【CROSSLY vol.2】  

【CROSSLY vol.2】  

 ひどく忙しかった。
 基本的に年度初めが一番忙しいのがこの会社の特徴だが、今年はそれからこの夏までずっと忙しい。もう、てんてこ舞い、と言って良い程だ。
 生産技術部に所属する竹井拓也もここ数日が特に酷かった。特に今日は朝からずっとメーカーから来た設計図面とにらめっこだ。

 新しい試作設備を導入するのだが、図面を起こしてさあ発注、という段になって設計変更が入ったのだ。そのせいで、細かな修正が大量に発生している。
 ところが、その装置で作りたい試作品の試作期限はすでに決まっている。それは、現在有る量産設備のキャパシティが限界を超えるからだった。それまでに、この装置を立ち上げて、量産試作を行い、使えるものだと社内に報告する必要がある。
 そのせいで、設計変更があるからと言って発注を遅らせることはできない。
「それじゃ、行ってきますっ」
「気をつけて」
 安佐の声が閑散とした室内に響く。それを振り返りもせずに送り出して、再び画面に集中した。
「あ、待ってくださいっ!」
 けれど、別に響いた声に、集中力が削がれた。思わず視線が上がりその声の主を追う。
 入り口近くの机の、先月中途採用で入ったばかりの多津芳信(たづよしのぶ)が、安佐を追いかけていた。
 中途といってもまだ若い。
 先月29才に安佐はなったが、彼はまだ26才だ。大学出てすぐに入った会社を家庭の事情で辞めて、郷里の岡山に戻ってきたと聞いている。
 そんな多津の教育係を任されたのが、安佐だった。
 しばらく新入社員が入っていなかったこともあって、安佐にとっては初めての後輩。ずいぶんと可愛がっていて、優秀だと褒める言葉を何度も聞いた。
 今回の出張も、教育を兼ねて一緒に行くらしい。
 後輩といっても別の会社で数年働いていた多津は、確かに仕事の段取りも考え方も優れていると、竹井でも思っていた。慣れないのは、この会社独自のシステムくらいなものだ。
 そんな多津の視線が安佐の背中を追っているのが判る。
 先を行っていたはずの安佐の姿も、窓越しに立ち止まっているのも見えた。
 口が開いて、何かを言っている。
 遅い——とでも言っているのだろうか?
 ふと、時間を確認する。
 ああ、それで急いでいるのか……。
 東京行き航空便の出発時刻が頭の中に浮かぶ。その数字がはっきりしないのは、竹井にあまり縁が無い数字だからだ。
 竹井は出張に行くことが少ない。それは社内で済む仕事がほとんどだからだ。それに加えて、あんなふうにバタバタと出て行く経験もあまり無い。もともとが、用意周到に計画をしっかり立てて、その通りに動くようにするから。
 その点、安佐は時々あんなふうに慌てて出て行く。
 それは忙しいからだというのもあるのだけど。
 追いかけていく多津の後ろ姿を見つめて、小さくため息を零す。
 あんなふうに安佐と一緒に出張に行ける多津が、少しだけ羨ましい……と考えて、バカな——と浮かんだ苦笑は何故か強張っていつまでも崩れなかった。



 安佐の出張は二泊三日。
 帰ってくれば、残り二日で夏期休暇だ。
 コアとなる盆休みの前後に、各自どちらかに夏期休暇という名目の休みを付ける。そうして連続10日程の休みを取ることが可能になるのだ。全社一斉に休むには、いろいろと仕事の不都合が発生するので、だいたい半分ずつ休んでくれ、という会社の方針だ。
 安佐も竹井も、後半を選択した。
 盆だからといって実家に戻るつもりはなかったし、前半の方が混みやすいような気がしたのだ。
 それに、安佐がやはりこの地に残って過ごすと言っていたから、前半にする気も起きなかった。
 休みが確保できるとすぐに、盆は帰らないと実家には連絡を入れている。どちらにせよ、兄夫婦や孫達、近所の親戚でてんやわんやの実家で、一人帰らなくても心配などされたことはない。帰るにしてもずらして帰った方が感謝されるくらいだ。
 だからと言って、何か予定があるわけでもなかった。
 安佐も何も言ってきていない。
 何しろずっと忙しくて二人で揃うことも稀だ。仕事が終わって帰ったら、食べて風呂入って寝て終わり。そんな状態では、何かを決めるということもできなかった。
 それに、この時期の旅行などは、かなり早く予約しないと、希望通りの部屋が取れない。
 今日も残業を終えて帰った竹井は、畳の上に寝っ転がってぼんやりと天井を見上げていた。
 長い休みは嬉しいが、その分仕事の前倒しが発生しやすい。
 それでなくてもやたらに忙しい日々の中、その前倒し分は身体に堪えた。
 少し関節痛がするのは、日々当たるエアコンの冷気のせいかも知れない。今も一日締め切っていたために蒸れた部屋を冷やすために、エアコンがフル稼働している。その冷気が身体に良くないことは知っているけれど。
 蒸れた部屋は必要以上に竹井の体力を奪うから、どうしてもその設定値を下げることはできなかった。
「だる……」
 ごろりと身体を返し、楽な姿勢を捜す。その時転がった携帯が目に入った。
 安佐は今頃ホテルだろうか?
