないようで、手は全く動いていない。その啓輔が小さくため息をついて、言葉を続けた。
「俺のせいじゃないって。でも俺の高校の時の素行のせいだって言ったんだけどさ……。関係ないって……」
「そうだね。それは俺も関係ないと思う。今回はいろんな偶然が重なって、ってことでいいんじゃないか?俺だって、高校の時の仲の良かった友達が、今は警察の厄介になったって話も聞くし……。過去の友達がどんな人生を歩んでいるかなんて、責任持てないよ」
「でもさ……。その時は俺も絡んでいたし……」
 結局啓輔の罪悪感はそう簡単には消えないのだろう。
 過去の当事者であった自分のせいだと……決してそれから逃れられない。
 だから。
「だけどね、俺はそれを許しているよ。家城さんだってそうだろ?それなのに君がそんなにうじうじといつまでも悔いていたら、今度は俺の方が責任を感じてしまうんだけど」
 できるだけ明るく、冗談めかして言うと、啓輔が弾かれたように顔を上げた。
「そんな……緑山さんが責任感じる事なんて……。だって被害者なのにさ」
「そうだろ?だから、そのためにも隅埜君がそんなことを考えるのを止めて欲しいんだよ。今回のことだって、いろんな偶然が重なって起きたんだし、これも運命だって思った方がいいよ」
 歪む啓輔の顔に顔を近づけて、敬吾は安心させるように笑った。
「それに、今は感謝しているよ君に」
「え?」
「あんなことがあったから、俺は幸人とつきあう決心ができた。……君だってそうだろ?あんなことをしたから、家城さんと知り合えたんじゃないのかい?」
「あ……」
 くしゃりと啓輔の顔が激しく歪んで、今にも泣きそうになる。
 それは本当に庇護欲を駆り立てるくらいに可愛くて、敬吾はその頭を優しくぽんぽんと叩いた。
「泣かないでよ。これじゃ、俺が泣かせたみたいだ。家城さんに怒られてしまう」
 正確には嫌味を言われるんだよな。
 きっと冷たい美貌に感情など押し隠して仕事をしているであろう啓輔の恋人の姿を思い浮かべると、苦笑が浮かんでしまう。
「大丈夫だよ。こんなことではね……」
 そう啓輔は言うけれど、それこそ敬吾にとっては苦笑ものだ。きっと啓輔にはとっても甘いんであろう家城に、その言葉は惚気られているとしか思えない。
「今回のことも、大丈夫だったんだろ?」
「うん……。でもさすがに今回ばっかりはなんか不気味なぐらい優しくて……実はちょっと恐いんだ」
 啓輔の苦笑いの意味に、敬吾は気が付いた。
 敬吾自身その怖さを身をもって体験したからだ。
「それ……判る……」
 穂波に抱かれるのは好きだが、できればもうちょっと穏やかにして貰いたいと思う。
 と、その時、啓輔が何かが気になるようにちらりとドアを見て、それから意を決したように敬吾を見つめた。
「あのさ……緑山さんは同居って考えたことある?」
「へっ?」
 同居?
 その言葉の意味を素直に解釈するには、あまりに突拍子過ぎる話題で、敬吾はそのまま絶句する。
 啓輔が言ったのは恋人との同居──いわゆる同棲ということなんだろうけど。
「この前、純哉にちらっと言われた。このままここに住んでくれても構わない……って」
「それは……」
 きっと看病している間に、一緒に暮らすことへの希望が湧いてきてしまったのだろう。
 いざとなれば遠慮もなくいつでも呼び出すか、押しかけてくる穂波と家城は違いすぎる。
「俺……ちょっと嬉しかったんだけど……」
 なのにそういう啓輔は今ひとつ嬉しそうでない。
「同居、したくないのか?」
「そうじゃなくて……。ただ、俺今の家も離れたくないんだ。だってあそこは、俺が育った家で──って母屋は無くなったけど……。俺がいなくなったら、誰もあそこにいなくなる」
「あ、ああ……そうか、そうだよね」
「だけど、純哉との同居ってのも……考えるんだけど……」
「それはそんなに急がなくて良いんじゃないのか?家城さんだって、今回のことがあったから言い出したのかも知れないし」
「うん……そうかなっとも思ったんだけどね」
 どうやら、浮かない顔の啓輔の真の悩みはそこに実はそこにあるらしいと、敬吾は天を仰いでため息を漏らした。
 ──まあ、いろんな悩みがあるんだろうけどね。
 明らかに惚気に近いそれに、敬吾は苦笑を浮かべるが、それでもふと自分がその立場になったことを考えて、その顔が引きつった。
「緑山さん?」
 それに気付いたのか、啓輔が問いかけてきて。
「その話……絶対に幸人にしないでね。俺は……まだ自分の身が可愛い」
「?」
 きょとんと首を傾げる啓輔を余所に、敬吾は思わず身震いした。
 あの精力絶倫男と同居して、まず最初に壊れるのは自分の体の方だ、とそればかりが頭に浮かんだのだ。
「そ、それより、この前の買い物、なんかむちゃくちゃになったら……また一緒に行こうな」
 同じ事をしたら嫌なことも思い出すかも知れないけど、かと言って引っ込んでばかりはいられない。
「……そうだね……俺も頑張ってみるよ」
 啓輔もこくりと頷いて。
「絶対な」
 そう言って、ふたりはまた約束をしたのだけど。


