【CROSSLY  vol.1】

【CROSSLY  vol.1】

「竹井さん……」
 その声は情欲がたっぷりと詰まっていて、それだけで竹井拓也は恥ずかしくなって視線を逸らした。すでに全身が朱に染まっている。
 いつだって元気で、そのせいですっとぼけた失敗をしてくれる安佐の手が、腰からシャツの中に入り込み優しくまさぐってくる。
 ぞくぞくと甘い疼きが触れた部分から全身に飛散していった。
「竹井さん……」
 何度も耳元で呼ばれる。

 肌の上を辿った指が引き出され、竹井の両頬を包み込んだ。
 目前にいるのは同じチームの後輩、安佐由隆。
「いい加減にしろ……」
 抗う声が吐息と共に吐き出されるように漏れる。視線だけでも逸らせようとする竹井をじっと安佐は見つめていた。
「欲しいです」
 その口からもたらせる熱い声音に縛られる。
 ゆるゆると逸らしていた視線を安佐へと戻すと、至近距離にその顔があった。
 その顔が竹井を安心させるようににっこりと微笑む。
 それだけで、ずきんと下半身に向かって疼きが走る。
 もう、堪えられない……。
 自らを覆っていたプライドという壁が崩れていくのを竹井は感じた。
 ずっと言いたかった言葉が自然にその口から零れていく。
「ゆたか……俺も欲しい……」
 ずっとずっと伝えたかったこと。
「欲しいんだ」
 竹井が意を決して差し出した手は……
 ふっと宙を切った。


 何て夢だ……。
 目が覚めると、自分が泣いていたのだと気づく。
 目尻に残る涙を慌てて拭った。
 竹井は薄闇の中上半身を起こした。その躰が夢に反応して熱くたぎっている。
 ここに安佐がいれば縋り付きそうだった。
「由隆……」
 最近そう呼んでいない。
 それに気づくと酷い焦燥に駆られた。二人きりの甘い睦言の時にだけ、そう呼べる名。とてもじゃないが、普段は恥ずかしくて呼べない。
 だが、今は……。
 竹井は膝を立てた間に頭を埋めた。
 がしがしと髪の毛をかき乱す。
「由隆、由隆、ゆたか……」
 溢れる想いを止めることなど出来なかった。
「もう、どうにかなってしまいそうだ……」
 嗚咽混じりのその言葉は、一番聞いて欲しい人には今は届かない。
 そして、それを竹井から届けることが出来ないのはいつものことだった。
 だが、それも限界だった。


 ことの起こりは、1週間前の金曜日だった。

 
 終業時間がきてもそのミーティングは終わりそうになかった。議題は開発部との合同の不具合撲滅対策だったのだが、まとまりのな議論が続いて長引き、挙げ句の果てに堂々巡りに陥いってしまっていた。
 不毛とも言える時に皆やる気をなくしている。そんな倦怠感漂うさなかのことだった。
 最初に気づいたのが、隣の部屋とを隔ている壁際に座っていた安佐だった。
 隣の会議室から聞こえる言い争いの声。
 そこにいた全員が思わず口を閉ざして気配を絶ったのは無意識の内だ。決して覗こうとかそいう気は無かった筈なのだが。
 どう見ても会話の内容が痴話喧嘩に聞こえる。
 誰が誰を好きだと……はっきりと聞こえない分、余計に興味をそそられるのは事実だったが……まず出歯亀になったのが安佐だった。
 キャスター付きの椅子で壁際まで移動して、可動壁の隙間から覗き込む。
 それに退屈しきっていた開発部の篠山が便乗した。
 残った人々は興味がないとは言えなかったが、何もそこまで……と言った思いで彼らを見つめてた。しーんと静まりかえった部屋に隣の声が必要以上に響く。
 と、いきなり声の雰囲気が変わった。
 新たに加わった人物によって、形成が逆転したとしか思えない。
 それこそ何が起こるのか、皆、興味津々だったことは否めない。ただ一人、竹井を覗いては……。
 竹井の脳裏に、その声の持ち主の表情を変えない顔が浮かび上がる。
 やばいんじゃないか……。
 その声を聞いた途端、嫌な予感がした。
「家城さん……」
 安佐が絶句する。
「キスしてる……」
 ばか……。
 思わず額に手を当てて唸る。
 やばいと思った。
 覗かれたほうが歩が悪いと思われがちだが、こと家城が相手の場合はそうでもない。

