薊の刺と鬼の涙 8

薊の刺と鬼の涙 8

 槻山が敬吾達を連れてきたのは古ぼけたマンションの一室の前だった。
「ここか?」
 敬吾ですら、いや、敬吾だからこそ滅多にみたことのないほどに穂波の瞳が剣呑な光を宿す。
 その友好的でない視線に、槻山は肩を竦め、おもむろに携帯を取り出した。
「このままドアを叩いてもいなかったらしようがないからね」

 敬吾に向かって鮮やかにウィンクをすると、槻山が慣れた手つきで携帯を操作する。それを敬吾も穂波も、そしてその傍らで家城がじっと見つめていた。
 そんな家城を敬吾はちらりと見つめ、そしていたたまれなさに視線を落とす。
 槻山の部屋を出てから、家城は一言も口をきいていなかった。
 あの時、槻山が啓輔を抱いていないと行ったときの安堵した顔は忘れられない。と、同時に啓輔が敬吾を抱いたと知った時の驚愕する顔も。
 滅多に感情を表さない顔が、あんなに短時間に、しかもはっきりと変わるのを見る者はそういない。
 だからこそ、家城の受けた衝撃の大きさを思って、敬吾は奥歯を噛みしめていた。
 それはとりもなおさず、知られたことに対する啓輔の衝撃にもなるだろう。
 そんな気がしていたのだ。
 だからこそ、啓輔が誤魔化そうとしていることに乗ったのだから。だからこそ──啓輔を守りたいと体を張ったのだから。
「いるよ」
 一言二言会話してから、槻山がくすっと楽しそうに笑う。
 それはタイシがいると言ったつもりなのだろうが、敬吾には啓輔がいると言っているように聞こえた。
 途端に穂波が、そして家城がドアへと向かおうとして。
「開けなさい」
 携帯に向かって言葉を発した槻山が誰よりも早く、ドアを蹴っ飛ばした。
 激しい音に、向かおうとした穂波たちの動きすら止まる。
「あんた……」
 思わず見つめて、ごくりと息を飲むほどに、槻山は先ほどまでの笑みを消して険しい顔つきをしていたのだ。
「私は、自分のお気に入りを奪われて、黙っているほどお人好しではないからね」
 それは先ほどまでの笑みがなんだったのかと思えるほどに冷たく、感情が窺えないものだ。
「誰がお気に入りです?」
 これまた無表情な家城が冷たく突っ込む。
「そうはいうけどね?、彼は可愛かったよ。時間さえあればもっともっと楽しみたかったくらいだ」
 ほんの少し家城をからかうために緩んだ表情は、だがすぐにきりっと引き締まった。
「私はね、楽しければいいと思っている。男を抱くのも楽しいからだ。面倒な事なんてそうそうないし──ただ相手を見つけるのが厄介なだけだがね。だが、私はサドではないし、マゾでもない。嫌がる子を苛めるのはすきだが、それは相手が可愛かったら当然の欲求だろう?あの子は可愛かったよ。まだまだ遊び足りないくらいね」
 途端に穂波が微妙に顔を歪めて、家城が視線を逸らした。
 ──心当たりがあるんだ……。
 一人眉間にシワがよる敬吾に、槻山が肩を竦めて、そしてそれを振り切るように再度扉を蹴っ飛ばした。
「だが、そんな彼を奪われて──。この中の男がケースケ君を連れて行ったという保証はない。だが、私は今の電話の対応で、そうだと思った。これでも勘はいいんだ。そして、私は楽観主義ではない。いつも最悪を考える。最悪を考えるからこそ今までこうしてやってこれたんだ。そんな私が最悪の事態を想像して──怒らずにいられると思うかい?」
 響く音とその声音のおどろおどろしさに、びくりと怯えたように体が震えたのは、そこに一瞬で張りつめた空気のせいだ。
 そんな敬吾を庇うように穂波が前に立つ。
「お前に捕まった時もこのふたりにとっては最悪だったろうよ」
「それでも……私は帰してあげたよ」
 途端に槻山に浮かんだどこか寂しそうな表情に魅入られた。
「お前?」
 穂波が何か言いかけて、だがその言葉は中空に消えた。
「何か用ですか?いきなりでびっくりしましたよ」
 二度と聞きたくもなかった声とともに、ドアが開いたからだ。



「啓輔っ!!」
 その僅かに開いたドアを家城が引き剥がすように広げた。
「ちょっと、あんたっ!」
 タイシが止めようとして手を伸ばすのを、穂波の腕が捕まえる。
「よう、また会ったな」
 どうして人は他人に対して怒る時には嗤ってみせるのだろう。
 寒気がするほどの笑みに、タイシの体が明らかに硬直して、敬吾はその隙に部屋の中に入り込んだ。後ろを槻山が続く気配を感じながら奥へと進む。
 締め切られた部屋はどこか蒸し暑く、局所的にエアコンの冷気が当たって、鳥肌が立つ。喚起が不十分なのか、すえた臭いが充満していた。それは男なら誰でも記憶にあるあの臭いで、敬吾は顔をしかめて室内を見渡した。
 だが。
 それほど広くない部屋に、タイシ以外は誰もいないようで、人の気配はない。
「おかしいな。ここにいると思ったのだが?」
 のんきな言葉に、焦りが助長される。
 ここにいないとしたら、一体どこに?