「どうして……」
「ごめん、来るって聞かなくて」
「お前らだけ行かせてどうする?」
「ですから、一緒に行けばいいんですよね。今回は私たちも用事はありませんし」
 どうも簡単に許してくれると思ったら。
 待ち合わせ場所に言ってみれば呼んでいない筈のふたりが揃っていて、その中で啓輔が申し訳なさそうに首を竦めていた。
「……信用ないって訳?」
 心配なのは判るけど。
「心配しているんだ。恋人としては当然だろ」
 悪びれることなく言い放つ穂波に、敬吾もがくりと肩を落とした。
 だいたい、ふたりだけで行きたかったのは実は理由が合って。
「……邪魔しないでくださいよ。この買い物は俺達の買い物なんですから」
「するつもりはないがな」
 大人しい家城と違い、穂波は買い物するにしても結構煩い。
 そんな彼がこんな言葉で信用できるものでなく。


「だからっ、こっちの服の方が似合うって」
「俺はこっちの方がいいんだよ」
「でもなっ」
「黙っててって、言ったでしょ?」
「俺はこっちがいいって言ってるだけだろ?」


 敬吾と穂波が数着の服の前で言い合う姿に、啓輔が呆れたように家城の方を向いた。
「俺、緑山さんが俺と買い物に出たがる訳、判ったような気がする」
「そうですね……。いい加減穂波さんも大人げないところがあるんですね」
「だね」
 前に来た時よりはるかに目立っている状態に、啓輔は家城を誘ってじわじわとふたりから離れていく。
「とりあえずさ、休憩でもしようよ。このふたり、当分時間がかかりそうだ」
「賛成です」


「だったら、こっちの色にしろよ。お前、この色好きだろ?」
「だから、その色はたくさん持っているので、たまには違う色を、と」
「お前なあ、人が言うこと、全部反対していないか?この天の邪鬼」
「どっちがっ」
 すっかり口げんかの様相を呈してきたふたりは啓輔達が離れていったことにも気付かない。


「なんかさあ……ああいうの見ていると、緑山さんって穂波さんじゃないと相手にならないんだなって、つくづく思うよ」
 ちょうどすぐ目の前にあった喫茶店に入った啓輔は、ちらりウィンドウの向こう側を眺めてから、にこりと家城に笑いかけた。
「え?」
 その意味が判らなかったのだろう、家城が僅かに眉根を寄せて啓輔を見つめる。
「だってさ、緑山さんって強いもんな。俺なんかより、ずっとずっと強い。そんな人となんて俺には無理。あんなふうに、対等に喧嘩できないからね。それって辛いじゃない?いっつもいっつも負けてるのってさ。俺も男だから、相手より優位に立って見たいって思うけど、緑山さんだと絶対にそれは無理だもんな。俺はいつだって負けている。それはきっと……あの時だってそうなんだろうって……思うし……。だけど純哉とは、そうじゃないもんな……」
「私は……別に……」
 くすくすとその笑みに込められた思いに気付いたのか、家城は口ごもって啓輔から視線を逸らした。その横顔がほんのりと桃色に染まっている。
「そりゃまあ……時には意地悪だって思うけど……だけど……あの時は可愛いし……」
「啓輔……」
 ため息と共に制する声は掠れていて、その頬は何かを堪えるかのように強張っていた。。
「ごめん」
 へへっと肩を竦めた啓輔は、ちらりと窓の外を見やった。
 そこでは、明らかに不機嫌な敬吾と、揶揄するように口許を歪めた穂波の姿があって。
 まだやっていると、苦笑を浮かべた啓輔は、頬杖をついたままぽつりと呟いた。
「もう……あんなことは……二度としない。たとえどんなに狂わされても……二度と……」
「啓輔……」
「それに」
 啓輔の声音の弱さに家城が声をかけようとして、だが、不意に啓輔は家城に向かって笑いかけた。
 それは、暗さなんてどこにも感じなくて。
「やっぱ、抱くなら……ねっ。この前の約束、覚えてる?今日、いいかな?」
 ハートマークでも付きそうな楽しげな言葉に、家城は目眩でもしたかのように顔を手で覆う。
「だって……してねーし……。俺……まだ無理だし……」
 一応周りを気にしている啓輔がぼそぼそと伝えると、家城の顔はますます赤くなっていった。
 それが扇情的に思えるのは、啓輔なのかも知れないけれど。
「……あなたって人は……」
 必死で平静を取り繕うとしている家城が、それでも隠しきれない顔色を隠そうとメニューを持ち上げる。
 その様子がどんなに啓輔の劣情を刺激しているか、家城は判っているのだろうか?
 啓輔だけに照れてみせる家城が愛おしくて、可愛くて、そして楽しくて。
 場所が場所だけに声を出せないのが残念だったけれど、それでも堪えきれずに啓輔はくつくつと喉を鳴らして笑い続けていた。

【了】