【闇夜の灯火】  2

【闇夜の灯火】  2

 最初の内は、いくら水をかけても火勢は衰えることを知らないかに見えた。
 それでも乾ききった大地がたっぷりと水を含む頃、さすがにその火勢も弱まってきたようだ。
 誠二は、すでに矢崎が全身びしょぬれなのに気がついた。
 他からも降ってくる水もあるし、何より自身が放水した水が木立で跳ね返され、それを浴びることもある。
 ヘルメットから覗く髪から水滴が滴り落ちる。

 いや、それは汗かもしれない。
 炎に煽られた体は、法被に守られているとはいえ熱くて、汗が幾筋もたらたらと流れている。
 消防団の法被は飾りではない。昔ながらの耐火服だ。
 厚い綿製のそれは少々の火の粉ならはねのける。ましてや水で湿っていたらその効果はかなりのものだ。
 だから熱いから、濡れているからといって脱ぐわけにはいかない。
「うわっと」
 悲鳴のような叫び声が聞こえてはっと前方を見ると、谷部がナタを持った手を木に絡ませて、半ば尻をつきかけていた。そのナタの刃が顔の近くまで来ているのを見て取ってひやりと背筋に寒気が走る。
「ナタ持ったままこけるなよ!」
「はいっ!」
 こけるなという方が無理かもしれない。
 ずるずるの山肌は、普通にしていても滑っていきそうなのだ。歩くだけでもひどく神経を使う。
 登り初めてから1時間以上立った頃だろうか。
 目に見えて火勢が衰え始めた。
 頂上付近と麓の火が消え、どちらかというと山腹辺りが燃えている。
 このままいけば夜までには鎮火するか?
 淡い期待を抱く。
 しかし、後少しというところでホースが届かなかった。
「もう延びませんかっ!」
 一心に筒先を構え放水していた矢崎が悔しそうに振り返る。
 その深い眉間のシワは誠二が首を振るのを見て、悔しそうにさらに深く刻まれた。
 すでにホースは限界まで延びていた。
 これ以上別からホースを持ってきたとしても、送水ポンプの揚力が足りない。揚力が足りなければ水の勢いは格段に落ちる。
「ちっ」
 煩くて聞こえないはずの矢崎の舌打ちが聞こえたような気がした。
 いつも穏やかで人に当たることのしない矢崎だから、そういう露骨な表現は珍しい。
 疲れと焦りが矢崎の本音を見せているのだと、誠二は思った。
 ホースを持って後ろをついているだけの誠二でも相当な疲れが来ている。だからこそ筒先を常に構えていなければならない矢崎の苦労と疲労の度合いの濃さが判る。
 誠二に決してできない筒先要員。
 それは体躯だけでも体力だけでもない。
 はっきりいって根性がいる。
 それが誠二には足りないと自分で思う。足りないものばかりの誠二が筒先を持っても、消火活動にデメリットしかもたらさない。それが判っているから、だから、決して言い出せないのだ。
 どんなに代わりたくても、代わろうとは……。
 そしてそんな誠二をよく知っているから、矢崎は傍に誠二がいても代わってくれとは言わない。
 本音を暴露してしまうほど疲れていても。

 なんとか水が届く範囲は鎮火したように見えた。
 誠二と矢崎がほっと一息ついた時、トランシーバーが鳴る。
『放水停止っ!』
 分団長のその言葉に誠二と矢崎が顔を見合わせる。
「誰が?」
 ふと前方を見ると谷部がナタを持ったまま、疲れたふうに木にもたれている。
 そして、分団長はそう誠二達と遠くないところで、誠二達を見つめていた。
 分団長自身言っては見たモノの、どうしたものかと戸惑っている。
 苦笑めいたその表情を見た途端、誠二は仕方ないと首をすくめた。
「ちょっと行って来るわ」
 ホースから手を離すと、勢いよくぬかるんだ山道を滑るように下りていく。
「すまんな」
 分団長とすれ違う時、そんな声が聞こえた。
 それに振り返り、にやりと笑う。
「まあ、年寄りはゆっくり下りてきてください」
