【階段の先】-11

【階段の先】-11

11.

 ベッドの上で膝を抱えて丸くなる。
 膝の上に額をつけて小さくなって、少しでも自分の姿を隠そうとしていたのは無意識だ。
 この地下室で目覚めたのは二回目だと、目覚めたと同時に襲ってきた激痛を伴う記憶の奔流に、茫然自失してしまっていた。
 金属の柵のシンプルなベッド。
 その横に、置かれた俺を乗せるイスだという丸太の台。ベッドヘッド側の壁にかけられていたのは平革の黒い鞭で、何を見ても恐怖の記憶が甦ってしまう。
 無意識のうちに、絞り出すような悲鳴が零れたが、それも半端で飲み込んだ。もしこんな悲鳴を聞かれたら、また鞭で打たれるかもしれない。あの龍二さんは、俺が何をしても気に入らないようだったからだ。だけど、飲み込んだ悲鳴の代わりに、堰を切ったように両目から涙が溢れて止まらなかった。
 あの変貌した龍二さんは、本当に龍二さんなのか? それとも……。
 なんて考えてもほんとは判ってる。あれは間違いなく龍二さんで、けれど俺が知ってる龍二さんとは似ても似つかぬ存在で。だから、違う人なんだって信じたい。けど。
 でもあれは確かに龍二さんで、それは間違えようがなくて。
 情けなく泣きじゃくりながらも、現実は何も変わらない。ここに閉じ込められている状況は何一つ変わらないのだ。
 始めて目覚めたときには何もなかった身体の上に、今は薄い大判のタオルケットが一枚増えていた。これを掛けてくれたのは龍二さんしかいないだろうけれど、それを悦ぶには、前日の体験は痛烈すぎた。何より腕や足に薄く残る紐状の痕が記憶を鮮明に呼び起こす。
 流れた汗や涎はきれいに拭かれていたが、鞭で打たれた痕は消えるものではない。ただ、思ったよりその痕が少なく、傷にもなっていないのだということが信じられなかった。
 だが裂けたと思っていた肌は、せいぜいが擦り傷のような傷しかなく、僅かな場所しかアザになっていない。
 本当に痛くて、だからこそ記憶が途中で途切れたはずなのに。
 数少ない色の変わった場所に触れてみれば、他よりは確かに敏感になっている。その部分はクリームでも塗られたのか、それとも薬なのか湿った感触があった。少し鈍い痛みが残っているところもあるけれど、あんなに打たれたはずの背中でもあまり痛くない。
 首輪と手枷の鎖は外されていたが、足枷は変わらず鎖がついていて、さらに撮影時に付けられていた貞操帯も兼ねた革のパンツが追加されていた。こんな隠すには役に立たない代物でも、身に着けられているものが増えていることが、堪らなくうれしい。
 そんなことが把握できたのは目覚めてからかなり経ってからで、生理的欲求というやっかいなそれに、動かざるを得ない状況になってからだ。
 鎖の長さはそこまでなら十分届いたから、お漏らしするようことはなかったけれど。扉までは無理そうで、さらにリノリウムの床は裸の身体には冷たくて、結局早々にベッドの上へと戻った。
 枕元には水とサンドイッチやおにぎりなどが置かれていて、俺のために用意したのだろうということは判ったけれど。最初はなかなか手が出なかったそれも、時間が経つにつれて空腹を感じだして、一つだけ食べた。けれど、もうそれでお腹いっぱいになってしまう。
 動いていないから、だけでなく、この異常な状況に身体がそれ以上受け付けないみたいだった。
 それからずっと、このベッドの上にいる。
 何もできず、何も判らず、時間すら判らない空間で過ごすのは、苦痛でしかない。
 そのうちに、あのドアから誰でも良いから来てくれないか、いや、もし龍二さんが、あのリュウみたいな龍二さんが来たら……。
 とたんに湧き起こる恐怖に、抱えた膝にかかったタオルケットをぎゅうっと握りしめ、時間の判らぬ空間で、ただ何かが起こることを怖れながらも待ち続けていた。