 案の定、覗きがばれて責められたのはこちらだった。
 しかもいらぬ事を安佐が口走る。
 それにかっとなった。
 安佐を思わず殴りつけると、会議室から引っ張り出した。
「お前は!口が軽すぎる!」
 家城に煽られると自分でも理性のたがが外れるのか、つい安佐とそういう行為にもつれ込むことがある。それを安佐が喋ったのだ。
 しかも3人だけではない。開発部の人がいる目の前で!
 そういう関係をお互いに知っている間柄とは言え、露骨にそんな事をばらされてはたまったもんじゃなかった。
 ちくしょう!こいつは!
 羞恥に顔を赤らめ、怒りにぎりりと奥歯を噛み締めている竹井に、安佐がひたすら頭を下げる。
 だけど、どんなに謝られても、竹井の怒りはそう簡単には収まらなかった。一つの怒りが別の怒りすら呼び寄せる。
「明日、映画行く件、キャンセル!」
「そ、そんな。ずっと前からの約束じゃないですか!」
「そんな気になれない。いつだってお前は、俺を怒らせて!少しは反省しろよっ!」
「……す、すみません……」
 小さくなる安佐に言い過ぎたと言う気にはなるが、一度飛び出した言葉はもう元には戻らない。
 竹井は、けりをつけるように息を整えて言い放った。
「とにかく、お前とはどこにも行かない。少しはその口の軽いのを何とかしろ!」
 
 返事もなく黙り込む安佐を置き去りにする。
 更衣室に入った竹井は、どんとロッカーの扉を拳で叩いた。
 伝わる痛みに、ぎりぎりと奥歯を噛み締める。
 だが、その痛みより、胸を抉るような痛みが竹井を襲っていた。
 どうしてお前は俺をすぐ怒らせるんだ?
 どうして……。
 息苦しさを感じて、なんとか息を整える。数度の深呼吸でようやく気分が落ち着いてきた。
 落ち着いてくると酷い自己嫌悪に陥ってしまう。
 これが八つ当たりだって事くらいは判ってはいた。別に安佐は家城の策にひっかかっただけだ。なんでもないように安佐を誘導して、竹井を怒らせる。それが安佐にとって一番効果がある仕返しだと、家城は知っている。そして、それを判っていながらのってしまう竹井だった。
 判ってはいたが、自分の感情がコントロールできない。
 もうずっと休みの日がつぶれていて、ようやく一緒に出かける約束だった。
 上映期間ももう終わるから、明日いかなければ見ることはできないだろう。それにどうしても生産の無いときに試作を入れることが多いから、安佐の土日はつぶれやすかった。振替で平日には休めるが、そうすると今度は普通に勤務することの多い竹井とは休みが合わなくなる。
 同じ会社で同じ部署だというのに、プライベートではなかなか一緒にいられない。
 男同士でデートだとほざく安佐には腹が立つ。
 でも、全く何もないというのも寂しいから、一緒に出かけるのは嫌いではない。
「馬鹿やろー」
 ついて出てきた言葉が弱々しい。
 こつんと額をロッカーの扉にあてると、竹井はひとりごちた。
「何で……怒らせるんだ、お前は」