 ぷっつりと切れてしまう手がかりに、敬吾は収納のドアを開け放っていく家城の姿を追った。
 ここにいて欲しくないけれど、だが、いて欲しいと願っていた。
 だが、どこにも啓輔はいない。
「おや?」
 焦りがピークに達した時、槻山が訝しげな声を上げた。
「何?」
 一番近い位置にいた敬吾だけに聞こえた声に問い返し、そして槻山が奥まった一室の開け放たれた押入の箱を指さした。
「動いた」
「え……あっ、家城さんっ、そこっ!」
 テレビの箱だった。
 現に片隅に同じメーカーの箱がおいてある。押入にすっぽり嵌るが故にもの入れになっているのであろう箱。
 だが。
 それが小さく揺れている。
「ここですね」
 家城が手をかけると、それを一気に引き裂こうとしたが、梱包用の段ボール箱は簡単には破れない。それでも大の男が三人も同時に引っ張れば、裂ける音ともに一面が破れていった。
「啓輔っ!」
 隙間から見えた布の下。僅かに見えたのは白い人の肌だ。
 蒼白にすら見える肌に、敬吾達は本当に最悪の事態を考えてしまう。
「大丈夫だ、生きている」
 先ほど動いた、と言った槻山が安心させるようにこくりと頷いた。
 それに勇気づけられて、再度箱を引き破る。
 包まれた布。
 乱雑に回された紐。その下で確かに動く気配がする。しかも、呻く声すら聞こえてきたのだ。
「啓輔っ!」
「隅埜君っ!」
 慌てていて紐がうまく解けない。無理に引っ張れば痛みを与えてしまうのか苦痛を訴える声が漏れてきた。だから、急いで解きたくてもなかなか解けない。
 それでも、解けて。
「啓輔……」
 そのまま家城が息を飲んで手を止めて、敬吾は堪らずに視線を逸らした。

 
 布の上から巻かれていた紐よりもさらにきつく縛めるように結ばれた荷紐は、啓輔の肌にきつく食い込んでいた。目のすぐ上にすら巻かれて瞼を開けることもできないようだ。その口には布状の物が押し込められ、やはり紐が口の端に食い込むほどに巻かれている。
 他の部分もその紐のせいだけでない痣がいくつもついていて、肌の色を斑模様にしていた。
 しかも。
「外してやれよ」
 押し殺すように言った槻山に家城が手を伸ばす。
 啓輔が味わっている苦痛が伝わったように、眉をしかめながら、家城は啓輔の後孔に突き刺さっていた異形の物をゆっくりと引き出した。
「ひっ……」
 敬吾達の手によって戒めが緩められて、ようやく啓輔が声を発した。だが、家城の手が動くたびに走る痛みを堪えているようで、喉が詰まったような悲鳴に近い。
「もう……大丈夫だから……」
「う……あっ……」
 抜かれたそれは、幼児の腕ほどもあって、その拍子に落ちたのは鮮血だ。
「啓輔……もう、助かったんですよ」
 家城の手が啓輔に触れて、そしてそっと赤ん坊を包み込むように抱きしめる。それに敬吾も、そして槻山も手は出さなかった。
「じゅ……や……?」
 掠れた声がようようにして喉から出てくる。微かな、他の音があれば紛れて届かないような音でしかないそれは、顔を歪めた家城には届いたのだろう。
「……そうですよ」
 何かを堪えるように喉を詰まらせて、それでも微かに頷いて答える。
「じゅん……や……」
「啓輔……申し訳ありません、遅れて」
「じゅんや……じゅん……や」
 啓輔は何度も家城の名を呼んでいた。
 震える腕を伸ばして、力の入らない指先が家城の頬を辿る。
 きつく縛られたせいか、啓輔の瞼は震えているにもかかわらず、まだ開けられていなかった。
「医者に連れて行かないと」
 押入から柔らかそうなタオル地のシーツを引っ張り出した槻山が呟いたのを聞いて、敬吾も硬直したままであったけれどそれでも頷いた。
 酷い……。
 打撲痕のせいでまだらになった肌も、苦痛に歪められたままの表情も、そして、その弱々しげな声音も。それは、いつもの啓輔からすれば、まるで別人のようだった。
 だからこそ痛々しげで、はやく手当をしてあげたくて。なのに、敬吾自身はその応急手当をする知識も技量もなかった。
「車に運ぼう。救急車を呼んだ方がいいんだが……」
 それには誰もが首を振って否定する。
 何より、啓輔が。
「いや……だ……。俺……だいじょーぶ……だから……」
