【ECLOSE -羽化-】 1

【ECLOSE -羽化-】 1

 開いたのは高校の卒業記念アルバムだった。
 同じクラスの最前列左端に滝本智史、その後方後ろから2列目に深山裕太。
 二人の距離は、指一本分の長さよりも短い。
 だが、二人は卒業と同時に別れた。
 写真を撮った時は、そんなこと考えもしていなかったというのに。

 本当にあの時は、そうしたらいいのだと思って。そんなにショックを受けるなんて思いもしなかった。
 卒業して裕太がいなくなって初めて、智史は激しい喪失感を感じたから。
 だから……余計に逢えなくなった。
 逢いたくないと、名残惜しげな裕太の住所を知らせる便りの返事に書いたのは、自分を守るため。
 これ以上一緒にいても、それからくるいつか別れの時にはもっと激しいショックを受けそうな気がして。だから、もう二度とこんな思いはしたくないから、逢いたくないと伝えた。
 別れの言葉を言った時よりもっときつい言葉は、手紙だからすらすらと書けた。
 何度もためらって、出せずにいた手紙は……いつの間にか誠二がだしていたから。
 ──ごめん。
 書けなかった言葉は、もう二度という機会はないだろう。
 それきり、裕太からの手紙はこなくなった。


 不意に込み上げてきた熱い思いに智史は、苦笑を浮かべて振り払った。
 何を感傷にふけっているのか。
 裕太は、それでもこの地に戻ってきたのだから。
 前よりも器がさらに大きくなって、智史を包み込んでくれる。
 お互いの立場は変わっていたけれど、変わらず優しく包んでくれて、智史の心を休ませてくれる。
 またいつか別れの時が来るかも知れないけれど、それでもあの時よりは後悔しない別れができそうな気がした。
 だから、もうこれは懐かしい思い出でしかない。
 智史は、はふっと小さく息を吐いて、次のページをめくった。
 クラス写真が終われば、3年間に行った行事の写真。
 重なり合うように写った写真の中から自らを探すのは難しいのに、なぜだか裕太の写真はすぐに見つかった。
 指で何度も辿った写真の上は、微かに染みがついている。
 別れることなんか苦にならない──そう思っていたのに、気が付いたらいつもこの写真を見つめていた。
 裕太から少しだけ離れた集団に智史が隠れて写っていることに気が付いたのはいつだっただろう。そして、よく見れば、小さな写真の裕太のその顔が向けられていたのはその智史がいる場所。
 それは、2年生の春の競技大会の写真。
 1年の時よりは馴染んだクラスメートに連れられて、次の競技に向かおうとしていた時。
 はっきりとしない写真なのに、智史には裕太が口許をへの字に曲げているのが見て取れて、智史は微かに笑みをこぼした。
 それは、裕太が智史に告白するほんの少し前の出来事。
 気が付けばそこにいて当然だった友人の想いが込められた写真を、智史はいつまでもあくことなく見続けていた。


「何、怒っているんだよ?」
 次は400M走で、裕太が選手だからたすきを渡しに来たというのに、不機嫌そうに口許を歪めたまま礼も言わない。しかも、差し出したたすきを乱暴に取り上げて、そのまま踵を返してしまう。
「裕太っ?」
 そのころには裕太の背は高くなっていて、その分足も長くなっているから歩幅が広い。
 慌てて駆ける智史とは対照的な程に裕太はただ歩いているだけのように見えた。
 だけど追いつかない。
 今までこんなことはなかった、と思う。
 呼びかければ、いつも振り向いて待ってくれた。
 荷物が重くて手間取っていれば、何気ないそぶりで手伝ったくれた。
 なのに、今裕太との距離はどんどん離れていく。
 しかも開いた距離に、別の競技から帰ってきた一群が割り込んできて、その間に裕太は集合場所まで行ってしまった。
「何なんだ?」
 どう見ても怒っていたように見える。
 いつも穏和な表情で怒ることも少ない裕太だったけれど、たまには怒りを爆発させることだってある。今のは、その寸前の状態だと、さすがに1年も仲の良い友達としてつき合っていれば気が付こうと言うものだ。
 だが、その原因が判らない。
「う?ん……。誠二が何かしたのかなあ?」
 腕組みして考え込んでいたら、後ろから思いっきりぶつかられた。
「うわっ」
「あっ、ごめんっ!!」
 腕組みしていたせいで、手が出なかった。ぶつかった相手も、咄嗟に手を伸ばしてくれたが、間に合うものではない。
「てててっ」
 肘と額が痛いと蹲る。
「うわあっ、酷いや」
 見知らぬ声に顔を上げれば、3年の名前をつけた男の人が立っていた。
 腰をかがめて智史の怪我を覗き込む。
 その背格好がどこか裕太に似ているな、とぼんやりとその顔を見つめていた。
「血が出てるし、かなり汚れてる。保健室行こう」
 手が伸びて、智史の腕を引っ張る。
「痛っ!」
 腕の皮が引っ張られ、傷口が引きつれるようにいたんだ。ぼんやりしている場合ではないと怪我を見れば、確かに広範囲にわたって擦り傷ができて血が滲んでいる。
「あっ……ほんと…酷いんだ…」
 これは治療も痛そうだなあ、と思いつつ呟くと、くすくすという笑い声とともに彼の手が離れていった。
「君って、痛いっていう割には随分落ち着いているね?」
 それがおかしいと、終いには腹を抱えている。
「変かなあ?」
 と首を傾げながら問えば、「変」と大きく頷かれてしまった。
 さすがにそれにはショックを受けた、ような気がしたので、智史はむすっと唇を尖らして文句を言う。
「だって、慌ててもしょうがないし……」
 痛い痛いと大騒ぎするのが普通なのだろうかと、上目遣いに彼を見上げた。
「君って、血を見ても平気なんだ?」
 やはり笑いながら、今度は傷に障らないように智史を引っ張り上げる。
「……うん……まあ」
 この程度出たからって、命に関わるもんじゃないし。
 首を傾げる智史に触発されたのか。
「凄いね」
 そう言って、彼はまた笑っていた。

