10万HIT記念 2002/7/5
最近 雅人さんの様子がおかしい……。
北川病院の整形外科部長である増山浩二は仮眠室のベッドで天井を眺めつつ、考え込んでいた。
今日は夜勤だったのだが、不思議と静かな夜で緊急車両の無粋なサイレン音もしなければ、ナースコールすらも少ない。あったとしても、それは看護婦で対応できるものだから、医者としての浩二の出番はなかった。
いつもはきちんと締められているネクタイが無造作に緩められ、ワイシャツの上からでも鍛えらていると判る胸の上を這っている。
半ば閉じられた目が時折、中空を彷徨っていた。
薄く開けられた口から吐息が吐き出されると、いつもは夜の波のない海のように静かな瞳が、どこか不安げに揺らぐ。
沈着冷静と表される浩二をここまで悩ましているのは、同居人で恋人でもある明石雅人の事。
ホストである雅人とつきあい始めてそろそろ四年が過ぎようとしていた。
医者である浩二とホストである雅人の同居に、妙な取り合わせだと揶揄するものもいたが、浩二にとってはそんな事など取るに足らない事だった。
雅人さんがいればいい。
今まで過ごしてきて、雅人との関係に心変わりすることなどなかった。
それは水と魚のように、あって当たり前の関係だと思える。
自分が魚側なのだという自覚もある。魚は水がなければ生きていけない。
自分も同様で、雅人がいなければ今の生活に何の楽しいことがあるだろう。
また昔のように自分だけで生きていくことは、もう考えたくなかった。
同居はしていてもお互いのプライバシーは尊重し、うまく生活できてきたと思っている。
なのに。
最近の雅人の様子が変なのだ。
「何をしようとしいるのか……」
ぽつりともたらされた独白は、そのまま空に消えていく。
雅人が何を考えて、何をしようとしているのか。
心当たりがないわけではなかった。
だが、それならそれで、何故言ってくれないのか。
プライバシーの尊重によって、互いの秘密が判らない分、余計に疑わしく感じることがある。
今回の件がそれだった。
何より浩二にとってその最後の疑問がくっきりと心の中に大きなしこりとなってしまっている。
これはよくない傾向だ。
脳のどこかが警告を発する。
落ち着け、と。
それは、四年前にも味わったあの忘れようもない出会いの発端となった時と似ていた。
奇妙だと思った発端は、二週間ほど前にさかのぼる。
浩二が仕事から帰宅すると、マンションのエントランスでどこからか帰ってきた雅人と一緒になったのだ。
「雅人さん?」
すでに出かけていなくてはならない雅人がそこにいるということに、浩二は不審そうに問いかけた。だが、浩二以上に驚いていたのは雅人の方で、あまりのことに勢いよく下がった拍子に壁に背をぶつけたのだ。
「きょ、今日、泊まりじゃなかったっけ?」
ひどく上擦った声がその口から漏れる。
「都合がつかない方がいて、明日と変わったんです。それより雅人さんこそ、仕事行かないんですか?」
「あ、あ、これから行くんだ。ちょっと忘れ物して戻ってきて……」
なぜだかひどく慌てている雅人に、浩二は不審を抱きはしたけれど、その場は黙っていた。
その時は、それほど深くは考えなかったのだ。
だが、それも繰り返されれば疑惑となり、それを確信するに至る。
昼間寝ている筈の日ですら、部屋にいないことはそのうち気が付いた。
寝ているからと滅多に電話はしないのだが、どうしても探して欲しい書類が合ったので電話をかけたら留守電になっていて出ようとしない。
それに、夜中に帰ってきてもいつもする匂いがしない。
アルコールとタバコ、そして香水の入り交じった匂いは、雅人がシャワーを浴びるまで、いつもまとわりついてるものなのに、せいぜいがタバコの匂いくらいだ。
それも、本当にごく僅かな匂い。
何より雅人の仕事を考える以上、して当然のいろいろな化粧品の匂いがぱったりと部屋ではしなくなった。
ここまでくれば、嫌でも雅人が仕事に行っていないことに気付く。
何より、雅人がずいぶん前にぽつりと呟いた言葉を浩二は忘れていない。
『そろそろ辞めようかな……』
それはアルコールも入っていたせいでの戯れ言だったのかもしれないが、それにしてはその目が真剣だった。何を辞めたいのかは明白だったが、当の本人がそれ以上何も言わないのだからと、問いつめることはしなかった。
もし本気でそう言ったのなら、浩二としては止めることはしないだろう。
すらりとした鼻筋に柔らかな物腰と笑みが似合う雅人は、ホストとしては一流のランクだ。特に有閑マダムと呼ばれる高い年齢層に人気を博していたらしい。
だが、最近成績が落ち込み気味だと聞いたのは、いつのことだったのか?