 誰もいない家で、ぼうっと過ごす。
 それでも、安佐のことだからもしかすると来るかも知れない。
 ふと気づくとそう思っていたから、竹井は土日家から出ることができなかった。
 留守にしている間に来たら、帰ってしまうだろう。
 だから……。
 部屋の中だというのに、携帯を手放すことができない。だからと言って自分から電話することはできなかった。
 何で自分から折れないといけないのか……怒った方が先に折れるなんて事……できやしない……。
 竹井はじっと手の中の携帯に見入る。
 それなのに……安佐からは連絡がなかったし、家に来ることもなかった。
 待ちくたびれて、気が付くと日曜日も夕闇が迫っていた。
 竹井は呆然と時計を見る。
 ほんとに来なかったな……あいつ……。
 神経がすり切れたように疲れて頭がぼんやりとする。
 何もしていないのに躰までもがひどく疲労を訴える。動くのも億劫だった。
「バカやろ……どうせ俺なんかどうでもいいんだ」
 竹井の口から漏れたその台詞はひどく弱々しい。
 どろどろとした黒い感情が渦を巻く。
「どうせ俺なんか……」
 我が儘で、すぐ怒って……俺なんか……そのうち、嫌われるんだろうな……。
 それもいいかもな。
 俺なんて、安佐くんにはあわない、あいつ女の子にももてるし、さ……。
 壁にもたれ蹲る。膝の間に頭を入れ小さくなった竹井は溢れてくる涙を止めることができなかった。
「バカだ、俺……」
 逢いたいのに……。
 ……。

 少なくともその時は、怒りではなかったのに……。


 いい加減にしたい……。
 夢にまで見て、ようやく自分が限界に近いのに気が付いていた。
 ここまで自分が安佐に対して感情をコントロールできないとは思わなかった。
 一週間も怒りが長く続くと、自分自身を責め苛む。
 仕事に高じているときはまだいいが、こうやって考える時間ができてしまうと自分のせいだろうかと、考えてしまう。
 それがさらに自分を責める。
 杉山に誘われ休憩をしに食堂にきた竹井は、ぼうっと目の前の紙コップのコーヒーを見ていた。
 結局何もできないまま、今日がきてしまった。

 待ちぼうけを食らった土日。もともと竹井が行かないと言ったのだから安佐には責任がない。
 それを何とか割り切って、月曜日の朝に逢えたときにでも安佐に謝ろうとは思っていた。
 それなのに、安佐は朝っぱらからおおボケかまして、工場中を走り回って捕まらない。
 しかも、安佐の仕事が実は一向に進んでいないということが判明してしまい……そのフォローを香登から直々に仰せつかった。
 その結果、謝ろうなんて気持ちは、はるか彼方にまで飛んでいってしまっていた。その後に残るのは、隠しきれない不機嫌さ。
 もともと機嫌が良くなっていたわけではない。 
 それに加えて片づかない仕事と、その原因が安佐の失敗。
 そうなると、もうその竹井の憂さ晴らしの相手は安佐しかいないのだ。
 安佐にだけ、竹井は当たることができる。
 先輩である杉山達や香登には、不機嫌な態度はとっても、口に出してまでは責めることは出来ない。
「何してんだろうなあ……俺って」
 さすがに自己嫌悪に襲われていた。
 たぶん、安佐の失敗も半分は自分のせいではないかという気はしている。
 自惚れだけじゃないだろう。いつだって、安佐は竹井の様子を窺っているのがその視線で判ってしまっていたから。だから、仕事がおろそかになるんだ。
 そして、自分がそこまで最悪になったのも……もとをただせば自分の我が儘なのだ。
 判ってはいるんだ……判っては……
 今更だよな……。
 ……。
 謝ってしまえば……いいんだろうけど。何であいつの顔を見ると腹が立つんだろう。
 俺はどうしたいんだろう?