 家城に縋りながら嫌がった。それこそ動かない体を身動がせている。
「だったら……どっか心当たりがないか?医者……」
「医者……あ……」
 途端に最近すっかり仲良くなってしまった一人の医師の姿が浮かんだ。
 そして、その医師と特に仲が良いというと怒りそうな彼の姿を探し出す。
 そういえば、穂波がタイシを捕まえていたのだ……と。
「医者か……それなら、心当たりがある」
 いつから話を聞いていたのか、ずっと姿の見えなかった穂波が部屋の入口付近に立っていた。その眉根が寄せられて、痛ましげに啓輔を見下ろしていた。
「連絡を取るから、その子を車に運べ」
 その傍らに、口から鼻から血を流し顔を腫らした男が床に転がっていた。
「大丈夫?」
 別にタイシを気遣ったわけでなく、やりすぎて穂波が公的に責められるのが嫌だったからだ。
「加減はしてある」
 口許に浮かぶ笑みがひどく冷たく、敬吾はぶるっと悪寒に身を震わせた。
「それより、敬吾。先生になんと言い訳すればいいか考えといてくれ」
 今度は困ったように嗤われて、敬吾もようやく口許をほころばせた。
「ああ、判った」
 穂波ですら頭の上がらない老医師に、どんな誤魔化しも聞きそうになかったけれど。
 それでも敬吾は大きく頷いた。


「……お前……何やった?」
 啓輔の姿を一目見た途端、白衣姿の佐伯は穂波をじろっと睨んだ。
「……私じゃない……」
 苦虫を噛み潰したように顔をしかめる穂波に、佐伯はふんと鼻で笑って啓輔へと向き直る。
「穂波さんのせいじゃ……ないから……」
「ああ、判っている」
 庇うように呟いた啓輔には、安心させるように柔らかく微笑んで、横たわるようにその体を軽く押した。
「ああ、敬吾君だったね。そいつを連れて、この子の着替えと……レトルトで良いからお粥を買っておいで。あいにく、食事の時間は終わっていてね。少しだけでも、食べた方がいいし」
「はい、判りました」
 そういえば、と、佐伯の指示に敬吾は頷いた。啓輔の服は、ゴミ箱の中に突っ込まれていて、それは単なる布切れと化していたのだ。
「それから……君はついているかい?」
 視線が家城に向けられる。
「はい」
「さて、私は外で待っていよう。先生、そっちが終わったら、ちょっとだけでいいからこいつも見てやってくれ。このまま放って後遺症でも残されると、ややこしいことになるからね」
「ああ、外のソファにでも転がして起きなさい」
 槻山がひきずるように連れてきたタイシを一瞥して、佐伯は顔を顰めた。だが、啓輔よりは格段に冷たい視線に、佐伯は何も聞いていなくても事情を理解したのだと知った。
 前に穂波にインフルエンザをうつしてしまった時に往診に来てくれて以来、親しくしている佐伯は、あの穂波ですら敵わない一人なのだから。
「敬吾、行くぞ」
 穂波に連れられて診察室から出て行くとき、ちらりと向けた先で啓輔は力無く横たわったままだった。
 無事助けられたけれど、まだ啓輔自身がどんな目にあったのか詳しい状況はよく判っていない。
 ただ、タイシに呼び出されたのだと。そして、タイシが槻山を敵視している輩と手を組んで、お気に入りだと言われた啓輔を嬲ったのだと。それだけが、かろうじて聞けた。
 それだったら、と敬吾はほぞを噛む思いで唇を噛みしめたものだ。
 槻山のお気に入りだというのなら、敬吾もその標的にされてもおかしくはないのだ。なのに、啓輔が呼び出されたのは、タイシが啓輔をよく知っていたからだろう。そして、敬吾を庇い続けていた啓輔を知っているから。だから敬吾をタテにしたのだと考えてもおかしくはない。
 目を瞑って甦るのは、紐で縛められた痛々しい啓輔の姿だ。
 それに、まだ啓輔は知らない。
 ここに槻山がいる理由も、家城があの日の事を知っている事も。
 まだ何も知ってはいない。
「敬吾?」
「あ、ごめん……」
 呼ばれて追いかける先にある穂波の背中を見つめて、敬吾は自分自身の問題も片づいていないことを思い出した。
 槻山に抱かれて、啓輔にも抱かれて。
 それを知った穂波がまだ何も言っていない。
 いつもと同じようにそばにいてくれる穂波に、自分は一体どうしたらいいのだろう?