不景気に、夫の収入が激減している昨今、マダム達もおいそれとはホストクラブに通えない。
他のホスト達が言葉巧みに次の機会を約束させ、高い酒を用意して迎えるのに対して、雅人は、そんな彼女たちには決して無理は言わなかった。
そんな優しさに惹かれて指名する客が途絶えることはないのだが、売上げ的にはどうしても落ち込む。彼女らが一回に落とす額が減っているのだ。しかも優しい雅人に、日頃の不平不満を聞いて貰いたいとばかりに長居をするのだが、それでも雅人はゆっくりと彼女らの話を聞く。だから客の回りも良くない。
長年のつきあいのマスターだから、雅人には無理は言わないらしいが、それはそれで雅人は気にするのを浩二はよく知っていた。
だいたい雅人は、懐に入った人に対してあくまで優しくそして気を遣う。
その最たる恩恵を受けているのが、浩二と彼の兄 悠人だ。
何かトラブルと、弟の所でくだを巻く悠人にしてみれば、嫌がりながらでも気を使ってくれる雅人の所が居心地がいいのだ。だから、いつでも尋ねてくる。
浩二とて、相手が雅人でなければこんなに長くは続かなかっただろう。
「辞めるつもりなら、今は何をしているのか?」
何をこそこそしているのか?
気になり出すと、どうも落ち着かない。
そして、今日もだ。
浩二はふうっと息を吐いて、ベッドの上に座り直した。
浩二が出かけるを待っていたかのように、部屋を飛び出してどこかに行く雅人を浩二は車の中からずっと窺っていた。
あまりに気になったので一時間早く車に降りてずっと窺っていたのだが、予感は的中した。
普段着姿の雅人が時計を気にしながら、走っていく。
仕事がなければ追いかけたかった。
ハンドルを握った手が白くなるほど握りしめられる。
言って欲しい。
どこに行くのか……何をしようとしているのか……。
どす黒くせり上がってくる感情は、良くない傾向だと思い直して息を吐いて鎮める。
が、だからといってそれが完全に鎮まることはない。
くすぶり続けるそれが、いつ火種になるかは判らない。
浩二は、ただそれから意識を逸らすくらいにしかできなかった。
仮眠ベッドに再度横になる。
いつもなら、寝ようとすればすんなり寝入ることができる浩二だったが、今日はどんなに努力しようとしても寝ることができない。
寝られるときに寝ておかないとつ呼び出されるか判らないというのに……。
結局、忙しいときには忘れることのできることが、する事がなくなると鎌首をもたげてくる。 心に宿ったしこりがひどく重く締め付ける。
聞けばいいのだろう。
聞いてすっきりすれば、それで何もかも片づくような気がする。
だが、できれば雅人の方から自然に言って欲しかった。
きっかけはどうであれ、恋人同士なのだから……。
……。
「駄目だ……」
浩二の口から随分と弱気な言葉が飛び出した。
何かを振り払うように頭を左右に振る。
自分の内だけで考えていると、どんどん暗い考えになってしまう。
それがどんな結果をもたらすか、浩二はよく知ってた。
二度と繰り返さない。
あの時、そう誓ったではないか。
今はあの時とは違う。こういうときにまず何をすればいいか、相談できる相手がいるのだから。
その手段を講じていないのに……まだ打つ手があるのに、どうしようもないと足掻くのは愚鈍だ。
雅人さんが何をしようとしているのか……。
今の自分なら調べることができるはずだ。
浩二はベッドから降りると、机上のノートパソコンを立ち上げてLAN回線に繋いだ。
病院で使うそれにプライベートなアドレスは入れていない。
だが、家のノートパソコンは雅人と共有しているから下手なメールを残すことはできないし、携帯のメールでは送る内容が複雑すぎる。
このノートパソコンなら、浩二以外誰も使うことはない。
浩二は手帳を取り出すとそこに記されていたアドレスを宛先に入力した。
たぶん彼なら、何かを知っているだろう。
その願いを込めて文章を打つ。
送信をクリックして、三十分くらい経った頃だろうか。
仮眠を取ることを諦めて、本を読んでいた浩二の耳に微かな音が入ってきた。
訝しげにその音の方を見ると、ノートパソコンに着信のメッセージが出ている。
「?」
先程の返事にしてはあまりにも早いそれに、首を傾げながらクリックしてみると、確かにそれは質問に対する返信だった。
送信者は、明石悠人。
きっといタイミングだったのかも知れないが……それでもその素早さには驚いた。
が……。
その内容を呼んだ途端、浩二はぎりりと奥歯を噛み締めた。
『あいつはホストを辞めた。夜は健一郎のところで暇つぶしをしている。なんとかしろ』
ただそれだけだった。
だが、その一文に知りたいことが端的に詰まっている。
辞めたという事実が確定され、ではどこへ行っていたのかが判り、そして悠人の憤りがついでのように判る。それだけ健一郎を独占しているということだ。
辞めるのはいい。
だが、何故それを言ってくれない?
