【ご機嫌斜めの悠人】

【ご機嫌斜めの悠人】


 不機嫌きわまりない兄の悠人がやって来た時、明石雅人はまだ夢の中だった。
 ホストの仕事で明け方にようやく帰ってきて、一番気持ちよく眠っている最中にたたき起こされた。雅人は苦虫を噛み潰したような顔で、リビングにでんと座っている悠人を睨む。まだ引っ越したばかりであちこちにあるダンボール箱の山。
 その新しい住居の最初の訪問客だった。

「で、何の用だよ」
 最初は雅人の同居人である増山浩二が相手をしていたのだが、どうもらちがあかないと雅人が起こされたのだ。
 むすっとして憎むべき相手とも言うようにコーヒーカップを睨み付けている悠人は、どうやら並大抵の不機嫌さではないらしい。
 雅人はため息をつくと、浩二に視線を向けた。
 雅人の視線に気づいた浩二が数度首を横に振る。
 どうやら来てからずっとこの調子らしい。
 一体、何なんだよ。
 悠人の我が儘ぶりはいつものことだったが、貴重な睡眠を邪魔されては雅人もひどく不機嫌にしかなれない。
 未だパジャマ姿の雅人は、とにかく着替えてこようと部屋に戻ろうとした。
「どこに行く」
 いきなり背後からの呼びかけは地の底から湧いて出たように暗い怒りを含んだ物だ。
 ったく……。
 顔だけ振り向くと、悠人がじとっと睨んでいた。
「パジャマを着替えるだけだ。すぐ戻ってくる」
 律儀に対応してもそれに対する答えはない。
 再びその視線がコーヒーカップに向かったのを見て取ると、雅人は再びため息をつくしかなかった。
 何かあったのかな?
 服に着替えながら、いろいろと考えを巡らすが、何せ機嫌の悪いときしか家にやってこない悠人には、毎回手を焼いているのだ。
 しかも、決して自分からその不機嫌な理由は言ってこない。
 前の時は3ヶ月ほど前から1ヶ月弱続いた。
 店にまで何度も来て様子がおかしいと思っていたら、男につきまとわれているという悩みを抱えていた。しかもその相手が浩二の兄貴だったのはお笑いぐさだったが……。
 ああ、もう……今度は何だ?
 また健一郎さんとトラブっているのか?
 あの二人がどういう進展になったのかは、賭でキスしなきゃいけなくなったあの日以来判らない。
 あれから1ヶ月ほどずっと尋ねてくることもなかったし、こっちも引っ越しでばたばたしていたから逢っていない。
 ようやく引っ越しも終わったばかりの今日は、午後から足りない物を買いに行く予定だった。
 それなのに!
 寝不足も手伝って雅人の機嫌は最悪だ。
 何で、朝からあんな不愉快な顔を見ていなくちゃならないんだ。
「雅人さん、お兄さんが呼んでいますよ」
 軽い音を立てて開いたドアから、浩二が顔を出す。
「あ、ああ……」
 何度目かの深いため息。
 どうしてくれよう。
 機嫌の悪い悠人は、本当に厄介な代物でしかあり得ない。
 雅人はうんざりとしつつも、だが放っておく訳にはいかず、リビングに戻った。
「何?何の用?」
 何度同じ事を聞いたか判らない。
 一向に口を開かない悠人にいい加減苛々も募っていた。今度も駄目だろうと、実は思って声をかけたのだが、意外にも返事が戻ってきた。のみならずその内容に目を見開く。
「お前らさ、喧嘩はしないのか?」
「はあ?」
 何のことだと不審がる前に、悠人の傍らにあった文庫本が飛んできた。それを慌てて避ける。
「何だ、その間の抜けた返答は!」
「そっちこそ、いきなり物投げるな!」
 睨まれ、こちらも睨み返す。
 壁に当たって落ちた本を、浩二が律儀にも拾っているのを視界の片隅で捕らえながら、悠人を窺う。
 ぎりっと噛み締めた唇がひどく赤い。
 深い眉間の皺がますます深くなっているようだった。
 一体、何なんだ?
 喧嘩?
