【階段の先】-10

【階段の先】-10

10.

 どことなく霞がかかっているような、今一つはっきりしない目覚めの中で、俺はぼんやりと視線を巡らせた。
 さっきまで薄暗い、墨の滲んだ水の中で藻掻いていたような、そんな夢を見ていたような気がするけれど、それも焦点の合わない視界の中で消えていく。
 ぼんやりと認識した景色はどこかで見たような、けれどはっきりとしない違和感を伴っていて、キョトキョトと視線を動かしたのはそれからすぐ。
「え……」
 数秒後はたと気付いて、目を見開き、左右に動かした。
 確かに自分の部屋じゃないここは、けれど確かに記憶に残っている場所だ。
「ここって……、あっ」
 どこ、と言う前に、場所は思い出した。
 剥き出しのコンクリの壁に、ちらちらと明滅する直管型の二本の蛍光灯。
 壁近くにある棚に卑猥な道具が並んでいるここは、今日の撮影に使った地下室なのは間違いない。けど、だからってなんで俺がこんなところにいるんだろう。
 寝起きの呆けた頭でも、ここはあまり来たくはなかった場所だったことは覚えている。初めての経験ばかりの撮影は、相手が龍二さんじゃなかったら、絶対に逃げ出そうとしていただろう。決してそれが叶わない状況ではあったけれど、でも確かにあれは痛くて辛かった。マジ、SMって二度とごめんだって思ったくらいだ。
 そんなことを考えながらこの部屋を出て、シャワーを浴びて、着替えをして。
 その後連れて行かれた店で打ち上げをしたときにうっかりテキーラを飲んでしまって……。
 記憶に残る道程を一つずつ辿り、そこでぷつりと途切れた記憶にため息を吐く。
 なんであんなところにテキーラがあったのか、という疑問もなきにしもあらずだが、それでも飲んでしまったものは仕方がない。
 それよりも起きて、上に上がってみたら何か判るかも……と、思ったのだけど。
 起きようと腕を動かしたときの違和感があって、それまで気付いていなかった存在を知った。硬質の冷たいものの正体に、ぞわりと怖気だつものを味わいながら目を剥いた。
「これっ……」
 見覚えのある、確かに撮影時に使用していた枷が、手首と足首にしっかりと嵌まっているうえに、そこから鎖が蛇のごとく這っていた。しかも、肘をついて上半身を少しだけ起こしてみれば、真っ裸な状態も眼に入ってきた。
 下着すら身に着けていない状況に、心許ない以上に、恐怖が湧き起こる。
 もとより、良い印象のない場所だ。
 薄暗い空間に、人の気配などないのに、首筋の皮膚が何かを感じたかのようにざわめいた。撮影のときに打たれた背中までもが、脅かすように疼く。
「えっ、と……とにかく、上へ」
 せめて上の階へ移動したくて、半端に起こしていた身体でそのままベッドから転がり降りようとしてみたが、喉を強く引かれてベッドへと戻ってしまう。
「んくっ、げほっ」
 勢いが付いていた反動でかなり強く喉を刺激された。咳き込みながら手をやれば、そこにはしっかりと分厚い──たぶん首輪のようなものが嵌まっているのが感じられた。
 しかも、恐る恐る振り返れば、ベッドマットの頭上近くに這う鎖をも見つけてしまう。その先は、あの無機質な金属のベッドヘッドの柵で、鎖が何重にも絡められているのが見えた。
 片腕を付いて、喉を締め付けないようにずりずりと移動して、鎖の先に手を伸ばしたけれど、鎖の先は手のひらサイズのカラビナのようなもので固定されていて、そのネジ式のロック機構がどうやっても回らない。
「な、んで……くそっ、外れろ、こらっ」
 一体どんな力で締めたのか、俺の指の力では一向に動かない。
 しばらく力任せになんとかしようとしたけれど、指先が痛くなって痺れだしても結局なんともならなかった。ならば代わりに、と自分では見えぬ首輪を辿ってみるけれど。
「……これって鍵?」
