【執着心に晒されて】

【執着心に晒されて】

30万HIT記念

 明石雅人が用事があって兄の部屋に来たのは、春にしては熱い日だった。
 寒い日もあるからとファンヒーターがまだあるというのに、窓越しの日差しはジリジリと肌を焼く。
「暑いっ、エアコン入れよっ」
「窓を開ければ涼しいだろうが」
 雅人の手からリモコンをひったくったのは兄の悠人だ。

 もうシワになってしまって取れないのではないかと思うほど、いつも寄っている眉間のシワが、うんざりしたように雅人を見下ろしている。
「何だよ?、ケチ」
「煩いっ」
 途端に蹴飛ばされて、床の上に転がってしまう。
「っつうっ!」
 顔はいいが性格は凶暴この上ないこの兄に逆らおうとするのは、彼の恋人くらいなものだったはず。だが、今の雅人はなんやかやとこの悠人を怒らせる台詞を吐いていた。
「ケチったらケチなんだよ。エアコンくらい自由に使わせろよ」
「開けたら涼しいのに、何で金のかかるエアコン使わなきゃならんっ」
「それがケチって言うんだ。男の一人暮らしで、何でそんなケチくさい事を言わなきゃならないんだっ」
「煩いっ。怒鳴るお前の方が暑苦しいっ。その髪何とかしろっ」
 額の浮かんだ額や頬に張り付く肩に付くほどの髪を指さして悠人が怒る。
 それが話題を変えようとして咄嗟に出たことくらいには、雅人は兄の性格を知っていて、そして何より、人を見る目は十分だった。
「……ふ?ん」
 荒げていた言葉が嘘のように、静かだがほくそ笑みながら知れ顔で頷く雅人に、悠人は狼狽えていた。
 もともと最近にない喧嘩だ。
 人当たりの良い雅人がなぜにこうつっかかるのか悠人も読めていないから、いきなりの展開についていかない。それが雅人にもはっきりと判るほどに悠人は狼狽えていた。
「何か金が入り用なんだ。だからケチくさく小金を貯めているとか?」
 にやりと意地悪く笑っていってみれば、その顔が一気に赤くなっていた。
「あ……図星」
「煩いっ」
 指摘された事への反感か、怒った悠人は隣の部屋を隔てるふすまを音を立てて閉めてしまった。
 金か……。
 あの噂は本当だったのだと、雅人は椅子の背を抱えながら苦笑を浮かべた。
 噂の出所は、雅人の恋人であり、悠人の恋人の弟でもある増山浩二だ。だから、まず事実だとは思ったのだが、それでも、あの兄が?という思いもある。
 何せ人と付き合うのが大の苦手なのだ。
 苦手というよりは拒絶反応ともいえよう。
 だからその兄が無事会社勤めをしているということも、実は信じられないほどだった。
 それでも、雅人が知っているのは子供の頃の悠人だから、大人になってその辺りはなんとかなったのだろうと思ったのだが。
 でも同居、だろ?
 一人で暮らしてたまに逢うのと訳が違う。
 会社に行っている間以外は、常に一緒にいるというのに。
 それにあの兄が堪えられてるというのだろうか?
 子供の頃の悠人を知っているからこそ、雅人は兄が同居することが心配なのだ。
 その相手が、あの健一郎であったとしても。
 実の弟と違って、表情は豊か、対人関係もすこぶるよく、営業職でも成績優秀。両刀使いを公言しているにもかかわらず、女性にも人気がある。
 だからこそあの悠人を落とせたのだと、社内で皆が言っているのを、実はバイトでいった時に聞き出していた。
 それほどまでに、悠人は難しい男で。
 だから、雅人は兄が心配だった。
 ──だから……。

 閉まっていたはずのふすまが突然開いて、顔を出した悠人が叫ぶ。
「お前、いい加減に帰れっ」
 来た時から不機嫌なその兄の言葉に、雅人は笑って下に置いていた荷物を目の前にかざした。
「俺、家出中。だから当分ここにいさせてよ」
 さらりと伝えた言葉に、数秒悠人は硬直していた。
 その目が、ゆっくりと瞬いて。
「なっ、何だって???っ!!」
 滅多に聞けない悠人の驚愕の叫びが部屋の外にまで響いていた。


「何だ、やけに俺を追い返そうとすると思ったら、約束があったんだ」
 理由を問うてくるのをのらりくらりと返していたら、来客があって。
 ベルもそこそこに部屋に入ってきた男は、悠人の恋人の増山健一郎だった。
「一体、どうしたんだ?」
 これでもかというほどに不機嫌な悠人の出迎えに、健一郎の声音にも困惑の色が濃い。
 機嫌を損ねた悠人の扱いづらさは通常の比ではないからだ。
「家出したんで、ここに泊めて貰おうと思って」
 にこりと何をも魅了する笑みを浮かべて答える。
 それに健一郎もつられて笑いかえして。
「お前はっ!!」
 二人揃って拳の洗礼を受けるはめになった。
「痛い……」
「……お前な……」
 呻く雅人の方がダメージは大きく、悠人の怒りを伝えてくる。
 それを見た健一郎が、大仰にため息をついていた。
「雅人君の営業スマイルに答えただけだろうが。いちいち嫉妬すんな」
 その言葉にかあっと頬を染める悠人に、健一郎は苦笑を返してから、雅人の方へと視線を向けた。その顔から即座に笑顔が抜け落ちている辺り、マジだと窺わせる。
「おしどり夫婦もかくありなん、と言えるほどの君たちが、何を理由に家出するほどの喧嘩になったのか聞いてみたいね」
「おしでり夫婦?そんな風に見える?」
 邪魔な前髪を掻き上げて、細めた瞳で健一郎を見つめる。
 そうすれば、人の心を捕らえやすいといつ気付いただろう。
 もうホストは止めたけれど、そのころ身に付いた行為は何気なく出てしまう。 
 それを浩二は嫌っていて、なるだけ普通に振る舞っていたけれど。
「見えたね。喧嘩しても、だいたいが痴話げんかで。いつの間にか元の鞘におさまっていただろう?」
「そうだね」
 それは否定できない。
 浩二を怒らせたくなくて、浩二とともにいたくて。
 それに浩二はいつも雅人には優しくて、無理のないようにさせてくれる。
 嫉妬深さはちょっと痛いモノがあるけれど、それはそれ、実は気に入っていたりして、それが喧嘩の原因にはそうそうならない。
「だったら、何故?」
「別に人んちの喧嘩なんてどうでもいいだろう?それより健一郎さんがここに来たって事は出掛ける用事があったんじゃないのか?」
 どう見ても、部屋にくつろぎに来た訳ではなさそうな、きっちり着込んだスーツ姿を指さす。
 実際、雅人がここに来た時も、悠人のスーツが鴨居にかかっていたのだから。
「……だが……」
「いいから、行って。ついでに帰ってこなくてもいいよ。俺が留守番しとかくから」
 途端に真っ赤になる兄の顔に、これ以上苛めるのも可哀想で、心の中だけで苦笑する。
「しかし……」
 それでも気になるのか、健一郎は腰を上げようとしない。
 確かに健一郎にとっても弟のことだから、気にはなるのだろうけれど。
「兄貴……約束あったんだろう?俺の事は後回しにできるけど、今キャンセルしたらほとんど全額とられるかもよ。それって、エアコンを節約するより無駄なことだと思うけど」
 二人の姿と夕刻にさしかかろうとする時間でカマかけて、そしてきっと告げられるのが嫌だろう事もひっつけて投げつける。
「雅人っ!」
 それは明らかに悠人に動揺を与えたようで、険しい言葉を投げつけた後は、雅人を無視して健一郎を引っ張っていく。
「お、おいっ」
「いいんだよ、あいつのことはっ!夫婦げんかは犬も食わないって言うだろうがっ」
「だがっ」
「じゃあ、今日はキャンセルかっ?俺に美味しいと言わせるほどの酒と料理をご馳走してくれるってのは嘘なのかっ?」
「あっ……」
 その言葉に逆らう気力も失せたどころか、そそくさと先導きって部屋を出て行った健一郎がそこにいて。
「何か……それ……深い意味でもあるのか?」
 訝しげに首を傾げる雅人が一人、そこに残された。