 電話したら、出るだろうか?
 伸ばした指の先に携帯が触れる。けれど、爪先が携帯を押して、さらに遠くにやってしまった。
「あ?あ」
 竹井の口からため息を零れる。
 もう一度体を返せば届くが、そんな気力も失せて、今度はテレビへと視線を向けた。畳に頬杖をつけば、付けっぱなしのテレビが視界に入る。
 けれど、なんだか面白くない。それをぼんやりと眺めていると、もっとやる気が失せてきた。
「安佐のバカ野郎……」
 この気力が沸かない原因は安佐のせいだ。
 絶対にそうだ。
 責任転嫁も甚だしいと自分でも判っているが、けれど間違っていない、とも思う。
 何しろ、この一ヶ月、安佐はあの多津に付きっきりなのだ。
 仕事が忙しいのも原因ではあるけれど、それでも前はもう少し話をする機会もあったし、いろいろと気を遣ってくれてもいた。
 なのに、今は朝から晩まで多津、多津、多津。帰りも一緒に食事にも行っているらしい。
 それは、慣れない多津を気遣っていることと、一緒に仕事をしている関係で帰る時刻が同じになるからだ、ということは判っているけれど。
 その影響は、竹井との逢瀬の時間に現れた。
 だからと言って、安佐を責めることも多津に文句を言うこともできない。
 何も知らない多津に、安佐との関係をバラすこともできないし、先輩としてそんなことに目くじらを立てるのも変だというくらいの自覚はあった。
 それに多津は、明るく人当たりも良い。しかも仕事をこなす力も十分で、機転の良さもなかなかのものだ。使える後輩の登場に、慢性人手不足の生産技術部も、ほっと一息ついたものだった。
 それは竹井も同様だ。
 けれど。
 いくら指導係だからといって、安佐は多津を構いすぎのような気がした。
 確かに多津は教えがいがある奴だと思うけれど。
 でも……。
 何も予定が埋まっていないカレンダーが視界に入って、ぐたりと身体の力が抜けた。
 冷たい風が、ようやく汗に濡れた身体を冷やし始めて、ほっと息を吐く。けれど、胸の内はなんだかもやもやとして落ち着かない。吐いた息はやたらに高い温度で、喉の奥を焼くようだ。
「くそ、ばか、安佐」
 呟いて、こてんと額を畳につけた。
 何もかも、この不快さすら安佐のせいにしてしまいたくなる。
 そうすることによって、少しは楽になるような気がして。
 けれど、身体の怠さは治まらない。
「くそお……何にもやる気が起きねえよ……、こんなん……安佐のせいだ、安佐がいないせいだ……」
 畳に直に寝っ転がったまま、竹井は不快な感情を吐き出すように、ここにいない男に向かって毒突いた。



 安佐が多津を褒めるたびに、腹立たしく思いだしたのはいつからだろう?
 最初の内は、できる後輩の出現に気を良くしているのだから、と微笑ましく思っていたけれど。
『いやあ、あいつ、ほんと素直に言うこと聞くんで助かります』
 安佐が屈託もなく、お気に入りだと言う。
『多津くんの親御さん、病気で倒れて大変らしいけど。親孝行ですよ彼。忙しくてもちゃんと看病もやってて。ほんとは残業せずに帰って貰いたいんだけど、良いって言うんですよ』
 寝不足気味なのかあくびを噛み殺している多津を窺ってそんな事を伝えてきた安佐に、竹井は「ふ?ん」と返しただけだった。
 その時には安佐は優しいから、と思っただけだったけれど。
『俺、なんとかして上げたいんだけど。でも仕事が……』
 安佐がそう言って、スケジュールを遣り繰りする。
 その真剣な表情に、何故か胸の奥が暗く澱む。
 凝り固まった黒いそれは、迫り上がって喉を圧迫しとても不快だ。けれど、とんとんと胸を叩いても、それは治まるどころか、さらに酷くなった。
 そんな竹井の隣で、ああでもないこうでもない、と安佐と多津の予定をやりくりしている安佐の声が、不快さを助長する。
 忙しいのは竹井だって同じだ。
 休日出勤もして、仕事をこなして、くたくたになっているけれど、安佐の仕事を手伝っている。
 別に、頼まれたわけではないけれど、竹井の方が得意だったから。
 それなのに、こんな時しか近くにいない安佐は、多津のために一生懸命なのだ。
 どうして、他人の話を聞かなければならないのだろう?
『安佐……、それで、その作業はいつ終わるんだよ』
『もうちょいかかりますねえ……』
 安佐は本来事務仕事が苦手で、自分のスケジュールも適当に立てている位なのに。
 今は面倒くさそうにしているけれど、鼻歌まで出そうなほど陽気だ。
『あ、検収がある。この日、多津も連れて行ってやろう。良い勉強になるかもな』
 どうして、そんなに愉しく出張の予定を立てるのだろう?