 たぶん、南京錠のような、重く冷たい塊に血の気が失せる。首輪はベルト式のようなのだが、外れぬように金属としか思えぬ輪っかで止められていて、それを止めているのがその鍵だった。
 もっとよく確認したかったけれど、いくら視線を下に向けても自分の顎が邪魔になって見えやしない。
「えっと……ちょっと待ってよ、これって……一体何が起きてんだ? だいたい俺って、撮影が済んでからの打ち上げで、飲んじゃって……」
 もう一度記憶を辿っていくけれど、今の事態に陥る記憶などどこにも残っていない。
「酔っ払って、ぶっ倒れたのか……な?」」
 もともとアルコールには弱いから、あれで一気に酔いが回ってぶっ倒れてしまったのは容易に想像が付くのだが、だからといってこの状況は説明が付かない。
「え……と、りゅ、うじさん? 社長? 冬吾さん……?」
 人の気配などないけれど、あの時一緒にいた誰かを求めて、心細く呼びかける。もしかしたら──防音のよく効いた部屋だとは知っているけれど、それでももしかしたら気付いてもらえるかも、と思って呼びかけてみた、と。
「あ……」
 部屋の片隅、撮影のときは確か社長が座っていた一人がけソファに、誰かがいるのが見えた。
 と言っても、ソファ自体が俺のいる場所とは反対を向いていたせいで、誰がいるのかは判らない。ただ、その背もたれから頭らしき物が見えているのだ。
 その瞬間、俺は確かに安堵した。けれど、すぐにものすごく嫌な予感にも捕らわれた。
 さっきから俺は結構音を立てている。
 鎖を引き回し、鍵にも触れて、人の名も呼んだ。
 なのに、反応もせずにそこにいる。
 まして、自分はこんな鎖で全裸で拘束されていて、何かあってもここから逃げ出せない状況で。
 そんなこと考えたとたん、ザワザワと全身の皮膚が総毛立った。
 裸でも寒いなんて思っていなかった部屋の空気が、一気に冷たくなったような気がした。
 ごくりと息を飲む音が、やけに大きく響く。
 あれが誰なのか、味方なのか、敵なのか。
 考えれば考えるほどに混乱して、心臓の音がドクドクと指の先まで響いた。
 そんな時間が数分か数十分か。
 緊張のあまり喉がからっからに渇くぐらいには時間が経ったと思うけど、ソファの向こうの誰かは動かなかった。


 どうしよう……。
 じっと動かない頭を見つめながら、考えていた。
 いつまでもこうしているわけにはいかない。寒くないとはいえ、寝起きの生理的欲求もいずれやってくるだろう。
 それに、あそこにいる人は、もしかするとただ眠っているだけの知ってる誰かかもしれない。
 だって、さっきからちっとも動かないし。
 もしかしたら、もう一度声をかけたら起きて気が付いて。そしたら知ってる人だったりして。
 警戒していても何も起こらない時間が長く続き、張り詰めすぎた緊張感が失せていく。それでも、もしかするとって頭が楽観的に考えてしまうのは止められない。
 どちらにせよ、いつまでもこうしてはいられないから……。
「……だ、れ? ……そこにいるのは、誰ですか?」
 最初は小さな、躊躇いがちな声だった。
 けれど、一度発してしまったら、もう箍が外れたように声が大きくなっていく。
「すみませんっ、俺、いつの間にかここでこんなことになってて。あの、何か、何か知ってますか?」
 もとより不安だったのだ。
 何も判らない状況に、どうして良いのか、もう何も考えられなくて。助けてくれるなら助けて欲しいと、誰ともつかぬ相手に縋ってしまう。
「お願いですっ、俺をっ」
 けれどもなかなか反応がなくて、声が知らず震えていた。
 駄目なのだろうか、聞いてはくれないのだろうか。
 それこそ、俺をここに繋いだ張本人で、だから俺が慌ててるのを愉しんでいるんじゃないのか。
 一度は楽天的になった思考は、またぞろ暗く悲観的になっていく。
