【現に夢見る君】 (1)

【現に夢見る君】 (1)

【現に夢見る君】 (1)

 酔っぱらってダウンして……記憶が飛んだのは久しぶりだった。
 ジャパングローバル社 製造1チーム 里山櫂(さとやまかい)がオレの名だよな……ってぼんやりと考える。
 昨日は飲みに行って、なんだか一緒に行った啓輔にたっぷりと勧められるままに飲んで……。
 挙げ句の果てに酔いつぶれた証として、どうしてここにいるのかと途切れてしまった記憶を抱えて、ソファの上で唸っていた。
 安眠を妨げた物音と声で目覚めてしまい、ふと気が付けばとんと見慣れぬ間取り。
 落ち着いて片づいた雰囲気の部屋は、自分の友達が住む部屋のどれとも合致しない。
 『ここはどこ、私は誰』という台詞そのままに呆然としていた時だった。隣接するドアがかちゃりと静かに開いたのは。
 誰?
 何気なく送った視線の先にいたのは、全く予想外の人物で……。
 家城純哉。
 その名が頭に浮かんだ途端、オレの寝ぼけていた頭がいっぺんに覚醒した。


 それでも、寝ぼけたフリをしたのは、さすがのオレでも会話を続けにくかったから。
 これが素面で頭がもっとしっかりしていれば、オレももうちょっと気楽に相手をできたかも知んないけど。
 はあ……。
 再び部屋に引っ込んでしまった気配を窺いながら、オレはこっそりと溜息をついた。
 鉄仮面って誰がつけたのか……。
 初めて逢って多少なりとも会話をした時には、マジで『言い得て妙だ』と思ったそのあだ名。
 仮面という名の壁がそれほど厚くないって思ったのは、啓輔と一緒にいるときはよく見るせいかも。
 一人だけで対峙すると冷たい雰囲気は否めないけど、啓輔と共にいるとそ雰囲気が少し和らぐ。
 それに話をしてみれば、言葉の端々に浮かぶ優しさにも気付いてしまって、最初の時より怖いって言う印象は薄れていた。
 そう、啓輔と一緒にいれば。
 隅埜啓輔は、オレと同期入社で高卒なのに一人製造に配属されなかった奴。
 研修時代は、どこか冷たく暗い感じがしたけど、最近はかなり明るい。オレなんか、無駄に明るすぎるってバカにされることもあるけど、啓輔はちょうどいいってところ。
 部署が違ったせいで、同じ会社内というのにしばらく疎遠になっていたけれど、最近になって休憩でちょくちょく顔を合わせるようになったものだから、またつるむようになっていた。
 それにあいつと疎遠になっていたのは、実は部署が変わったせいだけでなかった。
 口さがない連中の下世話な噂になるほど、必ず対になっていた二人。
 その仲にはいりこめなかったせい。
「はあ……」
 一度目覚めた頭はなかな眠りに入れない。
 あの……聞こえた声は……。
 明け方目覚めた自分が聞いた声は、声音は変わっていたけれど知っている声だった。
 最初はほんとに猫の盛った声かと思って。
 でも、あのドアから家城さんが出てきたとき……オレはピンときてしまったんだ。
 啓輔……お前ってばさ……。
 ……。

 ああ、止めよ……。
 考えても仕方がないことだって……。
 オレは、啓輔と今まで通りにつきあえれば……それでいいよ……。

 ショッキングな出来事って続けて起こるもん? 
 親友の隠された事実に気付いてしまったその日。
 オレはちょっとした醜態を晒してしまった。


 すっきりしない頭と胸と胃の辺りに酷い不快感を抱えたまま家城さんのマンションから早々に退散したオレは、そのまま家に帰ってしまう筈だった。
 だけど、帰ったって誰もいない。
 オレが住んでいるのは新興住宅地の一軒家。親の持ち家なんだけど、実際にはオレの一人暮らし。
 50を過ぎて転勤になっちまった父親に単身赴任は可哀想って母親までついていったのが今年の4月。
 それ以来、月に一度帰ってくればいい方の両親だから、オレも結構好きかってしていた。
 だけどこういう時ってやっぱり不便。
 今まで母親に頼んでいたいろんなものを全部自分で手配しなきゃなんないんだから。
 車を預けていた駅に近い友達の家から自宅までの間に、この休みに買い出しに行く予定の店があった。
 二日酔いは辛かったけれど、いつものこと……って言っちゃえばそれだけのもので。
 そろそろ、冬物仕入れないと……。
 すっかり所帯じみた考えが頭に浮かぶ。
 ……ついでに昼飯用になんか仕入れておかないと、冷蔵庫が空だし。
 ちゃちゃっと買い物済ませて、とっとと帰って……今日は一日寝ておこう……。
 かったるいから、そんな事考えて……オレは馴染みのそのスーパーの駐車場に車を入れた。
 
 行き馴れたスーパーだから、何がどこにあるかなんてしっかりと把握していて、
オレはあっという間に目的の物を揃えてしまった。
 後は食べ物仕入れて帰るだけ……と、ゆったりと歩く。
 でも食欲なんかないから、これっていったものが見つからない。
 さてどうしよう……?
 って思ったときだった。
 前から来る男と目があった。
 オレはその記憶と合致する顔に、もともと大きい目をさらに見開いてまじまじと相手を見つめてしまった。
 と言っても向こうは訝しげに目を細めていたから気付いてはいないみたいだけど。
 気付かないなら無視すりゃいいや。
 そう思って通り過ぎようとしたオレは、何故か立ち止まってしまったその人とぶつかってしまった。
 オレのはっきりとしない頭と今ひとつ言うことをきかない体のせいだったのかも知れない。
「す、すみませんっ!オレ、ぼおっとしてて……」
 散らばった荷物は相手の日用品。
「いや、オレの方こそぼおっしていたから」
 そう言う彼は、やっぱりオレが誰だか気が付いていない。
 なんか……悔しい。
 拾い集めながら、オレは心の中でごちていた。
 だって、もう半年以上同じ会社内にいたっていうのに、思い出して貰えないのって何かやだ。
 やっぱり、製造の下っ端と開発のエリートだと差が違いすぎるのかな?
 だけど……。
 そんなことを考えていたら、しゃがみ込んで物を拾っているせいか胃が圧迫されてしまったようで、むかつきがひどくなってきたのに気付いた。
 ヤバイ……。
 典型的な二日酔いの症状に、オレは慌てて集める速度を速めた。
 同じく拾い上げた袋に全て放り込むと、なんとなくぼおっとしたまんまの彼に渡す。
 だけど、ふと気が付けばその目はずっとオレを見ていた。
 男にしては背の低いオレより頭一個分高い。
 頭が良いんだって噂では聞いたことのある人。
 だけど、今ここにいるこの人は何となく覇気がない。
 会社でのこの人と、今ここにいるこの人と本当に同一人物なんだろうか?
 さっきまで一緒にいた家城さんのような冷たさはないけれど、何を考えているのか判らない……排他的な雰囲気はあった。
 何にも興味ないような動かない表情。
 いや、今はオレに興味があるのかな?
 じっと見つめているってのは、何かに気付いているせいか?
 確かめたいって思った。
 だけど……。
 再度謝るために頭を下げたのが拙かった。
 いきなり苦い物が込みあげてきて、オレは慌てて口を押さえる。
「大丈夫か?」
「あ、……気持ち悪くて……」
 心配そうに声をかけてくれたのに、それだけしか返せない。
 も……駄目……。
 オレは脱兎の如く駆けだした。