 お前らと言うことは、自分と浩二を指しているのだろう。だけど、何でそんな事を聞いてくるのか、その真意が判らない。
「兄貴ぃ、誰かと喧嘩したのか?」
 考えられる事としたら、そういうことしか思いつかなかった。だから聞いて見た。
 だが、それに対する返答は無い。
 ぐいっと飲み干され空になったカップが乱暴に降ろされ不快な音を立てる。
 いつにない機嫌の悪い悠人の様子に雅人もただどうすることもできない。
 何も言わない悠人ほど扱いに困る物はなかった。
「じゃあさ、何か聞きたいことでもあるのか?まあ、俺と浩二は喧嘩だってするけど、どっちかというと浩二がそんなに怒らないから、そんなにひどい喧嘩ってないよ。俺が一人で怒っている時っていうのは結構あるけど……」
 う?。
 ちょっと思いついただけでも、あれもこれも自分のせいだなあって思えるのが結構ある。
 それをいつだって浩二は穏やかに癒してくれるのだ。
 だからひどい喧嘩はない。
 たぶん浩二が怒ったのは、あの時だけだ。
 二人がつきあうきっかけになった、あの時だけ。
 我を忘れて感情的になった浩二は、ひどく乱暴になる。それで雅人を傷つけるのを恐れ、浩二はひどく自分を律するのだから。
「まあ、お前も結構短気で突っ走る所があるからな。浩二君はそういうこともなさそうだし、お前にはちょうどいいのかもしれん」
 機嫌の悪さが幾分和らいだのか、その口元に僅かな笑みすらたたえて悠人が評した。
「それを言ったら兄貴の方こそ、よっぽと短気だろ」
 言った途端に、今度は雑誌が飛んできた。
「だから!」
「煩い!」
 抗議の言葉すら、瞬時に消される。
 浩二が悠人の背後から回って、周りにあった雑誌や新聞を片付け始めた。
 とりあえず、悠人の周りから動く物を取り除かないと危なくてしようがない。
「……それで……どうしたいんだよ兄貴は?」
 ずっとそうやって苛々としているだけの悠人。
 だがそんなつもりで来た筈はないだうと思う。
 いつだって悠人は雅人に助けを求めてくるのだ。
 本人すら気づいていない。だけど昔からいつだってそうだった。何か困って自分で対処出来ないことがあると雅人につきまとう。それは子供の頃からそうだった。
 いい加減嫌になることだってあった。
 放っておいたら勝手に機嫌が治っていることもあった。だが、それは稀なことだ。今日のはどうも簡単には直りそうにない。それなのに、それらしい事を一言も言わない……いや、一言はあった。
 喧嘩?
 誰かとやっぱり喧嘩したのだろうか?
 そしてしてしまったから対処に困っている。
 でも、誰と?
「雅人さん、朝食を」
 トーストとコーヒーがトレイに乗せられ、雅人に手渡された。
「ありがと」
 受け取り、膝に乗せる。
 寝不足で食欲は無かったが、少しはエネルギーを補給して頭の回転を良くしないと、悠人に対処出来そうになかった。それにどうしても昼までにはなんとかしたい。昼からは二人で出かける予定なのだから。
 ちらりと窺う悠人は、そっぽを向くように立て膝をついたそこに肘をつき、頬杖にして窓の外を眺めている。
 喧嘩か……。
 誰としたのだろう。
 考えてみると、昔から悠人が喧嘩をするのはしょっちゅうだったけれど、それで雅人にまで害が及んだことは無いような気がする。今までの喧嘩相手は、とにかく無視すればいい相手だったのだ。
 ただ、無視しきれなかった相手だけと喧嘩が始まる。
 喧嘩するほど仲がいい、とは言うが、それは悠人にとっては縁もゆかりもない言葉だった。
 悠人にとって、周りの人々とは、気に入らなければ拒絶すれば良い対象だった。
 そういえば……。
 拒絶仕切れない相手が確か……増山健一郎。だから、前回は妙な事になっていたのではないか?
 賭に負けて、キスをするはめになった悠人。そのまま二人で飛び出して行ったが、あの後は一体何がどうなったのだろう。
 まさか……。
 ふっと浮かんだ考えを追い出しくて首を振る。
 二人が付き合っているなど……悠人の性格を考えると、あり得ないことだと思う。
 悠人はひたすら怒っているし、雅人もずっと考え込んでいる。
 その二人に浩二も困ったようにはしているが、もともとあまり喋らない質なので、室内には奇妙な沈黙が漂っていた。
 それを破ったのが呼び出しのベル音だった。
 その音にはっと顔を上げたのは浩二だった。
 独特のリズムで鳴るそれは浩二の携帯だ。
「はい」
 TV台の上に置き去りにされていたそれを取り上げると、浩二が自室へと消えていく。
 あ、逃げた……。
 ほんとはそうでないとは判っていたが、そう思いたくなるシチュエーション。
 雅人は恨めしげに浩二が消えたドアをじっと睨み付けていた。と、いきなりそのドアが開く。
「雅人さん」
 ひょいひょいその浩二の手が雅人を手招く。
「俺?」
 自分を指さすと、浩二がこくりと頷いた。
 慌てて立ち上がり、浩二の部屋に入る。
「何?」
「兄からなんですけど」
 兄って、健一郎さん?
