古い年代物の木造建築物が、この町の役場だった。
所狭しと並べられた事務机の間をコード類が走る。
 つまずかないようにテープ等で止められているが、数ヶ月に一回は誰かがひっかかって派手な音を立ててこける。こけるついでに最悪、コンセントが外れ絶叫が響く。

「ああっ!!」
 今日はその当たり日だったらしい。
 真っ暗になった画面を呆然と見つめる女性職員にひたすら謝る同僚の矢崎真(やざき まこと)。
 周りからくすくすと笑いがこぼれていた。
 役場の受付のすぐ側だったので、待っている町民からも丸見えで、矢崎は頬を赤く染めてそそくさと電源復旧作業に入った。隠れるように床に這った配線を辿る。
 滝本智史(たきもと さとし)は、綻ぶ顔を隠そうともせずにそれを眺めていたが、ふとカウンターに人が来たのに気がついた。
 対応する人間が手が空いていないらしく、誰もそちらに向かわない。
 この役場では手が空いている者が率先して受け付けを行うよう指導されていた。町民は大切なお客様、という意識のもと、一昔前とは比べものにならないほどサービスがよくなったと評判だ。
「お願いします」
 智史がカウンターに辿り着くかどうかの時に声がかけられた。
 配線をひっかけないように下を向いていた智史は、その声に懐かしさを感じ顔を上げた。
「こんにちは」
 挨拶をしながら、相手の顔を窺う。
 どこかで……。
 とてもよく知っているような、だけどはっきりとしない。情けないことに智史は、人の顔をすぐ忘れる。ほんとに親しかった友人も時にはぽっと記憶から抜け出ていて慌てることがある。今回もそんな感じだった。
 差し出された用紙を受け取る。
 転入届に書かれた名前を確認して、はっと顔を上げた。
 髪が短くさっぱりとまとめられていて昔より落ち着いた感じはするが、確かに知った顔がそこにあった。
「深山(みやま)……」
 照れたように笑う彼が懐かしげに口を開いた。
「久しぶりだな、智史」
 深山裕太(みやまゆうた)と書かれた書類と彼の顔を見比べながら、智史はゆっくりと笑みを浮かべた。
「帰ってきたんだね」
「やっとな」
 高校卒業してから音信不通だった相手との会話は、智史に懐かしさとともにわずかな痛みも思い起こさせた。


 電話が鳴っていた。
 滝本誠二(たきもとせいじ)は、それを無視してがさがさと新聞を広げテレビ欄をチェックする。今日は見たいテレビがあったのだ。
 ぱたぱたと足音がして、音が止まった。
「はい」
 妻の幸(さち)の声が漏れ聞こえた。
 小5の大洋(たいよう)と小3の香苗(かなえ)は、居間ではやりのカードを並べて遊んでいる。楽しそうな声に、誠二は笑みを浮かべると新聞に目を落とした。
 と、
「ああ、矢崎さん、いつもお世話になっております」
 その声に、誠二は新聞を机に置いた。
 久しぶりだな。
 視線を電話の方に向けるのと幸が視線をこちらに向けるとが同時になった。
 幸の表情に、意味ありげな笑みが浮かぶ。
 しょうがないわねえ。
 そう言っているのがありありと分かり、誠二は口の片端を上げて答えた。
 立ち上がり、電話へと向かった。
「はい」
「ん」
 渡された電話の子機を耳に当てて口を開けた。
「もしもし」
『あ、誠二さん?矢崎です』
「ああ、何かあったのか?」
 挨拶も無しに切り出した。矢崎からの電話はたいていの場合、兄の智史絡みだった。だからこそ、単刀直入に問う。
 矢崎は智史と同じ職場に勤めている。勤めているからこそ、誠二は矢崎をその身体をもってして味方に取り込んだ。
理由は、智史に近づく者を排除するため……ただそれだけのために。
『深山が帰ってきたんです』
「みやま?」
 単刀直入に言われすぎて、ぴんと来なかった。
『深山裕太。俺と高校の同級生で、智史さんの……』 
 まさか、あいつ……か!
「帰ってきたって!」
 思わず叫んでいた。幸がびっくりして、誠二を見つめている。
『今日、転入届持ってきたんです。で、それを処理したのが智史さんで。で、その後、二人で話をしていたんです。ちょうど暇だったし』
 深山裕太……あいつが戻ってきた。
 誠二は奥歯を音がするほど噛み締めた。
「何の話をしていた?」
『そこまでは、はっきりと……。こっちの手が離せなかったもので……楽しそうでしたけど……』
 矢崎が少しトーンを落としながら話す。
 ちっ
 誠二は、内心舌打ちをした。
 深山裕太。
 誠二にとってもっとも忌むべき者。
 智史が高校にいるとき智史に近づき、誠二から智史を奪った者。
 それだけならまだ良かった。
 その間、智史は楽しそうだったから……それならいい、と思っていた。
 しかし、高校を卒業するとき、深山は智史を捨てた。
 東京の大学に行って、連絡も寄こさなかった。
 あんな落ち込んだ智史を見たのははじめてで、そして心底、人を憎いと思ったのもあの時がはじめてだった。
『誠二さん!』
 呼びかける声が耳に入り、誠二は電話中だったことを思い出した。
「矢崎。仕事の間、兄さんのこと見張っててくれ。奴と合うようだったら、すぐ俺に電話しろ」
『わかってますって。……それより、ね』
 矢崎が甘えるような声を出した。
 誠二は僅かに眉をひそめ、軽くため息をついた。
 こうなることは分かっていたから、口端を上げるだけの笑みを浮かべる。
「仕方ないな、お前は」
『だって、もう長い間……』
「わかった。じゃあ、これからでもいいか?」
『ええ』
 電話の向こうで、声のトーンがあがる。
『じゃあ、一時間ほどしたらお迎え行きますから』
「ああ」
 相変わらず単純だな。
 そう思うと、自然に笑みが浮かぶ。
 子機のスイッチを切って充電器に置く。
「あなた。何かあったの?」
 幸が近づいてきた。
「ああ、深山裕太、知っているだろう?」
 言われて幸は頷いた。
「智史さんの恋人、だった人ね」
 幸は誠二達の幼なじみだったため、誠二の弟たちより誠二と智史の事を知っていた。
「帰ってきたらしい」
 その言葉に幸は息を飲んだ。
「……それで、智史さんは?」
「すでに逢っている。転入手続きをしたのが兄さんだったんだと」
「そう……」
 幸は、中空を彷徨わせた視線を誠二に向けた。
「どうするの?」
「俺は、あいつを許せない。あの時、兄さんがどんな思いをしたのかわからせてやりたい。例え兄さんが許したとしても」
「そうでしょうね、あなたなら」
 幸はため息をついた。
 自分の夫がどれほど兄を大切に思っているか知っているから。
 仕事と子育てに忙しい両親に代わって、長い間すぐ下の誠二を面倒見てくれた優しい兄の智史。その優しい性格故に苛められやすかった智史を、いつからか一番勝ち気で強い誠二が守るように行動するようになった。
その時から誠二にとって、いくつになっても智史は、自分の大切な守るべき存在だった。
そんな誠二だからこそ、好きで結婚したのだから。
 下心のある男達から兄を守るために、必要とあれば自分の身体を投げ出してでも、男達を懐柔していることも。
 先ほどの矢崎もそうやって懐柔され、役場内の情報を逐一知らせてきているのだとも。そして、その代償として、夫誠二と身体の関係を持ち続けていることも……。
 それでも、幸は夫に止めろとは言えなかった。
 言う必要すら感じなかった。
 どれだけ誠二が兄 智史を大切に思っているか知っているから。
 誠二にとって、智史は実の両親よりも大切な存在だったから……。
 幸はずっと側にいて、それを見続けていた。
 嫉妬という感情はとうの昔に消え去った。
 これが誠二なのだ。
 何もかも知っていて、誠二と一緒になったことを後悔したことはなかった。
 だからこそ……。
 幸は、出ていく夫を笑顔で送りだした。


 家の前で止まった白いセダンに乗り込む。
「どこ行きます?」
 矢崎が笑顔を向けて尋ねる。
「どこでもいいさ。ただし、みつからない所にしてくれよ」
 田舎はちょっとした噂も広まるのが早い。
 男と寝ることを嫌だと思ったことはないが、それによって家族に迷惑がかかる事だけはしたくなかった。
 矢崎とて役場の人間として顔が町民に売れている。不要な噂の種にはなりたくない筈だ。
「わかってますって」
 矢崎は頷くと車を発進させた。
 山間の町とはいえ、30分も車を走らせれば隣の市街に出られる。
 しばらく二人とも黙りこくったままだった。
 カーステレオが野球の中継を流している。
 ハイテンションなアナウンサーの声だけが、車の中に響いていた。
「矢崎」
 口火を切ったのは誠二だった。
「はい?」
 正面を見たままにこっと笑うと矢崎は年より幼く見える。
 その笑顔が誠二は気に入っていた。
 今まで幾人もの男と寝たことがある。その中で矢崎との間はずっと続いていた。
 兄と同じ職場で便利に使える、から。
 ずっとそう思っている。
 しかし、矢崎の笑顔を見ると無性に心が落ち着くのを誠二は否定することができなかった。
 電話口での怒りに満ちた誠二の姿はここにはなかった。
「すまないな」
 ぼそっと小さな声で言う誠二に、矢崎はちらりと視線を向けた。
 誠二が何に謝っているのかは知っていた。しかし。
「何を謝っているんです?謝られるようなこと、俺しましたっけ」
 軽く言う矢崎を、誠二は見つめた。
 矢崎とてわかっている筈だ。
 自分がただ兄のためだけにつきあっている事は。
 それでも彼は、いつも笑う。笑って、誠二のいう事を聞くのだ。決して自分の物にはならない心のために。
 誠二は瞼を閉じると、シートに深く身体を埋めた。
 時折矢崎が誠二に視線を向ける。
眉を寄せ痛ましげな表情で……誠二はそれに気づかない。


「ん……んんっ!」
 誠二の俯せにされた身体がぴくんと跳ねる。
 両手を突っ張って仰け反った上半身に矢崎は後ろから手を回した。背骨に沿って唇を這わすと、微かに誠二の身体が揺れる。前に回された手が、胸の突起をつまみ上げた。
「っく!」
 感じやすい誠二の身体が震えるたびに、矢崎自身にも甘い痺れが伝わってくる。
空いている手を誠二の喉元からゆっくり上になで上げた。
「い……やあっ」
「いい声だ。もっと鳴いて欲しいな」
「……ああ……や、だぁ……」
「やなんだ。じゃあ、止める?」
 耳元で囁くように言って、手を外した。
 すると離れかけた矢崎の手を誠二は慌てて掴んだ。
 身体を捩り、潤んだ瞳で矢崎を見つめる。
「どうした?」
「やめ、ないで……」
 赤くなり視線を逸らす誠二に煽られるように、矢崎はその首筋に口づけた。
「んん」
 ほっとしたように身体から力を抜く誠二を、矢崎はその手で愛おしげに包み込んだ。
 ベッドの上の誠二は、普段のきつい口調からは考えられないほど、矢崎におとなしく従い、そして甘える
 最初の頃は、そうでもなかった。
 矢崎と誠二の関係は智史という利害関係で成り立っているのだから。
 どこか身構えている誠二に、矢崎の方が翻弄されていた。
 それほど誠二のテクニックは見事で慣れていた。
 いつからだったろう。
 他の男達は、ここまで誠二にのめり込まない内に別れるのだという。
 そういうふうに誠二が仕向けていく。
 利害関係が完全に一致していた矢崎だからこそ、こんなに回数を重ねることが出来たから、だから、気がついたのかも知れない。
 誠二が矢崎に従うようになったのは……たわいもないきっかけだったように思う。
 アルコールの取りすぎだったせいかも知れない。気がつくと矢崎の攻めにすすり泣く誠二がいた。
 離れないで、と泣きつく誠二が心底愛おしいと思った。そして、これが誠二の本当の姿なのだと矢崎は気がついた。強くなければいけない、という思いの中に隠された、誠二が忘れている甘えん坊の誠二自身。
 そしてまたある日。
 情事の後、誠二が夢の中で泣き叫んだ言葉。
 たった一度の事だけど耳から離れない言葉。
『僕を一人にしないでよ!』
 何に向かって言った言葉なのかは分からない。
 だが、その言葉とともに流れた涙は決して忘れない。
 だから矢崎はベッドの上だけでも、誠二の本当の心が出るように執拗に攻める。そうすると、本当の誠二が見えてくるようで……。
「愛しています、誠二さん」
 ベッド上だけで許された睦言を囁く。
 それに答えはないけれど……。
 矢崎は誠二の身体を仰向けに転がすと、痛い位に反り返った誠二のモノを口に含んだ。
 片手で後ろも攻める。
「あっ……んくぅ…・」
 誠二の手が白いシーツを強く掴む。
 眉を寄せ、痛みに耐えているかのような表情に矢崎は煽られて、誠二のモノを強く吸い上げた。
「ひい!」
 目を見開き慌てて矢崎の頭を掴む手を無視して、強く扱う。
「あ、やだっ!……もう、だ、め……」
 絶え絶えに漏れる言葉に、矢崎は口元を歪めると、そのざらりとした舌で一気に誠二のモノを擦り上げた。
「あっ!やっ」
 誠二が手に渾身の力を込め、矢崎の口から誠二のモノを抜き出した。
 無理に引き抜いたせいで歯が敏感な部分に当たる。
「っ!」
途端、吹き出した白濁した液が、矢崎の顔を汚した。
矢崎は痙攣する誠二のモノにそっと口づけると、上目遣いに誠二を見上げた。
 誠二は肩で息をしながら、矢崎を見下ろしていた。
「口の中でもよかったのにね」
 矢崎が笑いかける。頬から喉に垂れる白い液が淫猥な彩りを添え、誠二はごくりと息を飲んだ。
「誠二さんは、こういう時は遠慮するんだから……」
 矢崎が頬についた誠二のモノを手に取ると、それを舌を出してぺろりと舐める。
 それを見た途端、誠二が全身を真っ赤に染めた。
「どうしたの?赤くなって……恥ずかしいのかな?」
 からかう矢崎に誠二は、そっぽを向いた。
「矢崎は、俺の嫌がるばかりするからな」
 怒っているようで、その口調は弱々しい。
 強がりなのが分かっている矢崎は、にこっと笑みを浮かべた。
 その笑顔を誠二が好いていることを十分知った上で。
 案の定、誠二の動きが止まる。
 矢崎はそっと誠二の上に被さっていった
「今日はたくさん楽しみましょうね」
 耳元で囁きながら、耳たぶを甘噛みする。
「……ばか……やろ」
 眉をしかめる誠二に、矢崎はその手をそっと誠二の後ろに伸ばす。
「でも、ここはそうでもなさそうですけど、ね」
「んあっ」
 そこはずっと加え続けられていた刺激に充分ほぐされていて、難なく矢崎の指を飲み込んだ。
「あいかわらず熱いね、この中は……」
 独り言のように呟くと、矢崎はもう一本指を増やした。
「くっ!」
新たな刺激に誠二が手を固く握った。途端シーツに新たな皺ができる。
矢崎は、ゆっくりとまさぐるように指を動かす。
何度も抱いた身体。
どこを刺激すれば誠二に快感を与えることが出来るか、はっきりと分かっていた。だから、そこを焦らすかのように指を動かす。
「はあ……ああん……」
 もどかしい刺激に誠二は無意識のうちに腰を動かした。
「あ、や、ざき……」
 顔を上げ、矢崎を見つめる誠二の目は赤く染まり、涙を蓄えている。
 先ほど放出したばかりの誠二のモノは若々しく起立していた。
「もう?」
 口の端を上げて問いかける矢崎に、誠二は真っ赤になって俯く。普段は白い首筋が可哀想なくらい赤く染まっていて、それが矢崎をさらに興奮させる。
「いきますよ」
 耳元で囁く。
誠二の身体がびくんと震えた。
泣き笑いのような視線を矢崎に見せる。
どうして、こんな目をするのだろう……。
矢崎はいつも思う。
セックスの時に誠二が甘えだしてから、必ず見せるようになったその視線。
その視線を向けられると誠二を無茶苦茶にしたいような感情に堪らなくなる。嗜虐心を煽られるのだ。
だけど、そんなことはできなかった。
愛されてつきあっている訳ではない。嫌われるようなことをすれば、切り捨てられるだけだから。
そんな思いが矢崎を踏みとどまらせる。
たまらないよ、誠二さん!
 矢崎は小さく息を吐いた。
このまま乱暴に押し切りたい感情を、それで抑えた。
矢崎は、手を誠二の太股に添え高く上げさせた。
 矢崎の固くなったモノが誠二のほぐされた蕾にあてがわれる。
「や、ざき……」
 ぽつりと呟く誠二。矢崎は軽く頷くと、一気に押し進めた。
「くっ!」
 何度受け入れても慣れることのない痛みが背筋を通り脳天を貫く。
 だが、それさえも後から来る快感を思い起こさせ、誠二は身を震わせた。
 その刺激はそのまま矢崎に伝わる。
「あ、ああ、誠二さん……」
 苦しげな矢崎に誠二はうつろな視線を向ける。
「や、ざ……き……」
 決して名前では呼ばない。
 誠二は、いつもそうしてきた。これは取引。智史を守るために……。
 だけど……。
 最近、誠二は矢崎と抱かれたがっている自分に気がついてた。
 今回のように長い間空いてしまうと、気がつくと矢崎の事を考えていたりする。
 矢崎は今までの誰よりも優しくしてくれるからだろう。
 その優しさが心地よい。
 だけど。
 誠二の頭の中の冷静な部分が警告する。
 これは取引なのだから。
 愛して愛されての関係ではない。
 誠二が彼に思いを寄せることは出来ない。そんなことをすれば、この関係は崩れてしまう。
 矢崎のように智史のすぐ側にいられる人間で、誠二とつき合ってくれる人間を見つけるのは、こんな田舎では難しい。だから、離すわけにはいかない。
 誠二は、だから決して名前で相手を呼ばない。呼んでしまえば惹かれてしまっている事が見抜かれそうで……。
 誠二は、そんな思いを振り切るように自らの身体を動かした。
 矢崎も煽られるように動かす。
「ん……はあ……ああ……」
「……せ……いじ……さ……」
 眉を寄せ必死で耐えている矢崎に、誠二は笑いかけるように口元を綻ばせる。
 それが引き金になった。
 激しい律動が誠二の体内を震わす。
 そして、誠二も……。
 