そして、悠人のところならともかく、なぜ兄の所なのだろう。。
判らないことだらけだ……。
明け方、病院から帰ると、雅人は自室で寝ているようだった。
「いるのか……」
いないで欲しい……。
実は浩二は帰る道すがら、ずっとそう思っていた。
少しずつ胸の内に高まり大きくなるしこりが消えないと気付いたから。
いなかったら……もう少し間をおくことができたら、少しは心を落ち着かせることができるのではないかと……そう思っていたのに……。
もともと辞めることに反対しているわけではない。
つまり喋ってくれない雅人にも腹が立っているというのが正解だ。
普段からのポーカーフェイスのせいで感情が少ないと思われがちな浩二ではあったが、実はそうではない。昔はその発散方法を知らなくて妙な方向に爆発してしまったものだが、、今はそれをコントロールする術を知っている。
だが。
「……雅人さんが悪いんですよ」
自嘲めいた笑みがその口元に浮かぶ。
心の奥でちりちりとした炎が燃えている。
普段心の奥底に沈めているものを糧にしてその炎がどんどんと大きくなる。
……雅人さん……。
それは止められないまでに既に大きくなっていた。
カチッ
僅かな音とともに開いたドアを擦り抜ける。
ベッドの中にいる雅人はぐっすりと寝入っていて、浩二が近づいた事にも気付かなかった。
「雅人さん……覚悟……してくださいね?」
耳元でそっと話し掛ける。だが、返事があろう筈もない。
くすりと漏らした口元の笑みとは逆にその瞳は随分と冷たい光を孕んでいた。
ゆっくりとはいだ掛けの下に、一番上のボタンをはめていないせいで、胸元が大きく開たパジャマ姿の雅人がいた。
そこから見える白い肌にそっと手を伸ばすと、少し暑いのか、しっとりと汗ばんだ肌が指に吸い付くようだった。
するりと指が鎖骨のラインを辿る。細身ではあるものの、適度な筋肉がついているせいか骨張った感じではない。
よく熟睡していて、触れただけでは雅人の動きはなかった。
「……雅人さん……」
僅かに掠れた声が漏れ、浩二はくっと喉で嗤った。
私は興奮しているのか……。
辞めたことを言ってくれない事への腹が立っているからというのは、方便に過ぎない。
自分は、欲しい……。
雅人さんが……雅人が欲しい……。
猛る思いは、体を突き動かす。
覆い被さって顔を埋めた先にある首筋に、噛みつくように口付ける。
痛みを伴うそれに、さすがに覚醒が始まったのか雅人が身動いだ。無意識であろう、浩二を排除しようとする手を、指を絡ませてベッドに押さえつけ封じ込める。
朱に染まったそこから離れた唇。ぺろりと覗いた赤い舌が、つつっと首筋を這う。
「……んっ……」
僅かにしかめられた顔がいやいやするように動く。それを唇を重ねることによって押さえつけた。
柔らかいそれは僅かに開いており、難なく浩二の舌を迎え入れる。
熱い中にある片割れを見つけだした舌が執拗にそれを捕らえ、蹂躙する。
「……ふっ……ん…」
息苦しさからか、雅人の体のあちこちに力が入り始めた。
絡めた指が押し返そうとしているが、上から体重をかけている浩二に敵うものではなかった。
「んっ!」
その力が痛みを与えたようで、雅人の目が勢いよく開けられた。
驚きに見開かれた瞳に浩二も焦点を合わせる。
その瞳に尋常でない雰囲気を感じ取ったのか、雅人の体がびくりと震えた。
目に浮かぶのは怯えの色。
……あなたが……悪いんです……。
堪えることのできない激情は、こうしなければ押さえることができない。
逆らわないで……。
願いにも似た思いは、それ以上酷くはしたくないからだ。
「んんっ!」
雅人が何かを叫ぼうとしているのだが、しっかりと塞がれた口からは呻き声しか漏れない。
それならと身を捩って逃れようとするが、もとより浩二の体をはね除けるまでには至らなかった。
その間にも、浩二は雅人の驚いて縮こまろうとしている舌を引っ張り出し、吸い上げる。
