【どしゃぶり注意報】  10

【どしゃぶり注意報】  10

 あ、あ、あ〜じれったいっ!!
 加古川は年甲斐もなく思いっきり叫びたかった。
 これが車の中だったら、二人に怒鳴りつけていたかも知れない。
 だが、ここは病院の待合室。
 規模は小さいとは言え、2階には病室もある個人病院だ。
 深夜の病院で大声を上げることもできず、苛々とした気分は躰の中へと逆戻りをし、さらに膨れあがる。
 あんな熱烈な告白!
 ぎりぎりと噛み締められた奥歯が嫌な音を立てる。
 診察室に連れて行くために宮城が葉崎を抱え上げたとき、葉崎は決して宮城の上着を離そうとしなかった。その瞼は固く閉じられ、痛みに引きつる顔は宮城の胸に隠すように押しつけられている。
 それなのに……。
 車の中で葉崎が告げた言葉を最後に二人は全く口を利こうとしなかった。
 好きなんだろ!
 どう考えたってお互い好きなんだろうが!
 この際、男と男なんてどうでもいいっ!
 なのに……この状況は一体どうしてなんだ?
 宮城があそこまで不甲斐ない奴だとは思わなかった。あの場で、抱き締めてるくらいのことしたら、それで円満解決じゃないのか?
 何でそういう時だけ、退いてしまうんだ?
 あんなひどいことされても忘れられないってことは、それだけ好きだって事じゃないのか?
 宮城だって、私のたわいない冗談に簡単に踊らされるほど思い詰めてしまうような相手なんだろうが!
 なのに!
 なのに何故何も言ってやらない……。あれでは葉崎さんの方が悪者になっているではないか。そんな筈はない。
 彼が悪いというのであれば、彼を焚きつけた私だって悪いのだから。
 苛々と診察室の扉の前で歩き回る。何故かじっとしていられなかった。
 宮城は一体どうするつもりなんだ?
 文句を言いたい相手は、葉崎を診察室へ連れて行くとさっさと車へと戻っていった。確かに、救急入り口に横付けした車はすぐにどかさなければならないが、それから一向に戻ってこないのだ。
 探しに行きたいのだが、中の葉崎の様子も気になる。
 車の中で互いの告白とも言える言葉を聞いたときは、正直驚いた。
 宮城以上に悩み抜いたであろう葉崎の想いが胸に突き刺さるように伝わってきた。
 だが加古川は、その言葉の痛みより何より、その言葉を向けられたのが宮城であるということにひどく苛ついたのだ。
 縋り付くように宮城に向ける視線をこちらに向けさせたいとさえ思った。
 後少し病院に着くのが遅かったら、宮城に怒鳴りつけていたかも知れない。
 この病院の白い外壁が暗闇に浮かんだ時、ふっと意識がそちらに逸れた。
 だから、平常心を取り戻せた。
 加古川にもう少し力があれば、葉崎を自分の力で運んだかも知れない。
 だが、葉崎が握りしめている上着が目に入った途端、僅かに残っていた感情の嵐は急速に収まった。
 私は一体何を考えた?
 その口元が苦笑を形作る。
 馬鹿なことだ。
 今は、葉崎を治すことが先決なのだ。
 そうして、加古川は診察室の前で待っている。
 まあ、あいつに任せておけば大丈夫だろうが……。
 ここの院長は佐伯と言って、加古川の親友だった。
 たまたま取引銀行の接待ゴルフを通じて知り合い、すっかり意気投合してしまったのだ。
 何度か加古川自身も診察してもらったが、腕は確かだと思う。
 それにはっきりと物を言う態度も気に入っていた。
 だいたいの経緯はすでに電話で連絡をしていた。
 まあ……肛門科という訳ではないが……大丈夫だろう。
 ちらりと診察室に視線を向けた。と、それを見計らったように、そのドアが開いて見知った顔の持ち主が出てきた。
「煩い。まるで子供が産まれそうな短気な父親のようだな、何を苛々している?」
 白髪混じりのスポーツ刈りの上強面のこの院長の不機嫌丸出しの言葉に、加古川は苦笑を浮かべることしかできなかった。
 普段はもう少し柔らかな態度で患者に接するのだが、加古川に対しては相変わらず遠慮がない。
「とりあえず、薬で様子を見よう。手術が必要なほどひどくはなさそうだしな。今、当座の薬を用意させているから、それができたら連れて帰っていい」
「そうか……」
 ほっとため息をつくと、佐伯がぎろりと睨んだ。
「まったく、何で出すところに入れるのか……」
「ああ」
 まあ、確かに……。
 しかしなあ……、そんなもの百も承知でやってしまうんだろうなあ……。
 再びため息をついた加古川に、佐伯の表情がふっと和らいだ。
「患者を最初に運び入れたのが相手だろ。ひどく強ばった顔をしていたな。少しは悪いと思っているようだが」
「ああ」
「葉崎……と言ったかな、患者の名前は?」
「そうだ」
「葉崎さんね、治療で触れたとき相当痛みを感じているはずなのに、声を出さないんだよ。きつく唇を噛み締めてただ堪えているんだ。何を見ているのかじっと何も無いところを見据えてね。私が何を言っても聞こえていないようだった。心がここにないようだったよ」
 佐伯の口から微かなため息が漏れる。
「良くない兆候だよ。感情を押し殺して諦めているような感じがした。外見上の怪我はその内治るが……心の傷はそう簡単には治らないからな。私はそっちの方が心配だ」
「そうか……」
 今更ながらに、自分とそして宮城のしでかした失敗が重くのしかかってくる。
 加古川は、今夜の出来事を知っている限り佐伯に伝えた。
 彼の心を癒す方法を知りたかった。
 親友として、また優秀な医師である佐伯に頼りたかったから、自分や部下の失敗を包み隠さず話した。それを恥とは思わなかった。
 たった数回しか会ったことのない葉崎。
 直接会話をしたのは、あの電話の一回だけだ。
 それなのに、彼を助けたいと思うのは何故だろうか?