 啓輔にかまけて後延ばしにしていた問題を意識した途端に敬吾は息苦しさを覚えて顔をしかめた。


「穂波さん……」
 車に乗ってすぐに、敬吾はいたたまれなくなって声をかけた。
 運転していてまっすぐ前を見ていた穂波が横目で敬吾を窺う。
「ごめんなさい……」
 言った途端に、目の奥が熱くなって慌てて俯いた。
 家城の部屋で、混乱したままに謝った覚えはある。だけど、今もう一度ちゃんと謝りたかった。
 心配かけて、なのに誤魔化して……だけど責められなかった。
 ずっと信じていてくれた。
 それでも敬吾が取った行動はもしかすると間違いだったのだと、あんな啓輔の姿を見ていると思ってしまう。
「お前は……謝ることはない。あの時、聞かなかったのは……お前のためだと思っていた。が、実は自分のためでもあったのも確かだからな」
 自嘲めいた嗤いが車内に響き、驚いてその横顔を見つめる。
 きりりと引き締まった横顔が確かに歪んでいて、見ている敬吾の胸を締め付ける。
「帰ってきた様子を見て、聞けなくなった……というのが正解だな。家城さんがあの場にいなければ、もしかすると逃げ出していたかも知れない。お前が……明らかに情事の後だと臭わせていたから、そんなお前を見たくもなかった。あの時、家城さんに、責めないでおこう、と偉そうに言っていなければ、お前を壊していたかもしれない。それほどまでに、頭が白くなっていた」
「でも……さ……あの時、ほんとうは言わなければならなかったんだよな。隅埜君と何があったか……あのタイシって子に捕まったんだって……はっきり言っていれば、隅埜君がこんな目に会わなかったのかもしけない。幸人に相談していれば、隅埜君が一人で会いに行くこともなかったろうし、あんな……悲惨な目にも遭わなかったと思うし……」
 隠そうとしてついた嘘のせいで、別の隠しようもない事態になって。
 そして、その原因である隠したかった事柄が晒されてしまった。
「俺……何していたんだろう……」
 啓輔を守りたい。
 そう思ったのに。
 俯く顔が悔しさのあまりに歪んで、その頬に涙が流れる。
 槻山に抱かれるよりも酷い行為に晒された啓輔を、守ることなどできなかった。
「敬吾は、何に悔いている?」
 ぽつりと落とされた呟きに落としていた視線を上げた。対向ライトに照らされ、穂波の横顔に影を作る。だから、どんな表情をしているのかはっきり判らなかった。
「俺は……守れなかった……」
 結局はそれにつきるのだ。
 嘘をついたことも悔いることかも知れない。
 だけど、一番の問題は、それだ。
「お前は……少なくとも槻山からは守ったのだろう?それで十分だ。それ以上のことは、四六時中ついていない限り、できるものではない。それを言ったら俺だってお前を槻山の手から守ることができなかった。誰にだってできることに限界はある。それがどんなに悔しかろうが、な」
「幸人……」
「お前はよくやったよ」
 その言葉に少しは救われた気がした。
 確かに四六時中ついてはいられない。だから啓輔を守りきることは無理。
「お前はできることをした……。事の発端はお前達があのタイシって奴に会ったことは間違いないが……。それは偶然でしかない。敬吾がどう足掻こうとどうしようもなかったことだ」
 気が付いたら車が止まっていた。
 少し広い車線の、待避所のようなところ。
「だが、お前が自分が許せないと思うのは判る。お前は──あの子が可愛くて堪らないんだろう?俺が止めろと言ってもあの子に関わるのを止めるどころか、ひっついていて……俺がどんなに嫉妬していたか判っているのか?」
 ため息に混じる穂波の本音に、敬吾は堪らずに微笑んだ。
「そだね……。隅埜君はなんかさ、守りたいって思うんだ。あんな目に遭ったのに──それに、好かれるってのは気持ちいいよね。たとえ、その好きって思いが純粋でなくても、それでも彼から受ける好意は嬉しいんだ。他の誰でもそんな気にはならないけど……」
「庇って槻山に抱かれてしまうほどにか?」
「……」
 穂波の言葉に混じった嫌味に、敬吾は息を飲んだ。だが、気を取り直す。
 今までのいつもと同じような会話が、敬吾に自信と勇気と、そして安心感を取り戻させていたから。
 だから。