 駆け込んだのはトイレの個室。
 ドアを閉めるのももどかしく、オレは便器の中に思いっきり戻していた。
 家城さん特製の白粥はほとんど食べられなかったんだけど、それでも胃に入れた分だけ吐き出してしまった。
 やっぱ、大人しく帰っていれば良かった……。
 吐いたお陰か、少しは楽になった鳩尾の辺りを押さえてしばらくしゃがみ込む。
 数度えづきそうになったが、それでも少しずつ気分が楽になってきた。
 ああ、情けないって……。
 こんな明るいスーパーのトイレで、二日酔いに苦しむなんてさ。
 ほんと、食い物なんかほっといて帰れば良かった……この調子じゃ、買って帰ったって何も食べられないし……。
 自己嫌悪に陥って、それでもはふっと一息ついて、気を取り直す。
 も、速攻で帰ろ。
 んで、ベッドに転がって寝倒してやる。
 そしたら、少しは楽になるだろうな……明日は行きたいところあるし……。
 そんな決意もそこそこに、俺はガチャとロックを外した。
 まだ怠いから少し俯き加減にドアを開けた。
「……え?」
 最初に目に入ったのは少しくたびれた白いスニーカー。
 見たことのあるそれに顔を上げると、さっき逢ったばかりの彼がいた。
 あの場で別れたはずの……。
 高山さん……。
 どうしてここに?
 と思った途端、
「大丈夫か?」
 と首を僅かに傾げてきた。
 もしかして、心配……してくれてるんだ?
 オレが誰だか判っていそうにないのに……。
 にしても……みっともねーよ、俺って……。
 なけなしの見栄も手伝ってこくりと頷くと、彼が手に持っていたものを差し出してきた。
「これ、君のじゃないのか?」
「!」
 慌てて自分の手のひらを体の前で広げてしまう。
 何にも持っていなかった。
 そういえば、トイレに入るときには何にも持ってなかった。ってことは……。
 さっきの場所に忘れてきたそれを、拾ってわざわざ持ってきてくれたんだ。
 オレは慌てて頭を下げた。
「すみません」
 吐いたときの刺激に涙目になっていた顔が恥ずかしくて、ふいっと視線を逸らしたまま。
 なんだかいたたまれない。
「大丈夫なのか?体調悪いのか?」
 この人がこんなふうに心配そうに話すなんて……。
 仕事中は真面目で集中力が凄いって効いたことがあった。
 実際に見かけたときなんかも、そんな感じがありありと伝わってきて、無駄口でも叩こうものなら、それっきり無視されるんじゃないかって思ってしまった程。
 だけど、今の彼はそんなところは一つもない。
「あの……二日酔いなんです。ちょっと昨日飲み過ぎて」
 情けない、とばかりに自嘲気味に嗤って、オレは洗面所へと足を進めた。
 その言葉に訝しげな目がまた細められる。
 何かを考え込むときのクセなのか、そうやってさっきから何度も目を細めている。
 何か言いたげなその口もとが微かに動いたけれど、言葉は聞こえなかった。
 なんかテンポが狂う。
 会社での彼を多少なりとも知っているから、こんなうすらぼんやりした姿を見ていると同一人物とは思えない。
 もしかして……高山さんじゃないのかな……。
 そんなこともないとは思うのだけれど、やっぱり二日酔いの頭では考え事にまとまりがつかない。
 駄目だ……早く帰ろ……。
 なんかもう頭がぼおっとしていて、ちょっとしゃきっとさせたかった。
 改装したばかりで綺麗な手洗い場に誘われるように近づくと、オレってば何も考えないで顔を洗った。
 冷たい水が気持ちいい。
 ちょっとだけ不快な気持ちも流されていく。
「そんな状態でよくこんなところに来れたんだね?」
 しばらくしてぽつりとそんな問いかけがあって、オレは顔を洗いながら肩を竦めた。
 ちょっとだけ手を止めて、それに答える。
「安売り……だったから……調子よくなっていたし、大丈夫かな……と思ったんだけど……」 
 だけど……オレ、やっぱりぼおっとしていた。
 洗って済んで、びしょ濡れの顔を拭こうとポケットを探ったら、拭くものが何も無かったん……。
 どうしよう……って滴り落ちる水滴に呆然としてしまった。

「ほら」
 脇から差し出された物をみてオレは呆然とそれを見つめ、それから高山さんに視線を移した。
 動かなかったら彼までそのまんまの姿勢でいて、妙な間が空いてしまう。
「え?あ、いえ、いいです」
 慌てて首を振ったら髪から滴が飛び散って余計に被害が広がってしまった。
「早く拭かないと、服まで濡れる。洗い方が下手だな」
 その声音に揶揄する雰囲気は無かったが、その分きついものがあった。
 なんか情けないや……。
 さすがにちょっと落ち込んで下を向く。
 その耳に微かだけど息を吐く音が聞こえた。
 舌打ちともつかぬ音とともに顔面がふわっと柔らかなもので覆われて視界が紺色に染まる。
「えっ?」
 慌ててそれに手をやると、途端にふわりと手を覆うように垂れ下がった。
 解放された視界には、紺色の布が手を覆うように広がっている。
「あ、あの」
 それが先程まで彼の手にあったハンカチだと一瞬で気付いたけれど、きちんと折り目の付いたそれがところどころ濡れて濃い色に変化しているのを見て取ってしまった。
 慌てて顔から外して彼を見遣る。
「使えばいい」
「でも」
 使ってしまえば、もうハンカチはびしょ濡れになってしまうだろう。
 ハンカチと高山さんとを交互に見遣り、俺は逡巡していた
 そんな俺に呆れたのか、彼の瞳が考えているときよりすうっと細められた。
「使えばいいって……」
「あっ!」
 途端に伸びてきた手がハンカチを取ると水が滴っていた顎や頬を拭い始めたのだ。
 あまりのことに逃げ腰になる俺の頭を掴んで固定し、ごしごしと痛いくらいの強さで擦る。
「ちょっ、ちょっと痛いですっ!」
「我慢しろ」
 訴える俺の言葉なんか聞きやしない。
 ぶっきらぼうな物言いにふさわしく行動もぶっきらぼうで、俺の頭は混乱しまくっていた。
 この人って……会社にいるときはこんなんじゃないよな?
 もっと落ち着いた感じで、頭がいいって感じで……なのに、何だよ、これっ!
 だが──唐突に自分の状況が頭の中に浮かんだ。
 途端にかあっと顔が熱くなる。
 な、なんかすっごく恥ずかしい状況ーっ!
 ヤバイって!
 俺は抗議の声を上げようとして、固く瞑っていた目蓋を開いた。
 ドキッ!
 心臓が跳ねるってこう言うことをいうのかっていうくらい、俺の心臓が大きく高鳴った。
 俺の顔を拭くために至近距離にある高山さんの顔。
 やや伏せがちになった目がじっと俺を見ていた。
 刻まれた眉間のシワは俺の顔を注視しているせいだろうか?
 意志の強そうに見える唇がきゅっと引き締められ、髭痕なんかほとんど無くてとっても綺麗な肌をしていた。
 そこにいたのは、紛れもなく仕事中と同じ容貌をした高山さんだった。
「あ、あの……」
 抗議の声は発することなく消え失せて、ただ呼びかけるだけに終わってしまう。
 それくらい有無を言わせぬ迫力があった。
「終わったよ」
 その言葉と共に触れられていた手が離れ、温もりが消える。
 ど、どうしよう……。
 俺、動けない……。
 なんでか足に力が入らなくて、俺は幸いにも後にあった壁に背を預けてその場に座り込むのを避けられた。
 なんで、こんなことに……?
 力が抜けたのは一瞬のことだったけれど、あらぬ出来事に俺の頭はパニクっていて今の状況が把握できない。
 そんな俺とは対照的に、彼はどこか満足げな笑みをその口元にたたえていた。
 だが、その顔がふっと顰められる。
 視線が俺の顔に固定されているのに、瞳の焦点が合っていないような感じだった。
 いたたまれないような沈黙。
 ここで何かを言うと、場の雰囲気を壊してしまいそうで、だけどその雰囲気が何で壊したくないのか俺には判らないままに、俺は口を閉じたまま高山さんの事を窺っていた。
「君は……」
 何かを言いかけるんだけど、ふっと言い淀む。
 確証がもてないことは言いたくないんだろうか?
 その手がすうっと俺の額に伸びてきた。
 冷たい指先が額に触れる
 びくりと、俺の体が無意識の内に震えていた。
 どうして?
 たけど判らなかった。
 自分でも判らない感情を見られなくて、俺は固く目を瞑る。
 触れた指が垂れた前髪をかき分ける気配に俺はびくりと体を震わしていた。
 かっと燃え上がるような熱に自分でも何をしているか判らなかった。
 何かを喋らなければっては思うんだけど、口が動かない。
 ひどくまったりと時間が過ぎているような中で体までもが意志に逆らうようにのろのろとしか動かない。
 だけど長く感じたその時間は実際には一瞬だった。
 パタパタパタパタ
 人が歩いてくる微かな足音。
 その軽快な音が耳に入った途端、俺は一気に我に返った。
 同時に指先が額から離れる。
 見開いた先には、戸惑ったような高山さんの顔。
「あ、ありがとうございました。これ洗って返しますからっ!」
 垂れていた側の手に握られていたハンカチを無理矢理に取り上げるのと自分の荷物を持つのとが一緒だった。
「えっ、ちょっとっ!」
 ワンテンポ遅れて呼びかけられる声。
 だけど俺はもう振り返られなかった。
 トイレとフロアを隔てる通路に出た途端、子供とすれ違った。
 あの足音の持ち主だろう。
 サンダルだから音が響いたのだ。
 それにほっとする。
 足早にフロアに出た俺は、高山さんから逃げるように最短距離を突っ切って店の外に出た。
 とにかく恥ずかしかったんだ。
 あんな、子供みたいに顔を拭かれたことに。
 だから、こんなにも心臓がどきどきいっている。
 二日酔いの醜態を晒しただけでなく、あんな情けない事されて……。
 櫂、しっかりしろよっ!もう18の社会人だろうがっ!
 しかも、しかも……。
 よりによってその相手が会社の人間なんだから。
 ぐっと握りしめた拳の中に柔らかな感触があった。
 洗って返すべきだっていう礼儀というモノが働いてしまったが故に手の中にあるハンカチ。
 だけどさ……これってどんな顔して返せば良いんだ?
 すっごく恥ずかしいんですけど……。
 ああ……こんなことなら、店なんか寄るんじゃなかった。
 俺は、本日何度目かの後悔に晒されながら、最悪の気分で自宅へと車を走らせた。