息苦しさからか、雅人の口が開かれてその隙間から荒い呼吸が漏れた。
目尻に浮かんだ涙を見て取った浩二は、ようやく唇を離した。
溢れた唾液が雅人の頬を伝わりシーツに染みをつくる。
「はっ……あ、浩二……何?」
肩で大きく息をする雅人が、途切れ途切れに問いかけてきた。
不安と怯え。
雅人の目の色が端的に心情を伝えてくる。
「わかりませんか?」
口元に浮かぶ笑みはわざとだ。
だが、それを見た雅人が怯えるように口元をわななかせた。
「な、何を……」
上擦った声が、かろうじて吐き出された。
質問の意味が判ってはぐらかしているのか、それとも判らないのか……。
たぶん後者だろうと思う。
だが……。
止められない。
嗜虐的になっている自分が止められないのだ。
だからわざと、この人を怯えさせている。
愛してやまないから……。
だから……私を受け止めて欲しい。
込められたのは想い。
ぎりりと音がしそうな程握りしめられた指の関節が悲鳴を上げるのが判っているというのに。
「こ、浩二っ!」
雅人の食いしばられた歯の隙間から堪えきれない呻き声が漏れる。
「雅人さん……止められない……」
そんな苦痛の声は聞きたくないと思っている。なのに、それを喜んでいる自分がいる。
もっと聞きたいと思っている自分がいる。
再度唇を重ね、舌をまさぐり出す。
柔らかな舌をきつく吸い上げ、おもうがままに味わう。
「…うあっ……!」
絡めた足を股間に向かってぐいっと押し上げると、そこが固く興っているのに気がついた。
力任せにぐいぐいと押し上げると雅人の喉が苦痛の呻きを漏らす。
唇を離して見下ろすと、その口から深い吐息が漏れた。
その顔は桃色に上気し、うっすらと開かれた目は涙で潤んでいる。
それは、浩二の下半身を直撃するほどの艶っぽさを持っていた。
唾液でしっとりと濡れた唇が震えながら開く。
「ど…うして……?」
判らないのだろう。
浩二が乱暴を働く理由が。寝ている最中にいきなりの行為に、頭が働くはずもない。
「雅人さん……が、言ってくれないから……」
まっすぐに雅人を見つめながら、浩二は口を開いた。
激情に曝されているにも関わらず、抑揚のない声音を出す。
「…言って……くれない?」
訝しげに眉をひそめる雅人の喉元に浩二は顔を埋めた。
舌を這わせながら鎖骨の付け根に移動して吸い付くと、白い肌があっという間に朱の花びらを散らす。
「ん……」
鼻にかかった甘い吐息が漏れ、雅人の躰がびくんと大きく震えた。
右手だけ指を解き、雅人の肌を辿るように指を走らす。
指先から腕、腕から肩へ。そして、胸へ。
「あ…あ……っ!」
きつくつまみ上げたその小さな突起が、あっという間に固くしこってくる。
甘いだけでないその刺激に雅人の空いた手が無意識の内に浩二の髪を掴んでいた。
「痛っ……あ、や……」
指先に力を込めるたびに、苦しげに顔を歪ませる。
その切ない表情が浩二をより昂ぶらせた。
「雅人さん……愛しています……」
愛しているから……こんな私でも……受けて入れて欲しい……。
理不尽だと思う。
雅人さんが何をしているか伝えなかっただけで、こんな行為に及んでいるというのに……なのに、受け入れて欲しい……など。
判ってはいるのに……。
くっと噛み締め、きつく目を瞑る。
こんなことしかできない私を……いつまでこの人は許してくれるだろう……。
と。
「こ…うじ……。ごめん……」
震える声が耳に入った。
思わず開いた目の先で、雅人がじっとこちらを見ていた。
「ごめ…ん……俺、わからない……ごめん……」
そのまなじりに大粒の涙が浮かび、流れ落ちる。
……雅人さん……っ!
心が叫び声を上げる。
「な……俺……なんか……した?」
雅人の手がゆっくりと動き、浩二の頬に触れる。
「浩二……苦しそうだ……怒っているのに……ひどく、苦しそう……あの時と、一緒……」
あの時!
