【現に夢見る君】  (2)

【現に夢見る君】  (2)


【現に夢見る君】  (2)

 アップルパイ……アップルパイ……。
 その単語がぐるぐると頭の中を駆け回る。
 実のところ、アップルパイは守備範囲外。どの店がおいしいかなんて情報は頭の中にどこにもない。
 いや、ケーキっていうだけで守備範囲外だから。
 食べられればいい。おいしければいいって感じで、店を選んだこともない。
 だからいろいろと情報収集中。
 なんだけどね。
 「おいしいケーキの店」という本を買って読んでみたり、友達に聞いてみたりしたんだけど、普通のケーキはいろいろと聞くんだけど、アップルパイと限定されるとなかなか見つからないものなんだ。
 まあ、聞いた友達ってのがまた男ばっかりだったから、役に立たなかったってのもあるけれど。だいたいみんなオレと一緒で安くて大きくて、それでおいしければなお可、ってのが基本路線。食べられれば良いって奴らばかりだからなあ。
 ほんとは職場の女の子達も聞いてみようかなって思ったんだけど……。
 周りを見渡して……思わず溜息が漏れてしまった。
 なんというか……女の子のいないチームだし。
 隣のフロアのチームには、山ほどいる女性達も、こちらのフロアには一人もいなくて。
 だもんで、なかなか話し掛けることもできない。
 うーん。
 だから、頭の中を駆け回る。
 仕事をしていても、手は動いていても頭の中がアップルパイ。
 アップルパイ、アップルパイ……おいしいおいしいアップルパイ♪
 なんて……とうとうリズムまでついてしまって。
 駄目だ、こびりついてしまった。
 どうしよう。
 それに頭を悩まされることがもう一つ。
 それは橋本さん。
 橋本さんなんて、顔合わせるたびに「まだか?」って聞いてくる。
 だいたいアップルパイの件を聞いてからまだ1週間も経っていないっていうのに探し出せるわけもないだろ。
「まだですってば」
 そう言ったら橋本さんも、うーんと唸ってた。
 最初は感謝したけれど、こうもせっつかれるとオレで遊ばれているような気がする。
「何でそんなにオレを煽るんですか?」
 あんまりにもしつこいって。
 そしたら笑ってた。
「ああ、もうオレは割り切ることにしたからね」
 ってまた意味不明な事を。
 何を割り切るんだろうってきょとんとしていると、その顔が奇妙に歪んで苦笑へと変化する。
「……人の付き合い方にもいろいろあるってことだよ。だから高山の突拍子のないところも含めて、あいつのプライベートは全部里山君に任せるからね」
「はあ?」
 一体何が言いたいのか?
 何を任せられたのか検討もつかなくて、それこそ目を丸くしていたらぽんぽんと頭を叩かれて、行ってしまった。
 って……これって逃げられたのか?
 確かに高山さんってわかりにくい人だけど。
 だけど、橋本さん……。
 オレはあんたの方が判らないよ。

 結局金曜日が来たっていうのに、目的のケーキ屋すら選定できなくて、オレは少し苛立っていた。だいたい終始頭の中をアップルパイが駆けめぐる状態ってのも精神衛生上良くないって思う。
 勝手にできあがった「アップルパイを探す歌」はいつまでもいつまでも繰り返されて、すっかりこびりついている。
 ああ、もう疲れてしまって。
 それでも、頭の中からアップルパイは離れない。
 こうなると意地になってるのかもれない。
 しょうがないんで、手っ取り早くインターネットができそうな奴ってことで、啓輔に聞いてはみたものの、「無理」っていうし。
「お前、情報集めんの仕事じゃないのかよ」
 って言ってみても。
「……オレに会社でケーキ屋探せっていうのかよ。服部さんがいるんだぞ。家のパソコンは火事で電気系統がやられたときに一緒くたに壊れちゃったしな……」
 服部さんはそんなことで目くじらをたてる人じゃないんだけど。
 っていう言葉が後に続いていたけれど。
 ようするにさぼったのがばれたら、やばいお方が複数いり浸っているらしい。
 ということで、そちら方面はあえなく挫折。
「……家城さんちならパソコンあってインターネットやり放題なんだけど、調べてこようか?」
 とも言ってくれたけれど、それは丁重に断った。
 なんか、あの家城さんって聡そうだから、余計なこと勘ぐられたくないって思ってしまったから。
 やっぱこう言うとき、家で自由にインターネットできたら便利なんだろうなあ。
 今度のボーナスで買ってやろう、とは思ってはいるものの……。
 やっぱり出歩くのが好きだからそっちにお金が消えるんだろうなあ。
 だから今時のようにインターネットでデートコースの検索、なんて夢のまた夢。


「……さっきから何ぶつぶつ言ってるんだ?」
「へ?」
 って!!
 高山さんっ!!
 思わず装置にへばりついてしまった。
 だって……驚いた。いつの間に来ていたのか?全く気付かなかった。
「あ、あの」
 うわっ、声まで裏返ってる。
 そんなオレの様子に、高山さんも驚いたようで。
「ごめん」
 って、謝られても……。
「あ、いえ、こっちこそ、考え事してて……その」
「考え事?インターネットとかパソコンとか……聞こえたけど?」
 って……。
 そこまで聞こえてたって……。
 オレ、どういう声で独り言言ってたんだろ?
 装置だって動いてて結構うるさいはずの作業場。
 驚きが消えた高山さんの表情は何の感情も窺えなくて。
「あはははは……」
 しょうがないんで、笑って誤魔化す。
 さすがにアップルパイの事までは聞こえていないだろうな、とか切に願っていたりして。
 そんなオレを高山さんは訝しげに見つめ返してきた。
 ってか、何か用が合ったんだろうし。
「あ、あの、それで何か?」
「ああ、カッターマシンを使おうとしたら、君の予約が入っていたから。いつ終わるのか確認したいんだが?」
「え」
 ちょっと考えて、あああれかって思い出す。
 次の作業で使う機械、予約入れていたんだって慌てて腕時計を見て……げげっ、過ぎている。
「すみません、わざわざ。で、こっちがまだ終わりそうにないので、先に使われてもいいですけど?」
 ちらりと背後の調子の悪さ天下一品の装置を見つめながら、提案してみる。この調子だと、後30分はかかりそうだ。
「いいのか?今日の作業は大丈夫?」
「それが……この装置、今日は調子悪くって……。どうも予定通りにいきそうにないんです」
 ほんとなら、無人で動くはずのこいつ。
 今日は、離れるたびに警報が鳴り響く。
 もう、残業になるのは確実。
 はふっとため息をつきながら、オレはまたトラブりかけた装置の制御盤に向かった。
 圧力ダイヤルを微妙に動かし、設定値から外れそうになる寸前で戻す。
「何が悪いんだい?」
「え?」
 どういうことか、高山さんが背後から制御盤を覗き込んでいた。
 予約が空いたんだから、行って作業を開始するのかと思っていた。
 だけど、熱心に装置の動きを目で追っている。この装置、高山さんのチームの担当じゃないのに……判るんだろうか?
 そういえば、仕事中に高山さんに逢うのは初めてのような気がした。
 なんで電話で済む用件なのに、わざわざこんな所まで来たんだろう?
 そんな疑問も沸いたけれど。
「そうだね。随分と圧力が変動するね」
 オレが操作する様を見ていたせいか、調子の悪いところを一目で見分けて。
「……生産技術を呼んだ方がいい。これでは、製造の作業がトラブるだろう?」
 その声音は結構優しくて、オレは思わず頷いて……焦っちまった。
「え、あ……」
「君の所は、生技は何チームが担当?」
「えっと、二チームです」
「ああ」
 なんてオレが反射的に応えた言葉から、高山さんはささっとどこかに電話を始めた。
 険しい顔つきが装置の動きをじっと見ている。
 電話する声も鋭い響きがあって。さっきオレに話しかけてくれた声音とはぜんぜん違う。
「そう、圧力変動がひどい。すぐ対処しないと不良数が多すぎて不具合報告書がでる。誰か来させて欲しい」
 なんて、威圧的な声音。
 でも……その有無を言わせぬ態度は、確かにオレが見ていた高山さんとは段違いなほどに格好良い。
 そっか……これが高山さんなんだ。
 ほんと……格好いいや……。