 二人の思いが微妙なラインを描いて、接触することなく交錯する。




 智史の様子は代わりがないように思えた。
 たまに会いに行くと、屈託のない笑みを浮かべる。その笑みは子供の頃から変わらなくて、いつも誠二を安心させる。
「明日、恵が来るって」
 開口一番そう言った智史は、随分と嬉しそうで、誠二もつい笑みを浮かべた。
 末っ子の恵は、近隣の市街で一人暮らしをしている。
 年の離れた弟は、感情表現が豊かで兄弟一の人気者だった。小柄なのに元気は一番。愛くるしい顔で、大人達の人気をさらう。しかし、そんな自分の持ち味を生かして、上手に利用していたのを、智史は気がついていたのだろうか?
 気づいていないだろうな。
 誠二は苦笑いを浮かべた。
 恵がたかる相手は、だいたいにおいて三男の優司だった。長兄に似て、おっとりとした性格の優司は、恵のいいかもだった。
「何でも、友人とこの近くに遊びに来るんで寄ると言っていたよ。泊まるようには言っておいたから」
 智史の楽しそうな声に、誠二も頷く。
「OK。じゃあ、明日の夜は宴会だな。楽しみだな」
 言っては見たものの、実は言うほど楽しみではなかった。
 恵は、どちらかというと自分に似ている。
 素直で感情豊かなくせに、隠れて計算ずくで動く所がある。
 それに気がついてしまうと、どうしても恵が何かをたくらんでいるのではないかと勘ぐってしまうのだ。
その点、三男の優司は、そのおっとりとした殻に閉じこもりがちな性格は、誠二がからかうのに絶好の相手だった。
あいつが来ればいいのに。
「優司は?連絡ないのか?」
 ふと智史に問うてみる。
 優司は、もう一年近く顔を見ていなかった。
「そうだな。特に連絡はないけど……元気にやっているんじゃないか?」
 さして気にとめていない智史に、誠二はこっそりとため息をついた。
 逃げているな。
 優司の行動パターンは不思議と読める。少し、苛めすぎたなと反省はする。だが、どうも優司の顔を見ると苛めたくなる。
そんな誠二に幸は、両親の愛情を一番まともに受けた優司に対してひがみがあるのよ。と、からかう。
そうかも知れない。
不思議なことに両親は、その後に生まれた恵には割と放任主義だった。
 4人目こそは女の子を、という期待を裏切られたせいかも知れない。
恵は本来「めぐみ」と読ませて女の子につける予定だった名前だ。
さすがに「けい」と読ませることにしたが、それでも両親は末っ子にはあまり構わなかった。
もっとも可愛がられた優司と放任された恵を見ていると、放任された方が良い育ち方をたなと思う。別の意味で放任されていた誠二自身、実は内心ほっとしたものだった。
だが、優司も可愛い弟には違いない。
 ったく、たまには顔を見せて欲しい。
からかうには絶好の相手なんだけど……。
誠二はため息をつくと、智史に向き直った。
できるだけさりげなく、質問を投げかける。
「ところで兄さんは、最近変わったことないのか?」
「何で?」
 小首を傾げながら反対に問い返されてしまう。
「い、いや……何でもないんだ。ちょっと聞いただけ」
 深山の事を聞きたかったが、面と向かって聞くのもためらわれた。
 深山がこのままちょっかい出して来ないんだったら、気にすることもないか。
 そう思っていたことも理由の一つだった。
 あれ以来、矢崎は何も言ってこない。
 役場で会ったのは、ただの偶然だったのだろうか?


「恵くんのお友達って、格好いいわねえ。背が高いし」
 幸がそう言うのを聞いて、誠二は不機嫌そうに睨み付けた。
「どうせ俺は背が低いよ」
 すると幸と智史の奥さんの理恵がけらけらと笑った。
 智史と両親が暮らしている昔ながらの家の広い台所で、幸と理恵が料理の仕上げをしている。そこへ誠二が様子を見に言った途端、話しかけられた。
「滝本家の背が低いのは遺伝なんだから、どうしようもないでしょ。ま、顔はタイプは違うけど、皆いい男揃いだけどね」
 幸が言うと、理恵も頷く。
 この二人は、親友同士だった。
 幸を通じて理恵と智史は知り合ったのだ。
 この二人が結託すると、滝本家はこの二人に牛耳られていると言っても過言ではない。
嫁には嫁の言い分があるから、とよけいな事には口出ししない母の影響もあるだろう。
 今日は二人が腕によりをかけて作った料理が並んだ。
 恵が連れてきた相手は、篠山義隆と言った。
 誠二は、彼の様子を思い出して顔が綻ぶのを止められなかった。
 昼間は何でも恵につれられて、アスレチック広場に行ったらしい。
 どう見ても頭脳派タイプの日に焼けていない肌を持つ彼には似合わない場所だった。
 しかも、たぶんいきなり連れてこられたのだろう。
 どう見てもとまどってどうしていいか判らない、と言った感じだ。
「しかし、なんだかんだと言っても、良さそうな人だよな。今父さんと話をしているんだけど、結構話が進んでいるし」
「あら、よかったわ」
 理恵がほっとしたように言った。
 滝本家の父親は、決して難しいタイプではないのだが、何せ口べたなのだ。なかなか話が弾むことはない。こういう客が来ると一番に浮いてしまう義父を、理恵はいつも心配していた。
「篠山さんが気を遣ってくれているんだよ。恵もフォローしているし」
「恵くんはお義父さんのお気に入りだものね」
 口の端を上げて誠二を見る幸の目は笑っていない。
 それに気づいた誠二は苦笑いを浮かべた。
「あいつは昔から大人受けするタイプだからな」
 自分がどういう態度をとれば相手に好印象を与えるか理解して行動するタイプ。
 誠二と似て非なるタイプだと、幸はいつも言う。
 幸と理恵は、にぎやかに笑いながらできあがった料理をお盆に乗せていった。
「はい、持っていってね」
「はいはい」
 誠二は渡された盆を持って、宴会場と化した座敷に持っていく。
 座敷で父親と対峙して酒を飲んでいる篠山は、確かにいい男の類に入るだろう。見た目も、男らしく滝本家にはない魅力がある。すらりとした身長は、誠二達が望んで得られなかった最たるものだ。
 せめて身長があれば、ここまで男になめられることはなかっただろう、と智史と話したことがある。
 こうやって座っていても一人大柄な——決して大きすぎるわけではないのだけれど——篠山は、目立つ。
 いきなり連れてこられて、機嫌のいい筈は無いのだろけどにこやかに笑い会話する篠山は、両親に良い印象を与えているようだ。
「優司はどうしているかな?」
 父親の問いに、誠二や智史達の視線が一斉にそちらに集中する。
 恵が紹介した時に、優司と同じ会社の人間だと言っていたからだ。
「元気ですよ。同じ部ではありますが、やっている内容が違うので一緒に仕事をするという事はあまりありませんが、たまに会議などで一緒になると、仕事に厳しく対応している所などがありまして、こちらもたじたじになることもあります」
「ほお、あいつがなあ」
 父親がどこか遠くを見ながら首を傾げた。
 きっとそんな優司が想像つかないのだろう。
 誠二にもあまり想像つかなかった。誠二の印象の優司は、いつも静かで流されるように暮らしている。どこか年寄りじみた奴だった。
 社交辞令もあるのだろうな。
 どこか丁寧な言葉遣いは——当然なのだろうけど——それでも、どうしても仮面をかぶっているような印象を持って仕方がなかった。
 何かを隠しているような気がする。
 後で恵から聞き出そうか……。
 篠山の側で、彼と父親の会話に相づちを打っている恵が、篠山に気を遣っているのが判る。
 たまに恵が篠山に向けて話しかけ、それに対し返事をする篠山の表情がほっとしたように崩れる。既にアルコールの回った父親は気づかない、そのわずかな変化に誠二は気がついた。
……恵はなぜ彼を連れてきたのだろう。
 誠二はふと頭に浮かんだ疑問に、捕らわれてしまった。
 近くまで遊びに来るので実家に寄るのに都合が良かったとは言っていたが……どうもその辺りの事を相手に言わずに来た事は最初から気がついた。隠しきれない動揺が篠山の表情を覆っていたからだ。
 だが、考えてみたら友人なのだからそう言えば良いだろう。それで相手が難色を示したら、別の日に恵だけが来ればいいし、泊まらずにそのまま帰っても良いはずだ。
 まあ、泊まる件は智史が強引に決めたのだろうけど。
 それにどうも篠山のイメージがアスレチックなどと結びつかない。
 気の添わない場所に連れてこられて黙っているようなタイプなのだろうか?しかし、二人だけなのだから、そんな文句ははっきり言うだろう。少なくとも優司のように内にこもるタイプではない。
 誠二はそんなことを考えながら、二人を観察していた。
 この二人の関係がただの友人では無いような気がしてきた。



 宴会が開け、恵が篠山を部屋に案内していった後、誠二と智史は二人でまだ飲んでいた。
 父親は酔いつぶれて部屋に戻ったし、女性陣も子供達を寝かしつけるために行ってしまった。
 ここには二人だけだった。
「兄さん。恵と篠山さんのことなんだけどね……」
 誠二は気になっていた事を口に出す。
 智史はふっと誠二を見つめ、そして手元のコップに視線を移す。
「気がついたか?」
 穏やかな言葉に、しかし、誠二ははっと視線を向けた。
「やっぱり、そうなのか?」
 誠二は途中から二人の仲が普通ではないのではないかと気がついた。
 そして、智史もそうだったらしい。
「何となくね。彼が恵を見る目はね、ただの親友を越えているような気がしたよ。俺達は、お互いにあんな視線を向けられた事があったろう?」
 智史の言いたい事は判った。
 誠二はこくんと頷くと、コップに口をつけた。
 こくりと飲み込む苦い味に、高校時代にやった酒盛りを思い出す。
 あの時、智史と深山、幸、誠二、そしてもう一人——当時の誠二の恋人——山本がいた。
 誰一人今の関係がその内壊れていくなどと思ってはいなかった頃。
 山本は、いつもあんな目をして自分を見ていた。
 愛している。
 言葉以上に思いを込められたその瞳。
 行く道が別れたときに関係を清算したけれど、その彼が誠二にとって今でも唯一の恋人と呼べる相手だったと言える。
 もう今の家族と彼以外に愛しているなどと言うことはないだろう。
 そしてもう二度とあんな視線を誠二に向ける男など……。
 ふっと矢崎の顔が浮かんだ。
 コップを持つ手に力が入る。液面がゆらゆらと揺れた。
 『愛してる』
 言葉とともに矢崎の笑顔が脳裏に浮かんだ。
 違う!
 あれは、セックスを飾るための言葉に過ぎない。
 取引で成り立っている関係なのに、俺があいつに愛されているわけなどないだろうが。
 堅く目をつぶり、そして開く。
 コップに残っていたビールを一気に煽ることで、脳裏に浮かんだ映像を押しやった。
 もう、俺は家族以外誰も愛さないし、愛されもしない。
 男とのセックスは取引なのだから……。
 険しい顔をした誠二に智史はいつものやんわりとした表情で問いかける。
「彼は、どうするんだろうね……」
「さあ……どうなったってもいいんじゃないか」
 智史が言いたい事は判った。
 俺達は別れてしまったけれど…・…恵はどうなるのか……誰も判らない。
「なあ、恵と話しないか…・…って言ってもさ、その話じゃなくて、兄弟水入らずで」
 誠二の提案に智史も頷いた。
 誠二は立ち上がると離れへと恵を呼びに行った。


 結局、恵を交えて明け方まで話し込んでしまった誠二は、座敷の座布団の上で目を覚ました。
 智史は自室に戻っていたし、恵も篠山の所に戻ったのだろう。
 そこには誠二一人だった。
 ぼおっとした頭を左右に振る。
 そういえば。
 顔がにやけてきた。
 あのこまっしゃくれた恵が、篠山のこととなると不思議と表情を作れないのだ。
 結局恵は白状した。篠山との関係を。
 その場で、優司にも男の恋人がいるのが判った。
 滝本4兄弟、揃いも揃って……。自嘲めいた笑みが口元に載る。
 だが、それならそれでいいではないか。
 滝本の跡継ぎは男女あわせて4人も出来ている。今更、弟たちが結婚できまいと、そんな事はどうでもいいことだ。あいつらはもうここに定住するためには戻ってこないだろう。
 この家は、遠からず智史のものになる。
 そして、側には誠二がいる。
 たまに帰ってくればいい。
 元気でいてくれれば、何の問題もないだろう。
 誠二は気楽に考えることにした。
「よっとっ」
 かけ声をかけて立ち上がった。
 くらっと視界が狭くなって、慌てて座卓に手をついた。
「飲み過ぎたかなあ…・…」
 立ちくらみが納まるまでじっと待つ。
 遠くでベルの音がしていた。
「耳鳴り……じゃないな」
 誠二は俯いていた顔を上げた。
 これは電話の音だ。誰がこんな朝早く……。
 ぱたぱたと足音がし、玄関近くの電話に誰かが出たようだ。
 誠二は帰るつもりで玄関へと向かった。
「あ、おはようございます」
 電話に出ていた理恵が子機を持って誠二の横をすり抜けた。
「あなたっ!深山さんから」
 途端、誠二の体がぴたりと止まった。
 信じられない思いで、振り向く。
「ほら、早くしてよ」
 寝ぼけ眼の智史に理恵は笑顔で電話を渡す。
「はぁい。ああ深山さん、何?」
 楽しそうな智史の声が耳を打つ。
 と、
「誠二さん?」
 立ち止まっている誠二に理恵がいぶかしげに話しかけてきた。
「どうかしたんですか?」
「え…・…いや」
 誠二は、何でもないというように首を振った。
 と、思い直す。
「今さ、深山って言ってたけど、彼はいつも電話してくるの?」
「深山さんですか?そうですね、最近になって割と、何でも高校の時の友人なんですってね。いつも楽しそうですよ」
「そうかあ。深山って聞き覚えがあるなって思ったけど、そうだったのか」
 誠二は軽く手を挙げて礼を示すと、玄関から出ていった
 理恵は高校の時の二人を知らない。理恵と智史が知り合ったのは高校を卒業してから。  
 落ち込んでいる智史を元気づけるために、幸と理恵、そして誠二と智史の4人で遊びに言ったのが始めての出会い。
 にしても…・…。
 自宅で直接連絡を取っていたのか。道理で矢崎から何の連絡も無いはずだ。
 しかし、考えてみればそうなのかもしれない。
 どうみても智史は過去のわだかまりなど無いような、そんな話しぶりだった。
 誠二は、何とも言えない思いで智史の家を見つめると自宅へと足を向けた。
 まさか、盗聴器をしかける訳にもいかないよな……。
 そんな事を思いながら。