 濡れてぐしゃぐしゃになった布きれをパンッと勢いよく左右に引っ張る。
 数度それを繰り返してから、ロープにかけた。
 紺色地に幾本かの細い色違いの線が入ったハンカチ。
 昨日持って帰ったハンカチだ。
 シワ無く伸ばしたそれがよく陽にあたって、あっという間に湯気のように水分が飛んでいく様が見て取れた。
 明日には返せるかな?
 幸いにも絶好の洗濯日和。
 だけど、そのハンカチを干してしまったら一気に洗濯のテンションが落ちた。
 後は適当、適当。
 そんなにシワになって困るようなものはないし。
 もう空はすっかり秋の空。
 だけど、風がないせいかぽかぽかとなんだか気持ちいい。
 二日酔いが抜けた頭はすっきりとしていて、明るい日差しに煽られたのか気分まで昂揚していた。
 やっぱこういう日は、県北かな?
 これから冬になると行けなくなるから今のうちかもしんないし。
 オレは、洗濯かごを家の中に入れると、戸締まりの確認をして回った。
 といっても使っている部屋は限られている。
 掃除が面倒だから、台所と浴室と自分の部屋だけだ。
 後の部屋は、たまに帰ってくる母親に任せられるよう極力使わなかった。
「これで終わり……」
 そう呟きながら、ジャケットと細々したものが入ったウエストポーチを握ると、玄関の扉を閉めた。
 がちゃりと持ってい鍵から伝わる振動だけでは信じられなくて数度ドアノブを動かす。
「ん、OK」
 盗られて困るものがあるわけではない。
 もう一度、家を見つめながら頭の中でやり残したことがないか反復する。
「よしっと……」
 それでもそこに立ち止まっていた時間はほんの数秒だ。
 振り返るまもなくオレの意識は、目的地へと馳せていた。
 こうやって休みの度にドライブしたり、簡易的な旅行をしたり……というのがオレの趣味。
 急に思い立って行くことの方が多く、そしていっつも一人だった。
 何せ、オレの目的地はひなびた温泉街や、観光地の土産物が並ぶ通りとか……とかにく、同じ世代の連中が笑い飛ばしてくれそうな所ばっかりなんだ。
 別にオレはそういう所の方がゆっくり出来ていいと思うんだけどさ。
 ガレージと呼ぶにはおこがましいくたびれた屋根付き車庫にあるメタリックパールダークグレイという妙な名前の色を持つ軽四。それがオレのだった。
 何せさ、両親の引っ越しでそれでなくても余裕のない我が家に大きな車を買う金なんてなかった。だから、軽四。しかも中古。
 だけど、乗ってみたら結構これがしっくりくる。
 贅沢なんか言ってられないってのもあったし、もともと車自体への興味が低いこと手伝ったのだろう。
 それに新入社員の給料と近場とは言え旅行好きという趣味のせいで金なんか貯まりようがなかった。
 ということで、いまだにその軽四は健在だった。
 イグニッションキーを回せば一発始動だ。
 バッテリーは買えたばかりだし、オイル交換済んでいる。軽快なエンジン音に、オレは意気揚々と愛車を発進させた。

 県北、山を越えれば山陰地方との県境。
 ここに実はとっても好きな和菓子屋さんがある。
 今日の目的地はそこ。
 別に何の変哲もないようなところなんだけど、昔両親に連れてきて貰って食べた草餅がとってもおいしくて。
 それ以来、何故か好きになってしまったその草餅やだんごを手に入れるためだけにここまでくる。
 ついでに持ってきたペットボトルにそこのわき水を汲んで……と。
 これで帰ったら、この水を湧かしてお茶を入れて草餅を食べるんだ。
 そうすると、運転の疲れも吹っ飛ぶくらいにおいしくて。
 なんてことを友人達に言ったら、思いっきり笑われた。
 そんなに変かなあ?
 ただ単に俺が好きなものが草餅だってことだけじゃん。
 そしたら合うのはやっぱり緑茶だろ?
 それのどこが笑うところなのか判らねーよ。
 でも、一人で食べるのは限界がある。それにやっぱりみんなと一緒に食べる方が楽しいし……。
 それに。
 どれにしようかと選んでいた俺の頭に唐突に高山さんの顔が浮かんだ。
 そういえば……。
 やっぱ迷惑かけたんだし、なんかお礼した方がいいかなあ……。
 あの人って、甘い物食べるんだろうか?
 あんいりだと、粒あんかこしあんとかの好みが出てくるし……。
 うう……迷ってしまう。
 ああだこうだってぶつぶつ言っていると接客していたおばちゃんが可笑しそうに笑っていた。
「彼女へのおみやげなの?」
 なんて言われて、なんでか顔が熱くなる。
 何で?
 頭の中にハテナマークが飛び交うけど、おばちゃんと視線があって俺は慌てて首を横に振った。
「違いますって。お世話になった人のお礼なんだけど、好みがわかんなくて……」
 でも赤くなっている俺におばちゃんは一人判ったように頷いて。
「やっぱ女の子は甘い物が好きだからね。へらへら笑いながら答えると、おばちゃんも一緒になって考えてくれた。
 なんだかおみやげ買うのにこんなに悩むなんて久しぶり。
 でも、なんだか楽しい。
 結局さ、悩んだ挙げ句、俺は草餅2パックにパイの詰め合わせ1パックを買った。
 草餅一つは自分用。
 んで、会社で啓輔達と食べる分に……パイは高山さん。
 中身は小豆やかぼちゃあんと言った和風のパイだけど、女の子にも人気なのよっておばちゃんが選んでくれた奴。もうすっかり彼女へのおみやげだと独り合点しているおばちゃんに俺は曖昧な笑みを口元に浮かべて勧められるままにそれを手にした。
 なんか、ほんとに彼女へのおみやげ買っているような気分になった。
 でもさ、彼女なんかいたら一緒に来ているって思わないのかな?
 寂しいことに彼女どころか一緒に来てくれる人もいないし。
 高山さんは……こういうところ来てくれそうにないよな。
 もっと都会的なイメージがあるし……。
 やっぱ、俺って変なのかなあ、こういう趣味って……。
 ふと気が付けばなんだか暗い方向に思考がいっている。
 俺は慌てて頭を数度横に振った。
 こればっかりはしょうがない。
 だって趣味が合わないんだから。
 それにこれはお礼、だもんな。
 会社で渡せば他の人と食べたりできるし。
 嫌いだったら困るけど……。
 ちょっとだけ不安が胸の内に合ったけれど、何が好みか判らないし。
 当たって砕けろ……って言ってもほんとに砕けたらシャレになんないけど。
 でもほんとに気分は、当たって砕けろ……だった。