「お、願い……喋って……教えて…………く……さ、い」
 震える声が言葉を紡がない。情けなくも涙腺が弛んで今にも流れそうになる涙を堪えて、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
 ベッドについた手でシーツを掴み、しわが幾重にも重なり、そこにポタリと涙の滴が落ちていく。それに気が付いて、きつく目を瞑ったそのとき。
「こんなことで泣いてちゃ、先が思いやられるな」
 それは、確かに聞き慣れた声音だった。
 バッと勢いよく顔を上げて、声のした方を見つめる。
 そこはあのソファのところで、さっきまでぴくりともしなかった影がゆらりと立ち上がった。
 大きな身体だった。短い髪に、レザーの袖無しジャケットにぴったりとしたパンツ。靴はは編み上げのブーツだろうか。どれもが黒く、だからこそあちらこちらから覗く肌の色が目立つ。その覗いた腕は太く、逞しい筋肉がはっきりと見て取れた。
「泣き虫だな」
 クツクツと嗤うその声の持ち主は、後ろ姿でも俺にははっきりと判った。
「りゅーじさんっ!!」
 絶望にも近い状況から、一気に救い出された気がした。
 影を見つけた時、最初は龍二さんじゃないかと期待していたけど、でも何もいってくれないから違うのかと思っていた。
 だけど、ソファの影から出てきたのは確かに龍二さんで、ぴっちりとしたレザーのパンツにブーツという、ものすごく男らしい格好で、ものすごく格好良かった。
「龍二さん……俺……なんで、こんな格好に?」
 ベッドに近づいてきてくれた龍二さんに、枷の付いた手首を見せる。じゃらりと重い鎖が膝の上を這い、その冷たさにぶるりと震えた。
「手だけじゃなくて足や首まで……。なんで俺、繋がれているんですか? その……酔っ払って……暴れた、とか、したんでしょうか?」
 喋っているうちに、そんなことに思い至って、そのまま口にする。
 服を着ていないのも吐いたから、とか……。
 それならば納得できるかも、と窺うように龍二さんを見上げてみたのだけど。
「……龍二さ……っ」
 呼びかけようとした言葉が、途中で止まってしまった。
 いつものように、龍二さんは笑っていた。けれど、その笑みは微笑みなんて優しいものでなくて、見た瞬間に背筋を悪寒が這い上がるような、ひどく冷たいものだったのだ。
 堪らず息を飲んで、尻でずるっと後ずさる。けれど身体は硬直したみたいにうまく動けなくて、唇は戦慄き、喉が不自然に震えて声が出ない。
 何だろう?
 あの撮影の時のような、そんな違和感と恐怖がない交ぜになって襲ってくる。
「どうした、正樹?」
 笑みを浮かべた龍二さんが、止まっていた足を動かした。
 一歩、二歩。
 それだけでもう俺に手が届く距離に達する。その距離がなくなった分だけ、俺の震えは強くなった。
 これは、この人は、龍二さんじゃない。
 不意にそう思った。
「……リュウ……」
 ああ、そうだ。これは、龍二さんじゃなくて、リュウだ。俺をバラ鞭で打った、リュウだ。
 あの時、無性に怖かった。何をされるのか、襲いかかる肉食獣の前に放り出されたように感じた恐怖は、今はもっと強い。それはもう、理性よりも感情がひどく怯えている。
「怯えているのか?」
 喉の奥で笑う龍二さんが、腰をかがめながら手を伸ばしてきて、俺の顎を捕らえた。思わず逃げようとしたら骨が軋むほどに力を込められて、堪らず悲鳴が上がる。
 鋭い爪が、唇の端のすぐ横に食い込んで、それも強い痛みを覚えた。
「あ、うっ、が……」
 顎関節に力を込められて、閉じることのできない口角から涎が垂れ落ち、先より強くなった恐怖に、涙さえ溢れて流れる。
 そんな俺の顔を覗き込んだ龍二さんが楽しげに視線を巡らしていた。
「その枷は、おまえのために俺が選んだんだ。おまえなら似合うだろうってな」
 これが……?