 彼を助けることが宮城を助けることになるからだろうか?
 いや……。
 それは違うだろう。
 宮城は確かにいい部下だ。
 だが葉崎は……。 
 加古川は、その口元に浮かぶ苦笑いを隠すことができなかった。
 保護欲。
 頭の中に浮かぶ単語で一番今の状況にしっくり来るのがこの言葉だった。
 葉崎を見ていると護りたい気分にさせてくれるのだ。
 数年前まで家族に対してあったその想いは、子供らの巣立ちですっかりなりを潜めていた。
 が。
 葉崎はその年にしては妙に人の保護欲を駆り立てる。
 それが何故かはまだ判らないが……。
 だが、そう考えると宮城が彼に惹かれていったのも判るような気がした。
 宮城もどちらかというと父性的な所がある。
 護る事へ喜びを見いだすタイプだ。
 だからこそ加古川の秘書としての仕事に適任だった。
 自分のテリトリーにある人を助けるために率先して動く。それが苦ではない人間だ。
 そして葉崎は……そういう相手に魅入られやすいのだろう。
 宮城に……そして私に……。
 気が付けば宮城よりも気に入っていることに気付く。
 自分が悪いと、言い募る葉崎を抱き締めてあやしたいとさえ思った。
 だから、葉崎の対象が宮城でしかないことに嫉妬すら覚えた。
 車の中での苛立ちはそのせいだ。
 加古川の告白とも言える説明に、佐伯はため息をもらした。
「まあ、大きな息子ができたと思って彼を君の部下の毒牙から護ってやるんだな。それが君の役目だということだ」
「毒牙、か」
 くすりと笑う加古川に、佐伯は片目を瞑って見せた。
「毒牙さ。どうも話を聞いている限りでは、君の部下は性欲に忠実らしいからな。でなければこんな不幸なことにはならなかったはずだろう?その毒牙から護ってやらなくて君の存在価値はどこにあると言うんだ?お互いからお邪魔虫と思われるくらい、葉崎さんを護ってやるんだな。そうすれば、少しはいい進展があるかも知れないし」
「お邪魔虫か、それもいいかもな。徹底的に邪魔してやれば、より二人は萌えあがるって?」
 くすくすと漏れる笑いに、佐伯も可笑しそうに肩を震わす。
「どうも葉崎さんは、思い詰めるタイプのようだし、そういう事を考えさせないように持っていく方がいいかな。そういう意味でいえば、君の部下の猪突猛進ぶりは正しかったのかも知れないが、だが後始末が良くないな。余計に思い詰めさせているからこうなる」
「では、しっかりと手綱を握っておかなければならないな」
 くいくいと手でひっばる動作をして見せた加古川に、佐伯は今度は声を立てて笑いだした。
 ひとしきり笑うと、ふっと辺りを見渡す。
「それで……当の本人はどこに行ったんだ?また、彼を連れて帰ってもらわなならんのに」
 言われて、宮城が未だに戻ってこないのを思い出した。
「車を移動させに行ったまま帰ってこない。探してくる……って、宮城?」
 踵を返して出口に向かおうとした加古川の視線の先に、宮城がふっと現れた。 
「ああ、君、彼を運んでやってくれ」
 叱咤しようとした加古川を制するように佐伯が二人の間に割り込んだ。
「大丈夫なんでしょうか?」
 宮城が抑揚のない沈んだ声で問いかけると、佐伯がからからと笑った。
「あの程度の傷、薬だけで十分だ。まあ、二日ほどは安静にしてもらわにゃならんがな。君がしっかり世話をしてやるといい」
 そう言うと、佐伯は宮城の肩をぽんと叩いた。
 驚いてまじまじと佐伯を見つめる宮城に、佐伯はすうっと笑いを引っ込めた。
 一転して鋭いまでの眼差しで宮城を見据える。
「他の誰でもない。君が世話をするのが彼の治りが一番早いはずだよ」
「で、でも……オレは、どうしたらいいのか……」
 佐伯の言葉に戸惑いを隠せない宮城は、うろうろと視線を彷徨わせる。
 佐伯を見、加古川に視線を移し、そして葉崎がいる診察室の扉へと。
「彼が握りしめて手放すことができない物がなんなのか……それを彼に認識させることができるのは君だけだと思う」
「手放すことのできない物?」
「そうだ」
 佐伯は頷くと、踵を返した。
 診察室のドアノブに手をかける。
「彼を連れて帰って、しっかりとケアをしてやってくれ」
 開かれた扉の奥を顎でしゃくる。
 それに促されるように宮城が中に入っていった。