 ぱたんと背後でドアが閉まる。
「もしもし」
『あ、健一郎です。お久しぶりです』
「こちらこそ」
 久しく聞くその声に懐かしさと共に訝しさが沸き起こる。
 何か用があったっけ?
 首を傾げていると。
『浩二に聞いたんだけど、悠人がそっちに行っているって?』
「ええ」
 軽く返事をして、はたと気づく。健一郎の「悠人」という呼び方が随分と慣れているように聞こえた。
『しかも機嫌が悪いって聞いたんたけど』
「はい……」
 もしかして……。
 先程の考えが脳裏に浮かぶ。
 本当にもしかして……何だろうか?
『おかしいな、昨日一緒に食事した時は何ともなかったんだけど……』
 ビンゴっ……なのかな……。
「昨日、ですか?喧嘩とかしなかったんですか?」
『いや、特に……まあ、あいつはすぐ機嫌を損ねるから……何か、言ったかなあ?』
 携帯の向こうが沈黙する。
 何か心当たりを探しているのだろう。
 にしても、この物言いからするに、二人はやっぱり付き合っているのか?
 雅人は背筋に冷たい物が走るのを感じた。
 あの悠人と付き合おうなんて……なんてこの人は物好きなんだ……。
 驚きを通り越して呆れてしまった。
「あの、俺達昼から出かけるんでできれば相手して貰えませんか?」
 なんとなく悠人の機嫌の悪い原因は彼に有るような気がした。だったら、さっさと押し付けてしまえ。
『えっ!だが機嫌が悪いんだろう?』
 嫌そうな気配に、苦笑が漏れる。
「健一郎さんが来たら機嫌が治るかも知れないし?」
『そう思うか?』
 思わない。
 そう言いたいのを必死で堪え、笑い声を立てる。
「来て下さいよ。待っていますから」
 そう言うと、雅人はさっさと電話を切った
「兄さん、なんて言ってました?」
「心当たりはないそうだ」
 肩をすくめてそう言うと、浩二も腕組みをして首を傾げた。
「そうですか。この前よりひどいような気がしますし……また兄が何かしたのかと思っていたんですが、違うのですか……でも、来るように言っていませんでした?」
「俺さあ、あの二人どこまでいっているのか判らないんだけど、付き合っているって思うんだ。だったら、機嫌の悪いのを何とかするのはこういう場合、健一郎さんの役目のような気がしない?」
「……やっぱり付き合っているんでしょうかね。たまに逢う兄も大層機嫌が良いようでしたし……」
「そう思うよ。電話ではそんな感じがした」
「でも兄には心当たりはないんでしょう?」
「そうは言っていたけど、兄貴のことだから何かすっごく細かいことが気になって不機嫌なのかも知れないし……」
 憶測にしか過ぎないけど、どちらにせよ今のままでは出かけることもままならない。
 健一郎には悪いけれど、悠人を任せようと、二人で頷き逢った途端だった。
 ドンッ!
 激しい音がドアから響く。
「うわっ!」
 小さな悲鳴を上げて、ドアから飛び退くと、再度ドアに何かが叩き付けられた。
「お前ら、何をこそこそ話をしているんだっ!」
 怒声が隔てたドアをモノともせず、二人に襲いかかる。
「ひえ?、怒ってるよ」
 ひきつる頬のまま浩二を見ると、浩二が微苦笑を浮かべて雅人に視線を向けた。
 軽く肩をすくめると、
「私が先に出ますからね」
 そう言ってドアノブに手をかけると、一気に開いた。
「てっ!」
 ごんという音共に、悠人が慌てたように後に下がる。
「悠人さん……ドアを壊さないでくださいね」
 どこか低く、感情の籠もっていない声が聞こえた途端、雅人は本能的に躰がすくみ上がった。
 うわわぁ、怒っている?