 急に静かになった部屋で、雅人は喧噪を求めてテレビをつけた。
 いつも見る番組がちょうど映ったから、それを眺める。
 何かの映画のパロディを漫才師達が演じていて、雅人は結構この番組が好きだった。
 ソファの下の絨毯に座りサイドテーブルに肘をついて眺める雅人の後ろにはいつも浩二がいて、話しかければ答えてくれる程度の物静かさはいつも変わりがなかった。
 あの時と今と、辺りの静けさ自体は変わりないというのに。
 だけど、ひどく寂しいと思って、雅人は手の中に膝を抱え込んだ。
 あれほど暑いと思っていた日差しがなくなると、部屋の中は寒さすら覚えてしまう。
 あんなにあった温もりは一体どこにいってしまったのだろう?
 見渡せば、そこには誰もいなくて、雅人の心をよけいに寒くさせる。
「あんな喧嘩……しなきゃよかった……」
 情けなく呟く言葉は、自分の負けを認めている。
 心の大半はもう帰りたいと願っているというのに、それでもなけなしのプライドが自分から頭を下げることを許せないと言う。
 そんなに大層なことか?
 と、帰りたい心が問えば。
 間違っていない。
 と、プライドが言う。
 その二つは規模が違うというのに、なぜだかいつまでも平行線を辿って決着が付かなかった。
『出て行くよっ』
 そう言った時、本当は引き留められることを望んでいたのだ。
 なのに、浩二は決して振り返らなくて。
 気が付いたら、雅人は悠人の部屋にまで来ていたのだった。


 部屋の主がいなくなった部屋で、9時を過ぎた時計を見つめて雅人は口の端を上げた。
 何だかんだ言ってうまくいっている二人。
 一体何を心配することがあるだろう。
 水と油のように一見相容れなさそうな二人だが、そこまで反対であるとかえっていいのかも知れない。
 悠人の頑なさを溶かしたのは紛れもない事実なのだから。
 だけど。
『反対だよっ、俺はっ』
『いいえ、うまくいきます』
 言い切った言葉を、簡単に言いかえされ、二の句を継げなかった。
『何でそんなに悠人さんを心配するんですか?彼ももう立派な大人ですよ』
 二人が同居するらしいという話を聞いた途端の雅人の抗議の声を、浩二は否定し続けた。
『兄貴は、人と慣れないんだよ』
 ずっと見てきた。
 悠人は隠していたかも知れないけれど、雅人はそれに気が付いていた。
 兄が苛めにあったことも、それを自らの力でねじ伏せたことも。
 そのせいで、人と付き合うことができなくて、常に孤独であったことも。
 それでも悠人は誰にも頼ることなく、自分で生きていた。
 それは凄い、と思ったけれど。
 だが、その強さが諸刃の剣だと気付いたのは自分が浩二と付き合うようになったからだ。
 浩二も強い。
 己の内に潜む凶暴性、嗜虐性を意思の力でコントロールしている。
 表情の乏しい顔つきは、そんな中で常に冷静であろうとした結果そうなったのだ。
 だけど、自分だけで押さえつけようとした暗い感情は、いつしか出口を求めて暴れ狂い、ほんの僅かなほころびで奔流となって噴出する。
 そんな浩二を見てしまったから、悠人も同じことになるのではないかと不安で、仕方がない。
 悠人が心の奥深くに隠している何かは、常に一緒にいるならば、いつかはバレるかも知れない。
 それが最悪なモノなのかは、全く想像がつかなくて、兄弟である雅人にだって判らない。
 だが昔、母が言っていたことは雅人の記憶にははっきりと焼き付いている。
『悠人は……執着心が強いわね。納得したから渡したのだと思っても、だけどいつまでもそれの事を思っている……。雅人も気をつけなさいね』
 困ったように母が触れた場所の痛みとともに、その記憶は鮮明で。
 貰ったのだからと離さなかったのに、無理に取り上げられたせいで額に傷が入った。そのモノがなんだかったかは忘れてしまったけれど。
 そうなのだと子供の頃は思ったけれど、今の悠人にはそういうところは見受けられない。
 それが本当にあったとして──健一郎はどうするだろう?
 浩二も似たようなところがあるから、そういうところは慣れているのかも知れないけれど。
 でも、それを賭けるにはリスクが大きすぎると思ったから、反対だと声高に訴えて。
 ……浩二に反対されても仕方がないとは判っている。そんなあやふやな理由を浩二に伝えることもできないから。
 雅人が兄を想うように、浩二も兄である健一郎を大事に想っているのは知っている。厄介な相手だと嫌がっているかげで、そんな兄を邪険にできない思いを知っている。
 だから、健一郎が悠人と暮らすことに反対はしないだろうとは判っていたのに。
 譲れない思いは互いにあって、それが気が付けば引き返せないところまで来ていた。
 何もない手の平を見つめ、何かを掴むようにぎゅうっと握りしめる。
 このまま……喧嘩したままで辛いのは、自分の方だという自覚はあった。
 だけど。
 たとえもう十分大人の年上の男であっても……悠人にはどこか脆さがあって、雅人は悠人が辿る道を無視することなどできなかった。