その単語が『あの時』をフラッシュバックさせる。
あの時より、まだ理性があった筈の自分。
だが、やっていることは一緒だ。
私は……。
そっと伸ばした指先で、流れていく涙を掬い取る。
私は……またこの人を泣かせてしまったのか……。
あれだけ胸の内で暴れていたものが、雅人の涙であっという間に冷さく小さくなっていく。
「何で泣くんです……」
呟いた言葉は、ふんわりとした笑みで返された。
「浩二が苦しそうだから……」
そっと触れられた手が温かいと思う。
向けられた柔らかな笑みが、残っていたしこりを溶きほぐす。
この人は……どうしてこんなに私を見てくれるのだろう。
手加減なく握り締めた手と指は……力をこめた胸は……随分と痛かったろうに……。
この人は、そんな私のために泣き、そして笑いかけてくれる。
完敗……だ。
「雅人さん……ごめんなさい」
そっとその頭を胸の中に掻き抱く。
「また、乱暴をしてしまった……」
少し脅すだけのつもり。
言ってくれない事への怒りを静めるためにちょっとからかうつもりだったはず。
なのに、いつの間にか自分でも気付かない内に本気になってた。
「ごめんなさい……」
何度も何度も囁きかける。
「大丈夫……あの時みたいに手加減しなかったってことないから。痛みはあったけれど、それでも優しかったよ、浩二は。このまま進んでもいいかなって思えるくらいにはね」
くすくすと笑う雅人に毒気を抜かれたのは浩二の方。
手を緩め、雅人を上向かせた。
「そんなに痛いのがお好きなら、このまましてもいいですよ」
だから、そんな台詞が浩二の口から飛び出した。
その口元には、僅かな苦笑が浮かんでいた。
「でも……その前に浩二が怒っている原因が知りたいんだ、俺は」
それが判らないと、何も進まない……。
ぽつりと呟いた雅人に浩二は頷いた。
あれだけあった雅人への怒りは消えている。だから、冷静になって問うことができる。
「雅人さん、ホスト辞めたそうですね」
その途端腕の中の雅人は大きく体を震わせた。
一瞬で逸らされた目が、恐る恐ると動き再び浩二の方を見る。
「ばれた?それで怒ってるんだ?」
もしかしなくてもこの人は隠し通せると思っていたのだろうか?
浩二は深くて長いため息をつくと、雅人を見据えた。
「ばれない……と思った方が私には不思議です」
「あ、そーか……」
……。
本当にこの人は……。
顔をしかめて、ぶつぶつと呟く雅人は、どうやら本当にばれるとは思っていなかったようで、浩二はもう苦笑を浮かべるしかない。
なんだか怒りを覚えたことがばかばかしくなってきてしまう。
こうやって本人にさっさと聞いてしまえば良かったのだと思うのに、どうしてさっきはそれができなかったのか……。
もしかしなくも、私はそれを理由にしたかったのかもしれない。
雅人さんを襲うことを……。
ふと浮かんだ考えは、真実に近い。
ため息を漏らすと、手をついて支えていた体が脱力して、雅人の横に転がった。
「あ、あの……ごめんっ!」
ため息の意味を勘違いしたのか、雅人が慌てて体を起こして浩二を覗き込もうとする。その頭をぐいっと抱いて引き寄せ、耳元で囁いた。
「さて、理由を聞かせて貰いましょうか」
熱い吐息をその耳に吹き込むと、雅人の体がびくりと震えた。
今回は強引だったとはいえ、普段でもわざと乱暴に進めることさえある二人の関係だから、雅人の体は痛みがあったにしても、感じてしまっている。浩二の腰に触れる雅人の股間は明らかに形を変えているし、その体は上気して朱に染まっていた。
そんな中で吹き込まれた吐息だから、雅人は眉をひそめて浩二を見つめるしかなかった。
「……意地悪だ……」
すねたような物言いに、浩二はくすりと口元に笑みを作る。
「意地悪すると、雅人さんは可愛いですからね……」
くすくすと堪えきれない笑いに、雅人はさらに顔を紅潮させて、顔を背けた。
その姿がさらに可愛く、そして浩二を煽る。
もっともっと苛めたくなる。
浩二は内心湧き起こってくる嗜虐的な衝動を抑えつけるのに必死だった。
傷つけたくないのに、傷つけそうになる自分が怖い。いつか抑えられなくなる。
だから、せめて……。
「う?」
「それとも、さっきみたいに乱暴に扱って欲しいですか?とりあえず、最後までいってからでもいいですよ。明日……いえ、もう今日ですね。一日、動けなくなるくらいに、抱いてあげますから」
揶揄を含んだその声は、意識して作らなくても十分冷え冷えとしていて、雅人の顔が一瞬にして青ざめた。