 結局、笑いながら保健室に連れて行ってくれた3年に、感謝しなければならないんだろうな、と思いつつ、どうもその気になれない。
 笑われているのは自分なのだと思うと、さすがにいい気持ちはしなかった。
 なのに、彼はどうも智史のことが気に入ったのか、治療が終わるまでずっと智史に付いていた。なおかつ、どうでもいいようなことをいろいろと喋りまくる。
「くすせ、と読むんだ」
 胸元のぜっけんを指さしながら教えてくれるのも、智史にとってはどうでもいいことなのだが、それでも消毒液の痛みに気を紛らすために、対応する。
「くすのせ、と読むのかと思ったけど?」
 『楠瀬』と書かれたその名は、近所では確か『くすのせ』だった。
「そうなんだよ、みんなそう読むんだ。何でかなあ?」
 不思議だと首をひねる。
「この辺では「くすのせ」が普通なんで」
「らしいね?」
 のんびりとした他愛もない会話は、実は智史は苦手であって、たちまちのうちに返す言葉を失ってしまう。
 どうしようと、悩んだあげくの言葉は。
「あの、楠瀬さんは、次の競技は?」
 運動場から聞こえるアナウンスに、着々と競技が進んでいるのが判ったけれど、彼は動く気配が見られなかった。
「ん?、もうないよ。後は最後のフォークダンスだけ」
「あ、最後の」
 さすがにそれにはくすりと笑いが零れてしまう。
 男子が多いこの学校で、フォークダンスなんかした日には、どうしても男ばっかりペアができてしまう。しかも曲目によっては、最初のペアで最後まで踊り続けるという恐怖のダンスがあるのだ。
 背の低さだけは誰にも負けない智史は、どうしても女子役に回ることが多かった。
 まあ、それもしようがないな、と思っている智史にとって、嫌がる人達の気持ちはあまりよく判っていない。
 だからおかしそうに笑ったら、今度は睨まれてしまった。
「せっかくの一時を野郎と踊って楽しいって言うのか、お前は」
「でも、ぼくはどうせいっつも女の子役だから。だから、1年の時なんか、最初から最後まで男子ばっかり相手だったし」
 どうせ今年もそうなのだと思ったら、笑うしかない。
「はっ、なるほど」
 納得したように頷いた楠瀬は、改めてまじまじと智史を見つめていた。