 5歳ばかり年上の分団長に対する誠二の言葉に、分団長はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
 ほとんど滑りながら下りたせいで尻の辺りは泥だらけだ。それをはたきながら赤車に近づくと、送水ポンプのスイッチを押す。
 途端にポンプが奏でていた回転音が停止し、膨れあがっていたホースが次々と真っ平らにへこんでいく。その行方を目線で追っている誠二の肩を誰かが叩いた。
 ふっと振り返ると、見知った顔がそこにあった。
 第8分団の法被をきている彼ら2人は、待望の残りの団員だ。
「遅くなってすみません。探すのに手間取って……」
「いや、いいんだ。来てくれただけでも助かるよ。今一時放水停止になって、みんな下りてくると思う」
 そう言いながら、持っていたトランシーバーを渡す。
 これで、下のポンプや吸水口の面倒を見てくれる人員が増えた。増えれば兼務することが減る。肉体労働に代わりはないが、それでも気分的には楽になった。
「少しは落ち着いてきたとは聞いたんですが?」
「ああ、だけどホースが届かないんだ」
 頂上と麓はかなり鎮火している。だがその間にまだちらほらと火が残る。
「おお、来たかっ」
 分団長の嬉しそうな声に、二人は申し訳なさそうに謝っていた。
 こればっかりはしょうがないのだ。
 平日だから、会社から帰る時間を考えるとどうしても遅れる。
 だが山火事は全団招集だから、至る所の分団が出張る。
 そうなると遅れてくると自分の分団がどこにいるのか判らない。特に今日みたいに全員が山に登ってしまうとどこにいるのか全く判らなくなる。ホースを辿れればいいと思われることもあるが、それは危険なのだ。
 仲間がいない時、連絡が付かない時は、とにかく待機。
 それが原則。
 誠二は分団長の後ろに矢崎が下りてきたのを見て取ると、赤車に積んでいたタオルを持って矢崎に黙って手渡した。
 それを受け取った矢崎が微かに笑みを浮かべる。それを見ると誠二も笑顔で返し、そのまま踵を返した。
 赤車の荷台に載って座り込み、片膝をたて頬杖をついて茶筅山を眺める。
 来た時にはまだ日の高かった空は、いつの間にか日が沈んでいた。
 ふと時計を見ると、ここについてからもう2時間近く立っている。
 そんなに登っていたのか……。
 吹き出す汗がごく僅かな空気の流れのような風に晒されるとヒンヤリとして気持ちいい。
 疲れた体がふうっとだるさをも醸し出してなんとなく寝っ転がりたい気分になったが、どうせそうたいした間もなく別の場所に登らされる。
 今のテンションを落とすことはできなかった。
 と、目を閉じて風に吹かれる感触を味わっていた誠二の隣に誰かが腰を下ろした気配がした。それに気付いて目を開けると、すぐ隣に矢崎が座っている。
 はい、とばかりスポーツ飲料の缶を差し出す。
「ああ、ありがと」
 それを受け取ってプルトップを開けると一気に喉へ流し込んだ。
「差し入れだそうですよ」
「ああ、そうか」
 汗で水分を失っていた体だから、それがとにかく旨い。
 飲んだばかりだというのに、体の中に爽快さが広がっていく。
 飢えたように飲み干した缶を名残惜しげに見つめると、誠二はぽいっと荷台へと放り込んだ。
「お前も疲れたろ」
 同じく飲み干した缶を荷台へと置いた矢崎に声をかける。
「そうですねえ、久しぶりですしね」
 ふうっと吐く息に、隠しきれない疲労感が漂う。
 筒先要員の矢崎は、きっと誠二以上に疲れているだろう。
「天気予報によると明日昼くらいから雨って事でしたけど、早くなってくれませんかねえ。いくつもの放水より、そこそこの量の雨さえ降ってくれれば一気に消せるんですけど」
「そうだなあ」
 それはたぶん今現場にいる全員の願いだろう。
 薄闇の空は雲に覆われている。
 まだ薄い雲だが、吹く風にどことなく湿った匂いを感じるのは気のせいだろうか?