 駆け足でやってきた人は、オレでも十分見知った人だった。
 ま、当たり前といっちゃあそうなんだけどさ。
 オレが作っている製品の生産技術担当の杉山さん。顔を知らないなんて言えば、蹴り飛ばされそうな迫力のある人だ。
 あ、でも乱暴という訳でもないんだけどな。
 ただ、元気。はっきり言ってオレより元気。
「里山君の装置だよな……」
 オレがいるのを見て取って納得したように頷いて、そして窺うように視線を隣に移す。
「で、何でお前が呼び出すんだ?」
 当たり前といえば当たり前の疑問。
 この装置は、生産技術二チームとオレが所属する製造のチーム、そして開発部の工業材料チームがよく使うものであって、高山さんなんて初めて触れる装置の筈。
 だけど、杉山さんのそんな訝しげな視線を無視して、高山さんが装置に向かって顎をしゃくる。
「それよりさっさと見てくれ。里山君が困っている」
「はいはい」
 どっちかというとおちゃらけた印象のある杉山さんが、高山さんの言うことには素直に反応するのに驚いて、オレはその様子をじっと見ていた。
 だって、杉山さん、装置に関してはやっぱりオレなんかよりエキスパートで、いっつもオレは不良状態を見せて、ちょっこっと説明するだけで、後は杉山さんが全部手配してくれていたんだけど。
「で、どこをどうしたらどうなるって?」
 何て答えにくい事柄を、なぜか高山さんがすらすらと答える。
 ってか、さっきちらっと見ただけで、オレより詳しく説明できる高山さんにオレは完璧に舌を巻いていた。
 だって、凄い。
 材料の特性や、装置の基本的なことまで知っていなければ、答えられないような説明。
 で、杉山さんまでオレに質問するときより、はるかにいろいろと突っ込んだことを聞いている。
「ははあん」
 とうとう杉山さんが、原因に思い当たったのか、頷いていた。
「結局、どうなんだ?」
「単純だな。空気圧を調節する弁の調子が悪いせいだ。もし交換しても悪かったら、工場内の元圧が変動しているのか?……それだと厄介だが……」
「何だ、単純なメンテミスか?」
 さらりと言ってのける高山さんって結構きついんだ……。それに杉山さんは苦笑混じりで答えていた。
「……そうとも言えないがな。設計ミスってことも……」
「どっちも生技の責任だな。さっさと直せ」
 ……怖い。
 そう思うほどに、高山さんの言葉と態度には容赦がなくて。
「メンテはメンテ部のほうだろ。……ああ、はいはい。高山君には敵いません」
 だけど、それを笑って返す杉山さんは余裕綽々。
 やっぱ、二人とも凄い。
 オレ、ただぼおっと二人を見つめるだけだった。
 そしたら……胸が痛くなってきた。
 ずきり……と、締め付けられるような痛み。
 これって、覚えがある。いつだっけ?つい最近にもこんな痛みを感じたような気がする。
 痛くて、思わず顔を顰めていたときだった。
「おい、30分ばかり止めて良いか?」
 なんて呼びかけられて、反射的に頷いていた。
 杉山さんがまっすぐオレを見ていて、その視線の勢いに押されたって言うか……。反論なんかできそうにない雰囲気。
 ほんと言うと、大事な30分。その分だけ、残業になるのは目に見えていて。
 ……今日は、アップルパイ買いにその辺のケーキ屋さんに行ってみようって思っていたのにな……。
 内心ため息ものだったけれど……。
「里山君、装置の修理中にカッターマシンの方を使うがいい。そちらが先になっても構わないのだろう?」
「え?」
 頭がケーキ屋にとんでいたから、最初何を言われたのか判らなかった。
「カッターマシン?」
「使うんだろう?」
 オレがぼけっとしていたら、高山さんが不思議そうに尋ねてきて。
 あ……。
「すみません、使います……。あっ、でも、高山さんが使われるのは?」
 先に使うように言ったのに……。
「オレはいつでもいいよ。君の方こそ、今の内にしてしまうといい」
「あ、はい。すみません」
 確かに今の時間をそっちの作業ができるんなら、こんなにラッキーなことはないけど。
「それに君が先に予約していたのだから」
「えっと、そうですけど……」
 だけど、一度は譲ったんだけどな。
 でも、高山さんの態度は逆らうことなど許さないって感じがあって、オレは結局そっちを先にすることにした。それに早く終われば、高山さんに替わることだってできるし。
「えっと、それじゃ急いでやってきます」
 なんて二人に断って、オレはいそいそとカッターマシンの方へと向かっていった。



 カッターマシンは巻物を巻物ごと切断する機械、なんだけど。
 で……。
 何で?
「これをカットするのか?」
「はい……」
 オレが頷くと、慣れた手際で高山さんが装置に巻物をセッティングしていく。
 それをばっさり三等分にするの今日の仕事。
 そう、オレの仕事。
 なのに。
「あの……」
「サイズは?」
 だから何で???
 オレの頭ん中は?マークだらけだったけど。
「ほら、どうするんだ?」
 ぼけっとしていると怒られるから、慌ててオレは数値をセットして。
「あの?」
「何?」
 装置が自動で動いている間、オレはようやく高山さんに声をかけることができた。
 だけど問い返されて、言葉が続かない。
 だって、変なこと質問するわけにはいかないって、そう思ったのも事実だけど。
 一番の気がかりのアップルパイのことを聞いてみるのも……なんて思ったりもしたけれど、それも変だし。やっぱりプレゼントっていうくらいなんだから、少しは驚かせて見たいって思うし。
 かと言って仕事の質問で高山さんが自分の仕事を思い出して帰ってしまったら、なんて思ったりもしたけれど。
 でも結局、仕事のことしか質問のしようがなくて。
「えっと……高山さんは何を切るんですか?」
 ああ、ばりばり仕事の話ー。
「オレはポリエチのシートなんだけど……」
 そう教えてくれた高山さん。
 ああ、試作の材料なんだ──って、オレも頷きかけたんだけど、どうも高山さんの様子が変。
 さっきまできっと背筋を伸ばして装置の動きを確認していたのに、今は自分の手を見つめ、そして、きょろきょろと辺りを窺うように見渡していた。
 それは何かを探しているようだなっては思ったけれど。
 何を探しているんだろう?
 困ったように顔を顰めて、だけどオレには何も言わない。その態度が何か変で、だけど言わないってことは探られたくないってことなんだろうけど。
 でもさ……オレって好奇心は……強いんだよなー。
 だって……ね。
 なんか聞きたかったんだもん。
「どうしたんです?」
 見上げるようにして問いかけると、オレに視線を戻した高山さんは照れたように口の端を歪めて笑ってた。
 声を立てるわけでもなく、ただその表情だけで笑っていると判る。だけど、どう見ても態度にそぐわないのがありありと判る。
 これって……なんか誤魔化しているんだよな?
 それが判るくらいにはオレも人を見る目はあると思うし。んで、この場合、誤魔化すことって言ったらそりゃあ一個しかないじゃん。
 だって……もしそうだとしたら、オレだって恥ずかしいし。
 だけど……オレって……。
 後で思いっきり後悔するだろうに、つい口について出ちゃったんだ。
「もしかして……どこかに忘れてきたんですか?」
 言っちゃマズイよ、とか思ったのは大正解。
 何となれば、高山さんの顔が一気に火を噴くかと思うほど真っ赤になったから。
「……図星だった?」
 しかもだめ押し。
 オレってバカ?
 だけど……そんな高山さんが新鮮で。ますます居心地悪げに狼狽える高山さんから視線をはずせない。
 ぼんやりした高山さんとびしばし仕事をしている高山さん。
 その二つしか知らないオレに見せてくれたその表情は、もう……思わずごくりと唾を飲み込むほどの可愛さで……。
 ……え?
 って!!
 うわぁぁっ!オレって何考えてんだよ。
 あの高山さんを可愛いって……何でっ!!
 とんでもないことを考えてしまったオレまで火を噴きそうなほど顔が熱くなる。
 格好良いならともかく、可愛いって!
 高山さんに失礼じゃないかっ!!
 ああ、オレって頭腐ってるよおっ!!
 あたふたと慌てていたオレは、とにかくこの場から離れたくて。
 あっ、そうだっ!!
「もしかして……さっきの装置の所ですよねっ!オレ取ってきますっ!!」
「え、あっ!」
「すみません。ちょっと見ててくださいっ!!」
 もう、高山さんの返事を聞く前にオレは走り出していた。
 だって、だって、だって!!
 オレ……。
 可愛いって……ほんと可愛いって思ってしまって……。
 そしたら心臓がバクバクと弾けそうに鳴り響いていて。

 オレ……逃げ出したんだ。
 ほんとに……。
 逃げ出すしか……なかった……んだ。


 抱きしめたいほど可愛い。
 そんなフレーズがあるけれど、今のオレの心境はそんな感じ。
 ほんとにあの時、そう思ってしまったんだ。
 すっきりした頬がみるみるうちにピンクになっていく様なんか、思わず見惚れてしまったほどで。
 だから……逃げ出すしかなかった。
 その……なんか自分が変だ。
 格好良いって思うなら、まだ普通だと思う。確かにテレビに出てくるようなタレントに似ていたりするし。さっき初めて見たけれど、仕事中の高山さんは確かに凄いっていう印象があったし。
 なのにさ、そんな人を可愛いなんて思うなんて。
 まあ……その……。
 珍しいものを目にしたせいだっていうことで……。
 きっとそうだよな。
 オレがからかってしまったようなものだし、それで余計に高山さんが慌てたんだと思うし。
 はああっ
 数度大きく深呼吸して、早くなっていた心臓を落ち着かせる。
 とにかく……訳の判らない事ばっかりだけど……でも仕事中だし。
 荷物、取って来なきゃ。
 少し早足で作業場に向かったら、まだ杉山さんが装置と格闘していた。
「あれ、もう帰ってきたのか?」
 慌てたように時計を見る杉山さんに首を横に振って返す。
「ここに巻物……なかったですか?」
 ポリエチの巻物って言ってたっけ。
「え、ああ、あそこにあるぞ」
 指さすところに視線を移せば、加工用の材料を置いていたところの見慣れない巻物があった。
 間違いなくそれだろうと取り上げ、ずっしりと重いそれを抱え直していると。
「それ……高山君のだろう?なんで君が取りに来るんだ?」
「え?」
 問いかけられて顔を向けたら、ばっちり視線が合ってしまった。
 不審そうに眉根を寄せてオレを見つめている杉山さんがますますそのシワを深くして。
「何で本人が来ないんだ?」
 それが責めるような口調だったんで、オレは余計に慌ててしまっていた。
 だって高山さんは悪くないし。オレが取りに行くって飛び出してしまったんだから。
「あ、あの……向こうでも高山さんに世話になったし……その、ちょっと手が空いて、ついでだから」
 そう、ついでなんだ。
 というように、そこに置いていた指図書のファイルもついでに取り上げて……って重いっ!
 指先で持ち上げようとしたクリアファイルは、堪えきれなかった指から滑って床下に落ちてしまった。
「げっ」
 しかも、挟んでいただけの中身が散乱してしまう。
 何やってんだろ、オレ。
 持ち上げた巻物を元に戻して慌てて拾い集めていると杉山さんもくすくす笑いながら手伝ってくれた。
 恥ずかしいったらありやしない。
 もう顔が熱くて堪らない。
「高山くんが手伝っているのか……珍しいこともあるものだな」
 面白そうに笑いながら、拾った書類をはいっと渡された。
「珍しい、ですか?」
 でも、高山さんっていっつも親切だけどなあ。
「珍しい。あいつは自分の事は自分でしろ、タイプだから」
「そうなんだ?」
 オレは不思議そうに首を傾げていた。
 だって、そんなふうには見えないし。
「珍しい。だいたい自分の担当の装置でもないのに、何であいつが電話してきたのかオレはずっと不思議だっんだ。これはもう天変地異でも起きるかも知れないぞ」
 とんでもないことを真面目な顔して言われても。
 オレは、ただへらっと笑うくらいしかできなくて。
 そんなオレを杉山さんはじっと見つめていた。
 腕組みをして見下ろされるとひどく威圧感があって、オレはひくりと顔を引きつらせていた。
 杉山さんってば、滅多に見ない真剣な表情が怖いです……。
 オレにとっては、杉山さんがそんな顔をしていることの方が天変地異の前触れかって思ってしまうんだけど、さすがにさっき墓穴を掘る発言をしたばかりだから、口は堅く閉じさせて貰っている。
 だから杉山さんは一人納得したように頷いていて。
「天変地異よりもっと大変なことが起きているのかも知れないな。……もしかして……あいつ実践しようとしているんじゃないだろうな……」
「実践?」
 何なんだ?
 またまた訳の判らないことを。
 橋本さんと言い杉山さんと言い……もしかして頭のいい人ってのは、訳の判らないことをいうものなんたろうか?ってそれを言ったら高山さんもだけど……あの人は根本的に判りにくいけど、だけど変なことは言わないよな?
 エリートにはついていけないや。
 などという結論に達して満足していたオレの頭。
 だけど、次の杉山さんの台詞はもっと理解不能で。
「時に里山くんは、男同士ってのどう思う?」
「はあ?男同士ぃ?」
 それは一体どういうことかと見上げれば、浮かんでいる表情はもう一言で言えば興味津々。好奇心の塊のような目つきがオレを見つめている。
「そ、男同士」
「……だから、男同士って男ばかりってことですよね。それが何か?」
 男ばっかりで何かすると言うことなんだろうか?
 んと……スポーツは……男ばっかりって普通だよな。
 宴会で男ばっかり……は寂しいものがあるんだよなあ……。
 なんていろいろと思い浮かべていると、思いっきり溜息を吐かれた。
「違う違う」
 って目前で手を振られて。
「何が違うんです?」
 オレ、幾分ムッとして杉山さんを睨み返した。
 だって、訳の判らないことを言っているのはそっちじゃんか。
「だからさ、男同士でセックスするってこと」
「……」
 ………
 ……………
 ……………………
 オレ……頭が真っ白になった……。
 っていうか、処理能力を超えたって言うか。
 何でこの人は作業場でそんな話をするんだろうって思って。
「……おーい、戻ってこーい」
 脳天気に目前で手を振っていた杉山さんを認識して。
 途端にぼんっと顔から火が噴いた。
 も、比喩じゃなくてマジでそう思った位、顔が熱いっ!
「せ、せ、セックスって!何言うんですかっ!!」
 それでも押し殺した声で叫んだのは、まだ理性が残っていたんだよな。
 んなこと大声で言ってた日には、セクハラで速攻解雇だ。
 その時は、杉山さんも道連れだっ。
 ってパニクッている割にはそんなことを冷静に考えていたりして。
「突然何を言い出すのかと思えば……そんなこと……」
 セックスなんて……セックスなんて……男同士だろうが何だろうが、こんな事で言う言葉じゃない……んっ?
 男同士??
 男同士……ってさ、つまりは啓輔達みたいに??
 あの時……の啓輔の声……。
 次の日、啓輔の照れたような恥ずかしそうな態度は隠していても判って……
 それを思い出してしまって、どきりと心臓が跳ねて。
 あわわっ
 オレ焦って、どうしようって慌てたときだった。
 不意にさっきの高山さんの顔が思い浮かんで。
 ついでに高山さんとなら……って?
 えっ!!
 どくんっ!
 心臓が跳ねた。
 途端にかあああっと全身の血が沸騰して、暴発した熱が全身を駆けめぐる。
 それは立っていられなくなるほどの熱で。
 な、何、これっ??
 