「薬のせいだからね……。それに、幸人が俺の体を玩具で開発なんかするから、体の方が屈服しちゃったんだよ」
 冷たく言い返す。
 それは事実だ。
「……お前……」
 穂波が息を飲んで、眇めた視線を送ってくる。それに嗤って。
「誤魔化したらとんでもないことになったから、ちゃんと言うけど」
 言うことなんかできないと思っていた。
 穂波がどんな目で自分を見るのかと思っていた。
 だけど、やはり穂波だから言わない方がマズいと思った。
「俺は、何回も槻山に抱かれたよ。そして何回も達ったしね。自分でも強請った覚えがあるし。隅埜君にも一回抱かれたけど、それで感じたのは否定しない」
 内容の深刻さなど気にしないように茶化すように事実だけを伝える。
「お前が感じやすいのは……俺のせいだしな……」
 穂波が小さな息を吐き、自らの責任だと自嘲気味に口許を歪める。そこに、敬吾を責める様子は無かった。
「でもさ……」
 責められないと、罪悪感が増すのはどうしてだろう?
 茶化すことも実は素直に告白できない自分を誤魔化すためだったのだが、それを受け入れられると妙にいたたまれなくて。
 だが、暗く沈みかけた敬吾を穂波が顎に手を当てて顔を上げさせた。
「俺は……お前がこうやって戻ってきてくれたことが一番嬉しい。憎むべきはあのタイシであり、槻山であって、敬吾でない。敬吾が自分の意志で槻山の元に行ったのなら、お前を責めていたかも知れないが……。そうではないだろう?」
 穂波の言葉に目を見開いた。
 口が勝手に言葉を吐き出す。
「意志なんかなかった……」
「だったら……いい」
 唇が塞がれる。
 あっという間に肉厚の舌が口内を暴れ出して、瞬く間にそれに翻弄された。
「ん……あ……」
「キスも久しぶりだぞ」
 くつくつと喉の奥で嗤われて、ああ、そうか、と手を伸ばす。
 いつもなら会ったら挨拶のように交わすキスも、バタバタとしていてまだしていなかった。
 いつもと同じ。
 穂波がいつものように敬吾に接してくれようとしている。
 それが堪らなく嬉しい、けど。
「ゆきと……他人に抱かれた俺でも……いい?」
「ばか」
 揶揄を多分に含んだ言葉は、敬吾の口の中に消えていく。
 このまま、最後まで愛して欲しいと願うけれど、隣をすり抜ける車のヘッドライトの光が車内を照した。
 もしかすると見えるかも知れない、と思うのだが、離れられなくて穂波の背に回した腕に力を込める。だが、結局、穂波の方から体を離した。
「とりあえず、買い物が先だな」
 穂波が苦笑を浮かべて離れるのを名残惜しげに見つめる。
「そんな顔をするな」
「え……?」
 半ば夢見心地の状態で、ぼんやりと聞き返すと、穂波が肩を竦めて笑う。
「物欲しそうな……誘う顔」
「え……って、そんなつもりはっ!」
 惚けた頭が一瞬にして現実に立ち戻り、穂波のあからさまな言葉に顔が熱くなった。
「お前の瞳が濡れて、周りの灯りが反射している。まるで、夢見ているように揺らいで、俺を誘う……。本当なら、このままどこぞのホテルにでも直行したいところだが……」
 ひそめた眉が穂波の苦悩を物語っているようで、敬吾も大きくため息を吐いた。
「そうだね。頼まれた買い物を先に済ませようよ。あんまり遅くなると先生に何を言われるか」
 そこまで言って佐伯と穂波のやりとりを想像してしまった敬吾がくすりと笑うと、穂波の顔が苦渋に満ちていく。
「そん時はお前も同罪だから」

 ものの数分も走らせないうちに目的地に着いた。
 かちゃりと音がして、ドアが開く。
 もう急ぐことはない。今、穂波はここにいるのだから。
 自分は穂波のところにいるのだから。
 車から降りる敬吾を穂波はじっと待っていて、そんな彼にふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「隅埜君……Lサイズかな……?」
「ああ、そういえば聞いていなかったな。細いけど身長があるし……。パジャマだけはLLでも買っとくか?大は小を兼ねるっていうし」
「そうだね」
 こんなやりとりができることが幸せで。
 敬吾は心から笑うことができた。
 

 見上げる先で細い管の中に透明な液が一定の間隔で落ちていく。