 滅多に感情を荒立たせる事のない浩二が、こういう声音をする時は少なからず怒っているときなのだ。
 それを聞いた悠人もさすがにびびったのか、ずるずると後ずさる。開けられた拍子に打ちでもしたのか、額に手を当てていた。
「少し、落ち着いて貰えませんか?ここは私の家でも有るんですから」
 わざとらしいため息に、それでも悠人のみならず雅人も硬直してしまう。
「す、すまない……」
 羽目を外しすぎたと後悔したのか、悠人は大人しく前に座っていた所に座り直した。
「すげ……」
 思わず漏れた言葉に、浩二が当惑ぎみの視線を向けた。
 黙っていなさい。
 その目が語る意味がさすがに判った雅人は、その口を固く閉じることにした。
 健一郎が速攻で家にきたとしても30分はかかると聞いたことがあった。それまでは悠人を相手にしなくてはならない。不要な発言は控えるべきだと、雅人は自分に肝に命じていた。

 それでも、30分間は長かった。
 腫れ物でも触るように悠人を扱う。
 雅人が声をかけると必ず怒りに満ちた返答しか帰ってこないのが判ってから、途中からもっぱらその役目が浩二に移っていた。しかし、もともと浩二はそれほど話好きではない。
 雅人は胃に痛みすら覚えるのではないかという緊張感に耐えられないと思い始めた頃、やっとインターホンのベルが鳴った。
 それを聞いた途端、雅人は飛ぶように玄関へと駆けていく。
 ろくに応答もせずにロビーのロックを解除して、自分も外へと出迎えのために飛び出した。
 出た途端、ひんやりと心地よい空気が頬を撫でる。深呼吸すると緊張していた躰が軽くなるようだった。
 悠人の事が嫌いなわけではない。だが、今日はあまりにもひどい。
 そして、今来ようとしている相手は絶対その理由を知っているはずなのだ。
 そうとしか、考えられない。
「健一郎さん」
 エレベーターのドアが開き、中から出てきた長身の男性に声をかける。
 浩二とどことなく似た彼は、驚いたように目を見開いた。
「わざわざの出迎えとは……もしかして、相当ひどい?」
 嫌そうに顔をしかめる健一郎を雅人は苦笑いしながら後から押した。
「訳わかんなくてさ。健一郎さんなら判るんじゃないかと思って」
「何で、そう思う?」
「だって、付き合っているんだろ。今日の電話の雰囲気じゃあそんな感じだったじゃないか」
 そう言うと、なぜか健一郎は苦笑いを浮かべて、足を止めた。
「付き合っていると言えばそうなんだろうけど……」
 どこか言葉尻を濁したその物言いが気にはかかったけれど、とりあえず中にいる悠人を何とかしなければならない。今頃、浩二が一人で相手をしているのだ。
「さ、入ってよ」
 渋々と言った感じの健一郎を中へと招き入れる。
「兄貴、健一郎さんがきたよ」
 声をかけた途端、悠人がひどく驚いたように飛び上がるように立ち上がった。
「あ、何で……」
 その顔がひどくひきつっている。
「機嫌の悪いお前をなんとかしてくれと泣きつかれた」
 あ、ああああっ!
「健一郎さんっ!」
 それは言ったら駄目だって!
