【階段の先】-13

【階段の先】-13

13.

 理不尽だと思った。
 龍二さんが言うほど、俺は何も悪いことはしていない。
 ベッドの向こうにあったのはハンガースタンドに掛けてあった黒革のベストとパンツ。昨日のものよりハードな雰囲気なのは、ベルトが多用されているからか。さらにロングの袖無しコートのようなものも羽織っていた。
 これが何も知らない時ならば、素直に格好良いと見惚れていただろうけれど。
 今は、その姿に恐怖しか覚えない。
 朝の挨拶はともかく、だいたい奉仕しなきゃいけないなんて知らなかった。知るはずもなかった。恐怖の記憶しかない丸太に乗せられたくなくて暴れたのは当然だと思うし、けれど俺の言うことなんて何一つ聞いてもらえない。そんなことを教えられることさえ、罰になるなんて。しかも、しかも──っ。
「まずは、朝っぱらから無駄に浅ましく勃起して、起き抜けから淫欲に狂っていた罰」
「ぎゃああぁ──っ」
 バシーンっと、最初の一発が背に落ちたとたん、目の前に火花が散った。
 何かで強く突き飛ばされたような衝撃、背に走る鋭い痛み、昨日のなんか目じゃないほどの衝撃に、俺はもう一発目で気が遠くなりそうだった。
 けれど、瞬いた火花が消えてもなお、俺は天井を見上げたままに硬直していた。
 いっそのこと気を失いたいのに、失えない。そんな俺に、龍二さんの低い声音が届く。
「まだ弱いほうだぞ」
 揶揄混じりのその言葉に、俺は無意識のうちに首を横に振っていた。
 嘘だ……嘘だ……、これで弱いなんて……。
 だって、だって……。
「次だ、厭らしい臭いをぷんぷん振りまくって喘いで、主人への挨拶を忘れた罰だな」
「う、嘘……ちが……」
 脳がうまく働かない。
 言いたいことはたくさんあるのに、現実とは思えぬ状況に、戸惑い、脳細胞も神経も何かにブロックされたかのように、働かない。
「あぎぃぃぃぃっ!!!」
 先より強く、背中から右腕を巻き込んで鞭が跳ねた。
 ピシッと何かが奥で鳴ったような、知らず左手で押さえた腕が、見る見るうちに腫れていく。しかも、触れたとたんはなんともなかったのに、すぐに触るのも嫌になるほどの痛みが心臓の鼓動と同じ速度で脈打ち伝わってきた。
「い、いやぁ……やめてぇぇ……痛い、痛いよぉ……っ、あがああぁっっっ!!!」
 腰から尻タブに、前屈みになっていた身体の、剥き出しとなった肉が爆発したような。
 身体が前に吹き飛ぶような感覚。
 がくりと崩れた身体を支えるように伸びた手が、かき抱いたのは丸太だった。
「……主人に手間を取らせて、そんなにも鞭が欲しかったんだろ、うん? メス穴がひくついているぜ。欲しい、欲しいって、おちょぼ口を尖らせて、痛いのに感じてますって、喚いているぜ、おまえのメス穴は、なあ」
 その尻に、また衝撃が走って。
 ひいぃっと喚きながら、前へと這い進む。腫れた腕が、ビリビリと痛む。けれど、背後から迫る恐怖のほうが強かった。その分上がった尻に。
「ひぎっ、いあぁぁ──っ!!」
 唾を吐きながらの悲鳴とともに、一瞬硬直した身体がガクンと丸太の上に崩れ落ちた。
「そのうち、その可愛いおちょぼ口に俺の腕を銜えるぐらいしてやるよ。中でガツガツ内臓を殴られて達きまくる快感を覚えると、もうまともなセックスじゃあ感じなくなるかもなあ。おっと、逃げんじゃねえよぉ、まだ罰は残ってんだからさ」
「た、すけっ……許して……ごめんなっ、いぃ…………ああっ、痛ぁ……」
「ああ、おまえの肌は白いから、赤が映える……そうだな、ほんとに……似合うな」
 なんだ?