 それをぼんやりと啓輔は見上げていた。
 ぽた、ぽた……と繰り返される動き。
 この病院に来てから、ようやく視野が元に戻ったような気がする。それまではずっと目がちかちかとしていて、焦点を合わすこともままならなかった。
 闇の中に無数の小さな光が瞬いて、焦点が合わない。それだけがあの時の啓輔の世界だった。
 だが縛められていた紐を解かれて、体内を圧迫していたそれを抜かれて、それでも啓輔には自分が助かったという感覚はまだなった。
 それを認識したのはいつだったろう。
 確かに助かったのだと、強張った体から力が抜けたのは、どの瞬間だったのだろう?
 痛みと恐怖に苛まれ、震える体を抱きしめられた時のことは覚えている。
 では、助かったと思ったのはその時だったのか?
 啓輔はずっとそればかりを考えていた。
 ここにきて、医者らしき人が冗談めかして穂波に話しかけているのも、敬吾に親しく話しかけているのは、もっとずっと後だった。
 あの時には、何が起きたか、誰かに話していて……。
 聞かれるがままに喋ったから、自分が何を話したのかなんて覚えていない。
 ただ、何かを話していないと、また闇に引きずり込まれそうで。
 だけど、ここは明るい。
「目に傷はないよ。だけど明るいのは負担だろうから」
 と、白衣を羽織った人が部屋の灯りを消していた。
「いやだ……」
 それでも闇が恐いから、思わず制すると、彼は笑って「全部は消さないよ」と言ってくれた。
 その優しさも、強張った心を解してくれる。
 その淡い灯りを見つめていると、もう、あそこに戻らなくていいんだ、と安堵の吐息が零れる。
「啓輔……」
 音ともに空気が揺らぐ。
 それは、あの時何度も呼んでくれた声と同じ物。
 ──ああ、そうか。
 ──この声を聞いたから、助かったって思ったんだ。
 そんなことを唐突に思い出して、啓輔は縋るように声をかけてくれた人に視線を向けた。
「思ったほど酷くないそうで、明日は帰っても良いそうですよ」
 優しく労るような声。
 あの時も、何度も名前を呼んで、抱きしめてくれた。
 覚えている。
 何もかも。
 辛いことよりも、もっとたくさん、嬉しかったこと。
 その記憶は、もっとずっと過去にまで遡っていて、自分がどんなに彼に助けられたかを改めて痛感していた。
 それはきっと、忘られないこと。
「穂波さん達は先に帰って頂きました。退院したら、挨拶に行きましょうね。今来ているパジャマもお見舞い代わりと置いていってくださいましたし」
「うん……」
 指の先まで隠れるパジャマに目をやって、啓輔は小さく微笑んだ。
 それを見た、家城もほっとしたように口許をほころばせる。
 この病室に運ばれてから、ずっとそこに家城がいたことは気が付いていた。
 再会したら何も言えなくて逃げ出すかもしれないと思っていたけれど、動けない体をさっ引いても、それでも今は逃げたいなんて思わなかった。
 まして、こんなふうに家城と平静に会話できるなどと、あの時は思いもしなかった。
 だけど。
 助けられて、こうして二人でいても、離れようなんて思いもしない。
 家城に抱き寄せられて、抱え上げられて──あの温もりを覚えているから。労るように何度も呼ばれたことを覚えているから。
 そして、悲痛な顔で治療中の啓輔を見つめていた家城の姿を覚えているから。
 だから。
 自然に家城を見ることができて、あろうことか笑うこともできる。
 本当は再会できたら、言わなければならない言葉があった筈なのに、今はそれが思い出せない。
 だけど。
「でも今日はゆっくりと休んでください。私はずっとここでついていますから」
「うん……」
 言われた言葉に心の奥深くがちくっと反応する。
 泣きたくなるような、熱い塊がせり上がってきて、啓輔はもぞもぞと布団の中に潜っていった。
 ──今は泣けない。
 ──泣いちゃいけない。
 黒と白と、そして申し訳程度に朱がかった色しかない心の世界にほんの少し色が入ったような、そんな変化がしたように思えて、啓輔は小さく息を吐いた。
 途端に、薄い朱ががった色が、あっという間に極彩色の世界になる。
 何もかもが怒濤のように溢れだして、啓輔の双眸から涙が溢れていった。それは堪えていたものが堰を切って溢れたような勢いで。