 朝会社に行くと着替えるために更衣室に行く。
 狭い幅のロッカーが4列並んでいて、そのうちの背中合わせになったロッカーが真ん中で部屋を二つに仕切っていた。
 オレは入って奥側。
 確か高山さんは入ってすぐの通りで見かけたような気がする。
 でも、朝会ったことはなかった。
 オレが45分くらいにつく頃にはもうすでにいなかったと思うから、きっともっと早い時間。
 オレは昨夜買ったお土産を朝のうちに渡そうって、いつもより早く家を出た。
 だけど慣れないことはするもんじゃない。
 いつもの時間より早くって気が急いていたせいで、肝心のハンカチを持ってくるのを忘れていた。
 何やってんだ……オレって。
 結局手にあるのはお土産だけ。
 でもこれ、明日に回すよりは今日食べてもらった方がいいって思うし。
 やっぱ、お早めにっていうくらい、鮮度って大切だもん。
 んでまあ、そんなこんなでとりあえず早めに会社に着いたんだけど……。
 高山さん……早い……。
 なんとなれば、高山さんはすでに作業服に着替えた後だった。
 後、1分も遅ければ事務所に移動していただろうっていうタイミング。
 だって……まだ30分なのに……。
 いつもの時間に比べれば閑散という言葉がぴったりなくらいに人がいない更衣室。
 こんな静かな更衣室で着替えたことなんかないって……。
 オレは、慣れているはずの更衣室にひどく違和感を感じてしばらくぼおっと立っていた。
 そしてその視線の先にいるのは高山さん。
 ああ、こうしてみると、やっぱりこの前逢ったのはこの人だって確信が持てる。
 作業着姿ばっかり頭にあったから、この姿の方がしっくりくるんだ。
 と。
 高山さんがオレに気づいた。
 視界に入ったオレを訝しげに見つめ、次の瞬間ほんの少しだけ目を見開いた。
「……おはようございます。先日はありがとうございました」
 車の中何度も唱えた科白を口にして、ぺこりと頭を下げた。
「…あっ……おはよう……」
 つられたように挨拶が帰ってきて。
 やっとオレが誰だか判ったというように頷いていた。
「あの……」
「どこかで見たと思ったんだけど……同じ会社だったんだ」
 唇の片端だけちょっとあげて、苦笑いを浮かべている。
 それがなんだかオレを責めているようで、ちょっと身構えてしまう。
「すみません……」
 反射的に詫びの言葉が口を出て。
 だけど、そのとたんに高山さんの顔が「しまった」というようにかすかに歪んだ。
 ああ……高山さんはそういうつもりじゃなかったんだ……ってオレにも判って。
 そしたら、二人の間にひどく気まずい空気が張りつめた。
 こんなつもりじゃなかったんだけど……。
 でも、どうしよう……。
 後ろ手に持ったポリ袋を持ち直したとたん、手の中で袋がすれるかしゃっていう音がした。
 あっ……そうだ、渡さなきゃ……。
 って思うんだけどなかなか手が動かない。
「あ、あの……」
 どうしよう……渡す勇気が起きない。
 というか、なんでこんなことに勇気が必要なのか?
 たらりと冷や汗すら流れる。
 しかも……高山さんも困ったように佇んでいて……。
 変、だよな。
 こんなところで二人ぼけっと突っ立ってんの……。
 どこか客観的に見ている自分が自分を嘲っているというのに。
 ああっ、どうしようっ!
 って心の中で叫んだとたん、かちゃっとドアが開いた。
 それにはっと我に返ったのは高山さんの方。
 オレはどうしようどうしようって焦ってばかりで、ドアに対する反応が遅れた。
「って!」
 よっく考えたらオレ、ドアから入ってすぐに立っていた。
 だから、ドアが開いた途端に、それが背に当たる。
「あっ、すみませんっ!……って、なんだ……里山君か……」
 ”なんだ”の後のニュアンスは何だよっ!
 ってオレが振り返ったら、開発部の橋本さんだった。
 ロッカーが近いのと、気さくな人だから結構親しくしてる人。
 でも、橋本さんが来てるってことは、もうそんな時間?
「えらく早いじゃないか。と……高山、おはよう。珍しいな、ここで逢うなんて」
「ああ、おはよう」
 橋本さんの揶揄を無視して、高山さんはオレに視線を戻した。
「里山君っていうのか?」
「はい。製造部の里山櫂です」
「あ、ああそうか、今年の新人だ」
 ようやっと名前と顔が一致したとばかりにぽんと手を叩く。
「お前さあ、もう半年はたっているのにいまさら何を言っているんだ?」
 橋本さんの呆れた声に、さすがに自嘲気味に口元を歪めていた。
「まったくだな」
 ちらりと眇められた視線の意味って、やっぱりおとついのことなんだろうな。
 思い出せなかったということ。
「で、二人とも何やってんだ。里山君、着替えないのか?」
 オレのロッカーと二つばかり離れた場所にあるロッカーに向かいながら振り返る。
「え、ええ……」
 って頷きながらそっちに向かおうとして、はたっと立ち止まった。
 マズい……まだ渡せていない。
 ええいっ、ままよっ!
 オレは、持っていた袋の一つをぐいっと高山さんに向けて差し出した。
「この前はすみませんでした。これ、食べてください」
 って有無を言わせずに反射的に出てきた手にそれを握らせる。
「あのっ、嫌いだったら誰か他の人にあげてくださいっ!ありがとうございましたっ!」
 勢いよくぺこっと頭を下げて、オレは何事かと呆然としている橋本さんの横をすり抜けて自分のロッカーをガンと音をたてて開いた。
 ど、どうしよう……。
 心臓がバクバクいってる。
 なんか顔が熱いし。
 お礼のお菓子を渡しただけなのに。
 なんでこんなことになるんだ。
「なんか……高山とあったのか?」
 訝しげな橋本さんに、「ちょっとね……あ、あれ橋本さんも食べてくださいね」って返して。
 オレは、着替えるスピードの最高記録を樹立して、脱兎のごとく更衣室から逃げ出していた。
 何で?
 って聞かれたって答えられない。
 ただ、その場にいたくなかったんだ。
 出てくる時に、高山さんが困ったように手の中の袋を見つめているのは見えたけれど。
 だけど、それすらもなんだか恥ずかしいって思えて。
 ……そう、オレはひどく恥ずかしがっていた。
 でも……何で?
 何でこんなに顔が熱いのか?
 何で……こんなに心臓がドキドキしているのか……オレ、判んない……。