 不意にものすごい恐怖が襲ってきた。
 背筋を這い上がる激しい悪寒。何よりも、全身が激しく震えて、動けない。頭の中ではものすごい警告音が鳴り響き、逃げることばっかり考えてるのに。
 動けない。
 ただ、口だけが無駄に足掻いて、悲鳴を上げる。
「やっ、助けて……無理ぃ……も、無理ぃ……ご、主人さまっ、おねっ、ひっぃぃっ」
 ヒュッ、パン、ヒュッ、パン。
 風切り音と床を打つ音がリズミカルに迫ってくる。
「身体を起こせ」
「む、無ぃ……やあっ」
 突っ伏していると、髪をひっ掴まれて身体を起こされる。ブチブチっと千切れた髪が目の前に散っても、気にならない。それよりも、尻を丸太についたとたんに、そこから走る激しい痛みに、音にならない悲鳴が喉から迸った。
 慌てて尻の方へと視線を向けると、じわりと滲み流れる赤い滴が見えた。
「あ、……ぁ……」
 太股を伝い、半ばで途切れた一滴のそれが何かなんて、痛みが全てを教えてくれる。
「い、いや……だぁ、やあぁぁっ、あっ」
 鞭で切れたんだって、血が流れるほどの傷を負わされて。
 もう恐怖どころではなかった。パニックにも近いそれに、喚き、なんとかして逃れようと暴れて。
 けれど、太股と膝と、枷は思った以上に強く、外れない。
「た、助け、てぇ……お、お願いっ、ご、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……お願いっ、許してっ!!」
 こうなると、縋る相手は龍二さんしかいない。いや、もうあれはご主人さま。そう、ご主人さまにお願いして、許してもらうしかない。けれど、俺の前方へと移動してきたご主人さまは、俺がどんなに泣き喚いても、笑顔を崩さずに、手の中の鞭を見せつけるように振り回した。
 その風を切る音が響くたびに、身の毛もよだつ恐怖に、身体が硬直する。
 鞭を振るったせいか、前より襟元の袷が開いたベストから、逞しい胸板が覗いていて、上から来たコートが、マントのように裾がたなびいた。逞しい腕と足がそこから覗いて、俺に迫ってくる姿は、まるで魔王か悪魔の親玉か、とにかく悪の親玉──しかもむちゃくちゃ質の悪いやつが迫ってくるような感じだ。捕まえられたら殺される、そんなやつだ。
 そこには優しさなど微塵も感じられない、どころか。
「泣いている正樹は可愛いな。好青年ぽいのが、まるで幼子のようにグシャグシャになって泣き喚いて……怯えて、震えて……なんて可愛いんだ」
 陶然と、呟き続けてる。
 しかも、ご主人さまの股間は、革のパンツの上から見ても、とても大きく盛り上がっているのが見えた。
 そこを片手で器用に開いたとたん、中から飛び出すようにしてきたペニスは、さっき口に入れたときよりもっと大きく勃起しているようで、それが歩くたびに威嚇するように俺に迫ってくる。
 この人は、俺を鞭打って、それで勃起しているのだ、と、その姿にまざまざと教えられた。
 俺をマゾ奴隷と呼ぶご主人さまは、正真正銘のサドだったんだ。
 それこそ、その禍々しい姿を隠しもしないどころか、つうっと糸を引くほどに、先走りが溢れている。
「い、嫌だっ、やだぁぁっ!!」
 また、あれを銜えさせられるのだろうか、あんなに苦しかったのに。
「嫌だ、嫌だって、全く、淫乱マゾ奴隷にあるまじき反抗だな。まあ、よっぽど鞭が浴びたいってことで、俺としては楽しめるから良いけどな」
 クツクツと喉の奥から響く低音に、俺はガクガクと首を振り続けた。
「も、もう、無理っ、……壊れる……壊れてしまう……」
「壊れやしねえよ。壊れないように、大事に扱うさ。大事なんだよ、正樹」
 大事だと、そう言いながら、けれど力強い腕が鞭を振るう。
 目の前を掠めていく鞭に堪らず目を瞑ったその直後、バシッともドンともガキッとも、いろんな音が鼓膜を振るわせて。
「がっあっ、あっ、あっ……」
 左の太股から鮮血が飛び散り、弾かれた鞭先が俺の左の頬を抉っていた。
 涙とともに流れる血の滴が、薄まり消えていく。
 大きく開いた口を閉じることも忘れ、俺は宙空を見つめていた。
 そんな俺に、龍二さんは容赦しなかった。
 腹を打つ鞭に、息が詰まる。ガクンと身体が前のめりになって、もう悲鳴すら出ない。