 休み明け、会社に出勤した誠二はスーツの上着を椅子にかけるとどっさりと腰を下ろした。
 事務機の流通管理をする会社で、誠二は製品第二管理チームのチーフだった。
 習慣になっているコンピュータの電源を入れる。
 ちらほらと事務所に人が増えてきた。
 この近辺に出来た唯一の大きな会社であるから、現地採用者も多い。誠二のチームも半分が地元の出身だった。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
 管理チームを束ねる課長が挨拶をしながら近寄ってきた。
「滝本くん。頼みがあるんだが」
「はい?」
 誠二は椅子から立ち上がった。
 朝からかったるい。
 内心そう思ったが、課長の頼みを断るわけにはいかない。
「実は今日から配属された人がいるんだが、私は朝から会議でね。相手が出来ないんだ。それで2時間ほど君が業務説明して欲しいんだ」
「あ、はい。分かりました」
 目下急成長中の会社なので、こういう中途採用がたまにある。
 やっと全体教育が終わって、部門教育を兼ねて仮配属されたのだろう。
「ああ、来たな。彼だよ。深山裕太くんだ」
 課長が指さした人を見て、誠二はぐらりと傾く身体を支えようと手をついた。
 机の上から、書類が音を立てて落ちる。
「どうした?」
 不審そうに言われて、慌てて書類を拾い上げる。
「その知っている人だってんでびっくりしました」
 正直に言うと、課長は理解したと頷いた。
「彼はUターン組だそうだから、そうだよな。知っているかも知れないとは思ったが……ああ、深山君、申し訳ないが私は会議があるので彼に説明を受けて欲しい。知り合いらしいが……」
「はい。彼のお兄さんと友人です」
 深山は、にっこりと笑って言った。
 そこには警戒のかけらも伺えず、誠二は自分がどういう態度をとればいいのか判断つきかねた。
「そうか、ちょうどよかった。じゃあよろしくな」
 肩をぽんと叩かれ、誠二は呆然と課長を見送った。
「滝本さん、深山です、よろしくお願いいたします」
 涼やかな笑みを浮かべて手を差しのばされ、誠二は渋々と手を差し出した。その手を握り返される。
「よかったです。滝本さんと一緒に仕事できて」
 どう見ても本心からの言葉に、誠二は内心戸惑いを隠せなかった。
 その言葉遣いも今のスーツ姿も、昔とは全く違った落ち着いた雰囲気を見せていた。
 誠二は仕方なく深山を打ち合わせ室に案内する。
 席につき、開口一番で誠二は聞きたかったことを尋ねた。
「深山さんは、どうしてここに帰ってきたんですか?」
 ともすれば爆発しそうな思いを堪えて、冷静になろうと努力する。
「父が、倒れたんですよ。私は、長男ですからね。もともと帰ってくる予定だったんです。妻もそのつもりでいてくれたし」
「結婚……されていたんですか?」
「ええ。もう5年かな。子供も1人いるんです」
 照れたような笑いに、誠二は思わず顔が綻んだ。
 こんな顔もするんだ。
 それは智史もよくする父親の顔だった。
「あ、ああ、やっと笑ってくれましたね」
 心底嬉しそうな深山に、誠二は戸惑いを隠せなかった。
「さっきからずっと睨まれているようで、少し怖かったですよ。何せ、滝本さんの昔を知っていますからね」
 言われて苦笑いを浮かべた。
 それにしてもこれはどうしたことなのだろうか?
 もし逢えたら、一発くらい殴ってやる、と思っていた。が、まさか会社で喧嘩沙汰を起こすわけには行かない。
 それでなくても田舎に根付いた数少ない就職先だ。今更それを棒にする気にもなれなかった。
「前はどちらに?」
 当たり障りのない話題を選ぶ。
「東京にいました。大学が東京だったんです。そこで営業をやっていました」
 営業か……。
 今の雰囲気はその会社で培ったものなのだろうか?
「滝本さんは、ずっとこちらだったんですか?」
「はい、そうです。高校を卒業してすぐ入社しました」
「ああ、そうだったんですね。先日智史……お兄さんに会ったときに、滝本さんの話も伺いました」
「……」
 智史は、いったい何を話したのだろう。
 窺うように視線を向ける。
 あの時。
 智史は何も言わなかった。
 だけどあの落ち込みようは、そして、深山が東京に行ってしまったと聞いた時に、深山は智史をふったのだと思った。
 だから、あの智史をあんな風に追いつめた深山が憎いと思った。
 なのに、何故俺はこんなところで和やかにこいつと話をしなくてはいけないんだ?
「滝本さん……。私を恨んでいるそうですね」
 ぽつりと言われて、誠二は一瞬耳を疑った。
 こいつは、いったい何を?
「智史に聞きました。いまだに、心配してくれていると……」
 ばっかやろー!
 心の中で誰かに叫んだ。
 それは目の前の深山へか、それともそんなことを話した智史へか……。
 だが、こんなところで感情的になる訳にはいかない。
 机の下で固く拳を握って、誠二は呼気を整えた。
「あなたは私に恨まれるようなことをした、と思っているのですか?」
 努めて冷静に問い返す。
「……私自身は恨まれるようなことはしていないと思います。しかし、勘違いされているかも知れないとは思いましたけどね」
 真剣な表情で誠二を見つめる。
「勘違い、ですか?」
 何の事だ?
 俺が何を勘違いするって……。
「私は智史を振ったりはしていませんから」
「!」
 がたんとどこかで音がした。
 それが立ち上がった拍子に椅子が倒れた音だと気づくのに数秒を要した。
 机に手を付き睨み付ける誠二を深山は悠然と見上げた。
「振られたのは私の方だったんですよ……」
「そ、んな馬鹿な……」
 誠二の声が震えていた。
「卒業式の日にね、遊びの時間は終わったんだよってね、言い出したのは智史の方だったんです」
「嘘……だ……」
「嘘じゃありませんよ。智史さんが誠二は勘違いしているはずだから、と言っていましたから。私は、どうしてその勘違いを解いてくれないんだって言ったんですけどね。智史は、黙って笑っているだけなんです」
 吐き出された吐息がため息のように思えた。
 確かに誠二達が何を言おうと、智史は肯定も否定もしなかった。
 だから、誠二達が考えたストーリーの通りだと思いこんだ。
 深山が智史を手ひどく振ったのだと……。
「どうして、兄さんはあんたを振ったりしたんだよ。あいつ、あの時あんなに落ちこんでて、見ていられなかった」
 3日間。
 智史が浮上してくるのに、3日間かかった。
 あんな見ていて歯がゆくなるように思い、二度としたくなかった。
 だから、今まで以上に智史を守ろうと……理恵を紹介して貰ったのだって、そんな思いが会ったのだ。
 もう智史に男は近づけない。
 いつまでも智史だけを見てくれるような女性なら許せる。
 それ意外は近づけない。
「……私のためかな。私があの時、離れたくないって言ったから……」
 離れたくない……。
 その一言で、誠二は智史の心を理解した。
 したくはなかったけど……でも、それは誠二自身も経験した心の痛みだったから。
 恋人だった山本と高校卒業と同時にその恋を精算した。
 お互い離れたくはなかったが、将来の進む道が違っていた。
 だったら、お互い笑って離れようって……二人で言ったのだ。
 離れたくはなかった。だけど……離れずにはいられなかった。
 愛しているからこそ、大切に思いたいからこそ……。
 そんな思い、誠二は忘れていた。
 智史もそうだったのだろうか。
 自分たちの時とは違うのは、それがお互いの了解ではなかったということ。
「……兄さんは、全てを自分で背負い込んだのかよ」
 誠二達のように二人で分かつ訳ではなく、全ての思いを一人で。自分を悪者にして……。
 信じられなかった。
 だけど、それが真実だと頭は理解していた。
 それが智史なのだから。
「大学を卒業して就職して結婚して……ずっと智史のこと恨んでいた。私は本気だったから、遊びだと言われたことに……でも、帰ってきて会って、そしたら恨んでいる気持ちなんか吹き飛んだ。凄く逢えてうれしかった」
 遠い目をしている深山に、誠二はうつろな視線を向けた。
 恨む。
 人を恨むのがどんなに苦しいことか……誠二も今の今まで恨みを抱いていた。
「智史もうれしそうで……そしたら前のように話ができるんだよな。もう恋人ではなくなったけど、だからこそもっといろんな話ができるんだよ。誠二くんの事も恵くんの事も優司くんの事も、みんな聞いたよ」
 げげげっ!
 何考えてんだよ!
 誠二は智史の笑顔を思い出し、頭を抱えた。
 考えてみれば、いつもの笑顔の下に隠されている事は推し量ることすら出来ない。
「俺……兄さんに振り回されていたのかなあ……」
 智史はわざと誠二には言わなかったのだろうか……。
 ぽつりと呟いた言葉に深山が片目をつぶってみせた。
「昔つき合っていた時に思ったけど、あいつ、結構根は意地悪だよ。兄弟なのに気が付かなかったのかい?」
 意地悪……。
 そんなこと、微塵も窺わせなかったぞ。
 兄弟中一番の意地悪の汚名は、常に誠二のものだった。
「何かとんでもないことを仕掛けているんだ、油断すると。後々から効いてくるような……あいつ怒らせると厄介だった。1週間前の出来事が尾をひいて、テストの邪魔されたことだってあるよ。まあ、笑ってすませる程度にしてくれるけど……」
「そんなこと初耳だ。いつも兄さんは俺達の前では穏やかで、あんまり怒ったとこなんかみたことがなくて……」
 がたんと椅子を起こした。
 考えてみると、後にも先にも智史が感情で動いたのは、あの時だけだった。
 いつからだろう。
 小さい頃はよく泣いて、誠二がかばったりしていたのに……。
「智史は本当に何も言わなかったのか?私たちが別れた原因を……あれからずっと……」
 深山が何か考え込みながら、誠二に問う。
 誠二はただ頷いた。
「……復讐か……」
 暗い思いが込められた言葉が、深山の口からこぼれ落ちた。
 誠二がはっと深山を見る。
「あいつは、子供の頃の復讐をしているのかも知れない……」
「どういうことだ?」
 誠二の問いに深山は答えない。
 頭を振って、何も言わない。
 

深山の言葉が脳裏に染みついて離れない。
「復讐」という暗い言葉が、離れないのだ。
 深山と別れた原因を何も言わずに、誠二達に深山を恨ませた原因は何だろう。
 だが、どう考えても智史とその暗い言葉がつながる気配はなかった。
 気のせいなんだ。
 何か言いたくなくて何も言わなかっただけだ。
 もしかするとあいつの言葉の方が嘘かも知れないし……。
 誠二は、無理矢理自分を納得させようとしているのに気が付いていた。しかし、そうでもしていないとまた暗い考えに自分が向かっていきそうだった。
 深山と智史は結局よりが戻ったのだろうか。
 昼間の様子では、親友に戻ったのだと言っていた。
 理恵に様子を聞くという手もある。
 しかし、幸のように理恵が何もかも知っているなら話は早いが、理恵はまるで何も知らないのだ。智史が働きはじめて1年後に結婚した二人は、いつまでも仲がいい恋人どおしのようで、その家庭は笑いが絶えなかった。
 理恵が何も知らない以上、理恵を巻き込むわけにはいかない。
 そんなことをすれば、さすがの幸も怒るだろう。
 誠二は幸の笑顔が歪むことだけはしたくなかった。
 誠二の智史への思いのせいで、幸には我慢をさせていることも多い、と思う。
 自分が何をしているか全て幸にはお見通しなのだから。
 何故何も言わないのだろう。
 夫が男と浮気しているのは女として屈辱なのではないのだろうか?
「何を考えているのかしら」
 楽しそうな口調が振ってきて、誠二は仰け反った。
 今考えていた相手である幸が、ソファの横に立っていた。
「寝てたんじゃないのか?」
「子供達はね。それで、何を考え込んでいるの?」
「別に」
 いたずらしているところを見つかった。そんなバツの悪さを感じて、誠二は拗ねたようにそっぽを向いた。
 くくくと喉の奥で笑いを堪える幸をじとっと上目遣いに見る。
「もしかして、少しは私のこと気にしてくれているの?」
 笑顔の幸に、誠二は言葉に詰まる。
「図星?」
「……」
 何も言わずに床を見据える誠二の隣に幸は座った。
「理恵から電話があったの。深山さんってしょっちゅう電話してくるみたいね」
 誠二はふっと幸の横顔を見つめた。
「あのね、理恵は深山さんと智史さんのこと知っているのよ」
「ま、さか……」
 誠二は、あまりのことにそれだけ言って絶句した。
 どうして……。
「智史さんが話してくれていたそうよ。結婚する前にね。高校の時に男とつきあっていたことも、その相手のことも、どうして別れたかも……きっと私たちよりずっと智史さんの気持ちを教えて貰っている……」
 智史はどんな思いで理恵に話をしたのだろう。
 俺達には決して話そうとしなかったあの別れの原因も話したのだろうか?
 きっと理恵を大切にしたくて、だけど黙っていることもできなくて、それで話してしまったのだ。結婚前に話しておけば、まだ間に合う。
 理恵がそれを嫌って別れてもそれは仕方がないと割り切る奴。
 智史はそういう性格なのだ。
「知っていたのか……」
「ね、会社で何かあったの?帰ってきてから様子が変だわ」
 誠二はちらりと幸を見、それから手元に視線を移した。
「深山が俺の会社に就職した。たぶん同じチームになる」
 幸は目を見開き、じっと誠二を見た。
「まさか、会社で乱闘騒ぎ……していないわよね」
 窺うような言葉に、誠二は下を向いたまま苦笑を浮かべる。
「高校の時ならいざ知らず、今の地位をみすみす棒に振るわけには行かないだろ。会社で喧嘩騒ぎなんか起こしたら、あっという間に平社員だぞ。上に昇りたいとは思わないけど、勤続年数に見合った地位にはいたいからな」
 地位はそのまま給料の差になる。
 それが下がることは痛い。
 これから教育費は鰻登りに高くなる。子供達が大学に行きたいなら行かせてやりたい。
 いい加減、智史だけにかまけてはいけない時期に来ている事には気づいていた。
 いや、結婚したときから割り切らなくてはいけないことだった。
 誠二はため息をつくと、今日の会話を幸に話した。
 別れ話を切り出したのは、智史であることを……。
 目を見開き、動揺を隠せない幸はゆっくりと誠二に尋ねる。
「どうしたいの、あなたは?」
「俺は、どうしたいんだろうな」
 矢崎から深山が戻ってきたことを聞いたのがつい先日のような気がする。
 あの時に起きた怒りが、ここまで簡単に萎えるとは思わなかった。それほど、今日の深山は好印象を与えたのだ。
「あなたはずっと深山さんが許せなかった。私だって……あの時、智史さんがどんなに落ち込んでいたか、今でもはっきり思い出せるから」
 誠二はその時のことを思い出して、奥歯を噛み締めた。
 別れた日、智史は自室に閉じこもって出てこなかった。
 3日間。
 ほとんど食事も取れないくらいに落ち込んでいた智史を見たとき、誠二も幸も何もする事もできなくて、じっと見ているだけだった。
 やつれていく智史を前にして、力も言葉も何も役に立たなかった。
 結局智史は自力で復活した。
 いつものようにおだやかに笑って何か吹っ切れたような智史に、誠二も幸も何も聞くことは出来なかった。
 深山とはそれっきり連絡もとれなくて。
 だから、本当にあの時二人の間に何か会ったのかは知らないのだ。
 だから勝手に深山を悪者にした。
 深山だけでない。
 智史に下心をもって近づく奴は許せない。
 もう二度とあんな目に智史は合わせない。
 田舎だから、そんな人間は都会に比べればはるかに少ないだろう。
 それでもいない訳ではないのだ。
 だが。
 今日の深山の話では、別れ話を切り出したのは智史の方だと言う。
 しかも、かなり手ひどい別れ話をしたらしい。
 なぜ、智史はそのことを誠二達に言わなかったのだろうか?
「復讐、だって言われた。どういうことか、詳しくは話してくれなかったけどね。それも気になってるんだ。兄さんは、俺達に何かしようとしたのだろうか……だから話さなかったのだろうか……」
 復讐しようとすると原因があるはずだ。
 だけど、その原因は全く思いつかなかった。
 いつも、智史のためだけに行動してきたと思っている。
 それが、何か間違いをしたのだろうか……でも智史は何も言わない。
「俺は、いつのまにか兄さんに嫌われていたのだろうか……」
「そんなことはないと思う。今の二人の関係は見ていて、何の問題がないように見えるわよ。私はあなたが智史さんを守ろうとするために行ったことに間違いはないと思うわ」
 幸はそこでわずかに言いよどんだ。
 誠二は、視線を幸に向けたまま次の言葉を待った。
「だけど、深山さんの問題は高校卒業時のことでとても過去の事よ。気にすることはないんじゃないの。それともう一つ、もう深山さんが智史さんにとって悪い人ではなくなっているのなら、深山さんに余計な事をするのは、智史さんに迷惑をかけることになるのよ」
「深山を排除することは、兄さんの意にそぐわない、と?」
 掠れた声が漏れる。
「少なくとも、今の智史さんと深山さんは仲がいいんでしょ。単なる親友としてね」
「そんなこと……」
 分かるわけがない。
 そう言おうとした。
 が、その思いも確証があるわけではない。
「誠二。あなたが、智史さんを大切にしたいと思うことはわかる。私はあなたがしたいようにすればいいと思うわ」
「いいんだろうか……それで」
 気弱になっている誠二に、幸はうんざりしたように視線と言葉を寄こした。
「あなたにとって智史さんはお兄さんである以上に大切な人なのだから。そのあなたが弱音を吐くなんて。あなたはそのために、私と結婚したんでしょう。だから私を裏切らないでよ」
私と結婚すれば、誠二は自由に動けるわよ。今まで通り、智史さんを守るために。
私はあなたを束縛しないから。
結婚のプロポーズは幸からだった。
「……」
 あれから10年以上が立っていた。
 まるでゲームのような二人の関係は今もずっと続いている。
「私がどうしてあなたとこんな結婚生活になると分かっていて結婚したか、知っている?」
 言われて誠二は言葉につまった。
 10年間。ずっと考えたくなかったこと。
「本当は言うつもりはなかったんだけど。深山さんが現れて、しかも智史さんと深山さんの関係が、私たちが思っていたのとは違うようだから……あなたがそこまで弱気になるとは思わなかったから、だから後悔しないためにも言って置こうと思うの」
「聞きたく、ない……」
滅多に吐かない気弱な言葉に、幸は苦笑を浮かべた。
「聞いて欲しいの」
 ややきつい口調に、誠二はのろのろと顔を上げた。
「愛している。これは間違いない。だけど、私が愛した誠二は、そんな情けない顔をする人じゃないわ。智史さんを守るために我が身を犠牲にしてでも守ろうとする、そんな誠二が好きなの。分かる?小さな頃の弱虫の誠二じゃない。智史を守るために無理矢理強くなったあなたが好きなのよ」
 それは、誠二にとってつらい告白だった。
 本当の誠二ではない。
 仮面を被って強くなった自分が幸は好きなのだ。
どうして。
何故今更、それを口にする。
もう10年以上、気づかない振りをしていたのに。
誠二は、下唇をきつく噛み締めた。
 知っていたから、だからショックはなかった。
「……分かっているよ」
 そう、結婚を決意したときには、分かっていたことだ。
 幸が好きなのが、誰なのか、は。
「だから、私があなたが誰に思いを寄せようとも、文句は言わない。私では、傷ついたあなたを助けることはできない。智史さんのために、いえ誰かのために強くなろうとがんばっているあなたなら私は好きでいられる」
 幸は笑う。
 その笑みがひどく残酷なような気がした。
「その相手が私だったらよかったのにね」
 そう言って笑みを浮かべる幸から誠二は視線を逸らした。



 深山はあっという間に、誠二のチームになじんでいった。
 仕事も要領よくこなしている。営業と聞いていたが、管理業務も問題なくこなせるようだ。
「深山さんは、前の会社では成績を上げていたんでしょうね」
 誠二は未だに、部下である深山に丁寧に接していた。
 兄の友人、元恋人……年上……。
 それに深山も上司になる誠二に相応の態度を取る。
「そうでもありませんよ。私は上昇志向がありませんでしたから。そこそこの怒られない程度の成績が取れれば、後は結構遊んでいましたから」
 自嘲めいた笑いが口の端にのぼる。
「そう?信じられませんね。何か、ばりばり仕事をこなしてきたって感じです」
「いつかは故郷に帰ろうと思っていましたから、執着がなかったんです。それに私も妻も東京の暮らしが合わなかったんです」
 しみじみという深山の言葉に嘘はないのだろう。
 だが、深山の高校時代を知っている誠二には信じられない、という思いも確かにあったのだ。
 あの頃の深山は、結構いい加減で、自分の問題に周りを巻き込んで大騒ぎするような、そんな奴で結構振り回されたこともあるのだ。
 ふと誠二は、深山の前の仕事の評判を知りたくなった。
 それは純粋な好奇心だった。
 父親が倒れた事を理由に、そんなに簡単に職場を捨てられるのだろうか?
 誠二には信じられなかった。
 誠二の父親は元気で、そんな思いなど当分しそうにない。それに誠二はもともと地元である。しかも次男。だから条件が違うと言えば違うのだが、父親が倒れたから今の職場を止めなければならない、等とはとうてい思えるようにはならないと思う。
 まさか、向こうで何かしでかしたんじゃないだろうな?
 ふとそんな気がした。
 だが、この深山を見ている限りそんな事はないと思う。
 それに経歴書も何もかもそんな事には一言も触れていなかった。
 まあ、自分の不利益になるような事は書かないだろうけどな。
 それでも、一度浮かんだ好奇心はそうそう止まるものではない。
「前の会社、何て名前でしたっけ?」
 さりげなく聞き出した会社を心の中に刻み込む。
 でも、東京だよな。
 どうしよう、かな。
 ここしばらく混乱気味だった精神が少し落ち着いて、しかも昂揚したような気がする。
 いつまでも弱音を吐いていたら、本当に幸に嫌われてしまう。
 その思いが、少しずつ誠二を元に戻していった。
 元に……それはいつの元だろう。
 頭の中に苦い思いが沸き起こるのを、誠二は無視した。 
 とにかく、何かをしていないと気が落ち着かなかった。
 東京かあ……。
 幾ら何でもわざわざ東京まで出向く気力まではなかった。
 出張に行くようなこともない。
 と。
 何かが琴線にひっかかった。
 東京……営業……。
 どこかでその言葉を聞いたような気がする。
 『あ、でも優司兄さんの相手って、東京の人なんだ。同じ会社の東京勤務の人。だから長期の休みってその人に逢うのに使ってるみたいでさ』
 思い出した。
 恵だ。
 恵が言っていた、優司の相手が東京の人間で……確か営業と言っていた。
 確か優司の会社の東京の会社の所在地は……世田谷区。
 今日聞いた深山の元の会社の所在地も………世田谷区。
 世田谷と言っても広いだろうけど、もしかするとその会社知っているかも知れないし……駄目もとでもいいし……それより何より、優司の相手にいきなり電話するってのも面白いじゃないか。
 驚くかなあ。
 どんな奴なんだろう。あの優司の相手だからな。
 下手な対応取るような奴だったら、優司に近づけないぞ。優司を苛めてもいいのは俺だけだからな。
 誠二の思考が元の考えからどんどんずれていっているのに、誠二自身気が付いていない。
 あー、楽しみだ。
 連絡先は、恵が知っているかな……。
 早速今日帰ったら、電話してみよう。
 途端に機嫌良くなった誠二をチームの人間は不気味なものでも見るかのように窺っていた。