「おい、大丈夫か?」
 杉山さんの声が遙か彼方から聞こえていた。


「ごめんごめん……。里山くんってば純情なんだよなあ。そこまでショックを受けるとは思わなかったよ」
 杉山さんの苦笑の浮かんだ顔が目前で揺れる。いや、これはもう笑われていると言った方が正しい。
 だけどそれに反論する元気もない状態が、今まさにそう。オレってばその場にぺたりと座り込んでしまっていた。
 ばくばくと激しく動悸をうつ心臓に翻弄され、自らをコントロールすることができないほどの衝撃のせいで手足に力が入らない。
 一体自分は何を考えたのか?
 あまりの衝撃に頭ん中が真っ白になって、なんでこうなったのかもあやふやだ。
 だけど、さっきの頭の中を読まれたら、純情どころでないってこと位は自分でも判る。
 もっとも笑われながら純情だって言われても喜べるのではなくて。
「……純情……って訳じゃ……」
 先程の妄想を別にしても、オレだって一応、健全な男なだから、エロビデオだって見るし女の子とそんなことしたいなあって思ったりもする。
 もっとも幸か不幸か?今までそんなことは一度もなかったけどさ。
「だって、セックスって言っただけでそんなに真っ赤になるなんてさ」
 そういう杉山さんはなんだかとっても楽しそうだ。
 好奇に満ちた視線をオレに送ってくるものだから、ついオレは目を逸らす。ところがそれがまた、杉山さんの言葉を肯定したみたいに見えたらしくて。
「それを純情って言わずしてなんと言う?」
 ときたものだ。
「……予想もつかない場所で言われたら、誰だって狼狽えますって。それに、今気がつきましたけど、何なんですか、男同士っての……いったい、何がどうなってそんな発想が出るんです?」
 実のところ、しっかりと男同士を連想したせいで、今の状況に陥ったなんて口が裂けても言えない。だから誤魔化すように言ってみた台詞に、杉山さんは引っかかってくれた。
「ちょっと聞いてみただけ。でもほんと、そこまで動揺するとは思わなかった。たかが、セックスっていう単語だけでさ。もう真っ赤になって」
 また思い出したのか、けらけらと声を出して笑い始めた杉山さんを睨み付けては見るものの、羞恥に目元まで赤くなった視線では一向にききやしない。
 さすがにそこまで笑われては、オレだって怒るよ杉山さん。
 全く、どうしてやろうか
「高山くんも……純情って単語が似合わない奴だけど……でも意外にも純情だよなあれで。まあ、大丈夫か」
 聞こえるか聞こえないかという位に小さな杉山さんの声だったのにオレの耳はなぜか反応してしまって。
「何?」
 だが、オレの疑問符付きの問いかけに、さっと杉山さんが顔を強張らせた。
「高山さんがどうかしたんですか?」
 訝しげに尋ねながら、だけどオレの心臓はきゅうっと引き絞られるような痛みを感じていた。
 だって、高山さんにはセックスしたい相手がいるけど、手が出せない……っていう解釈が頭の中に組み上がってしまっているんだけど……。
「あ……違う違う。全く別個の話で、気にする必要なしっ!」
 あはは、と笑うその様子がどう見てもわざとらしい。その姿がオレをますます不安にさせる。
「別個?でも今の話の流れだと」
「いや、……違うって。……あのさあ、あの真面目で朴念仁な高山くんに相手なんかいると思う?興味のあることには突っ走るけど、こと人付き合いときたら興味が無いって言うか融通がきかないっていうか……。だからさ、あいつとセックスなんて言葉が結びつくもんじゃないだろ……て話。だいたい相手からコナかけてもらわないと一生独身ってタイプじゃないか、あいつは?」
「うっ」
 その言葉に思わず頷きかけてしまった。
 思わず口ごもるオレに杉山さんはしたり顔で頷き返す。
「とまあ、そういう訳で。……ところで、それ、持っていくんじゃなかったのか?」
 指さされた巻物に視線を移して、はっと我に返る。
「あ、待たせているんだ」
 オレ、慌ててそれを持ち上げた。
 ぼけっとしていた頭が仕事モードになる。
 誤魔化されたような気がする、とは思ったけれど、高山さんを待たせているという方が気になって、オレは速攻でカッターマシンのところに戻ることにした。


 だけど。
 急いで戻った装置のある場所に高山さんはいなかった。
 動いていたカッターマシンは今は停止している。
 なんだ、いないのか……。
 オレは落胆の色を隠さずに、装置へと近づいた。
 動きを止めた装置から切断された巻物が取り除かれ、新しい巻物が取り付けられている。きっと高山さんがそこまではしてくれたんだろう。
 ただ設定が判らないから、そのまま待っていたんだろうとは思うけれど……。
 思わずきょろきょろとフロア中を見渡していた。だけど、目に入る範囲にはどこにもいない。
「どこ……に?」
 呟いて、その判りきった問いをしてしまった自分に自嘲してしまう。
 きっと仕事の都合で戻らなければならなくなったんだろうとは判っている。ミーティングや来客や、それこそ試作まで──こんなところでオレなんかを手伝っている暇なんて無いはずなんだ。
 だけど頭が理解するのと感情は別ものだ。
 オレはふうっと小さく吐息を吐くと、方を落とした。
 こういうのを寂寥感っていうのかな。
 人気の少ないフロアのせいだけとは言えない寂しさが込みあげてくる。
 オレはすっかりやる気をなくした男となりはてて、持ってきた巻物を傷つかないようにそっと傍らの台の上に置いた。
 オレなんかを構っていたせいで、これをカットすることできなかったんだ。
 その幾重にも巻かれた半透明のシート。その艶やかな巻物にオレの顔が歪んで写っていた。
 その顔がまだ赤いような気がして、振り払うように大きく頭を振る。
 思い出すと、まだまだ顔がふわっと上気する。
 だけどまだ……仕事中だから。
 さっきから仕事とは全然違うことばっかり考えて翻弄していたけど、そんな場合では無いはずだ。
 早くこの材料をすべてカットしないと、高山さんや、次の予約の人達に迷惑がかかる。それに、杉山さんに直して貰った装置で残った仕事もやってしまわないと。
 すうっと熱が冷めたように頭が仕事の事だけを考える。
 と言っても、片隅にはまだ浮ついた熱が残っていて、ここに高山さんがいないと訴えてきてはいたんだけど。
 だけど、オレはすうっと大きく息を吸って、そしてその残っていた熱をすべてはき出した。
 仕事しよう
 時計を見て、時間を計る。
 残業は最小限に留めたいからも一番効率の良い作業手順で作業を再開しなきゃいけないんだ。
 高山さんがいなくてよかったのかも知れない。
 だってオレ、ようやく浮ついた心を落ち着かせることができたのだから。