 傍では、同じチームの先輩である杉山が、プロ野球の昨日のシーンをいろいろと説明している。その言葉が右から左へと流れていく。
 どうすれば……。
 頭の中をそれだけが支配する。
 何をいっても上の空の竹井に、杉山がふっと口を閉じた。しばらく竹井の様子を窺い、気づかれないようにため息をつく。
 だが、次の瞬間、にやりとその口元を歪めた。
 コーヒーを睨んでいる竹井は気づかない。
「そういえば、知っているか?」
 それが自分に向けられた問いだと気づいてふっと顔を上げると、杉山が覗き込むようにして竹井を窺っていた。
「え、何が?」
「今度の土曜日って安佐くんの誕生日だろ。何かするのか?」
「はあ?」
 何が?
 どうしてこんな時にそんな話題が降りかかってくるのが判らないとばかり、竹井は首を傾げた。
「あれ、もしかして安佐くんの誕生日を知らなかったのか?」
「はあ」
 そうか……明日が誕生日なのか。
 でも、確かあいつ土曜は出勤だったよな。この休みは、また逢わないつもりなんだろうし。
 ぼんやりとそんな事を考えていると杉山はぽつりと零した。
「可哀想に……」
「は、あ?」
 何が可哀想なんだろう。
 きょとんとしている竹井に杉山はため息をつくと、気を取り直すように自分の額をこつこつと叩いた。
「お前らさ、付き合ってんだろ。ということは、そういうイベントの時はプレゼントとかしないわけ?」
「す、ぎやまさんっ!」
 こんなところでされる話題じゃない!
 慌てて周りを見渡すと、幸いにも聞こえそうな範囲には誰もいなかった。向こうの方で休憩している社員は、賑やかに談笑しているから聞こえていないだろう。
 竹井はほっとすると杉山を睨み付けた。
 思わず持っていた紙コップを握りつぶしそうになっていた。
「何を怒ってるんだよ。一般論だろ、誕生日にプレゼントなんて」
「そうじゃなくて」
 竹井と安佐が付き合っているというのはおおっぴらに出来ない話題だ。知っている人間だって少ない。それなのに、まるでからかうように杉山はそれを話題にし、それを楽しむ。
「友達でもプレゼントはするだろ?……もしかして、竹井くんは全くするつもりがないんだ?」
「だから、誕生日なんて知らなかったし、別に今更この年で誕生日なんか祝っても面白くもないでしょうが」
「面白いとかじゃなくてさ……ほんと、竹井くんってそういうところ鈍いよなあ」
 しみじみと言われた台詞に竹井は眉間の皺をさらに深くした。
 何が鈍いって?
 確かに俺は鈍いところがあるとは思うけど、それを言ったらあいつだって相当鈍いぞ。
「つうか、淡泊っていうの?二人を見ているとラブラブっていう雰囲気からかけ離れているんだよなあ」
「ラ……」
 思わず叫びそうになった竹井は、慌てて自分の口を両手で押さえた。
 じろりと睨むが杉山はそれを見ても悪戯っぽく嗤うだけ。
「たまにいい雰囲気の時もあるけど、たいてい竹井くんの方が酷くつっけんどんなんだよなあ。その周りでいっつも安佐くんがおろおろしているって感じ。見てて気の毒になってくる。そんなんだったら、そのうち安佐くんに愛想尽かされちゃうんじゃないのか?」
「!」
 その言葉がずきりと鋭い棘となって胸に突き刺さった。
 愛想なんて……もう尽かされているかも知れない。
「愛想って……別に、いいですよ。それはそれで」
 平静を装って、杉山に言い返す。ごくりと飲み干すコーヒーはすっかりぬるくなっていて、酷く苦く感じた。しかも胸につかえたような違和感に襲われる。
 胃が荒れているような気がする。
 コーヒーは止めとけば良かったと、頭の片隅で何かが言っていた。
 荒れた原因は、ここ一週間ほどの苛々のせいだ。
 神経が高ぶっていて、一向に落ち着かない。どうにかしたいと思うと、それがまた自身を責め苛む。
「だいたい誕生日なんて祝っている暇はないでしょう、安佐くんは」
 土曜日、あいつは出勤だ。
 今もこの後の会議の報告書ができていなくて、休憩に来ることすら出来ない。
 相変わらず、要領が悪い奴。
 ため息が漏れる。
 プレゼントだ何だという前に、今のこの状態を何とかしなくちゃいけない。
 それは判っている。
 だが、どうしたらいい?
 どうせあいつのことだから、俺がこんなに苛々している原因なんて気づいていやしない。
 俺が何でこんなことになっているのか……全部、あいつのせいなのに!
 竹井の眉間の皺がますます深くなるのに気づいた杉山が、苦笑を浮かべた。
 竹井は空になった紙コップを握りつぶし席を立つ。杉山もちらりと時計を見ると、席を立った。
 時間が遅く疎らになった食堂が視界に入る。そこに、見知った顔はいない。
 少しは仕事、片づいたんだろうか……。
 事務所で必死になっているであろう安佐が脳裏に浮かぶ。
 目の前にいなければ、心配できる。
 話がしたいと思えるのに、どうして目の前にいるとそれが出来ないのだろう。
 竹井はため息をつくしかなかった。
 