 早速恵から聞き出した連絡先に、誠二は電話をかけてみた。
 番号から察するに、携帯電話だ。
 時刻は9時を過ぎている。
 そろそろ家に帰っているかな、と思って電話した。
『はい、笹木ですが?』
 受話器の向こうで訝しげな声が聞こえた。
 少し低めだが、耳に染みるような心地よい声だ。
「あ、私、滝本誠二と申しますが」
『たきもと……さん、ですか?』
 不審そうな気配。誠二は綻ぶ顔を止められなかった。
「優司の兄です」
 焦らして切られてはかなわないで、速攻で身分を証す。
 向こうで息を呑む気配が分かった。
「私の事、聞かれた事ありますか?」
『少し。優司のお兄さんが二人いるという位で、お名前程度しかお聞きしたことはありません』
「そうですか。実はあなたに少し用がありまして、電話させていただきました。今、いいでしょうか?」
 あくまで下出に申し出をする。
『今、会社なんですが……』
 幾分警戒しているのか、先ほどより声のトーンが落ちている。
 へ、えー。まだ働いているのか……。
 ちらりと時計を見た。
 9時30分。
「そうですか……」
 わざと落胆の色を含ませて声を出す。
『いえ、少しなら、かまいません。他に人がいませんから……少しなら』
 慌てた様子に、誠二はほくそ笑んだ。
 若そうだな。そう言えば年齢を聞いていなかった。
「失礼ですが、あなたのことは名前位しか聞いていません。少しお伺いしたと思いますが」
『はい』
「年は?」
『25です』
 若いなあ……恵の一個上位か……。
「私は恵からあなたのことを聞き出しました。優司は、私達があなたの事を知っていることは知りません」
『私達……というと、他にも?』
 警戒の色が濃い。だが、恵の名前を出したことで、知っている理由が分かったようだ。
「もう一人の兄ですよ。私は2番目ですからね」
『そうでしたね。恵くんから聞いたということは、私と優司の関係を知っているということですよね』
「はい。それでですね、可愛い弟を寝取った相手というのを知りたいと思いまして、こうして電話した次第ですが」
 わざとした露骨な表現に相手の息を呑む様子が伝わった。
 分かってしまうと、何だかおかしくて、誠二は堪えきれない嗤いを漏らしてしまった。それが、電話先にも伝わってしまう。
『誠二さん、でしたね。本当のところ、どんな用件で私に電話されたのですか』
 むっとした口調の笹木に、誠二はかろうじて笑いを堪えた。
「本音をいいましょう。実は、一人の男がいまして、つい最近まで世田谷にある会社に勤めていたんですが、その人が何故会社を辞めたか調べて欲しいと思いまして……」
 会社名とその人物の名前を伝える。
『本気ですか?確かにその会社は知っていますが、どうして私が興信所のような真似事をしなくてはいけないんです?』
「別にしてくれなくてもいいですよ。ただ、私にとって東京の知り合いというと、名前しかしらなかったあなたしかいませんでしたので。あなたが調べてくださっても、誰か他人に頼んでも、知らないと放置してくれても、それは構わないのですよ。ただ、私にとって可愛い弟の優司の相手がそんな不誠実な人間と言うのは、嫌ですけどね」
『……』
 笹木が黙り込んだ。
 さあ、どうする。
 優司が気に入っている相手にこんな脅迫まがいのことはしたくはなかったけれど、知りたい好奇心は止められるものではない。それに、なかなか頭の良さそうな相手だな。話していても、不必要なことを一切言わない。
『……わかりました。調べられるかどうか自信はありません、が……その会社に心当たりがありますので、一応当たってみます……』
 にやりと口元が綻んだ。
「助かりますよ」
『ただ、一度あなたと会って話がしたいですよ。こんな電話じゃなくて、面と向かってね』
「そうですね。私もぜひあなたに会ってみたいですよ」
 どうやら軟弱な兄ちゃんと言うわけではなさそうだな。
 意志の強さが伝わってくる。
 誠二は連絡先の電話番号を確認して、電話を切った。
 笹木秀也、か。
 逢えるのが楽しみだ、な。




 優司の恋人へ電話した後、誠二はしばらくぼーとしていた。
 さっきまでの昂揚していた気分は消えている。
 智史の件で張りつめていた気分が、最近はふっと萎えることがある。
 それほど深山の件は、誠二にショックを与えていた。
 今まで守らなければならないと信じていた存在が、実は自分を騙していたのかも知れない。
 何故誠二達の言い分を否定しなかったのだろう。
 結局は、そこに堂々巡りしてしまう。
 智史は誠二がものごころ付く頃から、いつも側にいた。
 3歳違いの兄は、昔から誠二の我が儘にいつもつきあってくれた。
 仕事で忙しい両親の代わりにいつも側にいてくれた。
 智史はいつも穏やかで、不思議と我が儘を言わない両親の手を焼かない子供だった。反対に誠二は、両親があきれ果てる位我が儘でいつも周りを困らせていた。
 そして、優しい兄が苛めに会ったのを見たとき、誠二は一つの決心をする。
 小学校3年。智史が小学校6年の時。
 小さいながらも、智史を守ろうと……。小柄ではあったが、小さい頃から喧嘩慣れしていた誠二には、仲間がいた。
 その仲間にはやはり兄弟がいて、そのつてで智史の行動は結構誠二の耳に入っていた。
 誰かに苛められたという情報が入れば、誠二は必ず相手を反対にやっつけた。
 相手が年上であろうと関係なかった。
 時には、先生や大人すら味方に付けた。幼い頃から、そういう知恵だけは不思議と備わっていた。兄弟のなかで、誠二と恵が持っている特技とも言えるものだった。
 そうこうしている内に、智史や誠二、そしてその余波で弟達に手を出すものはいなくなった。
 そう、深山だけ。
 深山裕太だけが、智史に近づき、誠二の攻撃をものともせずに智史の心を掴んだ。
 どうしてそうなったのかは知らない。
 智史に幾度か聞いたことはあったが、教えてくれなかった。
 そう言えば……。
 智史は、深山に関することは絶対に誠二には教えなかった。
 どうやって知り合ったか……どうしてつき合うことになったのか……そして、どうして別れたのか……。
 たいていの智史の事は知っている。
 もともと、智史は自分のプライバシーにかけて無頓着でなんでも誠二や兄弟達に話をしていたから。
 今はじめて気づいたその事実に、誠二は驚きを隠せなかった。
 深山の件をひた隠しにした、智史の本心はいったい何だったのだろう?
 と、電話が鳴った。
 時計を見ると、11時が来ようとしている。
 誰だ、こんな時間に……。
 既に寝ているであろう幸達のために、誠二は素早く電話を取った。
「はい、滝本ですが?」
 不機嫌さがにじみ出る声に、電話の向こうはしばし無言だった。
「もしもし?」
『……矢崎です』
「ああ、どうした?」
 矢崎の暗い声に、誠二は戸惑いを隠せずに問うた。
 だが、矢崎はなかなか話そうとしない。
「矢崎?」
『……ばれました』
「は、あぁ?」
 何のことか分からずに間の抜けた返事をする。
「何のことだ?」
『滝本さんを俺が監視していること。誠二さんに逐一報告していたこと。全部滝本さんにばれました』
「……」
 沈黙が支配した。
 ばれた……。
 いや、もともと誠二が智史を監視していることは智史も知っていた。
 ただ、その手段や誰がと言うことまでは知らなかった。だからこそ、智史もあまり気にせず、普通に行動していたのだ。
 智史は、プライバシーについては無頓着だったから、それを誠二が知ってどうこうしようと別に構わないらしい。
 らしい、というのは昔もばれたことがあるのだが、だからといって、智史は誠二を責めるようなことはしなかった。
 ただ、仕方がないなあ、と笑ってすまされた。
 今回も、そうなるだろう。
 しかし、もう矢崎は使えない。
 誰が見張っているか分かってしまえば、本当に隠したいことをその本人の前では絶対に隠し通してしまうだろう。矢崎が役場以外のところで、智史に会ってしまったら、絶対に智史はその秘密にしたい行動なら隠してしまうだろう。
 だから矢崎はもう使えない。
「どうしてばれたんだ?」
 何とも言えない気分で、誠二は尋ねた。
『それが……ずいぶん前からばれてたみたいなんですが、今日いきなりそう言われて……いつばれてたなんか全然分からなくて……』
 矢崎の言い訳のような言葉が続く。
『今日、急に滝本さんに飲みに誘われて……市街に出たんです。その時に、まるで世間話のように言われて……。もう止めてくれって……』
 もう止めてくれ。
 誠二はその言葉が自分に言われたような気がした。
 心臓が音を立てて鳴る。
 そんな言葉ははじめてだった。
『どうしましょうか……』
 矢崎の泣きそうな声が遠くで聞こえた。
「どうしましょうって……どうしようもない。もう、いいよ。兄さんのことは放っといてくれていい。これまで、ありがとうな」
『せ、誠二さんっ!』
 矢崎の悲痛な声が耳元で響く。
「もういいよ。取引はこれで終わりだから。今まで、ありがとう。じゃあな」
 電話の向こうで矢崎が何か叫んでいた。
 誠二はそれを無視して、電話を切った。
 もう、矢崎を受け入れる事はない。
 契約は終了した。
 智史にばれてしまった矢崎に利用価値はない……。
 ふっと誠二の頬に何かか伝った。
 それを手にとった誠二は自分が泣いている事に気が付いた。
 どうして?
 訳も分からず、誠二はソファに倒れ込んだ。
 泣きたいほど、ばれたのが嫌だったのだろうか……。
 智史に突き放されたような気がしたのは事実だ。今まで、止めてくれなどと言われたことがなかった。いつも、仕方がないな、と笑っていた。
 それが、今回ばかりは勝手が違った。
 自分が今までしてきたことを一切合切否定されたような気がした。
 否定するなら、もっと早くしてくれればよかったんだ。
 もう20年以上も、俺がしてきたことを容認していて、何で今更……。
 智史の笑顔が脳裏に浮かぶ。
 守りたかった笑顔。
 だから矢崎を使ってまで、今までずっと……。
 もう矢崎と逢うこともないんだな……。
 ふっと思った。
 今度は脳裏に矢崎の笑顔が浮かぶ。
 もう、逢う必要が、ない……。
 そう思った途端、止まっていた涙が溢れ出してきた。
 な、ん、で……こんなに悲しいんだろう。
 誠二は心の中が真っ暗になるのを感じた。
 何もない、空虚。
 どうして……これはいったい何なんだ?
 誠二は、思わず自分自身を抱きしめた。
 そして、訳も分からず流れ続ける涙をふき取ることもできずにただ嗚咽を漏らしていた。


 今週末、優司が帰ってくるよ。
 久しぶりに逢った智史は屈託のない笑顔でそう言った。
「優司が?」
「昨日電話があって、休みも取れたし、金土日で2泊するって……」
 そういう智史は誠二に矢崎の件の事については何も言わなかった。
ただ、優司のことを楽しそうに話す。
それは今までの、いつもの智史だった。
それは逢うことすら苦痛に感じて、しばらく実家に顔出ししていなかった誠二と雲泥の差があった。
「恵がこの前帰ったときに、優司が帰ってこないって俺達が怒っていた、という話を篠山さんから聞きだしたらしい。篠山さんに口止めするのを忘れていたよ」
 にこにこと笑みを浮かべながら話す智史に、誠二は口の端を上げて答える。
「それは・・・・・優司のことだから、戦々恐々で帰ってくるんだろうな。それは土産が期待できそうだ」
 誠二は内心の不安と葛藤を押し込めて、平静を保って話につき合う。
「そうだなあ。電話で話をしたときも、どこか窺うような雰囲気があったよ。たぶん恵
とも話をしたんだろうけど、どこまでばれたのかなあ……」
 楽しみにしていたんだけど……。
 ちらりとそんな言葉が聞こえ、誠二は苦笑を浮かべた。
「きっとばれていないよ。恵のことだから適当にはぐらかしたと思うし。でないと、ばれた原因が恵だってことがばれるから。恵にとっては、その方がまずいでしょ」
「あ、そうかあ」
 ぽんと手を叩く智史。
「それで、また宴会?」
「ああ、1年ぶり位だからね。今回は母さんも張り切っているよ」
「そっかあ、じゃあ優司が来たら電話してくれる?」
「もちろん。帰ったら電話するよ」
 智史がにこにこ言う。そして、何でもないように言葉を継いだ。
「あ、それと、矢崎とは仲違いでもしたのか?」
 心臓が止まった。
 一瞬そう思った。
 恐る恐る智史の顔を見る。
 それはいつもの笑顔で……。
「な、んで?」
 青くなってるに違いない顔を俯くことで隠す。
「何か、凄く落ち込んでいて……お前と仲良かったろ?」
「そんなに仲がいいわけじゃないよ」
 平静になろうとして失敗する。声が震えているのが自分でも分かる。
「そうなのか?この前、誠二と仲よさそうだなって話ししたら、あいつ否定しなかったから、てっきりそうなんだと思っていた。まあ、浮気も適当にしとかないと幸さんに嫌われるぞ」
 くすくすと笑う智史に他意は感じられなかったけど……。
「仲がいい訳じゃない……矢崎とは取引だったんだ」
「取引?」
 訝しげな智史に、誠二は声を荒げた。
「俺が矢崎にたのんで兄さんを見張っていてもらった。その代償に俺はつき合っていた。それだけの関係。だから仲なんていいわけがないじゃないか!」
 そうだ。
 俺達はそれだけの関係だ。
 なんで、そんなことで兄さんに指摘されなきゃいけないんだ!
 あいつが落ち込もうと俺には関係ない!
「ああ、聞いたのか。それでか、矢崎が落ち込んでいるのは」
 智史の真面目な声に誠二は顔を上げた。
 視線が絡む。
 先に視線を外したのは誠二だった。
 何もかも見すかれてしまいそうで。
「俺が矢崎に釘をさしたから、お前は矢崎と会うのを止めたのか?」
「ああ、そうだよ。ばれてしまったらもう矢崎と逢う必要はないだろう」
 そっぽを向く誠二に智史はため息をつく。
「お前はそれでいいのか?」
「何がだよ!」
 誠二は苛々と言葉を吐く。
「そんなこと兄さんには関係ないだろ」
 胸の中で何かどす黒いものがぐるぐると沸き起こる。
 それが何なのか分からなくて、誠二は訳も分からず智史に食ってかかっていた。
「関係ない、か……」
 智史の声がどこか遠くで聞こえていた。
 関係ない!
 ああ、関係ないとも。
 もう矢崎は関係ない!
 もう誰にも頼らない!智史のことも自分のことも自分でやる。
 俺は強くなくてはいけない。
 でないと幸に嫌われる。
「もう矢崎とは逢わない。矢崎が落ち込もうがどうしようが俺には関係ない。兄さんだってその方がいいだろ。矢崎に監視されなくてさ」
「誠二……」
「俺、帰る!」
 誠二は背を向け、自宅に一目散に帰る。
 そうしないと、溢れ出た涙を智史に見られそうで。
 何でこんなに悲しいんだよ。
 矢崎の事を考えると、胸のもやもやが大きくなる。
 苦しくて、涙が勝手に出てくる。
 畜生!
 どうしてこんなことになるんだ。
 あいつとはただの取引だったのに……。



 優司が帰ってきた。
 1年ぶりに見る優司は、少したくましくなったようだ。
 別に横に大きくなった訳ではないのだろうけど……精神的に強くなったんじゃないかと思えることが目につく。
 今までは、みんなにからかわれるとすぐ赤くなって俯くだけだったのに、今日は適当に受け流す技まで披露してくれた。
 誠二は、からかいがいのなくなった優司に一抹の寂しさを感じた。
 畜生。
 優司をからかって遊ぼうと思って楽しみにしていたのに……うー。
 誠二はここんとこ落ち込み気味の気分を優司を相手にすることで浮上させようと思っていたからあてが外れてがっかりした。
 それに子供達も久しぶりに逢う叔父に勝手がつかめないようだ。かといって目新しい事もない。
 一通り食事が済むと、退屈そうだった。
 仕方がないので、幸と理恵が子供達を引き上げさせる。すると多少なりとも賑やかだった座敷が、一気に静かになった。
 さすがに恵の時とは雰囲気が違うなあ……。
 いつもテンションをあげる役目の誠二も今日は今一つ気分が乗らないので、一人ちびちびとビールを飲む。
「優司、仕事でえらいことはないのか?」
 父親が心配そうに問いかける。
「大丈夫ですよ。いい同僚もいますし……」
「篠山さんのことかい?」
「え、ええ、まあ……」
 ひきつった笑いを浮かべる優司を見て、誠二はビールを口に付けながらくすりと笑った。
 弟の彼氏と同じ職場ってのは、どういう感じなのかなあ。
 しかも、先輩になるんだっけ。
 智史兄さんなら、何も気づかないように見守ってくれるのかな……。
 と、何故か矢崎の顔が浮かんだ。
 またか……。
 幾度となく何かの拍子に浮かぶ矢崎の顔に最初は混乱していた誠二だったが、昨日あたりから適当に受け流せるようになっていた。
 苛ついてどうする。
 いつかは忘れてしまうこと、だ。
 数度の深呼吸で矢崎の顔は消え去った。
 ほら、もう消えた。
「それにしても、もう少し帰ってこい。そんなに遠い訳ではないだろ」
 いつになく饒舌な父親に優司も苦笑いを浮かべる。
「ごめん。気をつけるよ」
 父親にとって優司は未だに子供なのだ。
 心配で堪らないといった表情を時折見せる。
 あんな目を誠二に向かってすることはなかった。
 智史だってそうだろう。
 上二人は、いつも父親の関心外にあったのだから。
 昔気質のところがあった父親は母親が働いているからといって家事や子育てを手伝うことはなかった。
 母もそれが当然のように父には何も言わなかった。
 結果、一番割りを食ったのは誠二になる。
 今更それに文句をいう年ではないが、未だに優司を一番可愛がる両親に対して、文句の一つも言いたくなることだってある。
 とにかく両親がひっこんでからが兄弟の天下だ。
 そうなったら、存分にからかわせて貰うことにしよう。
 誠二はそう思いつつ、今日何杯目かのビールを飲み干した。