 開きっぱなしの口角から多量の涎がボタボタと丸太の上に流れ落ちた。
「あっ……あ……」
 呼吸すらままならなくて、ゼイゼイと喘いでいると、不意にご主人さまが声を上げて笑い出したのだ。
「おいおい、さすが淫乱なだけあるなあ。ほれ、見ろよ、勃起してるぜ」
 言われるまでもない。俯き喘ぐ俺の視界に、隠すこともできずに露わになった俺のペニス。貞操帯もどきの拘束衣に突き出すようにされたそれは、落ちた涎を纏ってヌラヌラと光っていた。けれどそれだけでなく、俺のペニスは明らかに勃起しているサイズになっていたのだ。
 うそだ……、嘘だ……。
 なんで……。
「やっぱ、おまえはマゾだな。鞭打たれて勃起するやつぁいねえよ」
 上機嫌になったご主人さまに楽しげにそこを鞭先で嬲られる。
 鞭先の革紐が束になったようなそれは、凶器の先で触れられているようなもので、そこはかとない怖気が背筋を這い上がった。
 その震えを、勘違いしたのだろうか、とんでもないことを言い放った。
「気に入ったようだからな、もっとくれてやるよ」
 なんで、なんで……。
 振り上げられた腕、避ける間もなく鋭い一閃が胸へと落ちる。
「がっ、あ……」
 仰け反った身体に、次の鞭が襲いかかる。
「おいおい、楽しそうに踊り始めて、そんなに楽しいんかよっ、このマゾ野郎がっ。振るんだったら尻を振って媚びるんだなっ」
「ひぎぃっ!」
 前へ、後ろへ、右へ、左へ。
 身体に襲撃が走るたびに、身体が揺れる。
 血飛沫を上げた胸の傷は切り裂かれたように響き、打たれた腕はさらに腫れて、もう動かせない。
「ゆ……るし……て……ご、主人……さま……」
 空気を切る音が、肩へ落ちる。長い鞭先が叩く背中は、もう痛みすら感じない。ただ、衝撃に身体が揺れて、ガクガクと震えるだけだ。
「許す……? これは罰だ。だが、そうだなあ……もし、おまえが俺がしたいと思ってることを当てることができたら……特別に終わらせてやってもいいな」
 やりたいこと……?
 ご主人さまが、やりたいこと……?
「その代わり、もし外れたら鞭の回数が増えるだけだ」
「……ぁ……ゃ……」
「さあ、俺が何したいか言ってみな、ああ、十秒以内に」
 否応なく始まったゲーム。
 ぐらぐらする身体は、触れるだけでも痛いのに、乱暴に引き起こされて苦痛に喘いだ。もうどこもかしも痛くて、辛くて、考えることなどできない状況で、非常なカウントダウンはすでに始まっている。
「……あ……ぁ……」
 考えることなどできなかった。目に汗が染みたように見えたけれど、これは血なのだろうか。視界が澱んだようになったのに気を取られたその瞬間。
「あ……がっ……」
 もう悲鳴すらまともに出ない。
「ずいぶんと俺に鞭打たれたいと見えるな」
 ギリギリと裂けるように痛む顔を、鞭の柄で支えられ、上向かされる。
 今の痛みは一体どこだったのだろう?
「あーあ、おまえの取り柄の顔が、こんなにも傷だらけになって……さっさと答えねえからだ」
 顔……、顔?
「なあ、欲しいのは鞭か、それとも? ん?」
 口角を上げて言われた言葉は、何かの暗喩だろうか。回らぬ頭が、それでも縋り付くように彼の言葉を繰り返す。
「はい、十秒」
 振り上げられた筋骨逞しい腕。知らず追いかけたそれの先で、黒くしなるそれが、宙空でたわむ。
 鋭い風切り音が鼓膜に届いたのと、背に走った鋭い痛みのどちらが早かったのか。
「がっ! あ……ぁぁ……」
 不自然な姿勢での一打ちに、痛みはそれほど強くなく、けれど絡みついた鞭が肌を激しく擦り上げて思考を邪魔する。
「似合うな……本当におまえの肌は、赤い色がよく似合う、ああそうだ……今度この身体に似合う、血の色をした服を着せてやろう、きっとよく似合う」
 恍惚とした声音で、俺の傷ついた頬を撫でる手が俺の顔を上げさせる。
 互いの視線が絡むように覗き込まれても、俺の瞳は満足に焦点も合わせられない。
 悲鳴を上げるたびに涸れてきた喉が震えて、掠れた吐息を零すだけだ。
「ほんとにおまえは心底マゾだな……、そんなにも俺の鞭が欲しいのか」
 手が、俺の頭を押さえた。視線が下がり、至近距離に見えたのは、ぼやけた目でもはっきりと判るほどに勃起したご主人さまの股間だった。