「櫂っ!今日の投入予定が狂ったって」
「ええーっ!」
 慌てて渡された指図一覧表を覗き込む。
 今日作るべき製品の名がずらっと並んでいる中に、大きく赤いマジックでバッテンが……。
 しかも明日作るはずの製品が矢印でぐるんってやって来ていて。
「これって、結構量があるから大変な奴じゃん。で、出荷日はずれる?」
 バッテン印のそれを指さしながら、オレは先輩の下井さんを上目遣いに窺う。
「それがずれないって……」
「げー」
 思いっきり嫌そうに顔をしかめたら、ぱこんっと後頭をはたかれた。
「文句言うな、材料が間に合わないんだと」
「いてっ」
 大げさに痛がって振り返る。
 誰が叩いたかなんて判ってる。
 チームリーダーの崎野さんがバインダー片手に笑っていた。
「でも、他の製品の投入もあるし、結構きつきつですよ」
 半年も経てば、仕事の容量も飲み込んで文句も言える立場になる。
「その分、他をずらすように管理に手配をかけているから、なんとかするよ」
 人的ミスで不良を出すとやたらめったら怖い崎野さんだけど、こういう配慮は巧くって。
 だから、メンバーのみんなにも慕われている。
「今回の材料は、特殊な奴でしょう?ほんとに間に合うんですか?」
 ぶすくれているオレに変わって下井さんがそこだけははっきりしないと……と念を押している。
 だけど帰ってきた言葉は。
「たぶん……」
 何とも頼りのない言葉で……。
 しかも崎野さんは笑ってた。
「たぶん……って」
 さすがに下井さんも冗談じゃないって顔はしていたけれど、そこで崎野さんを責めても仕方がないってがっくりと肩を落とす。
 そりゃそうだよな。
 リーダーは崎野さんだけど、実質的に取り仕切っているのは下井さんだから、納期遅れなんてなったら一番に文句言われる立場だもん。
「とにかく、明日予定の分を少しでも前に回すから……計画、頼むよ」
 穏やかに崎野さんに言われたら下井さんも文句の言い様がなくて。
「判りました」
 その声が情けなく聞こえて思わず吹き出したら、下井さんに睨まれた。
「櫂、覚悟しとけよ」
「ええっ」
 大げさに反応してみせたら、ニヤリと笑う。
 その笑い方にぞくりと寒気がした。

「やっぱりー」
 下井さんと仲がいいのも考え物だと、新しく来た本日の計画を手にオレはその場に座り込んだ。
 オレの負担、めっちゃ多い。
 そりゃ、これだけしないと後日にずれた製品に集中できないからだろうけどさ。
 だけどへたり込んでいたのも一瞬。
 オレはすぐに立ち上がって、気分を切り替えた。
 いつまでも動かなかったら、それだけ物が作れない。
 文句言ったって他にやってくれそうな人なんていないしね。
 みんなぎっちり詰まった計画で動いているんだから。
 オレはそう割り切ると、さっそく作業を開始した。
 残業は……やっぱしたくないし。
 ふっと漏れる溜息もこれで終わりだと、オレは気分を引き締めた。
 
 
「忙しいんだ?」
 ぐたっとテーブルに突っ伏しているオレの前で啓輔が苦笑いを浮かべている。
「うん……やっと一段落付いた……」
 がむしゃらにノルマをこなしていって、ようやく落ち着いたのはもう午後の3時を過ぎていた。
 10時の休憩も昼も、全然落ち着いて過ごせなくて。
 せっかく持ってきていたお菓子を食べるために啓輔を誘うこともできなかった。
 でもやっと一緒にこれた。
 なんかぽかっと気が抜けて、何をする気にもならない。
 そんな俺の前で、啓輔が楽しそうに包装紙を破っていた。
 その隣には一緒に誘った家城さん。
 正確には啓輔に誘って貰った。
 一応泊めて貰ったお礼だもん。家の主を呼ばないでどうするって感じで。
 相変わらずの無表情。
 何考えてんだか判らないところも相変わらず。
 でも啓輔が誘ったらちゃんと来るんだよなこの人。
「にしても、櫂も元気だよなあ。一人で県北までいって買ってくるんだからさ」
「わざわざ行ったのですか?」
 家城さんが包装紙に書かれた住所を見てた。
「……好きなんだ、そこの。嫌いじゃなかったら食べて」
 啓輔がこういうのは大丈夫なのは知っていたけど、家城さんはどうなんたろう?
 お礼っていうのに、家城さんの好みまで考えていなかった。
 ずっと高山さんのことばっか……考えてたんだよな。
「大丈夫ですよ」
「よかった」
 こんなふうに言われてないよな。
 朝渡したときなんだかとっても緊張してて、高山さんも驚いていたから何にも言わなかったし。
 なんか……こう……。
 あの人って、テンポが狂うもんなあ。
 お陰でその間が計れなくて必要以上に緊張してあんな羽目に陥っちゃう。
 あんなふうにすっごい心臓がどきどきするくらい。
 だもんで朝から余計な体力使ってるから、こんなに怠いんだよな。
 ああ、もう最悪。
「ほら、櫂も食べろよ。自分で買ってきたんだろ?甘い物食べたら疲れも吹っ飛ぶって」
「ふぁーい」
 好きなはずの草餅もここまで疲れると欲しいなんて思わないのが不思議だ。
「まだあと、1時間以上あるよ」
 そんなオレを見てけらけらと笑っている啓輔を睨み付ける。
 んなこと言ったってさ。
 疲れがピークなんだよ。
 それでものろのろと手を伸ばして草餅にばくりと噛みついた。
 ヨモギの香りと味と、そして程良い甘みのあんの味が口の中に広がって──さすがにちょっと幸せな気分になる。
 会社の不味いお茶すらもおいしく感じるのが不思議だ。
 なんて、お手軽な幸せ気分を味わっていたときだった。
「ここ、いいかな?」
 遠慮がちな声をかけられたのは。