 両親が自室に引っ込んだ後、智史と誠二、そして優司は車座になっていた。
 本当は両親とともにそそくさと抜け出ようとした優司を、二人かがりで拉致した、と言った方が正しいかも知れない。
 優司は、時折上目遣いに兄たちを見つつ、その辺にあるものをつまんでいた。
「黙ってないで、何か言うことはないのかよ」
 いい加減アルコールが回っている誠二は、そんな優司を見ていて苛ついてしょうがない。
「何をだよ」
 むっとしたような優司の言葉が、優司でないようで誠二は言葉を失った。
 随分と機嫌が悪そうだ。
「何かあったのかい?」
 智史が穏やかに聞くと、さすがに優司はぽりぽりと頭を掻きながら、答えた。
「篠山さんに怒られた。もっと帰れって……なんで、篠山さんに怒られなきゃいけないんだろって思った……」
「いい人だな、あの人は」
 智史としみじみと言う。
 いや、そういう事じゃないって……。
「あの時随分父さんと話し込んでいたから、同情してくれたんだよ」
 何で俺が……と思ったが、ついついフォローしてしまった。
 いや、俺は優司をからかいたいんだ……。
「それともお前は篠山さんに同情されると困るのか?この前も優司のこと褒めていたぞ」
「篠山さんが?」
 篠山が褒めていたと聞いて、優司は呆気に取られたようだ。
 もしかして、この二人職場では仲が悪いのか……。
「お前、仕事上手くいっているのかよ?」
「大丈夫だって。さっき父さんにも言ったろう。いい同僚がいるんでなんとかやっているよ」
 同僚か……。
 篠山さんの事じゃないんだろうな、この場合……。
 誠二はちらりと智史を見た。
 智史は視線は優司に向けていたが、その表情から何を考えているのか窺えない。
 誠二は視線を優司に戻すと、気づかれないようにため息をついた。
どうも久しぶりにあった優司は、前の優司より少し変わっているようだ。
 一筋縄ではいかないような気がした。
 やはり社会で揉まれて、部下を持つようになると純粋で単純なだけでは何ともならないのだろう。
 誠二は一抹の寂しさを禁じ得なかった。
 いつまでも子供のままではいられない……。
「ところで、お前恋人とかいないのか?」
 今まで黙っていた智史がいきなり口を開いた。
「こ、恋人?」
 さすがに優司も狼狽える。
 のみならず、誠二も恋人という言葉に反応した自分自身に驚いた。
 またも矢崎の顔が浮かぶ。
 ああ、もう!
 手に握っていたコップの中身を一気に飲みこんだ。
 ぐいっと口の周りに残った泡を手の甲でふき取る。
「い、ないよ、そんなの……」
 赤くなった優司に、智史が笑みを浮かべたまま「そうか」と頷いた。
「もしそういう人ができたら、真っ先に紹介しろよ。楽しみにしているんだからな」
「そりゃ、まあ……そういう人ができたら、ね……」
 優司が苦しそうに呟く。
 それ、きついわ。
 誠二は優司と智史を見比べた。
 『あいつは結構意地悪だぞ』
 深山の言葉が思い出される。
 何か納得してしまった。
 ま、いいか。
 対岸の火事のような気がしていた誠二もそれに便乗しようとして、口を開いた。
「優司」
「きゃあああああああああ!!」
 悲鳴が家中に響き渡った。
その悲鳴に、兄弟3人は顔を見合わせた。
 最初に動いたのは智史だった。
 慌てて、誠二と優司も立ち上がる。
「理恵の声だ!」
 悲鳴のあった場所はそう遠くなかった。
 風呂場の中に一歩入った誠二の目に、泣きわめきながら湯の中に漂っている父の腕を引っ張っている理恵と義母の姿が飛び込んだ。
「と、うさん……」
 呆然と呟き、一瞬後我に返った。
 慌てて、智史とともに湯船に沈んでいる父親を引っ張り上げる。
「父さん!父さん!」
 智史の声が浴室中に響く。
「き、救急車!」
 優司が慌てて電話に走る。
「兄さんっ!息してないっ!」
 誠二の手が触れた父の胸はぴくりとも反応しない。
 智史ははっと誠二の顔を見ると、すぐに父親に人工呼吸を施し始めた。
 息を吹き込むたびに膨れる胸。
 定期的に心臓マッサージも加える。
 だが、父の顔はどんどん青くなっていくだけだった。
「あ、あんまり、お風呂から戻ってこないから……だから見に来たら……」
 狼狽える母親を、理恵が抱きしめる。
 何てことだ!
 誠二は呆然とその様子を眺めていた。
 洗い場に横たわる父はとても小さくて……先ほどまで上機嫌だったのが嘘のように冷たい表情。
 必死になって人工呼吸をしている智史に何の反応も示さない身体。
「兄さんっ!救急車が来た!」
 優司が駆け込んできた。
 その後ろに救急隊員の人が続く。
 誠二は邪魔にならないように通路の端に寄った。
 ふと気が付くと、兄の子供達が階段のところから覗いている。
 不安そうなその表情に、ふと自分の子供達と幸を思い出した。
「由美ちゃん……」
 兄の上の子を呼ぶ。
中学生なら事態が理解できるだろう……。
 そう思って。
「由美ちゃん、叔父さんのところの幸おばちゃんに電話してくれないか。おじいちゃんが倒れて叔父さん達はこれから病院にいくから。ここに来てくれるように……そう言えば分かるから……」
 由美は口元を固く引き締めて頷いた。
 電話の方にかけていく。下の子供もそれに着いていった。
 最低限の処置が終わって、担架に乗せられた父親には暗黙の内に智史と母親が付き添っていった。誠二が車で病院に向かう。優司は幸が家に着き次第、病院に行くように言い聞かせた。
混乱している理恵を一人にする訳にいかなかった。幸が来れば、理恵も落ち着く。
 こんな田舎で救急がある病院は1つしかない。
 救急車がそちらに向かうの見ながら、誠二は車を走らせた。
「駄目かも知れない……」
 智史が誠二に漏らした言葉が耳から離れない。
 

 
 誠二が病院についてから、15分後に優司が病院に駆け込んできた。
「父さんは?」
 息せき切って駆けてきた優司に、誠二は救急処置室と書かれたプレートを見上げた。
「今処置中。兄さんと母さんが中に入っている」
 誠二の暗い声に優司は愕然と救急処置室の扉を見つめた。
 二人とも無言のままじっと微動だにしない。
 と、
 かちゃっと音を立てて、扉が開いた。
 白衣を着た看護婦が、二人を見て手招きをする。
 誠二と優司は顔を見合わせ、それから処置室の中に入っていった。
 中は複雑な機械が並んでいて。その中のベッドに父親は寝かされていた。
 だが、その蒼白な顔はぴくりとも動かない。
 誠二は傍らに立っている兄と母に視線を移した。
 智史は今にも倒れ込みそうな母を抱えて、まるで睨み付けるように父を見据えている。
「せ、誠二……駄目だったのよ。駄目だ……た」
 母親が震える声で誠二達に言った。言った途端に、泣き崩れる。
「駄目だったのよお!」
「そんなばかな……」
 傍らの優司が吐き出す声が聞こえた。
 駄目だった……。
 つい一時間前まで、生きてしゃべって、上機嫌でいたんだぞ。
 何で?
 どうして?
 頭の中で疑問符がぐるぐると回り続ける。
 それでも、動かない父親と泣き崩れる母親。
 それは紛れもない事実で……。
 誠二は足下が揺れているような感覚に襲われ、思わず傍らの優司の身体を掴んだ。
「父さんが……死んだ?」
 誠二が掴んだ腕が誠二を支えるように動いた。
「兄さん……」
 身体を抱え込まれた。そうされないと崩れ落ちそうだった。
 そして始めて。
 父親の存在が自分の中に占める割合が、いかに大きかったかを知った。
「父さん……」
 流れ落ちる涙が優司の腕を濡らしていることも気が付かなかった。
「誠二兄さん……」
 誠二のあまりの狼狽ぶりに、優司は自分が泣くことも忘れて誠二を抱きしめる。
 そうしないと、この兄が壊れてしまいそうだった。
 自分の腕の中にいる人は一体誰なんだろう?
 優司はふとそう思った。




 布団の上に寝かされた父親は、ひどく小さく感じた。
 枕元に置かれた線香の匂いが部屋にこもる。
 病院から帰ってきた父親は、さっきまで宴会が有った座敷に寝かされていた。
 慌てて寄せられた宴会の名残を見ていると、誠二は未だに父親が酔っぱらって寝ているだけのように思えた。
 ばたばたとしていたため、外はすでに夜明けが近づいていた。
 地区の会長が智史と細々と打ち合わせをしている。
 恵には幸が電話した。
 まもなく到着するだろう。
 優司が走り回っている。噂を聞きつけた近隣の人たちの対応に追われているのだ。
 その中で誠二はずっと父親の側に座っていた。
 理恵が客に茶を出す。
 幸が裏方に徹し、母親が時折親しい客に最期の様子を涙ながらに話す。
 それでも誠二は何も言わずに座っていた。
 その瞳が虚ろ……で、だけど誰も何も言わない。
 誠二がそこにいることに、いても当然のようにただ誰もが一瞥し、放っている。
 誠二は帰ってきてから、何も言わなかった。
 時折智史が話しかけ、機械的に頷くが、だが、動こうとしない。
 優司が誠二に視線を投げかけ、くっと唇を噛み締める。
 妙な緊張感が兄弟の中を走っている。
 だから……。
 誰も何も言えない。



 誠二は一睡できないまま、葬式の準備に追われていた。
 葬式は明日、日曜日。11時出棺。
 智史は役場に手続きに行き、優司が家の中の準備に入った。さすがに、誠二も優司と家の中の家具を動かして、手伝っていた。
 今日の接待役は、女性陣と恵だ。
 恵は、兄弟達が呆れるくらいその役を完璧にこなしていた。
「恵が営業できているのが、やっと理解できた」
 ぽつりと誠二が呟いた。
 優司がほっと息を吐いた。
 誠二が、初めてしゃべったのだ。それまで、何を言ってもまともな返事が返ってこなかったから。
「恵はさ、人気があるんだ。私の会社でも。恵だから、川崎理化学に発注するっていう奴もいる」
 恵は優司の会社担当の営業マンだった。
 科学機器関係の卸販売業だ。
「そうなのか?」
「うん。あの顔でいつもにこにこしていて元気いっぱい。話をよく聞いてくれるし、雑用もにこにことして引き受けてくれる……」
 苦笑混じりの優司に誠二が呆れたような視線を向ける。
「それって、便利屋扱いされているだけじゃないのか?」
「だけど、いったん渋い取引になると、なかなか負けてくれない。かといって、もう切ろうとすると巧みに駆け引きしてきて、妥当な価格に持っていく。決して、甘いだけじゃない、らしいよ」
 そういう優司の表情は、誇らしげで。
「そうか……」
 誠二も満足げに頷いた。
「ねえ、兄さん?」
「ああ?」
 ふっと優司の言葉が暗くなったのを感じて、誠二は視線を向けた。
「兄さんは、父さんが好きだったの?」
 優司の視線が床を這う。
 誠二はそんな優司を見、そして口の端を上げて笑みを浮かべる。
「どうしてそう思う?」
「だって……」
 誠二には優司の言いたい事が分かった。
 優司は、いつも反発していた頃の誠二と父親しか知らなかった。
 最近はそうでもないと聞いてはいただろうけど、だから誠二の狼狽に驚いた。
 そうだろうな。
 自分だってここまでショックを受けるとは思わなかった。
 誠二にとって父親とは……。
近寄りがたいもの。
 何を考えているのか分からないもの。
 自分が何をしても認めてくれないもの。
 そして、手に入れたくて仕方がなかったもの……。
「手に入れる前に逝ってしまうなんて、思いもしなかった」
 天を仰ぐ。
「兄さん……」
「お前達が簡単に手に入れていたのにな。俺だけ手に入れれなかった」
 誠二はまた固く唇を結んだ。
 優司も何も言えなかった。
 そんなことない、と言おうと思ったけど、それでも何も言えなかった。


 葬式は滞りなく進んだ。
 朝には兄弟揃って寝不足で朦朧としていたが、さすがに式本番ともなると皆疲れた身体に鞭打つようにがんばった。
 誠二は、出棺準備の最中に深山と並ぶように立っていた矢崎を見つけた。
 そういえば、二人には受付をしてもらう、っていっていたな……。
 矢崎がじっとこっちを見ているのが分かる。
 誠二は視線をあわせないように二度とそちらを見なかった。
 火葬場で最期のお別れをし、いったん帰ったものの着替えてすぐにお骨拾いに出発する。
 そこから帰ると休む間もなく、初七日の法要をまとめてしてもらった。
遠距離の親族のために最近まとめてすることが多いらしい。
その後、お坊さんが帰ってやっと一息ついた。
祭壇に飾られた写真と骨壺を前にして、残った親戚が宴会さながらに料理をつつく。
理恵と幸が酒を注いで回っていた。
母親は父親の思い出話に華を咲かせていた。
亡くなった直後のショック状態からすればだいぶ落ち着いていた。
 智史と恵がたくみに年輩の親戚達と会話をしているのを眺めながら、誠二はため息をついた。
 食欲がなかった。
 座敷から少し離れた縁側に移り、ぼうと庭先を眺める。
 天気がよく、日差しが縁側に降り注ぐ。
 座敷の喧噪も少し離れただけで静かになったように感じる。
 ふと人影が見えたような気がして視線を長屋横に向けた。
「あ……」
 小さな叫びが口先から漏れた。
 矢崎がいた。
 長屋の壁にもたれ、じっと顔だけをこちらに向けている。
 何をしているんだ?もう用は済んで、他の人はみんな帰っているのに……。
 しばし呆然と誠二はそちらを見ていた。
「何しているの」
 耳元でふいに囁かれた。
 びくりと顔を上げる。
 幸だった。
「そろそろ浮上しないと嫌いになっちゃうよ」
 親戚に聞こえないよう小さな声で囁く。
「浮上って……」
 誠二は大きく息を吐いた。
 しかし、どうあがいてもそんな気分に一向にならなかった。
 立て続けに起きたいろいろなこと。
 そして父親の死は、誠二の心に激しいダメージを与えていた。
「私はあなたを慰めることはできない……残念だけどね。そういう性格だから」
 幸が横に座った。
 手に持っていたグラスを誠二に握らせる。
「あなたが義父さんの死にここまでショックを受けるとは智史さんも思わなかったらしいわよ」
「そうか」
 幸の話を聞きながら、それでも矢崎から視線が外せなかった。
「あなたは私に慰めて欲しい?」
 言われた言葉に思わず幸を見る。
 よほどびっくりした顔をしていたらしい。
 幸が眉を寄せて口を尖らす。
「そんな意外そうな顔しなくていいじゃない。ちょっと言って見ただけ」
「あ、ああ、ごめん。でも、幸からそんな言葉冗談でも聞くとは思わなかった」
「ひどーい」
 くくくと幸が喉の奥で笑う。
「でもそうかも知れないわねえ。私って、自分が何も思わない人間だから、人が落ち込んでいてもどうしようもしてあげようがないのよね」
幸の言葉が一転してひどく悲しそうで、誠二は口元を引き締めた。
幸の表情は真剣で……。そして、誠二に幸は問いかける。
「知ってた?」
 誠二は無言で頭を振った。
「ごめんね。なんか、冷めているっていうか、可愛い気がないっていうか……とにかく人の死みたいなことに直面しても泣けないの。悲しくならないの。人が落ち込んでいても対処しようがない。これが私なのよね。だから、あなたをどうやって慰めればいいのか分からない……慰めるようなことになって欲しくないから……だから、強いあなたが好きなんだって言ってたのよね。落ち込まれたって、私にはどうしようもないんだもん」
 ああ、そうなのか……。
 どうして幸があそこまで、強い誠二が好きだと言うのか本当は今まで分かっていなかった。幸がずっとそういう態度をとっていたから、そうなんだ、としか思っていなかった。
「私は、こうやって人が死んでも、あんまり悲しいとは思えない。今までいた人が側からいなくなったって位にしか感じない。どうしてか分からない。ずっとそうだったから、今更自分が変わるとは思わない。ドラマなんかで感動的なシーンになると泣けるのに、それが自分の身に降りかかると泣けないのよね。自分でも損な性格だとは思うけど」
 じっと庭の樹を見つめながら幸は言う。
 それは幸の初めての告白。
 誠二が初めて知った真実。
「ごめんね。私あなたが苦しんでいるの知ってた。知ってたけど、どうしようもなかった。だから、わざと冷たいこと言って放っといた。まさかこんなことが起こるとは思っても見たかったから……ごめんなさい」
 誠二は幸を見、そしてまた視線を庭先に移した。
 幸は下を向き、じっとしている。
 始めて知った幸の思い。
 幸は幸なりに悩んでいたのだから。
 俺は幸が嫌いじゃない。
 なら、どうすればいい?
「幸はさ、俺がこうやって落ち込んでいても慰めようと思わなくていいよ。……いいから今まで見たいに放っといてくれていいから……見限らないでだけいて欲しい。その内、俺がんばるよ。俺だって自分がこんなに落ち込んでいるのって嫌だから、さ。本当に昔の弱虫で泣き虫の誠二は、自分でも嫌いだから……少なくとも強くなろうって思って努力していたあの頃くらいにはなっていないと自分が自分で情けないから、だから……」
 掠れた声が喉をついて出る。
 だから……。
「俺の側にいてくれるだけでいい」
 つうっと涙が一滴だけ頬を伝った。
「ええ。私はあなたを見捨てない。だから、心おきなくあなたはあなたの道をいけばいい。その方が私もずっと心が楽なの。あなたを慰めなければならないなんて思うより、ずっと。智史さんを守ろうと思ってもいいし……」
 ふと、幸が言葉を切った。
 しばらく考え込んでいる。
 誠二が訝しげに幸に視線を送ると、幸はふっと顔を上げてにっこり笑った。
「あなたが彼に慰めてもらっても、それはそれで構わないわよ。私たちのことを忘れてくれさえしなければ」
 すっと指さすところ。
 矢崎が立っていた。
「さ、幸!」
 狼狽える誠二に、幸は微笑む。
「あなただけよ、自分の気持ちに気づいていないの。智史さんだって知っているのよ。知って心配してたわよ。自分の余計な一言で、あの二人は別れたんだろうかって……。ま、誠二は私たちに遠慮していたのかも知れないけど、だけど彼に逢わなくなってからのあなたの落ち込みってひどかったから、そんなの私困るもの。誠二はいつもの誠二でいないと家の中が暗くなって困る」
「幸……」
 幸はもう一度ゆっくりと優しく微笑んだ。
「いってらっしゃい。あなたの家は私たちのところにあるけれど、あなたを慰めるところではないの。悔しいけれど、私にはできない。だから、いってらっしゃい」
 誠二は幸を見、そして矢崎に視線を向けた。
 矢崎はずっとそこに立っていた。
 再度幸を見る。
「いいのか?」
「いいって言ってるでしょ。何回言わせるのよ。その代わり、元気になってらっしゃいよ。でないと、本気で縁切ってもらうことになるわよ」
 口調は厳しいけれど、その表情は優しくて……。
「ありがとう……」
 誠二は一言呟くと、庭先に降りていった。
「ったく、世話がやける……」
 呟く幸の声に、押されるように歩き始める。