『あいつ、けっこう手順書とかチェックシートとか作るの巧いんですよ。鍛えたら、結構みんな助かるかも』
 びくりと肩が震えた竹井に安佐は気付いていないようだった。
 ディスプレイを見つめていた安佐は、竹井の顔色が変わったことにも気付かない。
 強張った指を解すように屈伸させて握りしめる竹井は、内心の動揺を悟られないようにするだけで必死だった。
 それは、ずっと竹井がしてきた仕事だった。
 竹井の手順書は判りやすくて、チェックシートは本当に必要なものが網羅されていて。
 図面の清書も保管の手続きも、品質保証グループへの登録図面や、工程図の作成も。
 竹井の作成した物は判りやすくて、正確だ——と言われることが嬉しかった。
 それが自分の仕事だ、誇りを持てば良いんだ——と言われて、本当に嬉しかった。
 なのに。
『あ、これも多津にやらせてみようっと』
 そう言って安佐が取り上げて資料が視界に入って、ぎりっと奥歯を噛みしめた。
 それは、いつも竹井に任されていた仕事だ。
 安佐が、申し訳なさそうに頭を下げながら、『御願いします』と言ってきて。
『またかよ』
 と、肩を竦めて受け取るのがいつもの竹井だった。
 そうしたら、ますます安佐が萎縮して。
 そんな姿を見ると自分が愉しくなるから、竹井はますます意地悪く安佐に応えた。
 本当は、安佐に頼まれることが大好きだったのに。
 安佐が楽になるのなら、なんだってしてやりたい、と思うほどだったのに。
 目の前を通り過ぎていく書類。
 安佐が立ち上がって多津の方に向かう。
『え?、これもですかっ』
『お前ならできるだろ? 俺、こういうの苦手でさ、助けてくれよ』
『もう、安佐さんの頼みじゃ、断れないじゃないですかっ』
 賑やかな声。
 多津が入る前なら、竹井の周りで交わされていた会話だ。
 それがこんなにも遠い。
 ぎりっと奥歯が軋んだ音を立てて、パソコンが甲高い音を立てた。
 何を押してもピーピー鳴るパソコンにため息を吐いて、リセットすることもできないそれの電源ボタンを押した。
『データは?』
『さっきセーブしたばかりだから……5分ほどだから、大丈夫です』
 再びため息を吐いて、電源ボタンを押す。
 その5分の間に行っていた作業がやたらにややこしかったことを思いだして、また資料をたぐり寄せる。
 打ち込んでいた筈のデータが真っ白になったファイルに、同じ事を繰り返した。
 そのせいで、その日はさらに疲れが増してしまった。


 夢うつつに思いだした日々に、竹井は寝っ転がったまま顔を覆った。
 もう安佐を毒突く気力もない。いや、そんなことをしている自分が惨めで、嫌で堪らなかった。
 だって、安佐は悪くないのだ。
 それが判っているから、よけいに堪らない。
 悔しい……。
 そう思うのだけど、その原因がはっきりとしない。
「どうせ、俺は素直じゃないし……事務処理しかできないし……。若くもないし、陽気でもないし……。すぐ当たり散らして、安佐だって困ってばっかりだし」
 自棄になって思いつくままに口にしていると、ますます胸の奥がつっかえたように重くなる。
 安佐は優しいから、それに頼っていた。
 今頃何をしているのだろう?
「あ?あ、もうっ」
 気になり出すと、幾らでも気になってくる。
 なんだか落ち着かなくて、竹井はくるりと身体を転がし、遠くなっていた携帯を取り上げた。
 いくら何でも仕事は終わっているだろう。
 履歴から安佐の番号を呼び出す。発信も着信もこうしてみると安佐の名前ばかりだ。特に着信履歴は、安佐の名前が並んでいる。毎日毎日、何の用事もないのに電話してきた安佐。
 会社で毎日話をしているだろう、と邪険に相手したことが、ひどく悔やまれた。
 履歴を辿ると、最近少し間が開いているのに気が付く。
 毎日だったのが一日置き、それから数日置き。
 メールは来ているから気付かなかった。
 こんなふうに……。
 携帯を握りしめて、歪む視界にまなじりを下げる。
 こんなふうに、人は離れていくのだろうか?