 まるで生き物のように脈打っているようにすら見える、そこ。
 パンツのファスナーが完全に開いて、そこから別の生き物のように突き出しているペニス。俺のとは比べものにならないほどに太く大きく長い。それが今にも弾けそうなほどにぴちぴちに張っていて、先端から涎を垂らしているかのように、粘液を零しているのだ。
 それこそ、我慢に我慢を重ねているように。
「これで最後だ。俺が何をしたいか、答えられるか?」
 そっと首筋を撫でられる。それでなくても全身熱を持ったように敏感になった肌は、そんな弱い刺激でも顔をしかめるほどに痛覚が煽られた。
「っ……あっ……」
 近づいた股間が、俺の弛んだ口元に触れたとたん、はっきりと欲情した臭いを嗅ぎ取った。
 その拍子に、謎かけの答えが判ったような気がした。同時に、俺は、記憶の底にあったSMの話を思い出して。
「ご……主人……さま……、お、れを……お、かして……」
 参考になるかなと思って手に入れた本の中にあったその描写、拷問の果てに屈服した男が、屈辱的なその台詞を吐くシーン。
「お、れの……イヤらしい身体……で、どうか……慰め、て……、俺、の尻……この、身体……好きに……使って……さい…………ぃ」
 その捕虜の台詞が口を吐いて出る。
 しらふで読んだときにはなんかものすごくて、半分以上読み飛ばしてたけど、そこのシーンは記憶が残っていた。
 だって、ものすごく、エロいって思ったから。あんなに痛めつけられていたのに、全ての箍を外して、心底うれしそうに、そう、とてもうれしそうに……こうして。
 俺は首を伸ばして、目の前の割れ目をぺろりと舐めた。とたんにぴくりと震えたそれが、さらに粘液を零すのを舐め取った。
 溢れる臭気に、グロテスクなほどに張り詰めた肉の塊がヒクヒクと震えていた。
「物欲しそうに、こんなに鞭打たれて、血ぃ流して。見えてねえか、てめぇは。背中、いろんなところに血が浮いて、まだら模様になってるっていうのに、そんなにこれが欲しいか?」
 頭上から、明らかに欲情した声が振ってくる。
 ああ、間違いなかったのかも……。
 ご主人さまが望んだことはこれだったのか。
 とたんに、ふわりと頬が緩み、口元が知らず弧を描いた。
「ははっ、そんなにうれしいか?」
「は、い……うれし……です」
 当てたから、もう鞭は終わり。
 もうどこが痛いのか判らないぐらいあちこちが痛いけど、でも、もう終わるんだ。
 ご主人さまの望むことをしたから……、悦んでもらえたから、もう罰は終わり。
 いっぱい悦んでもらえたら……、怒られない。
「良いだろう、罰に耐えた褒美だ。おまえの欲しがったこれを、たっぷりとくれてやろう」
 熱の孕んだ言葉とともに身体が丸太に押さえつけられる。
 剥き出しの尻タブを割り開かれてると、ひりつくように痛み、堪らず喉を晒して呻く。
「尻も真っ赤だ。このまま毎日打ち続けたら、サルの尻のようになって……メス奴隷にふさわしい尻になるかもしれんな、どうだ、うれしいだろう?」
「……うれしい……です」
 たぶん、これが正しい。
 だって教えてもらったじゃないか。
 主人さまの言葉を全部受け入れること、逆らわないこと、そして。
「イヤらしい尻だ、もう期待して、パクつかせてやがる、ったく、淫乱にもほどがあるぜ」
「あ、あっ……」
 のし掛かってくる重く熱い身体に、腫れ上がった肌が痛みを訴える。それなのに、押さえつけられてペニスが、丸太の表面に擦られて、卑猥に芯を持ち始めた。
 なんで……なんて思う間もない。
「ひ、いっ……あぁ……ぁ」
 太い切っ先が、アナルに埋め込まれる。
 浅く、数度突かれて、不意にギリギリと広がっていく。
「い、痛ぁぁっ、あっ」
 まだ濡れていない、ご主人さまの先走り液だけが潤滑剤で、それなのに、引きつる痛みに悲鳴を上げる俺を無視して、ギリギリと奥へと侵入してくる。
「が、あっ、あっ」
 背の痛みとは違う、内臓を裂かれるような痛みはまた別の恐怖を呼び起こして。
「や、あっ、こ、裂けるっ、ひぅ……ぅっ」
 縋るように丸太に爪を立て、視界が赤く染まるほどに固く目を瞑って、侵略してくるそれを受け入れた。
 受け入れるしか、俺にできることは、もうなかった。