 雅人の制止は間に合わず、悠人のきつい視線が雅人を見据える。
「雅人、どういうことだ!」
「あ、ああ……だって、兄貴、何にも言ってくれないしさ、ちょうど健一郎さんから電話があったから、何か知っているかもって……」
「だからって、何で呼ばなきゃいけないんだっ!」
 悠人が雅人に駆け寄ろうとしたその腕を、健一郎がさっと掴んだ。
「おい、落ち着け。確かに機嫌が悪そうだな」
「離せっ!」
 ぐいっと引っ張られて、倒れるように健一郎の腕の中にはまりこむ悠人。
 その悠人を健一郎ががっしりと捕らえる。
 途端に悠人の顔がさあっと赤く染まった。
「離せ」
 身動ぐ悠人だったが、もともと健一郎の方が力が強いのだろう。
 その腕が離されることはなかった。
 うっわー、負けてるよ、兄貴の方が……。
 雅人が呆然と二人を見つめていると、その腕を浩二かつんつんと引っ張った。
 雅人の耳元に口を近づけ、囁く。
「外でちょっと買い物にでもいきませんか?お昼の材料買いませんと」
 言外に二人だけにしようと言っているのが判ったから、雅人は一も二もなく頷いた。
「わかった」
 その言葉に満足した浩二が、健一郎達に見ようによっては冷ややかな視線を向ける。
「私たちはこれからお昼の食材を買いに行ってきますから、二人で留守番をお願いしますね」
「何で、俺が!」
「ああ、行ってこい」
 悠人の抗議の言葉を健一郎が軽く覆い隠す。
 念のためにと鍵を置いた浩二と雅人は部屋を出ていった。

                        ☆


 浩二と雅人が出ていった音が玄関からする。
 健一郎はむすっとして顔を合わせようとしない悠人を抱き締めたままその耳元で囁いた。
「で、聞かせて貰おうか?」
 まあ、素直に言ってくれるぐらいなら雅人くんも俺も苦労はしないがな。
 案の定、悠人は黙りこくって何も言わない。
 昨日は、2週間ぶりくらいに一緒に帰れたんだよな。それで食事をして……そのまま別れたから……それまでは機嫌はそこそこだったよなあ……。
 健一郎は昨日の行動を頭の中でトレースしてみたが、特に問題になるようなことはなかった。
「いい加減にしてくれよ。いつもそうやって怒ってばかりだ、お前は……」
 体よく押しつけられた感もあって、ついつい不機嫌になるのは否めないだろう。
 だが、それを聞いた途端、悠人はさらにむすっとしてそっぽを向いた。そのあからさまな態度に健一郎もむかっときた。
「悠人」
 ぐいっとその胸ぐらを掴み、引き寄せ、10cmも開いていないほどの間近さでその顔を見据える。
「言いたいことがあるなら言えよ。そうやって勝手に怒るな。そういうのが一番厄介なんだぞ」
「厄介なら放っておけばいいだろう!俺に構うことなんかないんだ」
「お前が弟たちに面倒かけなきゃ、確かに俺もお前が不機嫌なんて思いやしなかったさ。だが、こんな風にわざわざ押し掛けて、不機嫌そのもので当たり散らしたから俺にまで連絡が来たんだろうが。しかもどう見ても、俺のせいだとお前は言っているぞ、その態度!」
 怒りに任せてぶつけた吐き出した言葉に、悠人がぎりっと口を引き結んだ。
「そんなこと……」
 唇の隙間から微かに言葉が漏れる。
「言え。何を怒っている?」
「……言わない……」
 トーンダウンしたとは言え、それでも頑ななまでのその態度に健一郎は、はあっと息を吐き出すと手を離した。
 半ば引き寄せられるように引っ張られていたせいで膝立ちになっていた悠人がぱたんと床に尻をつく。
 どうしたんだ、一体……。
 相変わらずとは言え……なんて厄介な奴。
 健一郎は悠人を見下ろしながら考える。
 本当に何が原因なのか?
 どうもこの態度から察するに、自分のせいらしいのだが……。
 とんと見当がつかなかった。
 これは、もう……無理かな?
 悠人の機嫌は時間を置けば治るという物ではないことくらい承知しているが、それでも今最高潮の状態で文句を言っても聞き入れてくれる物ではないだろう。
「おい、家まで送るぞ。どうせ、タクシーで来たんだろう。このままここにいても雅人君達にも迷惑だし」
「嫌だ」
 間髪を入れずに首を振る悠人に、健一郎はがくっと膝が崩れた。
 悠人の傍らに座り込む。
「お前……本当に……どうしたんだ……」
「知るか!」
 吐き出す言葉に健一郎が目を見開く。
「知るかって……お前自分の事だろうが」
「そんな事言ったって、判らないものは判らない。俺はここにいるんだ、俺のことなんか放っといて、昨日の彼女と仲良くすればいいだろうが!俺は、お前の相手なんかできないっ!」
「相手にって……えっ?」
 今、とんでもない事を聞いたような気がする。
 健一郎はまじまじと悠人の横顔を見つめた。
「くっ」
 悠人も自分が何を口走ったか気付いたように深く俯き、唇を噛み締めた。
 それを見ながら、健一郎の頭の中を悠人の言葉が駆けめぐる。
 昨日の彼女?
 何のことだ?