 眠れないままに時間は刻々と経っていく。
 闇に包まれたままの部屋に乏しい灯りしかつけられていなくて、それなのに湧いてこない睡魔に、雅人は何度も寝返りを打っていた。
 確かに寝るには時間は早いけれど、それでもここまで眠れなくなったのは久しぶりだ。
 寝室は別で、常に一緒にいる訳ではなかったけれど、ここには浩二の残り香も何もないことが眠りを邪魔する。そんなにも自分が浩二に依存しているのかと悔しい思いもあって、情けないと顔を歪めていた。
 そんな時に狭い部屋に響いた扉が開く音に、雅人は跳ね起きた。
 鍵を使って入ってくる物音に、慌てて玄関先に向かうと、出掛けた時と変わらず不機嫌なままの悠人が入ってくるところだ。
「お…かえり……。早かったね」
「まだ、いたのか?」
 出迎えに驚きもしない悠人は、雅人がいるのを見越して帰ってきたようだった。なのに、そんな事を言って、邪険に雅人の腕を振り払う。
「帰らないよ」
 相変わらず素直でない兄にムッとして、きっぱりと言い切ると室内に戻る。
 その手から奪うようにして上着を取って、ハンガーに掛けた。
「兄貴こそ、泊まってくるのかと思ったよ」
 あの様子では一晩泊まってくるのだろうと思ったけれど。
「ああ……。ホテルは行ったけど」
 呆気なく肯定されて、鴨居にかけようと伸ばした手が止まってしまう。
「え……?」
 空耳でも聞いたかと思わず聞き返せば、今度はもっと低い声で返してきた。
「……ホテルは行った。抱かれてきた……それで満足か?」
「あ、あの……満足って……その……」
 確かに頬は赤くて、羞恥に捕らわれているのは判るのだが、まさかそのものずばりを悠人が言うとは思わなかった雅人は、その対応に戸惑っていた。
「あ?……それはよかったね」
 考えたあげくでてきた言葉はそんなもので。
 なぜなら、それが嘘なのだとなんとなく思ってしまったから、心にもない台詞が口をついてでた。
 悠人は天の邪鬼だと、誰が言った言葉だろう。
「俺のことはもういいだろうっ。それよりさっさと寝ろ。煩くすると追い出すぞ」
 先ほどよりさらに低い声音で返された。
 その瞳は睨むように眇められていて、雅人に二の句を継がせない。
「お前がベッドを使えばいい。俺はこっちに布団を敷くから」
「え、でも」
「何だっ?」
 言いかけた言葉は飲み込むしかなく、雅人は結局それに従うしかなかった。



 寝苦しい夜でもなんとか眠りに入って、目覚めたら悠人は起きていた。
 いや……寝ていないのが判るほどにその目は赤く、その手元には水割りの入ったグラスがあり、その色がかなり濃い。
「もしかして……寝ていない?」
「……いや」
 はっきりと嘘だと判るほどに掠れた声でかえされた。
 幾度も唇を噛みしめたのか鬱血した傷がそこに残っていて、酷く痛々しい。
 やはり昨夜、悠人と健一郎は喧嘩したのだろう。
 アルコールに身を任せてもなお、眠りにつけない悠人をこのままにしておけないと、雅人の手が伸びた。
「寝ろよ。顔色も悪い」
「……ああ、そうだな」
 原因は雅人にあるに違いないと思う。
 なのに悠人は何も言わない。
 責めることすらしない悠人が変だとは判っているのに、それにどう対処していいか判らない。
 そのふらつく体に酔いは相当なものだと思えた。
 乱れた前髪が目までも覆い、その感情は窺えない。
 ただ、その動きを目で追っていた。
 悠人の揺らぐ体がグラスを掴んで、流しへと向かう。水が欲しいと、迸る水を無造作に飲んで。溢れ流れた顎の水を腕で拭い取る。
「あ、そうだ……お前、当分いていいぞ」
「え?」
 振り返った悠人の目が血走っていて、その妙な迫力に思考の方がついていかなかった。
「いていいって言っているんだ。気が済むまでいればいい」
「……何で?」
 絶対に追い返されると思って来た。
 一晩は泊めてもそれ以上は追い出されるだろうと踏んでいた。
 その言葉は、雅人にとって願ったりのことだったけれど、何故悠人がそんなことを言い出したのかが判らない。
 喧嘩したから……なのだろうか?
 だから雅人を泊めてもいいと考えるようになったのだろうか?
 ぐるぐると頭の中が混乱して、物事の整理がつかない。
 その間に悠人が飲み干して空になったグラスを無造作に流しに放り込んだ。
 かちっと短い音がする。
「あ、兄貴っ、俺が片づけるから、もう寝ててよ」
 慌てた雅人が、流しとの間に割って入って。
 何も見せたくないと背で隠した。
 割れたグラスは、とても安物とは思えない綺麗なカッティングが入っていて、それと同じデザインのグラスをもう一つ、食器棚に見つけていた。
 そろいのコップの片側をに入ったヒビに気付いてしまったら悠人はどうなるのだろう?
 割れたコップは戻らない。
 だけど……。
 眠ることができないほどに苛ついている悠人を、雅人はどうにかしたくて、だがどうすればいいのか全く思いつかなかった。