 視線だけで見えないそれらを追う。
 両方の手首と足首、そして首。無骨な拘束のためだけのそれは、撮影用の小道具だったはずなのに。
「ああ、撮影用に貸し出したんだよ。おまえを飾るのにちょうど良いからな」
 捕らえた手と反対の手が、俺の喉に触れてきた。
 つつっと指の腹で、俺には判らない首輪を辿る。
「手足のは普通の牛革だが、こっちは上質のやつを使ったオーダーメードの一品ものだ。緩すぎず、締め付けすぎず、この細い首を飾ってくれるように。似合っている……」
 カチャッと顎の下で音がした。
 たぶん南京錠に触れて嵌まっているのを確かめたんだろう。少し引っ張られた感触がしてから、顎の指が離れた。
 解放された場所に痺れるような痛みが走り、顔をしかめる。けれど、そんな痛みを味わっている暇はなかった。
「ひっ」
 甲高い音と、激しい熱、遅れて俺の頬に強い痛みが走った。
 何が起こったかも判らぬままに、反動で倒れ伏した身体が、龍二さんの手で引き起こされる。
「贈り物をもらったのに、礼も言えないのか……」
 至近距離で凄まれても、なんのことか判らない。何より、頬を叩かれたのだと、ようやく気が付いたばかりなのだ。
 言葉を理解するより何より、衝撃に頭が現状を理解しない。
「あ、な……なんで……」
 呆然と、判らぬままに呟けば、ドンと勢いよく身体がベッドマットに叩き付けられた。
「痛っ!!」
「ご主人さまから贈り物をもらったのに礼も言えぬ愚かな奴隷には、罰が必要だな」
 一体何を言っているのか、のし掛かる重みから逃れようと無意識で暴れた両手は、鎖を引っ張られて、あっという間に頭の上で一纏めにされ、鎖でグルグル巻きにされていた。
「りゅ、龍二さんっ、一体何が、どうなってっ──あうっ」
「不作法な奴隷に罰を与えるだけだ」
 なんの礼なのか、何が罰なのか。何より、奴隷という言葉の意味が理解できなくて、恐怖に震えた。
 めまぐるしく動く展開に、理解がついていかない。
 俺がジタバタと足掻くだけの間に、あれだけ苦労しても外れなかったカラビナはいとも簡単に龍二さんの手によって外されて、他の鎖も全てその手に握られていた。
「最初は、簡単な罰から始めてやろう」
「ま、待って……、何、ちょっと、あうっ」
 引っ張られ、ベッドから転げるように落ちる。 
 鎖を一つにまとめられ、冷たい床に転がされて、その冷たさに震えながら、高い位置の龍二さんの顔を見上げた。
 だけどちょうど逆光でその顔は影になり、まるで知らない誰かにしか見えなくて、見上げたことを後悔するほどの恐怖に襲われる。
 その姿は悪鬼のごとく雰囲気を纏った、俺が知らぬ人でしかなかった。
「そこで動くな」
 かけられた冷ややかな命令に、動くどころか激しく震える身体に力すら入らない。手放された鎖が近くでとぐろを巻いていたけれど、解放されたという感覚はなかった。
 何より、それほど遠くない位置で大きな道具を押してきた龍二さんは、戻ってすぐその鎖を踏みつけて、俺の自由を再び奪ったのだから。
「まずは、その邪魔な足を固定しようか」
 楽しげに呟く龍二さんの目がきらりと光ったように見えた。
 逃げなきゃ、と思うのに、そんな暇など与えてくれない。
 ウエストにベルトが巻かれて、足首から伸びた鎖がそれに短く繋がれる。右も左も短い長さで括り付けられると、もう歩くことすらできない状況になった。
 本当にそれはあっという間でひどく手際が良くて。
「は、外して……こんなの……、龍二さんっ」
 前で括られた両手でウエストのベルトを外そうとするけれど、腰骨にひっかかってそれより下には下りなくて、かといって、鎖のせいで上にも上げることはできない。それこそ、俺の足が伸びようとするたびに、ウエストの薄い肉に食い込んで、痛みが走るほどだった。
「どうして……」
「罰だ」
 問うても返されるのは意味不明の言葉ばかり。