 そんな何もできず待つだけの長い時間の中、俺は途中で眠ってしまったらしい。
 それでなくてもあの撮影からずっと神経が休まる暇もなく、眠っていても悪夢にうなされているようなのだ。目覚めれば忘れてしまうそれは、ひどく後味の悪い疲労感ばかりが残されていた。
 そんな目覚めの後、うまく働かない頭が現実を認識し直して、自分がいつの間にかベッドに横になっているのだと気が付いた。
 あのタオルケットを胸元まで引き寄せて、隣にはひどく心地よい温もりがあって、ほっと一息吐くような安堵感に満たされている。
 決して寒くはない部屋だけど、床や壁から伝わる冷気は確かにあって、裸でいること以上に身体に負担がかかっているような気がしてた。だからこそ、この優しい温もりに堪らずすりすりと擦り寄ってしばらくしているうちに、ふと気が付いた。
 これは人の温もりだって。
 気が付いたとたんに、白眼を剥くほどに大きく見開いた視界に、逞しい胸が広がった。僅かに上下する隆起した胸筋から、視線だけを彷徨わせ、上へと向けていく。密接しすぎでその顔は下側からしか見えない。太い喉が小さく蠢き、薄く開いた唇が掠れた吐息を零しているところまで。
 けれど、それが誰かなんて、顔が見えなくてもすぐに判った。だからこそ認識したとたんに悲鳴を上げかけた口を必死で塞ぎ、その姿勢のままに動けなくなったのだ。
 背に回された腕に、僅かに空いた隙間を埋めようと引き寄せられる。
 まるで、まだ早いとばかりに、そっと背を叩かれて、額を龍二さんの胸に頭を付けされられた。そんな時、頭上から囁くような声が聞こえてきた。
「愛してるよ……正樹、愛してる……」
 それは、寝言のようで、はっきりとした物言いではなかったけれど、そんな甘さの滲む言葉とともに強く抱き込まれるその温もりに、あんな龍二さんを知ってもなお、俺はその幸いに涙が溢れてきた。
 髪に絡む指は優しくて、その温もりは、俺の心をひどく癒やしてくれる。
 やっぱり、この人は龍二さんなんだって……確かにそう思い、俺もそっと胸に手を添えた。
 これが普通の状態だったら泣いて喜ぶものだったろうけれど。胸の奥に感じるヒヤリとした冷たさがそれをさせない。
 うれしいのに、与えられた鞭の痛みはこの身に染みついていて、そこからくる恐怖が俺を縛り上げている。
 それでも、今だけは。
「好きだよ……正樹」
 その言葉を、信じていたかった。