「できたのか?」
 事務所に戻った途端の竹井の問いに安佐は無言で首を振った。ちらりと竹井の顔を窺い、再びパソコンに視線を戻す。
 もうずっと竹井の機嫌が悪いのは知っているから、余計な事は言わないようにしているらしい。それが判ってしまうから、余計に腹が立つ。
 せっかく声をかけたのに。
 継ごうとした言葉が、喉の奥で張り付いて出てこなくなる。
 ぴんと張りつめた緊張の糸を解すために杉山が竹井を連れだしたのは判っているが、それは逆効果でしかなかった。
 仕事から開放された頭が余計なことを考えてしまった上に、杉山の言葉がぐるぐると頭の中を巡る。なのに、その対策が一向に浮かばないのだ。
 結果、より苛々を募らせている竹井ができあがってしまった。
 安佐の作業が思ったより進んでいないのも、それに拍車をかける。
 安佐の机の上に乱雑に散らばる手書きのデータシートの山。
 随時処理しなければならないデータ処理を放っておいたばかりに、山となってしまったそれをひたすらパソコンに打ち込む作業が、朝からずっと続いていた。
 いつまでたっても山の消えない安佐にチームリーダーの香登が竹井に手助けをするように言ったものだから、竹井は仕方なくそれを手伝う。
 それはいつものことだったのだが、竹井の機嫌は最低だったから、安佐は余計な緊張を強いられていた。
 と。
 安佐のパソコンから、突然ピッピッと鋭い音が鳴った。
「げっ」
 その情けない悲鳴に思わずそちらを見ると、ディスプレイは普通に表計算ソフトを映し出している。なのに、安佐がキーを叩くように押しても、ピッピッと音を立てるだけで、何一つ打ち込めなくなっていた。しかもマウスすら効かない。
「固まってるっ!」
 その情けない声に、竹井は額を押さえて俯いた。
 どうせ、ずっとセーブしてないんだろうな……。
 何分か……最悪何十分かの打ち込んだはずのデータが消えている可能性だってある。
 それは、作業をさらに遅らせる要因だった。その結果、それは竹井への負担となって跳ね返る。
「どうしてこまめにセーブしとかないんだよ、お前は」
 ついついきつい口調なるのを止められない。
 かあっとなった頭が安佐を責め立てる。
「だって……」
「だってじゃない!さっさと立ち上げ直せ、時間が無い!」
 キーボードからのリセットすら効かなくなったパソコンの電源を安佐が無理矢理落として再起動させた。
 唇を噛み締めて何かに堪えるかのように顔をしかめている安佐が、じっと起動中のパソコンに見入っていた。
 そんなんだから、土曜日に出勤になるんだ。
 機械相手はてきぱきと仕事をこなすくせに、どうして事務処理になると一向に要領を得ないのかが判らない。
 竹井は安佐の机から数枚データシートを引っ張り上げると、自分のパソコンに向かって打ち込み始めた。
 その素早くミスのない動きを見ていた安佐が感心したように言う。
「竹井さんって打ち込むの早いですよね。どうしたらそんなに早くなるんですか?」
 知るか、そんなこと。
「……さあ」
 かろうじて、毒づく言葉を胸の奥に封じ込めて返事をする。
 いい加減大人げない態度だとは気づいている。
 何度も頭の中で落ち着けと繰り返す。
 だが、それでもさっきのようなことが起きると、歯止めが利かなくなるのだ。
 単純な数字の打ち込みは、頭を使わない。見て取った数字の通りに指がキーを叩く。
 だから、頭の中が作業とは別のことを考える。良くないことだと、仕事に集中しないといけないと思いつつ、それでも甦った記憶に竹井は捕らわれてしまった。
 『愛想つかされるぞ』
 さっきの杉山の言葉。
 そうかも知れない。自分がどんなに理不尽な怒りを安佐に向けているか……落ち着いて考えればそうだなと理解してしまう。
 だけど……コントロールできない。
 相手が安佐だから、つい言ってしまう。
 どんなに機嫌が悪くても、それでも他の人には笑いかけることだってできるのに、安佐にはできない。もう1週間近く、安佐に対して笑っていない。
 と、ふっと目の奥が熱くなった。
 マズっ!
 気づかれないように目頭を押さえ、意識を他に逸らすことで何とか乗り切った。
 何も知らなければ……安佐の気持ちも自分の気持ちも知らなければ……。
 こんな事にはならなかったのだろうか……。

