【階段の先】-18.1 

【階段の先】-18.1 

18. Epilog
18-1. Ryuji Side

 世界が赤くしか見えなかった。
 正樹を彩るさまざまな体液の色が全て血に見える。
 数多の匂いが混ざったそれも、強い血の臭いが混ざっている。
 それら全てが俺の身体の奥深くを刺激し、貪り尽くしたいという欲求を煽り立てていた。
 そう、煽られたとは判っている。
 冬吾の一挙手一投足が、俺の怒りと性欲を煽り立てたのだ。
 目の前で力なくぶら下がる正樹の身体と冬吾自身の言葉を使って、俺を追い詰めた。
 そんなことになるのは全て納得ずくだったというのに、それでも今この燃えるような感情を制御できない。
「おい、ご主人さまの目の前で、他の男に達かされるってぇのはどういう了見だ、この淫売がっ」
 吐き捨てるように言い放った言葉に反応しないことにも苛立って、自身の鞭を振るって、その背に叩き付けた。
「──っ!」
 空気の抜けるような悲鳴が、か細く響く。
 ぐらりと揺れた身体は、小さく振り子のように前後したけれど、がくりと崩れ落ちたままだ。
 さらにもう一発。
 鼓膜に響く鞭が空を切る音に、肌を叩く弾けるような音。
 俺の好きな音ではあったが、悲鳴という何よりのスパイスが響かない。
 ぐらぐらと揺れるだけの身体に近づいて、「おいっ」と強く呼びかけても返事などなかった。そのことにさらに苛立ち、項垂れた頭を掴み上げれば、正樹の目は薄く開いてはいたが、その焦点は合っておらず、俺が覗き込んでも何も映していないように動かなかった。
 どうやら、さっき冬吾が最後に与えた鞭で気を失っていたらしい。
 手を離せば、力なく崩れた身体が揺れるだけだった。
 その体重が全て腕と肩にかかっているのだろう。手首の枷は内側に保護材があるものだったが、周囲は擦り傷だらけになっていて血が滲み、濃いアザができているのが眼に入った。その腕もかなり白く、さらにそこには絡まるような冬吾が付けた鞭の痕が残っていた。
 蛇のような印象のそれが、ねちっこい冬吾自身を表しているようで、ギリリと奥歯を噛みしめる。そのまま、同じ場所に鞭打ってやろうかと思ったが、その前に腕が冷たいことに気が付いて、まずは下ろすことにした。このままでは腕が血行不良で使い物にならなくなる恐れがあったからだ。
 すぐに手首の枷を外して、崩れ落ちる身体を抱き留める。だが、ぬるりと滑る肌に、腕から滑り落ちていく身体に、一瞬、逃げられると思った。
 そんな不安に咄嗟に強く抱きしめた身体だったが、それがひどく冷たいことに驚いた。それは最悪の事態を連想させる冷たさで、ヒヤリと背筋にひどい悪寒が走って、俺は慌てて正樹の口元から出る吐息を確かめた。
 その微かに擽る吐息は規則的で、熱さは変わらず、ほっと安心した、とたんに自身の足から力が抜けて、正樹を抱えたままにズルズルとへたり込む。
 冬吾がそんなへまをするはずはないとは判っていても、それでも込み上げた不安は結構俺にダメージを与えていて、力なくへたったままに冷たい身体を抱きしめてしまう。
 これは、俺のものだ。
 冬吾に鞭打たれる姿を見て、楽しく思ったのは最初のころだけ。
 そのうちに、そう、こいつが勃起したころから、その胸の中になんとも言えぬドロドロとした悪感情が渦巻き始め、気分転換に飲んだ酒もやたらに苦く、酔うこともできなかった。
 冬吾がこれを鞭打って、悲鳴とともに身悶えて、あろうことか先走りをダラダラと零す。
 そんな浅ましい姿など嗤って見られるはずだったのに、見たくなくて。なのに、視線を外せなかった。
 外したら、俺の元からいなくなるような気がして、こいつが射精するその瞬間までしっかりと目にして、爆発しそうな苛立ちをどこにも出すことなどできなくて。
「くそっ」
 抱きしめ、その肩口に顔を埋めて小さく唸る。
 触れた背は、滑る中にひどく荒れていて、深く抉れた肉に行き当たって、びくりと指が離れた。
 これが味わった痛みが、俺にまで転移したかのように、俺の背が痛む。