 このままここにいることは、当初の目的からしても理にかなっている。
 だが、ここに雅人がいる限り、悠人は決して健一郎と仲直りしようとはしないだろう。
 弟の目の前でそういう態度を表すなど、悠人は決してしない。
 だからと言って、さっさと出て行くには悠人のことが心配だった。もし喧嘩の程度が酷くて、健一郎がやってこなかったら……。
 悠人はこのまま眠りもせずに、ずっと唇を噛みしめ続けそうで。
「兄貴ってば……また噛んでる」
 伸ばした指で唇に触れる。
 熱いそこから指を離すとうっすらと赤色がついて、既に血が滲んでいるのに気が付いた。
「傷になってるから、止めろよ」
 言っても、悠人の前歯は緩むことなく唇を戒めている。
「兄貴っ」
 見えない目を探して覗き込むと、その目は腫れぼったく、潤んでいた。
 しかも、声に出せない感情が瞳から溢れているようなそんな痛みにすら襲われて、思わず雅人は後ずさった。
 苦しくて、息が継げなくなる。
「……っ」
 無理に空気を吐き出して荒い呼吸を繰り返す雅人に、だが、悠人は何も見ていない。
 何かに捕らわれていて戻って来られないのだと、そう思わせた。
「しっかりしろよっ。何、呆けているんだ?健一郎さんと喧嘩したくらいで何でそんなにっ!」
 咄嗟に口をついて出た言葉。
 だけど悠人はびくりとその言葉に反応した。
「喧嘩したんだ……あいつと」
 その唇が弧を描く。黒みを帯びた血の色が、血の気を失っている肌にくっきりと浮かんでいた。
 悠人は、雅人の兄であるからよく似ていた。見目は確かに雅人の方が勝っているが、悠人とて決して劣ってはいない。いつも浮かんでいる眉間のシワがマイナス要因となっているだけで。
 その悠人が見せた表情は、雅人ですらごくりと息を飲むほどに妖艶さが漂っていた。
 悲壮さがそれをさらに彩る。
「あ、あの……」
 狼狽える雅人に、悠人の震える唇が小さく動いた。彷徨う視線が、何度も雅人の上を通り過ぎる。
「お前が……」
 その口から出掛けた言葉がふと止まった。上向いていた顔が俯き、もう瞳を見ることは叶わない。だが、その肩が先ほどから僅かに震えていた。
「…あに…き……」
「お前……やっぱり浩二くんのところへ帰れ」
「でも……」
「喧嘩には理由があるから、それは問わない。だが、離れていては謝ることもできないだろう?お前は……甘えん坊で、一人でいるのが辛い人間だから。だから浩二くんの側にいるべきだ」
「でも……」
 悠人の言うことは正しくて、今でも浩二に縋りたいと願う。
 なのに、そう言う悠人も今は一人にできるものではない。
 一体どのくらい酒を飲んだんだ?
 そう問いたくなるほどに、いつでも本心を窺わせない悠人の言葉が、あまりにも素直であった。
 そして、言っている言葉が何よりも自分に言い聞かせているような、そんな気もした。
「……兄貴も……喧嘩したこと後悔しているんだろう?」
「……っ」
 食いしばって白くなる唇がその言葉を肯定していた。
「兄貴……喧嘩の原因、俺だろ?俺がこんなところに来たから……兄貴達喧嘩したんだよな……。ごめんな。俺……まだ浩二のところ帰る決心はつかないけど……。でもここにいたら兄貴達も巻き込みそうだ。ほんと、ごめん。だから兄貴も行ってよ、健一郎さんのところ。あの人、結構優しいから、怒っていないよ」
 きっと悠人の方が勝手に怒ったのは想像に難くない。だから戻るように勧めた。だが。
「……そうだよ……あいつは優しくて……だからっ…お前のことばかり気にかけてっ」
 返ってきた辛そうな声音に目を見張った。
「当たり前だとは思うさ。お前の恋人はあいつの弟で、喧嘩すれば弟の問題にもなるから。だから、気になったんだろう。確かに心配するのは…当たり前。弟が喧嘩しているんだから……それは当たり前で……。だけどな、俺といるのに……あいつは……一緒にいたのは俺なのに……」
 俯いて決して目をあわせない悠人の頬から涙が滴り落ちる。
「あいつが正しい……って判るのに……。なのに俺は……むしゃくしゃするのを止められなくてっ……くっ……」
 震える肩が、途切れる声が、悠人の心情を痛いくらいに伝えてくる。
 その痛さは、雅人の胸を抉って、声をかけるのすらためらわせた。
 ひとたび吹き出した本音は、留まるところを知らないのか、いつまでも悠人を支配する。
「あの時……俺はっ……お前が憎いってすら……思って……。けどっ、こんなの変だって思ってんのにっ!なのにっ、止められなくてっ!」
 震える拳が宙を彷徨って悠人の胸に辿り着くのを、雅人はただ見ることしかできなかった。
「何でっ?何で、俺はっ、弟の喧嘩を邪険にできる?あいつのように優しく考えられない?どうして……どうしてっ」
「兄貴っ!」
 拳が胸をきつく叩き始めたのに気付いて、雅人は慌てて腕毎悠人を抱きしめた。
 雅人より少し低い悠人は、雅人の腕に抱き込まれて、だけど苦しそうに咽び泣いていた。
「俺はっ……あいつを見ていると、自分が情けなくなるっ!……あんな風に考えられないっ、考えることができないっ!いつも自分のことばっかりで……。今もっ、昔も……ずっとっ!変えたくて……変えられなくてっ!」
 震える肩を止めたくて、きつく腕を絞めても、それは止まらない。
 脳裏に浮かぶ母の声が幾重にも重なって雅人を責めていて。
『あの子は執着心が強いのよ』
 その言葉を母に言わせた悠人の感情が今なら判る。
 執着した相手には、いつも自分が一番でありたいという想い。だから、デートの時に──気が向かない表情は、実はふりでしかなくて──健一郎が雅人のことばかり気にした事への怒りが湧いて。だが、それが理不尽な怒りであると判るだけの理性も悠人には十分あって。
 その結果が、ここにいる悠人だ。
 ずっと昔から自分を知っていた悠人は、きっといろんな出来事の末に今の自分を作り出して。
 だけど、その根底にあるのは変わらない悠人。それを責めてしまう程に悠人は、そんな事を思う自分が許せない。
「兄貴も優しいよ。だって悔いているから。優しくなかったら、悔いはしない。そのまんまデートを続けて、最後まで恋人と一緒にいるよ。なのに兄貴は帰ってきてくれた。健一郎さんが許せない自分が許せないんだろう?それって、何よりも兄貴が優しいって教えてくれる。だから……泣くなよ。そんなに……。それに健一郎さんは判ってくれているから」
「そんなことっ!」
 荒ぶった感情は、容易には収まらないようで、悠人はいつまでも嗚咽に身を震わせていた。
 こんな感情を見せつける悠人を知らなくて、雅人はこれ以上なんと言っていいか判らない。
 ただ判るのは、雅人が心配していた事が今ここにあらわれているということ。
 だがそれは、浩二に比べれば、なんと可愛らしいことだと思う。
 爆発した感情を受け止めるのはやぶさかではないが、次の日歩くこともできないほどに攻めたてられれば、何とかして欲しい……という想いもあった。
 それに比べれば、と思う。
 心配することもないかも知れないが……。
 どう考えても嫉妬でしかない怒りをぶつけられて、健一郎がそれを知ったら悦ぶだろう事は簡単に想像できた。しかもそれを悔いて泣き荒ぶ悠人を、雅人ですら可愛いと思ってしまったのだ。健一郎がどう思うのかなんて、容易に想像できる。
 これなら……爆発する悠人に関しては問題ないかも知れない。
 問題なのは、それに相対する健一郎の態度だ。
 もしこのまま泣き続ければ、いつか悠人は壊れそうで、どこかで必ずフォローがいる。
 それを健一郎はできるのだろうか?
 今こうやって一人で帰ってきた悠人を、健一郎はいつ助けに来るのだろうか?
 ならば、一緒に暮らす方が悠人のためのような気もする。
「兄貴……ごめん…俺のせいで」
 勝手に心配したせいで、自分のところ以上にややこしい悠人達のところを混乱させてしまった。
 いまだ落ち着かない悠人を安心させたくて、回した手をきつくする。
「ごめん……」
 繰り返す言葉に、全ての想いを込めていた。