 その最近聞き知った声にオレは驚いてそちらを見上げた。
 えっ……何で?
 そこにいたのはやっぱり高山さんで。
 その後にどうしたものかと口元を歪めている橋本さんも一緒だったけれど。
「いい?」
 話し掛けている先は家城さん。
 その家城さんが訝しげに高山さんを見上げ、でも頷く。
 五人がけの席。
 二人がきても何の問題もない。
 ただ……何で?
 っていう想いがここにいる人達の間に漂う。
 だって、他の席が空いていないわけじゃない。誰も座っていないいくつものテーブルがあるのにさ。
 しかもそれほど親しくないメンバー……だし。
 だけど、高山さんはさっさと座ってきた。
 しかも……オレの隣。
 橋本さんは仕方なくっていった感じで高山さんと家城さんの間。
「そういえば、橋本さん」
 なんて家城さんに声をかけられて、ぴくりと引きつっている。
「何?」
「先日、篠山さんに渡した仕様書の承認はまだなんでしょうか?昨日中に……と明記しておいたのですが?」
 途端にさらにひきつる橋本さん。
「……後で、確認してみます」
 なんて暗い声。
「よろしくお願いします」
 っていう家城さんは涼しい顔だったけれど、啓輔が困ったように苦笑を浮かべていた。
 これだから、家城さんに仕事で関係ある人はみんな近づかないんだよって、啓輔が前に言っていた。
 だって、休憩が休憩でなくなるから。
 ……そりゃそうだ。
 でもちなみに今のオレもそんな気分。
「ありがとうって言うの忘れていたね」
 高山さんがごそごそと包装紙を外しているそれは、朝渡した物。
「あ、いえ」
 なんか、朝の緊張が甦ってしまって、心臓がどきどきと跳ねてくる。
「お礼なんてされるほどのことしていないのに……だからびっくりしたんだ」
「でも……オレ助かったら、あの時」
 自分がどんなに固い声を出しているか判る。
 それに啓輔が驚いたように見ていることも。
 ああ、もうっ。らしくない、とでも思ってんだろ。
 そうだよ、自分でもらしくないって思っているけど……なんか気が付いたら、家城さんより高山さん相手の方が緊張しているんだよ……。
「同じお店のですね」
 家城さんが目聡く見つけて、オレはこくりと頷いた。
「高山さんは土曜日にちょっとお世話になって、それで……」
「土曜というと、あれから、ですか?」
「うん」
 こくりと頷く。
 詳しい内容は恥ずかしくて言えないけど、幸いにも家城さん達はそれ以上突っ込まなかった。
 というか、啓輔がなんとなく赤くなってるのは気のせいじゃないと思うし。
 ま、お互い突っ込まれたく内容だと言うことで、それはそれとして。
「せっかくだからいっしょに食べようと思ったんだけど、午前中はいなかったね」
 すっと箱を差し出される。
「そんなの構わなかったのに。それにちょっと仕事が押してて、落ち着いたのがさっき。午前中の休憩とったの遅かったから」
「そうなんだ」
 たったこれだけの会話でも緊張しっぱなし。
 高山さんの手がパイの袋を掴んでぴりぴりと破くのを目で追う。
 この人、こういうお菓子は好きなだろうか?それとも?
「なんか、そっちもおいしそう?」
 啓輔の手がするすると伸びる。
 って、おい。
「隅埜君、それは高山さん達のでしょう」
 オレが文句を言う前に家城さんに怒られてた。
「あ、いいよ」
 だけどあっさり高山さんは菓子箱を押しだしてくる。
 えっと……。
 オレはどういうリアクションを取って良いか判らなくて、固まってた。
 だって……嫌いだからいらないっていっているようにも見えたんだ。
 手に持っていたパイ、あらかた食べ終えているというのに何も言わないし、表情も変わらない。
 あの家城さんでも、お世辞でも”おいしいですね”って言ってくれてるのに。
 ただ、機械的に咀嚼しているようにしか見えなくて。
「こちらもどうですか?同じく里山君のお土産なんですよ」
 って家城さんが差し出した箱は草餅の方。
「おなじ店なんだ?」
 ちらりとオレを見た。
 そして家城さんを見ながら、草餅を手に取っていた。
 その表情は変化が無くて、何考えているのか判らない。
「こっちもおいしいよ」
 啓輔はにこにことしながら食べてはいるけれど、肝心の人からの感想を貰えないオレはどんどん暗くなっていく。
 そんなオレを橋本さんはずっと見ていたんだろう。
 オレが気付いたときには、困ったような表情をしていた。
「橋本さんも食べてください。気に入るかどうかわかんないけど」
 動揺を誤魔化すように言った言葉に、橋本さんは今度ははっきりと苦笑を浮かべていた。
 そして、つんつんと肘で高山さんをつつく。
「何だ?」
「お前な、何か言えよ。一人で納得していないで」
「え?」
 高山さんは怪訝そうに首を傾げている。
「それともそういう菓子って嫌いだったっけ?」
 くすりと笑っている橋本さんに、オレはかあっと頬が熱くなるのを感じてた。
 ばれてた?
 オレが高山さんの感想聞きたくてうずうずとしていたことに?
「え?」
 その言葉に高山さんははっと我に返ったようにオレを見た。
 って……熱い顔晒してんだけど……これってその……っ!
「あ、ごめんっ」
 なんだか高山さんも慌ててて、しまったっていうように顔を歪めた。
 この表情見たの今日二回目……。
 何を悔いているのか判らないけれど、慌てたふうに言葉を継ぐ。
「おいしいよ。どちらも好きな味だ。草餅のヨモギの香りもいよね。パイもあんとパイ生地がよく合ってて。今日はコーヒーだからパイの方が合っているけれどお茶だっら、草餅の方がおいしいだろうね」
 まじめな顔して批評されても……それはそれでオレは困ってしまった。
 でも……おいしいって言ってくれたんだよな。
「よかった、気に入ってくれて」
 ほっと一安心。
 やっぱり買ってきた以上喜んで貰いたかったし。
「でも……」
 だけど、高山さんが固い表情で何かを言おうとしていたから、オレは途端にひくりとひきつった。
「あ……」
 そんなオレの様子に気付いたのか、高山さんが口ごもってしまう。
 もうオレって正直な顔してるから……。
 高山さんてば、マズイって……またそんなふうに顔を歪めて。
 だけど、言いかけて止められたもんだから妙な沈黙が漂ってしまう。
 なのに、高山さんはそのまま何も言わなかった。
「高山さん、どうしたんです?」
 さすがに家城さんが口を挟むほどにその沈黙は異様で。
「え、いや何でもない。おいしいね、これも」
 微かに首を振って、その場を誤魔化すかのようにばくりとカボチャあんのパイを口にしていた。
 だけど……一体何が言いたかったんだろう。
 オレを見て止めてしまったから、だからこそ余計に気になってしまったんだ。

 気になることが増えてしまった休憩時間。
 だけど、いつまでもそこにいるわけには行かない。
 結局あれから高山さんは、そのことには触れなくて。
 あーあ。
 お土産を食べてもらったのは嬉しかったんだけどな。
「じゃ、ありがとう」
 元気な啓輔の声掛けに笑って返して、でもオレの心はどんよりと曇っていた。
 なんか……、オレもいい加減変だよな……。
 零れるため息なんだけど、それがなぜかはわからなくて……よけいに落ち込んでしまった。