智史が幸の傍らにやってきた。
「やっと行ったか」
 ぽつりと呟く。
「智史さんが悪いのよ。こうなるって分かってて矢崎さんにばらしちゃうから」
「んな事言ったって、あのままだとずっと取引だって、本心に気づこうとしないんだからな、あいつは……まあ、父さんのことはイレギュラーだったから、余計に落ち込ませてしまったけど……」
「智史さんが言ってやればよかったのよ。何で私が自分の夫をわざわざ浮気に走らせなきゃいけないのよ」
「俺が?やだな、俺が言う訳ないだろ。可愛い子には旅をさせろっていうだろうに」
 にやりと笑う智史。
 幸はため息をもらした。
「智史さんの意地悪さに気づいていないのって滝本家の兄弟達だけよね」
「別に意地悪じゃないよ。ただたまに妙に苛めたくはなるけど……」
 しれっと言う智史に幸は問いかける。
「深山さんの件は?あれも苛めたくなったから、何も言わなかったの?」
「うーん。あれはいろいろ」
「いろいろ?」
「別れなきゃならない時に別れたくないって言った深山に腹を立てていたこともあったし、いい加減誠二の干渉に疲れていたときでもあったし、卒業して就職して……考えることが一杯あって、気分的にさすがに落ち込まざるを得ない時だったから……だから、深山を思いっきり冷たい言葉言って……誠二達には適当に思いこませた。まさかこんなにこの悪戯が尾を引くとは思ってもみなかったけどね」
「……それでも自分が悪いとは思っていないでしょう……」
「どうして?」
 にっこりと笑う智史に幸はがっくりと俯いた。



 誠二は幸の視線に押されるように足を進めていく。
 矢崎が狼狽えているのが判った。
 その場所から動こうとして迷っているようだ。
「矢崎」
 誠二は呼びかけた。
 その言葉に矢崎は、きっと口元を引き留め、そして誠二を見つめた。
 誠二は矢崎の元まで来ると、少しだけ場所を移動させた。このままの場所だと縁側から丸見えで、いつの間にかそこにいる智史と幸に様子が丸見えだからだ。
「何しているんだ?」
 視線を合わすのが躊躇われて、全く別の方を向いたまま問いかけた。
 返事はなかった。
「何しているんだって聞いているんだ」
 誠二の口調に怒りがこもる。
 ちらりと矢崎を見ると、矢崎もまた眉間にしわを寄せている。
 怒っているのかな……。
 誠二はふとそう思った。
 だが、その理由は判らない。
「矢崎……」
 何も話そうとしない矢崎に、誠二はとまどっていた。
 幸に押されるようにここまで来てしまった。
 矢崎を指さされたとき、自分はどうしても矢崎の元にいきたいと思った。
 やっと自分が矢崎を求めているのを自覚した。
 が、だからといって、何を言って良いのか判らない。
 一方的に関係を切ったのは誠二の方で、あれから一度も連絡を取っていたわけではない。
 矢崎が落ち込んでいるとは智史から聞いていたが、その理由が判るわけでない。
 怒っているんだろうな。
 なんだか、馬鹿だな、おれって……。
 誠二はむなしくなってきた。
 切ったのは自分の方なのに、どの面下げて矢崎の元に来てしまったんだろう。
 あの時なら、矢崎は受け入れてくれたかもしれない。しかし、それを誠二は自分から断ち切った。
「ごめん」
 誠二は、ぽつりと呟いた。
「今までありがとう……」
 そう言おうとして、声が掠れる。
 俺……。
 つつっと頬に涙が伝うのを感じた。
 なんだかそんな姿を矢崎に見られたくない。そう思った誠二は、脱兎の如く長屋の裏に走り込んだ。
 裏から長屋に入り、二階に上がる。そこは恵と優司の部屋が物置をかねて残されていた。二人が戻ってきた時だけ使われる部屋。二人は、母屋の座敷で親戚を相手にしているため不在だった。
 その1室に駆け込むと、誠二は壁にもたれた。
 そのままずるずると座り込む。
 やっぱ駄目だ。
 矢崎は怒っているんだろうし……。
 もともと取引で成り立っていたから……今更矢崎とよりを戻そうなんて無理だよな。
 だけど……。
 なんだか、すっげー悲しい。
 幸、ごめん。
 俺、やっぱ駄目だわ。
 嗚咽とともにあふれ出す涙が、ぼたぼたと床に落ちる。
「ごめん…・…」
 誰にともなく呟く。
 ばかだよなあ。今更、自分の気持ちに気がついたって……もう遅いのに。
 今まで、あんなに苦しかったのは、全部自分が自分で気がついていなかったから……。
 父さんのこともそうだ。
 いなくなって始めて、自分の気持ちに気がついた。
 俺は父さんが好きだった…・…。
 矢崎も失って始めて気がついた。
 俺は……矢崎が好きだった。
 矢崎の腕の中にいるのが好きだった。
 矢崎に抱かれているとき、自分が自分でいられるような気がした。
 だからこそ、無意識のうちに必要以上に近づいていかなかったのかもしれない…・…。
 でも、気づいたときには……もう遅い。
 流れ出す涙。
 誠二は、立てた膝の中に頭を抱え込むようにして泣いていた。
 だから、気づかなかった。
 開いたままのドアの横に立つ人影に。
 だから、声をかけられたとき、本当にびっくりした。
 上げた顔が涙でぐしゃぐしゃなのにも気がつかず、呆然とその姿を見上げた。
「誠二さんがそこまで泣くなんて思いませんでした……」
 相変わらず眉間にしわが寄っていたけれど、でもその瞳は優しげに誠二を見下ろしていた。
「や、ざ、き……」
 誠二が喘ぐように言う。
 矢崎はすっと誠二の横に跪いた。
「ひどい顔ですよ。何をそんなに泣いているんです?」
 矢崎の手が誠二の頭を宥めるように動く。
「や、矢崎……」
 誠二は急に羞恥心がこみ上げてきた。頬が火照るのを隠すように下を向く。
 そんな誠二の顎に手をかけ、矢崎は誠二を上へ向かせた。
「見せてくださいよ。あなたの泣き顔」
 言われて、さらに顔が熱くなる。
「何で、そんなに泣いているんです?」
 からかうような言葉に、誠二は掴まれた手を振り解こうとした。が、矢崎はそれをさせまいと両手で誠二の頬を挟む。
「聞かせて欲しいです。何で泣いていたのか……」
 その口調とは裏腹に矢崎の声は優しげで、誠二の口から言葉が漏れた。
「矢崎に嫌われたかと……思った……」
 その言葉は小さかったけれど、矢崎には充分届いた。
 届いたから、矢崎は誠二の頭をかき抱いた。
「俺があなたを嫌うなんてこと、ありやしません。俺こそ、あなたに嫌われたんだって思ってました……」
 その言葉に誠二の心臓の鼓動が跳ね上がる。
「矢崎、俺のこともう嫌いになったのかと……」
「俺、あの電話の後もずっと毎日毎日、誠二さんの家の近くに行っていました。だけど、押し掛ける勇気が無くて……誠二さんが家族を大切にしているの知っていたから……だけど、一日だって忘れたことなかった。今日だって、葬式だっていうのに、不謹慎なんだけど……悲しみに暮れていた誠二さんを抱きしめたかった。ずっと……もうずっと」
 矢崎の手に力が入る。
「そしたらね、智史さんが声かけてきたんです。もし誠二さんの事がまだ気になるなら、さっきの場所にずっと立っていろって……だから、あそこに立っていた。葬式終わって、滝本さんの家の人があの家に入ってからずっと……」
「ずっとって……」
 誠二は思わず時間を計算する。
 少なくとも2時間以上は立っていたというのか。
「そしたら、縁側にあなたが出てきて、幸さんと話を始めて……仲良さそうなそんな姿に、嫉妬してました。俺、何でこんな所にいるんだろう。何をやっているんだろうって……もう帰ろうかと思った。そしたら、あなたが来て、びっくりした。しかも怒っているみたいで……俺、弁解の余地なんてなかったし、黙っていたら・…泣き出すんだもんな」
 くすりと笑う。
「俺も、矢崎が怒っているのかと思った……」
 手が矢崎のシャツにしがみつく。
 動機が激しくて、息が苦しい。
「怒っている、か……確かに最初は怒っていたかも。でも、やっぱり忘れられないんです。あなたのあの表情が……」
「表情って?」
「ベッドの上で俺を受け入れようとするときの、あなたの表情」
「お、おま、え!」
 怒りと羞恥に全身を茹で蛸のように赤く染めて、誠二が腕の中でもがく。
「ば、かやろ!」
 顔を上げて睨みつける誠二に矢崎はそっと口づけた。
 それは一瞬だった。
 が、すうっと誠二の怒りが収まる。
「俺、もう離しません。俺の利用価値なんて誠二さんにないかもしれない。だけど、なんと言われようとも、俺はあなたを離さない」
 きつく抱き締められて、誠二は苦しくて喘ぐ。
 だけど、今言わなければいけない事がある。
 誠二は、喘ぐように言葉を紡いだ。
「ばっか……やろー。お前の利用価値がないなんて、俺、思っていないからな……。俺だって、お前がもう嫌だって言ったって、絶対、離さない!」
 ぐっとシャツを握った手に力を込める。
「俺、もう絶対離さない!」
「俺だって、離しません。誠二さんを愛しています」
 耳元で囁くその言葉が心地よくて、うっとりと身を委ねる。
「俺も……矢崎のこと好きだ……愛している……」
 誠二からの始めての告白。
 どんな時でも絶対に言わなかった誠二の言葉に矢崎は頭の中が真っ白になる。
「せ、い、じ……」
 そっとその唇に口づけると、誠二の方から押し当ててくる。
 それは飢えていたかのように激しくて、矢崎を煽る。
「俺……もう、我慢できませんよ……」
 わずかに唇が離れた時、矢崎が言った。
 その言葉に誠二の瞳が赤く染まった。それがひどく扇情的で、さらに矢崎を煽る。
 たまらず誠二の首元に口づける。
「ん……」
 それだけで、誠二の身体が震える。
 矢崎の手がシャツの下から入り込み誠二の身体をまさぐる。
 その手が暖かくて、誠二はうっとりと身体を投げ出していた。
 手が優しくなでるたびに疲れきっていた心が落ち着くような気がした。
 矢崎の胸に押しつけた耳元から矢崎の心臓の音がする。
 少し早く聞こえるその音が誠二のこわばった身体と心がひどくリラックスしていく。
 なんて……楽なんだろう……。
 …・…。
「誠二、さん?」
 矢崎が弛緩した誠二の身体を抱き起こす。
「誠二さんってば」
 少し強く揺すってみるが、すうすうと寝息を立てている誠二は目覚めそうにない。
「ほんとに、寝てる……」
 呆然と誠二を抱き上げていた矢崎は、それでもくすりと笑みを浮かべるとそっと誠二を抱えなおした。
 隣の部屋が畳であるのを見て取ると、そこにそっと寝かせる。
「ずっと寝ていなかったんでしょうね……」
 優しく労るようにその頭をなでる。
「いいですよ。今日は。あなたの気持ちが聞けただけで満足ですから」
 そう言ってふと手を止めた。
 その表情に意地悪い笑みが浮かぶ。
「でも次の機会では容赦しませんよ。心ゆくまであなたを抱かせて貰いますから……」
 矢崎の傍らで安心したように眠る誠二にその言葉は聞こえていない……。



 何か音がしたようで、唐突に目が覚めた。
 完全に暗くなった周囲に、目が慣れない。
「目が覚めました?」
 声が聞こえて、そちらを見る。
 灯りが灯され、その光から目を守るように腕で目を覆った。
「さっき智史さんが来られて、お客がそろそろ着くから来てくれないかって」
 逆光の中、その声とシルエットで立っているのが矢崎だと判る。
「お客?」
 目覚めは良かったが、なぜここに矢崎がいるのか判らない。
 ぼうっとした視線を矢崎に向ける。
「何で矢崎がここにいるんだ?」
「何でって?覚えていないんですか?」
 矢崎が誠二の横に跪き、近づけたその顔に苦笑を浮かべる。
「えっと……」
 矢崎の顔が近づくと、知らず知らずのうちに顔が紅潮するのが判る。
「あんなに熱い愛の告白、忘れたんですか?」
 言われて一気に思い出した。
 血流がすべて顔に集まったかと言うぐらい、顔が熱い。
 心臓がどくどくと激しく波打った。
「お、もいだした・…もしかして、俺、寝た?」
 抱き合って……その後の記憶がない。
 身体に違和感がないから、事には及ばなかったことだけが判る。
「ええ。もう、ぐっすりと……先ほど智史さんが来られた時に聞いたんだけど、2日間ほとんど寝ていなかったんでしょう。少しは休めましたか?」
「うん……」
 なんだか情けなくて俯いてしまった誠二の頭を、矢崎はぽんぽんと叩く。
「今7時なんですけど、お客がそろそろ来るので夕食を一緒にしようってお誘いがあったんです。この服を持ってきてくれましたよ」
 そういって、普段着を手渡された。
 なんだか、智史にはすべてを見透かされているようで、顔を合わせるのが恥ずかしい、が、客ともなるとそうも行かないだろう。
 しかし、今時分の客とは?
「誰が来るって?」
「さあ、ただ、俺も夕食を一緒にって誘われた時に、固苦しい相手じゃないって言ってましたが?」
「ふーん。誰だろう」
 言いつつも、しわだらけになったシャツとズボンを脱ぎ、服を身につける。
 ふと、矢崎の服装が前のままなのに気がついた。
「なあ、俺が寝ている間、もしかしてずっとここにいた?」
「ええ」
 にっこりと笑みを浮かべる矢崎に、誠二はまたも顔が熱くなるのを感じた。
「家に帰って入ればよかったのに……」
「じゃあ、誠二さんは起きたときに一人でも良かったですか?」
「い、いや、それは……」
 口ごもる誠二に矢崎は声を立てて笑った。
「たっぷりと誠二さんの寝顔を堪能させてもらって、俺はうれしかったです」
「矢崎ぃ!」
 唸る誠二に矢崎は手をさしのべた。
「さあ、行きましょう」
「あ、ああ」
 二人は揃って母屋へと向かった。


 母屋には、滝本家の家族となぜか深山がいた。
「今回は、深山さんと矢崎さんにはとてもお世話になったのから、残り物で悪いけど、夕食ご一緒しましょうってことになったのよ」
 幸が二人を招き入れる。いつもと変わらない智史の横に誠二は座った。
 矢崎は誠二の対面に座らされる。深山は智史の対面だ。
「誠二、少し顔色が良くなったようだな。大丈夫か?」
 知っている筈の智史との会話が妙にこそばゆい。
「ああ、ちょっと寝たから……それより兄さんこそ大丈夫なのかよ」
「俺達は少しずつ仮眠をとっていたからな。全く寝ていないのはお前ぐらいなもんだ。いくら言っても聞かないから」
「へ?そうだっけ?」
 全く記憶がない。
「何言っても上の空だったから……」
 智史が苦笑いを浮かべる。
 言われて誠二もその時の状況を思い出す。あの時は、本当に頭が働いていなかった。
 何もかもがいっぺんに重なって、何をしていいか全く判らなかったから。
 と、ふと気がついた。
 客が来るっていっていた割には、この場には深山と矢崎以外は家族だ。
「なあ、誰が来るって?」
 そういうと、優司が不審そうに視線を向けた。
「誰か来るの?」
 どうやら聞いていないのは優司と誠二だけらしい。
 長屋にこもって寝ていた誠二ならともかく優司が聞いていないとはどういうことなのだろう。
 すると恵が下を向いて必死に笑いを堪えている。
「恵?何笑ってんだよ?」
 優司が恵をつつく。
「いや、そろそろ来るからさ。楽しみにしててよ」
 言われて優司は不審そうに眉間にしわを寄せた
「兄さん?」
 誠二の問いにも智史は答えそうにない。
 と、
 庭先から車が入ってくる音がした。
「あ、来たかも」
 恵が立ち上がり玄関先に飛び出していく。
 その後ろを智史が付いていき、誠二と優司は顔を見合わせた後、好奇心には勝てず玄関へと向かった。
 白い車が月明かりに照らされている。
 満月に近い月のせいで庭先は充分明るかった。
 恵が運転席から降りた人物に話しかけている。
「もしかして、篠山さん?」
 優司が唖然と呟く。
 だが、助手席側から降りた人物を見た途端、優司は履き物を履くのももどかしく庭に駆けだしていた。
「おい!」
 誠二が、慌てて後を追う。
 取り残された深山と矢崎は縁側に出て、この来客者を観察していた。深山が矢崎に耳打ちする。
 なるほど、というように矢崎が頷いた。
 そして、庭先の出来事に視線を移した。
 優司が驚いたようにその人に話しかけている。
 誠二はその人物を呆然と見つめていた
「はじめまして、笹木秀也ともうします。優司さんと同じ会社のものです」
 そう智史達に挨拶をした人間は、この辺りでは見かけることが出来ない位、整った顔とスタイルをしていた。黒々とした髪が月明かりに照らされ、余計にその整った顔を際だたせている。
 いわゆるジャニーズ系の顔立ちなのだが、落ち着いた雰囲気がよりこの笹木秀也という人物を際だたせているようだった。
 フォーマルを兼ねた黒いスーツがとにかくよく似合う。
 まだ若いと思えるのに、興奮している優司の方が子供っぽく見えた。
「笹木さん?」
 誠二が呟く。
 と、それに反応して秀也がこちらに視線を向けた。
 その視線の鋭さに、誠二は自ら目をそらす。
「こんな遅くに申し訳ありません。本当なら篠山さんだけでも先に来る予定だったんですが、私の方が間に合いませんで、篠山さんを待たせてしまいました」
 誰にともなく秀也が話しかける。
「秀也、もしかしてこのためだけに東京から来たのか?」
「来たかったからね」
 秀也の言葉が、優司に話しかけるときだけ崩れ、しかも優しくなる。
「さあ、どうぞ。お上がり下さい。もう家族と親しいものだけなんです。夕食をご一緒しようと思いまして」
 智史が二人に話しかけた。
 うれしそうな恵と優司が、二人を引っ張るように連れて行く。
「あれが、優司の相手か?」
 呆然と呟く誠二に、智史は軽く頷いた。
「篠山さんから連絡を貰って、彼も来るとは聞いていたんだけどね、優司をびっくりさせようと思って黙っていたんだ」
「俺、驚いた」
「そうだな。なんかテレビから抜け出てきたような人だな。華があるっていうか……」
「これで優司が女なら、よくやったっていいたい気分なんだが……」
 口の端を歪める。
 電話の声だけでもいい声だとは思ったけれど、顔やスタイルまであそこまでいい男がいるなんて……。
「さ、部屋に入ろう」
 智史に促されて誠二は座敷へ向かった。