 泣き荒ぶ悠人に雅人の意識は完全に向いていて、その時まで鍵が開けられたことに気がつかなかった。
「……兄弟とはいえ、妬けるねえ……」
「……そうですね」
 間の抜けたような声に、不機嫌そうな声。それに雅人が驚いて、声のほうへと視線を向けた。
 開かれたドアの向こうに長身の男二人が立っていて、彼らが靴を脱いで入ってくるのを室内の二人は茫然と見つめる。
「どうして……」
 震える声を漏らす雅人の手が解かれて、その腕を足早に歩み寄った背の低い方の手が掴んだ。
 強い力で掴まれて走る痛みに想いが込められているようで、だがその剣呑さに顔を顰める。
「帰りましょう、雅人さん」
 声音が明らかに怒りを含んでいて、雅人の喉がごくりと鳴った。
 その間に逃れるように身を翻した悠人が、傍らをすり抜けようとしていた。
「どこにいくんだ?」
 すかさず健一郎の手が悠人の体を捕らえる。
「デートの最中に恋人を放っといて帰るなんて……。もう少し、大事にしてくれよ、俺のことも」
「お、お前なんかっ、大事にしなくたってっ!」
「そうかなあ……これでも結構傷つくんだよ、俺の繊細な胸は」
「嘘付けっ!」
「それはこっちの台詞。誰よりも嘘つきな悠人に言われたくないね……っ」
 言葉が終わるか終わらないかの内に、吸い付く音ともに健一郎の唇が悠人の唇を奪っていた。
 それを目の当たりにして、だけどもまだ何が起きたのかよく判らない事態に、雅人の頭は混乱している。
「ご迷惑をかけたようですね。すみませんが、彼は引き取りますので」
「ああ、これに懲りてちゃんと手綱をつけとけよ」
「別に懲りてなんかいませんよ。こんな雅人さんも気に入っているんですから」
「こんな?」
「優しいですからね」
「……まあ、お前を恋人にしようって言うんだから、その寛容力は並はずれているとは思うが」
「……兄弟といえど失礼にも程がありますが?」
 非難しているのにその唇が僅かに笑みをつくるのを、雅人は茫然と見つめていた。
 というか……一体二人は何を言っているのか?
「事実だ」
 答える健一郎はその間にも何度も何度も悠人に口づけていた。
「やめっ!……くっ」
 拒否する声は結局その口内に消えていく。
 人前でされることを何よりも悠人は嫌うと判っているはずなのに。
 あえて行う理由は何なのかと、二人から目が離せない。最後に深く吸い付いて、ようやく離された時には悠人は茫然自失状態で、健一郎の腕の中にいた。
「……まあ、俺も」
 濡れた唇を拭いもせずに、健一郎がひょうひょうと言い返す。
「こいつの嫉妬深さが判っていてなお、煽っちまったってのもあるし。しかも今回は珍しい雅人君の家出だろう?好奇心も手伝って気になっていたら怒らしちまったけど。でもまあ、こんな可愛い悠人を拝めるのなら、それもたまには良いかなとは思うし。……それに今回は帰り着いた先には雅人君がいたから……大丈夫かなとも思ったんだが……」
「だから……同居を決意したんですか?」
 引っ張られながら、慌てて靴を履く雅人の頭越しに浩二の声が飛んでいく。
「放っておけないだろう?」
 笑みを含んだ声が帰ってきて、その言葉に雅人は、ああそうか、と口の中で呟いた。
 心配することなどない、と健一郎のその言葉が言っているように聞こえたから。


 悠人の部屋を出てから車で自宅に帰るまで、ほとんど無言で過ごした。
 何か話しかけたいと思ったが、浩二の横顔は全てを拒絶しているようだった。だがいつまでも黙っている訳にはいかない。
「ごめん……」
 ようように口に出した言葉に、浩二はため息で答えてきた。その意味が判らなくて、窺うようにその視線を捕らえる。
「何も出て行かなくてもいいと思いましたけれど。だけど、納得したかったんでしょう?」
「……そう、かもな……」
 悠人が健一郎とともにいても大丈夫だと思えれば、と思ったのも事実だ。だからこそ悠人のところに入り込んだのだが。
「でも……あんな頭ごなしに言われたら、俺だってムッとする」
 その衝動もあったから勢いよく飛び出たのだと睨めば、掴まれた腕を背に回されて隙間もなく体を密着させられる。
 その太股に当たるのは明らかに形を成した浩二のモノ。
「責任……取ってください」
 低い声音に逆らいかけた勢いも瞬く間に萎えてしまう。
 心配もかけたし、そして先ほどの抱擁も見られた。浩二は悠人に負けず劣らず嫉妬深いのだと今更ながら思い出して、雅人は力無く頷くしかない。
 何より、爆発した浩二の感情を性欲に向けさせてしまうのを期待する気持ちもある。
 それでも。
「……あんまり酷くしないでくれたら嬉しいな」
「……努力はしますが……」
 それが言葉でしかないことを、雅人は経験上よく知っていた。
 

