【託された想い】10

【託された想い】10

 紫紺さまが言うなら、毎日性交しなくても大丈夫というのは本当だろう。
 不思議なほどに紫紺の言葉は信じられる。紫紺がお腹の卵の親だからだろうか、きっとそうだろうとアイルは思うのだが、それでも時に不安が押し寄せる。だがそんなときには敬真も貞宝も繰り返し、諭すように「大丈夫だ」と教えてくれる。
 江連という新しい紫紺の筆頭書記官という人も、頻繁に様子を見にきてくれて、暗い顔をしているとふざけてアイルを笑わせるのだ。
 敬真の孫だと言う触れ込みで、確かに敬真に似ているような気がするが、少なくともその性格は全く似ていない。
 時折敬真に叱責されているが、堪えた様子もなく、そんな姿もアイルの失笑を買う。ときに敬真に出入り禁止を言い渡されるふざけ方をするけれど、江連は仕事中の紫紺の様子を伝えてくれるので、いつも楽しみにしていた。
 そんな日々を繰り返していると、前のような不安に苛まれることは少なくなっていた。たまに不安になっても、みんなが大丈夫だと言うから、アイルの不安も消えていく。
 アイルには難しいことはわからないが、紫紺が言った言葉を疑うはずもない。
 館のみんなの介護により前よりふっくらとしてきたアイルのお腹は、育った卵の分だけ大きくなっていた。そのお腹を抱えるようにしてゆっくりと中庭を散歩するのが最近の日課だ。未だ杖を手放せないのは腹が大きくなるにつれてバランスが取りにくくなっているからだが、その杖も最近ではただ手に持っているだけのときが増えてきた。
 そんなアイルに、傍らにいる敬真が満足げに頷いた。
「お身体もずいぶんと回復されておりますね。卵もかなり大きくなりましたので、貞宝さまもそろそろだと申しておりましたが、これなら万全の体制で出産ができますでしょう」
「そうか、もう産まれるんですね」
「できましたら紫紺さまが滞在されているときに産気づきましたら良いのですが、こればかりは自然の流れに任せるしかありません」
「ぼくもできれば紫紺さまがおられるときに産みたいです」
 忙殺されていた仕事が一段落したのだと紫紺の訪れは数度あったが、すぐに別の役目を貰ったとかで週に一度か二度顔を見せるだけになっていた。
 紫紺とは身体から包帯がすべて取れた後にようやく抱かれたが、それから数えても片手の指で足りるほどだ。
 以前は毎夜のように訪れがあった分、今は少し寂しい。
 できればあの大きな身体に包まれて寝たいと願ってしまうが、抱かれない夜は短い時間の会話だけで終わっていた。
「この子もきっと紫紺さまと共にいたいでしょうから」
 だからせめて、子が生まれた後しばらくは一緒にいて欲しいと願うのはぜいたくだろうか。せめてこの子と紫紺二人だけでもいい。
 親と共に過ごす機会はあったほうがいいと思うから。
 ケガをしてからずいぶんと優しくなった紫紺と共に穏やかに過ごす時間はとても心地よかった。胎動を感じないのが普通であるのに、そんなときにはお腹の奥がじわりと温かくなって、卵も喜んでいるのだと思っていた。
 庭をゆっくりと一周した後、促されるままに部屋へと戻り長椅子に身体を預けた。関節の動きは回復し、貞宝からもこの分であればお産も問題ないと言われている。片手が無いのもなんとか慣れてきたが、その分大きなお腹が重かった。
「午睡を取られると良いでしょう。お産が近くなると睡魔に襲われやすいと聞いております」
「はい、ありがとうございます」
 柔らかな掛布をかけられて、長椅子に積まれたクッションに身体を預けた。敬真に言われるほどにまだ眠くはなかったが、彼の言葉は紫紺さまのものでもあるとアイルは考えていた。だからこそ敬真の言葉に逆らわない。何より今までどんなに敬真の世話になってきたか、この館でももっとも信頼できる人の一人なのだ。
 もっとも敬真がそっと部屋から出ていくのを感じつつも、アイルの桃色の瞳は白い天井を捕らえていた。睡魔は確かにあるのだが、こうやって横になっているとい紫紺のことを考えてしまう。
 それでもゆっくりと睡魔の波にとらわれそうになっていたのだが。
「あ……」
 単なる違和感と言えばそれまでだった。
 だがアイルの本能が、違うと訴える。知らずお腹に手をやり、そっと撫でれば、硬いはずのお腹が柔らかく震えているように感じて。
「敬真さまっ!」
 思わず叫んだアイルの声に、何事かと敬真が部屋に入ってくる。