 雨は嫌いだが、今は心底降って欲しいと願う。
 誠二は空から視線をおろすと、矢崎へとそれを移した。
 赤色点滅灯に照らされた矢崎の横顔が来る時に車の中に見たあの横顔と同じく真剣そのものだった。それに疲れが滲んでいるのも判る。
「矢崎……」
 思わず呼んでいた。
「何です?」
 問い返されても何気なく呼んだモノだから、言い返す言葉はない。訝しげな矢崎に曖昧な笑みを返すと視線を茶筅山へと向けた。
 薄闇に覆われ始めた茶筅山の陰に、誠二はちらほらと蛍火のように燃える炎を見つける。
 ああ……まだ消えていない。
 また、登山命令がでる。
 これで再び登れば矢崎の負担は相当なものだ。
 何も言わない誠二の横顔をじっと見つめる矢崎に、誠二はいたたまれなくなって口を開いた。
「この山の中腹付近には確か公園があったはずだけど……小さな頃に連れてきて貰ったんだ。まだあるんだろうか?」
「公園ですか?俺は知らないんですけど……」
「そうか……」
 呟くように言うと、誠二はもう一度矢崎の横顔を見つめた。
「なあ、大丈夫か?相当疲れているように見える……無理すんなよ」
「……くす」
 照れが混じってはいたがようやく言葉にした問いかけに、矢崎は吐息で笑い返した。
 それがひどく可笑しそうで誠二はむっと唇を尖らした。
「なんだよ、俺が言うと変か?」
「い、いえ。ただ、誠二さんはあんまりそういうこと口にしないから、珍しいなって思って」
「……俺だって心配する時はちゃんと心配しているぞ」
 むうっと唸る誠二の肩を矢崎がそっと掻き抱いた。
「知ってますよ。いつだって心配してくれていることくらい……」
「ば、ばかっ。みんな、見てるっ!」
 こんな衆目を浴びる赤車の荷台ですることじゃないっ。
 と、焦りまくりの誠二に矢崎はくつくつと笑いながら囁く。
「みんな疲れてぼーっとしていますよ。それに声もみんなまでは聞こえない」
「そ、そりゃそうだけど……」
「それに嬉しいんです。誠二さんがそうやって口に出して言ってくれるのって珍しいから……ね、ついでに真って名前で呼んでくれません?どさくさついでに」
「ば、馬鹿やろーっ!」
 こ、こいつは甘やかすとすぐつけあがるっ!
 だが、肩に回された手の力は先ほどより強くなっている。
 その容易に振り解けそうにない手の力に、誠二は矢崎の横顔を睨む。
 それでも、怒りはどこか弱く、矢崎の行為を受けて入れている自分には気付いている。
「ま、がんばれよ。第八分団の筒先要員はお前なんだから……」
「……やっぱりそうやってはぐらかすんですねえ」
 ため息混じりの矢崎に、贅沢抜かすな、と拳でも咬まそうかと手を握ったその時。
「第八分団、出動だっ!!」
 分団長経由本部からの再度の登山消火指令だった。


 後から来た最年長の1人に赤車とポンプの守を任せ、残り5人で再度登山を開始した。先ほどよりさらにぬかるんだ山道を登るのは至難の業だ。
 もっとも先ほどと違ってホースはすでにセッティングしてし、道も切り開かれている。
「分団長?、さっき消したところがまた燃えているようですう」
 うんざりとした谷部の声に分団長が黙って頷く。
やはり乾ききった山は、なかなか内に取り込んだ熱を解放しきれないらしい。木々の奥深くに潜り込んだ種火の状態の火を消すのは至難の業なのだ。
『第6分団は西の登山道より西の麓の集落への延焼を防止しろ』
 分団長の本部との連絡用のトランシーバーの声に、誠二は深山の姿を脳裏に思い描いた。
 あっちもがんばっているんだろうか……。
 背はあるが、体力的にはかなり矢崎より劣る深山に今回のことはきついだろうな……とふと思う。
 そして、同時に今ここにいない智史の姿も浮かぶ。
 本部で理不尽なお偉方の意見を実質的な現状に照らし合わせるのが、結構難しいと前に聞いたことがある。
 安全ではあるが、それはそれで心労が重なる場所なのだ。
『消火活動可能時間は後1時間』
 その言葉にはっと我に返る。
「茶筅山の向こう側の分団からの報告では、あちら側はなんとか民家への類焼は免れたらしい。とにかく日が完全に落ちるまでにできるだけ消していくんだ」