 縛られた腕が頭上に押しつけられる。
 暴れれば解けるのに、雅人の手はなすがままにそこにあった。
「……浩二……」
 震える唇をついて出た声はやはり震えていて、あからさまな怯えを浩二に伝える。
「酷くしたくないので……」
 剥ぎ取られた衣服は、力を失ってベッド下に転がっていた。そのボタンの幾つかが弾けて床に転がっている。
 なのに、手首を縛った後の浩二はそれまでの性急さが嘘のように動かない。
 闇に白い肌が蠢くのを浩二はじっと見下ろしていた。慣れた相手とはいえ、その瞳に自分がどんな風に写っているかなどと考えると、知らずに熱が上がってくる。
「肌が色づいていますね」
 指先が体の線を確かめるように脇から腰へと動いていく。
「んっ……」
 両手を拘束されたとはいえ、どこかに固定されているわけではない。だから両手毎動かせば、前は隠せるだろう。なのに、腕は意思に逆らうように動かせない。
「悠人さんと雅人さんはどちらも美形という言葉が相応しいですので、先ほどの抱擁はとても絵になっていましたよ」
 笑みが恐い。
 乱暴に性急に抱いてくることが多い浩二なのに、なぜにこんなに緩慢な動きしかしないのか?
 それすらも恐くて。
「……兄弟だからな……」
 判りきった答えは無視された。
「いい格好ですよ」
「知るか」
 少し勃ち始めたそれを手の平で持ち上げられて、くすぶるような熱に晒される。
 触れられただけで味わう疼きは、もっとと喚いているのだが……。常と違う浩二の態度に、雅人は先が読めなくて困惑の度を深めていた。
 いつもなら、性急に解された後は潤滑剤の力を借りて貫かれ、嫌だと喚いても止めてくれない浩二なのに。苛立っている時は、浩二が先にいかないと、雅人はいかせて貰えない。
 なのに。
「浩二?」
「焦れったいですか?」
 相変わらず手の上のそれは扱かれもせずに確かに固くなっていた。
 まるで観察されているようだと、羞恥ばかりが込み上げる。これならいっそ、いつものように壊すように抱いてくれた方が嬉しい。
「でも、こんな姿も可愛いですよ。今度からは、こうするのも一興かと」
「やだよっ」
 思わず叫んでいた。
 こんな……考えても恥ずかしいことをいつもされたくはない。
「そうですか?いつも止めてって言うから優しくしてあげようと思ったのに」
「や、優しいっ…っじゃないだろ、これはっ……焦すなって……んっ」
 見られるだけで体が熱くなって、触れて欲しくて堪らなくなる。
 浩二の一見冷たくて、だがその奥にある熱い視線に晒されるだけでも快感で、勝手に立ち上がってしまう。
「可愛いですよ」
 くすりと鼻で笑った浩二の言葉に余計顔を熱くして、顔を背けたら、顎を掴まれて元に戻された。
「私を見ていてください」
 言葉が、目が、雅人を縛りつける。
 ようやく浩二の手が雅人の胸をまさぐり始めて、爪先が色づいた突起を弄ぶ。
 それが触感で判るのに、雅人は浩二の顔から視線を外すのを許されなかった。掴まれたままの顎が、快感に仰け反ろうとする顔を固定する。
「んあっ……ああっ……」
 雅人にできるのは声を上げることと、首から下の身を捩るだけ。
 腕すらも動けない。
「こ、浩二……」
「駄目ですよ。動かないで」
 そのうち、腰まで固定されてしまう。
「んあぁ……っ」
 動くな、と言われても……。
 巧みな愛撫に無意識に身を捩ってしまう。脇腹から下腹へと手を走らされ、疼くような快感に背を逸らした途端に浩二の顔が視界から外れた。
「駄目です」
 途端に強い力で引き戻され、顎と首に痛みが走る。じんわりと涙が浮かんだ瞳に浩二を映すことを強制されて、それがどんなに苦痛であるか雅人は思い知った。
 思うように快感に集中できないのだ。
「も……は…なせって……」
 見つめて細めたまなじりから流れる涙を指先で優しくすくわれて、だけど浩二は小さく笑っただけだった。
 その浩二も決して雅人から目を離さない。探るようにいつも見つめて、雅人の変化を観察していた。
 その目が嫌だと思う。何かもか見透かされて、快感に狂う様を知られているようで。
 それすらも判っていたのだろうけど、浩二はわざとそれをする。
「……こ…うじ……い…やだ……」
 許して欲しい。
 こんな体勢は不本意で、もっと浩二の熱を感じたいのに。
「雅人さん……だったらどうしましょうか?」
 頬を染めた色が全身を覆う。
 それを言わせるのかと、抗議の目線をくれて。
 だけど、言葉はそれに逆らう。
「浩二が好きなように……してくれていいから……だから……」
 優しくしなくてもいい。
 もっと激しくてもいい。
 浩二を感じたいから、動きたい。
 そこにあるようにと言われただけで動かせなかった両腕を目の前に翳す。
「浩二の……熱を感じたいから……」
 外せない視界に浩二の顔が近づく。
 手首に巻かれたひもは緩く、その戒めは蝶結びだった。そのひもの端を浩二の歯が噛んで、くいっと動かした顎が結び目を緩める。
 はらりと解かれたひもが顔の上に落ちてくる。自由になった両手は即座に伸びて、浩二の背へと回した。
「判りました」
 呟く言葉が耳に直接注ぎ込まれて、噛まれた痛みが疼きへと変換されて耳朶から伝わってきた。