 あ、ああ、そういえば誕生日がくるんだったな……。
 プレゼント……。
 安佐くんはプレゼントを期待しているのだろうか?
 だけど、プレゼントなんて何がいいかなんて何も思いつかないし、だいたい、それ渡すのって滅茶苦茶恥ずかしくないか?
 そういえば、俺は安佐には何もあげたことないんだ……。
 俺は見舞いっていうのなら貰ったことあるけど……。
 怪我をした時に、安佐が持ってきたケーキの事を思い出す。
 そうか……ケーキくらいなら、買っていっても……あの時のケーキは旨かったし。何て言うケーキ屋だったかな?
 かちかちとキーを叩きながら、竹井は微かに首を傾げて思い出そうとする。
 だが、あの時にしか聞かなかったケーキ屋の名前なんかそう簡単に思い出せない。
 確か、香登さんのお奨めだったかな?香登さんの友人が女性を口説くときに贈るんだとか言っていた……って、何で肝心なケーキ屋の名前が思い出せないんだ?そういうところは覚えているのに。
 くそっ
 ぶつぶつと呟きながら、画面を睨み付けている竹井に時折安佐が怖々と窺っている。
 声をかけたいのだが、とてもそういう雰囲気ではない。
 それに気づかず、竹井は必死になってケーキ屋を思い出そうとしていた。
 香登さんに聞いたら判るかな?
 でも、そんなこと聞いたら香登さんのことだから安佐くんの誕生日用だって気づきそうだ。
 杉山ほどではないが、香登も結構企んでいたりする。迂闊に知られたくなかった。
 ケーキ屋……う?、思い出せない。
 誰か、他の連中に聞いてみるか?
 誰が良いだろう。家城くんなんかに知られたくないし、滝本さんか。でも知らなさそうだけど……まあ、他に聞く人もいないし……。
 って……何で俺はこんなことで悩んでいるんだ?
 別にケーキなんてどこのでも良いだろうし、だいたいプレゼントなんてどうでもいいじゃないか!
 ぽんと乱暴に最後のキーを叩く。
「終わった。後は、そっちでチェックしろ」
「はい、ありがとうございます」
 安佐がほっとしたように礼を言うのを無視して立ち上がる。
「竹井さん、どこへ」
「別に」
 いちいち聞くな。
 そう言いたいのを我慢する。
 だが、安佐は一瞬にして竹井の機嫌の悪さを見抜いたのか、それだけで口ごもってしまった。
 またかよ。
 どうして、そういうところは簡単に気づくせに……。
 だいたい俺だけが鈍いんじゃないんだ。こいつだって相当鈍い。
 鈍いんだよ、お前は……気付けよ、俺の不機嫌な原因。
 俺をサポートしてくれるって言ったくせに……俺を助けろよ。
 声に出して言えない言葉がぐるぐると頭の中を巡る。
 吐き出してしまいたいのに吐き出せない、その言葉が。