 しかもそれで終わりではなくて、不意に身体が持ち上げられた。
「りゅっ──、じさんっ」
「これから、これがおまえのイスだ」
 そう言ってまたぐように下ろされたのは、四本の足を持った直径が二十センチぐらいの丸太でできて、イスと言うより台座でしかない代物だった。一見体操のあん馬を連想したけど、それよりも短くて、細い。どっちかっていうと子どもの遊具のようなそれに、裸のまま載せられ、丸みがある分、体重が股間に全部かかってしまう。しかも膝で曲げられ、括られた足では床について体重を支えることもできないのだ。
 そのせいで会陰をひどく圧迫され、最初は違和感が、すぐに肌がざわめく疼きが這い上がるのを感じた。
 そこは撮影の間に教えられた俺の性感帯の一つで、こんな時だというのに、物理的な刺激に感じてしまっていた。
 こんな時に……、と唇を噛みしめるけれど、それでもまだ反応するまでは至っていない。というより、精神的に反応などできようはずもなかったのだけど。
 しかもそんな姿勢では安定感がなくて、両手を前に付くしかない。前傾姿勢のままに不安におろおろしていたら、その間に龍二さんは丸太の下に紐を通し、俺の膝同士を繋いでしまっていた。
 そう、俺は丸太の上にまたがされ、固定されてしまったのだ。
「龍二さんっ、下ろして、下ろしてくださいっ」
 丸太の高さは龍二さんの腰ぐらい。
 そんな高さで、足は折り曲げたままに両手で身体を支えている状態。膝のベルトの強度は判らないし、横向きに倒れたらぐるりと回転するように落下してしまうだろう。それこそ、手首で括られた腕では、頭を庇うだけで精一杯。
 決して高所恐怖症じゃないけど、眼下に遠く見える床にめまいがしそうな恐怖に襲われた。
「お、下ろしてっ、お願いしますっ、龍二さんっ」
「ご主人さま、だ。俺を呼ぶときはご主人さまと呼べ、いいな」
 けれど、俺の恐怖など意にも介さず、龍二さんが言ったのはそんな言葉で。
「……ご、主人……さま?」
「そうだ、俺に何か言うときは、必ずご主人さまと言え」
 繰り返される言葉に、訳も判らず口の中で「ご主人さま」と繰り返した。
「そうだ、おまえはこれから、俺のことだけを考え、俺の命令に従っていれば良い。何も考える必要などなく、俺が与える全てを享受して、仕えることを愉しめばいい」
 仕える? 愉しむ?
 一体何を言っているんだろう?
 まるで、奴隷とご主人さま、そういうシチュエーションで撮影でもしているような、そんな感覚に襲われる。
 だけど、カメラはない。スタッフもいない。
 監督も台本も、何もない。
 だったら、これは……。
「さあ、おまえがいい子になるために、罰を与えてやろう」
「ば、……つ……、い、やだっひっ」
 もう頭の中がグチャグチャで、呆然としている間に、龍二さんが取り出したのは、とぐろを巻いた蛇のようなもの。
 それを認識したとたん短く悲鳴を発したけけれど、それは本当に一瞬だった。それが何か理解してしまったら、もう悲鳴すら出ずガクガクと痙攣するがごとく震えるだけだ。
 忘れるはずもない。
 忘れられるはずもない。
 つい先だって、酔って潰れる前に味わったばかりのそれは、使い手は違ってもその禍々しさは変わらない。
「さあ、しっかりとその身で味わって、俺の罰がどういうものがその記憶に刻むが良い」
「あ、あっ……ひぃぃぃっ!!」
 必死になって身体を捩った。
 宙を舞うそれから逃れようと、丸太にしがみつくように身体をかがめた。
 だけど。
「いやあぁぁ──っ!!」
 甲高い音が、背中で弾ける。
 遅れてきた痛みは、記憶のそれよりもはるかに強く、激しく響く。
 俯せに伏せた身体が跳ね上がり、反らせた身体で遠吠えする狼のごとく大きく開けた口から悲鳴が零れた。
 そんな俺の横で、跳ね上がって落ちてきた鞭が床を叩く。
 見開いた視界の片端で、黒く染められた鞭がうねり、消えていって。