 思い出そうとしても、ちっとも思い出せない。
 少なくとも食事が終わるまではこんな事は無かった。食事が終わって、タクシーを捕まえるために表通りに出で……。
「あっ」
 小さな叫びが健一郎の口から漏れた。
 そこで、会社の女性に会った。
 営業の娘で、彼女が声をかけてきて……それで……。
『今度は私も誘って欲しいなあ、お食事』
『う?ん、いいねえ。由美ちゃんなら大歓迎。今度一緒にしよう』
 なんて会話を……悠人の前でしたような?。
 で、でも、その時もその後もこいつの態度に変化はなかった……と思うけど……。
「彼女って、……昨日タクシーに乗る前に逢った由美ちゃんのことか?」
 ぷいっと顔を背けた悠人は肯定も否定もしない。
 もしかして、こいつ嫌だったのか?俺が、女の子の誘いを受けたこと。
 それで、それだけでこんなに不機嫌になっているのか?
「お前……嫌だったのか?俺が彼女と話をしたこと……食事を誘う話をしたこと……それで、そんなに……」
 何も言わない悠人。だが、その首筋が赤く染まっている。
 その態度が、健一郎の言葉を明らかに肯定していた。
「悠人」
 ぐいっと強引に顎を掴み、顔を上げさせる。
 噛み締められた唇が血のように赤く染まり、意志の強い瞳が健一郎の背後を睨み付けていた。
 なるほど……。
 健一郎はくすりとその顔に笑みを浮かべた。
「お前は嫉妬したんだ。由美ちゃんに」
 わざと煽るように言う。
「由美ちゃん、可愛いだろ。由美ちゃんて、営業部のアイドルなんだぜ」
 親しげに名前を連呼する。
 途端に見る見るうちに悠人の顔が歪んだ。
「煩い!だから、その由美ちゃんと勝手に食事でも何でも行けばいいだろ。俺は関係ない!」
「そうだな。由美ちゃんなら、こんなにすぐ怒らないだろうな。あの娘はさっぱりしているし……」
 口調は楽しそうに、だがその目でじっと悠人を窺っていた。
 ぎりりと噛み締められた唇が今にも噛み切りそうになっている。
 健一郎は、親指でそっとその唇を撫でた。
「噛み切るなよ」
 そのラインをゆるゆるとなぞると、ふっとその唇が緩んだ。
 気付いているのか、泣きそうなその顔に。怒っているくせにそんな顔されたら、俺はもうノックアウト喰らうしかないじゃないか。
「馬鹿、ほんとにお前は……」
 赤く染まったそこに唇を重ねる。
 びくんと大きく躰を震わせた悠人は、それでも逃げなかった。
 それどころかその腕を待っていたかのように健一郎の背に回す。
 健一郎はそれに答えるように悠人の頭を掻き抱くと、きつく深く口付けた。
 たまんねーな、お前は……。
 そんなに辛そうな顔されるなんて思ってもみなかった。
 ちょっと女の子と話して食事の誘いをしただけなのに……。それなのに、そんな風になるなんて……。
 未だにキス以上の事はなかなかさせてくれない癖に。
 そのキスもこうやって素直に受ける事なんて滅多にない……お前の心がどこにあるかなんて、不安になってさえいたのに……。
 なのにこんな風に嫉妬してくれる程、俺の事を気にしていてくれるなんて。
「悠人……」
 離された唇の間に唾液の糸が伝う。それが切れない距離で、健一郎は囁いた。
「俺は、お前が一番なんだ。彼女とはさ、同じ会社の人間だしな、社交辞令って奴だ」
 できるだけ優しく語りかける。
 対する悠人はその潤んだ瞳を健一郎に向けていた。僅かに開いた唇が、言葉を放つ。
「そんなこと、別にどうでもいいって思ったのに、家に帰って一人になったら……嫌だと…貴様がそんな事言ったのがたまらなく嫌だと……、そんなことを思う自分が信じられなかった。俺は……そんな事、思ったら、もう!」
 悠人がぐっと健一郎の両肩を押しのけた。
「俺は!嫌だったんだ!こんなのって、どうして!」
 ぽとんと涙が悠人の膝に落ちる。