「い、いや……それは、ちょっと……。その今日も用事があるし……」
用事。
その単語に浩二はぴくりと反応した。
「その用事の件も含めて、ぜひとも聞きたいですね」
浩二の言葉に雅人は大きく息を吐くと、口を開いた。
「店を辞めたのは2週間ほど前なんだ」
ぽつりぽつりと言葉を選ぶように喋る雅人。
それを浩二は黙って聞いていた。
「まあ、もともと辞めたくなっていたのは事実なんだけど、ちょっとまずいことが起きて……それが判ったその日の内にマスターと相談して辞めた」
「まずいこと?」
マスターには相談したのに……という所もひっかかった浩二だったが、とりあえず本筋を追求する。
「その……店でちょっとトラブルがあってね……嫌がらせ、受けたんだ……」
「え?」
思わず雅人に回していた手に力が入る。
「ああ。とにかく脅しを書かれた手紙や無言電話や……あと、店でも俺に言い寄ったお客さんがその帰りに妙なことにあったり……で」
「妙なこと?」
ふと気になって聞いた浩二に雅人はどうしようかと視線を彷徨わせた。
が、結局浩二に見つめられて口を開く。
「持っていたバッグをカッターで傷つけられた……って」
「そ、れは……?」
あまりのことに浩二の声が震える。
珍しい浩二の様子に雅人も首をすくめた。
「まあ、電話でマスターが聞いたからはっきりとは状況は判らない。お客さんは大丈夫だったみたいだけど、俺に気をつけろってわざわざ言ってきてくれて、それで判った。どうも何人かそういう目に遭った人がいるらしくって……どうも、最近馴染みの人がこなくなったと思っていたら……不況のせいだと思っていたのに……」
なんてことだ。
そこまで深刻な事態だと言うことは気がつかなかった。
浩二は知らずのうちにぎりりと奥歯を噛み締めていた。
「どうして言ってくれなかったんです?」
その声が幾分責める口調になる。
「……浩二に心配掛けたくなかったってのがあるんだけど……どうみても俺の仕事絡みだっから、というところが本音かな」
ふっと息をついた雅人を見つめる。
ひどく悲しそうな目に、浩二の胸が締め付けられるように痛んだ。
「最初は誰がそんなことをしたのか判らなかった。マスターとも相談してね、で、一週間ほど前にようやく判った……おなじ店の奴だよ」
その表情が随分と辛そうで雅人の苦しい心情を物語っていた。
犯人が同じ店のものだったという事実が、何よりも雅人を苦しめるのだ。
たとえ競争しているような相手でも……この人にとっては身内なのだ。
「雅人さん……それで店を辞めたんですか……」
「……も、俺も限界……かなって思って。俺より、あいつの方が成績良かった。俺の方が今は成績悪いのに、マスターのお気に入りだからって余計な反感かっちまったみたいでさ。ああいうところで、あんまり長いこといると、どうしてもそうなっちゃうんだよ。だからと言って他の店にまで移ってホスト続ける元気はもうないし……だから、この方がいいんだ……俺もいい加減辞めたかったし……」
そのまま黙りこくってしまった雅人だったが、浩二には雅人の心境が痛いほど判った。
この人は、自分を責めたのだ。
その犯人がそんな事をしてしまったのは自分のせいだと……。
相手の勝手な思いこみのせいだというのに。
「そりゃ、やられっぱなしってのは性に合わないけどさあ……。ま、ちょうど良かったし……、あ、でもさ、黙ってたの悪かった。なんか言い出しづらくて……」
ぱふっと雅人が浩二の胸に顔を埋めた。
「でも、やっぱり自分のことだから、ある程度目途が付くまでは自分で何とかしたかった。俺だって男だからなあ、そういうプライドはあるわけだし」
その肩をそっと抱き締める。
「でも、言って欲しかったですね。それに、悠人さんや兄には言っているんでしょう」
「あ、そこまでばれたんだ……」
くすりと笑った拍子に肩が震えていた。
「もしかして妬いてくれのかな?」
揶揄する言葉が胸の所でくぐもっている。
「そうですね。なんで私だけ知らないんだろう、とは思いましたが」
「ん、ごめん……」
謝りながらでも止まらない震えを止めるようにきつく抱き締める。
「く、苦しいよ」
雅人が胸から顔を出し、はああと大きく息をつく。
その唇に浩二は誘われるように口付けた。
嫉妬、したんでしょうね、きっと私は。
どうして私が知らないのか?
それは、言い換えれば、何故他の人には話したのか?