 山積みされるカットされた巻物の山。
 なんとか予定通り終わりそうだ、と思うくらいに順調にそれはできあがっていく。
 だって雑多なことを考えていたら、高山さんのこととか杉山さんのあの言葉を思い出しそうになって。
 何度も何度も高山さんのこと頭の中から追い出して。
 だけど、どうしてもちらつく。
 そして、ふっと何かの拍子に高山さんの材料であるあのポリエチの巻物を目にした途端、頭はまた高山さん一色になってしまった。
 考えてみれば先週末に出会ってから一週間。ずっと高山さんのことばっかりで過ごしてきたような気がする。
 ひどく、気になってしようがない人だって思って。
 出会いは最悪。
 思い出しても赤面ものの醜態を晒して──ほんとなら逢いたくないって思うのが普通じゃないか?
 なのに……。
 蓋を開ければ逢いたくて、話がしたくて……何か物をあげたいって無性に思えるほどに高山さんのことが気になる。
 もしかしなくて……。
 もしかしなくてもさ……これって。
 ピピッ
 装置が作業を終了したことを知らせてくれたのに、オレはぼおっと目の前の巻物を見つめていた。
 もし……高山さんが女の人だったら。
 たぶん、それかキーワードなんだって……。
 ……。
 ようやくそのことに思い当たった自分に、オレは愕然とするしかなかった。
 だけど、一度その思いに捕らわれたら、他に思いつくことなんてなくて。
 結局、オレはそれに納得するしかなかった。
 ……きっと、それは間違いない……。
 オレ、高山さんのことがいつの間にか好きになっていたのかも知れない。
 さすがに、こんな状態になればオレも気が付くってもんで……っていうか鈍いって自分でも思うけれど……。
 だってさ、普通そんな感情だなんて思わないじゃないか……。
 どう見たって高山さんは……男だし……。
 オレも男だし……。
 これって……やっぱ憧れってのとは、ちょっと違うような気がするし……。確かに仕事をしている高山さんは格好良いとは思うけど、第一印象は”ぼおっとしている男”てのだしさ。
 なのに……気になる。それに……だって……認めたくないけど……。
 なんていうか……さっき目にした高山さんの赤くなった顔を思い出すと……疼くんだよお……あそこが……。
 畜生っ!!
 杉山さんのバカっ!!
 杉山さんが変なこと言うから、思い出しちゃって意識しちゃうじゃないかよっ。
 うるうる……って、もう……
 ……。
 ああっ、頭抱えて蹲りたい気分。
 これって、どう考えたってさ、純粋な憧れってのからは遠い存在じゃないか。
 だからだったんだ。
 高山さんのこと考えると、どきどきするし。
 いないことに寂しいと思えて。
 気になって気になってしようがないのは。
 
 はあああああ……
 盛大な溜息が漏れてしまう。
 じっとしているとどんどん不毛な方に頭が行ってしまうような気がして。
 オレは、もう必死になってとにかく目の前の仕事に意識を向けた。
 だって、これでは一向に今日の仕事が終わらない。
 とにもかくにも、今日の仕事さえ終われば明日からは休みなんだから幾らでもゆっくり考えられる。
 だからとにかく仕事のことだけに集中することにした。
 幸いにも、あまりにも激しく精神に受けた衝撃のせいでどこか麻痺してしまった頭は意外にもすんなりと仕事モードに移れて。
 お陰で今のところ失敗もないから、全数が合格品として次工程に回せるだろう。
 最後の巻物が無事カットし終わると、オレはホッとして肩から力を抜いた。
 台車に山積みになった巻物を倉庫に入れてしまえば、オレの作業は終わり。
 腕を上げて時計を見ると、予約して取っていた時間はまだ余っている。
 高山さん……来ないのかな?
 逢いたいって、未だに思っている俺の心。
 自覚したばかりの恋心ってのは……みんなこんな気分を味わうんだろうか?
 あの啓輔もこんな気分味わったのだろうか?
 楽しいはずの恋心って奴が、とにかく切ないとしか思えない。
 不毛……だよな。
 思わず浮かぶ自嘲めいた笑みは、それが成就する筈もないと判っているから。
 啓輔達みたいに成就する確立って、すっごく低いって思うもん。
 ふっと視線を高山さんが切るはずの巻物へと向けて。
 切って上げたいって思うけれど、オレはポリエチのシートなんか切ったことない。
 下手なことしたら、材料全量ロスってこともあり得るし。
 電話して……呼び出して。
 開発の人はほとんど全員PHS持ち歩いているから、連絡は取れるだろう。
 そしたら、話ができる。
 もしかすると逢えるかも。
 それを期待して、壁にかかっている内線電話へ足を向けた。
 と。
 その高山さんが小走りでくるのをみつけてしまった。
 途端に嬉しくなって顔がほころぶ。
 でも、それも変かなって思って慌てて口元を引き締めて。
 少し顔が熱くなりかけたのまでは止められなかったけど、それは平気なフリをすることにする。
「……ごめん、……その、呼び出されて」
 どうして謝るのか?
 そんなふうに思うほどに、高山さんは申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ……オレのほうこそ見て貰っていたのに……あ、で、空いたんですけど」
「ああ、ありがとう」
 オレを見ていた目を、装置へと走らせて、その場にあった巻物を見つけたのだろう。にこりと微笑んだ。
 ああ、可愛い。
 って……やっぱ頭がどうかしてるんだよな……これって。
「ありがとう、重かっだろう?」
「いえ、そんなには」
 持ちにくかったけどさ。
「そう?里山くんって力強そうだよな。いつもあんな材料一人で扱っているんだから」
 そう言って台車で山になっている巻物を指さした。
「でもコツを掴んだらそうでもないですよ」
「そうかい?最初に取り付けるのを見ていたときはそんなに重そうには見えなかったけれど、持ってみたら結構重くて驚いたよ」
 その顔に自嘲めいた笑みが浮かぶのをオレはじっと見つめていた。
 確かに、そうかもしれないなって思ったけれど。肯定するのも嫌みのような気がして。
 高山さんって事務仕事の方が多いんだろうな。
 荷物に伸ばしたせいで作業着から覗いた手首なんかひどく華奢そうに見える。
「あ、手伝います」
 だけど首を振られてしまった。
 その視線が少しきつくて、オレの手が寸前で止まってしまう。
「そろそろ杉山さんの方も直っているんじゃないのか?そっちの方に行かないと」
 口調まで少し強く言われて、オレはたじろいだ。
 そりゃ、確かに言われたとおりなんだけど。
 でも……。
 オレが立ち竦んでいると、高山さんの顔が途端に歪んだ。
 もう何度か見たことのある、悔いを窺わせる表情。
 オレから視線を逸らして黙って装置に向かおうとした高山さんの巻物に手を添える。
「さっき電話したら、もう少しって言われたんです」
 咄嗟に口からでまかせが飛び出していた。
「え、だけど」
 不思議そうに首を傾げる高山さんをおいてオレはその手にあった巻物を取り上げた。
 だって、確かに高山さんには重そうだったから。それにオレの方が装置自体には馴れている。手際だって二人でする方が早いんだし。
 オレはそう言って嘘をついた自分を納得させていた。
 だけどその作業もあっというまで、もうオレができることは何もなかった。
 後は高山さんが設定して、動かしたら終わり。
 さすがにもうここにはいられない。
 だって変だ。することもなくここにぼおっとしているなんて。こんなところ見つかったら先輩達に怒られてしまう。
「それじゃ」
 後ろ髪を引かれるってこういうことなんだ……と台車を押すために手をやる。
「あ……ありがとう……」
 躊躇うような高山さんの声が背後からして、オレは視線を向けて笑おうとした。
 それは強張ったけれど、ちゃんとできたと思う。っていうか、何で自然に笑えないのかが不思議で。
 だけど、高山さんはそんなオレには気付かなかった。
 腕組みをして親の敵かとでも言うように動く装置を睨み付けていて。
 なんか……不都合でもあったんだろうか?
 設置にまずったかも……。
 嫌な感じがして、内心焦っているとようやく高山さんが口を開いた。
「里山くん……て、映画見る?」
「え?」
「……今日……オールナイトしているらしいんだけど……そのSFの……。興味合ったら一緒に行かないか?」
「えっ!」
 こ、これってこれってもしかしなくてもっ!
「あ、興味なかったらいいんだけど……どうかな?」
 少し赤くなった高山さんがじっと装置を見つめたままで。きっとオレがとんでもなく驚いてるのにも気付いていない。
 だけどだけど。
「あ、あの、その映画見たいと思ってるけど、でも……何で?」
 とりあえず疑問が先に立って。
「……えっ、と……なんか里山くんと行きたいって思っただけなんだけど……駄目かな?」
 すうっとオレに視線を向けて、そんな窺うように言われて。
 途端に高鳴る心臓がうるさいくらいで、まともに考えられない。
 そんなオレが嫌だと言えるわけもなくて。
「行きますっ!」
 オレ、激しくなった動悸につられるように叫んでいた。


 ひどく幸せな気分に包まれて台車を押して歩く。
「何、にやにやしてんだよ」
 って、崎野さんに頭を叩かれたけど、なんか気になんなくて、へらっと笑って返したら気持ち悪がれた。
 だってさ、高山さんから誘ってくれたんだもん。
 橋本さんや杉山さんの話を聞いている限りでは、そういうことと縁がなさそうな高山さん。
 なのに、あんなふうに赤くなりながらオレのこと誘ってくれるなんて……。
 恋に浮かれた頭が自分のいいようにすべてを解釈しているって判っているんだけど……。
……もしかしなくても……高山さんもオレのこと……って思うんだけど……。
 これって自惚れだろうか?