 分団員に声をかけた分団長が再度口を開いた。
『放水開始』
 その言葉が合図だった。合図から数十秒たって矢崎が持っていた筒先から勢いよく水が迸った。
「くうっ!」
 微かな呻き声が矢崎の口から漏れ、筒先が跳ね上がって中空に水が飛んでいく。
「矢崎っ!」
 誠二が慌てて近寄ると、矢崎は必死になって筒先を押さえ込んでいた。
 高く描いていた放物線がなだらかなモノに代わり、燃え始めた火元にへと確実に狙いを定める。
「大丈夫かっ!」
 誠二の呼びかけに、矢崎はにやりと嗤い返した。だが、その笑みもすぐさま引っ込む。
 握力が……限界なんだ。
 誠二は矢崎のコントロールの邪魔にならないように傍らから筒先を支えた。
 長時間持っていたせいで、矢崎の握力と腕力が限界に来ている。
 今は全身でそれを押さえつけている状態だった。
 この辺りが本職との差だ。
 毎日訓練をする訳ではない消防団員に長時間の消火活動はかなりの体力を消耗する。それでなくても年輩の多い分団はすでにグロッキー状態だ。だからこそ、若手の多い第八分団がどうしても山登り部隊になる。
「ちくしょーっ!さっさと消えねーか、この火はっ!他の分団は何やってんだよっ」
 それは仕方のないこととはいえ、誠二は悪態をつかずにはいられなかった。
 疲労がピークで体裁を取り繕う余裕もないのだ。
 どちらにせよ、その言葉を聞いている人もいない。
「誠二さん、後もう少しで完全に闇になります。それまでがんばりましょー」
 誠二より疲れているはずの矢崎の方がやんわりとたしなめる。
 このお人好しっ!
 寸前まで出かかった罵りの言葉は、かろうじて飲み込んだ。
 矢崎の言うとおり、今は少しでも消すことが重要なのだと割り切る。何よりも、矢崎の言葉だから従う気になったのだ。
 熱気で煽られ、汗が矢崎の体から湯気のように立ち上る。
 燻された煙に覆われ、法被から下の作業着から全てに染みついているはずの煙の臭いの中に、矢崎の匂いがする。
 その匂いに煽られる。
 矢崎と何かをする。その行為に意識が集中する。

 かなり暗くなった。
 投光器が山を照らしているが、それでも全てをカバーできない。いや、強い光が立ち燃えた木々で影を作り、さらにその明暗の激しさのせいで余計に闇の中が見にくい。
 そのせいか、誠二達も手元足下が心許なくなってきた。
「そろそろ、かな」
 ぽつりと呟く誠二に矢崎が頷く。
 と、ちょうどそのタイミングでトランシーバーに指令が入った。
『放水止めっ!全員下山っ!』
 そこかしこで歓声が上がる。
 だがそれが鎮火の号令ではないことで、その歓声にも勢いがない。それはどこか疲れすら感じさせるものだった。
 火は完全に消えていないのは判っているが、もう体力も限界だ。
 持っていた筒先からの水が急速にその勢いを衰えさせ、終いにはぽたぽたと水滴が落ちる。ホースは平らになって暗い山道に白々とした蛇の抜け殻のようにその姿を晒していた。
「下りましょうか」
 それに頷く。
 近くにいた谷部に合図を送り、3人でホースをたくりながら、ゆっくりと下山していった。何せ、足下はぬかるんでいる上にとにかく見えない。谷部が持っている懐中電灯の灯りが頼りだった。
『下の方のホースは回収した』
 分団長の声がトランシーバーから漏れ聞こえる。それに手短に答えると、誠二達はホースのジョイントを外しながら、移動していった。
 と。
 ざわわわっ
 不吉な音がした。
 誠二達を含め、5?6人ばかりその辺りにいた団員達が一斉に空を仰いだ。
「風向きが変わった……」
 谷部が呆然と呟く。
「よりによって……」
 今までほとんど吹いていなかった風が吹き始めた。しかも、かなり激しく吹き始めたそれは、簡単には収まりそうにないほど強くなっていく。
 凪が終わった。
 瀬戸内地方と呼ばれるこの辺りは、海に面していなくても海の影響を受ける。
 潮の流れが変わるとき、ほとんど無風状態になるのが凪。
 そしてそれが終わると今度は逆方向に風が吹き始めるのだ。しかも今回のそれはひどく激しく吹いている。
 火が風を呼び起こしたのだろうか?