「父さんは周りが賑やかな方が好きだったから」
と、智史がいい、母親までそれに賛同して盛り上がった宴会は、9時を過ぎた頃、女性陣と子供達がそれぞれの部屋と家へ帰ることで一気に静かになった。
 その光景は父親と行った最期の宴会の様子に似ていたから、誠二達はしばらく無言だった。
 今日だけは母親を一人にしたくないと、智史が母親を理恵のもとに連れて行って帰ってくるまで、皆何もしゃべらなかった。
「深山さんと矢崎さんはご自宅の方、大丈夫ですか?よければもう少しおつき合い願いたいのですが」
 帰ってくるなり智史が今は意気投合している二人に話しかけた。
「あ、ああ、大丈夫だよ」
 深山が頷くと、矢崎もちらりと誠二に視線を投げかけてから頷いた。
「篠山さんと笹木さんは、今日はお泊まりくださるんですよね」
 にっこりと微笑みかける。
「でも、ご迷惑では?」
 出がけの電話で泊まるよう念押しされていたとは言え、義隆はささやかな抵抗を試みた。
「とんでもない。この後、お帰しして事故でも遭われたら、弟たちに顔向け出来ませんから。田舎の家ですから泊まる部屋は幾らでもありますので、お気になさらないでください」
 そこまで言われて義隆達は顔を見合わせ頷いた。
 実は二人とも智史に勧められて結構ビールを飲んでいた。今更帰ろと言われても実は困るところだったのだ。
「なあ恵。兄さん、いつの間にそんな話ししたのさ?」
 優司と恵が顔を見合わせている。
「俺が電話していたのに、途中から急に電話取り上げて……すっげー強引だったんだから……」
「何か、兄さん企んでいる?」
「まさか?誠二兄さんであるまいし……」
 誠二はこそこそと話している優司と恵の頭をこづいた。
「誰の悪口言っているんだ?」
 睨み付けられ、二人は首をすくめる。
 そんな二人を義隆と秀也はくすくすと笑いながら見ていた。
「さてと」
 智史がぽんと手を叩いた。
 みんなが一斉に智史に集中する。
「今日はみなさんご苦労様でした。父も賑やかに送ってくれたと喜んでいると思います」
 正座をし、深々と頭を下げる智史を全員呆気に取られて見ていた。
「兄さん……」
 誠二が声をかけようとするのを手で制止した智史は言葉を継ぐ。
「これからも兄弟仲良くやっていきたいと思う。不幸中の幸いって言うのかな。何かいろいろあったけど、今はなんとか落ち着いたみたいだし……」
 智史の視線が誠二に向かっているのに気づいて、誠二は頬が紅潮するのを止められなかった。
「それに優司と恵の彼達はこんなところまでわざわざ来てくれるほどいい人たちだしね」
 今度は優司と恵が真っ赤になり、義隆と秀也は言葉もなく固まっていた。
「俺、うるさい事はいわないから……だけどいつまでも兄弟仲良くやっていきたい。そのためにも、ここにいるみんながずっと仲良くできたらって思います」
「兄さん……」
「ここにいる深山さんに証人になってもらうよ。俺がたのんだんだ。お前達の関係、知っているし、理解ある人だから……それに、きっといつまでも俺と深山さんは友達でいられる。だから、ずっとお前達を見守ることができると思う」
 二人が顔を見合わせる。
 頷きあう二人は、とても息があっていて、誠二はもの凄くうらやましく感じた。
「どうだ?いつまでもお互い仲良くやっていけるって思えるか?」
「もちろん!」
 間髪いれずに恵が叫んだ。
「俺、兄さん達の弟だってこと誇りに思うよ。兄さん達だから、俺と義隆の仲認めてくれたんだし、俺、まだ義隆とつきあい始めて日が浅いけど、別れる事なんて考えられない。いつか……考えたくないけど、いつかそういうことがあったとしても……智史兄さんと深山さんみたいに仲良くできたらって思う」
 にこにこと言う恵に義隆も照れたような笑みを浮かべた。
「優司は?」
 智史に促され、優司は俯く。
「……俺、秀也と逢えてよかった。今の仕事やっていける自信がついたのも秀也がいたから……俺、離れる事なんて考えたくない……」
「俺は、優司を大切にします。それでなくても普段逢えないから、心配掛け合っているけど……だからこそ、大切にしたいって思っています」
 言葉少ない優司を支えるように秀也が言葉を継いだ。
「誠二は?」
 誠二は智史達の視線をまともに受け、心臓の動きが早くなる。
「俺……今まで通りだよ。幸がいて、子供達がいて……そして矢崎がいる。それだけだ」
 精一杯の言葉。
「だけど、それがずっといつまで続くこと願っている……」
「誠二さん……」
 感極まったような矢崎の声に余計恥ずかしさが沸き起こる。
「深山さん、聞いてくれました?」
「ああ……ちなみに、俺、お前の兄弟じゃなくてよかったって今思っているんだけど……」
深山が苦笑いを浮かべながら智史に言う。
「何で?」
 にっこりと邪気のない笑顔を浮かべる智史に深山はため息をつく。
「お前、どこの世界に自分の恋人をどれだけ愛しているか言葉にさす兄貴がいるか?しかも全員の前で」
「変か?」
「変だと思わないんだろうな……お前は……」
 智史兄さんって……。
 誠二は呆気に取られて二人を見ていた。
 性格悪い……。
「でさ思うんだけど」
智史のにこやかな言葉に深山はひきつった表情を浮かべた。
「結婚式って誓いのキスって結構定番でしょ。だから、3人にもして貰いたいんだけど」
 かしゃーん
 コップが倒れる音がした。
「うわっ、タオルっ!」
 恵が慌ててタオルを取りに走る。
「お前……相変わらず……」
 深山が額に手を当てて眉間にしわを寄せる。
「……兄さん……俺達に恨みでもある?」
 誠二が恨めしげに睨む。
「どうして?だって見たいだろ?」
 事も無げに宣う智史に誠二は、憮然とする。
「誠二君……たぶん智史、頭がハイになっている」
 深山がそっと誠二に話しかける。「あいつ、たぶん寝不足ピ—ク+酔いがまわっている」
 あ、眼が座っている……。
 やっと気が付いた誠二達が、ひきつった嗤いを浮かべて、ずりずりと後ろへ後ずさる。
「さ、見せてくださいね」
 にこりと笑いかける智史に誰が文句を言えようか。
「見せてくれないなら、仲を邪魔してあげるから」
「さっきまで、仲良くしないと駄目だって言ってたじゃないか……」
 優司が呟くが、だが直接智史に文句をいう気力までは起きなかった。
「ね、見せてよ。そしたら安心できるからさ」
 安心って何がだ。
 誠二達は、互いの相方を引き連れていかにこの場を逃げ出そうかと画策する。
 が。
「駄目だよぉ、逃げたらさあ、絶対邪魔してあげるから」
 にこにこ笑っている智史が鬼に見えた
 その後ろで深山が深いため息をついていた。
「あの……キスしないとすまなそうなんですけど……」
 最初に諦めたのが秀也だった。
 秀也と義隆、それに矢崎が額をつき合わせて小声で相談し始めた。
「俺、ああいう酔っぱらい相手したことあるんですけど、ああなると言うこと聞くまで絶対折れないんですよ。なんだかんだ言って、その手段はともかく、お互い仲がいいところをみたいってのは本気みたいですし……」
「しかしなあ、こんな衆目の前でキスしなきゃいけないのか?」
 義隆が情けなさそうな声を出す。
「この場合、しようがないと……みんな一斉にするってのはどうです?」
 矢崎が案を出す。
 滝本兄弟は、長兄のとんでもない言いぐさに3人とも小さくなっていた。
「ねえねえ、見せてよ。あっつーいキス」
 だんだんテンションが高くなる智史。
「そろそろやばいな。あの状態が過ぎると今度は怒り出しそうだし、その方が厄介だと思うけど」
 秀也が目敏く見て取る。
「仕方がないのか?ところでどの程度のキスなんだ?」
「それは……熱いキスっていうご要望ですので……」
 秀也、義隆、矢崎の視線がそれぞれの相方に注がれる。
「え……」
 誠二、優司、恵がびくりと反応した。
 それぞれの相方から後ずさる3人。
 秀也が手を伸ばして優司を捕まえた。
「秀也……。や、やだよ……」
優司が身を捩ろうとするのを右手で抱きしめる。そして、左手でその顎を捕らえた。
「し、秀也、マジ?」
 怯えたような眼を見せる優司に秀也は笑みを浮かべる。
「仕方ないだろ。お前の兄貴、滅茶苦茶性格悪いよ。だからね、しょうがないって……」
 そう言うと、ゆっくりと口づけた。
 熱いキスか……。
 秀也は舌で優司の唇をなぞる。
 ざわりとした感触に、優司は思わず眼を固く閉じた。
 ふっと秀也が唇を離す。
 優司が眼を開けると、秀也がじっと優司の眼を見つめていた。
「そんなに食いしばらないで」
 吐息のかかる距離で言われ、優司の心臓が跳ね上がった。
 喘ぐように漏れる息が秀也のものと絡まる。その口元に再び秀也の唇が押しつけられた。
 優司の緩められた唇の間から舌が侵入してくる。
 久しぶりのキス。しかも見られていることが優司の身体を余計に熱くさせる。
 優司の手が秀也の身体に回される。
 優司は智史に見られていることを忘れていた。

 その横で、義隆が恥ずかしがる恵を捕まえていた。
「逃げるなよ?」
「冗談!本気かよ」
「仕方ないだろ。ほら滝本くんだってしているんだから、さ」
 恵の視線が優司達を捕らえる。
 その姿を見た途端、恵は全身の体温があがった。
 始めて他人のキスを目前で見た。
 しかもそれが兄なのだ。
「ここで俺達がしないと後で滝本君達に恨まれるよ」
 耳元で囁かれ、恵はぎりっと歯を食いしばる。そして、恨めしげに義隆に視線を向けた。
「俺、後で兄さんに仕返ししたいな。何かない?」
「後でゆっくり考えてくれ」
 義隆の顔が恵に近づき、恵は仕方なく上を向いて瞼を閉じる。
 すぐさま恵の口腔に義隆の舌が侵入してきた。歯列をなぞり、蠢いて逃げようとする恵の舌を捕らえる。
 それでなくてもキスに弱い恵は、途端に漏れ出した喘ぎを必死で我慢しようとする。
 恵の手が義隆のシャツを握り締めた。

 そして、矢崎がにっこりと微笑みながら誠二を捕まえた。
「お前、こんなとこで本気か?」
「智史さんの言うことですよ。逆らえます?」
「何か、やだ……」
 俯く誠二を、矢崎は屈み込んで見上げた。
「眼だけ閉じていてください、ね。すぐ済ませますから……」
 言われて仕方なく眼を閉じた誠二の口元に下から柔らかいものが押し当てられた。
 身体に回された腕がきつく誠二を締め付ける。
 それだけで、身体か熱く火照ってきた。
「ん……」
 知らずに漏れた喘ぎに煽られた矢崎が深く舌を侵入させた。
「やっ」
 逃げようとする誠二に矢崎はその頭を押さえつける。それでも身を捩って逃げようとする誠二に、矢崎は仕方なく唇を外した。
「おまえ……何考えてんだよ。すぐ済ませるって言ったじゃないか!」
 くってかかる誠二に、矢崎は苦笑いを浮かべる。
「だって、熱いキスってご要望ですから、やっぱりこれくらいは、ねえ」
「ねえじゃねえって!」
 睨み付ける誠二。矢崎はその耳元に口元を寄せ、囁く。
「あなたの弟達は、がんばってますよ。負けたくないと思いませんか」
 熱い息が耳朶をくすぐる。
 誠二はちらりと周りを見渡し……深く息を吐いた。
「……後で覚えてろ」
「覚えておきます」
 そして矢崎は再び唇を逢わせた。今度は誠二も受け入れる。
 自ら開いた口から、矢崎の舌を受け入れ絡める。
 もう、どうとでもなれ
 と思った。思ったら、矢崎を自然に受けて入れていた。
 これが誓いのキスなら、それでもいい。
 全身に走る甘い痺れに身を委ねながら誠二は矢崎に回した腕に力を込めた。
 離さないでくれ。
 矢崎の腕の中でなら、俺は自分に戻れるのだから……。
 矢崎が身体を離した。
 名残惜しげな誠二の唇に矢崎がもう一度軽く触れるだけのキスをする。
「ん」
 ぼおっとした視線は、次の瞬間焦点を取り戻した。
 痛いほど突き刺さる視線が弟達から向けられたものだと気づいたからだ。
「なっ!」
 慌てて矢崎から離れる。
「智史兄さん、寝ちゃったんだ……」
 恵がやや赤い顔を背けた。その横でじとっと誠二を見つめる優司の視線が一番痛い。
 その視線から眼をそらし、誠二は義隆に気怠げにもたれている恵を見た
「寝た?」
「俺達がキスしているのを見たら満足して、あっという間だって」
 言われて見ると、智史は深山の膝の上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「す、すみません。深山さん……」
「いや、いいんだ。疲れていたんだろうから。それより布団は?」
「あ、すぐに」
 誠二は立ち上がろうとした。
「あれっ」
 がくりと膝をつく。
 腰が、立たない……。
「はは。誠二兄さんもだあ」
 恵がけらけらと笑いかける。
 誠二兄さんも?
「もしかして、お前らもか?」
 手をついて身体を支えながら、恵と優司を交互に見る。
「すっごいんだもん、義隆のキスって。俺、いっつも足腰立たなくなるんだよね」
 お、お前、完全に割り切ったな。
 恵に甘えるようにしだれかかられている義隆の方が恵より赤くなっていた。それでも、その手はさりげなく恵の腰に回されている。
 若いなあ、お前ら……。
「布団……そこのふすまだから。秀也頼むわ」
 ほおと一つため息をついた優司が、秀也に頼んだ。
「ああ、分かった」
 秀也は優司の身体を壁にもたれさせると立ち上がり、布団を取り出す。
「秀也、ついでに全員のも出して……」
「はいはい」
 苦笑いを浮かべる秀也が次々と布団を出した。「足りなくないか?」
「んー。だったら、隣のあそこの押入ん中にも入ってる」
 優司に言われて、秀也は次々と布団を取り出していった。
「優司、お前動けないのかよ。笹木さんばっか使って」
 誠二が睨むと、優司がにたりと笑う。
「兄さんだって動けないんだろ。それに秀也が一番元気そうだし、働いて貰ってもいいじゃない」
「お前、笹木さんはお客様だろうが」
「あ、いいですよ」
 言っている間に布団を並べ終わると、今度は智史の側に向かった。
「布団に入れましょうか。深山さん手伝ってください」
「あ、分かった」
 深山が智史の脇の下に手を入れ、秀也が智史の足を持ち上げて運ぶと、そっと敷き布団の上に横たえた。深山が掛け布団をかける。
「疲れたんでしょうね。明日までゆっくりと休んでください、ね」
 そっと話しかける。
「……ん」
 その声が聞こえたのか、智史の瞼がすうっと開いた。
「ゆ、うた……」
 智史の口から漏れた言葉に、深山の動きが止まった。
「あっ」
 微かな叫び声が秀也の口から漏れた。智史から深山に視線を巡らす。
 だが、微かな笑みを口元に浮かべると深山はとんとんと布団の上から軽く叩きながら優しく囁いた。
「智史さん、おやすみなさい」
 その振動に智史は再び瞼を閉じると、あっという間にすーすーと規則正しい寝息が始まった。
「寝たようですね。じゃあ、みなさんも寝ましょうか」
 言われて誠二は急に身体が重く感じた。
 腰が立たなかったのはこの疲れのせいもあるのかも知れない。それほど、動くのが億劫な程疲れが出てきた。
「矢崎ぃ、寝よ」
 のろのろと四つん這いで布団に潜り込む。
 矢崎が布団を掛けてくれると、その心地よさと安心感で急速に眠気が襲ってきた。反対側の端で恵と義隆が何か囁きながら布団に入るのが見えた。恵が笑い、義隆が赤くなっている。
 優司達は部屋の片隅で、こそこそと内緒話に励んでいる。
「ん……矢崎、寝るよ」
 いつまでも布団に入ろうとしない矢崎に、誠二が呼びかける。
 眉を寄せ何か考え込んでいる風な矢崎が、諦めたようなため息をついた。
「分かっていないんだから……」
 ぽつりと呟くと、矢崎は頭を数度振って布団に潜り込んだ。
「何が?」
 矢崎の言葉を聞きとがめて、誠二は上目遣いに矢崎を見つめる。
「……そんな風に見つめないでください」
 困ったように呟くと、矢崎は誠二の耳元に顔を寄せた。
「今日は、仕方ないですけどね。約束ですよ。いつかきっと……」
 そっと囁く。
 誠二はくすぐったそうに首をすくめると、返事もせずに眼を閉じた。
 だが、矢崎には誠二の頬がすっと紅潮したのが見て取れた。