『夕方から会議があるから……もしかすると遅れるかもしれない。君の方が先に終わったら、食堂で待っていてくれないか?』
 そう言われたから、オレずっと食堂で待っていた。
 装置がトラブった分少し残業にはなったけれど、そんなにも遅くはならなかったら。
 仕事が終わったことを伝えようと思って、PHSに電話したら「会議中だ」と素っ気なく言われた。
 そんなことでちょっとブルーな気分になってしまう。
 まあ、会議中だったら私用の電話なんてする暇ないとは思うけど。その声音があんまりにも冷たくて、浮かれた気分に水を差してくれた。
 はあああ
 確かに誘われたときには嬉しかったけれど、よっく考えたらまだ自分の気持ちも整理できてないのにさ。オレ、冷静に一緒にいられるんだろうか?
 好きだ……なんてバレた日には、いっぺんで嫌われるかもしれないし。
 嫌われるくらいなら、ずっと黙っていなきゃいけなんいだよな。
 それはそれで苦しいかも……。
 そんなこと考えてる間にも時間は刻々と過ぎていく。
 どこかのチームが飲み会でもするのか、ひとところに集まっていた人達が賑やかだったけれど、時間がきたのかその人達もいなくなって。
 あの人達、開発の人達だったよな。
 でも高山さんとは違うチームなんだろうな。
 つきあうことへの不安はあるけれど、それでもオレはやっぱり期待に胸膨らませて何度も何度も食堂の入り口を見やっていた。
 それも最初のうちだけ。
 だけどいつまで経っても高山さんは来ない。
 入れ替わり立ち替わり人はやってくるけれど、規定の休憩時間を過ぎるとみんな立ち去ってしまう。
「まだ帰らないのか?」
 友人達に時折話しかけられ、首を横に振って答える。
「待ち合わせ」
 そう言って笑って返すのもだんだん苦痛になってきていた。
 やることがないから、頭の中ではいろんなこと考えてしまう。
 オレと映画が見たい、と言った高山さんの真意をいろいろと考えてしまう。
 それに橋本さんがオレに言った言葉と杉山さんが言った意味不明の言葉。
 いや……もうそれは明らかに意味を持っている。
 その詳しい所までは覚えていないけれど、あの二人は何かを知っているような気がした。
 それもひどく気になって。
 オレは、コーヒーをほんの少し口内に流し込んだ。
 最初に自販機で買った紙コップ入りのコーヒーは、もうすっかり冷たくなっていた。
 それを両手に包み込むようにして時折かき混ぜるように液面を揺らす。
 もう窓の外は真っ暗。
 コーヒーも真っ暗。
 オレの心の片隅にもなぜか真っ暗なものが漂っている。
 オレ……本当はどうしたいんだろう?
 高山さんは……いったい何を考えているんだろう?
 だいたいオレがそうだからと言って、高山さんもそうだとは限らない。
 いろいろ考えても、行き着く先は結局それ。
 友達って線も考えてみたけれど、気がついたらあんなことやこんなこともしたいって、人に聞かれたら赤面もののことを考えていた。
 オレって……こんなに性欲直結型だったのだろうか?
 そりゃ、ナイスバディな女性の裸の写真を見たりしたら……まあ、うずうずと疼かせるくらいには元気な股間を持っているのは間違いないけどさ。まさか、そいつが男にも反応するとは思わなかった。
 よりによって、それが開発の高山さん。
 いったい何が原因でこんなことになったのか……。
 原因……。
 はああああ。
 思い当たることは一つ。
 高山さんに逢ったのが、啓輔達のことを知ってしまった後の二日酔いの時だったってこと。
 きっと頭ん中の回路が酒の飲み過ぎとショッキングな事実でトチ狂ってたんだろうなって……。
 だから……もしかすると、このまんまそおっとしておけば、回路が戻って元に戻るかもしれないし。
 てことは、今日なんて映画一緒に行かない方が良いかもしれないってことだよな。
「……断ろうか……」
 ぽつりと勝手に口をついて出た言葉。
 だけどそれを否定する気分にはなれなかった。
 だってやっぱり高山さんに欲情している自分が異常だっていう気になるし。
 でも。
 はああああ。
 また漏れるため息に頭を抱える。
 だって、そんなことを考えてもオレの尻は椅子に吸い付いたままなんだ。
 電話する気にも、勝手に帰ってしまう気にもなれないのも事実。
 そう。
 オレは結局どっちつかずの心を抱えたまま、ずっと食堂の椅子に座り続けていた。

 ガタッ
 椅子が動く音とテーブルが揺れる振動にオレはびくりと体を震わせて伏せていた目を上げる。
 だけど、目の前に座った人は待ち人ではなくて、しかも二人いた。
「よお」
「……」
 苦笑混じりで挨拶する杉山さんと困ったように眉を顰めている橋本さん。
 たぶん……オレ以上にオレのこと気付いていた人達。
 だからあんな言動をして、煽ってくれた。
「休憩、ですか?」
 今は話をしたくなかったけれど、さりとて根をはったように動かないオレの体。逃げることもままならない。
「まあね。それと様子見も兼ねて」
 ニヤリと口の端を浮かべてイヤラシく嗤う杉山さんを橋本さんが肘でつついているのが見える。
 そんな様子を見るだけで、二人が何を言いに来たのか判ってしまう。っていうか、今のオレ、なんだかとっても冴えている。
 この冴えが今週初めからあったなら、今頃こんなに悩まなくても良かったかもしれないし、この二人にからかわれることも無かったかもしれない。
 だけど実際には、今のていたらくだ。
「……高山くんとデートなんだろ?」
 オレが黙りこくっていたら、杉山さんの方が焦れたように問いかけてきた。
 デートって言葉に、体がびくんと揺れる。
 何か来るだろうとは思っていたけれど、実際に来た言葉があまりに単刀直入な言葉だったせいで、体が止められなかったのだ。しかも、咄嗟のことに否定すべき言葉も出てこない。
 オレのあまりにもわかりやすい反応に、杉山さんには思いっきり笑われるかと思ったけれど、その口元に浮かんだのは僅かな笑みだけだった。
「……デートって訳じゃないです。映画に行くだけ」
 ようやく言葉を紡いで、二人から視線を逸らす。
 デートなんて言葉。
 今のオレ達には似合わない。
 だってそういうのって、相思相愛な場合に使うものじゃん。
「でもさ、言い出しっぺは高山くんの方だろ?」
 それを聞いた途端浮かんだ疑問にオレは視線を戻した。
「何で知っているんです?」
 オレ、そんなに高山さんのこと知らないけれど、だけどそういうのを平気で言いふらすような人には見えない。だから杉山さんがそのことを知っているって言う方が不思議で。
「……オレが映画にでも誘ったら……って言ったから」
 だけど答えたのは橋本さん。
「え?」
 オレはその内容に唖然としてしまう。
 えっと……じゃあ、この映画って案は橋本さんってこと?
 でも……何で?
「高山に相談されて……。あいつも随分とせっぱ詰まっている感じでね。里山くんと話がしたいんだけど、仕事中だと思うようにならないって……言われてさ。ほら、前にあの映画が見たいって更衣室で話をしただろう?それで教えてみたんだ。……まさか、その直後に誘ったとは思わなかったけど……」
 苦笑いが浮かぶ口元をオレはじっと見つめていた。
 じゃあ、あの時いなかったのはそれを橋本さんに聞きに行ったせい?
 それがまた……聞いていた高山さんの像からは外れていて。
 でも、そっか。それで……なんだ。
 橋本さんから聞いて……。
 それであの映画。
 趣味が合うのかと思ったけれど……違うのか……。
「珍しいこともあるもんだよなあって、オレが今日の高山くんの様子を橋本くんに教えてね。それで映画の話を聞いて……。そしたらさ、君ずっとここで待ってるんだよな。そんな人待ち顔で」
「……もしかしてカマかけたんだ?」
 デートって言葉に引っかかってしまったオレもオレだけど。
「ところで……さっきデートじゃないって言ったときの落胆した顔。……もしかして自覚した?」
 気の毒そうな橋本さんの表情をオレはぼんやりと見返して。
 今更否定する気にもなれなくて頷いていた。
 だって、橋本さんは最初から知っていた。
 オレが気付くよりはるかに前に。
「今日……杉山さんが変なこと聞いてきたもんだから……」
 男同士のセックスなんて言葉。
 あれがなければ、自分の体も反応しなかったろうし、だったら気付くのはもっと遅れていてもおかしくない。
「なんだ、やっぱりあの時そっち系を考えて赤くなっていたのか……。純情そうに反応してから」
 ぶつぶつ言ってる杉山さんに返す言葉もなくて、ついでに無視してしまう。
 オレはじっと橋本さんを見つめていた。
「高山さん……何でオレを誘ってくれたんですか?」
 話がしたいって……何を話がしたいって言うんだろう?
「……それは高山から直接聞いた方が良いよ」
 ちょっと逡巡した橋本さんが返してきた言葉にオレは「そうですか」とだけ呟いた。
 確かに正論はそうかもしれない。だけどさ、普通じゃない状態のオレにとって今はとにかく……不安なんだ。
 今の心境って女性相手なら恋だって思えるけれど。
 やっぱり、変だよな、オレ。
 あのシチュエーションで男相手に恋に陥るなんてさ。
 仕事中の高山さんと出会ったのが最初なら、それも考えられるかなって思うけれど。
「なんだか不安そうだね」
 その言葉にオレはただ頷いていた。
 この人なら、今のオレの心境話したら、いい解説をしてくれそうな気がして。ちょっと隣のお邪魔虫が気になるところではあるけれど。
 とかにく今は自分の気持ちを整理したくて、それこそ藁にでも縋り付きたい気分だった。
 だけど。
「おい、来たぞ」
 誰よりも早く気付いた杉山さんに、オレ達は揃って視線を出入り口に向けた。
 途端にどきりと心臓が跳ねる。
 そこには息せき切って駆けてきた高山さんの姿があった。


「ごめん、会議が長引いて」
 慌てたように駆けてきた高山さんなんだけど、オレ達が座っているテーブルの寸前で足を止め、一緒にいた二人に気付いて訝しげに眉を寄せる。
 いや、そのあからさまに嫌そうな表情は、さすがのオレも気付いた。
 解読すれば、『なんでお前らがここにいるんだ?』ってのがふさわしいかな。
 一瞬、三人の間で火花が散ったような気がして首を竦める。
 だけど、まず橋本さんが戦線を離脱した。控えめな音をさせて立ち上がった橋本さんは、僅かに口元に笑みを浮かべて、静かな声音で何かを囁いていた。
 その内容をオレに気取られたくないのか、低い抑えた声音は聞き取れない。
 だけど橋本さんの視線が、ちらっとオレに向けられて──何かの合図のようにその口元が歪められたのが判った。その表情の変化に高山さんは気付いていなかったみたいで、橋本さんに「ありがとう」といっているのか聞こえた。
 何が「ありがとう」なのか?
 その前が聞こえなかったから判らなかったけれど。
 だけど高山さんのほっとしたように綻んだ顔に、オレもほっとする。
 なのにさ。
 一テンポ遅れて立ち上がった杉山さんときたら。そのまま立ち去るのかと思ったら、オレに顔を近づけてきた。
 嫌な予感がして、咄嗟に体を後に傾けたオレの耳元に難無く追いついて。
「お前が押し倒さないと、先には進めないぞ。健闘を祈るわ」
 早口でそれだけ言って
 な、何が押し倒すってっ!!
 さすがにそれが仕事中のセックス云々と結びつくくらいには、オレの頭はまだ冴えていた。
 いらんことをっ!!何が、健闘だよっ!
 抑えきれない熱が血液に乗って体内を駆けめぐりそうになる。どう足掻いても赤くなりつつあるオレの顔。