 気が付けば、どうしようもない距離が二人の間にあるように。
 少しずつ少しずつ。
 後戻りできない距離になってしまう。
「安佐……」
 途端に激しい焦燥感に襲われた。
 躊躇いなど何もなくて、携帯の発信ボタンを押す。
 回線が繋がる僅かな時間すら惜しくて、くっと唇を噛みしめた。
「安佐……」
 呟いて、彼の声を思い出す。
 女々しい——と理性が怒っている。
 けれど、人恋しさに喘ぐ感情は、理性などとっくの昔に蹴飛ばして封じ込めていた。
 

 安佐の携帯の竹井専用の呼び出し音は、今は確か軽やかな音楽。
 嬉々として教えてくれたその曲名を、竹井はすでに忘却の彼方へと押しやっていた。あの時は、鬱陶しい奴と思ったけれど、今は覚えていない自分のどんなにか情けないことかと悔やまれる。
 だが、メロディだけはなんとなく覚えていて、思わずそれを口走っていることにも気付かず、竹井は長い呼び出し音を聞いていた。
 ブッ
 呼び出し音が切れたのは、そろそろ留守録になるかもと思い始めた頃だ。
「あ、安佐?」
 咄嗟に声をかけて、自分の声がうわずっていると慌てて唾液を飲み込んだ。
 けれど、安佐の返事がすぐに来ない。
「安佐?」
 首を傾げるくらいに間があって。
『あ?、すみません。今安佐さん、風呂入ってて……。僕、多津です』
「……え?」
 聞こえたのは安佐とは似ても似つかぬ声だった。何より、多津と名乗られて、脳裏に彼の姿が鮮明に浮かんでくる。
 というより、何故?
「あ、れ……安佐は?」
『えっとですから、お風呂です』
 呆れたような、含み笑いのような声。
 不快な声音に、竹井の眉間に深いシワが刻まれた。
「そこは、ホテルだろう?」
『あ、はい』
「なんで安佐の部屋にお前が?」
『あ?、それが、ホテルの手違いでツインしか部屋が取れなくて』
「ツイン……」
『今日殊の外暑くて、今から他のホテル探すのが面倒だって、ツインで妥協したんですよ。安くして貰えるっていうし』
「へえ……ツインね」
『明日仕事有るんでたくさん飲めないのに。安佐さん、おごりだって言ってビールとか買い込んでんですよ。ほんと安佐さんって優しいし、良く気が付くし。俺、今日バタバタしているのに全部フォローして貰って、すっごい助かりました。凄いですよね?。俺もあんなふうにテキパキと仕事したいです』
 興奮しているのか、いつもよりうわずった声が聞こえる。その声は竹井の不快さを増長した。
 そんなことを他人の口から聞きたくない。
 安佐の凄いところを知っているのは、自分だけで良いのに。
 しかも安佐とツインの部屋だって?
 ビールだって?
 妙なデジャブは気のせいではない事を、竹井は思い出していた。
『あ、安佐さんに何か用ですか? もう少ししたら出てくると思うけど』
「あ、いや、良いよ。何でもない。たいした用事じゃなかったから、電話があったことも伝えなくて良いから」
『はあ、そうですか?』
「ああ、マジ良いから。じゃあな」
 何か呼びかけられたが、無視して切っていた。
 もうあの声を聞いていたくはなかった。
 ただ、腹の奥底から込み上げるどす黒い感情に、訳もなく叫びたくなる。だが、近所迷惑、という言葉でなんとか叫ぶのは堪えたけれど、堪えきれない怒りが持っていた携帯を投げつけさせた。布団の上でバウンドするそれが、最後に床に落ちた。
 意外に手元近くに落ちた携帯を拾う。
 その拍子に照明が入って留守電もメールもきていないことを知らせた。
 ぐしゃり、と左手で前髪を掻き上げる。
 あの安佐に限ってとは思うけれど。
 それでも、多津と仲の良い安佐の姿が脳裏から離れない。
 ツインの部屋だって……。
 あの時だって、竹井とツインの部屋になるのを遠慮して、自ら他のホテルを探すと出て行ったくせに。
 なのに、多津とは一緒の部屋で寝るのかよ。
 安佐と多津。
 想像の二人はひどく仲が良くて、そのうち一つのベッドばかりが膨らんでいる状態になっていて。
 異常な想像だと理性では判っている。
 多津が安佐をそういう対象にする質だと思っている訳ではない。
 ただ……。
 愉しそうな多津の声が耳の奥から消えない。
 短い期間に多津が安佐を慕いだしたのは知っていたし、もとより安佐は好かれやすい質なのだ。
 それに優しい。
 そして多津は——素直だ。
 竹井と違い、憎まれ口を聞く質ではない。それに優秀で、仕事だってできる。
 それこそ、竹井とは正反対なのだ、何もかもが。
 悔しいほどに……。
「安佐……」
 今、この場にいて欲しい。
 本音がいきなり表に現れた。途端に、鼻の奥が熱くなって、覆った手に濡れた感触が広がる。
「安佐……
 安佐が欲しい。
 安佐がここにいれば、たとえ食欲が無くても無理に食べさせようとしてくれるだろう。
 布団に運んで、エアコンの調節もしてくれて。
 お休みなさい——と優しく触れてくて、休むまで傍についていてくれる。
 安佐は優しいから、いつだって竹井の我が儘を聞いてくれた。
 いつだって、怒りの矛先になるのを笑って許してくれた。
 その安佐は今はここにいなくて。
 遠い地で、他人と同じ部屋にする。それは竹井よりずっと素直で明るい子。
「安佐……バカ野郎……」
 こんなにも安佐が欲しいのに、毒突くことしかできないバカな自分。
 だから……安佐が離れても当然だ……。
 後は嗚咽しか出てこなかった。


 出張から帰って休みに入る間、安佐とはほとんど会話がなかった。