「安佐くんの?」
 香登の言葉に無言で頷く。
 平静でいようとするのだが、どうしても頬の辺りが熱くなる。それがより竹井の羞恥を煽っていた。
 香登に聞くのは不本意だったが、そうも言っていられない。
 竹井の様子を見て取った香登が、さらさらとメモ用紙にそのケーキ屋の場所を描いてくれた。家からそう遠くない距離にほっとする。
「仲直り、しろよ。どっちも苦しそうだから」
 差し出しながら言う香登の言葉が胸に刺さる。
 苦しそうか……。
 たぶん、安佐も苦しいのだろう。
 いつも脳天気だと思える安佐がひどく大人しい。
 あっけらかんとしたところがなりを潜めていた。それをさせているのは自分のせい。
 もうお互いに限界だった。
 自分からどうこうするというのは苦手だった。何と言って切り出して良いか判らない。
 ケーキでも何でも、それできっかけが掴めるのなら……。
 竹井は、渡されたメモをぎゅっと握りしめた。
 

 竹井が安佐の部屋の前に着いたのは、夜の8時を回ろうとしている時だった。この時間なら休出していても帰ってきているはずだ。
 そして、狙い違わず、安佐の部屋には灯りが煌々と付いていた。
 それにほっとする。
 竹井の手には、恥を忍んで香登に聞いたケーキ屋の箱。
 誕生日用のケーキにしたら、プレートに書く名前を聞かれて、竹井は戸惑った。
 結局、『ゆたかくんへ』と平仮名で書かれたそのプレートをつけて貰い、箱に詰めて貰った。
 そのケーキを無言で目前の安佐に差し出す。
「竹井さん……」
 ドアを開けた安佐は、一言発するとそのまま固まってしまった。
 フリーズした安佐がそこにいると竹井も動けない。
「入れて……くれないのか?」
 見つめてくる視線から逃れるようにそっぽを向いていると、我に返ったように安佐が動いた。
「すみません、どうぞ」
 どこかぎくしゃくとした動きを互いが見せる。緊張が二人の間を支配していた。
「ケーキ……」
 竹井は再度差し出した箱を安佐が手に取る。
 その箱の形状に中のケーキがホールであることに気づいたのだろう、安佐が目を見張っていた。
「知っていたんですか?」
 俺が知っている事ってそんなにも驚かれるようなことなんだろうか。
 ちらりと窺うと、随分と嬉しそうな安佐がいた。両手で大事そうにその箱を抱えている。
「ありがとうございます」
 にこにことしている安佐を見るのは何日ぶりだろう。
 自分の気持ちまで軽くなったようだった。
 だから、自然に言葉が口から漏れ出た。
「すまなかった……」
「え?」
「映画……行けなくしてしまって……」
「あ、ああ。いいんですよ、俺が竹井さんを怒らせちまったんだから。もう、俺って口が軽くって……」
「だけど……楽しみにしていただろ?」
「それは……まあ」
 俺だって……楽しみにしてたんだ。
 それを自分でぶち壊した。
「でもいいんです。竹井さんがケーキを持ってきてくれたんですから。しかも俺の誕生日に。こんな嬉しいことってないです。だから、もういいんです」
「安佐くん」
 そっか……プレゼントって、贈った方も嬉しくなるもんなんだ。相手が喜んでくれることがひどく嬉しい。
 こんなことなら、ケーキだけでなくちゃんとしたプレゼントを持ってくれば良かった……。
「竹井さん、座っていてください。一緒に祝ってくれるんでしょ」
 ケーキを流しの横に置きながらにっこりと笑う安佐の顔を見ている内に、竹井の胸の奥がじんと熱くなった。
 来て良かった。
 そう思わせる笑み。
 こんなにも安佐の笑顔で自分はほっとできる。
 俺はこんなにも安佐くんのこと……。
 心臓がどくどくと音を立てる。それがどんどん早くなる。
 躰が熱くなり、握りしめた掌がしっとりと汗ばんできた。
 俺は……。
「なあ……」
 自然に手が伸びていた。
 ふっと夢を思い出し、消えないでくれ、と願う。
「た、竹井さんっ」
 驚く安佐の顔が間近にある。
 竹井は安佐の首に腕を回すと、その唇に口付けた。そっと触れるだけのキス。なのに、触れた途端にかあっと躰が熱を持った。
 自分から仕掛けたんだと、頭が理解した途端、羞恥心に捕らわれる。
 顔を見られるのも恥ずかしくて、腕を回したまま安佐の肩に顔を埋めた。
「……俺、もう限界……」
 心が安佐を求めていた。
 すり減った神経が癒しを求めていた。
 自分を癒してくれるもの、それが何かは最初から判っていた。
 自ら手放したもの。怒りにまかせ、放り出したもの。
「た、たけいさん」
 上擦った声が安佐の喉から漏れる。
 その喉元に唇をあてると、ごくりと息を飲む気配が唇から伝わってくる。
「抱いて……くれ……誕生日だろ。好きにしていいからさ……」
 掠れて声にならない訴えは、それでも触れた喉から確かに安佐に伝わった。
 安佐の竹井にまわした腕に力が入る。
「いいんですか?」
 躊躇いがちな安佐に、竹井は腕に力を込めることで答えた。