 ぎりっと奥歯を噛みしめようとしたオレは、だけど高山さんの表情を見た途端、ひくりと引きつった。
 だって、高山さん……思いっきり杉山さんのこと睨んでいるんだ。
 そのきつい表情に、オレの熱も幸か不幸かなんとか落ち着いて。
 良かったって思って良いのだろうか?
 ほっと一息吐きそうになったオレは、高山さんの言葉にまたまたひきつるハメになった。
「……杉山さん、何か言ったのか?」
 無意識の内に低くなっている声音に睨むような表情。
 怖いです、高山さんっ!その表情のまま問われても。
「……別にたいしたことは」
 本当のことが言えない……。というか言える訳ないっ!!
「そう?」
 イスに腰掛けながら、訝しげに杉山さんの後ろ姿を見遣る。
 一体何が気になるというのだろうか?
 いや、オレよりつきあいが長いから、杉山さんがどんなことを言ったのか気になったのだとは判るけれど。
 しばらくしてからようやくと言った感じで視線を戻した高山さんからは、さきほどの固い表情は消え失せていた。それにほっとする。
 やっぱりこの方がいいや。すごく柔らかな笑みを浮かべるんだもん。
「とりあえず、一回車を置きに帰って……それから街中に出ようか?食事はどうする?」
「え、あ……どこか……でも映画の時間は?」
「今から帰って行くとなると、時間が苦しいから……一つ遅らせて先に食事しようか?」
「あ、はい」
 時計だけを見て僅かに首を傾げる高山さんの頭の中には上映開始の時間が入っているのだろう。よどみのない口調に、オレは頷くしかなかった。
「じゃあ……里山君の車を置いて、それからオレの車で出ようか。帰るときに後についていくけど、だいたいの場所を教えてくれる?」
「はい」
 なんて言うのか?
 やることにそつがないっていうか、手際がいいっていうか……やっぱこれが高山さんなんだって。
 オレがあのスーパーを基点にして説明すると、すぐに頷きが返ってきた。
「オレのところから結構近いね」
 言った途端に立ち上がる。
 オレもつれるように立ち上がって。
 どうしよう。
 やっぱりオレ、高山さんのこと好きだ。
 勘違いとか、頭の中の回路が狂ってるとか……そんな理由なんてどうでもいい。
 だって、オレ嬉しい。高山さんにこんなふうに話し掛けられるだけで、嬉しくて仕方がなくて顔がほころんでくる。
 ……やっぱりオレ、高山さんが好きになっちゃってるんだ。



 車を自宅において、高山さんに拾って貰って映画館近くの駐車場に向かう。
 困った……話すことがない。
 もともと高山さんってあんまり話をしない人なのかな?
 ずっと黙って運転していて、なんか邪魔したら悪いようなそんな雰囲気があって声がかけずらい。
 車の中では、ラジオの番組だけか流れていて。
 これって……会社の人間が見たら不思議な光景だろうなあ。もし崎野さん達とかが見てたら、驚くに違いない。
 それほど妙な取り合わせだって言う自覚はある。
「やっぱり間に合わなかったか」
 ようやく高山さんの声が聞けたのは、駐車場で車を止めたときだった。
 うーん、実に15分間、無言でここまで来てしまったよお。
「……次は何時からなんですか?」
「えっと……10時になるね」
……それってまるまる上映時間分。後2時間30分もあるわけで。食事だけでは間が持たないような気がするんだけど……。
 でもまさかずっとここにいるわけにもいかない。
「食事、行こうか?」
「はい」
 そう言い合って車から外に出た。


 近くのレストランで食事している時に気付いたこと。
 高山さんって小食。
 普通のメニューだと、最後の方が苦しそう。それこそ、レディスセットなんかでもOKって言えそうなんだよな。
 それに好みってのもあんまりないみたいで、メニューを一瞥しただけで無造作に決めていた。
 日替わり定食。
 ……だって、入るときに今日のメニューとか確認していなかったよなあ。説明も受けていないし。
 オレなんかより早いペースで食べている高山さん。もしかすると食事自体に楽しみって感じていないのかもしれない。
 このレストランに決めたのもオレ。
 高山さんはどうやらどこがいいのか判らなくて、オレにばっかり「どこがいい?」って聞いてきたから。
 あんまり外で食事をしない人なんだろうか?
 それにさ、食べているときも無言で、表情が変わらない。
 ふっと、お菓子を一緒に食べたときの高山さんの様子を思い出した。
 あの時も無表情だったっけ。
「高山さん?」
 問いかけると、水で流し込むようにご飯をごくりと飲み込んだ高山さんが無言で顔を上げた。
「おいしい、ですか?」
 上目遣いに窺うと、こくりと頷く。と、それだけでは足りないと気付いたのか、慌てたように口を開いた。
「お、おいしいよ。結構オレ好みだし」
 なんかその慌てぶりがあの時のことを思い出して、おかしくて、堪らずにくっくっと声を出さずに笑ってしまったら、今度はその頬がさあっと紅潮していた。
「何か、変?」
 そんな顔でぼそぼそっと窺うように言われたら、もうオレのツボにはまっちゃって笑いが止まんなくない。
 ごめんって言おうと思うんだけど、笑いを堪えようと必死になるから余計に喋れない。
「里山くん……」
 責めるような言葉には力がなくて、どうしたらいいのか判らないって困っているのがありありと判る。 けどさ、当の本人は必死で冷静さを保とうとしているのが、オレにはなんでか判っちゃって。
「……ご、めんさなさいっ」
 お腹痛いっ!
 こんなところで爆笑するわけにもいかず、必死で声を抑えようとすると、これが結構腹筋にくる。
 かろうじて吐きだした言葉に、高山さんの表情はますます困惑の色を浮かべている。
「その……オレ、変だったのかな?」
 俯きかげんに逸らした顔が耳の後まで真っ赤になってる。
 ああ、駄目っ!
「ごめんなさいっ」
 それだけ言うのが精一杯。
 だって……。
 言えないじゃないかっ。
 そんな高山さんが可愛い、なんて思ったなんて。
 一気に熱くなった顔を、笑っているフリして突っ伏して隠したなんて。
 それって絶対に高山さんにばれるわけにはいかないじゃないか。
 可愛いって言えたら、好きだって言えたら。
 そして、反対にそう言って貰えたら、どんなにか嬉しいだろうに。
 だけど、そんなことはあり得ないから。
 オレ、可笑しいのに……笑っているのに……胸の奥から込みあげるあまりの切なさに鼻の奥がつんと熱くなって。
 笑いすぎたフリをして、そっと目尻の涙をぬぐっていた。


 だけどこの作戦はちょっと失敗。
 あんまりにも笑いすぎた真似したもんだから、さすがに高山さんは機嫌を損ねてしまった。
 口元をきゅっと引き締めて上目遣いに睨まれては、オレもさすがに頬がひくついてしまう。 だけどそれも当たり前だって思うし、それに誤魔化すのをやめるわけにもいかないしね。
「ごめんなさい」
 一息ついて気を落ち着かせてから、オレはそう言って頭を下げた。
 その怒りが激しいものだと感じなかったけど、そな不機嫌な想いはさせたくないって思っていたし。それに……ほんとに嫌そうな感じが伝わってくる。
「オレ、笑い上戸なところがあって、なんか止まんなくなることがあるんです」
 そんなつもりは無かったんだといい加減な理由をつけて。
「……オレ、苦手なんだ……そんなふうに笑われるの」
 ごもっとも。
 根が真面目なんだろうって判るから、笑って誤魔化すタイプとは違うって思うし、高山さんの憤りもなんなく判るし。
 オレは深々と頭を下げて、もう一度心を込めて謝った。
「ごめんなさい。お詫びに、デザート奢ります」
「え?」
 訝しげな声を無視して、幸か不幸か何が起きたのかと注目していた店員を呼んで、さっさと追加注文をした。
 実はタイミングを狙っていた、っていうのは絶対に内緒。
「アップルパイ 二つ」
 視野の片隅で高山さんが大きく目を見開いた。
 会釈をして下がっていた店員を目で追っている姿を、オレはちょっと満足げに見つめる。
「アップルパイ?」
 店員を追いかけたままの視線でオレに問いかけてきた高山さんに頷いた。
「うん……。嫌いですか?」
 上目遣いに窺うと、明らかにその表情が戸惑いの色を浮かべている。
「……嫌い……じゃないけど」
 どうして知っているんだってその視線が言っているような気がしたけど、結局高山さんはそれ以上は何も言わなかったし、オレも何も言わなかった。
 どこか居心地の悪そうな高山さんに先ほどまでの機嫌の悪さは微塵も感じられない。
 今しかないかも……。
 食堂で待っている間もここに来るまでの間もずっと気になっていた事柄を、オレは意を決して問いかけた。
「……高山さんは、どうしてオレを誘ってくれたんですか?」
 橋本さんが堪えてくれなかったその問いを。
「え?」
「映画。その……言ってはなんだけど……オレ達あんまり親しくないし……」
 言ってて悲しくなる言葉ってあるもんだなあ。オレは、口ごもりながら、だけどはっきりさせたかったから。
「……里山くんといろいろと話がしたいと思ったから」
 逡巡しながら言った言葉は橋本さんに聞いたのと同じ。
「どんな話?何で?」
 聞きたいのはそうじゃなくて。
「……ごめん。判らない。ただ、君の傍に行きたいって思えるのが自分でも不思議だから。だからその理由を知りたいのかもしれない。君と一緒だと……うまく話せない……みたいだし。どうも自分がおかしいって思えて……。だから、どうしてか知りたいから、話がしたい……」
 オレと居たい?
 オレといるとおかしくなる?
 だから……話がしたい?
 ……。
 それって……。
 オレは何か答えようとして、だけど……口が開かなかった。
 高山さんの感じている現象って……この一週間のオレの身に起きたことと何が違うんだろう?
「アップルパイです」
 ぼけっとしていると店員がアップルパイの皿を持ってきて二人の前に置いていった。
 つやつやとした表面に、甘酸っぱい匂いが食欲をそそる。
「……もしかして……知っている?」
 フォークを取りながら、高山さんが窺うようにオレを見た。それを否定する理由もなくて頷くと、照れたように視線を外されてしまった。
「……橋本さんに聞きました」
 なぜ?
 なんて問われたら、返事のしようがなかったけれど、それ以上に高山さんは自分のことで手一杯って感じだ。
 それがはっきりと判る。
 だってさ……ついこの前オレ自身が経験したことだから。相手の一挙手一投足が気になってしようがなかった、あの時と同じ気がして。
 ただもくもくと切り分けたパイを口に運んでいく高山さんは相変わらず無表情。
 今の状況をどう思っているのか?おいしいのか、おいしくないのか?
 その片鱗も窺わせないその表情。
 だけど、お腹一杯のはずなのに、あっという間にぺろりと平らげた高山さんの顔が、どう見ても上気しているように見える。
 オレも慌てて残りの分を平らげて、再度高山さんに視線を移すと高山さんも同時に顔を上げて。
「……おいしかった……よ」
 小さな声が聞こえた。
 その表情を見た途端、オレはごくりと唾を飲み込んでいた。
 僅かに寄せられた眉根に、伏せられた瞳。何かに堪えているかのように──って、絶対照れてるんだよな。
 なんか、ようやく判った。
 高山さんにとって、こういう時って何も言わない方が普通なんだ。いつだって黙って、無反応で……ずっとそうやって過ごしていたから、こう言うときに言うべき言葉が素直に出てこないんだ。
 だからこそ、そんな何でもない一言で赤くなって照れている。
 しかも。
 その姿が自覚してしまったオレにとっては、脳天直撃もの。
 激しくなった心臓の鼓動。
 オレは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。爪先を手の平に食い込ませて、その痛みで気を紛らわせないと暴発してしまいそうなほどに、オレのあそこは……興奮し始めていた……。
 ヤバイって。
 ジーンズの前がきついっての、絶対高山さんに知られるわけにはいかない。
 そろそろと脇に置いていたジャンパーの裾を引っ張って股間を隠す。
 幸いにも、赤くなったその顔をオレから逸らすようにそっぽを向いてくれているから、オレの挙動不審は気付かれなかった見たい。
 程良い暖房の店内なのに、オレはこめかみと背筋に汗が吹き出していた。
 これを冷や汗と言わずして何と言うんだろう……。
 なんかこの人って……自覚ないんだろうけど、滅茶苦茶色っぽくないか……。
 少なくとも、オレにとっては高山さんのほんのちょっとした挙動が、堪らないほどありとあらゆるツボにはまる。
 今みたいな表情なんてもろ。
 でも、さ、嘘みたいだけど……。
 たぶん……いや、きっと……高山さんはオレのこと……意識している。
 さっき高山さん自身が言っていた言葉が何よりの証拠。
 それに橋本さんや杉山さんは何を言っていた?
 何もかもがその事実をオレに知らしめてくれるから、だからオレは確信していた。
 高山さんもオレのこと……気にしてくれているんだよね。