 体を鍛えている浩二との行為は、疲れを知らないのではないかと思うほどにいつまでも続く。
 無理だと思えるような格好で貫かれて、新たな快感の場所を知ったこともあった。
 こんなにも求められて愛されることに、体が慣れてしまうと言うことはなかった。浩二に触れられるだけで悦ぶ体は、手荒な行為であっても貪欲に欲していたのだから。
 その浩二が焦らすことを止めて、猛然と雅人の上にのしかかったきた。
 雅人より背は低いけれど適度な筋肉を持って、しっかりとした体躯を持つ浩二は、そうされるとひどく威圧感があった。
 髪を掴まれ、強引に上向けさせられて唇を重ねられる。
 零れる吐息は全て浩二に吸い込まれそうなほどに、隙間なく密着して、別の軟体動物であるかのように舌が絡まってくる。指が神経の敏感なところを爪弾き、触れた肌がとろけそうなほどの熱を伝えてきた。
 そのどれもが意識をかすませ、快感を感じることに神経を集中させていく。
「うふうっ……」
 脇腹から背骨、そして腰骨の上は雅人にとって弱いところで、そこを幾度も爪を立てられる。鋭い痛みは、だがすぐに肌が総毛立つほどの快感に変わって、まだ触れられてもいない後孔が刺激を求めて疼いていた。
 口腔内を余すことなく嬲られて、息が上がる。
 呼吸がしたくて口を大きく開ければ、その分浩二の舌が奥深くにまで入ってきた。
「う?う??っ」
 苦しい呼吸に必死になって浩二を押しのけようとしたのは無意識で、察して離れてはくれたものの、今度はそれが寂しいと思う。
 涙が浮かんだ瞳を凝らして浩二を窺えば、浩二の口許が小さく笑っていた。
「もっと……感じて…ください……」
 そういう浩二の上擦った声音が、彼の方も感じているのだと教えてくれる。
 体勢を変えようと言うのか、ほんの少しのインターバルが訪れて。
 上体を下にずらしたのだと気付いた途端に胸をきつく爪弾かれる。
「ひっ!」
 反射的に体が跳ねた。
 僅かに浮いた体が音を立ててベッドに落ちる。その間も胸から指は離れない。
「うっ……ふあぁ……あぁ……」
 強く摘まれて鋭い痛みに身悶えれば、首筋から鎖骨を舌先で柔らかく舐められる。それが快感で。
 一体どっちに感じているのかもう判らない。
 痛みと快感が同時に襲ってくる。
 それを与えてくれるのが浩二だから。だから、体が悦んでいる。
 何もかもがよく判らない。
「こ……うじ……」
「痛い……ですか?」
 咽び泣くように震える声に、さすがに顔を顰めて浩二が問いかける。それを否定して。
「……な…か……わから…く……なってく……」
 体か変になったのだと、震える手が浩二の顔に向かう。それすらも痺れているように曖昧な感覚だ。
「……もっと……訳判らなくしてあげますよ」
 笑みをかたどった唇が、雅人の唾液にぬめる唇に重ねられた。

 
 熱い。
 濡れた粘着質の音は潤滑剤で、雅人の足の間から聞こえてくる。その音が激しさを増す毎に、体の中を電流のような快感が駆けめぐった。
 そのたびに体の熱が上がっていく。
 肌のすぐ外に熱気でできた服を着ているようなほどに熱い。それは息苦しさを伴っていて、雅人は浅い呼吸を繰り返していた。
 だが、それもすぐに急いて荒くなる。
「んぅっ……っ、やあっ!」
 惑うことなく体内の奥深くの一点を指で押さえられ、一気に射精感が増した。脊髄を駆け上がる快感に、身も心も歓喜の悲鳴を上げる。
「気持ちいいでしょう?」
 悠長にもそんな事をいうけれど、気持ちいいというものではなかった。
「やっ、もう……もう……ひゃぁっ!」
 ぐいぐいときつい程に中から性感の源を押さえられ、いくことを覚えている体が一気に高ぶっていく。
 3本は確実に入っている後孔を堪らず締め付けて、その指の形までも鮮明に感じてしまった。
「あぁぁ、んんっ…くあっ……あ……」
 零れる喘ぎ声が響いて、耳にまで届く。
 そんな声を上げているのが自分だと、それすらも己を煽って。
「も、……もうっ……いきたいっ」
 限界を訴えて泣くモノを解放させたくて、浩二に縋った。
「まだ……駄目です」
 縋る手を振り払われ、変わりのように腰を掴まれた。
「もう少し、待っていてください」
 冷たい声は、だけどそれは何よりも熱い情の裏返しだと雅人は知っている。決して乱れない言葉遣いは、荒ぶる心を枷にするための術なのだから。
 だから、彼が求めるのなら従うしかない。
 それが浩二にとってストレスの解消になるというのなら、悦んで身を捧げるだろう。
 それに……。
 熱い塊がさっきまで指を銜え込んでいた場所に触れる。
 大きな塊は、いつも切り裂くように雅人を犯していた。だから、その一瞬に恐怖を覚える。
 でも。
「浩二……」
 縋りたいけれど、浩二の体は下腹の向こうで、届かない。ならばと、浩二の体を回っている足を曲げてその腰に絡ませる。
「そんなに欲しいですか?」
 決して揶揄している訳でもないのに、湧き上がる羞恥に身を焦がす。
 それでも、離したくないと足に力を込めて。
「ああ……浩二が欲しい」
 笑って、見せた。
 