何よりも最初に知りたかった、というのが本音なのかも知れない。
「……んっ」
軽く吸い付いて離れると、雅人がぼんやりと浩二を見つめていた。
「仕事ね……紹介してもらっていたんだ……」
濡れた唇が僅かに開いて、言葉を吐き出す。
「仕事?」
「ああ、居候なんて嫌だから、ちゃんと家のローンは折半する約束だろ。まあ、バイトはしているんだけど……」
「それで兄たちに?」
雅人の腕が浩二の首にまわされた。
「ちょうど、マンションの展示場がさオープンするとかのイベントがもうすぐあるんだって。とりあえずそれのアルバイトに入れることになって……でもそういうの何にも知らないから、昼間のバイト終わってから、健一郎さんにいろいろ教えて貰っていた……」
ああ、そうだったのか……。
雅人の首筋に顔を埋めながら、浩二は微かに呟いた。
それで、入り浸ってしまった雅人に悠人が嫉妬したのだ。
悠人は、意外に嫉妬ぶかい面を持っているということは気付いていた。
ぺろりと鎖骨にそって舐めると、雅人の体がびくりと反応した。
「あ、……で、俺、地味なスーツってあんま持っていないから……今日、買いに行こうと……んっ…思って……んくっ……」
先程途中まで煽っていた体だから、僅かな刺激にあっという間に火がついたらしい。
雅人の喉から漏れる吐息が一気にリズムを崩した。
体をずらして、胸の突起を口で啄む。
小刻みに震え切なく喘ぐ声が耳に心地よく、そして自身を煽る。
じわじわと熱を持ち、汗が噴き出すほどの熱さになってもなお、新たな熱を噴き出そうとしていた。
「……うっ……」
苦しげに眉をひそめている表情を見つめていると、雅人がそれに気付いてふっと顔を逸らした。
それを追って覗き込む。
「見るな……ばか……」
うっすらと涙を滲ませた目で睨まれても迫力などない。
それ以上に頬を朱に染めている様が、下半身に直撃する。
治まっていた筈の嗜虐心が鎌首をもたげてきているようで、我慢ができなくなる。
「雅人さん……」
問いかける声がひどく掠れている。
どうして、この人を相手にするときは、私はここまで落ち着きをなくしてしまうのか。
何度も考え、そして未だに結論を得ない。
大切にしたいのに、気が付けば荒々しく事を為していることすらある。
大切に扱いたい相手、なのに。
だが、なんとか意志の力でそれを押さえつけていた浩二に、雅人はふあっと艶やかに微笑んで見せたのだ。
「ん、いいよ……大丈夫だから……」
首にまわされた手が力強く引き寄せる。
それに誘われるまま、浩二は雅人を抱き締めた。
「本当に?」
たった一つの単語に全てを載せて問うと、それに雅人が頷く。
「だって、それって浩二が俺を愛している証拠なんだよな。本当の……浩二だから、それが……」
その言葉に、心を押さえつけていた枷が外れた。
まだそんなにほぐれていないそこは、ひどくきつくて浩二の侵入を妨げようとする。
せめてもとたっぷりと使った潤滑ゼリーが滑らかに浩二のモノを包んでいるというのに、まとわりつくように内壁が絡みつき痛いほどに締め付けてきた。
「雅人さん……」
掠れた声で呼びかけると、雅人は苦痛を堪えているかのように眉間にしわを寄せながら浩二を見上げてきた。
目元まで朱に染まった雅人が、ぐいっと腕に力を込めてきた。
そのまま唇を重ね、舌を絡ませる。
「…あ、……んくっ!」
雅人が息を吐き出すタイミングをはかって、浩二は体を進めていった。
時折、雅人の爪が浩二の背を深く傷つける。
背に走る痛みは、せめてもの贖罪。
それでも、なんとか奥まで到達して、浩二はほっと一息ついた。
激しい締め付けは、さっきよりはマシになっている。
熱くて、お互いが解け合ってしまいそうな気分になる。
はああっ
雅人が大きく息を吐いた。
その瞬間、浩二はぐっと大きく動いた。
「はあっ!」
突然の刺激に、雅人が大きく仰け反る。
始まってしまったら止められない。
浩二は、情欲の赴くままに何度も何度も雅人を突き上げた。
「ああっ……やっ………あああっ」
しがみついていた雅人の手がぱたりとシーツの上に落ち、それだけが頼りのようにシーツを握り締めている。
溢れる涙がこぼれ、その目は焦点が合っていかなかった。
「んくうっ……くあっ……はあっ……」
抽挿するタイミングで雅人の口から吐息が飛び出る。
閉じられない口の端から唾液が流れ落ちていた。
そこにキスを落とし、流れた液を舐め取る。
ふっと体を止めてみると、まるで誘うように雅人の中がさざめき、締め付けてきた。
二人の間に挟まれた雅人のモノは限界までいきり立っている。
……まだですよ……。
浩二の口元に微かな笑みが浮かんだ。
雅人の額に落ちていた前髪をそっと指で払い、そこにキスを落とす。
「あ……お…ねが……い……」
手がおずおずと浩二の背に回された。
誘うようにぐっと腰を押しつけてくる。
「イキたい?」