 店を出て、ぶらぶらと歩いている間、高山さんは一言も口をきかなかった。
 怒っているという訳ではないんだろうけど……でも、やっぱ、怒っているのかな?
 そりゃさ、笑いすぎたとは思うけれど、止められなかったんだから……。
 ちらりと窺う先で、高山さんは口を一文字に結んでいた。
 ……どうしよう?
 もともとそんなに話さない人だとは思っているけれど、こういうのってやっぱいたたまれないし。
 映画の時間までまだ1時間はあるというのに、歩いている地下街はそろそろ店じまいの時間なのか、片づけを始めている店が出始めていた。
 賑やかだった通りも、気が付けばどんどん人が減っていく。
 どうしよう……。
 店でも開いていればまだウィンドウショッピングでもしているふりができるのに。
 どうしたものかと小さく息を吐いた時だった。
 ふと、隣を歩いていたはずの高山さんの姿が無い。
 慌てて振り返れば、通り過ぎた本屋のガラスの中をぼんやりと見つめている高山さんがいた。
 あれ?
 何か欲しい物でもあったのだろうか?
 急いで踵を返してその傍らに近づく。
「高山さん?」
 自然に呼びかけて、その返事を待ったんだけど、高山さんはじっと中を覗き込んで動こうとはしなかった。
 いったい何を見ているんだろう?
 オレは高山さんが見つめる先を辿っていって……。
 ひくりと頬が引きつる。
 ……気付かなかったふり、した方がいいのかな?
 それとも……違うもの、見ているんだろうか?
 判断がつきかねている所に、ようやく高山さんが我に返ったようにオレに顔を向けた。
「あ、あの……何か欲しい本でも?」
「え、……あ、いや……」
 途端にうっすらと赤くなって口ごもるところを見る限り……オレの予想は外れていないんだよな。
 だけど、それを指摘することなんでできない。
「まだ閉店までは時間あるし、ちょっとオレも買いたい本があるんだけど……いいです?」
 気付かなかったふりをすることにして、オレは高山さんを店内へと誘った。
 先に入るオレの後をついてくる高山さん。
 にしても……ほんと、この人って何を考えているんだろう?
 あんなふうにあからさまな態度されたら……気付いて欲しいと思っているのかなって勘ぐってしまう。
 だって、高山さんの見ていた先って……。
 オレは、文庫本のコーナーに向かった高山さんを目で追って、不審がられないようにため息をついた。
 高山さん……、あのさ……自覚していないんだよね?
『彼女といい雰囲気になるために 二人っきりの夜のデートコース、100選』
 間近に迫ったクリスマスを狙ったとしか思えないコーナーに、そんな本は置いてあった訳で。
 どう見ても、その本を見ていた高山さんは……何を考えているのか、やっぱり判んない……。
 この本……欲しいのかな?
 手に取るのも恥ずかしいんだけど、買ってプレゼントするってのも有り?
 でも……それってオレから誘っているようで……。
 それもなんだか変かなって思うし。
 どうしよう……。
 なんて迷っていたら、ふらっと高山さんがこちらにやってくるのが見えた。
 やば……
 って、オレ何で逃げているんだろう?
 横にずりずりっとずれたせいで、気がついたら旅行雑誌のコーナーが目の前にあった。
「旅行、好きなのか?」
 触れあわんばかりの傍に高山さんがいる。
 オレは、ただこくりと頷いて。
 だって、肩越しに覗き込まれるようにしているせいで高山さんの吐息が後ろから頬をくすぐる。
 お、オレ……なんか動けない。
 っていうか……動きたくないっていうか……。
「そういえば、この前のもお土産だって言っていたね」
「オレのは、貧乏旅行だから……日帰りなんです。こんな……温泉とか、観光地とか……縁のないところが多くって」
「そうなんだ?オレは出不精だから……」
 手が伸びて、オレの目の前に積まれた本を取り上げる。
 ちらりと見えたタイトルは『中国地方の温泉』。
 温泉……。
 湯煙の中で高山さんと二人っきりで温泉……。
 いいなあ、行きたいなあ……。
 あっ……オレ、何考えているんだ?
 どうやらオレの妄想は留まるところを知らないらしい。
「またどこかへ行くの?」
「……特には決めていないけど……」
 いつも行き当たりばったりなんだけど。
 そう言うと、高山さんが小さく笑って「里山君らしいかな?」って。
 オレ、高山さんにどう思われているんだろう?
 そればっかりが気になって。
 だから……高山さんが何て言ったのか判らなかった。
「……してみたいね……」
 そんな言葉が聞こえたと思ったんだけど?
「え?」
 オレが問いかけると高山さんは困ったように顔を顰めて、口を噤んでしまった。
「高山さん、何?」
 問いかけても。
「何でもないんだ」
 と首を振られてはそれ以上聞き出せない。
 でも、何を言ったんだろう?
 メッチャ気になるんだけど。
 だけど口を噤んでしまった高山さんはどうもその話題に触れられたくないみたいで、持っていた本をぱさりと元あった場所に置いてさっさと店を出て行く。
 ちょうど、「蛍の光」もなり始めて……オレも慌てて後を追いかけた。
 なんか、とっても大事な事だと思ったんだけど。
 かつかつと長い足が勢いよく動いてて、オレは必死になって後ろをついていく。
 悔しいけれど、背の高さ分足の長さも違うんだよな。
 背が高いってことは後ろ姿もやっぱり格好良いよな。
 ちょっと自分の背の低さにはコンプレックスがあるから、羨ましくって仕方がない。
 と。
 先を歩いていた高山さんがぴたりと足を止めた。
 同時くらいに、どこからか叫び声みたいなのが聞こえて。
 オレは何事かと視線を巡らした先に……どこかで見た人が呆然と突っ立っていた。
 えっと……誰だっけ?
 高山さんの傍らに追いついて、首を傾げて考え込む。
 確か、会社の人だよな。
 ちょっと背が低くて……と言ってもオレよりは高いけれど。
「どうした?」
 そんな声に視線を向けると、別の人が駆け寄ってきた。
 って……こっちの人、すっごい格好良い。
 すらりとした体躯はともかく、顔が今風っていうのか……、その辺のアイドル達よりずっと大人っぽくて……。
 オレが呆然と見つめていると、高山さんが小さく頭を下げた。
「滝本さん……こんばんは」
 慌てて、オレも頭を下げた。
 滝本って名前には聞き覚えがあった。
 高山さんの所属するチームのリーダーだ。
 そっか……どこかで見たと思ったら……。
 直接関わりがあるチームではないけれど、それでも開発のリーダーだから見覚えがあったんだ……。
 でも……なんか私服だと、リーダーっぽく無いって言うか。
 これなら、高山さんの方がよっぽどそれらしく見えるんだけど。
「あ、こんばんは」
 なんとなくおどおどした雰囲気があるのは否めない。
「そういえば、今日は宴会があるとか言われてましたよね」
 そう言う高山さんってば、無表情。
 じとっと睨むようなその視線はどこか怖い物すらあるんだけど……。
 これって、仕事中のあの時の目だよな。
 オレでも怖いって思えるほどきつくって、滝本さんって気の毒なくらい萎縮しているみたいだ。
 その返事もなんか歯切れが悪かった。
「……そうなんだ。で……その後秀也とちょっとここで飲んでいて……」
「高山さん達は、どこかに行かれたんですか?」
 慌てたようにもう一人の格好良い人が割り込んできた。
「映画に行くんです。ただ、時間に間に合わなくて、次回上映まで暇つぶしにこのあたりを見ているところです」
 怒ってる?
 思わず高山さんの顔を見上げる。
 なんか、責めているように聞こえるんだけど……。
 だって、滝本さん、さっきからずっと顔が引きつっている。
「そうなんですか?こちらは……?」
 さりげなく視線を向けられて、オレは慌ててぺこりと頭を下げた。
「あ、製造の里山といいます」
「……先日もらい物をしたので、そのお返しに……一緒に」
 追加するように高山さんが説明して。
 まあ……無難な言い訳だよな。
 その……まさかデートって言うわけいかないって言うか……だいたい。高山さんの頭の中じゃ、まだオレ達はそこまでいっていないし。
 ああ、なんか嫌だな。
 男同士だったら、やっぱりそういうのってばらすわけにはいかないんだろうし。
 オレは大人しく、後ろに下がっている方がいいような状況だし……。
 にしても……。
 この人って確か、営業の人だって、ようやく頭が思い出した。
 凄いモテるんだよな。製造の女の子達も、この人が工場に来るときゃあきゃあ言っているし……。
 いいな……。
 オレもこの人くらいに格好良かったら……。
 低い背。
 未だに高校生で通る顔……。
 ああ、コンプレックスが……。
 そう思いながら、その人を見、そして高山さんに視線を移した。
 と……。
 高山さんもオレを見ていて。
 途端にその口元に微かな笑みが浮かぶ。
 それ見たから、心臓がどきりと跳ねたのは間違いないって思う。
 あ……目が離せない。
 だけど、先に逸らしたのは高山さんのほうで、
「……そろそろ行きます。失礼します」
 挨拶をして、踵を返すのに遠慮なんてものはなかった。
 オレはくいっと袖を引っ張られて、慌てて頭を下げて同じように踵を返す。
 その足早な歩みに、オレは小走りでついていく。
「高山さんっ。ちょっと待ってっ」
 20mばかり離れて、オレは息が切れ始めた物だから、高山さんを呼び止めた。
「歩くの速いですっ」
 早いどころが駆け足のような気すらした。
「あ、ごめん……」
 ようやく止まってくれて、しかも掴んだままだった袖も離して貰って、ようやく一息つく。
「速いですね、歩くの」
 息を整えて、見上げてみれば、困ったように眉を顰めている。
 この表情って……照れてる?
「ごめん」
 照れている表情は変えようがないらしくて。
 高山さんは、それっきり何も言わなくなってしまった。