 俺が自身で与える傷は、ものすごく楽しくて悦ばしいことなのに、冬吾の傷が残ることに、俺の胸のうちに浮かぶのは後悔ばかりだ。
 こんなこと、全て判っていて冬吾に任せたのに。
 俺自身、冬吾の奴隷に向かって同様なことをしてきたのに。
 なのに、冬吾はいつも笑って受け入れていたのに、俺は受け入れられない。
 もう二度と、こいつを他人の手で傷つけさせたくない。
 そんな決意が胸の中に込み上げていて、そのためにどうすれば良いかという算段に脳がフル回転していたその時。
「……ご、主人……さ……」
 小さな呻き声に視線を向ければ、正樹の眉間に深いしわが寄って、苦しげに荒い息を吐いていた。
 その姿に、ふっと意識が戻される。
「ご、めんな、さい……もうし、わ、……せん、俺、俺……、勝手に……俺……」
「ああ勝手に達きやがって、奴隷にあるまじき行為だ。しかも冬吾の野郎なんかにっ」
 イライラと内心の鬱憤を叩き付けるように言い放ち、その頬でも張ってやろうかと腕を上げようとしたその時。
「お、俺……達きたくなか……、ご主人、さまじゃ、な、ないのにっ、なんで、なんで……俺、達って……なんで、ご主人さまじゃないのにっ」
 しゃくりを上げて、正樹が色を失った指で縋り付き、溢れた涙が龍二の剥き出しの腕や胸を濡らした。
「お、れ、厭だ、こんなの……ご主人さま、ないのにっ、ご主人さまだったら、何でもうれし、のにっ、なんで、他人までっ」
 その言葉がうれしい、と感じた。
「ご、主人さまっ、ご主人さまの手で俺を罰してっ、こんな淫乱な俺、こんな身体を罰して、お願い、ですっ、」
 動けないのに、弱々しい腕で縋り付いて、ぶつかってくる。
 それが熱く、冷たく、龍二の心を揺さぶった。
 これはもう俺の奴隷だ。俺のもので、俺のためのもので。
 だから、他人の手で射精した罰は与える必要がある。
 だが。
「今日はもういい、これ以上やったら死ぬ」
 これを安易に壊したくない気持ちが非常に強く、謝罪を繰り返す正樹の言葉を遮り、冷たい床から抱き上げた。
 気が付けば、先まで赤く埋め尽くしてた世界は元の色を取り戻していた。
「う、くっ……う」
 痛みに苦しむ身体が先より熱くなっていた。
 平熱よりも熱いそれに、眉根を寄せる。
「骨折しているのか、それとも……」
 内臓を傷つけるヘマはしていないと思うが、冬吾も我を忘れていた感がある。
 とりあえずは、と、そっとベッドに下ろして、消毒薬で傷の手当て、それに、全身を汚す体液も拭わなければならない。それから医者に診せて。
 倶楽部と契約しているその手の医者に連絡を取って、と、行為の後の手順を考えていたら、不意に服が引っ張られた。
「げ、元気になったら……ば、罰、して、ください、お願い、します……」
 そうされることが当然だと、されないほうが不安だと、何よりもその瞳が雄弁に語っていた。
 それは奴隷としては正しい姿だと、堪らない歓喜に充ち満ちる。
 だが。
「ご、しゅじ……」
 続くその言葉が想像できて、苛立つ己の理由も判らず不意に封じたくて、俺は正樹の口を己のそれで塞いでいた。今はそう呼ばれたくなかった。なぜならそれは、奴隷が皆口にする言葉であって……。
「ん……」
 血の味がする。
 正樹の味に混じるそれも、また正樹の味だ。
 薄い舌を引きずり出し、食み、味わい尽くす。
 呼吸すら奪うそれに、息苦しげに呻く正樹のために話してやれば、とろりと蕩けた瞳が俺を見つめていた。
 その瞬間思わず言ってしまったその言葉を、なぜに言ってしまったのか、すぐには判らなかったけれど。
「龍二だ、ご主人さまではなく、俺の名で呼べ」
「……ご……、ん、りゅーじ……さま?」
 久しぶりに呼ばれた名がすとんと胸の奥に落ちていくと同時に、傷だらけの顔が幸せそうに微笑んだそれを見て。
「そうだ、おまえの主人の名だ。俺の奴隷として特別に許してやる」
「……龍二さま……ありがとうございます」
 撤回する気など、欠片も沸いてこなかった。