「はっあああっ!」
 貫かれる。
 その言葉が一番合うだろう。
 体を太い杭で打ち抜かれるように奥深くを一気に抉られ、体内から押された肺の空気が吹き出していく。 最初に襲うのはいつも痛みで、それを堪えるために歯をきつく食いしばった。その僅かな隙間から吐息を漏らして、体を押そう痛みを逃す。
 激しい浩二の行為は、それでも雅人を傷つけないように努力はしている。それでも止まらないのだ。
 もっと深く、もっと激しく。
 性欲に理性が負けた今、浩二の嗜虐性は境界近くまで膨れあがるのだ。
 それは雅人の痴態に刺激されて、なおも激しくなる。
「んんっ……そこっ……やだよっ……きついっ」
 もっとも感じるところを突かれ、堪らず出た言葉が浩二を煽る。嫌だと言えば、そこを突かれる。
 何度も何度も。
 きつかった痛みにも近い刺激は、その内に堪らないほどの快感に変わっていった。
 それを浩二は知っている。
 雅人のいいところなど知り尽くしているから、決して雅人を休ませない。
 その快感の嵐に堪えられない雅人のモノは、今にも吐き出しそうなほどに膨れあがり、その存在を見せつけていた。先端から滴り落ちるように、先走りの粘りのある液が溢れ流れていく。
「んあっ……あっあ……こうっ……もうっ」
 ずんっとひときわ深く抉られ、びくんと背が仰け反る。
 肩が浮いて頭だけで体を支えているブリッジ状になって、雅人のモノは天を突いていた。
 触れようとした手は届かない。
 なのに、浩二は触れてくれなくて。
「んくぅぅつ!」
 情け容赦ない責めに、高く掲げられた腰にもう力が入らない。
 仰け反った体が元に戻り、必死で伸ばそうとする手は力が入らないせいで言うことをきかない。肩だけがベッドについているという安定のない体勢に、シーツを掴もうとするが、そのシーツもあっという間にシワだらけになってベッドから剥がれていった。
「あっ……ああっ……やあっ!」
 揺すられて、汗で濡れた髪が乱れてベッドに張り付く。
 何度も何度も絶え間ない刺激に感覚が麻痺してしまいそうなのに、だけど体の芯からいくらでも快感が湧いてくる。
 もういけそうだと、期待して。だけどその寸前にはかったように激しく突かれる。
 それは快感というものではなくて。いけなくなってタイミングを失って。
「ああ……浩二ぃ……っ」
 切なくて、助けて欲しくて、届かない浩二に縋ろうとする。
「いい顔ですよ、今にもとろけそうにっ……淫猥でっ……私を誘ってくれて」
 浩二が荒い息にのせて、言葉で雅人を煽った。
 腰を掴んでいる浩二の指は肌に食い込んでいて、そこに青の痕を残すだろう。
「だっ…てっ!」
「ここ、いいでしょう?」
 わざと選んで突き上げられ、雅人はその衝撃に目を剥いた。
 目の奥が白く閃光が走ったのだ。
「あ……ああ……あ……」
 意識が飛びそうな快感。
 なのに、完全に脱力した体はまだ満足としていない。
 まだ……いけていない。
「あ……」
 だらしなくよだれが流れる口の端を浩二の指が拭う。
「良すぎたようですね、じゃあもう少し我慢してくださいね、雅人さん」
 鬼のような言葉に、雅人は唇を戦慄かせ浩二を見上げる。
 いけなかったとはいえ、先ほどの衝撃で体はさらに敏感になっていた。そんな状態で、どうやって待てというのだろう?
 だが、浩二は宣言通りに抽挿を再会する。
「んあああっ」
 もうそれは意味をなさない嬌声でしかなかった。
 今にもいけそうなのにっ。
 だが、その激しさに感覚がごっちゃになって集中できない。
 もう、もうっ!
「んっ!」
 ぐんっとひときわ奥深く抉られて、浩二の動きが止まった。
「あ……」
 ぶるりと雅人の体が知らずに震えて、弱々しい吐息が唇から零れる。
 浩二がいったのだと、味わった感覚とその様子が知らせてくれた。
「浩二……」
「……雅人さん……大丈夫ですか?」
 一度いってしまえば、浩二もだいぶ落ち着きを見せる。
 隙間なく入っている筈のそこから、それでも溢れる白い液の中に荒ぶる感情をも吐き出してしまったように。
「……こう…じ……いき、たい……」
 手を伸ばせば指が絡められて、力無く横たわったままの雅人の体が引き起こされた。
 ねじれた体が、中のモノの場所をかえ、淡い疼きを与えてくれる。だけどそれでは物足りない。
「あ……」
「ちょっと待ってください」
 起こされた体が向き合った形で抱き留められ、雅人は浩二のあぐらをかいた上に座る形になった。
 体重のせいで浩二のモノをより深く銜える。
「動かしますよ」
「うあっ……ああっ!」
 いきなり激しく雅人の腰を掴んだ手が動き出した。
 上下に雅人の体を激しく揺さぶる。
 それは、奥深くに入っているからこそ、雅人に激しい刺激を与えた。
「い、いやあっ!」
 あまりに激しい刺激に、必死で浩二の首に回した腕すらも離れそうで、縋るように必死で腕に力を入れる。
「そ、んなに……締め付け……るな……っ」
「だ、だってっ!」
 不安定で、どうしても下肢に力が入る。そのせいで、後孔から力が抜けない。
「うああっ、ああっ!」
 もう……もたないっ……っ!
 白い閃光が目の前に広がり、限界まで張りつめていたモノが一気に解放する。
 それはどうしてもたどり着けなかった絶頂への解放で、雅人は勢いよく吐き出しながら何度も体を痙攣させていた。
 壊れる……。
 何もかもがバラバラになったように、体が支配できない。
 全てが浩二の意のままになって、もうどうしようもなかった。
「雅人さん?」
 届く声も、触れられる手も、その感覚は確かにあるのに、どこかあやふやではっきりとしない。
「……こ…うじ……、俺……もう、だめ……」
 精も根も尽き果てたと、訴える。
 だが。
「でも……まだ始まったばかりですよ」
「!」
 判ってはいたけれど、やはり浩二の体力は底なしだった。


「なあ……兄貴たち、大丈夫かなあ?」
 指一本動かすことも苦痛なほどに、体に力が入らない。言葉を発すると、呼吸が乱れ荒くなる。
 最後には、もう何がなんだか判らなくて、気が付いたら朝だった。
 起きあがれば、中に出されたモノも体についていたものも、何もかも綺麗になっていたけれど、それでもやはり拭いただけでは肌に違和感がある。だから、風呂に入りたかった。
 だが、雅人は結局諦めてしまった。
 何せトイレに行くことすらできず、浩二にだっこされてしまったのだから。
「心配なら電話しますか?」
 先ほどの問いにそう言われて枕元に携帯を置かれたが、もうそれを握ることも億劫だと力無く首を振った。
「……やめとく……」
 あの様子だと心配することもないだろう。
 結局浩二のほうが正しかったわけで、いらぬ心配をした悔いは、今心の中で一杯だ。
 ぎしりと音がして、ベッドの縁に浩二が腰掛ける。
「大丈夫ですよ、あの二人は」
「そう…だな…」
 浩二の指が優しく雅人の髪を梳いていく。その心地よさに、堪らず目を閉じた。
「……兄は、私を見ていましたから、だから悠人さんのこともちゃんと見てくれますよ」
 言われて、ようやく浩二が大丈夫だと言っていたわけが判った。
「そうだな……」
 思わず漏れた苦笑に、浩二は笑みを浮かべたままにキスをする。
「引っ越し、手伝いに行きますか?」
「……兄貴が怒っていなければ……いくよ」
「今回のことで?」
「いや、引っ越しのいろんな細かい作業に、絶対兄貴が苛立つから。それを健一郎さんがちゃんと対処できていたら行くってこと」
 何せ、結構我が儘なところもあるし。天の邪鬼だから、素直には希望を言わないし。
 きっとこれからも健一郎の苦労は続くと思って。
「とばっちりはくいたくないしな」
「……そうですね」
 浩二もおかしそうに笑っていた。

【了】