 明かりを落とし薄暗くなった部屋の中で、まだ起きていた人がいた。
 話し込んで眠り損ねた優司と秀也、そして智史の様子を見ていた深山だった。
「深山さん」
 秀也がそっと深山の横に移動した。
「寝ないんですか?」
 深山が智史から視線を外し、秀也の方を向いた。その向こうで優司が不安そうな表情を見せている。
「俺、あんまり疲れていないんです」
 くすりと笑う。「でも、まさか葬式にきてこんな宴会に参加するとは思いませんでしたが」
「きっと智史はさ、自分が賑やかな中にいたかったんだよ」
 深山は智史の寝顔を見つめながら、ぽつりと言った。
「外見はおっとりしてて穏やかで、どんな時でも笑っているような奴だけど、結構寂しがりやだったからね。兄弟達が大好きで、だけどいつまでも一緒にいられないってそんなことで悩むような奴だった。だから、みんなが揃った今日が凄い嬉しかったんだと思うよ。他人から見れば不謹慎なことかも知れないけど……」
「不謹慎なんてことないと思います。亡くなられた方も、兄弟が仲良くしているのを見て安心していると思いますよ」
 と、部屋の端から突然話しかけられた。
「そうだよなあ。兄弟仲良くってのが一番供養になると思うよ」
 むくりと起きあがった人影に、3人の視線が集中する。
「篠山さん、起きていたんですか?」
 優司が驚いたように言う。てっきり恵と一緒に眠ったのかと思っていた。
「俺もたいして疲れていない。いつもならこんな時間起きているから。滝本君こそ、大丈夫なのか?」
 四つん這いで這うように3人の元にやってくる。
「私もこの程度はしょっちゅう起きていますから。昨夜は智史兄さんに無理矢理寝かされていたんで……睡眠取れているんです」
「ふーん」
 分かったような分からないような曖昧な返事を返すと、義隆は黙ってしまった秀也に視線を向ける。
「なあ、笹木。さっき智史さんが深山さんの名前を呼んだとき叫んだろ。あれが気になったんだけど……」
「もしかして、それでずっと起きていたんですか?」
 呆れたような口調に、義隆は僅かに口元を歪めた。
「なんていうかさ、何かに気が付いたって感じだったろ。それが気になって、気になると考え込んじゃって余計眠れなかった」
「何を考えていたんですか?」
 秀也が義隆に反対に問う。
「んー。智史さんて、まだ深山さんが好きなんじゃないかって。それに気づいたんじゃないかって」
「そ、そんなことありません」
 義隆の言葉に先に反応したのは深山だった。
「私たちは、高校卒業と同時に関係を精算したんです。今は親友です」
「でも、彼の本心はそうじゃない」
 秀也が智史を見つめながら言った。
「彼は、あなたが好きで、それを心の奥底に隠しているんだ。心の奥底でその穏やかと思わせている性格にくるんで、表に出てこないようにして……ずっと隠してきたんだ。あなたに逢いたかったことも、忘れられなかったことも。そして今でも愛していることを……ずっと、隠していたんだ」
 それは穏やかな声で、優しく言い聞かせるような言い方だった。
「彼はね、深山さん。あなたを忘れていなかった……今だってずっと愛しているんだ……」
「そんな筈、ないです」
 深山が苦しそうに顔を歪める。「だって彼から別れて、しかも再会したときに友人してやり直そうって、言ったのは智史さんですから」
「それは、そう言わないとあなたを苦しめるって思ったからだと思いますよ。あなたにも智史さんにも家族がいる。どちらも壊せないから。なら、友人してしかつき合えない、と」
「それは……」
「あなただって本当は智史さんを愛している。別れている間もずっと……あなたはお父さんが倒れられたから、故郷に帰ってきたって聞いています。でも、本当はそれはきっかけでしか過ぎなかった。あなたは帰ってきたかったんです。あなたが愛した人のいる所へ。落ち着いた大人として、また智史さんの前に出ても冷静でいられる演技ができる程の大人になった自信がついたから、帰ってきた……」
 秀也の言葉に深山は眉をしかめる。それを無視して、秀也は言葉を継いだ。
「俺は、誠二さんと一度話をしたことがあるんです。あなたが何をしていたのか、調べて欲しいってね。俺は前の会社を知っています。営業の人に知り合いもいるんですよ。彼がね、あなたのこと知っていました。その人が言っていました。あなたはいつも故郷の話をしていたって……あなたは常に帰りたかったんですよね。あなたの故郷に……智史さんがいる故郷に」
 沈黙が部屋を支配した。
 誰もが何も言わなかった。
 言えなかった。
 だが、沈黙は肯定をも表した。
「俺……分かるんです」
 ぽつりと秀也が呟いた。
「し、秀也、まさか……」
 優司か慌てたように制する。が、秀也はそちらに向けてにこりと微笑んだ。その表情に優司は口を閉じた。
「俺、昔からすっごく人の感情が分かってしまうんです。特に胸に秘められた思いってのは特に敏感に分かってしまって。もう一種の特技をこえているような位で……そういうのってみんな心を読まれているみたいで嫌なんだろうけど……俺も、人の心の裏が分かってしまって嫌だった。だけど、これが俺だから……俺、諦めていたんです」
 義隆と深山が秀也の真剣な言葉に黙って聞き入る。
「俺、人並みに恋をすること、諦めていたんです……」
 微かに震える声。昔の事を思い出していたんだろう。
「だけど、今、俺は恋をすることができた。優司のお陰で。もう、どんなに嬉しかったか……。こんな俺でも認めてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。そう思ったら、こんな力も悪くないって……思った。自分を認めてくれる人がいるって幸せです。誠二さんが、矢崎さんに心を開いているのはね、きっと本当の自分を認めてくれる存在だから。篠山さんと恵くんがつきあっているのは、お互いにないものを認めあっているから。そんな感じがするんです。というか、分かるんですけど……ね、分かります?俺が言いたいこと」
 最後の言葉は深山に向けられていた。
 秀也の告白に答えるかのように深山が口を開いた。
「……俺、昔からずっと言いたいことも言えなかった。親や教師にも心の中では反発していた。でも、結局優等生の仮面は外すことはできなかった。言われるままに大学受けて、ここを離れることになった時……本当は離れたくなかった。ここには智史がいるのに……俺、智史の前でだけは、自分に戻れた。何でかな、すっごく自然でいられたんだ。今の俺がいるのは智史のお陰だなって今更ながらに思っている。智史に別れるときに言われたから……『言いたいことも言えずに、こんな間際になって今更言われたってもうどうしようもない。言うべき事にはタイミングがあるんだ。それを逃してから、後から慌てたって、もうどうしようもないんだよ』って……俺、ずっとその言葉が頭の中にあって、もう二度とそんな失敗するもんかって……がんばった」
 遠い眼をしていた深山の視線が秀也を見、そして智史を見た。
「でもその言葉が本当にそうだって実感したのは帰ってきて智史と逢ったときだった。俺は言うべき時に言わなかったから……だからもう友達でしかいられないんだって……」
「そうでしょうか?」
 秀也がにっこりと笑みを浮かべた。
「あなたも聞いたでしょう。夢うつつとは言え、あなたを名前で呼んだ智史さんの言葉を。彼は、今でもあなたのことを愛している。そりゃあ、家族ができて、それを壊すわけには行かないって思っているかもしれない。だけど昔みたいにセックスするだけが恋人の条件じゃないでしょう?今日みたいに疲れたときに労ることができるってことも十分条件だと思いますよ。それだったら、十分合格だって思います。二人とも、親友以上の関係を築いているんです。もうそんな関係なのに、愛していることをお互い気づかれないようにするっていうのは疲れるだけですから。だからね、お互い認めたほうがいいですよ。あなた方なら認め逢ってもうまくいくと思うし……家族ぐるみでつき合って仲良くなっちゃえばいいじゃないですか。智史さんの奥さんは、そういう理解ありそうな気がしましたし……」
「……できるかな」
「できますよ。言いたいこと、今がいうべきタイミングですよ。まだ間に合う。まだ、ね」
 秀也が断言する。
 義隆と優司がそれにつられるように頷いた。
「そうか……今がそのタイミングか……」
 深山はそっと智史の額にかかる髪をなで上げた。



 智史は身体を揺り動かさる気配に、うっすらと目を開いた。
 白々と夜が明けたばかりの明かりの中、智史の肩に手を置いていたのは深山だった。
「ん、なんだ、もう起きてたのか?」
 手をついて身体を起こし、気怠げな身体を振り切るように伸びをした。
 どことなくはっきりしない頭をとんとんと叩いてみる。
 あくびが出てくるのが止められない。
「どうした?」
 黙ったままの深山に視線を投げかけた。
 深山は躊躇うように視線を泳がしたが、諦めたように智史に視線を固定した。
「・…ちょっと話があるんだけど……」
「あ、ああ」
 周りに視線を配ると、まだみんな熟睡している。
「ここでいいか?」
「いや……せめて、縁側まででないか?」
 聞かれたくないのだろう。
 智史はそう思って布団から出た。
 明け方のひんやりとした空気が気持ちいい。
 縁側に二人して座る。深山はしばらく庭を見つめていたが、軽く息を吐くと、意を決したように言った。
「俺、まだ智史のこと愛しているんだ」
 熱い視線が智史を射る。
 言われた智史は、考える込むかのように指を額にあてた。
 これは、本気なのだろうか…・…。
 まずそう思った。
 だが、深山の瞳は真剣そのもの。とても冗談に思えなかった。
 で…・…本気だとしたら、深山はどうして欲しいんだろう……。
 黙ったままの智史に深山はもう一度言った。
「愛している。ずっと……。あの時から……。あんな別れ方をされて、俺は憎もうとしたのに、結局憎みきれなかった。こうやって結婚して家庭を持って、また逢えて……親友だと言われても、どこか忘れられない、絶対に離れることができない、もう一人の自分……智史は俺にとってそんな存在なんだ」
 真剣な瞳。
 そういえば、こんな深山を見たことある。
 真剣に、言葉を選んで話しかけてくる深山を。
『どうしてつきまとうんだ?俺にちょっかい出すと弟がやってくるよ』
 穏やかに言ったのは、高校に入ったばかりの智史。
 地元の高校だから誠二は結構有名人で、だからこそ智史に同級生以上の関係で近づいて来ようとするものは皆無だった。
『いいよ。いくら来ても俺は諦めない。俺は滝本くんの側にいたいから』
 そう言い返したのは同級生だった深山。
 まだその顔は幼さが残っていたけれど、いつもきつく正面を見据えている瞳が時折寂しげにうつろう。
 どうしてあんな目をするのだろう
 たまたまそれに気づいた智史が声をかけたのが最初の出会いだった。
 そうしたら、深山が智史につきまとい始めたのだ。
 最初はうっとおしくて、放っていた。
 そうしたらまたあの視線で智史を見る。その視線で見られると妙に気になって、ついつい構うようになって……。
「智史?」
 黙りこくっている智史に優しく深山が声をかける。
 その視線があの時の深山と同じで、智史はふっと思いだし笑いを浮かべた。
「俺さ、智史のこと大事にしたい」
 自信なさげな言葉もあの時と一緒。
 強引につきまとうくせにいつも一歩ひいていて、決して深入りしようとしない。
 だけど、話をすると不思議と何でも話ができて……聞き上手な深山に何でも話すようになった。
 兄弟や幸以外の話し相手。なんでも話せる親友。
 そんな存在に憧れていたのかもしれない。
 誠二の自分に対する執着に手を焼いていたこともあった。
 だから、誠二に嫌がらせするようにつき合っていたつもりだった。
 何かの拍子に一線を越えてしまったのは何故だろう。何かショックなことがあって、慰めて貰ったような気がする。深山の側だと、何故かリラックスできてほっとした。
 だけど・…別れはくる。
 いつか、来る。
 割り切ろうとした。深山から割り切れない思いをぶつけられて、智史は喧嘩腰に割り切った。
 別れて……あんなに自分が落ち込むとは思わなかったけど・…。
 それなのに……。
 深山は智史の元に戻ってきた……。
 愛している……。
 そんな言葉、聞きたくない。
 もう二度とあんな思いはしたくない。
 離れたくないのに離れてしまうなら、最初からそんな関係にならなければ良かった。
「深山、昨日俺、言ったよね。俺達はずっと友達で、だから離れないって。俺、そんな関係壊したくないよ」
 表情は笑っているのに、掠れた声が智史の口から漏れる。
「どうして?愛しているって言ったら、必ず別れるものなのか?智史は昨日君の弟たちに言ったよね。いつまでも仲良くって……あんな愛を確かめあうような台詞を弟たちにいわせといて、自分は必ず別れが来る、なんて思っているのか?」
「そんなこと言ったっけ?」
 とぼけた智史に深山はため息をつく。
「とぼけないで。すぐそんな風にとぼけて、はぐらかす。だけどね、間違ってもその言葉、あなたの弟達に言わない方がいい。怒られるから」
 見破られて、智史は苦笑を浮かべた
 困ったな……。
「俺達は結婚しているんだよ。家族がいる。俺達の相手は、幸みたいに割り切ってはくれないだろう?だったら、そんなことできないじゃない」
 家族。
 俺達の大事な家族。
「昨日さ、笹木さんに言われたよ。恋人ってセックスだけが目的じゃないって。お互い困ったときに労りあうことができるだけでも充分恋人だって……。あの人、凄いよね。あの人だって、結構重い悩みを抱えているのに、だけどそれでも優司君を見つけたんだ。自分が自分でいても受け入れてくれる人を。だからさ、俺も智史が智史でいられる存在として、こうやって智史に言うことに決めたんだ」
「俺が俺でいられる?」
「智史ってさ、寂しがり屋だよね。みんなから離れるのが嫌なくせに、でもなんだか孤立しているんだよね。いつも輪の外からにこにことみんなを見ているような、そんな感じ。でもそんなの智史はほんとは耐えられないはずだよな。俺の知っている智史は、本当はとても寂しがりやだったから」
「そんなことないよ」
 視線を逸らし、智史は部屋の中を見渡した。
 布団のあちこちから覗く頭や手。
 大切な兄弟。
 俺にはいつもこいつらがいたから。
「兄弟はいつか離れていくって泣いていた智史を俺は知っている」
「!」
 胸の奥がきりりと痛んだ。
 それはいつのことだったろう……。
「だから、昨日はめを外すほど嬉しくて飲んだんだろ。久しぶりに兄弟が揃って、しかもそれぞれの相方を連れてきて……こんな席なのに、あんなふざけ方をしてしまうほど」
 どうして…・深山は……どうして、俺を追いつめるんだろう。
 考えないようにしていたこと。
 今のまま、流されていけばいいって……。
 恵と優司はここから去っていく人間。
 だけど、仲良くしていればいつだって戻って会いに来てくれる。
 誠二だって家族がここにいて、辛い思いを慰めてくれる矢崎はここの人間だから、どこかに行くことはないだろう。
 このまま仲良くしていれば……少なくとも兄弟は離れていかない。
 だけど……それ以外の人間は──家族以外の人間は、いつかはなれていってしまうかも。
 どうして、こんなこと考えさすんだろう。
 言われなければ考えなかった。
 ずっとそうしていた。
「お前って、俺をどうしたいんだ」
 顔を上げて睨み付ける智史。だがその瞳は弱く悲しげで……深山は微かに笑みを浮かべた。
「やっと、本心を見せてくれた……」
 優しく語りかける深山。
「そうやって、俺にはいつも本当の心見せてくれればいいから、ね。ずっと泣きたかったんじゃないのか?まだ泣いていないんだろ……」
 その言葉に、智史の頭の中の何かが弾けた。
 視界が緩み、涙があふれ出す。
「ど、うし、て……。どうして、裕太は俺を苛めるんだよお」
 いつの間にか裕太と呼んでいるのに智史は気づいていない。
「裕太はなんで俺のこと苛めるんだ。…・っく…・俺の心をわざわざ荒らしていくんだ。せっかく落ち着いていたのに……」
 頬を伝う涙が、ぽたりと手の上に落ちる。
 その落ちた涙に深山は触れた。
「心の奥底で父親を亡くして荒れ狂っているのに自分自身で無理矢理蓋をしている智史を解放してやるのが俺の役目だからって自覚したからさ」
 くすりと笑う深山に罪悪感はない。
「笹木さんに言われてさ、考えたんだ。労る事が恋人としての役割なら、それでもいいって……。俺は知っているから。智史が寂しがりやだってこと……。だったら、俺の所には来たら泣けれるようにしてあげる」
 そう言うと深山はそっと智史の肩を抱き寄せた。
「泣いていいから。つらいことがあったら泣いていいんだから……一杯泣いたらさ、またいつもの智史に戻るんだろ。すっとぼけて穏やかに笑っていながら、実は内心で何をしてからかってやろうかと画策している智史にね」
「はは……敵わないな裕太には……いっつも見透かされている。お前ってさ、あんなに寂しそうに見えたのに……でもいっつも俺が慰められる……」
「そうだな。智史に逢うまでは寂しかったかも……でも、一見幸せそうで何も考えていないような癖に、滅茶苦茶寂しがりやな智史を見つけてしまったら、俺、満足しちゃったんだよね。最初に言ったろ。俺は俺の半身を見つけたから、もう大丈夫、だよ」
 深山の言葉に嘘はない。
 智史が寄りかかると深山の瞳から寂しげな色が消える。
「俺は何も答えてあげられないかも知れないよ……」
「構わないさ、言ったろ。俺は智史がいつもの智史でいられるように受け入れてあげることができる。それだけで、満足だって……」
「ありがと……」
 そっと寄りかかり、瞼を閉じる。
 胸の中にあった違和感があふれ出た涙とともに出ていったように、心が軽くなっていることに気が付いた。
 そんなことすらも今初めて気が付いて……。
「俺は、こうしていていいんだよな……」
「ああ、いいよ。いつでもおいで。この位いつだって……家族とのことだって、ないがしろにしないでやっていけるよ。うちの奴も結構いい性格しているし、ね。今度紹介するからさ、逢ってやってよ」
「ああ、そうだな……」
 その言葉に智史の顔に笑いが戻った。
「何か、楽になったよ。ありがとう」
 もたれていた身体を起こす。
「もういいのか?」
「ああ、大丈夫だ。それに……」
「それに?」
 不審そうな深山に智史はくすりと笑ってみせた。
 気づいていないのか?
「後ろの連中がそろそろ起きてるみたいだし」
 ちらりと布団の中にいる筈の連中を一瞥する。
 深山が慌てて振り向いた。
 布団のあちこちから出てくる視線と絡む。
「いつの間に、起きたんだ?」
 唖然と呟く深山の声に促されるように、布団がむくりと動いた。
「おはよーございます」
 ぺろりと舌を出しながら恵と義隆が起きあがる。
 その手前から、優司と秀也が決まり悪そうに上半身を起こした。
 そして、最後に矢崎が頭を掻き掻き身体を起こした。
「すみません……その聞いちゃって……」
 軽くため息をつく深山に智史はくすくすと笑いかける。
「みんな寝起きがいいんだねえ」
「キスシーンでも見られるかなあって期待していたのに……」
 恵の言葉を平然と智史は受け流した。
「俺と裕太はそんな関係じゃありません」
「じゃあ、どんな関係だって言うのさ」
「俺と裕太は、そんな関係を飛び越えたプラトニックな恋人なんですよね」
「げ!」
 思わず絶句する面々ににこりと笑みを向けると、智史は深山に向かって片目をつぶった。
「相変わらず、ですね」
 深山はただ苦笑した。
「で、一人足りないようだけど……」
 出てきた頭を数えると、一人足りない。
「ここでーす」
 矢崎が指さすところに、熟睡している誠二がいた。
「幸せそうだなあ」
 智史がにこにこと覗き込む。誠二は、微かな笑みを浮かべていた。
「きっと矢崎に抱かれている夢でも見ているんだよ」
 智史の言葉に、矢崎のみならず全員が言葉を失った。
 静かな部屋に、鳥の声が響く。

 ひたすら惰眠をむさぼっていた誠二だけがこの顛末を知らなかった。

【了】