 それはとても自然で、他のメンバーもまったく気が付かない。
 だが、竹井だけは安佐が故意に近づかないようにしているとしか思えなかった。
 それはとても些細なことだ。
 朝礼の並びで、遠く離れた場所にいる。
 事務所に帰ってこない。
 食欲のない竹井の唯一の栄養補給源である給食弁当を食べる時も、安佐はその場にいない。
 そのせいだけではないが、なんだか食べたくなくて、今日も半分以上を残した。
 それこそ一緒に食事をした友人達が心配してくれたほどだ。
『お前、痩せたんじゃないか?』
 杉山がいたずらに頬を突くのを遮って、そうかな、と首を傾げたが、実際のところは自覚している。
 確かに体重は落ちたが、これは安佐のせいだけではない。この連日の熱さとエアコンに身体が負けているのだ。
『夏バテですよ。まあ、明日からは休みなんでゆっくり休みます』
『ああ、しっかり休め休め』
 その声音が優しい。
 だが、その言葉を貰いたかった安佐は、そんな会話など知らない。
 時間が合わないと、少し遅れて来る安佐は、いつも多津と一緒に食べている。
 休憩も一緒に取れない。
 だんだんそれが酷くなる。
 結局、休みの予定を話する暇もなく、休暇前の最終日が終わってしまった。
 帰る時にも事務所にはいなかったら、挨拶一つできなかった。
 携帯への電話も入って来ない。ただ、メールは来ているのだが、竹井はそれを読むことができなかった。
 何故か怖いのだ。
 読んだら、取り返しがつかなくなりそうで。
 何よりあんなに構ってくれていた安佐が離れていという状態は、竹井の精神状態をひどく追いつめていた。

 相変わらず蒸し暑い部屋の窓を開けることなく、エアコンを入れる。
 そのままぺたんと畳に寝っ転がるのはいつものこと。
 食欲も落ちて、ここ数日夜はほとんど食べていない。
 さすがに昼だけでは、身体が保たないのは判っていた。だが、家にいると何も食べる気にはならなかった。
 こんな時には、いつも安佐が食べやすい何かを持ってきてくれていたのに。
 詮無いことを考えて、くすりと笑みを零した。
 ああ……。
 疲れた。
 明日から休みだけが、何の予定もない。
 後半の休みを手配した時、安佐がどこかに行こう、と行っていたけれど、結局その話も無くなった。
 安佐が声をかけてくれないだけで、こんなにも自分は何もしない。何もしようとしない。
 こうしてみると、安佐はいつも世話を焼いてくれていたのだと気が付いて、顔を顰めた。
 だから、何の予定も無くなった。
 後は……実家に帰るくらいか。けれど、今更帰るのも変だし。
 いや、帰ろうかな……。
 この部屋にいると、安佐のことばかりを考えてしまう。
 一緒に食事をしたこと。ケーキを持ってきてくれたこと。一緒に寝て……抱かれたこと……。
 喧嘩もたくさんしたけれど、それ以上に愉しい思い出がたくさん有りすぎて、今はこの部屋にいるのが辛い。
 うるさい甥や姪達。親戚のかしましい叔母達。
 けれど、今はそのうるささが欲しかった。
 あの中にいれば、この鬱屈した気分から脱出できそうな気がして。
 そうなると電話しないとな。
 のろのろと取り出した携帯で、覚えている実家の電話番号を入力する。
 後は、発信ボタンを押すだけ——と指を動かしたその時。
「竹井さ?ん」
 呼びかけられたのとチャイムの音、どちらが早かったか。
 ぴくりと瞳が動いて、ドアへと向かう。
「竹井さん、いますよね?、開けて下さい」
 合い鍵を持っているはずの安佐の呼びかけに、竹井は動けなかった。
「俺、手がいっぱいで……、竹井さん?」
 何度呼びかけても返事がないことに不審に思ったのか、声が不安げに揺れている。
「安佐……?」
「竹井さん?」
「安佐……」
 手が、足が。
 のろのろと焦れったいほどにゆっくりと動く。
「安佐?」
「あ、竹井さん、良かった。開けて貰えませんか? 今手一杯で」
「安佐……」
 懐かしい声音に、ただ名を呼んで。
 四つん這いから身体を起こして、がちゃりとドアを開ける。
「安佐」
「おわっ、竹井さん、どうしたんですか?」
 両手にいっぱいのスーパーの袋を抱えた安佐が、タタキに跪いて見上げている竹井に驚く。
 動かない竹井を乗り越えるように足を動かして、安佐はほっとしたように全部で四つの袋を下ろした。
 その中の一つから、袋いっぱいのビールが見える。それに、もう一つはアイスのファミリーパック。それから、総菜の山。
「それ……なんだ?」
 見て判るのに、ぼんやりと問いかけるのは、まだ現状がきっちり把握できないからだ。
「なんか竹井さん、バテてるっぽいから、食べられそうなものいろいろ選んできて。ついでに、休みの間の食料品とか買い込んできたんですよ。何せ、外あっついし」
 出たくないでしょ。
 にこりと笑う安佐は、いつもの安佐で。
「休みの間……?」
「せっかく長い休みなのに、忙しくって何の予定も立てられなかったんですよね。でも今の仕事、下手したら休日出勤しなきゃいけないほどせっぱ詰まってて……多津も休まなきゃいけなかったから、かなり根を詰めてたら……。終わって良かったですよ」
 多津も……。
 そういえば、多津も自分たちと同じ後半の休みだった。
 そのために、安佐は根を詰めたと言うことか……と思ったのだけど。
 落ち込むより先に、安佐の上機嫌な声が聞こえてきて。
「その分、たっぷりと休めますし。今から日帰りくらいだったら、どこか予定たてましょうよ」
 それは……誰と?