「アイルさま、何事でございますか?」
「敬真さま、生まれそうです」
 急き気味に伝えた直後、引き絞られるような痛みがアイルを襲った。




 王位を継ぐと決まってから、すべてに事柄において膿を絞り出すように問題ごとが発生していた。その内容は大から小まで様々だか、放置していれば何かしらの火種になるようなものもあって、油断はできない。
「次はこれだ」
 財務諸表の違和感から発覚した不正を片付けに行って帰ってきた江連に、次の書類を手渡す。
「増員を要望します」
「却下」
「過労死するぅ――っ」
「そんな玉か、おまえが」
 文句ばかり言う江連に向かって書類をまとめた冊子を飛ばし、見事頭上にあたったそれが床に落ちる前に、次の書類を精査する。
「よよ、ひどい……」
 泣き崩れる江連が、きちんと冊子を拾い上げてそのまま読み込むのを視野の片隅で確認しつつも、次の指示とペンを取り上げていれば、陣中見舞いだと訪ねてきていた紺頼が楽しげに笑っている。
「いい組み合わせだな、見世物にしたら人気が出そうだ」
「はい、はーい、やってみますか、紫紺さま。きっとざっくざくと観覧料が取れますよ」
「やらん」
 見世物では無いと言いたいところだが、自分でもどうしてふざけた江連に付き合ってしまうのかわからない。さすがにそこそこの付き合いになると怒りというより、これが通常状態になってしまっていた。
 そんな紫紺達を見ながら笑みを見せる紺頼の腕には、そこにすっぽり収まるほどの大きさの赤子が抱かれていた。先日借り腹となった耳長族の腹から生まれたばかりの紫紺と紺頼の息子。竜人族は母系家族のために、卵を産んだ紺頼が育てることになる。だからといって父系と関わりがないわけではない。
 今日は紺頼が燐頼(りんらい)と名付けられたその子を紫紺に見せに来たのだ。
 生まれた竜人の子は、祖先の血を色濃く引いているのがよくわかる。太い四肢といい、大きな尻尾といい、鱗の範囲といい、逞しく育つことが期待できた。
 色味は紺頼に似ていて、ふにゃっと笑う表情は瓜二つではないだろうか。
 そんなことを、気分転換がてら考える。
 鱗に覆われた小さな手が紺頼の顔を叩くのを、紺頼もされるがままに笑っていた。
「おまえがうちのに先日贈ってくれた果物の山、ずいぶんと喜んでいたぞ」
 紺頼がうちの、というのは、燐頼の借り腹となった耳長族のことだ。出産の報を聞いた紫紺は、敬真に聞いて耳長族が好むという栄養価の高い果物を紺頼宅に贈っていたのだ。
 誰宛とも伝えなかったが、紺頼にはすぐにわかったのだろう。
「おまえが耳長族に配慮するようになるとは思ってもみなかったな」
「耳長族を道具のように扱う時代は終わらせる。まずは我らが率先しないといけないからな」
「そうだな。少なくともまずは陵辱のような行為を停止させることか」
「ああ」
 頷き、開いていた書類とは別のものを取り出した。重要と表紙に記されたそれは、耳長族の待遇改善案だ。
 一度根付いた風習を変えるのは難しいことが多いが、それでもやらなければならない。
 それでなくても人口減をどうにかこうにかしているのは耳長族のおかげなのだ。しかも強く良い子が欲しいならば、今までのような扱いでは駄目なのだということを、まず紫紺が見せなければならない。
 紺頼の子と紫紺の子、そしてこれから生まれるであろう賛同する者達の子がそのきっかけになる。それは一朝一夕でできることではないが、まず脚をふみださなければ何も進まない。
「子を育てたことのある者に聞いても、燐頼は育てやすいと言われている。まだ生まれたばかりでなんとも言えないが、うちのがあやすと寝付きもいいし、ミルクもたっぷり飲む」
 何より愛らしいと思えて仕方がないのだ、と。
 それは竜人族としては不思議な感情だと紫紺は考えている。紺頼もどこか戸惑いつつも、燐頼へと慈しむ視線を向けていた。
「うちのやつの感情がうつったかな」
 犯罪者を取り締まる警邏隊の総帥でもある紺頼らしからぬ表情一つとっても、紺頼は変わった。もとから紺頼はそれは燐頼が生まれてから、というより、あの耳長族に一目惚れしたときからだろう。
「そういえばおまえのところの耳長族はなんて名前だ?」
 ふと思い立って問えば、「言ってなかったっけ?」と首を傾げた。その拍子に垂れた髪を小さな指が握り引っ張っていた。
「痛いぞ」