「ほらほら、治療が終わったんだったらグラウンドに戻りなさい。滝本君もそのくらいの怪我ならフォークダンスに参加できるでしょう?」
 にこやかに、だが有無を言わせぬ口調で、保健室に詰めていた教師が二人を追い立てる。
「え?、いいじゃないですか。フォークダンスくらい……」
 楠瀬が心底嫌そうに逆らうが、その背を押す力は変わらない。
「じゃあ、二人さぼっていましたって、朝野先生に伝えておこうかしら?」
「うっ……」
 強面のパワーだけは有り余っている体育の教師には、さすがに元気な高校生達も敵わない。
まして、柔道では国体強化選手に選ばれるような玉で、しかも三年の学年主任でもある朝野に逆らう生徒は稀なほどだ。
「行ってきます……」
 楠瀬が堪忍してとぼとぼと歩く姿は愛嬌すら感じられて、智史はくすくすと零れる笑いを我慢しなかった。
「笑うなっ」
「でも……おかしいしっ」
 振り向いた顔がまた赤い。
「お前は?、俺はフォークダンスなんて大っ嫌いなんだよっ」
「ふ?ん」
 まあ、それが普通だとは思うくらいには、智史もクラスメート達の愚痴を聞いている。好きな子でもいれば楽しいそのワンシーンも、必ず相手に当たるとは限らない。
 しかも……あぶれる確率の多いこの学校で。
「でも、今日のフォークダンスってどう並んだっていいんだし、早めに行って速攻で女子の列の隣に行けばいいんじゃないのかな」
「おっ、そうか」
 言われて気が付いたと楠瀬が頷き、アナウンスが最後の競技を知らせているのに気付いて、慌てて走り出そうとした。が、智史が変わらずにゆっくりと歩いているのを見て、足を止める。
「滝本君は?急がないのか?」
「早く行っても、どうせ女子の列に行かされるし」
 先日体育教師に捕まえられて、すでに宣告されていたのだと伝える。
「それ……酷くないか?」
「どうして?」
 大仰に顔を顰める楠瀬を不思議に思う。
 いつもそうだった。
 智史の年代は、どうも男の方が多いようで小学校の時からクラスでの行事もいつも女子のほうが足りない。だからこういう時には背の低い智史が女子側に回されるのはいつものことで、文句を言う必要性も感じていなかった。
「でもさ……」
 淡々とした口調で説明する智史を、楠瀬はじっと見つめていた。
 何か変な事を言ったのだろうか?
 考え込む楠瀬に、智史は首を傾げていた。
 智史にしてみれば当然と思っているのに、なぜかいつも周りの反応は不思議そうなのだ。何故、怒らないのか?何故変に思わないのか?そう言って詰め寄られることすらあって、だが、智史の頭はそういうところに結びつかないのだから、首を振るしかない。
 結局楠瀬も変だと思ってるのだろう、とそれはそれで智史にとっては不思議でもなく、聞こえたアナウンスにグラウンドの方を見遣った。
「集合みたいだから、行きませんか?」
 本日最後の行事に、さすがにだれてきた高校生達の歩みは遅く、朝野の野太い声がグラウンドに響き渡っていた。
 

「あの……あっちの列いかないんですか?」
 明らかに女子がひしめきあっている一群から外れて、楠瀬は一向に智史から離れようとしなかった。
「ああ」
 短く返す楠瀬は、智史に寄り添うように立っている。
「こっちだと、男ばっかりですよ」
「そうだな、お前って結構人気あるのな」
 男相手に踊るくらいならと、まだ可愛く見える智史を狙う輩が近づいてきては、楠瀬の一睨みで去っていく。
 それは一種異様な光景だ。
「別に僕が最初でも、すぐに相手が変わるのに」
「最初は長いからな。何せ、手をつないでグラウンドに行進だろ?」
 にやりと笑う楠瀬は、先ほどの不機嫌さが消えてなぜかフォークダンスを楽しんでいるように見えた。
 その心境の変化が判らなくて、智史は楠瀬を見上げる。
 華奢な首筋が露わになって、楠瀬が困ったように視線を逸らした。
「ほんと……お前ってマジ可愛いな」
「男に言われても嬉しくない」
 いつも言われて平気だと思っていたはずなのに、なぜだか楠瀬の言い様が気になった。
 向けられた視線が熱いような気がして、いたたまれなくなる。しかも無意識のうちに離れようとした体は、手を掴まれてぐいっと引き寄せられた。
「俺の相手、してくれよな。最初だけでも」
 頭を下げて耳元で囁かれ、驚いて目を見開く。
「何で?」
「お前が気に入ったから。この意味判る?」
 それは、どう聞いても真剣さを帯びていた。