 人がもたらす温もりは、どんな睡眠導入剤よりも効果があるようで、俺はまたそのまま眠ってしまったらしい。
 けれど、それが間違いだったと気が付いたのは、起こされて、静かな怒りを湛える龍二さんの表情を見た時だった。
「ったく、挨拶もできねえのに、一丁前にチンポだけ勃たせやがって。よりによって主人の太股で気持ちよさげに汚えチンポを擦りつけてオナるたぁ、いい度胸じゃねえか」
 タオルケットがはだけられ、朝勃ちしたペニスを揶揄される。
 最初は未だはっきりしない目覚めの直後で、一体なんのことだと、呆然とするしかなかった。眠っているときのあの優しさはもうどこにもない。それはまさしく、豹変という言葉がふさわしいほどの変化だった。
「いつまで、そんなところにいやがる?」
「え、あうっ」
 抗う間もなく腕を引っ張られ、ベッドから引きずり下ろされて、したたかに腰を打ち付けて、痛みに蹲った。
「主人より先に起きて、三つ指突いて挨拶するのが当然だろうが、おい」
「あっ、ひぃっ、ご、ごめんなさいっ、すみませんっ、ご主人さまっ」
 振り被さる腕。
 昨日、なのかどうなのか判らないけれど、昨日はあの手が鞭を握り、俺に何度も振り下ろされていた。そこから来た数多の痛みの記憶が俺を縛り付ける。
 頭を下げて、言われたとおりに三つ指を突いて、何度も何度も謝罪を繰り返す俺の顔を、龍二さんの足が上げさせた。
 裸足でも、いや、裸足だからこそ、その力強さが判る。
 この足で蹴られたら、俺なんか簡単に吹っ飛ぶだろう。だから、俺の顎の舌にある足の甲が、別の場所へと向かわないように、と視線だけで追いながら、恐怖にままならない息を飲み込んだ。
 けれど、そんな俺の動きにすら龍二さんの癪に障ったようで。
「ひぎっ」
 下りた足が俺の股間を踏みつけて、無様な悲鳴が零れた。
 陰茎に課せられた枷のせいで、完全に潰れるほどではないけれど、急所への攻撃は恐怖でしかなかった。音を立てて全身から血の気が失せさせながら、俺は完全に硬直してしまっていた。
 これ以上、この人を怒らせたら、一体どうなるのか。
 ちらりとすぎるのは、今度の撮影のためにと読んだSM小説の数々。
 ハードなものは無理、と思って、ラブストーリー的なものでSMっぽいのを選んだつもりだったけど、なぜか紛れ込んでいたひどくハードな拷問調教のやつに睾丸を潰すほどに締め付けるというのがあったのを、こんな時なのに、いや、こんな時だからこそ思い出してしまった。
 そんなことに意識を飛ばしていたせいか、龍二さんが苛立たしげに体重をかけてくる。
「い、痛ぁぁ、つ、つぶれるぅぅっ、あ゛ぁうっ」
 足に縋り付き、なんとかどいてもらおうとするけれど、抱えなきゃ行けないほどに太い足は、びくりとしなかった。先より増した鈍痛に、じわりと涙が滲み、視界が濁る。その視界に翻るのは、龍二さんが纏っている黒の光沢の布でできたガウンだ。滑りの良いその生地は、今の俺にとって悪魔の衣装のようにしか見えなかった。何より、見上げたときに視界に入ったその表情が、悪魔のものでしかないように、楽しげに嗤っていたからだ。
「お、お願い……ます……。つ、つぶさ……ない、で……」
 ひくり、ひくりと震えながら言葉を紡ぎ、縋り付いた足がこれ以上下がらないようにと必死になって持ち上げようとした。けれど、動かない。
「こんなもん、いらねぇだろうが、どうせ。汚ねえザーメン撒き散らすだけの代物なんか、いちいち枷すんのも面倒くせえ。いっそのことこのまま踏みつぶして去勢してやろうか、んでその後にすっぱり根元から切り落とすのも乙なもんだ。そいつを剥製にして、てめぇ専用の張り型にしてしまうのも良い手か。なあ、メス奴隷にふさわしい持ち物じゃねえか、なぁ?」
「ひ、ぃぃぃ」
 恐ろしい台詞につられたようにその状態を想像してしまい、蒼白を通り越すほどに、身体から熱が奪われた。
 そんなことできるはずがない、と、まだどこか頭の片隅の理性が叫んでいる。
 けれど感情はもう、龍二さんの言葉に引きずられてしまっていた。
「お、お許しをっ、許してくださいっ、それだけは。つ、潰さないでっ、お願いっ」
「なんでだあ? どうせてめぇはもうこっちの細っこい棒を使うことはねえんだぜ。メス奴隷は尻穴さえあれば良いんだから。ああ、切り落とした後は心配すんな。小便する穴はちゃんと作ってやるから、メスらしく座ってすれば良いだけだろ?」
「ひ、ぃぃ……そ、そんな……お、願い、許して、許して……」
 冷たい目で俺を見下ろす龍二さんは、昨夜の寝言の優しい物言いとは全くの別人だった。その冷酷な視線に、芯から震えてその恐怖に堪らずに尻で後ずさろうとしてしまう。けれど、急所を踏まれて動けるはずもなく、俺は身体を後ろに傾けただけで、すぐに髪を掴まれて引き寄せられた。
「だったら、淫乱メスでマゾ奴隷として、しっかりと俺に仕えろ。いいか、今日は特別に教えてやるからな、一回で覚えるんだ。淫乱マゾ奴隷の心得ってやつを」
「は、ぃ……はいっ、はぃっ」
 昨日から、奴隷とは言われていたけれど、それだけでなくさらに修飾した不快な単語は、相容れないものだった。だけど、今の俺に頷く以外の選択肢などあろうはずもなく、ただ、コクコクと大きく頷く。その拍子に流れた涙が床に落ちる。
「てめぇは、今後一切全てのことに拒絶する権利はない。今後俺の恋人兼淫乱マゾ奴隷として完成するまで、この部屋から一歩も出さねえからな。さっさと人前に出ても恥ずかしくないようになれ、判ったな」
「恋人……兼……」
 うれしいはずの単語も、口にするのもはばかられる単語が続いては全てがぶち壊しだ。
「おい、……もう挨拶の仕方を忘れたと見える」
 数秒の間すら許さぬと、抗う間もなく担ぎ上げられて、またあの丸太に乗せられた。細みとは言え男の身体の俺を、軽々と持ち上げ運ぶその力に、俺は為す術もない。慌てて下りようとしたけれど、素早い動きに抵抗はねじ伏せられ、昨日のように繋がれる。会陰から尻まで革のパンツから剥き出しのところがちょうど丸太に触れて、昨日と同じ刺激に、小さく喉で唸った。
 鞭の痕は気にしていたけれど、そこが存外ダメージを受けていたようで、昨日よりはるかに敏感に丸太の形を伝えてきたのだ。
 それは、会陰から中にある前立腺もそうなのか、込み上げる熱に口内を満たした涎が、歪めた唇の端から溢れてしまいそうになる。
 そんな俺の変化を、龍二さんはめざとく見つけてしまったようで。
「……どうした、これから鞭打たれるっていうのに、悦んでんのか、やっぱりおまえは淫乱だったんだなあ」
「こ、これは……違っ、違いますっ」
 股間で立ち上がりかける己のペニスの浅ましい姿に、どうして、と嘆いても確かな芯を硬くしたそれは通常より大きくなっていて、剥き出しのそれを隠せるはずもなかった。