 ぼたぼたと続いて落ちる涙に健一郎は悠人の手を避けさせて抱き寄せた。
「嬉しいな。俺の事をそんな風に思ってくれる悠人がさ。堪らない、もう」
 再び唇を逢わせると、悠人がまっていたかのように積極的に舌を入れてきた。
 それも初めてで、健一郎は少なからず感動した。入ってきた舌に自分の舌を絡める。
 2ヶ月……。
 短いようで、長かった。
 全く……素直じゃない恋人ってのは、本当に攻略が難しい、な……。
 手の中にある髪をそっと後ろに梳き上げる。
 さらさらの髪が、心地よい。
 この髪も顔もそして、天の邪鬼で頑固で我が儘な性格も何もかも愛おしい。
 そして……。
 できれば、欲しいと願っているのだが……。
 しかしここは弟たちの家で、しかもいつ帰ってくるか判らない。
 節操無く立ち上がる下半身に、健一郎は必死で気を紛らす。
 俺は……いつまで我慢できるんだろう……。
 積極的になった悠人は、はっきり言って健一郎には躰にひどく毒だった。


 1時間かけて食材を買って帰ってくると、二人の間で何が起きたのか、ひどく悠人が落ち着いていた。出かける前の自分の不機嫌さが恥ずかしいのか、照れたように顔を背ける。
 よかった……。
 ほっと胸をなで下ろす。
 機嫌さえ良ければ、悠人はいい兄なのだ。
「食事作りますので、食べていってくださいね」
「ああ、手伝おうか?」
 健一郎の言葉に、浩二が微かな笑みを浮かべながら、首を振った。
「二人でやりますので、テレビでも見てて下さい」
 ってことは俺も手伝えってことだよな……まあいいけど。
 機嫌が良くなったとは言え、今度はどこか居心地の悪そうな悠人と顔を見合わすのも気恥ずかしくて、雅人はさっさとキッチンへと入った。
 作る物は、買い物のときに見ていたから知っている。
「とりあえず機嫌が治ったみたいで良かったよ」
「そうですね」
「一体何が原因だったんだろう……」
 キャベツを刻みながらぽつりと言うと、浩二がふっと手を止めて振り向いた。
「聞いてみるんですか?」
「まさか」
 速攻で否定した。
 そんな事をしたら、せっかく機嫌の治っている悠人がまた最悪状態に陥らないしも限らない。それは絶対に嫌だった。
 引っ張り出したホットプレートをダイニングテーブルに持っていく。
「何だ?」
 リビングでテレビを見ていた健一郎が躰を起こしてくるっとこちらを振り向いた。
「えっ…焼きそば、するんだ」
 簡単に答えると、再びキッチンに戻る。
 ふわっと赤くなってました顔、気づかれなかっただろうか?
「どうしたんです?」
 しかし、浩二には気づかれてしまった。
「いや……その、仲、いいんだよな、あの二人ってやっぱ」
 ホットプレートを持っていった時、その気配に気づいた二人がすっと離れはしたけれど、それでも健一郎が悠人の首筋にその顔を埋めているのを見てしまった。
 後ろ姿からでもその首筋が赤くなっている悠人がどんな顔をしているのか想像できる。
 そうしたら自分まで顔が熱くなってしまったのだ。
 その姿を見た浩二が、雅人に近づいてきた。
「赤いですね。煽られました?」
 水に濡れた手を雅人の頬に当ててくる。
「冷たくて気持ちいい」
 くすりと笑うとその手が後頭部へと回された。加えられた力に逆らわずに顔を下げると、下から掬い上げられるように唇を重ねられる。
「ん……」
 するりと唇を舐められると、ぞくりと背筋から下肢に向けて甘い疼きが走る。
 雅人は手を浩二の背にまわした。ぎゅっと力を込めると、より一層きつく口付けられる。
 んん、もっと……
 味わうように貪る口付けは、だが、いきなり外された。
「お前ら……いちゃつくな」
 うんざりとした声音が降りかかり、慌てて離れるとキッチンの入り口に悠人が腕組みして柱にもたれて立っていた。
「あ、兄貴っ!」
 あっちにいたんじゃなかったのかっ!