 握られた手が熱い。
 その熱を感じながら、智史はため息をついた。
 誠二が知ったら激怒する、と自分より体つきのいい弟を脳裏に思い描く。
 しかも、そう遠くないうちにバレて、この人も結局は離れていってしまうだろう。こと智史に関して、誠二のブラコンぶりは特に有名で、それを知った人達は智史に近寄ろうともしない。
 それもどうでもいいことだ……と、ずっと思っていたのだけれど。
「……弟がね……」
 つい、言いかけて、だがなんと言って良いのか判らなくて口を噤む。
 付き合いたいなら、弟が邪魔をする……とでもいえば良いのか?
 だが、それでは付き合ってもOKという返事をするようなものだ。だいたい智史は楠瀬をよく知らない。判るのは、三年生で、智史より大きくて、しかも運動をしているのか筋肉質な体つきだといこと。顔もまあそこそこで、性格も優しいところがある……くらいだ。
 気に入られたから、と言われても、すぐにどうこう言えるものではない。
「滝本家の弟……の噂は聞いているよ。よく校門前で睨みをきかせている可愛い子だろ」
 くすりと笑って言われた言葉は、絶対に誠二には聞かせられない言葉だ。
「判っているなら……」
「でも学校の中には入って来られないし……ね」
 そういいながら片目を瞑られて、智史は苦笑を浮かべた。
 確かに学校には入らない。だが、外に出ればそれだけで誠二の攻撃は始まる。
 今まで、その攻撃に打ち勝ったのはただ一人──裕太だけだった。
 きっと楠瀬も、すぐに智史から離れていくだろう。
「智史……」
 裕太の事を思いだしたから声が聞こえた。いや、顔を上げれば楠瀬と反対側に寄り添うように裕太が現実に立っていた。しかも、随分と険しい顔をしている。
「何?」
 まだ怒っているのかと、その珍しい裕太に返事を返す。
「どこに行っていたんだ?」
 だが、その目は智史を見ていない。
「あ、のさ……」
 腕を見せているのに。絆創膏が貼られたところを見せているのに。
「ずっと探したんだぞ?」
 だから……。
 裕太の険しい顔は、ずっと楠瀬の方を向いていた。
 背の高さは楠瀬も裕太も同じくらいで、だから、その互いの視線は智史の頭を飛び越える。
 裕太の問いかけは、智史ではなく楠瀬に向けられていたもので、智史はというと完全に無視されていた。
「裕太?」
 どうして、見てくれないのだろう?
 見てくれれば、怪我したこともその治療に行っていたことも判るのに。
「君が、滝本君のナイトって訳?それとも、噂のお目付役?」
「何をっ」
「え?」
 裕太の表情に明らかな狼狽が走ったのを、智史は茫然と見上げた。
 ナイト?
「それって……?」
「ほら、校内のことまで滝本君の弟君がよく知っているのは、誰かお目付役がいるからだって、もっぱらの噂。で、それに合致するのが、滝本君と一緒にいても弟君に攻撃されない彼だろうっていう推測は……その様子だと当たらずともにも遠からず……かな?」
「違うっ」
「それは違う……」
 荒々しく返す裕太の隣で、智史は、そのことかと首を振った。
「お目付役は別の人間。裕太は別にそんなんじゃなくて、数々の激戦の末、誠二に友達として認められたみたいなんだ」
 未だに誠二は、完全には認めいなくて、裕太を見る目には険しいものがあるけど。
 それでも、裕太との喧嘩の最中に言われた言葉にショックを受けたらしくて、あれ以来、誠二は少し大人しい。
 それが何かは聞いても教えてくれなかった。
「智史は……知っていたのか?」
 だが、その当の本人は茫然と智史を見つめる。
「え、何が?」
「お目付役……。誠二君はそれが誰かは結局教えてくれなかったし……。だいたい知っているなら何で教えないんだよ」
「……別に……どうでもいいだろ?したいっていうならさせとけば」
 彼もきっと誠二のことが気に入っていて、嫌われたくなくて誠二に言われたままにしているのだから。
 時折見られる視線に混じる嫉妬にも似た思いに智史は気付いていて、きっと誠二が彼に答えることはないだろうことを考える。
 もっと健全なことでもしていれば、それ相応の可愛い女の子とつきあえそうな彼は、不毛な青春を過ごしているのだと、ただぼんやりと考えて、それを彼も含めて誰にもわざわざ教えることもないだろうと思っていた。
「見張られてて……いいのか?」
「別に……」
 もう慣れてしまったから。
 それに来年には誠二もこの高校にくるだろう。そうしたら、彼は用済みだろうし。
「くくっ」
 いきなり楠瀬が笑い出した。おかしそうに腹を抱えている。
「何だよ」
 裕太が不快感を露わにして詰め寄っているのを、楠瀬が手で押さえる。
「まあ、待てって……。いや……ほんとっ……ちょっと……腹いて……」
 笑いながら喋ろうとして、息も絶え絶えになっている楠瀬は、裕太を手で制しながら、涙混じりの目を智史に向けた。
「滝本君って……面白いな……ますます気に入った……。これってもう恋だと言っていいかも?。だからナイトに候補して良い?」
「え?」
「ふ、ざんけんなっ!」
 その言葉に、智史はきょとんと首を傾げ、裕太が怒りも露わに詰め寄っていた。

つづく