 抱えられるように運ばれたベッドは、安佐の匂いがした。
 その匂いに全身を包み込まれると、何とも言えない安堵感に支配される。
「竹井さん……夢みたいです」
 おずおずとした声がひどく不安そうだったけれど、その目元は欲情に染まっていた。
「いいから……さっさとこいよ」
 何を言われてもひどく恥ずかしくなる。
 自分から誘ってしまった。それが羞恥を煽った。
 頼むから……何も考えさせないで……くれ。
「もう……竹井さんと話をするのが怖かった……逢いたいのに…行けなかった……」
 安佐の手が、躰に触れる。
「仕事も手につかなくて、それで……余計に竹井さんを怒らせてしまって……」
 安佐の声が吐息と共に耳に入ってくる。
 ぞくりと震える躰が安佐を求めるように動いた。
「俺も………由隆に逢いたかった……なのに、来てくれなかったから……俺が、行かないって言ったのに…っ!」
 びくりと大きく震えた竹井を安佐は優しく抱き締めた。
「俺、竹井さん相手だと、ひどく臆病になる。いつだってびくびくしている……好きだから、嫌われたくないから……もう、自分が自分で無くなるくらいに……」
 その言葉が竹井の心を解きほぐす。
 好きだ、ゆたか……もう、離さないでくれ。



 明るい日差しに竹井は目を覚ました。
 ぼうっとした視界の先で、微かに開いたカーテンから明かりが漏れている。
 ここは……安佐くん家か……。
 狭いベッドに寄り添うように寝ていたから、情事の後の怠さだけでない強張りが躰を支配していた。ほんわか暖かいぬくもりが隣にある。
 と。
 心がひどく軽いのに気が付いた。
 昨日まで自分を支配していた、暗い感情なんてどこにもない。
 いつまでも起きそうにない安佐を叩き起こす気にもなれない。
 もしかして……。
 頭に浮かんだ4文字に竹井は苦笑を浮かべることしかできなかった。
 だが、そうなのかも知れない。
 竹井の怒りを何よりも恐れる安佐だから、最近こうやって最後まですることはなかった。
 たまにそれ以上を求めたくなっても、竹井から言い出したことだと安佐が諦めてしまえば、竹井もそうして欲しいなどとは言えなかった。
 いつだって、最後までするときは、家城が煽ってくれていたような気がする。その家城が、自分のことだけで精一杯になっているようで、竹井達をからかうどころではないようで。
 何てこった……。
 認めたくないと思ったけれど、これは間違いようもない。
 欲求不満……
 決して安佐には知られたくないけれど、竹井は明らかに安佐の行動に物足りなさを感じていたのだ。
 だからこそ、それが満たされてしまうと、こんなにもすっきりしている。
 今なら、安佐の多少の失敗でも許してしまいそうだった。
 だけど。
 竹井は僅かに口の端をあげて笑みを浮かべた。
絶対にそんなこと安佐には教えない。こんなにも自分が安佐を求めてしまっているなんて、絶対に言えない。けど……たまにこうするのも悪くない。


【了】

CROSSLY:「不機嫌に」,「すねて」 等の意味