「……お前……多津と一緒じゃないのか?」
 話の流れから、そうじゃなさそうだな……とは思ったけれど。
「多津は、お父さんの手術がこの休みの間にあって。それの付き添いですよ」
 冷蔵庫に食料品を入れ終えた安佐が、振り返りながら言う。
「手術?」
「あれ、知りませんでした? 多津、だから休日出勤ができないっていうんで、その分忙しかったんだけど、しょうがないですよね」
 そこまで言って、安佐はむうっと眉間にシワを寄せて竹井に近づいてきた。
「なんか竹井さん、ひどく顔色悪い。大丈夫?」
 頬に触れる安佐の大きな手。
 ひどく気持ちよくて、ゆったりとする。
 変わらない。
 前と一つも変わらない。
「安佐……俺……」
「竹井さん、横になって休んで下さい。なんか凄く疲れているみたいだ」
「……ん」
 差し出された腕に縋るようにして立ち上がり、敷きっぱなしの布団に身体を横たえる。
 柔らかな感触の上で、背を伸ばすと、それだけでほっと息が吐けた。
「竹井さん、最近食欲無いって聞いてて。いろいろ買ってきたんだけど……何かいります?」
「ん、とりあえず、喉渇いた」
「OK。水とスポーツ飲料とどっちが良いです?」
「スポーツ飲料……」
「はいはい」
「あ、安佐?」
 背を向けた安佐に、竹井は声をかけた。
「はい?」
 その姿がいつもと何ら変わらなくて、つい咎める口調になる。途端に、安佐が困ったように顔を顰めて頭を下げた。
「ずっと俺に電話……してこなかったろ?」
「あ?、すみません。帰るの遅くって……。その分メールしてたんだけど」
「ああ、メール……」
 そういえば、たくさん来ていた。けれど、開きもしなかったメール。
 かちっと携帯を開いて、メールフォルダを開く。開けもせずに放置したメールが何件も並んでいて。
 何故か判らないけど、怖かった。
 だけど、今は何の躊躇いもなく開くことができる。
 その中の一番最近のメールを開く。
「竹井さん、もしかしてメール読んでませんでした?」
 不機嫌な安佐だったが、怖いとは思わなかった。
 それよりも、その内容にくすくすと押し殺した笑い声が零れてしまう。
「ああ……読んでなかった」
「酷いなあ。それでひとっつも返信なかったんですね」
「……まあ。安佐のことだから……そんなに急ぎの話があるとも思えなかったし」
 誤魔化して、次のメールを読んでみる。その内容の微笑ましさについ笑みが深くなる。
 何でこんなメールが怖かったのだろうか?
 そんな自分に呆れて、内容の微笑ましさと相まって、零れる笑い声を堪えきれないままに問うていた。
「お前って……何、考えてんだよ」
「休みの予定、メールで相談したかったのに返信無いし」
 一つずつ、新しい方から読み進めると後半が何件がそういう内容だった。
 だが、それよりも。
「なんだよ、この中毒症状って」
 最近のメールは、竹井との会話が少ないから中毒症状が出ているだの、どこでもドアが欲しいだの、タイムマシンに乗って夏休み真っ最中に行きたい、だの。
 竹井と遊びたい、会いたい、話したい、という言葉が延々と続く。
 安佐もそう思っていてくれたのだ。
 だが、そんなにも話したかったのなら、会社でもいつでも機会はあったはずなのに。
「マジ、中毒症状出てましたよ。会社でも竹井さん見かけると押し倒したいくらい欲情する時があって。けど、そんなことしたら竹井さん怒るじゃないですか」
「……当たり前だ」
「だから、できるだけ……こう視界に収めないようにして……」
 目を伏せて、こそこそっと隠れる様を見せる。 
 ……こいつ……バカか。
 言いかけて、さすがにその言葉は飲み込んだ。
「休憩、一緒にいけないのが辛かったです。あの時間って、会社の中でも数少ない竹井さんと同等と与太話できる時間じゃないですか?」
「……お前は、いっつも俺に向かってしていたと思うけど」
 事務所でも、機会があれば雑談をしてきて、竹井のみならず上司の香登にも怒られていた。
「いや、それはそれで……。だけど、俺が話しかけると、今は漏れなく多津もついてくるわけで……」
「は?」
 何でそこで多津が?