 
 いいなあ……。
 思わず呟きかけた言葉を慌てて飲み込んで、オレは代わりに小さく息を吐く。
 斜め3mばかり前方のカップルが肩を抱き合うようにしているのを見たからだ。
 こんなふうに手を伸ばせば触れあう距離にいるのだって、すっごい事だって思うけれど、そうなると、さらに先に進みたくなるってもんで。
 で、オレは肘掛けに置かれている高山さんの腕を先程からちらりちらりと窺っているところ。
 コートを脱いで、シャツに覆われた腕はやっぱ細い。
 こういうのを華奢って言うんだろうか?
 運動とか……しないんだろうなあ……。かと言って太っている訳でもない。
 腕から肩、そしてちらりとその横顔を窺う。
 暗い映画館の中でぼんやりと見えていたその横顔が、爆発シーンの閃光でさっと照らされた。
 なんかさ……男の顔、なんだよな。
 絶対に女の人には見えないのに……。
 なのになんでオレはこの人のことが気になってしまったんだろう?
 今まで生きていて、ドキッとときめいたのは、過去数回。でも、やっぱりその時は女の子相手。
 オレより”小さく”て、ちょっとだけ丸めの可愛い娘が好み、の筈だったんだけど。
 なにがどうなって、オレよりはるかにでかくって、端正という言葉がぴったりの男っぽい顔をした、しかもオレより細そうな高山さんか好きになったのか?
 今でも信じられない。
 しかも……オレって、明るい性格が好みだったのに……高山さんは、良く言って寡黙。悪く言えば、何考えてんのか判らないほど無口。
 この人って、大声で笑う事なんてあるんだろうか?
 ……。
 でも、一心にスクリーンに見入っている高山さんを見つめるのが嫌じゃない。
 それどころか、ずっと見ていたいって思う。
 今振り返られたら、言い訳のしようもないほど目が離させない。
 それほど、何て言うか……明暗がくっきり出ている高山さんが素敵だって思う。
 ぴくりとオレの指が動きそうになる。
 オレの腕を動かせば、その腕に触れることができる。
 触れて……。
 だけど、そうしたら高山さんはどうするだろう?
 食事中の会話で、少しはオレのこと気にしていてくれるとは思っているんだけど、だからと言って、オレが思っている状態じゃないかも知れないし。
 触れて、嫌がられたら目も当てられない。
 駄目だ……。
 騒々しいBGMの中、オレはそっと深呼吸をして、自分の純情ぶりを自覚して赤面する。
 駄目だよなこんなんじゃ……。
 会社で杉山さんが、押し倒さなきゃ始まらない、みたいなこと言っていたけど……そんなんできるわけないじゃん。
 こんな、触れることすら躊躇っている今の状況でさ。
 何せ、高山さんがオレのことどう思っているのか、それが一番大事なことで。
 ほんとに……。
 高山さん、オレのことどう思っているんだろう?


「面白かった?」
 帰りの車の中で聞かれて、オレはひくりと引きつった頬を巧みに隠して小さく笑う。
「うん」
 ごめんなさい。
 内容なんてほとんど頭に入っていません。
 心の中で懺悔する。
 さすがにクライマックスシーンくらいはその迫力に圧倒されて見たけれど。だけど、他の時はずっと高山さんのことばっかり考えていた。
「高山さんは?」
 きっと内容なんて全部頭に入っているんだろうなあ……。あんなに一生懸命見ていたんだもん。って思ったんだけど。
「あ、ああ……オレも、……」
 帰ってきたのは意外にも躊躇い気味の言葉。
「面白くなかった?」
 ちらりと運転中の高山さんを見つめると、赤信号のせいかなあ?その横顔が朱に染まっているように見える。
「そんなことないよ……」
 その割には、声が小さい。
 高山さんって、こんなに要領を得ない人なんだろうか?
 噂ではそんなことなさそうなのに。
 しかも、それっきり黙ってしまうものだから、またまた車中に沈黙が漂う。
 どうにかなんないかなあ……。
 話がしたいって言っていた割には、食事の時以外はほとんど話をしていない。
 これから部屋まで送ってもらって、それで今日はもう終わりなんだろうけど。
 それもなあ……って思う。
 ついつい深いため息が漏れてしまったのは……本当に何気なく……だったのに。
「……ごめん……やっぱり、オレとじゃ退屈だったよね?」
 え?
 逸らしていた視線を高山さんに戻したら、何か後悔しているみたいに顔を顰めていた。
 運転中だから前を凝視しているんだけど、その眉間のシワは十分に見て取ることができる。
「そんな、退屈なんかじゃなかった」
 オレの溜息を曲解したに違いない高山さんにオレは臍を噛む思いで、言い訳をしていた。
「退屈とかじゃなくて。今日、高山さんに誘われて、オレ凄く嬉しかったんです。高山さんと一緒に来れて……ほんとに嬉しくて……だから」
 もっと一緒にいたい……。
 続けて言おうとした言葉を寸でのところで飲み込んだ。
 オレ……何を言おうとした?
 かああっと上がる熱は、暗闇のせいで見えてはいないと思うけれど。
「だから?」
 なのに、高山さんは不自然に切られた台詞の続きを催促してきた。
 ど、どうして……こういう時だけ、鋭いんだろう?
 って……それが本当の高山さんなんだよな。
「だ、だから……さ、えっと、退屈じゃなくって……」
 どぎとぎどきどき
 い、言ってしまおうか?
 一緒にいられて嬉しかった。
 好きだから……楽しかった……って。
「あ、あ、の……た、高山さんが……」
「……何?」
「高山さんの……」
 ……。
 ど、どうすれば……っ……あっ。
「高山さんの家って、どこなんですかっ?」
 車の窓の外、あのスーパーが目に入った途端、オレの口はそんなことを問いかけていた。
「え?」
 訝しげな視線がオレの顔を過ぎっていって、それからまた真正面に戻る。
 何故か、考え込むように軽く首を傾げている。
 そりゃそうか……。
 どう考えたって変な問いかけ。
 脈略がないっていうか……なんというか……。
 どきどきと高鳴る心臓が、それでも切羽詰まった状態を脱出できたせいで少し治まってくる。
 でも……オレって……意気地なかったんだなあ……。
 今、すっごいいチャンスだったのに。
 とりあえず好きってこと伝えて。
 怪訝そうならさ、こう尊敬の意味で好きっとかさ……いろいろ誤魔化しようもあったんだよな……。
 事が落ち着けば、そうな言い訳が頭の中に幾らでも浮かんできた。
 少なくとも……そういうふうに言われて気味悪がる人っていないはずだし……。
 あー……疲れた……。
 思わず漏れそうになった溜息はなんとか堪えて、オレはぐったりとシートに身を沈ませた。
「……里山くんちより駅に近いところ。車だと5分くらいだ」
「え?あ、ああ、5分?じゃ、近いんですね」
 こういう他愛もない会話ならいいんだけど。
「あのスーパー、何でも揃っているからよく行くんだけど、里山くんも良く行くのかい?」
「あ、あのスーパーは……はい」
 行きの時の沈黙が嘘みたいに、ぽつりぽつりだけど会話ができる。
 少しは親しくなれたんだろうか?
「オレの部屋、あのコーポにあるよ」
 少し遅くなったスピードに、高山さんが指さした場所に目を向ければ、二階建てのコーポがあった。
 ああ、ここ知っている。
 たまに近道で通る所の横に立っているコーポ。
「……そういえば、パソコンがどうのって今日行っていたよね」
 ゆっくり走っていた車が、路肩に寄せられて止まって。
 高山さんが何かを考えながら問いかけてきた。
「パソコン?」
 何の話だ?
 唐突なその内容に、オレは何の事やら全く判らなくてきょとんと首を傾げる。
「……今日、作業中に言っていた、よね?インターネットとか、さ?」
「作業中?……あっ」
 そう言えば、そんなことを呟いているときにちょうど高山さんが来てて聞かれたんだっけ。
「あ、あれは……まあ欲しいなあって思ってて」
「オレの部屋、パソコンあるし、常時接続でインターネットできるけど……。何か調べものがあるんなら……やってみる?」
 少し躊躇いがちに問いかけてきた高山さんに、オレは目を見開いて見つめていた。
「あ、でも、やりづらいか……」
 沈んだ声が聞こえた途端、オレ叫んでた。
「やりますっ」
 声まで弾んでいた。