 言いたかった言葉。
 何が起きたか、狂う程に一気に思い出す。
 だが。
「あ、ああ……っ」
 小さく漏れた悲鳴に、家城が動く気配がして、点滴が繋がって寝具の外に出ていた手をぎゅっと握りしめられた。
 その温もりを感じた途端、荒れ狂う意識が、急速に収束する。
 極彩色のとげとげしい色が、穏やかなパステルカラーに変化して、襲ってきた恐怖感が一気に柔らいだ。
 ──また……助けられた……。
 こうやっていつでも家城はそこにいてくれて。
 そして。
「純哉……」
「はい?」
「ごめん……」
 手の温もりに助けを借りて、啓輔はやっと言いたかった言葉を思い出した。


 落ち着いてみると助けられた記憶は意外に鮮明に残っていた。
 あの時。
 ドアを叩く音がした途端、タイシが啓輔にした行為は思い出したくもない。
 引き裂かれる痛みは、その前までの陵辱の時より酷く、意識を失うほどだった。
 次に気付いたのは、自分を呼んだ声。
 開こうとしても開かない瞼。口の中に詰められている何かのせいでひどく息苦しい。だから、身動いで。
 そうしたら気付いて貰えた。
「なあ……あの時さ、純哉の声だけ聞こえてた。他に人がいるのは後から気が付いたよ。純哉なら……助けてくれると思ったから……」
 包まれた温もりに、縋るしかなかったあの時。
 見えない向こうに確かに家城の気配を感じていた。間違いないと思ったのは、声を聞いた時。そして、触れられた時。
「来てくれてありがとう……。俺さ……嘘ばっかり付いていたのに。タイシのことだって、俺がバカなことをしていた時のツケが出ただけなのに。純哉には関係ないことだったのに……」
「最初にあなたが私の名前を呼んだ時、私は嬉しかったんですよ。誰よりも私に縋ってくれるあなたが、愛おしくて──関係ないなんて事ないですよ。あなたに何かあれば、私は辛くて堪りません。私はあなたの恋人だと思っていますから、こんなこと苦にもなりません。それよりも、もし助けられなかったら、そちらの方が苦になります。だから、傷ついたあなたを見た時、もう二度とあなたから離れまいと思いました」
 震える声がその口から零れ、同じく震える手が頬に触れる。
 それに動く方の手を伸ばして、啓輔はもっと触れたいと頬に押しつけた。
「ごめんな……黙ってて……」
 黙っていたことが事の発端だったと思う。
 過去のことも今のことも。
 何もかも、彼にはまだ話していないことが多すぎる。
「後でいいですよ。ゆっくりと教えてください。私はいつでもあなたのそばにいますから」
「うん……」
 込み上げる涙を家城の指が掬い取る。それも気持ちいい。
 声も、触れられることも、何もかも。
 心がほっと解放されて、ひどく心地よくて。
「なあ……純哉……」
「はい?」
「俺さ……緑山さんのこと……好きだけど」
「……」
「でも純哉の方が……もっと好きなんだ……。俺……抱いちゃったけど……でも嬉しくなかったよ。純哉を抱けた時の方が、もっと嬉しかった……」
 もう何を喋っているのか自分でも判っていなかった。
 気持ちの良い温もりが啓輔を覆って、疲れている体も心も激しく睡魔を欲する。
「また……純哉のこと……抱きたいや」
「あなたは……」
 ため息が頬をくすぐって、なんだか嬉しくて啓輔の口許が緩む。
「だってさ……最近してない……から……」
 意識が夢の中に引きずり込まれる。それを必死で堪えて。
「では、元気になったら、ですね」
「約束……だよ」
「はい」
 ひどく幸せな気分に包まれて、啓輔は眠りの中に入っていった。



「約束」
「判っています」
 眠った啓輔のそばをそっと離れて、待合いに戻ると槻山が待っていた。傍らで転がっているのはタイシで、顔に巻かれた包帯のせいですぐに誰か判らない。
 家城達が啓輔に構っている間、穂波は一人でタイシを追いつめいた。
 それこそ念入りに、だ。
 その結果、彼の両腕は脱臼もしくは骨折しており、顔は内出血で腫れ上がっている。服に隠れた部分も同様だ。
 佐伯が、「警察に連絡したくなる」と思わず呟いたのを、家城は必死で止めたものだった。もっとも佐伯も本気ではなかったようだが。
 このタイシをどうするか?