「手伝おうと思ったんだが……」
 あっちもこっちも……。
 そんな言葉が微かに聞こえた。
「あ、じゃあ運んでよ、これ……」
 慌てて刻んだキャベツをボールに入れ、手渡す。
「お前、いっつもあんな調子なのか?」
 ぽつりと言われた意味が判らなくて、首を傾げると「いや、いい」と言ってテーブルの方へ向かった。
 それを茫然と見送る。
「あの二人、上手くいっていないのですかね?」
 背後からかけられた声に思わず頷く。
「やっぱ兄貴の不機嫌さは健一郎さんのせいだったんだな」
 だが、何でそれで俺の所に押し掛けてくるのか。
「おい肉は?増山さんが作ってくれるって」
「え?」
 入ってきた悠人がかけた言葉に、雅人は茫然と悠人を見遣った。
「どした?」
 眉間の皺を深くして、雅人を睨む悠人。
「い、いや……あのさ、健一郎さんのこと、増山さんって呼んでるんだ……」
 ひどく違和感を感じた。
 健一郎の方は悠人と呼んでいるのに……。
「そ、それは……」
 赤くなって狼狽える悠人にため息をつく。
 この辺も原因かも……。
 と、いきなり頭を殴られた。
「ったあ!」
 頭を抱えて踞る。
「俺達の事は放っとけって!さっさと食事の用意をしろっ!」
 吐き捨てるように言って、悠人がキッチンを出ていった。
「大丈夫ですか?」
「うう、拳骨で殴られた……」
 じんじんと伝わる痛みに涙が溢れてくる。
「あんまりあの二人には関わらない方が良いみたいですよ」
「判っているんだけど……」
 それでもつい、なあ……。
 

 健一郎の手際の良い仕草が意外に感じて、思わずほけっと見惚れていた。
「上手なんだ」
「まあな、簡単なものなら作れる」
「浩二よか上手いよ」
「そりゃあ、家ではいつも作っていたもんな」
 健一郎が皿を並べていた浩二に視線を送る。
「そうですね。いつも兄さんが作ってくれましたからね」
「そうなんだ……。兄貴はあんまりそうゆーのしてくれなかったけど、ね」
「ふん」
 むすっとしている悠人がそっぽを向く。
 雅人と健一郎が料理を担当し、浩二と悠人が皿や箸を用意していた。
 と言っても用意はすぐ済んで、後は健一郎が作り上げるのを待つばかりだ。
 作り方も雅人のやり方とは若干違っているようで、ひどく興味をそそられる。
「いいなあ。おいしそうだ」
 最近作るばっかりだったので、作って貰えるっていうのは結構嬉しい。うきうきと健一郎の手元を見つめていると、健一郎もいろいろと話しかけてくる。
「いっつも雅人君が作っているのか?」
「まあね、俺の方が家にいることも多いし……でも浩二が作ることもある」
「浩二は意外に雑だろう?俺、たまにこいつ味音痴じゃないかと思うことがある」
 言われて、思わず笑みがこぼれた。
 味音痴とは思ったことはないけれど、料理の味付けは自分よりは雑だとはたまに思うことがある。
 結構味が濃い。
「でも、おいしいよ」
 と、つんつんと腕をつつかれた。気付いて隣の浩二を見ると、視線が別の場所に向かっていた。その視線を追うと、なぜだか悠人が自分を睨んでいた。
 な、んで……。
 明らかに怒っている悠人に雅人は血の気が引く程に狼狽えていた。
 俺、何か怒らすことしたっけ?
 そんな雅人に健一郎が気がついた。
 ちらりと悠人を見、そして苦笑を浮かべる。
「ほら、悠人。皿を取ってくれ」
 差し出した手に悠人がやや乱暴に手渡す。
「何だ、また怒っているのか?」
「誰が!」
「ほら、怒っている」
 うっと口ごもる悠人に、焼きそばを盛った皿を手渡す。
「今日もおいしいぞ」
 そう言いながらくすりと笑う。
 途端に悠人が視線を泳がし、すうっと頬を赤らめた。
 それに雅人は目をぱちくりとさせた。
 何だ?
 妙に兄貴が可愛いことに、ぞぞっと背筋に寒気が走る。
「……しつこい、お前は」
 熱を吐き出すように息を吐いた悠人は、取り繕うように水をごくりと飲むと、焼きそばをぱくつきだした。
「ほら、そっちも」
「あ、ありがと」
 受け取った焼きそばを口に運びながら、それでもちらちらと二人を窺ってしまう。
 どこかぎこちない悠人に、それを苦笑しながらも相手をしている健一郎。
 一体どこまで進んでいるのか判らないけれど、それでも幸せになって欲しいと思う。いや、ぜひとも幸せになって欲しい。
 でないと……。
 朝のように不機嫌丸出しの悠人の相手をしょっちゅうすることになってしまう。
 それだけは嫌だった。
 

【了】