 そんなことを言いながらなされるがままの紺頼が、ひどく優しく答えた。
「ルーラ」
 月を示す名だと、愛おしげに教えてくれた。


「いいですなあ、お二人の嬉しそうな顔を見ていたら、俺も卵を産みたいって思うんですよね」
「相手がいるのか?」
「残念ながらそこからです、誰かいませんかね」
「俺の子はどうだ?」
「げっ、冗談」
「なんだそれは」
 自暴自棄のように床に座り込んで書類をめくっていた江連に、自身も冗談で言い、不敬極まりない江連の返答に突っ込んだときだった。
「紫紺さまっ!」
 ノックに対する応えもそこそこに飛び込んできたのは、館に置いていた秘書官の一人だ。彼は江連が行けないときの館との連絡係だ。
「何か?」
 それまでふてくされていたような態度の江連が即座に立ちあがり、秘書官へと詰め寄った。だがそれより先に、「産気づきました」という言葉が紫紺へと放たれた。
 その言葉に、そこにいたすべての人の動きが止まった。紫紺もとっさのことでなんと言っていいかわからないとばかりに立ち尽くす。
「産気……ああ、そうか、もういつ産まれてもいいんだっけ」
 江連が呆然と呟き、ばっと紫紺へと振り返った。
「紫紺さま、これより明日にかけての執務は、我らが行いますので、すぐにでも館にお戻りください」
「あ、いや、しかしそんなすぐに産まれるものではないだろう?」
 竜人族の子を産むのに、耳長族の腹から子が出るのには数時間はかかる。まずは卵が割れて、次に卵膜が破れる。この卵膜が破れるまでに耳長族の身体は出産のための準備をして、赤子が通りやすくなるのだ。その準備ができた証が卵膜が破れるとき。それから卵の中に残っている卵液が流れ出し、ぬかるんだ中を赤子が出てくるのだ。
 竜人族とは違う出産方式では専門の医師以外なす術はなく、そりよりも紫紺の前には休日返上で働いてもなお片付かない仕事が山となっている。
 確かにアイルのことが気になりはするが、それよりもその間にこちらをすれば良いのではないか。だが話を聞く限りでは産みの苦しみというものがあるらしく、付き添って励ますとその苦しみは多少なりとも和らぐとか。
 さてどうしたものかと首を傾げていれば、江連と紺頼が勢いよく紫紺の元にやってきて、顔の両側で怒鳴ってきた。
「初めての出産は子を産みやすい耳長族でも不安なんです、紫紺さまが付いてあげてください」
「不安で身体が縮こまれば出産が長引く。苦痛の時間を少しでも和らげるために、一緒にいてやったほうがいいんだ」
 そこに反論の余地はない。それよりも二人の勢いに、さすがの紫紺も飲まれた。その僅かな硬直の間に二人に腕を掴まれるとずるずると引っ張られて。
「「とっとと行ってこいっ!!」」
 二人揃って紫紺は蹴り出された。





 陣痛は強く、大きく育った腹は今は少し小さくなっている。
 殻が破れて卵液が流れ出したアイルの股間はしとどに濡れて、産道はもう大きく開いていた。
 耳長族の出産は通常ならば軽いが、それは多胎であるために一人一人が小さいというのも関係している。だが竜人族の子はただ一人で大きい。
 耳長族に合わせた大きさの産道を通るには赤子の頭は大きすぎるのだ。弛緩剤を肉壁に投与して、時間を掛けて下りてくるのを待つしかないが、それは多大な苦痛を生み親にもたらすのだ。
 いつもなら生まれてくるだけの時間はすでに過ぎているが、胎児の大きさ故かいつも以上に時間がかかっていた。
 最初は貞宝の声に合わせて息んでいたアイルの意識も、今はもう朦朧としていていた。
 陣痛が始まってからつきっきりで励ましている貞宝の声も今は遠い。
 ただ反射的に息み続けている。
 そんな状態だったアイルの耳に、不意に明瞭な声が飛び込んできた。
「アイル、あと少しだ」
 貞宝の声ではないその声の持ち主を探すように、アイルの視線が宙を彷徨い、辿り着く。
「もう頭が見えている」
 力を入れるために捕まる棒に縋り付いていた手に、冷たく硬い手が乗せられた。視界の片隅に入る指の背にまで鱗に覆われたその人をアイルは知っている。
「……紫紺、さま……」
 苦痛に涙が浮かび流れる頬に触れた指はとても優しい。
 その声を聞くだけで、苦痛すら和らいで頑張る気力が沸いてきた。
「そう、そう、はいっ」
 貞宝が声をかければ、それに合わせて強く息む。
 腹の奥でつっかえていた大きな塊が強いいきみと共にするりと出ていった感触がした。