 浮かんだ問題は槻山の「連れて帰る」という一言で解消した。
 何を好きこのんでそんなことを?とは思ったが、槻山にも考えがあるのだろう。家城にしても、タイシに対しては怒りしかないが、ここまでやられていては、どうしようという意志もない。
「うう……」
 意識は虚ろらしいが、それでも痛みに襲われるのだろう、タイシが時折唸っている。
 それを家城はちらりと眺め、そして槻山に視線を戻した。
 期待に満ちた視線で家城を見やる槻山が諦めている気配はなく、家城は小さく息を吐いた。
 槻山の言う約束はなんとかして放棄したい物だったが、そうはいかないようだ。
 だが、今は啓輔の元にいたい。
 今はまだ痛み止めの薬のせいか、どこかぼんやりと夢心地だった啓輔だが、そのうちに意識がはっきりする。そうなれば、彼の心の弱さが出てくるであろう事を家城は知っていた。
 両親が亡くなった時、啓輔が受けた傷を家城は忘れていない。
「その約束……また今度というわけにはいきませんか?」
 食えない男にそれでも縋るのは、何もかも啓輔のため。
 そして、このことは絶対に啓輔に知られてはならないから。
「う?ん……どうしようかなあ?」
 子どものように笑みを浮かべるその仕草を家城は冷たく見つめ続けていた。こんな男に感情を見せるつもりはなかった。家城の感情は、啓輔のためだけの物なのだから。
 そんな視線に気が付いたのか、槻山がくすりと肩を震わせた。
「いいよ」
 そして言う。
「今日は、こいつを連れて帰らなければならないし……それにこいつにはお仕置きをしないとね。私はまだ許すつもりはないんだよ。だから……こいつに飽きたら君を呼ぶから。連絡先だけくれるかい?」
 お仕置きといった瞬間の、酷薄そうな笑みに、他人事ながら悪寒が走った。
「それは……いつ頃ですか?」
 躊躇いはあったが、だからと言って家城に拒絶権はなく、メモに携帯の番号を書き込んで渡す。
 それを受け取りながら、槻山は足先でタイシをこづいていた。
「それはこの男しだいだよ。……あんなことをしたら、どんなに辛いか。してはならないことはしっかり教えておかないとね。何しろ、私のお気に入りだと判って、私のライバルに彼を渡したのだよ。そんなことをされて黙っていられるほど私は寛容ではないしね。それをしっかり覚え込ませるつもりだ。私のお仕置きは……厳しいよ」
 勉強を教えるのかと思うほどに、平然と言うその内容は空恐ろしい。
 だが。
「だからもう報復なんて考えなくていいだろう。どうやら、この男には前にも煮え湯を飲まされているらしいが……その分、警戒しているのだろうが……。だが、この男はもう二度と彼らには手を出さないし、私も出させるつもりはない。だから君たちが、何かをしようなんて思わなくてもいいから。全て私に任せてくれればいい」
 ふっと声音が低くなった。
「詫びといっちゃなんだけどね。これでも一応責任は感じているから」
 真摯な言葉に、家城は知らずに頷いていた。
「……御願いします」
 いまだ彼の正体が何なのかよく判らなかったが、他に方法はない。
 それに。
 そんなふうに言う槻山に、家城は僅かではあったが好意を覚えた。それは本当に僅かなものであったけれど。
「……お仕置きに飽きないことを祈っています」
「ふふん。それは彼次第だね」
 槻山のタイシを見る目に、好色さを感じて家城は苦笑を浮かべた。
 このまま、彼がタイシに溺れてくれれば……とは思うのだが、そう簡単にはいかないかもしれない。
 だが、彼が家城を呼ぶことはないのだろう、と、そんな事をふと考えて、笑みが強くなる。それが自分の願望にしか過ぎないと判っていても、真剣に願っている自分に呆れたのだ。
 何より、啓輔以外の誰にも抱かれたくないのだから。

続く