 山を揺るがすように木々がざわめいた。
「火の粉がっ!」
 誰かの叫びに、誠二達は一斉に見上げた。
 頭の上を風に煽られた火の粉が飛んでいく。闇の中だからこそ、それははっきりと目に捕らえられた。その先は、最初の段階で消えていたために申し訳程度にしか濡れていない所。
「火に挟まれるっ!急げっ!」
 誰が言ったのか。
 だがその言葉に全員が下山のスピードを速めた。
 一度勢いがついた火は、あっという間に走るスピードより速くなることをみな経験や話で知っている。
 背の高い木の枝が闇の中に燃え上がった。
 生きている木が燃える時は盛大な音を立てる。その苦しげな断末魔の悲鳴を背後に聞きながら、誠二達は駆け下りていた。
「うわっ!」
 傍らにいた矢崎の体が急に沈んだ。はっと振り向く先で、長々とその体を地面に横たえている。その顔が苦痛に歪んでいた。
「矢崎っ!」
「ってえ」
 呻く矢崎は、盛大に尻餅をついたのか体を起こしつつ尻をさすっている。
「あっ」
 その手を掴んで助け起こそうとした途端、誠二の足下がずるりと滑った。
 体重がかかっていた右足が空を切り、背中から勢いよく雑木の中に倒れ込む。顔とむき出しの手が雑木の小さな小枝に掠る微かな痛み。が。
「っ!」
 声にならない悲鳴が喉から漏れた。
 熱を持った痛みが足から背筋を走って脳天を貫く。目の奥に火花が散った。
「くうううっ」
 とっさに体を反転させ、衝撃を受けた足を両手で掴んだ。
 痛いっ……。
 それは言葉にならない痛みだった。
「誠二さんっ!」
「滝本さんっ」
 矢崎と谷部の声が遠くで聞こえるようだった。
 矢崎の手が誠二の体を抱え起こす。その拍子に再び痛んだ足に誠二の目尻に涙が浮かんだ。
 そのせいで意識が覚醒する。
「足から血がっ!」
 その言葉に、衝撃と同時に固く瞑った目を恐る恐る開ける。涙で歪んだ視界の先に、谷部が照らした懐中電灯の光の中の自分の足があった。右足のズボンの生地が裂け、そこから赤い液体が溢れるように流れている。
 ふと見るとその横に鋭く切り落とされたばかりの雑木の3cmほどの幹があった。それが鋭角に天を向いている。
 誰かが切った痕だろう。それがよりによって倒れた場所に合ったのだ。倒れた時の加速度と勢い、そして体重が一気にかかったせいでズボンすら切り裂かれ、下の皮膚と肉を切り裂いた。
「じっとしてっ!」
 叫ぶ矢崎の顔が自分が怪我をしたように苦しそうに歪んでいる。
 それを見た途端、誠二は苦痛の声を必死で飲み込んだ。
 矢崎が自分のせいだと思っているのは火を見るより明らかだった。
 矢崎が先刻麓で誠二が手渡したタオルを引っ張り出し、それで誠二の足を包んだ。すでに半ば以上濡れているそのタオルがじわじわと赤く染まっていく。
「誠二さん、背負いますから。痛いかもしれないけどガマンして下さい。谷部君、麓に連絡して……それと、ホースを頼む」
「はい」
 泣きそうな顔の谷部がトランシーバーで分団長と連絡を取っているのを横目で見ながら、誠二は痛みを堪えながら矢崎に背負われた。足を庇うように支えるので、矢崎の負担はかなりのものだろう。それに握力も腕力も限界のはずだった。だから、誠二も自分の手を矢崎の肩にまわし、自分の体を支える。
 抱き締めるように顔をその背につけると、矢崎の体が震えているように感じた。
「矢崎……お前のせいじゃないからな」
 その耳元で呟く。
 と、矢崎がふっと振り返り微かに笑った。
「少しだけガマンしてくださいね」
 その言葉がすごく優しげで、心底安心させてくれる。
 矢崎の背は大きい。
 それに身を任せていると、足の痛みすら忘れそうだった。
 だからこそ、矢崎を苦しめることはできないと、固く誓う。
 矢崎からホースを受け取った谷部が懐中電灯で照らしながら先導し始めた。
 足場が悪い上に人を背負っている矢崎は慎重に足を進める。

 他の人の倍は時間をかけてようやく麓まで下りた時には、みんなが心配そうに出迎えてくれた。 

続く