【階段の先】-14

【階段の先】-14

14.

 あの日から、俺はご主人さまの奴隷だった。
 罰や躾と言う名の圧倒的な暴力、鞭の打擲から逃れる術などないと屈したあの日から、俺はご主人さまの不興を買わないことだけが最優先事項となっていた。
 こんな立場がイヤだと思うことはある。
 外に出て、普通の生活に戻りたいって思うことはいつもだ。
 だけど、俺はここから逃れることはできなかった。ベッドは頑丈な金属製で、あろうことかその足は床のコンクリに太いボルトで固定されていて、工具でもなければ外れるものでもなかった。その足に、俺は鎖で繋がれているのだから。
 鎖はトイレやシャワーを浴びるには問題ない長さで、食料品の入った冷蔵庫も届く。
 けれど、この地下室を出るためのドアには僅かな距離で届かず、届いたとしてもあのドアには鍵がかかっているのを知っていた。
 だって、ご主人さまが出てくたびに重々しい鍵がかかる音が響くのだから。
 そうなると、この部屋から出て行けるのは鍵を持つご主人さまがいる時だけ。だけど、細身で力の弱い俺なんかが、筋骨逞しいご主人さまに向かっていって敵うかというと、それは絶対に無理だった。
 この鎖が武器にならないかとも考えたけれど、俺の力なんてご主人さまの前では幼子のごとくか弱いものでしかなくて反撃されるだろう。あの人は、俺を軽々と持ち上げられるし、何か武術でも習っていたのか、最初のころに俺が何か仕掛けようとしてもすぐに気が付いて、激しい仕置きを喰らうはめになったのだ。
 そんな日々に俺はもう、逆らう気力など潰えてしまっていた。
 この地下室に来てからもう何日経っているのか、全く判らない。時計などないし、窓のない地下室では外の時間の経過など判るはずもなかった。ご主人さまも毎日来るわけではなく、いつ来るか教えてもらえるわけでもない。
 ただ、あの日小さなヒビが入った腕が治ったと言われたのが数日前だから、もう三週間ぐらいは経っているのだろう。確か治療をした医師が、それぐらいだと言いながら固定したことを遠い過去のように思い出す。
 さすがに骨がダメージを受けるほどの鞭はあれ以来なかったけれど、それでもこの身体にはいつも新しいアザや傷が増えていっていた。
 俺はまだまだ奴隷としては不完全でできていないことが多すぎると、ご主人さまはいつもため息を吐きながら鞭を振るう。今ではため息を吐かれたとたんに、俺の身体の傷がピリピリと痛み出すほどになっているけれど、どんなに注意していても、何かしらの失敗をしてしまう。
 そうなれば、ご主人さまの大好きな鞭打ちの罰が始まって、それはいつ終わるか判らない。一発で終わることもあれば、十数発、乱舞のごとく打たれたこともあった。そんなときには、俺は許しを乞うことしか許されていない。それもあまりしつこいとよけいにご主人さまを怒らせてしまうから、難しかった。
 本当にご主人さまの機嫌はどこで悪くなるのか未だに判らない俺だから、だから、奴隷らしくないと怒られてしまうのだろう。
 ちゃんと奴隷としての振るまいができれば、ご主人さまのご機嫌はたいそう良くて、腰が蕩けるようなキスがもらえ、昇天してしまうほどの快楽の中で犯してもらえる。
 痛みか快感かとなれば、絶対に快感のほうが良いから、俺は頑張っているんだけど。
 でも鞭の痕は増えていく。
 背に広がる痕は幾つもアザになっていて、ひどく打たれた時には傷もできている。それがかさぶたとなって治りきる前に、剥がされるように鞭で打たれて、新たに傷を広げたこともあった。
 ご主人さまは、そのうちにタトゥとはまた違うすばらしくイヤらしい模様になると、俺の肌に傷が入るたびに悦んだ。
 きっと、罰と言う名ではあるけれど、ご主人さまが好きで叩いてるんだと思うときもある。あるけれど、俺は逆らってはいけない。逆らえば、もっとひどくなる。
 血にまみれて這いつくばって、それでも打たれるのは、もう嫌だ。
 だから俺は、ご主人さまがしたいことを、自由にしていただくだけ。
 鞭打ちでも何でも、ただ軽ければ良いのに、と、それだけを願うだけ。
 だから。
「壁に手をつけ」
 たぶん数日ぶりのご主人さまが不機嫌そうに部屋に現れて、開口一番に言われたときも、従うだけだ。
 示されるがままに壁に手を突いて、尻を突き出す格好になる。
 声音と雰囲気から、ご主人さまの機嫌がかなり悪いと伝わってきて、足が小さく震えた。
 込み上げる恐怖を堪えるように、爪先がカリッと壁を引っ掻く。
 今日はかなりひどくされるのでは、と思うけれど、俺には逆らう権利はない。ただ、彼の怒りを受けるだけだ。でないと、もっとひどいことになる。最初の日のように、ボロボロになるまで打たれるのは、もう嫌だから。
 そんな決意の中にあった俺だったが、それでも、ご主人さまが目の前に差し出してきたそれに喉の奥から引きつった声が出てしまった。
「今日はこれで打ってやろう、ほら、おまえが始めて味わったあの一本鞭だ、うれしいだろう」
 差し出された黒と赤のそれに、全身が悪寒で総毛立つ。込み上げた恐怖に奥歯がガチガチと鳴り、小刻みに振るえ始めた身体を止められない。
 ご主人さまが揃えている鞭のコレクションのうち、もっともダメージがきつくて、打たれる側が辛い一本鞭。だから滅多に使われぬそれを今出してきたということは、ご主人さまのご機嫌が相当悪いということなのだろうか。
「最初ん時は、確か右腕と太股が腫れ上がってて。まあ、骨にヒビが入ってたんだから当然か。抉った傷もなかなか治らなかったよなあ。次に床の上で四つん這いで打った時は、十発もしねぇうちに、ヒイヒイ泣きながら媚びて……浅ましいメス犬みてぇな格好で尻振りまくって、犯してくれって、ずいぶんと誘ってくれたもんだ」
 激しい痛みに耐えかねて、何でもしたという記憶は残っている。 そのときの鞭の傷がまだ右腕と背中に残っているほどの深い傷となって、あの時腕は血まみれで、余暇に手形が点々と残っていた。
 そんな中で、俺は機嫌を直してもらうために尻を振り、勃起したご主人さまのチンポが欲しいと泣き喚き、自ら広げて後ずさりながら、腰を高く掲げて。
 犬のように姿で、自ら銜え込んでようやく機嫌を直してもらって、ご主人さまが満足するまで使ってもらって。傷の手当てをしてもらう時は、ご主人さまはたいそう優しくなっていた。
 だけど。
 最凶の鞭を差し出すご主人さまに、あの優しさは期待できない。
「マゾなおまえは、これが大のお気に入りだからな。うれしいだろう?」
 恐怖に震えながら問われて、俺が返すことができるのは肯定だけだ。
「う、れ、しい、です、ご主人さま」
 ガクガクと今にも崩れ落ちそうな膝になんとか力を込めて、壁に爪を立てながら、必死になって姿勢を保っていた。