からかうように笑いを含ませた声音で問うと、雅人は羞恥に頬を赤く染め、顔を背けた。
「あいかわらず……意地悪だな」
何度聞いたか判らないその台詞。
くっくっと喉で笑いながら、浩二はぐいっと腰を動かした。
「ひあっ」
ぴくんと大きく震える雅人のモノに手を添える。
先走りの液で滑っているそこは、ほんの少しの刺激で果ててしまいそう。現に浩二が触れただけで、先端に透明な液が溢れ出した。
「そうですね……最初ですから、イッてしまいましょうか」
揶揄するように言ってはいるものの、我慢できないのは浩二自身もだった。
雅人の熱は、浩二をも溶かしてしまう。
「んあっ!」
ぎりぎりまで引き抜き、そして突き上げる。
何度も何度も微妙に角度を変え、雅人を追いつめる。
高まる射精感に、堪えることはしなかった。
限界だと感じる寸前、握っていたままの雅人のモノを激しく扱く。
「あ、あああっ!」
雅人の口から長い嬌声が漏れた。
びくびくと吐き出される白濁した熱い液が、互いの腹を汚す。
その感触に酔いしれる間もなく、雅人の中がきゅっと締め付けてきた。
「んくっ」
息を呑む。
いきなり訪れた解放感に体が打ち震え、脱力感を急速に全身に伝えてきた。
雅人の熱い体の上に、全身を投げ出す。
その体をそっと雅人が包み込んできた。
大きく開かれて体に付けられていた足が、折り曲げたまま下ろされる。その拍子に、ずるっと浩二のモノが抜け落ちた。
その後から、とろりと流れ出す液に雅人が身震いをする。
「よかったですか?」
良くないわけがない、と信じているのに、わざと聞いてみる。
そうすれば、雅人の羞恥に満ちた顔がまた見られるからだ。
案の定、雅人はむっと眉間にしわを寄せながらじろりと睨んできた。
その頬を真っ赤に染めて……。
結局、何度もお互いにむさぼりあったせいで、気がつけば、もう昼を過ぎようとしていた。
一体何回したものか?
もう記憶も定かではない。
浩二は、怠い体を鞭打って、ベッドから体を下ろした。
「ん……」
その背後で身動ぐ気配に振り返ると、俯せで四肢を投げ出した雅人がじろりと浩二を見上げている。
「何か?」
にっこりと笑って問いかけると、むぐむぐと何かを呟いているようだった。
「はい?」
膝をつき、雅人の顔を覗き込むと、今度ははっきりと言い直してくれた。
「スーツ……買いに行きたかったのに……動けないじゃないか……」
とりあえずしたことに対しては文句はないわけだな。
と思うことにして、浩二はきっぱりと返した。
「でも、雅人さんがしていいって言ったんですよ」
「そりゃそうだけど……さ、その……限度ってモノが……」
相変わらず赤く染まった頬にキスを落とすと、雅人はそれ以上何も言わない。
「スーツ、間に合うようでしたらあさって買いに行きましょう?私も一緒に行きますから」
「……あさって?休みだっけ?」
「ええ」
頷くと、雅人がぱあっと笑顔を浮かべた。
「間に合う……、間に合うから、さ」
「雅人さんはどんな服を着ても似合いますよね。カジュアルな服も地味なスーツも……。バイトですから派手にするわけにはいきませんけれど……。でも、雅人さんのお陰で大成功だったと言えるくらいなもの、選びましょうね」
「浩二が選んでくれるのなら、何だっていいよ」
にこにこと手を伸ばしてくるその手に、浩二は指を絡めた。
「やっぱ、浩二に言って良かった。隠しておくのなんだか辛かったから。ホスト辞めるの、反対はされないとは思っていたけど、最初に黙ってしまったら、なんだか言うタイミングが掴めなくて、ずるずるときちゃってさ……。俺、辛かった……」
「私も、雅人さんが言ってくれないのが辛かったですよ。しかも、兄たちは知っているようでしたし」
「ごめん。でも、今度から休みが合うよね。今度の買い物みたいに浩二と一緒に出かけられる時が増えるんだよな」
「そうですね」
そうだろう。
不規則な二人の休みが、今まで以上に合うのであれば、こんなに嬉しいことはない。
今までだとタイミングが合えば、普通より多い休みを取れたりもするのだが、いつもそうとは限らなかったからだ。特に、浩二の勤務体系が変わったときなど最悪なくらい休みが合わなかった。
それが、こんなふうに時間を気にせず抱き合うこともできるわけだし。
浩二がそんな事を想っているのに気付かないのだろう。
雅人は、にっこりと笑顔を浮かべて寄こす。
「映画とかさ、もっと行きたいときに行けるようになるんだよな。旅行とかさ……」
どちからかというと健全なレジャーに頭を向けている雅人に、浩二は微苦笑を浮かべると、そっと唇を重ねた。
触れるだけに留め、離す。
「あさって、楽しみにしていますからね。ですから、後でもう一回しましょうか?」
触れそうなほどの間近で囁きかけると、雅人はうっと息を呑んだ。
が、それでもその朱に染まった頭を小さく動かしたのだった。
【了】