 とたんに感じた喪失感と、急速に失った痛み、そして何よりも強い安堵が一度にアイルを襲う。
 ああ、産まれたのだと誰に言われるまでもなく、アイルは知った。
 ひゅうっと泣き声にもならない音が響く。だがそれはすぐに大きくなり、確かな泣き声へと変わった。
 産まれたんだ。
 耳に入った泣き声に、今度感じたのは達成感だ。
 紫紺さまの子を産み落とせた、そのことがあまりにも嬉しくて、幸いを感じていた。
「おやおや、これは」
「ああ、これは」
 貞宝と紫紺の声が届き、硬く目を閉じて荒い呼吸を整えていたアイルの耳に届く。
 そこに歓喜の音が混じっていなければ不安であったろう。だがそれでも何事かとうっすらとまぶたを開ければ、普段はわかりにくい表情を満面の笑みにした紫紺の顔が見えた。
 二人は忙しなく何かを確かめる会話はしているが、きっといいことなのだろうと感じるほどに。
「アイル……見るか?」
 紫紺の感極まった声が震えている。
 紫紺自身、不思議な感覚だった。竜人族は自分の子に愛情が無いわけではないが、生まれて感動するような情緒は限りなく薄い。紺頼の子を見てもかわいいとは思うが、それ以上はなかった。だが今アイルが産んだ子を見て、胸の奥が震えるような感動に溢れている。
 そんな己が信じられないが、あれだけの苦痛に耐えてアイルが産んだのだと思えば、それも道理だとも納得ができた。
 そんな葛藤が紫紺の中にあるとは思わず、アイルは紫紺の問いかけに頷いた。
「はい」
 力尽きてただ背もたれにもたれるしかなかったアイルはゆっくりと視線を動かした。
 紫紺の腕にある小さな子はもう泣いていない。
 緩慢にしか動かない手を差し伸べれば、紫紺がアイルの腕にとその子を移してきた。
 それが竜人族の国ではどんなに珍しいことか、アイルは知らない。生まれた子は養育係にすぐに渡されるのが常で、借り腹の耳長族がその子を見るのは母乳を与えるときだけが普通なのだ。
 それ以上に、生まれた子に感動する竜人も珍しいのだ。
 だが生まれたばかりの子を腕に抱くことができたアイルは、ただその子が見せた緑水晶の瞳に魅入られていた。
「紫紺さまと同じ瞳です、この鱗も」
 小さく握られた拳のその指先まで、虹色に反射する黒曜石のような鱗。鋼色の髪は触れればひどく柔らかい。
 その子はとても紫紺に似ていた。
「王家の血筋にふさわしく、力強い証をもっております」
 鱗の量も色も、彼ならわかるのだろう貞宝の言葉に、アイルは紫紺を見上げた。
「この子は強い子になりますか?」
「ああ、きっと私より強い子になるだろう。だがそれも、アイルが育ててくれればの話だが」
 素質は十分だが、その才能を開花させるのは育て親の力だと、未だ検証は不完全なその説を、紫紺はアイルに教えていた。
 それをアイル自身、信じ切れてはいない。
 だがそれでもできることはやりたいと、少しでも紫紺の役に立ちたいとアイルは頷いた。
「それに」と紫紺が言う。
「アイル、この鱗を見てみろ」
 子どもに見蕩れている紫紺が指し示したのは、その子の喉、顎のすぐ下の見づらい部分だった。そこにある鱗の一枚だけも漆黒なのだが輝く色が薄桃色なのだ。
 それは虹色に反射するほかの鱗と比べてもそれほど目立つわけではない。だがそこだけを見ると確かに色が違う。
「逆鱗と言われる鱗だ。そこに滲む色は固有のもので、血の近しいものでも違う色になることが多い」
「え、ああ、確かに」
 紫紺が指し示した場所にも確かに微妙に色合いの違う鱗があって、彼の場合は薄茶色が滲んでいる。そうなんだと、この子はかわいい色だなとアイルが考えたそのとき。
「これはアイルの色だな」
 そんなことを紫紺が言った。
「アイルの髪の色だ」
「え……でも……」
 確かに似ている色かもしれない。だがアイルは借り腹であって血のつながりなどないから、これは偶然なのだろうけれど。
「そう思えばいい。アイルが産んだからこの子はこの色を持ったのだよ」
 優しい言葉が、アイルの心に染みこんでくる。
 紫紺の子だから大切に育てようという思いが、さらに強くなっていった。
「この子の名前は黒紫(こくし)、至高の黒をこれだけ身にまとう竜人ならばこその名だ」
「こくし……黒紫……すてきな名前です」
 アイルの片腕の中で名を呼ばれた新しい竜人の子が不思議そうに二人を見つめていた。


【了】