 
 やっぱり残業になってしまった。
 休憩時間の出来事でテンションが落ちてしまったせい。
 考え事に思考を取られたせいで、作業スピードが落ちてしまったんだ。
 ノルマが終わらないと帰れないから慌ててがんばってはみたものの、結局終わったのは7時を過ぎていた。
 日が暮れるのが早くなったせいで、窓の外はもうすっかり闇の世界。
 やっぱり暗くなると気分までもがなんなくだけで暗くなる。
 帰りたい想いが強くなるんだ。
 お腹もすくし……。
「お疲れー」
 4時から仕事に入っている2勤の人達に挨拶をして、オレは更衣室へと足を進めた。
 後は着替えて、帰るだけ。
 いつもなら、帰れるって言うだけで楽しい気分になるのに、今はそんな気にならないほど疲れている。
 何でだろう?
 最近にしては希なくらいの疲労度だと思う。
 ここにどこでもドアでもあれば、そのまんまベッドに潜り込んでしまうのに……。
 なんてあらぬ空想を思い浮かべ、そんな非現実なことを思った自分を嘲る笑みが口元に浮かぶ。
 なんか……もう、頭がぶっ飛んでいる。
 さっさと帰ろう。
 んで、帰る途中でコンビニで寄って……なんか弁当でも買おう。も、何にもする気力ないし……。
 って……あれ?
 惰性のままに更衣室の電気をつけようとして、すんでのところで手が止まった。
 ついてる……。
 まだ7時すぎという時間なら、これから帰るって人はまだまだいる。
 いつもならドアの窓から零れる灯りを見過ごすことなんてありやしないのに。オレは、消さなくて良かったとホッとしながら、ドアノブに手をかけた。
 カチャと小さな音を立てて、軽めに作られたドアが開く。
 中はやっぱり煌々と灯りがついていて、カーペットの手前に安全靴が一足脱がれていた。
 使い古したそれはかなり汚れていて、しかも何となく見覚えがある。
 靴から顔を上げることなく、その先のロッカーにいる人が誰かは判っていた。
「お疲れさまー」
 気怠げな動きのせいで遅れを取って、先に陽気な声で橋本さんが声をかけてきた。
「お疲れさまです。──早いですね」
 帰りの時間に逢うことなど滅多にない橋本さんに、そんなふうに声をかけると、苦笑いで返された。
 だって、夜勤帰りで一緒になることだってあるんだ。
 3交代の時の2勤が終わるのは、夜の10時。そんな時間に日勤の筈の橋本さんに逢うってことは、開発ってほんとに大変なんだなって思う。 
 いつもなら、休憩を取っている時間に帰り支度をする橋本さんに、そんな声をかけたのは決して嫌みじゃないんだ。
「今日はね……まあトラブルもなかったし」
「よかったですね」
 って、本心からの労りの言葉が出る。
「まあね。それより里山君、君こそひどく疲れていないかい?」
 窺うようなその瞳が、すうっと細められる。柔らかな笑みがその口もとに宿ると、ひどく落ち着いた感じになって、相手に安心感を与えてくれる。
 疲れが少しは解消されるような気がする。
 だからオレも、知らずに笑みが零れた。
「忙しかったから。それに……」
 言いかけて口ごもる。
 この人に愚痴ってもしょうがないんだよな。
 橋本さんの視線から逃れるように目を伏せて、ロッカーを開けて扉で互いの間に壁を作る。
 なんとなく……話しかけられたくなくなっていた。
 やっぱり、ひどく疲れている。
 ちょっとだけ昂揚した心が……また沈み込む。
 少しぼおっとしていたせいで、手からハンガーが滑り落ちた。
「あっ……」
 思わずついて出た声も、力がない。
 ああ、もう……最低……。
 のろのろと伸ばした指の先で服を引っかけて持ち上げようとしたら、それより早くに別の手が伸びて拾い上げた。
「あ、ありがとうございます……」
 誰かなんて顔を見なくても判るから、下げた頭そのままに礼を言う。
 だけど、その手が離れない。
 引っ張った途端に、ピン伸びるシャツにオレはどうして?っと顔を上げたら、橋本さんが口の端を上げて困ったように嗤っていた。
「もしかして……高山のことが気になっているのか?」
 って、その顔が言った言葉にオレは条件反射のように頷いていた。
 その……別にそれだけでこんなに落ち込んでんじゃないけど。
「えっと……その……気になるのは気になるんだけど……疲れているのはそれだけじゃなくて……その……」
 頷いてしまったから、言い訳するのも変だと思うんだけど、でも要領の得ない言い訳をしてしまって。
 橋本さんはますます困ったようにその顔を歪めていた。
 それを見ていると、誤魔化すのもバカらしくなって口を噤む。
 この人はあの場にいたから、オレの動揺なんて簡単に気付いているんだろうし。
「……ふう……」
 結局、割り切るようにため息をついて。
「……どうして判ったんですか?」
 って問うた言葉は、簡単に返された。
「里山君は判りやすいからなあ」
 ってさ。
 それは……あんまりだと思うけど……。だけど否定できないんだよなあ。
 照れて頬が熱くなるんだけど、それを意志の力で止めることなんてできない。
「……ほんとにそれだけじゃないんですけどね」
 それだけは、もう一度言った。
 うんうんと判っていると頷く橋本さんの顔には、相変わらず苦笑が浮かんでいたのが気になる。
「どうも今日の里山くんはずっと高山の言動に一喜一憂している気配がありありと判って……」
 なんて言われたらますます顔が熱くなる。
 オレってそんなに単純?
 橋本さんにばれていたとしたら……もしかして高山さんにもバレているんじゃなだろうかって不安になる。「そんなに不安げな顔しなくても」
 って……おい……もろバレ。
 結局オレはため息をつくことで気分を切り替えた。
「まあ……確かにそうなんですけどね」
 少しは隠す方法を覚えようかな、高山さんみたいに。……あんなふうに何を考えているのか判らない方が、この先いいかもしれないし。
「まあ……あいつもいろいろと問題あるからなあ……。ほらっ……最後の高山の言いかけた言葉が気になるんだろ?」
 なんて聞かれて、思わず頷いているオレって……やっぱ正直。
 素直さが取り柄……なんてのもこの先困ったことかもしれないな。
 零れるため息は、もう何度目だろう?