 きょとんと傍らの安佐を見上げると、拗ねたような視線と絡まった。
「だって、多津の奴、竹井さんは凄いってずいぶんと褒め称えてて。なんかこう……」
 多津が……?
「何で多津が俺を?」
 褒め称えられるなんて何かの間違いではないだろうか?
 安佐なら判るが、竹井は多津とは滅多に話などしていない。だが、安佐は何故かむうっと唇を尖らして、拗ねている。
「多津が言うには、竹井さんの作った説明書とか、工程表とか。すっごく判りやすいんだそうです。ぱっと見、何がどこに書いてあるか判るって。他の人のは、フォーマットは有っても、関係ないところに必要な事があったりして、その人の癖があって、見づらいのがあるんだって言うんですよ。俺のなんか、最悪だって言われてます」
「まあ、確かにお前のは判りにくいっていう苦情がおおいけどな」
「そんなの俺だって自覚しています。でもね、他の人が竹井さんを褒めるのは良いんですけど、どうも多津が褒めているの聞いてると何かこう、モヤモヤとして。それで、その……あんまり多津と近づけたくないなあ……って。あいつ、どうも竹井さんフリークっぽいところがあるんですよ」
「はあ? フリークって?」
 聞き慣れない言葉にオウム返しして、頭の中で意味が判ったのと安佐が続けたのが同時だった。
「いろんな所説明している時に、竹井さんが作った手順書とか、それがどんなに古い痕跡でも見つけるのを愉しみにしているみたいなところがあって……。凄い、とか、さすが……とか、賛辞の言葉ばっか聞かされて、それでよけいにこう……」
 拗ねた表情の中に、不愉快そうなものまで混じった安佐は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
 だが、そんならしくない表情から目が離せない。
 いや、何よりも安佐らしい姿。
 竹井にとって、安佐はいつでも安佐で。
 だからこそ、惹かれた相手なのだ。


 安佐の言葉が、どんなに竹井を安心させるか、彼は知らない。
 けれどそんな事を知らずにいても、今、安佐は竹井が知りたかった言葉をくれる。
「あんまり多津が竹井さんが?って言うもんだから、よけいに多津を竹井さんにひっつけたくなくて。そうしたら俺まで竹井さんと話ができなくなっちゃって……。しかも多津って、竹井さんの電話を取る時、すっごく緊張するんだそうで。んで出た後に、無愛想だったかなあって落ち込んで。なんかさ、それを俺が慰める訳なんですよね。時々、俺って何でこんな奴の指導係してんだろう……って思ってたんですよ……」
「それは……大変だったな……」
「それはまあ……。でもまあ、さすがに竹井さんと話ができなかったのは辛かったです。俺、竹井さんにずっと飢えていたんですよ?。それなのに、メールもしてくれなくて……」
「——電話すれば良かったんだよ……」
 ゴメン、という言葉の代わりに、責める言葉が出てしまう。
 自分が勝手に邪推したのだということが、今では判っているのだけど、今までずっと素直に出ないのがその言葉だ。これが素直に出ていれば、二人の喧嘩は半分ほどですんでいただろう。
 だけど。
 それでも出せないのが自分なのだと最近は割り切っているけれど。
 安佐がどう思うのかはいつも不安だ。
 だが、安佐はそんな竹井の言葉を気にはしていなかった。
「あんまり遅いとね、竹井さん機嫌悪いしなあ、とか思って。まあ、すぐに夏休みだったし。どこかに行くのも良かったけど、二人っきりで部屋の中で過ごすのも愉しいかも……って思って」
「……」
 ここで頷くと、安佐の言葉を肯定するようで癪だった。
 けれど、だからと言ってなんと答えて良いか判らない。堪らず視線を泳がすと、安佐が肩を竦めていた。
「でもまあ、ちゃんと仕事も終わったし、多津はお父さんの看病だし……。まあ、あいつも大変なんで責めたってしようがないか……と思って。で、気分一新で買い物して、ここに来ました」
「そっか……」
 ようやく会えて話を聞けば、なんて単純なことだろう。
 安佐が多津に嫉妬して、そのせいで会えなくて、今度は竹井が多津に嫉妬して。
 事の発端は、やはり安佐だとは思うけれど。
 けれど、これが安佐なのだ。
「ん?、腹減った」
 安心したら、なんだかいきなり空腹感を覚えた。
 怠い体も、起きあがる元気が出てくるから不思議だ。
 あれだけ不快だった室内も、今はエアコンで快適温度。
「竹井さんの好きそうな総菜買ってきたんですよ。今日は、これで飲みませんか?」
 晴れ晴れとした安佐は、確かについ先日会社であった時よりかなり機嫌は良さそうだ。
 それに気付いていれば、こんなに悶々とした休み前を過ごすことは無かっただろうか?