「ぎゃぁぁ──っ!!」
 続けて走った痛みは、硬直したままの背中を襲っていた。
 痛いというより熱い。熱いというより、燃えている。
 高温の炎で炙られたらこんな感じなのだろうか。
 丸太に固定されて、生きながら炙られて。
「た、すけて……やっ……痛……む、り……」
「止めて欲しいなら、どうすれば良いか判るだろう、良い子なら」
 謎かけのような言葉だと思った。けれど、それが何を意味しているのか、考えることなどできない。
 ただ背中が痛くて、熱くて、痛くて、熱くて……怖い。
 そればかりが頭の中を占めていて。
「ったく、悪い子にはもっと罰が必要らしいな」
 かけられた言葉が悪い意味だと判っているのに、反応できなかった。
「ぎゃ、あぁぁぁぁ──っ!!! ひいぁぁっ!! た、だめっ、あがぁぁ!!!!」
 立て続けに三回。
 背中に走った激しい痛みに、口を閉じる間もなく叫び続けた。打たれるたびに痛みは強くなり、消えることなく俺を苛んだ。
 怖くてきつく目を瞑れば、背後で鳴った切り裂き音に堪らず目を開ける。
 けれど、揺れる空気の振動は変わらず、丸太の上、尻のすぐ近くに走ったそれに、慌てて前へと身体をずらした。
 だが、それもごく僅かな距離で止まってしまう。
 丸太の下で膝を固定している紐が突っ張ってしまったのだ。慌ててそこへ視線をやるけれど、何がどうなっているのか見ることは叶わない。
 それどころか、また空気が鳴る。
「おとなしく罰も受けれないのかよ」
 責める声音に、またあの痛みに襲われるのだと気が付く間もなく、叫んでいた。
「い、ぁ、龍二さっ、あ、ご、ご主人さまっ、ごめんなさいっ許してっ、ご主人さまあぁっ」
 それは、無意識に出た言葉だった。
 言ってたから、自分が何を喋ったのか理解した始末で、けれど、空気の震えが止まったと気が付いたその瞬間すんなりとそれが正しいのだと理解した。
「ご、ごんなさ、い……ご主人さま……、ごめんさない……」
 丸太に縋り付く腕は白くなったままに硬直して小刻みに震え続け、しゃくりを上げながらの謝罪は、小さく掠れていた。
「お、俺が、わる、かった……です……、ごめんなさ……い、ごめんなさい……」
 また鞭を浴びせられるのは嫌だった。ズキズキと痛む背中は無防備で、もうこれ以上打たれたら、絶対に大怪我をしてしまう。今だってこんなに痛いのなら、きっと皮膚ぐらいは裂けているに違いない。
 実際短い間に全身が濡れそぼるほどに汗が浮き、ぽたりぽたりと流れるそれに背が痛む。「自分が悪いと認めるか」
 俯いたままの俺の視界の端に影が入り込む。
 迫るその威圧感にびくりと震えたけれど、怖くて頭を上げられなかった。ただ、「は、い」と応えながら、身を竦めているだけだ。
「そうだ、おまえが悪い。だが、なぜ悪いと思う?」
 けれど、龍二さんはそれで誤魔化してはくれなかった。
 伸びてきた指が顎を捕らえ、強制的に上向かされる。涙と鼻水、涎まみれの情けない顔を晒されたけど、笑っているようで笑っていない瞳に、もうなすがままだった。
「……そ、その、お、おれ……が、逃げた、あ、いや……お、贈り物……御礼……」
 己に備わった生存本能のせいか、硬直していた脳の回路が正しい答えを必死になって探り出す。
 それでも、一番最初のことを思い出せたのは、震える手から伝わった鎖の小さな音のおかげだった。
 枷をもらった御礼。
「あ、ありが、とう……ございます……、この……枷……いただいて……ありがと、ございま……す」
 御礼を言わなかったから。
 罰だと言われた最初のきっかけを思い出し、必死になって言葉を紡ぐ。
 もう媚びを売ろうとか、そういう考えなど何もなくて、ただ、御礼を言わなければ、とそれだけだった。
「良いだろう」
 だが、強張った表情での俺の礼の言葉に、それでも龍二さんは許してくれた。
 そして。