「でもさ、なんでそんなに気になるんだい?」
 それだけは聞きたいと、橋本さんが顔を近づけてきた。
 だけど……そんなこと聞かれても……。
 自分でも判らない。
 どうして、なんだろう……。
 オレは眉間にシワを寄せながら、首を横に振っていた。
 判らないんだ、ほんとに。
 ただ、気になる。
 高山さんを知りたいって思う。
 もう少し……話なんかしてみたくて、えっと……なんて言うか……。
 ああ、やっぱ判んないや、自分が何をしたいのか?
「もしかしなくても、何で気になるのか判らないのか?」
「……うーん……。気になるんだけど……なんて言うか、高山さんって読めないって言うか……。気がついたら……気になって仕方がないっていうか?……だから、よく判らない……」
「……そう…なんだ。まあ、あれだけわかりやすくて、実はわかりにくい奴もいないかもな」
 ???
 橋本さんが言った言葉もよくわからない。
 何がわかりやすくて、わかりにくい?
 それって日本語?
 きょとんと首を傾げて訝しげな視線を送ると、苦笑が返ってきた。
「……まあ……そのうち、判ってくるよ。判ってしまえば単純な奴だから」
 嗤って……遠い目をする橋本さん。
 やっぱ、普段から仲がいいんだろうなあ。だから、高山さんのことが判るんだ。
 そう思った途端に、胸の奥がちりちりと痛んだ。
 あれ?
 なんだろう、これ?
 今まで味わったことのない類の痛みにオレはそっと胸に手をやった。
 触れてもそれ以外の痛みなんてない。
 何なんだ?
 なんか、オレ、今日ほんとに変だな?訳のわからないことばかり起こる。
「まあ、いいさ。それより、高山のことなんだけどね」
 オレの挙動不審に気付かないで、最後のジャケットを羽織りながら橋本さんはくすりと笑みを浮かべた。
「……高山さんのことって?」
「あいつはさ……基本的に甘いものは好き」
「ほんとっ!」
 途端に声が上擦った。
 だってさ、なんか嬉しくなったんだ。じゃあ、あのおいしいっていう批評もほんとのことなのかな?
「……そうだよ。今日の高山の言葉に嘘はないよ。あれはオレもおいしかったから」
 なんだかオレを見つめる橋本さんの目が優しい。
 言い聞かせるようにゆっくりとしゃべっているせいもあるかもしれないけど。なんか、子供扱いされているような気がしないでもない。
「まあ、それで」
 こほんと咳払いしたのは、それを誤魔化すためなのか?
 ということは、やっぱりオレって表情に出ていたってこと?
 うーん……。
「今日、高山考え込んでいただろ?あれってひどく珍しいことなんだけどさ、知っている?」
「いえ……だいたい、オレそんなに高山さんのこと知らないし」
 今日で2回目だもん、話したの。
 1回目は、怒濤のごとくに過ぎ去った。
 まあ、忘れようもない初めての出会いって奴だ。
 2度目は今日で……。
 仕事の時の高山さんって逢うことなんかないから、あんまり知らないけれど、でも土曜の時も今日の事も、高山さんはいつも考えこんでいることが多かったような気がする。今日だってなんだか歯切れが悪かった。
 そう言うと、橋本さんは困ったように顔を歪めた。
「……たぶん、そんなことを言うのは里山くんだけだと思うよ。この会社だと」
「そうなの?」
「家城さんが驚いていただろう?あの人があんな表情見せるなんて珍しいんだよ。そのくらい珍しいってこと」
 って……それってすごい喩え。
 でも、そう言わしめるほど今日の高山さんは変だったってこと?
 それって……どうしてなんだろう?
「言いたいことを言うから、あいつは上司の覚えが悪くてね。……あ、今のチームのリーダーとは何とかやっているよ。そのさらに上と仲が悪いんだ。そういう性格は、他の人が相手でもそうだし。しかも仲がいい相手なんかだと、その言いたいことを言う性格が暴走するのか、思ったことをいきなり言って、周りを混乱させることも……あったりして……。で、また諦めは悪いし……」
 ……なんか信じられなくて、オレは目を見開いて橋本さんの話を聞いていた。
 エリートだろ、あの人。
 開発の人だろ?
 高卒のオレからすれぱ大学出ているって言うだけで、凄いっていう形容詞しか付かないって言うのに。
 ……でもまあ……それだからこそ、突飛な性格していてもおかしくないのかな?
「それから?高山さんって、じゃあ、あんなふうにぼおっとしているって珍しいんだ?」
「珍しい」
 それだけはきっぱりと言い切られた。
 そうか……でも、何でオレはそういう所しか見ていないんだ?
 オレが見た高山さんが普通じゃないってことは……オレはまだ本当の高山さんを見ていないってこと?
 それも……やだな……。
 明るかった世界に切り裂くような黒い影が入ってきて。
 オレはまた一瞬にして暗雲垂れ込める世界に陥りそうになっていた。
 ああ……疲れる。
 これが疲れている原因なのかもしれない。
 今日はなんだか浮き沈みがめっちゃ激しいよお……。
「里山くん……聞いてる?」
 ふっと気が付くと橋本さんがオレを覗き込んでいた。
 オレ……そんなにぼおっとしていたのかな。
 間近に見える橋本さん。
 よっく見れば、眉も太くてひげも濃くて……男らしい顔立ちだよな。オレとは正反対。
 悔しいくらいに……オレのコンプレックスを刺激する人。なんか、今頃気が付いた。
 たぶん、高山さんと並んで絵になる人。
 そうだよな。飄々としててあんまり実感なかったけど、この人だって開発の人だもん。大学出て、……きっと頭だって良くて。だって、さっきからすごい勘がいいって臭わせる。
 なんか……自分が情けなくなってくる。
 こんな想い、今までしたことなんてなかったのに。
 橋本さんは気さくな人で、話していると楽しくて……。
 仲良くしてもらっているって言うのに。
 こういう感情って螺旋を描いて沈んでいくんだよな。
 ぐるぐると何度も同じことが頭に浮かび、だけど同じこと考えているはずなのに寸前の考えよりさらに奥深く沈んでいこうとする。
 堪らない……。
 オレって……こんなに嫌な奴?
 橋本さん……嫌いな筈なんかないのに……嫌いだって思っている自分がいて……。
「里山くん?」
 何も言わなくなったオレに、橋本さんは心配して声をかけてくれるのだけど。
「オレ……ほんと疲れているみたい……もう帰ります」
 ちょうど着替えが終わったから、ロッカーの扉をばたんと締めて。
 手に持ったバッグを肩にかけると、オレは歩き出そうとした。
 とにかく休んで……。
 めちゃくちゃになった頭、落ち着かせないと……。
「待ってっ!」
 だけど、靴を履こうとしたらつよく腕を捕まれた。
 なんだか橋本さんってばひどく慌てている。
「高山のこと……一つだけ、言っておかないとと思っていたんだ。ごめん……最初に言えば良かったんだけど……」
「一つだけ?」
 何だろう?
 さすがにそれは気になって、オレは履きかけていた靴のまんま彼の方へ向いて。
「高山があの時言いかけた言葉。あれをオレは知っている」
「えっ!」
 ぱさりと肩からバックが落ちた。
 だけど、そんなことも気にならないほどオレは動揺していて。
 あの言葉の続きって……高山さんが決して教えてくれなかった言葉が判る?
「高山って……アップルパイが好きなんだよ。パイを食べていて、おいしいって言って……その後の”でも”だろ?オレ、昔あんなシチュエーションにあったことあって……。あの時はレモンパイかなんかだったけど。あいつはっきり言ったんだ。”おいしいけれど、アップルパイの方が好きなんだ”って……」
「アップルパイ?」
 ほんとに?
 ほんとにそう言おうとしたのかな?
 となると和風のパイはやっぱり気に入らなかったんだろうか……。
 それはそれで、オレの気分を鬱々とさせた。
 やっぱり、あの言葉は単なる社交辞令って奴だったんじゃないかって……。
 オレの気分は急降下して、今やどん底。
 顔も青ざめたように冷たくて、強張っていた。
「ああ、……勘違いしないでよ。甘いものが好きってことも本当だから、あれがおいしかったっていうことは本音だからね。決して嫌じゃなかったはずだよ。嫌だったら、二つ目なんて食べないから、あいつは。あの言葉は、つい出たんだよ。いつもの癖で。……言ったろ?あいつは言いたいことはいうって。だから、あの時、言いそうになったんだよ。”アップルパイが好きだ”ってこと。だけど、それって持ってきてくれた人に悪いだろ。気に入らないって言っているのと同じだって、前に言ったことがあって。それでもなかなかきっぱり言うのは止められなかったのにさ……だけど、今回だけは言ったら駄目だって思ったんだよ。きっとそうだから……君が気にすることなんてないんだよ。ひとえにあいつの訳のわからない性格のせいだからさ」
「そう、なのかな?」
「そう」
 やけにきっぱりと言い切った橋本さんは、ゆっくりと微笑んでいた。
「心配しないでよ。決して彼は君のこと嫌ったりしていないから。君のことを気にかけているから、言葉が出なくなっているんだと……オレは思うね。でないと、あの時点でアップルパイのこと言っていると思うし。だいたい……わざわざ君と休憩取りたいって……あいつがオレに言ったんだぞ。”あの”、家城さんが一緒にいるっていうのにさ……」
 最後の言葉は妙に強調して、なおかつため息付きで……思わず笑ってしまったけど。
 でもオレは何度も何度も橋本さんの言葉を胸の中で反芻してた。
「……オレのこと……ほんとに気にしていてくれるのかな?」
 オレのこと、……ほんとに?
「だからさ……安心していいよ。今度は……アップルパイ買ってきてやったら?ああ、なんかどんな顔するのか楽しみ。あいつ……最近オレのこと振り回しているからな。楽しみー。だから買ってきてやってよ。お土産だって今回みたいに渡してみてよ」
 なんだか、どんどんご機嫌になっていく橋本さん。
「だからなっ!オレの前であいつに渡してくれよ。もう……すっごい見たいっ!」
 ぶんぶんと手を握って振り回されて。
 そんな様子見ているとこっちまでなんだか楽しくなってきた。
「……うん……今度、出かけたときにおいしいって店探して買ってくるからさ」
 って、思わず言っていた。
 そっか……アップルパイか……。
 うん、あれはオレも好きだから……えへへ、来週にでも探しに行こうっと。
 人間、目的を見つけると楽しくなれるっていうけれど、その時のオレはほんとにそうだった。
 ほんとに……さっきまで橋本さんに抱いていた感情はいったい何だったんだろう?
 あの訳のわからない感情も訳のわからないままにいなくなっていた。
 今はすっかり感謝している。
「ありがとうございますっ」
 なんてにこやかに返したら、橋本さんも笑っていた。
「……単純」
 なんて聞き捨てならない単語が聞こえたことはこの際無視して上げるよ。