 勿体なかったな……と思ったその時。
「あ?、竹井さんっ。そういえば、この前の出張の時、多津と電話したんてしょ。それなのに、俺には電話しなくて良いって——」
「え、あ……電話したけど、お前風呂だったし……」
 多津が出たし……。
 今ではあの時の多津の不機嫌さは誤解だったと判るけど。
 あれはあれで、誤解される原因だったとため息を吐く。
「竹井さん、多津だけと話したかったのかなあってあれ、俺マジで落ち込んだんですよ」
 それでよけいに電話するのが怖くなった……。
 そんなことをぶつぶつと呟いた安佐に、竹井はがくりと肩を落とした。
 なんで安佐はこう……。
「お前……俺が電話したのは、お前の携帯だったはずだが?」
「えっと、そうですね」
「多津と電話したいなら、多津の携帯にすれば良いことだろうが」
 生産技術のメンバーはいざというときのために、携帯番号は交換している。
 竹井の携帯に多津の番号はちゃんと入っているのだ。安佐のそれと同じように。
「あ、そうですね。そりゃ、そうだ」
「だったら、俺が誰と話をしたかったのか判るだろうが——」
 言ってて、だんだん顔が熱くなった。
 それに安佐も気が付いて。
「すみません?」
 そのハートマークが付きそうな語尾とともに、安佐の力強い手が竹井を包んだのはすぐのことだった。


「拓也……気持ち良い……」
「暑いよ、お前……」
 気怠げに返す竹井の上で身体を起こした安佐が幸せそうに笑う。
 しっとりと汗ばんだ二人の肌は、すっかり馴染んで、離れるとぞくりと肌が粟立つ。
 身を竦めたら、体内にある安佐のモノを露わに感じた。
「ん……」
 慣れた筈のそれが、異物感を甦らせる。
「由隆の……元気だな……」
 すでに一度達ったはずなのに。
 幸せそうな安佐に抱き締められて、布団に押しつけられて。貪られたという言葉が相応しいほどに、安佐は竹井を欲して止まなかった。
 その勢いは止められなかったものではなかったけれど、竹井も流されるままに安佐を受け入れた。
 時々無性にこの男が欲しくなる。
 恥ずかしく痴態を晒すはめになるのに、安佐に自由にされたいとすら願う。
 それが今だ。
 安佐がくれる熱に溺れて、理性など吹っ飛ばして狂いたい。
 恥ずかしさなど今はいらない。
「拓也、もっと……」
「ん……」
 了承とも喘ぎともつかぬ言葉を、安佐は自分の良いように取る。それをあえて訂正しない。
 そんなことは、どうでも良いことだから。
 音を立てて抽挿が繰り返される。
 確かな熱が奥深くを抉る。
 首に回された力強い腕に引き寄せられ、胸に強く押しつけられた。汗ばんだ安佐の匂いに酩酊する。
「あ、はっ……」
 深く抉られて、喉を晒した。その汗ばんだ肌に赤く痕を残された事に気が付いて、嫌々と首を振る。けれど、それが安佐を煽るのだ。
「ゆ、たか……由隆」
 身体が熱い。体内にわだかまる熱を逃がしたい。
 けれど一度達った身体は、もう少し刺激が足りない。
「……大丈夫?」
 時々安佐が心配そうに問いかけるのに首を振って。
 言葉の代わりにもっとと安佐の腰に回していた足に力を入れた。
 そこで無駄な言葉を言って叱られるのがいつもの安佐だったけれど。
 今日は無言で腰の動きを激しくする。
「あ、あんっ——くふっ」
 疲れている、二人とも。
 そのせいだろうか?
 燃えあがった身体を鎮める方法は一つだけ。それに向かって、無駄なエネルギーは使いたくないとばかりに、行為が進む。
 再び燃えあがった熱に狂い、汗を散らしてそれだけを貪る。
「あ、あんっ」
「由隆……ゆ、たか……っ」
 震える身体を抱き締めて、体内の最奥を抉るそれを味わって。
 甘い吐息を、安佐の肩口に零す。
 ぶるりと震える身体の熱を取り戻すように、安佐の体温に縋り付く。
「ずっと、触れたかったんだよ……」
 耳元で囁いたのは、どちらだったろうか。
「もっとしたい……」
 その言葉は安佐のもの。
 竹井自身も確かにそう思った。
 けれど。
「でも……俺、腹減って……」
 したい、という言葉はとにかく言い辛い。その代わりにとても言いやすい言葉が口を衝いて出た。
 実際、昨日まではあんなに大人しかった腹が、現金なものでとても元気に鳴っている。
 ムードもへったくれもないけれど、自分から欲しがることができるくらいなら、夏ばて起こすほど体力を落とさなかったろうことも自覚している。
「ああ、確かに……俺も食べていなかった」
 安佐もまた同様なようで、竹井の上から退けた。
 夏期休暇はまだはじまったばかり。
 起きた安佐が、タオルケットを身体の上にかけて、竹井に手を伸ばしてきた。
 引っ張られて起きあがり、たらりと流れ落ちるそれに顔を顰める。
「俺……風呂にも行きたい……」
「はいはい。待っててください。すぐにどっちも用意しますって」
 ありがとう。
 いつも言いたくて言えないままに終わる礼。
 けれど安佐は、声なきそれに気付いたようにくすりと嬉しそうな笑みを返してくれた。

【了】