「良い子には褒美だな」
 そんなことを言いながら、ふっと微笑んだのだ。
「あ……」
 それは、いつもの、あの優しい龍二さんの笑みだった。落ち込んでいても励ましてくれる、少し茶目っ気のある優しい笑顔。
「ほら、褒美だ」
 固定されて動けない顔に、龍二さんの顔が近づいてくる。
 優しく触れた唇は、すぐに深く貪るものに変わっていった。
「ん、あ……」
 頭を抱き寄せられ、深く舌が入り込んでいく。手が浮いて、チャリチャリと鎖が遠くで鳴るのが聞こえた。だらりと垂れた身体を首だけで支えながら、巧みな舌が俺の口蓋を貪っていく。
「正樹、愛してる、ずっと俺のもんにしたかったよ」
「あ……」
 不意に、爆弾のように俺の中で弾けた言葉。
 痛みも何もかもが吹っ飛ぶほどの多幸感に襲われて、見開いた瞳に、龍二さんの瞳が優しく笑っているのが入ってきた。
「もう俺のもんだ、おまえを放しやしない、絶対に」
 それに返そうと思った。
 俺も好きだった、ずっと、最初から。
 だけど、龍二さんは執拗に俺の口蓋を嬲り、深く深く貪ってくる。
 敏感な上あごを突くように嬲られて、ゾワゾワと身体の中心から湧き起こるのは確かな快感だ。
 背は相変わらずひどく痛み、不格好な姿勢はやたらに苦しいのに、だけど神経が唇と口内に集中したかのように、そればかりを強く感じていた。
 ああ、龍二さんだ……、龍二さんが戻ってきた。
 頭の中でそんなフレーズがリフレインし続ける。
 優しくて力強くて頼りがいがあって。俺の憧れの龍二さんからのキスは本当に巧みで、全身の力が抜けてしまうほどに気持ちよくて。
 だから俺はその瞬間忘れてしまっていたのだ。さっきまで責め苛まれていた状況を。
 だから。
「りゅ……じ……さん」
 ほんの少し離れた唇の間から、思わず呟いた言葉。
 それは本当に無意識だったのだけど。
「おいおい、せっかく俺が優しい褒美をやったっていうのに、また罰か、学習しねぇやつだな」
 幸せな全てを吹き飛ばすような冷ややかな宣告と、外された腕。一気に温もりが消え、汗が冷たく身体を冷やすのと同時に、身体の芯にも冷たい震えが走った。
 自分がとてつもなく大きな失敗をしたのだと、気が付いたときにはもう遅かった。
 目の前で振るわれた鞭が俺の肩に落ちる。
「い、ぁぁぁぁっ!!!!」
 落ちた鞭が、肩を回り込み傷ついた背中を強打したとたん、世界が赤く染まった。
 鼓膜に響く至近距離での弾ける音は、もうそれだけで精神を打ち砕く。
 喉が嗄れるほどに叫び、仰け反った身体に飛んでくる幾つもの軌跡と衝撃に、俺は倒れることもできず、硬直する。
 安堵して弛緩していた身体にはきつい猛攻に、俺は泣き喚いて叫び続けた。
 叩かれた腕が痺れ、打たれた太股がひどく痛んだ。肩も腰も背中よりもっと強い痛みを訴え、頬にすら鋭く痕跡が残る。
 もう身体を庇うこともできず、なすがままの俺に、笑いながら龍二さんは鞭を振るい続ける。
 愛している、と言ったその口で、俺が悪いと責め立てて、優しく抱いた腕で、激しい痛みを与える鞭を振り下ろされた。
 俺に言葉を発する間すら与えずに、絶え間なく続く責め苦に、俺はもう混乱の渦に巻き込まれていた。
 それこそ、永遠とも言える痛みと音の乱舞が、いつ止まったのかも判らない。それこそ、不意に止まったそれを認識するころには、許しを乞う声にならぬ悲鳴と喘ぎ声が混じり合い、意識すら朦朧としてしていた。
「言ったはずだ、ご主人さまと呼べ、と」
 そんな俺の消えた音の世界の中に微かにそんな言葉が聞こえた。それは、俺にとって縋り付くべき言葉だと、本能が教えてくれて。震える舌先に、俺は必死になって言葉を乗せていた。
「ゴ、シュジン、サマ……ゴメン、サイ……ゴシュジンサ……、ナサイ、ゴメ……」
 繰り返し、繰り返し。
 そのまま闇の中に引きずり込まれるまでずっと、俺の口はそう呟き続けていた。